咲いた万歩

さいたま市在住。 デジカメ片手に、四季折々の花木草を眺めつつ、 万歩ウォーキングで健康な日々。

昭和30年の浦和駅南ガード下東側

2017年11月28日 | 日記
岩波写真文庫『埼玉県-新風土記-1955』には浦和市についてこのように案内されている。そこに掲載の「ガードを抜けると裏町」と書き添えられた写真を見る。
これと同じ写真が別の写真集にも掲載されており、その写真は写っている風景の範囲が少し左側に広い。
その左端に「東銀座」「スミレヤ紙文具店」の文字が見える。
現在の地図のここにスミレヤ紙文具店さんがある。地図を縮小してその場所を赤丸で示す。
2016年10月の写真。2010年10月の写真

平成11年浦和市発行『浦和市史第五巻現代史料編Ⅰ』に掲載の市内の鉄道交差路を見ると、浦和駅南の最初のガードは「第三鳩ヶ谷架道橋」である。しかし、浦和駅周辺高架化工事資料の平面略図を見ると、現在の名称は「鳩ヶ谷架道橋」となっている。
スミレヤ紙文具店さん前の横断歩道から鳩ヶ谷架道橋を見た2016年10月の写真
歩道から鳩ヶ谷架道橋を見た2010年9月の写真

昭和30年(1955)の写真で橋げた側面の形を見ると2010年10月の橋げた側面とよく似ていた
昭和30年の写真に見える蒸気機関車のプレートをアップすると「C6223」のように見える。
ウィキペディア国鉄C62形蒸気機関車には、“ 1948年(昭和23年)から翌1949年(昭和24年)にかけてD52形蒸気機関車の改造名義で49両が製造され、その牽引力や重量から、輸送量を要求される、主に平坦地や、軟弱地盤の少ない東海道本線、山陽本線など主要幹線の優等列車牽引に使用された。通称シロクニ。” と書かれており、22号機~36号機は川崎車輛で製造されたとある。

昭和30年(1955)の写真に見える道路右側の店舗看板をアップする。ガード(線路)側から、青果店、鮮魚仕出し店、惣菜食品店が並んでいた。
平成11年浦和市発行『浦和市史第五巻現代史料編Ⅰ』所載の昭和40年9月東銀座商店街商店配列図でガードの近くを見ると、ガード側から、青果店、鳥肉、酒場、青果店と並んでいた。
現在そのあたりに個人商店はない。2016年7月ストリートビュー
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2 コメント

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Unknown (toshi1390)
2018-07-24 15:58:29
万歩さん、これも懐かしい写真です。私が記憶にあるのは昭和30年代後半ですが、母に連れられてよく買い物に来ていました。日の出通りの左側スミレ屋文具店からガードに向かって、料理屋・不動産屋・魚屋と並んでいましたね。魚屋の斜め対面には鳥を専門に扱っているお肉屋があって卵も扱っていました。スミレヤの対面のお菓子屋は和菓子店で夏になるとかき氷を食べに行きました。その前は確かに少し広い空間があり、ジュースの自動販売機(10円で多分粉ジュース)がありました。懐かしい思い出です。
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懐かしい昭和 (咲いた万歩)
2018-07-24 16:12:33
詳細なご説明をありがとうございます。
懐かしい昭和真っ只中の光景ですね。
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