国立国会図書館デジタルコレクションの電子書籍・電子雑誌から開化諸国道中記(明治11年出版)を開く。道中記というのは旅行案内書みたいなものだと思う。
コマ番号3/38の右ページを見る。
この建物は新橋駅だと思う。
港区コミュニティ情報ネットKissポートのサイトマップから港区探訪バックナンバーを開く。
2007年7月号に掲載の旧新橋停車場の写真。
2019年7月号に掲載の開業当時の新橋停車場の写真
鉄道列車賃金略表を見ると「上」「中」「下」の3種類があり、「上」の新橋~横浜は1円である。
man@bowまなぼうサイトでお金の歴史雑学コラムのcolumn6を見ると当時の1円はかなりの高額だった。
開化諸国道中記のコマ番号14/38を見る。
木曽街道筋の東京から新町までを見る。JR高崎線に新町という駅がある。大宮から高崎線下り電車に乗ると群馬県に入って最初の駅である。
浦和を見ると宿泊所として山口清三郎が案内されている。
国立国会図書館デジタルコレクションから日本諸国道中記(明治20年出版)を開く。
コマ番号18/66の左ページを見る。
この道中記も浦和での宿泊所は山口清三郎が案内されている。
浦和市史に掲載の明治35年の浦和町営業便覧を見ると「旅人宿 山口屋 山口清三郎」というところがある。
旧中山道とさくら草通りの交差点角の「餅菓子製造業 藤屋」のとなりである。
現在地図(ヤフー)のこの辺り(緑丸)に「旅人宿 山口屋 山口清三郎」はあったのではないだろうか。
2020年2月ストリートビューで見る。
旧中山道とさくら草通りの交差点から旧中山道蕨方面を見た2020年04月06日ブログの写真。

明治45年出版『浦和案内』の浦和町栄業振り短評の山口屋旅館。『浦和案内』の御旅館山口屋の広告。
『浦和案内』にはもう一つ山口屋の広告がある。こちらは「御待合」で浦和停車場前である。
明治35年の浦和町営業便覧を見ると、駅前に「待合所 山口屋支店」がある。
浦和町栄業振り短評の山口屋支店を見ると、“ 旅館山口氏の出なり ” と記述されている。
商店街振興組合高砂共栄会さんのサイトから高砂共栄会の歴史を開くと大正10年頃の中山道の地図が見られる。
その地図で浦和駅前を見ると山口支店がある。
2020年05月23日ブログ(浦和駅西口前の昭和30~50年代)で私は平成6年3月発行『さいたまグラフ』に掲載された昭和39年の浦和駅西口の写真を見た。
この写真の赤矢印の店舗が山口屋さんで、明治の「待合所 山口屋支店」時代から続いていたのだと思う。
昭和53年12月には黄矢印のようになった。
浦和駅西口昭和の再開発事業によって浦和停車場前「待合所 山口屋支店」の場所は駅前広場に呑み込まれてしまった。
コマ番号3/38の右ページを見る。
この建物は新橋駅だと思う。
港区コミュニティ情報ネットKissポートのサイトマップから港区探訪バックナンバーを開く。
2007年7月号に掲載の旧新橋停車場の写真。
2019年7月号に掲載の開業当時の新橋停車場の写真
鉄道列車賃金略表を見ると「上」「中」「下」の3種類があり、「上」の新橋~横浜は1円である。
man@bowまなぼうサイトでお金の歴史雑学コラムのcolumn6を見ると当時の1円はかなりの高額だった。
開化諸国道中記のコマ番号14/38を見る。
木曽街道筋の東京から新町までを見る。JR高崎線に新町という駅がある。大宮から高崎線下り電車に乗ると群馬県に入って最初の駅である。
浦和を見ると宿泊所として山口清三郎が案内されている。
国立国会図書館デジタルコレクションから日本諸国道中記(明治20年出版)を開く。
コマ番号18/66の左ページを見る。
この道中記も浦和での宿泊所は山口清三郎が案内されている。
浦和市史に掲載の明治35年の浦和町営業便覧を見ると「旅人宿 山口屋 山口清三郎」というところがある。
旧中山道とさくら草通りの交差点角の「餅菓子製造業 藤屋」のとなりである。
現在地図(ヤフー)のこの辺り(緑丸)に「旅人宿 山口屋 山口清三郎」はあったのではないだろうか。
2020年2月ストリートビューで見る。
旧中山道とさくら草通りの交差点から旧中山道蕨方面を見た2020年04月06日ブログの写真。

明治45年出版『浦和案内』の浦和町栄業振り短評の山口屋旅館。『浦和案内』の御旅館山口屋の広告。
『浦和案内』にはもう一つ山口屋の広告がある。こちらは「御待合」で浦和停車場前である。
明治35年の浦和町営業便覧を見ると、駅前に「待合所 山口屋支店」がある。
浦和町栄業振り短評の山口屋支店を見ると、“ 旅館山口氏の出なり ” と記述されている。
商店街振興組合高砂共栄会さんのサイトから高砂共栄会の歴史を開くと大正10年頃の中山道の地図が見られる。
その地図で浦和駅前を見ると山口支店がある。
2020年05月23日ブログ(浦和駅西口前の昭和30~50年代)で私は平成6年3月発行『さいたまグラフ』に掲載された昭和39年の浦和駅西口の写真を見た。
この写真の赤矢印の店舗が山口屋さんで、明治の「待合所 山口屋支店」時代から続いていたのだと思う。
昭和53年12月には黄矢印のようになった。
浦和駅西口昭和の再開発事業によって浦和停車場前「待合所 山口屋支店」の場所は駅前広場に呑み込まれてしまった。
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