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谷やんの ”まなブログ”

最近思う事・自動車全般・ムフフ話・など自分の今思う旬なネタを題材に社会派で迫ります。

助手席

2008-05-13 | 自動車全般

運転席の隣の席・・・

コラムシフトの6人乗車の車や、トラックで無い限り、運転席の隣は1名分の席しか確保されていない。
それは、運輸省の定める道路幅の規定により、車両の全幅が割り出され、最大値2.5mの車両を通行させる規定から、発想された車の前席乗車人数だと思う。
普通車に至っては、昔の5ナンバー枠である1.7mを基準に開発され、その中で車両に対するエンジンの搭載位置の向きにより、計算すると運転席を含め”前席2名”、これが余裕を持って座れる寸法ではないかと思う。

運転席の隣は、助手席と言う・・・

欧米の言葉では・・・
ナビシート、パッセンジャーシートと言われる。
ナビとは道案内、パッセンジャーとは旅客を意味する。

また、会社の社員教育の一環で、乗車席の序列の教育を受けた事もある。
1位は運転席の直線上の後部座席である”右後部席”であり、次に左後部、後部中央、最後に助手席なのだ。

日本では、なぜ助手席と言うのだろうか?!
調べてみた事がある。

それは、大正時代の営業車に由来があるのだと言う。
いわゆる円タクの時代・・・
その昔、オーナードライバーなんて、殆んど皆無であり、通行している車両は殆んどが、旅客であり貨物の営業車だった。
当時は車両の全高も高く、着物姿の女性も多かったため、旅客乗車の際には、お手伝いをする助手の存在が必要であった。

また、助手の存在はそれだけに留まらず、クランク始動のエンジンでは、車の前でクランクを回すのに一人、運転席でアクセルを煽るのに1人必要であった。
また、当時の車は操作するのに特別な技術や、勘所があり、正に運転職人である事が必要視され、道案内は助手の仕事でもあったようだ。

更に初期では、夜間走行の際、助手が車の前を道しるべとして行灯を翳しながら誘導をしたなんて話もある。

その時代から、何の違和感も無く使われてきた、”助手席”と言う言葉。

今では、デートする際の特別席であったりする。

私個人は、助手席に乗るのが好きだ。
広いフロントグラスに移り行く景色を眺めつつ、旅情を楽しむ・・・

これは格別の贅沢だと思う・・・
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虫の痕

2008-04-28 | 自動車全般

季節は移り、葉桜の頃である。

今までの張り詰めた空気から、どこか気の抜けたのんびりした空気を感じるようになる。
春の草木も花を終える頃・・・
そう、今度は虫たちが活動する番だ。
あるものは、虫媒花として、草木の子孫繁栄に力を貸す。
そしてあるものは、草木の葉を食料として、栄養成長をする。

若葉の頃・・・
それは、虫たちのシーズンの到来でもある。

高速道路を走っている・・・
フロントウインドーに虫が衝突し、痕を残すのも、この頃からだ。
この虫の痕がボンネットやラジエターグリル、強いてはフロントウインドーに付着すると通常の洗車では、まず落とすことが出来ない。
最近では、専用の洗剤や粘土などに痕を吸着させ、剥ぎ取るような商品も発売されているようだ。

1960年代頃から、アメリカ西海岸では、ラジエターグリルやボンネット先端部に、ビニール製のカバーを掛け、虫や石の攻撃を避ける、”カーブラジャー”なる商品が発売されている。

その昔、いや今だに高速交通機動隊のパトカーには、フロントに10cmほど高さのあるアクリル製透明パネルのシェードをボンネット中央部に取り付けてある。
70年代のサファリラリーでも使用されたが、本来の目的は、ストーンガードである。
このパーツは、フロントグラスの手前に障害物を設ける事により、風圧に乱気流を起こさせ、グラス自体の風圧を低減させる・・・
その副産物として、虫がフロントグラスを直撃しないと聞いたことがある。

先日、給油しようとスタンドを訪れた時の事だ。

お客さん、よう沢山、虫がこびり付いてますね?!
飛ばしてるでしょう?!

そんな質問をされてしまった。

理由を聞けば・・・

虫がこびり付くその付き方で、走行速度が判るそうなのだ。
一つの区切りが、120km/h
それ以下だと、虫は虫の形をしたまま、張り付いている。
しかし、それ以上の速度では、跡形しか残らないそうだ。

また、草食昆虫は、洗車でも痕を落とすことが可能だが、同じ昆虫を食べる食虫昆虫は、なかなか落ちない・・・
この手の虫は、ボディーに付いたままにしておくと、塗装皮膜さえ犯してしまう。
厄介者なのだ。

このスタンドのお兄さん、、昔から親切にしてくれる。

通称、私と同じ”谷ちゃん”だからかも・・・
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PRELUDE

2008-04-21 | 自動車全般


1963年、仏映画が公開された。
名優、ジャン・ギャバン、そして当時まだ駆け出しだった、アラン・ドロン・・・
犯罪映画の傑作で、ギャングがカジノの掛け金を一気にせしめると言うストーリー

映画:地下室のメロディー
音楽:ミシェル・マーニュ

彼の作り出す”モダン・ジャズ”は、独特の映画のテンポも効果し、往年のアバンギャルドな雰囲気を醸し出していた。

3代目、プレリュードのCMソングである。

初代の”プレリュード”は、不明瞭なコンセプトゆえ、シビックのクーペと思われる中途半端な設定で発売された。
日本のビック2のメーカーが作るクーペとは品格が異なり、小粋な女性が乗るのに相応しい様な雰囲気だったと記憶している。

2代目・・・

実車の走っている姿を始めて見た時の印象は、随分と横にファットな車だなぁ・・・
それが、率直な印象だ。
しかし、先代からの脱コンセプトは成功し、見事なフォルムは、独自な空気感のあるクーペへと進化していた。
この車、若者からは大層な支持を得て、販売台数も伸び、”大人のデートカー”として、助手席に乗る女性の人気度も高かった。
当時流行りだしたサンルーフも似合う車で、陽の光に晒されるコックピットは、周りからの視線を集め、今までに無い垢抜けた雰囲気を醸し出していた。

そして3代目である。

バブル絶頂期に発売された”プレリュード”の売りは、”4WS”
フォーホイールステアリングの略である。
後のアクスルをステアする事により、高速域でのレーンチェンジ、最小回転半径の更なる数値の減少など、当時の技術を遺憾なく発揮し、ホンダはステアリングギアを介して、リアを操舵する。
一度、乗った事があるが、旋回中に外側のサスペンションがボトムすることなくターンをこなしてしまう。
また、高速域では、車が蟹のように横にスライドする・・・
正に異次元のフィーリングだった。

あれから20年、一部のスーパースポーツを除き、リアがステアする車種は消滅した。
モータースポーツの観点からは、邪魔者なステアリングだし、相当のコストがかかった筈だ。
正にバブルの申し子といって良いのだろう・・・

今の若者は、あのリアの”曲がる”感覚を知らない・・・

それが良い事なのか、必要ない事なのかは判らないが・・・

我々は自動車社会において、贅沢な時代を体験できた。

まぁ、昔話をするようになった分、歳を取ったという事か?!
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ベレットGT

2008-04-14 | 自動車全般

1968年9月、1台のいすゞベレット1600GTが横浜港を出向した。

彼の名は小林捷成。

サラリーマンだった彼は、3年前にベレットを購入する。
当時、ユニークでおしゃれな大衆スポーツカーは、垢抜けたデザインによる所もあり、若者から大層な支持を得ていた。

小林氏も、その一人であったのだろう。

しかし異なったのは、ベレットを只の若者の象徴としなかった事だ。

自家用車を海外に持ち出して運行するには、凄く面倒な手続きが必要だ。

輸入承認証、インボイス、パーツリスト、カルネナンバー、国際免許、グリーンカードなど・・・

そのほか、旅費として約300万・・・
資金繰りには、かなり苦労されたと思う。

9月11日、いよいよ出航だ。

ハワイを経てサンフランシスコに到着。

それから、メキシコ、中南米諸国・・・

そこで強盗に遭い、アメリカで一年間資金稼ぎのため、庭師のアルバイトをする。

その後、カナダ~ヨーロッパ東欧諸国~北アフリカ

モロッコでは、トラックに追突され後部ボディー破損・・・

トルコの国境付近では麻薬密売人の容疑で誤認逮捕されたり・・・

楽しい中にも、試練の連続であったようだ。


私も、大学時代に1台のオートバイで日本を一周した。

当時、出来た言葉で”ミツバチ族”なる言葉があるが、テントやシュラフ、自炊道具をオートバイに括り付け、野営しながらツーリングをしたのだった。

車両故障、単独事故などに遭遇しながらも、人の優しさに触れ、大いなる自分の時間を楽しんだものだ。

中には、信号で止まった見知らぬオートバイ乗りに声を掛けられ、その日に泊めてもらってご馳走して頂いたり・・・

フェリーで一緒になった同じくツーリングしている男性宅にお世話になったり・・・
しかし、この方”オカマ”だったため、早々に脱出したり・・・

今考えれば、無謀でありながら、ギリギリのところで、旅の醍醐味を楽しんでいた。

私の中にある、永遠に消し去ることの出来ない、旅人としての感性、野望はこの歳になっても消える事が無い・・・

この本を読んで、昔を思い出すと共に、また沸々と旅への執着が湧いてくる・・・

ベレットGTで世界を駆けた、小林捷成・・・

昭和43年の世界は、今ほど便利ではなかったはずだ。

彼の行動力には脱帽する・・・

そして、自分の中に眠っていた、旅への執着・・・

この本は、そんな事を思い出させてくれた。

私は、決して諦めない・・・

何時か旅立つ日を願って・・・・
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トラック野郎

2008-03-20 | 自動車全般

あれは冬だったのだろうか・・・

小学生だった私は、隣町の自転車仲間と校庭で遊んでいた。
そろそろ帰ろうかと思った頃には、辺りは薄暗くなっていた。

学校の西門に面した道路の向かいには、100台ほど置ける駐車場になっており、それは2メーターもあるブロック塀に囲まれていた。
その敷地は、昔、醤油の醸造蔵があったところだ・・・

手前にある道路は一方通行だが、幅員が広く、路側帯にはトラックが休憩に駐車できる程であった。

薄暗い西門を出て駄菓子屋に向かおうと走り出すと、いつものようにトラックが駐車していた。

しかし、様子が違うぞ・・・

荷台のパネルには浮世絵が描かれており、やたらとゴツいバンパーを付けている。

その脇を、自転車で走りぬけようと思った、正にその瞬間・・・

荷台の浮世絵は、ギラギラ輝く夜のネオン街のように、明るく流れるような電飾の点滅を、呆気にとられて見入ってしまった。

友人は、このトラックの類に詳しいようで、何やら隣で一生懸命、私に説明していたが・・・
私は、真夏の花火を見ているような錯覚に陥り、しばし呆然と眺めていた。

綺麗だなぁ~

友人は、運転手に向かって、”ホーン鳴らせ!?”と、叫んでいた。
トラック野郎は、その言葉に応え、”ウオォ~ン!!”と、まるで電車の汽笛のような音を棚引かせ、走り去っていった・・・

私のデコレーショントラックとの初めての出逢いである。

それから、事あるごとに、その手のトラックには興味を惹かれていった。
菅原文太、愛川欽也主演の、映画”トラック野郎”が上映されにはその頃だったと思う。

日本における、自動車文化とは、西洋の模倣であり、”かぶれ”であったりするのだが、唯一日本の文化を持ち込み、それを昇華させたのはこのトラック業界ではなかろうか?!

昔、出会った外国人旅行者は、この、デコレーショントラックをしきりに、フィルムに納めていた。

この文化、唯一輸出できる自動車文化なのかもしれない・・・
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