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咲いた万歩

さいたま市在住。 デジカメ片手に、四季折々の花木草を眺めつつ、 万歩ウォーキングで健康な日々。

大正~昭和の荒川改修工事

2019年10月20日 | 日記
昭和57年発行『大宮市史第四巻近代編』は荒川の改修について次のように記述している。
“ 明治43年8月上旬の台風は、関東地方をはじめ東北・中部地方を中心に大水害をもたらした。この未曾有の大水害を契機として治水費の増額や治水工事の統一が政治問題となった。このため政府は勅令をもって臨時治水調査会を設置し、全国の河川の治水計画を立案させて、内務省直轄事業として65河川を定めた。この国直轄の河川改修事業は財政上の理由から工事の着工を二期に分けて実施することになったが、県下の二大河川である利根川と荒川は、その第一期河川に選ばれた。”
内務省直轄事業について、内務省土木局の大正15年度・昭和元年度直轄工事年報附図に掲載の直轄河川港湾一覧図で関東地方を見るとこのようである。

明治43年8月上旬の台風について、荒川上流河川事務所(国土交通省関東地方整備局)ホームページ所載の1910(明治43)年氾濫の図を見る。さいたま市周辺の荒川、入間川、綾瀬川、元荒川は多くのか所で決壊した。
水につかった地域が水色で表示されているが、埼玉県の右側半分のほとんどになっている。

『大宮市史第四巻近代編』によれば、荒川の改修工事は明治44年に着工した。
赤羽鉄橋より東京湾までを下流工事とし、大里郡武川村(川本町)より赤羽鉄橋までを上流工事とした。
下流工事から開始し、下流工事の中心は荒川放水路の新設であった。

ウィキペディア荒川(関東)には荒川放水路の完成後のくだりで “「荒川放水路」は1965年(昭和40年)に正式に荒川の本流とされ、それに伴い岩淵水門より分かれる旧荒川全体が「隅田川」となった。それまでは現在の千住大橋付近までが荒川、それより下流域が隅田川と区別されていた。 ” と記述されている。

現在の地図(ヤフー)に赤羽鉄橋から東京湾までの荒川を青で示すとこのようになると思う。
さきほどの内務省土木局直轄工事年報附図に掲載の荒川下流改修工事平面図を見る。
赤の帯は凡例に浚渫(しゅんせつ)とある。改修後の流路(現在の荒川)だと思う。
旧荒川を青で示すとこのようになると思う。
河口に隅田川と表示されている。
ウィキペディア荒川(関東)には「それまでは現在の千住大橋付近までが荒川、それより下流域が隅田川と区別されていた」とあったが、この平面図には千住大橋上流の「荒川」が「新隅田川」と表示されている。

『大宮市史第四巻近代編』によれば、荒川上流工事は大正7年に起工式を挙げた。
さきほどの内務省土木局直轄工事年報附図に掲載の荒川上流改修工事平面図を見る。
拡大して左側中間右側を見る。
さいたま市付近を見る
凡例を見ると赤実線は新堤計画線であるが、荒川の流れと直角方向に新堤計画線が描かれ、番号が付いている。番号を緑丸で囲む。
これは横堤だと思う。横堤の建設について『大宮市史第四巻近代編』にはこのように記述されている。
荒川上流河川事務所(国土交通省関東地方整備局)ホームページから(荒川を知ろう)(荒川の歴史)(明治時代以降)と開くと横堤についてこのように案内されている。

荒川改修前の青で示した区間は現在青で示したところにあたり「びん沼川」という川である。荒川改修によって荒川本流から荒川支流になった。

荒川上流改修工事平面図右の方、中山道の下流側で旧荒川が大きく蛇行しているところがある。改修によって直線化され荒川でなくなる区間を青で示す
その場所を現在の地図に青で示すとここだと思う。
JR埼京線浮間舟渡駅の北は浮間公園で、ウィキペディア浮間公園には “ 元は荒川が流れていたところだが、大正から昭和にかけての河川改修で流路が変わり、旧河道の一部が池になった。1967年に浮間公園が設けられた。” と記述されている。ウィキペディア挿入写真(春の浮間ヶ池)。
浮間舟渡駅の南を流れる旧荒川は現在新河岸川になっている。
荒川改修と同時的に新河岸川も青線のように改修されたのだと思う。

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