2020年05月01日ブログで私は伊能忠敬第7次測量隊が岩槻を出て川島村まで歩いた道について考えた。
その日(岩槻を出発した日)は第7次測量隊が江戸を発って7日目に当たり、文化6年9月4日であった。
その日の宿泊地は篠津村であり、本日のブログでは川島村の元荒川から篠津村までの道筋をみてみたい。
伊能図で元荒川から篠津村までを見る。
川を青、道を赤で示す。
元荒川を過ぎると黒浜村、新宿村、白岡村を経由して篠津村に至る。
迅速測図でそれらの村を経由して篠津村に至る道を赤で示すことにする。
元荒川から篠津村までの区間を次の3区間に分けて作業する。
3-1の区間、3-2の区間、3-3の区間。
各区間の道を赤で示す。3-1区間、3-2区間、3-3区間。
元荒川から篠津村までを1面に縮小し、その道筋を赤で示す。
伊能図の道筋と比べてみる。
川島橋(元荒川)を渡って左に曲がるところのカーブが迅速測図の方が大きいが、あとはよく似ている。
私は迅速測図の道は伊能忠敬測量隊が歩いた道と概ね重なるのではないかと思う。
その道は現在も残っているのかどうか。
現在の地図(ヤフー)でみてみよう。岩槻の北、新白岡駅の西(左)に篠津の表示がある。
私は篠津と言えば大宮から栗橋へ向かう県道の篠津信号交差点を思い出す。
現在の地図(ヤフー)に川島橋(元荒川)から篠津信号交差点までを次の5区間に分けて作業する。
5-1の区間、5-2の区間、5-3の区間、5-4の区間、5-5の区間。
迅速測図に赤で示した道(3-1) (3-2) (3-3)を引き継いでいると思われる道を赤で示す。
5-1区間、5-2区間、5-3区間、5-4区間、5-5区間。
迅速測図の3-3区間の赤丸は現在の5-4区間の赤丸になると思う。
迅速測図を拡大してそこを赤丸で示す。
伊能測量隊は赤丸からこのように歩いたと思う。
現在のその道は変化している。
現在の地図にその道を描くとこのようになるのではないかと思う。
江戸時代は篠津村と白岡村があったが、ウィキペディア篠津村には明治22年誕生の篠津村について記述されている。
江戸時代からの白岡村は明治22年誕生の篠津村に含まれることになった。
ところが、昭和29年の合併で再度生まれ変わるときは白岡町になった。
明治43年に東北本線白岡駅が開業していたことが影響したのではないだろうか。
その日(岩槻を出発した日)は第7次測量隊が江戸を発って7日目に当たり、文化6年9月4日であった。
その日の宿泊地は篠津村であり、本日のブログでは川島村の元荒川から篠津村までの道筋をみてみたい。
伊能図で元荒川から篠津村までを見る。
川を青、道を赤で示す。
元荒川を過ぎると黒浜村、新宿村、白岡村を経由して篠津村に至る。
迅速測図でそれらの村を経由して篠津村に至る道を赤で示すことにする。
元荒川から篠津村までの区間を次の3区間に分けて作業する。
3-1の区間、3-2の区間、3-3の区間。
各区間の道を赤で示す。3-1区間、3-2区間、3-3区間。
元荒川から篠津村までを1面に縮小し、その道筋を赤で示す。
伊能図の道筋と比べてみる。
川島橋(元荒川)を渡って左に曲がるところのカーブが迅速測図の方が大きいが、あとはよく似ている。
私は迅速測図の道は伊能忠敬測量隊が歩いた道と概ね重なるのではないかと思う。
その道は現在も残っているのかどうか。
現在の地図(ヤフー)でみてみよう。岩槻の北、新白岡駅の西(左)に篠津の表示がある。
私は篠津と言えば大宮から栗橋へ向かう県道の篠津信号交差点を思い出す。
現在の地図(ヤフー)に川島橋(元荒川)から篠津信号交差点までを次の5区間に分けて作業する。
5-1の区間、5-2の区間、5-3の区間、5-4の区間、5-5の区間。
迅速測図に赤で示した道(3-1) (3-2) (3-3)を引き継いでいると思われる道を赤で示す。
5-1区間、5-2区間、5-3区間、5-4区間、5-5区間。
迅速測図の3-3区間の赤丸は現在の5-4区間の赤丸になると思う。
迅速測図を拡大してそこを赤丸で示す。
伊能測量隊は赤丸からこのように歩いたと思う。
現在のその道は変化している。
現在の地図にその道を描くとこのようになるのではないかと思う。
江戸時代は篠津村と白岡村があったが、ウィキペディア篠津村には明治22年誕生の篠津村について記述されている。
江戸時代からの白岡村は明治22年誕生の篠津村に含まれることになった。
ところが、昭和29年の合併で再度生まれ変わるときは白岡町になった。
明治43年に東北本線白岡駅が開業していたことが影響したのではないだろうか。
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