「我こそは強豪連隊二十一」連隊跡記念碑の左隣に、細長い石碑が建っています。
書いてある文字を読んでみると・・
この地はかつて全国にその剛勇を謳われた浜田連隊の
ありしところ
ここに佇めばそのかみの人馬のひしめきつわもの共の
雄叫びが彷彿として甦る
一基の碑 後人をして往時を追慕よく剛健の気風を振起
させるであろう日中戦争以前は、出身地(本籍地)で入営する連隊が決まっていましたから、
自然と「郷土連隊」的な雰囲気があったそうです。
浜田21連隊は、島根県斐伊川以西の出雲市や石見地方から召集されました。
今回の衆議院選挙でいえば、島根2区がちょうどその地域とほぼ一致するかと思われます。
ちなみに最強の師団といえば、久留米を筆頭に仙台、熊本、広島そして栃木を言われていました。
その中で浜田連隊も屈強だったということを、子供のときに聞いたことがあります。
なぜ浜田連隊が強かったのだろうか??という答えのひとつをみつけました。
島根の平野の少ない石見地方は、特にその「狭い風土」から、すばやい反応で
あらゆる事態に瞬間的に反応できて、また独立自尊や山の多い地方ならではの、
頑強な性格もあったそうで、そのため、
「俊敏で、しかも粘り強く弱点もない、中国地方山岳兵」との評価があったそうです。
なるほど、そういえば私もすばしっこくて体だけは丈夫です。
ただ、平野の多い地域の「広い風土」と違い、人間のスケールは小さいということなので、
なんだかその評価も該当しますね(笑)
3つある雨覆練兵場(あめおおいれんぺいじょう)のなかのひとつです。
この練兵場は明治31年の建設です。
雨覆練兵場とは、連隊の屋内訓練施設のことで、煉瓦造りとなっています。
広い間口と柱の無い広い空間を必要とする練兵場は、木造では様々な制約を受けるため、当時の最新西洋建築技術を取り入れて、煉瓦造りと鉄骨小屋組を用い建築されています。
こうした工法の建築物は国内でも初期のものであり、近代建築史上貴重なものだとのことです。
この写真の練兵場は、現在浜田一中の屋内練習場に使われており、外からは鉄棒が見えました。
浜田高校の練兵場も、第二体育館や倉庫として、まだまだ現役として活躍しています。
こういった古い建築物が、生活の一部になっているとは驚きですね。
浜田護国神社にある木口小平の銅像です。
木口小平は岡山県川上郡成羽町の出身です。
日清戦争に、進んでラッパ手を志願して従軍。
木口がラッパを吹くと必ず勝つというジンクスまでありました。
明治27年7月29日、朝鮮成歓の戦闘で突撃ラッパを吹いているときに敵弾を受けて倒れます。
ラッパが突然止んだため、隊長が「木口、ラッパはどうした?」と問いかけると、
木口は銃を杖にして立ち上がり、ラッパを吹き続けたということです。
部隊は突撃を続け敵地を占領しましたが、木口の姿はなく、不審に思った隊長が引き返すと、
ラッパを口に当てたまま木口は死んでいました。
喉には銃弾が貫通した跡があり、木口は銃弾に喉を貫かれながらも、ラッパを吹き続け戦死したのであったとのことです。
木口小平二等卒享年23歳。
この話はたぶん・・いや絶対に作られたものだと思っていますが。。
また、ラッパを吹いて倒れたのは、同郷のラッパ手「白神源次郎」で、木口はそのラッパを取り上げて吹いたに過ぎないという説もあります。
両者とも戦死しているので、真相は判りませんが、この話のお陰で木口小平は「軍神」として崇められ、国定修身教科書にも登場します。
「木口小平は死んでもラッパを口からはなしませんでした」
この浜田の地に縁もゆかりもない岡山出身の木口小平の銅像があるのも不思議なものですが、
歩兵21連隊の誇りとして、この地に立つことになったのでしょうね。
村田銃を杖に立ち、ラッパを吹く木口小平像は、それはそれは勇ましい姿でした。
ちなみに「正露丸」のラッパのマークは、木口小平の逸話からつけられたそうです。
当時は「忠勇征露丸」という名で、明治35年に発売されています。
木口のラッパを頼りに露西亜を征伐したいとの思いからでしょうか。
当時の時代背景がうかがわれますね。