円タクとは昭和初期のタクシーの事である。
大正12年の関東大震災をきっかけに、自動車の利便性が注目され、タクシー業界が旗揚げされた。
当時は乗車料金もバラバラでトラブルも多く、市内一律『1円』と料金改定し定着して行ったようだ。
その料金とタクシーを略して『円タク』と呼んだ。
私の祖父は東京で”円タク”を経営していた。
以前は神田で旅館業を営んでいたが、関東大震災で焼失してしまい、その権利を売却し、資金を元手に信濃町でタクシー屋を始めた。
当時としては自動車自体が珍しい時代である。
信濃町はお屋敷街で、顧客にも事欠かない時代だ。
当時の車種はシボレーで起業当初は運転手も多く順調であったようだ。
しかし、車という物は毎年型式が変わる、つまりはニューモデルの登場なのだ。
顧客も型式遅れの車種を嫌い、ニューモデルに乗りたがる。
結果、旧モデルを下取りし、新型を購入することになる。
しかし・・・
当初十数台あった車は、ニューモデルの入れ替えをするたびに、台数が減っていく。
また当時は料金メーターなんて物は無く、運転手の申告する日々の売り上げも信憑性のないものだった。
経営も逼迫してきた、ある冬の朝・・・
祖父は、寒さでエンジンのかからない車を、クランクで始動しようと頑張っていた。
全部のエンジンをかけ終わったときから体の様子がおかしくなり、寝込んでしまった。
元々、体の弱かった祖父はそれから入院し、腎臓の病気も併発し、終戦間際に帰らぬ人となった。
私が幼い頃、祖母からそんな話をよく聞かされた。
祖母は自動車の事は興味無かったようだが、祖母なりの感想を聞かされた。
フォード?!
フォードなんて田舎臭くってお客は乗らないからねぇ、シボレーじゃなきゃねぇ・・・
当時はおばあちゃんも助手で乗って、おじいちゃんに色々連れてって貰ったもんだよ。
そうそう、当時の車はよくシャフトが折れてね~
運転手の所へよく駆けつけたもんだよ。
当時の車は、ときどき、逆ピストンで大きい音がしてねぇ・・・
明治生まれの祖母からそんな言葉が出てくるたびに、私は驚きの表情で話を聞いていた。
祖父は、新し物好きで博学だったと聞かされている。
特に自動車などの機械ものに興味が大きかったようで、自ら経営者となって采配を振るっていた。
しかし、経営とはまた別物だったようだ。
祖父の血を受け継いだ父も、異例の車好きだった。
どうやら、私の車好きは遺伝なのかも知れない・・・
(写真は江戸東京博物館のHPより借用)