平成21年(2009)さいたま市立博物館発行『街にキネマがあったころ』では昭和9年(1934)発行の「大宮商工並二名勝案内図」を基にして大宮駅周辺の映画館の位置を案内している。その地図で大宮銀座通りとその周辺を見る。
この地図には大宮銀座通りは川越新道と表示されている。
昭和49年(1974)大宮銀座商店街(協)発行『大宮銀座通り80年のあゆみ』所載の昭和48年作成大宮銀座商店街案内図と比較してみる。
昭和9年の地図にハイカラ堂さんを赤で示し、昭和48年大宮銀座商店街案内図にも同様にする。
ハイカラ堂さんの2010年8月の写真。2016年2月の写真。

昭和48年案内図には昭和9年の地図に黄で囲んだ商店のスペースがなくなっている。商店があった場所は駅前広場に変わったのだと思う。
昭和20年(1945)終戦前の建物疎開(強制疎開)によるものだと思う。大宮市史年表の昭和20年4月10日に “ 大宮駅前市街地に第一次強制疎開命令 ” という記事がある。そして4月14日には “ 午前1時頃に大宮市宮町の市街地空襲、焼夷弾投下により10人が死亡、225戸・955人が戦災救助をうける ” という記事がある。大宮駅前の黄で囲んだところはこの時の戦火は逃れたと思う。
街にキネマの地図には上に大きく「大宮座」の囲みがあり、「座」の字の下に「青物市場」の表示がある。
商店街案内図のこの辺り(赤丸)だと思う。
大宮の写真集に昭和26年(1951)の市営青果市場の写真がある。川越新道の青物市場のことかも知れない。
大宮の写真集に昭和27年(1952)の銀座通り(旧川越新道)の写真がある。撮影場所は特定されていないが北方向を見ていると思う。西側の看板は「鮮」と「魚」だと思う。
昭和48年大宮銀座商店街案内図で西側の商店名を見ると魚屋さんらしきところはない。
昭和10年頃家並図を見ると「魚島」「ます屋魚店」の二つが魚屋さんだと思う。「魚島」さんは昭和9年の地図に黄で囲んだ商店の一つであり、昭和27年には存在していない。「鮮」「魚」の看板のところがます屋魚店さんかも知れないが違うかもしれない。
ます屋魚店さんの川越新道を挟んだ東側にあづま料理店さんがある。
昭和48年大宮銀座商店街案内図のあづまさんだと思う。ハイカラ堂さんとの距離が昭和10年頃家並図と合わないように見える。
現在の地図(マピオン)に大宮あづまビルとハイカラ堂ビルを赤枠で示す。
昭和8年8月発行大宮町全図にあづまさんを赤丸で示す。
2014年8月のあづまさん。

以前、あづまさんのホームページにあった昔の店舗(1990年まで)。
2016年2月のハイカラ堂さんは2020年9月このようになっていた。
令和4年(2022)8月の写真。
この地図には大宮銀座通りは川越新道と表示されている。
昭和49年(1974)大宮銀座商店街(協)発行『大宮銀座通り80年のあゆみ』所載の昭和48年作成大宮銀座商店街案内図と比較してみる。
昭和9年の地図にハイカラ堂さんを赤で示し、昭和48年大宮銀座商店街案内図にも同様にする。
ハイカラ堂さんの2010年8月の写真。2016年2月の写真。

昭和48年案内図には昭和9年の地図に黄で囲んだ商店のスペースがなくなっている。商店があった場所は駅前広場に変わったのだと思う。
昭和20年(1945)終戦前の建物疎開(強制疎開)によるものだと思う。大宮市史年表の昭和20年4月10日に “ 大宮駅前市街地に第一次強制疎開命令 ” という記事がある。そして4月14日には “ 午前1時頃に大宮市宮町の市街地空襲、焼夷弾投下により10人が死亡、225戸・955人が戦災救助をうける ” という記事がある。大宮駅前の黄で囲んだところはこの時の戦火は逃れたと思う。
街にキネマの地図には上に大きく「大宮座」の囲みがあり、「座」の字の下に「青物市場」の表示がある。
商店街案内図のこの辺り(赤丸)だと思う。
大宮の写真集に昭和26年(1951)の市営青果市場の写真がある。川越新道の青物市場のことかも知れない。
大宮の写真集に昭和27年(1952)の銀座通り(旧川越新道)の写真がある。撮影場所は特定されていないが北方向を見ていると思う。西側の看板は「鮮」と「魚」だと思う。
昭和48年大宮銀座商店街案内図で西側の商店名を見ると魚屋さんらしきところはない。
昭和10年頃家並図を見ると「魚島」「ます屋魚店」の二つが魚屋さんだと思う。「魚島」さんは昭和9年の地図に黄で囲んだ商店の一つであり、昭和27年には存在していない。「鮮」「魚」の看板のところがます屋魚店さんかも知れないが違うかもしれない。
ます屋魚店さんの川越新道を挟んだ東側にあづま料理店さんがある。
昭和48年大宮銀座商店街案内図のあづまさんだと思う。ハイカラ堂さんとの距離が昭和10年頃家並図と合わないように見える。
現在の地図(マピオン)に大宮あづまビルとハイカラ堂ビルを赤枠で示す。
昭和8年8月発行大宮町全図にあづまさんを赤丸で示す。
2014年8月のあづまさん。

以前、あづまさんのホームページにあった昔の店舗(1990年まで)。
2016年2月のハイカラ堂さんは2020年9月このようになっていた。
令和4年(2022)8月の写真。
久々にコメントさせていただきます。
武州・大宮駅周辺の空襲エピソードの件だが、まだ空襲で被災した際の写真は現時点に於いて未発見なために、若し仮りに見つかろうとなれば歴史的な貴重すぎる光景ゆえ、ともすれば真実が変わる可能性も否定できないと思います。
数年まえに、県下東松山郊外の埼玉県平和資料館さんを訪ねたとき、宮原にあった当時の中島飛行機大宮製作所さんへの爆撃計画(諸事情により延期となるや、そのまま終戦)の資料を見たさい、地元民ゆえとても衝撃的だったのを、今でも私はアタマに鈍器で殴られる程のショックを覚えてます。
それでは、失礼いたします。
戦争を知らない子供たちとして平和な日本を生きてきましたが、昨今の世界的動きを見ていると恒久平和というのは幻想ではないかと思うようになりました。
戦争の悲惨さを後世に伝えることが大切だと痛感しております。