花と動物大好きおばさん

趣味の洋蘭を育てながら愛犬との日々を送っています

阿仁史跡探訪

2019-09-16 20:13:31 | 史跡めぐり

先日、北秋田市阿仁の史跡めぐりへ行って来ました~。

朝8時40分出発 一路 阿仁鉱山へ といっても鉱山の坑道は現在見る事はできないが

一部復元させた物を現地のガイドさんの案内で見学しました

 

 阿仁鉱山は1309年に金山として開発されたと言われており、その後、銀、銅を産出するようになりました。

1716年(享保元年)には産銅日本一となり、別子銅山、尾去沢鉱山と共に日本三大銅山のひとつに数えられ、

阿仁鉱山の名は全国的にもよく知られるようになりました。

阿仁鉱山といいましてもひとつの鉱山ではなく、小沢、真木沢、三枚、一の又、二の又、萱草の6銅山(六ヶ山)と

向山金銀山、太良鉱山、加護山製錬所から成っています。

 

 江戸時代においては秋田藩の直営として、阿仁の銅は貨幣原料や長崎の出島から海外への輸出品として重要視

され、多いときには幕府御用銅のおよそ5割が阿仁鉱山から産出されました。

明治初年に官営鉱山となったのち、1885年(明治18年)には阿仁鉱山の六ヶ山と向山金銀山、

合わせて太良鉱山、加護山製錬所と付属山林も古河市兵衛氏に払い下げられました。

近年まで産出を続けましたが、1987年、資源の枯渇により休山となりました。

 カラミ山

 

*河川公園

河川公園は鉱山の物流を支えるために船場とし発達していました

現在は自然が美しい公園となっています

次に阿仁の歴史を紹介した資料館へ

鉱山が繁栄していた時代のジオラマや巻物、などが展示されています

鉱石


*次に隣接する異人館へ

明治12年(1879) メツゲルら5名のドイツ人技師が来山,鉱山技師メツゲルらの居宅として建築されました

秋田県の重要文化財に指定され、1990年(平成2年)には国の重要文化財の指定を受けています。

メツゲルの設計によるものと言われており、当時は阿仁鉱山外国人官舎及び事務所として使われていました。

構造は煉瓦造りの平屋建てで、屋根は切妻造り、壁は地元の土を焼いて造られた煉瓦造りです

煉瓦は現在の下浜(阿仁河川公園付近)で作られたようです。建物は東に面して建ち、半円形窓は上げ下げ式、

外側は鎧戸、周囲は木造のベランダで囲まれており、異国情緒漂う建物です。

のちの洋式建物の象徴といわれる鹿鳴館やニコライ堂より先駆けて建てられており、

ヨーロッパ人と洋館に初めて接する当時の日本人にカルチャーショックを与えたと言われています

 

*その他 平賀源内について

科学者として知られる平賀源内(1726~1779)も、阿仁鉱山の技術向上にも貢献しています。

源内らは阿仁に滞在して銅山経営の立て直しをはかり、精錬法を改良し、阿仁の産銅から銀を絞り出す技術(銀絞り法)を伝えました。

これをうけた秋田藩は幕府の許可を得て1774年(安永3年)に能代市(旧二ツ井町)の加護山に精錬所を設け、阿仁の産銅から銀の抽出を開始しました。

今日はここまでとします~。

次回は阿仁の伊勢堂岱遺跡についてお話いたしますね、ではまた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


秋晴れのもと

2018-09-26 22:10:41 | 史跡めぐり

9月26日は最高の秋晴でした。 サークルの皆様と早朝から横手後三年合戦の史跡めぐりに出かけました。

10時ころ横手の後三年合戦金沢資料館に到着、

 

 まずは 後三年の合戦についてのビデオ学習をし、それにまつわる絵巻きなど見学しました

後三年合戦は清原氏が朝廷に対して反乱を企てたので、源義家を遣わしてこれを打った戦いとされているが、

もともとは清原一族の内部分裂で、相互の戦いの途中に陸奥守に赴任して来た源義家が介入したことで、事が大きくなったそうです。

 事前学習後は金沢城跡と(金沢柵推定地)へと向かいます

金沢城跡は比高90mほどの山稜に築かれていた

 

 *本丸  本丸は長軸80mほどはあって、居住性はかなり高い

 

本丸と二ノ丸との間の鞍部は兵糧倉跡だったという

 

地図上では 二ノ丸には現在兜八幡神社が祭られている

900年を経た現在は城壁などは見る事ができませんが、当時の痕跡を見たり、聞いたりする事で当時を想像することが

出来ました。

次に古戦場金沢柵(平安の風わたる公園)へ向かいます

この公園は、後三年の合戦の際の古戦場である西沼を中心に、平成3年に作られた歴史公園です

源義家が金沢の柵に向かう途中、この沼を通ったとき、飛んでいた雁が突然列を乱したことから、敵の伏兵がいることを察知し、難を逃れたという

 

 *3重連の橋。雁がね橋

この公園には、合戦の様子を描いた壁画レリーフがあります

* 雁の乱れで伏兵がいることを察知し戦いをしかける源義家軍

 

 

合戦に登場した人物のブロンズ像どもあります。

* 清原家衡

 

清原(藤原)清衡

 

* 源 義家

 

清原武衡

後三年合戦の決戦場となった金沢柵の場所は現時点ではここだと言われていますが、

金沢八幡宮のある金沢城と言い伝えられたり今だ解明はされていないようです。

*今から900年前の平安時代の東北北部に勢力を張る清原氏(清衡、真衡、家衡、)の内紛で激しい攻防の末に

源義家が加わった清衡側の勝利で終結し、その後、清衡は姓を父方の藤原に改めて、奥州藤原氏の初代となって平泉を開き

約100年に及ぶ栄華を極めたが、義家の子孫にあたる源頼朝によって平泉は滅ぼされ、日本全体を支配下に置く武家政権が完成されたそうです。

*今回の史跡めぐりは、一言では言い表せないほど奥の深~いものでした、なにせ不勉強な私の頭の中は一日で沢山の知識を頂きパンク寸前でした

帰宅してから、資料を見直したり、ガイドさんの説明を思い出したり、撮影した写真を見たり、少しずつ整理することができます、

平安の風にふかれたとても充実した一日でした。 ではまた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


土崎まち歩き

2018-07-12 20:16:53 | 史跡めぐり

秋田市土崎地区は、秋田運河の河口に位置する港町で、藩政期は北前船が寄港し、久保田藩城下町の外港として

問屋、交易、回船類の職が、港町として栄えていました。

今回は、土崎港町の周辺にある、神社、寺、などを含めた史跡めぐりを、ベテランのガイドさん付で歩きます

セリオン入口から徒歩で中央6丁目にある

 ①實城院へ、

*立派な門の左右には仁王像があります

 

*本殿には市指定有形文化財に指定されている、石造宮殿があります

全体が男鹿石製で1849に造立され、内部にはご本尊の日蓮上人の石造が安置されています。

木製のような精巧にビックリです(普段は公開されていません)

 

*次に少し離れた②金毘羅神社へ

1751年ころ土崎の沖合でシケにあった船頭が海神の導きにより無事に入港することが出来

その折、積荷の中にあった神面(天狗の面)ご神体とした。(実際に見せて頂く事もできました。)

 

*石製狛犬は福井県のみで産出される笏谷石(しゃくだにいし)で作られ、日本海海運によって

各地に運ばれ、(県指定有形文化財)となっています。

おかっぱ状のたてがみが可愛らしいです。

 

*その後テクテク歩き、土崎街区公園へ(土崎神明社等近隣)

D51 役目を終えたデコイチが展示されています。

 

 湊家(湊安東氏)の顕彰碑もあります 

日本鎌倉時代から戦国時代の末まで、陸奥国出羽国の北部に勢力を張った武士の一族である

 

 

その後、正善院(湊城主安東氏祈願所 、四国八十八か所お砂ふみ)~休寶寺~本住寺へとまわり

最終地点は2018年3月に新築開館した国道7号線添えにある土崎みなと歴史伝承館へ

 

*曳山展示ホール  ユネスコ無形文化財に登録された土崎神明社の曳山行事を紹介しています

10m級の曳山を展示、圧巻!

 

*また、階段教室では、平和学習など、DVDによる土崎空襲の鑑賞及び講話などを聴きました。

 

*空襲展示ホールには、土崎空襲で被爆した旧日本石油秋田精油所の倉庫の一部を移築し

当時を再現したものも見ることが出来ます。

70年経った今でも家族を失い、自ら戦争体験をした人達の講話を聴き

戦争の恐ろしさを知ると共に、絶対戦争はしてはいけないと改めて考えました。

と言う事で土崎港まち歩きは終了しました。

ちなみに9233歩、あるき身も心も脳も充実?した日になりました。では

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


歴史. 三浦館

2018-06-06 12:46:53 | 史跡めぐり

先日、秋田市金足にある 国指定重要文化財の三浦の館へ行ってきました。

三浦家は、(現・神奈川県)の豪族、桓武天皇の第四子の御孫が平氏を賜って関東に下向し、

1062年 前九年の役で戦功を立てた恩賞として、三浦半島全部を賜り、本拠地として衣笠城を築き、三浦姓を称して関東に定着するようになる。

平安末期、源氏と平氏が戦をしていた時期は、三浦は源頼朝の源氏に協力する。
また、源氏が鎌倉幕府を開くにあたり尽力し相模守護となった

その後政権は源氏から北条氏に移り変わり、三浦泰村の時、北条氏の外戚として権勢を振ったが北条氏と戦になり三浦一族が敗れ

全国に逃げたと言われている。その後、八郎潟の浦城に入るも秋田の内紛に巻き込まれるなどして、岩城村に隠れ生き伸び、やがて

現在の金足入り、三浦盛宗を初代として4代目宗安が金足黒川の村を治める、その後も代々継承し1836年には郷士となる。

*約4000坪の敷地に三浦館が建っている 

表門

主屋

約4,000坪の敷地の中に、茅葺き民家では東北地方で最大級の平面積の主屋を中心に、表門、土蔵、文庫蔵、味噌蔵、米蔵、鎮守社、馬小屋と計8棟が建っている。主屋南側には、見下ろしの回遊式日本庭園が広の面ぶことができる,000坪の敷地の中に、茅葺き民家では東北地方で最大級の平面積の主屋かを中心に、表門、土蔵、文庫蔵、味噌蔵、米蔵、鎮守社、馬小屋と計8棟が建っている。主屋南は下しの

かや

主やkaか

主屋

*約4000坪の敷地に三浦館が建っている 茅葺の民家では東北では最大級の平面積に表門、主屋、土蔵、味噌蔵、

米蔵、鎮守社、馬小屋などが建っている、また回遊式の日本庭園も広がっていて、江戸時代末期の面影をしのぶことが出来る。

平成12~16年に保存修復工事が行われ、平成18年すべての建物と宅地が国指定文化財になり名所を三浦館(みうらやかた)となる。

てな事で、史跡めぐりのお話でした。

葺き

 

 

かや

かや時代末期の面影を偲ぶことができる