広島DE日記

広島での日常をあれこれと。

『どぶろぐ同期会・桃組』8月のれんらく帳

2005-08-31 18:48:31 | どぶろぐ同期会
『どぶろぐ同期会・桃組』のみなさま

暑い日が続きますが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。
今月から『どぶろぐ同期会・桃組』のれんらく帳を作ってみました。
会員のみなさま、なんでもいいですからコメントをいただければ幸いです。
もちろん会員ぢゃーない皆さまからのコメントも大歓迎です。

みなさん夏休みの予定はいかがですか?(もう取ってたりして・・)
私は8/12から16までお休みをいただく予定です。
(会社はカレンダー通りなもんで)



大叔父のことを調べる(浜田編その2)

2005-08-30 19:51:28 | 家族のこと
「我こそは強豪連隊二十一」


連隊跡記念碑の左隣に、細長い石碑が建っています。
書いてある文字を読んでみると・・

この地はかつて全国にその剛勇を謳われた浜田連隊の
ありしところ
ここに佇めばそのかみの人馬のひしめきつわもの共の
雄叫びが彷彿として甦る
一基の碑 後人をして往時を追慕よく剛健の気風を振起
させるであろう


日中戦争以前は、出身地(本籍地)で入営する連隊が決まっていましたから、
自然と「郷土連隊」的な雰囲気があったそうです。
浜田21連隊は、島根県斐伊川以西の出雲市や石見地方から召集されました。
今回の衆議院選挙でいえば、島根2区がちょうどその地域とほぼ一致するかと思われます。

ちなみに最強の師団といえば、久留米を筆頭に仙台、熊本、広島そして栃木を言われていました。
その中で浜田連隊も屈強だったということを、子供のときに聞いたことがあります。

なぜ浜田連隊が強かったのだろうか??という答えのひとつをみつけました。
島根の平野の少ない石見地方は、特にその「狭い風土」から、すばやい反応で
あらゆる事態に瞬間的に反応できて、また独立自尊や山の多い地方ならではの、
頑強な性格もあったそうで、そのため、
「俊敏で、しかも粘り強く弱点もない、中国地方山岳兵」との評価があったそうです。

なるほど、そういえば私もすばしっこくて体だけは丈夫です。
ただ、平野の多い地域の「広い風土」と違い、人間のスケールは小さいということなので、
なんだかその評価も該当しますね(笑)




3つある雨覆練兵場(あめおおいれんぺいじょう)のなかのひとつです。
この練兵場は明治31年の建設です。

雨覆練兵場とは、連隊の屋内訓練施設のことで、煉瓦造りとなっています。
広い間口と柱の無い広い空間を必要とする練兵場は、木造では様々な制約を受けるため、当時の最新西洋建築技術を取り入れて、煉瓦造りと鉄骨小屋組を用い建築されています。
こうした工法の建築物は国内でも初期のものであり、近代建築史上貴重なものだとのことです。

この写真の練兵場は、現在浜田一中の屋内練習場に使われており、外からは鉄棒が見えました。
浜田高校の練兵場も、第二体育館や倉庫として、まだまだ現役として活躍しています。

こういった古い建築物が、生活の一部になっているとは驚きですね。



浜田護国神社にある木口小平の銅像です。
木口小平は岡山県川上郡成羽町の出身です。

日清戦争に、進んでラッパ手を志願して従軍。
木口がラッパを吹くと必ず勝つというジンクスまでありました。

明治27年7月29日、朝鮮成歓の戦闘で突撃ラッパを吹いているときに敵弾を受けて倒れます。
ラッパが突然止んだため、隊長が「木口、ラッパはどうした?」と問いかけると、
木口は銃を杖にして立ち上がり、ラッパを吹き続けたということです。

部隊は突撃を続け敵地を占領しましたが、木口の姿はなく、不審に思った隊長が引き返すと、
ラッパを口に当てたまま木口は死んでいました。
喉には銃弾が貫通した跡があり、木口は銃弾に喉を貫かれながらも、ラッパを吹き続け戦死したのであったとのことです。
木口小平二等卒享年23歳。

この話はたぶん・・いや絶対に作られたものだと思っていますが。。
また、ラッパを吹いて倒れたのは、同郷のラッパ手「白神源次郎」で、木口はそのラッパを取り上げて吹いたに過ぎないという説もあります。
両者とも戦死しているので、真相は判りませんが、この話のお陰で木口小平は「軍神」として崇められ、国定修身教科書にも登場します。

「木口小平は死んでもラッパを口からはなしませんでした」

この浜田の地に縁もゆかりもない岡山出身の木口小平の銅像があるのも不思議なものですが、
歩兵21連隊の誇りとして、この地に立つことになったのでしょうね。
村田銃を杖に立ち、ラッパを吹く木口小平像は、それはそれは勇ましい姿でした。

ちなみに「正露丸」のラッパのマークは、木口小平の逸話からつけられたそうです。
当時は「忠勇征露丸」という名で、明治35年に発売されています。
木口のラッパを頼りに露西亜を征伐したいとの思いからでしょうか。
当時の時代背景がうかがわれますね。



大叔父のことを調べる(浜田編その1)

2005-08-29 19:55:06 | 家族のこと
「連隊の跡地を学生駆けりたり」

浜田の友人宅を訪問した折に、「浜田連隊」の跡地を訪ねてみました。
正式には「歩兵第21連隊」で「広島第5師団」の所属となります。

浜田連隊の跡地は、現在では、浜田高校と浜田一中が建っており、
両校の校庭を含めると、その広さは広大なものです。

大叔父は、昭和11年1月に、ここに入営しています。
益田の自宅から、石見横田駅もしくは飯浦駅まで徒歩で歩き、
どちらかの駅からは汽車で浜田に到着したものと思われます。
このときの大叔父は20歳。ようやく成人となった若者です。
この広い連隊敷地内で一生懸命に教練を重ねたのでしょうね。

浜田連隊の跡地の営門付近には、歩哨舎(門番用BOX)が2つ並んでいます。
そして連隊跡記念碑等が建立されています。
この他にも敷地内に、雨覆練兵場(あめおおいれんぺいじょう)が3棟残っているみたいです。



連隊跡記念碑のすぐそばに、歩兵第21連隊の歴史が刻んでありました。
明治19年に、もともとは広島で創設され、日清・日露の戦役を経て、
その後、師団増設により明治31年7月に、この浜田の地に転営しました。

この第21連隊は、日清戦争では朝鮮の仁川から上陸し、熾烈な戦いを展開しています。
明治27年7月の成歓の戦闘では、戦前では有名な「木口小平」ラッパ卒が戦死しています。

その後、日露戦争を経て、大叔父が動員された日中戦争に参戦。
太平洋戦争では南下して、終戦はセラム島で迎えています。
終戦時には何名の将兵が生き残ったのでしょうか。

石碑の中ほどに、大叔父が戦死した年の記録がありました。
 昭和12年8月 長城戦付近の戦闘
 同月 大原作戦

大叔父の墓碑にも「長城線」という文字が刻んでいます。
どんな気持ちで「万里の長城」を眺めたのでしょうね。



大叔父のことを調べる

2005-08-28 18:10:24 | 家族のこと
「立派なる大叔父の墓の意味を知る」

私の実家は別に大きな家でも豊かでもなかったのですが、
墓所にはひときわ目立つ大きな墓がありました。
子供の頃は、「戦争で死んだじいちゃんの弟の墓」としか
知りませんでしたが、そのほか多数のご先祖さまの墓に比べ、
全然立派なのには、子供心に不思議に思っていました。

この5月に実家に帰省したときに、大叔父の墓石の四面のうち
二面に刻んでいる記録を書き写しました。
そこに刻まれている文字は・・

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故陸軍歩兵軍曹 勲七等功六級 ○○○○

昭和11年1月10日、現役兵として歩兵第21連隊に入営。
5月10日、上等兵候補を命ぜられ、下士候補に採用。
7月10日、1等兵に進級。

12月1日、第10期学生として熊本陸軍教導学校に入校。
12月1日上等兵、同日伍長勤務に進み、支那事変起こるや動員下命。
昭和12年7月29日、教導学校より帰隊。

栗飯原部隊、石上隊に編入。
第2小隊、擲弾筒4分隊長として、北支に向かい浜田を出発。
8月13日より、長城付近の戦闘に参加。各地にて激戦。
長城線、平型関口の戦闘の際、決死隊員に加わる。
10月1日付を以って歩兵伍長に進級。

昭和12年10月18日、山西省、下王庄付近の戦闘に於いて、
頭部貫通銃創を受け、遂に戦死す。
同年12月23日、遺骨凱旋。
同26日、村葬を以って此の地に埋葬す。
功に依り、勲七等功六級に叙せられ、金鵄勲章並びに青色桐葉章を受け賜う。

(注:文章は読みやすいように口語体に直し、句読点を追加しました。)

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と、大叔父の戦争の記録が記されていました。
昭和11年に入隊し、約2年の軍隊生活。
若干22歳での戦死です。
子供の頃は、何が書いてあるのか分かりませんでしたが、
今こう改めて読んでも、意味の分からないことが多すぎます。

「勲七等功六級」とは何か?
そういえば勲章があったな・・という程度。

「浜田21連隊」はどこにあったのか?
「教導学校」とは何か?
「山西省の下王庄」とは現在はどこなのか?

実家には過去帳以外に、ご先祖さまの記録はほとんどありません。
その中でもこんなに記録があるのは大叔父だけです。
実家の両親や祖母も高齢化し、昔の記憶もあいまいになってきました。
それが風化してしまわないうちに、大叔父の記録を改めて調べなおし、
ここに残しておきたいと思います。



ふるさとの風景

2005-08-27 12:37:39 | TB
「ふるさとの変わらぬ風景川と駅」

natsuko-zaruさんの[夏の思い出]のBlogにTB


natsuko-zaruさんのお父様がなんと私と同じ益田市出身で、
おまけにけっこう近い・・
ということなので、今回実家に帰省した折に、
natsuko-zaruさんの思い出とともに、
お父様のふるさとの街を訪れてみました。

natsuko-zaruさんが、「ビーチサンダルを川に流して、べそをかいた」と思われる高津川。
この写真は「向横田大橋」から益田方面の下流を写しました。
この橋はよく通っていましたが、橋から眺める風景は昔と全然変わっていませんね。

米粒のように小さく写っていますが、鮎釣りをしている人も散見されました。
natsuko-zaruさんのおじいさんも、こうやって鮎釣りをしていたのでしょうね。
また、ごつごつしてはいますが川原もあります。
natsuko-zaruさんがビーチサンダルを流して泣いている様子が目に浮かぶようです。


natsuko-zaruさんのおじいさんとおばあさんが手をふりつづけたと思われる近所の「石見横田駅」。
この駅も全然変わってないですね。
私は高校のときは津和野に下宿していましたが、下宿先の行き帰りはこの駅を使っていました。
この駅を久しぶりに見たときは、「あーなつかしいなー」と思わず声が出ました。

そこに住む人は移り変わっても、こんなふうにふるさとの風景が変わらないというのは嬉しいものですね。