最近、家具づくりに挑戦している。
挑戦というか、勉強というか。
道具の扱い方や、木の見方、細かい技術についても、もっともっと知りたいので
一からやり直している。
家から一時間ほどのところに、教室というか、学校といってもよさそうなところで、
すばらしい作品をつくってらっしゃる先生をみつけたので、基本から学びなおしている。
ぼくは、50年から100年以上の、杉やヒノキをたくさんもっている。
もっているというと、ちょっとおかしいのだけれど、
たくさんの木を受け継ぐことになっている。
それは貧しい農家のうちのご先祖が、孫や、ひ孫たちが、いつか使えるようにと、
退職金や年金制度なんてない時代から、想いをこめて植えられてきた木たちなのだ。
生活はくるしくてお金は残せないけれど、自分が死んだ50年先、100年先をおもって木を植えるだなんて。
なんて美しい話だろう。
ぼくはその想いのこもった木や土地を受け継いで、何かのこせないかな?と、ずっと考えている。
子どもたちが遊べる場所だったり、友だちがたくさんとまれる建物をつくったり。
そういろいろと考えているなかのひとつが、「家具」なのだ。
何十年もの時を経て、太陽の光をあび、大地に根をはった木で、
また、さらに何十年も使えるような家具をつくれるようになれたらいいな。
ぼくがいなくなっても、子どもや孫や、いろんな方に大事に使ってもらえるようなものができたら最高だ。
クギやネジをバンバンうった小屋や台などはつくれる。
でも、なるべく機械にたよらず、できるかぎりていねいに木をあつかい、家具をつくれるようになりたい。
今日はカンナを調節し、木の面を削るのを、3時間びっちり練習した。
何回もはじめからやりなおして、なんどもなんども練習した。
0.5mm以下になるように刃の調節をくりかえす。
髪の毛いっぽん分の刃のバランスを整える。
先生に言われたわけではないけれど、ただ、練習するだけじゃなくて、こころのなかで木と話しながら練習するようにした。
「こんにちは。ホワイトオークさん。ウォルナットさん。(←木の種類)」
「日本には家具にあった固い木はなかなかありません。はるばる外国からきてくれてありがとう。」
「どうでしょうか。さっきよりも、うまくけずれているでしょうか。」
「ていねいに仕上げます。ていねいに。ていねいに。」
夢中になって、カンナを調節し、こころをこめて木をひたすらけずった。
ただ、ひたすらに。木にありがとうと思いながら、ひたすらけずった。
無心になって練習していたのだが、ふと、隣の台で練習している方の視線に気づいた。
ぼくなんかより、ずっと経験の長そうな方なのだが、
ぼくを不思議そうにみている。そして、声をかけられた。
「あの… だいじょうぶですか?」
はじめる前に、ご挨拶しかしていないので、お互いに名前は知らない。
でも、声をかけられて、はっとした。
こころのなかで、木と対話しながら練習していたつもりだったが、
こころの声が、声になってしまい、お隣の方にもきこえてしまっていたようだ。
とくに、「どうでしょうか。さっきよりも、うまくけずれているでしょうか。」の声がよくきこえていたようで、
心配して、ぼくに声をかけてくださったのだ。
「す、すいません!つ、つい…!」
でも、その方はほほえんで、ぼくが夢中になってけずった木のくずを見て、こうおっしゃってくれた。
「さっきよりも、うまくけずれていますよ。」
なんてやさしい方なんだろう。
ひたすらけずった木の香りと、あたたかい言葉につつまれた。
3時間の練習をおえて、たからくんの七五三の写真をうけとりにいった。
ぼくはほとんど買いものにいくことはないが、
お店でつかわれているテーブルや、棚をみるのは大好きだ。
「この台はどんなふうにつくられたのかな?」だとか、
「おー!こんなアイデアもあるのか!」だとか。
そんなふうに見ているときに、そこになんの商品がおかれているかは、まったく目にはいっていない。
その店が、なんの店なのかも気にしていない。
ひとりでいたから、いつになくじっくりといろんな店をみてまわった。
よく、のぞきこんだり、腕をくんでジ~っとみているから、
「パパ、なにしてると~?」と、息子にいわれるときもしばしばある。
ゆっくり見ながら歩いていると、とてもすてきな無垢材の棚をみつけた。
店によっては、けっこうラフな箱をつかっているところもあるけれど、
色もおちついていて、つい、さわってみたくなる棚だ。
どれくらいそこに居たかわからない。
これはいいなあ…と、きれいな木目や、こった棚の形にしばらく見とれていた。
美術館で、はじめて出会った絵の世界にひきこまれるような、そんな感じだ。
ぼくは何かにぐっとひきつけられると、まわりのものに、いっさい気づかなくなってしまうクセがある。
午前中の、木を削るカンナの練習のときもそうだった。
しばらくの間ながめ、その棚の魅力の世界から、すこしずつはなれていこうとしていたら、
そばにちいさな女の子がいることに気がついた。
そのちいさな女の子と目があったので、子どもがすきなぼくは
ニコっとほほえんだ。
するとその子は、ちょこっと首をかしげて、言った。
「ねえ、ママ。おじちゃんも、ママと同じパンツはくと~?」
「ん?ママと同じパンツ??」
この女の子はなにを言っているのだろう。でも、つぎの瞬間、ぼくはめちゃくちゃ焦った。
ぼくがひきこまれた、魅力的な棚のすぐ横に、真っ赤な女性用の下着がディスプレイされている。
「幸運の申赤(さるあか)をまとう」と、かいてある。
ふりかえると、色とりどりのランジェリーが壁一面にあるではないか。
ぼくは気づかないうちに、女性用下着の専門店、トリンプさんの店舗の中にいたのだ。
幸運の申赤?た、たしかに申年やけど!と、思ったが、妙な事態がおこっているのにはまちがいない。
「ねえ~、ママ~、あのおじちゃんさあ~」
「だめっ!はやくこっちにきなさいっ!」
「え~、でも、あのおじちゃん…」
女の子は、ぐいぐいとお母さんに手をひっぱられて、遠くにいってしまった。
小さな女の子は、赤いジャンパーをきたおじちゃんをゆびさしている。
どんどん遠くなっていくが、「でも、あのおじちゃんさあ~…」と、いう声がきこえてくる。
ニコッとほほえんだぼくは、あの女の子にとって、
この人はいったいなにものなんだろう?と、うつったかもしれない。
真っ赤な下着のよこで、棚に見とれている、真っ赤なジャンバーを着たおじちゃん。
赤色は、ママと同じパンツ。
「あのおじちゃんも、ママと同じパンツはくと~?」と、不思議でならなかったのかもしれない。
つい夢中になりすぎたばっかりに、ちいさな女の子の謎を深めてしまったかもしれない。
ごめんね。赤いジャンバーのおじちゃんがわるかったね。
40年ぶりの大寒波がやってくる。
真っ白い雪の中に、真っ赤なジャンバーを着て、またでていこう。
幸運をまとえそうな申赤(さるあか)ではないけれど、
白と赤で、ちょっぴり縁起が良さそうだ。
挑戦というか、勉強というか。
道具の扱い方や、木の見方、細かい技術についても、もっともっと知りたいので
一からやり直している。
家から一時間ほどのところに、教室というか、学校といってもよさそうなところで、
すばらしい作品をつくってらっしゃる先生をみつけたので、基本から学びなおしている。
ぼくは、50年から100年以上の、杉やヒノキをたくさんもっている。
もっているというと、ちょっとおかしいのだけれど、
たくさんの木を受け継ぐことになっている。
それは貧しい農家のうちのご先祖が、孫や、ひ孫たちが、いつか使えるようにと、
退職金や年金制度なんてない時代から、想いをこめて植えられてきた木たちなのだ。
生活はくるしくてお金は残せないけれど、自分が死んだ50年先、100年先をおもって木を植えるだなんて。
なんて美しい話だろう。
ぼくはその想いのこもった木や土地を受け継いで、何かのこせないかな?と、ずっと考えている。
子どもたちが遊べる場所だったり、友だちがたくさんとまれる建物をつくったり。
そういろいろと考えているなかのひとつが、「家具」なのだ。
何十年もの時を経て、太陽の光をあび、大地に根をはった木で、
また、さらに何十年も使えるような家具をつくれるようになれたらいいな。
ぼくがいなくなっても、子どもや孫や、いろんな方に大事に使ってもらえるようなものができたら最高だ。
クギやネジをバンバンうった小屋や台などはつくれる。
でも、なるべく機械にたよらず、できるかぎりていねいに木をあつかい、家具をつくれるようになりたい。
今日はカンナを調節し、木の面を削るのを、3時間びっちり練習した。
何回もはじめからやりなおして、なんどもなんども練習した。
0.5mm以下になるように刃の調節をくりかえす。
髪の毛いっぽん分の刃のバランスを整える。
先生に言われたわけではないけれど、ただ、練習するだけじゃなくて、こころのなかで木と話しながら練習するようにした。
「こんにちは。ホワイトオークさん。ウォルナットさん。(←木の種類)」
「日本には家具にあった固い木はなかなかありません。はるばる外国からきてくれてありがとう。」
「どうでしょうか。さっきよりも、うまくけずれているでしょうか。」
「ていねいに仕上げます。ていねいに。ていねいに。」
夢中になって、カンナを調節し、こころをこめて木をひたすらけずった。
ただ、ひたすらに。木にありがとうと思いながら、ひたすらけずった。
無心になって練習していたのだが、ふと、隣の台で練習している方の視線に気づいた。
ぼくなんかより、ずっと経験の長そうな方なのだが、
ぼくを不思議そうにみている。そして、声をかけられた。
「あの… だいじょうぶですか?」
はじめる前に、ご挨拶しかしていないので、お互いに名前は知らない。
でも、声をかけられて、はっとした。
こころのなかで、木と対話しながら練習していたつもりだったが、
こころの声が、声になってしまい、お隣の方にもきこえてしまっていたようだ。
とくに、「どうでしょうか。さっきよりも、うまくけずれているでしょうか。」の声がよくきこえていたようで、
心配して、ぼくに声をかけてくださったのだ。
「す、すいません!つ、つい…!」
でも、その方はほほえんで、ぼくが夢中になってけずった木のくずを見て、こうおっしゃってくれた。
「さっきよりも、うまくけずれていますよ。」
なんてやさしい方なんだろう。
ひたすらけずった木の香りと、あたたかい言葉につつまれた。
3時間の練習をおえて、たからくんの七五三の写真をうけとりにいった。
ぼくはほとんど買いものにいくことはないが、
お店でつかわれているテーブルや、棚をみるのは大好きだ。
「この台はどんなふうにつくられたのかな?」だとか、
「おー!こんなアイデアもあるのか!」だとか。
そんなふうに見ているときに、そこになんの商品がおかれているかは、まったく目にはいっていない。
その店が、なんの店なのかも気にしていない。
ひとりでいたから、いつになくじっくりといろんな店をみてまわった。
よく、のぞきこんだり、腕をくんでジ~っとみているから、
「パパ、なにしてると~?」と、息子にいわれるときもしばしばある。
ゆっくり見ながら歩いていると、とてもすてきな無垢材の棚をみつけた。
店によっては、けっこうラフな箱をつかっているところもあるけれど、
色もおちついていて、つい、さわってみたくなる棚だ。
どれくらいそこに居たかわからない。
これはいいなあ…と、きれいな木目や、こった棚の形にしばらく見とれていた。
美術館で、はじめて出会った絵の世界にひきこまれるような、そんな感じだ。
ぼくは何かにぐっとひきつけられると、まわりのものに、いっさい気づかなくなってしまうクセがある。
午前中の、木を削るカンナの練習のときもそうだった。
しばらくの間ながめ、その棚の魅力の世界から、すこしずつはなれていこうとしていたら、
そばにちいさな女の子がいることに気がついた。
そのちいさな女の子と目があったので、子どもがすきなぼくは
ニコっとほほえんだ。
するとその子は、ちょこっと首をかしげて、言った。
「ねえ、ママ。おじちゃんも、ママと同じパンツはくと~?」
「ん?ママと同じパンツ??」
この女の子はなにを言っているのだろう。でも、つぎの瞬間、ぼくはめちゃくちゃ焦った。
ぼくがひきこまれた、魅力的な棚のすぐ横に、真っ赤な女性用の下着がディスプレイされている。
「幸運の申赤(さるあか)をまとう」と、かいてある。
ふりかえると、色とりどりのランジェリーが壁一面にあるではないか。
ぼくは気づかないうちに、女性用下着の専門店、トリンプさんの店舗の中にいたのだ。
幸運の申赤?た、たしかに申年やけど!と、思ったが、妙な事態がおこっているのにはまちがいない。
「ねえ~、ママ~、あのおじちゃんさあ~」
「だめっ!はやくこっちにきなさいっ!」
「え~、でも、あのおじちゃん…」
女の子は、ぐいぐいとお母さんに手をひっぱられて、遠くにいってしまった。
小さな女の子は、赤いジャンパーをきたおじちゃんをゆびさしている。
どんどん遠くなっていくが、「でも、あのおじちゃんさあ~…」と、いう声がきこえてくる。
ニコッとほほえんだぼくは、あの女の子にとって、
この人はいったいなにものなんだろう?と、うつったかもしれない。
真っ赤な下着のよこで、棚に見とれている、真っ赤なジャンバーを着たおじちゃん。
赤色は、ママと同じパンツ。
「あのおじちゃんも、ママと同じパンツはくと~?」と、不思議でならなかったのかもしれない。
つい夢中になりすぎたばっかりに、ちいさな女の子の謎を深めてしまったかもしれない。
ごめんね。赤いジャンバーのおじちゃんがわるかったね。
40年ぶりの大寒波がやってくる。
真っ白い雪の中に、真っ赤なジャンバーを着て、またでていこう。
幸運をまとえそうな申赤(さるあか)ではないけれど、
白と赤で、ちょっぴり縁起が良さそうだ。
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