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咲いた万歩

さいたま市在住。 デジカメ片手に、四季折々の花木草を眺めつつ、 万歩ウォーキングで健康な日々。

浦和駅西口にあった江戸時代の一本の道

2022年05月28日 | 日記
2022年04月04日ブログ「浦和駅西口南高砂地区の再開発 (前)」で私はさいたま市ホームページ市街地再開発事業地区一覧から事業中地区の浦和駅西口南高砂を見た。
位置図を拡大し、あさひ通り赤で示した。
浦和駅西口南高砂地区の再開発事業によってあさひ通りは消滅することになる。
ウィキペディア(浦和駅西口南高砂地区第一種市街地再開発事業)には “ 予定地内をななめに抜ける道はあさひ通りで、浦和駅開業前の江戸時代には東口の東仲町商店街の道と一本で結ばれていた。” との記述がある。
東仲町商店街の道というのはBing地図この道(紫)だと思う。
2020年12月、AからB方面を見た。

BからA方面を見た

埼玉県立図書館ウェブサイトの(デジタルライブラリー)(埼玉県立図書館デジタル化資料一覧)(絵図)から埼玉県浦和耕地整理組合確定図(浦和耕地整理組合 1934刊)を開く。昭和9年(1934)浦和耕地整理組合確定図で浦和駅付近を見る。
平成25年発行青木義脩著『さいたま市 地名の由来』の表紙カバー裏表紙の浦和宿絵図でその辺りを見る。
浦和宿絵図はさいたま市サイトの文化財紹介浦和宿絵図によれば文化8年(1811)のものである。

私は昭和9年の耕地整理組合確定図に赤で示した道は文化8年浦和宿絵図に黄で示した道を踏襲しているのではないかと思う。
耕地整理組合確定図にあさひ通りと東仲町商店街の道を黄で示すとこのようになると思う。
ウィキペディア(浦和駅西口南高砂地区第一種市街地再開発事業)に記述されていた あさひ通りと東仲町商店街を一本で結ぶ江戸時代の道 というのは浦和宿絵図の丸印から丸印に至るこの道だと思う。

その道は昭和9年耕地整理組合確定図では①と②の間で中断されている。江戸時代の一本の道は明治時代に入り、鉄道によって分断されたのだと思う。
現在の地図に江戸時代の一本の道が残っているところを赤で示すとこのようになると思う。
中断の範囲は①から③までに広がった。②から③までの江戸時代の道は昭和の浦和駅西口駅前再開発によって消滅した。
ウィキペディア浦和駅には “ 西口側では1963年8月に浦和都市計画街路が決定した後、1967年に駅前の再開発事業に着手した。1981年3月に繁華街の再開発が完成して、伊勢丹浦和店、浦和コルソといった大型商業施設が同年に開店した・・・ ” との記述がある。
再開発着手後の昭和47年(1972)当時の空中写真を見る。
江戸時代の一本の道を黄で示すとこのようになると思う。
西口駅前の再開発のところをアップする。江戸時代の一本の道を黄で示す

昭和43年(1968)12月の鳥瞰写真を見る。
昭和47年空中写真にABCDEで示した建物は鳥瞰写真のABCDEだと思う。
昭和44年(1969)の鳥瞰写真を見る。先ほどABCDEで示した建物はこちらの建物になると思う。
昭和44年頃と思われる鳥瞰写真を見る。先ほどABCDEで示した建物はこちらの建物になると思う。
昭和53年(1978)頃と思われる鳥瞰写真を見る。先ほどABCDEで示した建物はEだけが残っていると思う。
Eの建物は浦和オリンピア劇場だと思う。
『新しい時代の幕あけ 浦和駅前市街地改造事業史』所載の浦和オリンピア劇場の写真
平成12年浦和市立郷土博物館発行『記憶の中の風景 - 写された20世紀の浦和-』所載の浦和オリンピア劇場
ちなみに手前の赤丸で示したビルは現在のこのビル(赤丸)だと思う。
昭和53年(1978)12月の写真ではABCDEすべての建物がなくなった。江戸時代の一本の道が丸見えになっている。
昭和55年(1980)の写真を見る。江戸時代の一本の道はなくなってしまった。

2017年8月、私はあさひ通りの入口からあさひ通りを見た。

③地点から南に延びる江戸時代からの道だと思うが、この道も令和の再開発で消滅する。

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