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谷やんの ”まなブログ”

最近思う事・自動車全般・ムフフ話・など自分の今思う旬なネタを題材に社会派で迫ります。

初期の衝突実験

2007-06-03 | 自動車全般
最近はパッシブセイフティーなんて言葉がある。

万が一の衝突の際に人員の安全が確保されるかどうかの衝突安全性だ。
最近この評価次第では、販売台数にも影響が出てしまうほどの力がある。
そもそも、40年以上前はそんな事を気にするメーカーは国内では殆んど無かった。

私の知っている限りでは富士重工が早期に衝突試験を行った。
まだ、シートベルト付きの車も珍しかった1965年7月、スバル1000を筆頭に在来車との比較も検討するため、社内のテストコースにアメリカの自動車技術会(SAE)の基準に従って幅3m、高さ1.5m、厚さ0.5mの鉄筋コンクリートのバリア(壁)を作成した。
当時は衝突速度にも決まりが無かったので40km/hとし、100m手前からワイヤーで引っ張った。
車体のゼブラ柄は衝突時の車体の変形をわかりやすくするためだ。

比較車として、オースチン・A50、ヒルマンミンクス、パブリカ、P-1、などが用意された。
記載した写真は、”P-1”で、1955年に計画凍結された富士重工の幻の名車の事である。

スバル1000のテスト結果は、衝撃音は軽いものだったが居住空間は他社並みに確保されていたようだ。
それに対し”P-1”は、ズシンと来る重々しい衝撃音で、国産初のフルモノコックボディーは剛性が高かったようだ。

今から比べると原始的な衝突実験だが、40年前に実験を始めたことは意味のあることだ。
それは、富士重工の今の車造りに生きて居るんだと思う。

・・・しかし・・・

車のフロントマスクが人の顔のように見え、衝突による変形で恐ろしい形相に見えてしまうのは私だけだろうか?

衝突は恐ろしい・・・
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XJR1300

2007-05-25 | 自動車全般
その日はいつもより早く仕事を切り上げた。

ロッカーに隠してあったヘルメットを手にし、会社を出てタクシーを拾う。
運転手に行き先を告げ、しばしリアシートの人となった。

店に着くとお店は閉店間近で店員はオートバイを店の奥に移動している。

こんばんは~、と声をかけると、
お待ちしておりました~
と、返答があった。

いや、この1週間、お待ちしていたのはこっちの方だ・・・
先週、私は一大決心をしたのだ。

それは・・・
XJRをオーダーしたこと・・・

このXJという文字には思い出がある。
学生時代に苦楽を共にし、全国を駆け巡ったXJ400Eのことだ。

1年半で5万㌔を走破したこのバイクとの出逢いは大学1年の終わり頃だった。
中型免許を取得したての私は、とにかく何でも良いからオートバイが欲しく、かなりくたびれたGX250SPを手に入れた。

しかしこのバイクは点火系のトラブルに苛まれ半年と短命に終わった。
その後、友人からアメリカンのXJ400SPというバイクを譲っていただける事となった・・・
しかし、持ち主は私にバイクを引き渡そうと洗車しているうちに、何だか惜しくなってしまったようで、”やっぱり売るのをやめた”と言われてしまった。

あてにしていたバイクが手に入らなくなり途方にくれていると、家の近所の修理工場にXJ400Eという今度はヨーロピアンスタイルのバイクがひっそりと佇んでいた。

こんな程度の良いバイクは売り物じゃないんだろうなぁ・・・
でも、ダメ元で話してみようかと門を叩いた。

『あぁ、あれね? うちの従業員のだけど売りたいらしいよ?』

渡りに船である・・・
早速、金額を尋ねる・・・
しかし・・・

金額がショート・・・

今の持ち合わせでは足りない・・・
でも、欲しいのだ。

そこで、深夜のアルバイトを始めた。
始めたのは電子機器メーカーの半導体の検査である。
作業自体は物を検査器にかけてOKが出ると出荷箱に詰めるだけなのだが、
これが意外と辛いのだ。

・・・退屈との戦い・・・

それで手に入れた給料と持ち合わせの金額合わせて24万で”XJ400E”を手に入れたのだ。


それから14年の歳月が経った。
今度は兄貴分の”1300cc”である。
引渡しを受け、期待を込めてセルスターターボタンを押すと、

・・・そこには、懐かしいヤマハのエキゾーストノートが響いていた・・・

(5年前に売却)
コメント (4)
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三本和彦

2007-05-13 | 自動車全般
ジャーナリストの中にモータージャーナリストというくくりがある。

新型車が出るとインプレッションしたり、自動車を取り巻く環境や、ソフト面やハード面を記事にする人達を指すのだが、日本のモータージャーナリストはややもするとメーカーの外注宣伝部と言われてしまいそうに、内容はメーカー寄りに偏っている。

もし自分の思ったままの感想を書いたら、次回から記事を書くための広報車を借りる事さえ出来なくなってしまうのだ。

インプレッションは暗黙の法則があって”7ホメ、3ケナシ”で、成り立っている。
例えば、10褒めたとするとそのジャーナリストはメーカーと癒着してるのではないかと思われてしまう、3割ほどけなす事によって文章に真実味が湧いてくるのだ。

しかし、論外のジャーナリストも存在するのだ・・・

三本和彦氏
昭和6年生まれ
東京新聞社写真部記者を経てフリーランスのモータージャーナリストに。
TVKテレビ『新車情報』(既に終了)をはじめ、TV、ラジオ、雑誌で活躍。

特に、三角窓、Aピラーの角度、運転席の頭上高に固執する番組は、ご存知の方も多いと思う。
彼の”歯に衣を着せぬ”番組は観ていても痛快で、気に入らない車は9割がた批判されてしまうのだ。
それ故、一時はメーカーから総スカンを食った事もあるという。
しかし、その批判の裏には”日本の自動車及び文化をより良い物にしようとするビジョンがある。

例えば、日本の自動車メーカーは、飛躍的な進歩を遂げ、売れる車を増産してきた。
しかし、”売れる車=良い車”とは限らない。

パッケージング以上に優先されるスタイリング。
つまり、実質よりも見た目勝負であったり・・・

車種グレードを示すエンブレムの価値。
高グレードに乗っているとその所有者までも便乗評価されてしまう風潮・・・
行き過ぎると、メルセデスの”S320”のエンブレムを”S500”に付け替えてしまうなんて事も・・・
本来、車に必要な現実的な選択を理解しようとしない・・・

など、欧米人自動車ジャーナリストに言わせると理解に苦しむのだそうだ。

そこには日本人特有の妙な物に拘る感覚がある。
その、意識を変えることにより日本人は一皮剥けた自動車観を持つ事が出来るのではないだろうか?
ユーザーがシッカリとした価値観を持てばメーカーは自ずとリクエストに答えてくれる。
その辺を、三本氏はしっかりと提唱している。

彼も今年で76歳、三本のおやっさんにはもっといろんな話を聞かせて貰いたいものだ。
コメント (10)
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走り屋

2007-04-26 | 自動車全般
日も暮れるとヘッドライトの明かりで対向車の有無が判るようになる。

路側帯に駐車しハザードを焚く・・・
4点式のシートベルトの端を手前に引きギュッと締める。

アドレナリンが活発化している・・・

最後の車が下りてきて、パッシングで合図を受け取る・・・
クラッチをミートさせ・・・
微妙にスキール音をさせスタート・・・
アウトに膨らみ次の瞬間、イエローラインは飲み込まれるように車の下を左右へ移動する・・・
後続車のヘッドライトがルームミラー越しに一瞬眩しく、プレッシャーをかけ・・・
クリッピングポイントではサイドミラーとガードレールが接近し・・・
アクセルオンでミラーに映るヘッドライトが小さくなった・・・

と、こんなイメージだったでしょう?

週末深夜の峠で繰り広げられていたのを思い出すのである。
車も自主規制で押さえられていたパワーを幾つかのパーツを交換する事によって、性能を取り戻し。
コストダウンで陳腐化した足回りも交換する事により、車は生き生きと本来の姿を取り戻すのである。

走り屋は、はみ出し禁止とスピード違反という道交法違反以外は至って紳士的であったりもする。

しかし、峠は危ない・・・
サーキットが交互通行しているようなものだ。

これだけ魅力的な性能を持った車が世界的に見れば手軽な値段で手に入る日本は幸せであると同時に、その性能を発揮させる道路がなく不幸でもある。

公営の野球場や陸上競技場があるように、公営サーキットがあってもいいのではないだろうか?

自分の限界を知る事も大切なのだから・・・
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ハイマー・トリトンTM

2007-04-21 | 自動車全般
手放して彼此3年になるトレーラーである。

私が幼少のころ、父親が、どこかの旅行先で舶来物のミニカーを買ってきてくれた。
その車は、縦目のベンツワゴンにキャンピングカーを牽引したもので、なかなか手に入らないモデルを私は友達の家に持って行っては自慢していた。

車は廊下を走り、コタツ布団の肩を走り、敷布団と掛布団のトンネルを通過し、しばらく経つと塗装がハゲハゲになり、ドアも落ちた。

完全に使い切った感のあるミニカーだが、それでも私は大事にしていた。

ミニカートレーラーの窓からのぞく室内は、ダイネット、キッチン、シャワールームがあり、自分はバーチャルリアリティーのように入り込み、そこで繰り広げられるキャンプシーンを空想しながら・・・ 
気がつくと幸せな眠りに就いていた・・・

そして大きくなったら、きっと本物を買ってやるんだ! 
と、この頃から意識していたのだろう。

本物が納車されたのは1998年、33歳のときである。
納車されて3日間は家に帰らなかった。
車内にいると時間の経つのを忘れ、ウトウト眠ってしまい、気がつくと明け方なんていつもの事だ。
中でもここで本を読むのが好きで、なぜか集中出来た。

つい、気まぐれで手放してしまったが、あの空間、あの空気は今も思い出す。
コメント (4)
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