膵臓がんとお母さん。ちょこっと私たち。そしてその後。

2011年10月母の膵臓がんが判明。お母さん、がんばる。私たちもがんばる。笑顔で過ごす闘病日記。

16日

2012-03-24 19:54:28 | 覚えておきたいと思うこと。

 

16日、深夜は、ずっとお母さん、意識が無く眠っているようだった。

ちょっとずつお母さんから機械に送られている数字が少なくなっていって

最後、数回、苦しそうに息をしてぴたっと静かになった。

 

主治医の先生が自宅から飛んできて、亡くなったことを告げる。

「・・・力及ばず・・・」

けっこう遅い時間まで病院にお母さんのためにいてくれて、1度家に帰り

また飛んできてくれた。

担当の患者さんが亡くなった時は必ずこうしてくれるそうだ。

 

嬉しいな、と思うしすごいと思う。

 

お父さんとおじちゃんが準備のため家に向かった。

 

お母さんが亡くなるとき、下顎呼吸?って言うのかな?アゴを引いたような形で

呼吸していたから口が開いちゃってた。

 

看護婦さんに聞いたら、タオルを丸めて

『〇〇さん苦しいかもしれないけどごめんね~。』

とお母さんに話しかけながら口が閉まるように押さえてくれた。

 

看護婦さんに替わって私が押さえる。

 

 

そして、また、いつものように私とお母さんの2人きり。

 

静かな病室。

 

 4時を過ぎていた。

 

『お母さん』

 

と何度か呼んでみた。

 

『お母さん、また会おうね』

 

私とお母さんは親子で生まれるくらいだからきっと縁が強いんだろう。

次の世でまた覚えていてめぐり合えますように。

 

やっと、誰も お母さんも いないから

私はちょっとだけ泣いても良いのかな

と思った。

 

 

 

 

 


『安心してね』『大丈夫だよ』

2012-03-24 19:44:38 | 覚えておきたいと思うこと。

 

『安心してね』『大丈夫だよ』

この2つの言葉を、お母さんの意識があまり無くなってから

何度、使っただろう。

 

ある朝、看護婦さんが来て、

『今日はどこか痛かったり苦しかったりしませんか??』

とお母さんに聞くと

『・・・痛くないけど・・・不安です。』

と言ったから。

 

いつも強く、笑顔のお母さんに不安な心があって。

きっとあったんだろうけど、わからないようにしてくれていて。

でも朦朧とした意識の中でつい口から出たんだろう。

 

お水はどこ?

タオルはある?

兵隊が夜になると攻めて来て・・・。

暗いのが怖いから・・・。

 

夢なのか、目覚めているのかわからなかったけど、

『大丈夫だよ』や『安心してね』と声を掛けると

ちょっと目を開いて私を見て、うなずいて、安心した表情で目を閉じる。

 

どの位、効き目があったのかわからないけど、

この2つの言葉は今の私にとって特別な感じがしている。

 

 


15日~16日

2012-03-20 19:55:09 | 覚えておきたいと思うこと。

 

お父さんが駆けつけた。

東京に戻ったばかりのお母さんの弟も戻ってきた。

おばあちゃんはもう疲れて動けないから来れない。

 

お母さんは小さな氷を食べている。

ちょっとずつ。

空気のような言葉で

コオリ

と言う。

 

辛そうに、空気のような声で何か言っている。

口元に耳を近づけて何度も聞きなおすと

『お葬式・・・〇〇院・・・』と言っている。

 

お母さんは膵臓がんの告知を受けた日にその足でお気に入りのお寺の住職に会いに行った。

自分のお通夜とお葬式をここでしたいとお願いしに。

お通夜で孫や近所の人に死顔を見られたくないから、家に帰るのではなく

お寺においてほしいとの事だった。

 

お母さんの意識が無くなってから、父が病室で

「お葬式をお母さんは身内だけでと話していたけど、自分の立場上、

今後の近所とのお付き合いも考えて知らせないわけにはいかない。自宅でやりたい。」

と言っていたのをやはり聞いていたのだろう。

 

(自分の最後を自分できちんと決めた人の意見を、自分の今後の心配して勝手に変更する気??)

その話し、納得できず、そうはさせないと思っていたのでその時父に返事はしていなかった。

 

「お母さん、お葬式もお通夜も〇〇院(お寺の名前)でね。身内だけでやるから安心してね。」

というと2度お母さんがうなずいた。

続いて

『・・・おばあちゃん』

これは、お母さんが面倒を見ていた認知症の父の母なのか。今は父がみているが性格が合わず

激しく罵り合っているから心配なのか。

それとも、残していってしまう実母のことなのか。

正直今もわからない。でも。

「おばあちゃんね、私もがんばってお世話させていただくから大丈夫だよ。」

どちらもと言う意味で。

 

またお母さんは数回深くうなずく。

 

これが久しぶりで最後のお母さんとの意思のある会話だった。

 


聞こえていたとしたら・・・

2012-03-20 19:43:12 | 初ブログ。までのこと。

15日の昼間、お父さんが来た時に、

私は土曜日泊まるのを変わってほしいと話をしてしまった。

12日から泊り込みで、土曜日までで5泊。仕事もずっと休んでいたし家の事も気になりだしていた。

週末なら甥っ子も学校ないし、おばあちゃんもステイでいない。だから1泊代わってもらおうと思った。

お父さんは1泊位泊まらなくても看護婦さんに頼んであるから大丈夫と言うけれど、

実際泊まってみれば夜中は看護婦さんも少なく、個室の見回りなど頼んだ後でもほとんど来ていない。

3時間に1度くらいではお母さんが苦しい時に、間に合わない。ナースコールももう押せない。

 

お父さんが泊まってくれないなら、ずっと泊まり続けるつもりではいたけど

正直、眠れなくてちょっと疲れていた。

 

でも、その話し、お母さんに聞こえていたのかもしれない。

私より辛い人に、疲れちゃったなんて話を聞かせてしまったのかもしれない。

 

それで16日に逝ってしまったんだとしたら。

 

私はひどい。

 

 


15日

2012-03-20 19:13:16 | 日記

貼る痛み止めが強いものになったせいか、

お母さんは朝からずっと眠っている。

喉が渇いたとも言わない。

 

18日に来るはずだったお母さんのお母さんが東京からお見舞いに来てくれた。

静かに手を握り声を掛けている。

お母さんが握り返したわよとおばあちゃん教えてくれる。

帰り際にお母さんが何度もおばあちゃんに「ありがとう」と言っていた。

 

来てくれてありがとう?

いままでありがとう?

 

お母さんはまたすぐ眠ってしまった。

 

 

夕方には私の妹と甥っ子が来た。

お母さんは来たことにも気付かず眠っていた。

 

これは、この日の朝からだったんだけど、点滴の調子がよくなかったらしい。

栄養状態が良くないから点滴をいままでよりいっぱいしたいんだけど入らない。

 

5時ごろ先生と看護婦さんが来て、点滴を足の付け根から入れる措置をするということで

一時部屋を出た。

ずっと楽そうに上を向いて眠っていた日だったから動かすのはかわいそうだなって思った。

 

ナースセンターの前で待っていたけど、いつになっても呼ばれない。

看護婦さんがお母さんの病室から慌ただしく出入りしているように見える。

 

妹達は時間が遅いので帰るために荷物をとってもらおうと頼みにいくと

帰らないで待っててと言われた。

 

急変した。

 

先生が身内にすぐ電話をしたほうが良いという。

 

昼間は痛みも無く楽そうだったのに・・・と思ったけど

今考えればのどの渇きや痛みを感じるような感覚ももうなかったのかもしれない。

措置のために動かすのも、ちょっとの血が流れるのも、今のお母さんにはもう耐えられない状態だった。

 

足の付け根に点滴も入らず元の位置の戻されていた。

 

甥っ子が泣きながら岡阿南の手を握り、大きな声で死なないで と何度も言っている。

お母さん、妹にはがんばりなさいと繰り返す。

 

そして私には・・・

 

『・・・・ハンバーグ』

 

えぇ!!!ハンバーグ??

お母さん、最後に食べたいものがハンバーグなの?

『お母さん、ハンバーグが食べたいの??』

と聞いてみると、首を振る。

『〇〇(甥っ子の名前)に・・・』

 

お母さんが眠っていると思っていた夕方、確かに甥っ子がお腹がすいたーって言っていた。

 

聞こえてるんだ。

『ハンバーグ食べさせるから大丈夫だよ。』

お母さんうなずいて、話すのをやめた。


12日から

2012-03-20 18:51:14 | 覚えておきたいと思うこと。

 

12日から毎日病院にいた。

 

そこからお母さんと会話らしい会話は無かったような気がします。

夜はお水や濡れタオルやリップ、うがい。そんな繰り返しでお母さんが落ち着くまで手や顔、

痛がる胸の下あたりをさすったりしていた。

落ち着いて寝息を立て始めると一緒にちょっと眠る。

何か探している物音で目が覚めてお水を飲ませて・・・の繰り返し。

意識があるときは、(それでも意識があるかないかわからないくらい朦朧としているんだけど)

『苦しい』

『痛い』

『切ない』

『不安』

『夜が怖い』

とかすかな声で言う。辛い言葉が並ぶ。

 

でも、寝ていると

『〇〇ちゃん、(私の名前)これでいいと思う??』

「・・?良いと思うよ?」

『〇〇ちゃんが良いって言うならこれでいっか!』

とかすごく元気に明るく言う。

病気が悪くなる前のお母さんのしゃべり方。

海の中から空を見て青の美しさを語ったりもしている。

夢を見ていたのかな?

 

目覚めると苦しみと痛みで言葉を失い、夢の中ではいつものお母さんで大きな声も出る。

 

 

毎日、安心するのか比較的明るいうちは眠っていて、夕方辺りから痛みが出て

夜、寝たり起きたりしている。

 

私は夜、少しずつ眠って、明け方起きて、お母さんが落ち着いたらコーヒーを飲んだり。

10時頃にはお店のスタッフが病院に来てくれて仕事の報告、打ち合わせ。

その1時間後に父が来るので3時間ほど足りないものを買ったり、自宅にかえって洗濯したり

お風呂に入ったりして夕方お母さんの部屋に帰っていた。


亡くなるまでの事。

2012-03-19 19:29:15 | 日記

 

お母さんが16日に亡くなりました。

今日は19日。

今日はあまり泣いていません。

このブログも書いたら またいろいろ思い出して泣くのかな??

と思っていたけど今のところ大丈夫みたい。

 

3月7日

個室に自主的に移り、食事を断わった。

それからしばらくはお母さんのお母さんやお友達、私の彼や友達に

短い時間だけど会ったりしていた。

 

3月12日

夜、お見舞いに行くと主治医のM先生が飛んできた。

『娘さんが来ていると聞いたので・・・』

血液検査の結果を見せてくれて話をしてくれた。

肝臓の数値と栄養状態が一気に悪化した。

今までもそこいらの数値はハイだったりロウだったりしていたけれど

倍 悪い方へ数字が行っている。

突然。

そう、よくお母さんもガクッと急にくるのよね、って言ってた。

 

先生が

『もう、本当の末期で・・・』

と話していると、

意識のほとんどなかったお母さんが

『じゃぁ、〇〇ちゃん泊まって』

と言った。

 

個室になってから毎夜、お母さんのところにお見舞いに行っていた。

内臓からくる熱のせいで喉がすごく渇くから、冷たいお水を手の届く範囲に用意したり

タオルをぬらしたり。寝る前の準備をしていた。

何度も泊まろうか?と言ってみたけど泊まらせてくれなかった。

 

私 『お母さん、この部屋きれいだし、わたし泊まりに来てもいいかな?』

お母さん 『疲れちゃうわよ・・・』

私 『わたしは大丈夫だよ』

お母さん 『・・・私が』

私 『(笑) じゃぁ、帰りますよ』

 

なんて事をよく言っていて。

 

そのお母さんが『泊まって』って言う。

 

簡易ベットを借りて急遽泊まることになる。

 

夜中に水を少しずつだけど何度も飲む。

 

手も上がらず、目も開かないから水をテーブルから落としたり、用意しておいたペットボトルが

力が足りなくてあかなかったりしている。

 

痛ければナースコールはするけど物が落ちても不自由でも看護婦さんは呼ばず、

いつもじっと私が来るのを夜、待っていたんだと思う。

迷惑を掛けたくないから大丈夫なフリをしていただけだった。

もっと強引にいろいろしてしまえばよかった。

 

この日から、連日泊り込む。


個室にお引越し。

2012-03-08 18:52:56 | 日記

 

昨日はじめて、個室にお見舞いに行った。

大きくて、キレイで無駄のない部屋。

 

病院から言われて個室に入ったのかと思ったら

自主的に移動したみたい。

 

「まぁ、忙しいのに・・・」

夢うつつな感じのお母さん。

話すけど、しっかり話せない。

気が付くと目を閉じている。

寝てるのかな??

と思うとまた一言、二言ため息のような話し方で話す。

 

熱が続いている。

38度とか37.5度とか。

体が弱ってなんか感染しちゃって熱がでてるのかと思ったけど

どうも癌から来る熱らしい。

お腹も熱い。

 

お母さん、昨日から食事を断った。

 

看護士さんも困っていた。

「もう、ずっと食べれてないし。誰か差し入れしてくれるから・・・。」

「フルーツだけとかごはんだけとか?」

「食べれそうなものが毎日代わるしわからないから・・・」

 

やっぱり断ることになった。

 

「じゃぁ、お母さん、なんか買ってきておこうか??」と聞くと

 

『ネーブルオレンジと飲むヨーグルトと柔らかいレーズンパン。ちょっとずつでいいのよ・・・』

 

早速買い物に行く。

 

昨晩はネーブルオレンジを約2房。ゆっくり食べる。顔も手もあまりベットから

離れない。

 

「眠くなったからまたね。」

 

消灯前に解散した。

 

「またね。」

 

「またね」

 

と この所、よく飼える時に繰り返す。

 

「またね」

 

はまた会おうね。

 

大事大事!

 

 

 

 

 


ころころ・ころころ・・・

2012-03-07 13:22:03 | 膵臓がんのこと。

 

昨日はお休みだったので、病院にいった。

お母さんは一昨日熱を出した。

すごく雨の強かった日。

その熱が少し下がったけど続いている。

 

私に気付くまで左を向いたまま眉間にシワを寄せて目をつぶっていた。

とても苦しそうに見える。

でも、私に気が付くと、ちょっとしゃべってくれようとしてくれる。

お母さん 『そのセーター・・・』

私は前にお母さんがキレイな色ねと褒めてくれたブルーの春物セーターを着ていた。

私 『今日は外がとても暖かいから着てきたんだよ』

お母さん 『そのセーターはそんなに高くなかったのよ』

私 『・・・?』

お母さん 『何色?』

私 『群青色が明るくなったようなブルーだね』

お母さん 『・・・。』

 

 

ちょこちょこ話していることがおかしい。

はじめて。

 

 

昨日は肺と目の検査を午後予定していたけど

移動できずに病室でしてもらった。

車椅子にも乗れなくてお手洗いに連れて行ってあげる事も出来なかった。

 

『うちのことも仕事のこともあるんだからもう帰りなさい。

私はこんな感じだし相手もして上げられないし

横になっていれば大丈夫だから。』

 

お母さんはずっとお母さん。

 

何時間でもみていたいけど、話しているのも負担になる。

人がいると気を使う。

お母さんの性格上、人の世話になるのもホントはイヤなんだろうね。

孤高の侍みたいな人だもの。

 

 

さっき、父から連絡が入った。

 

今日から個室に入った。

 

病気がわかってからも人の生き方として、美しく自分らしく強く。

私にすばらしいものを与えてくれるお母さん。

 

私もずっと笑顔で会い続けよう。

 


循環。

2012-03-05 18:21:28 | 初ブログ。までのこと。

好きなおかずとか

「まぁ、美味しそうね~」

と興味は示すんだけど

食べられても、食べた後すごく

お腹が張って痛くなるから

食べない。

 

漢方とか飲み薬とかもお水飲んでも苦しくなるから

上手く飲めない。

 

誰か会いたい人が来てくれて

いっぱい話せて楽しんだけど

そのあと、ガクっと具合が悪くなって

話していた時間の倍以上起き上がれない。

 

ちょっと悪循環。

 

何とかがんばるぞと思っているんだけど

出来ないことがいろいろでてきてむずかしい。

 

なるべく傍で、出来る事を探したいんだけど長くいると

負担を掛けちゃうしなぁ。

 

ここ数日、行ける日はお昼を一緒に食べて(お母さんはほとんど食べれない)

消灯時間前にも行ってお手洗いと歯磨き、出来る時は洗顔に行くお手伝いをしてる。

 

まったく起き上がれなくて、車椅子に乗ってもまっすぐはあまり出来ていない。

お部屋に帰ってくるとすぐ横になってる。

 

横になれば、「あぁ~スッキリした」なんていってるんだけど。

 

誰もいない時は歯磨きもお手洗いも全部ベットの傍、カーテンの仕切りの中でしか

出来ないんですって。まぁ、落ち着かないから便秘にもなっちゃってて。

 

それはレディーですもの、スッキリしないわね。

 

今、足湯と水のいらないシャンプーをしようかと、毎日、バケツにタオルを入れて

病室に行っています(笑)

 

体調の落ち着いた日がなくて、毎日持っていく→持って帰るの繰り返しですが。

タイミングを見つけていつか!!

 

 


「なんか、もったいないよね。」

2012-03-05 18:08:44 | 初ブログ。までのこと。

 

 

お店で一緒にずっと働いてくれているNちゃんを連れて、夜 お見舞いに行った。

お花をあげてちょっとだけ話をして解散。

 

次の日、Nちゃんがすごく不思議がっていた。

Nちゃん、お母さんに会う前はちょっと怖かったらしい。

末期癌の人のイメージがあるでしょう?

つらそうな表情で、ほほがこけて、黒っぽい肌だったり。

そういうの想像していたみたいで。

 

お母さんにはそれがない。

横になったままだったけど、普通に明るく笑ってNちゃんに今までの

プレゼントのお礼やなんかを言っていた。

「なんか、店長ママ、体は確かに痩せたけど、お顔も美人のままだし、

ちゃんと私に気を使って普通に話も出来て

笑ってくれて。あと1ヶ月なんて・・・おかしい。不思議。」

って言ってくれる。

「言葉は間違っているのかもしれないけど、もったいない。」

お店で2人で泣き笑いでした。

 

そう、うちのお母さん、美人サンなんです(^^)

お化粧もしないし、髪の毛もだいたいのショートカットなんだけど

病気になってからも私より美人。

 

で、顔は小さいのに変な痩せ方をしないんですよね。

『丸顔で良かった~』と お母さんは言っていました。

 

声は明るく、ハリもあるし、キレイに笑うお母さん。

あと少ししか見ていられないのかもしれないというのは・・・

上手く実感が湧きません。

 

髪の毛もせっかく生えてきたのに、私ももったいないと思う。

 

 


余命1ヶ月。

2012-03-04 18:46:59 | 日記

 

3月初日、先生からご家族も一緒にとお呼び出しがあった。

 

入院して2週間が過ぎた頃、ちょっと忙しくて3日お見舞いに行かなかったら

その3日で急に黄疸が出た。

 

その黄疸が胆管が詰まったものならちょっとした手術?みたいのができて黄疸も抑えられて

お母さんのお腹の違和感も解消されるらしくワクワクしていたんだけど

検査の結果、その黄疸は胆管の詰まりではなく、肝臓機能の低下からくるものだった。

 

すい臓の癌は大きくなり、肺の癌も増えて。でも特に肝臓。

大きな影がびっしり。

肝臓を埋め尽くすようで、肝臓として一体どこが機能しているんだろうと思えるほど

急激に増えていた。

 

 先生が悲しそうに『末期の状況で余命は1ヶ月です』と告げる。

 

 

たったの1ヶ月。

 

今後は、望みをかけてもう1度抗癌剤をやってみるか、緩和の治療を中心にするのか。

 

追い詰められると、ずっとしゃべっているお父さんが先生に苦しめたくないと家族で決めたとしきりに言っている。

そんな話し合いをした記憶はあまりないんだけど(笑)とにかく話を挟む隙がない。

 

一緒に聞いていて、ずっとまっすぐ先生のほうを向いているお母さん。まだ一言も発していない。

お母さんは凛としてしっかりとした人だから。

きっと自分で決めたい。

 

『お父さん、お母さんがどうしたいか、お母さんに聞こうよ』と言ってみた。

先生も『ご本人の意見を聞きましょう』と言ってくれた。

 

『抗癌剤は受けたくない。もう、多分体力がもたない』

とお母さんは言った。

 

 

今後は来た痛みを緩和しながら、栄養と肝臓の点滴を続けて、

プラス漢方で免疫力の向上を図ることになった。

 

先生に挨拶をしてナースセンターを出ると看護士さんが慰めてくれた。

泣かない事にしてるんだけど、さすがにちょっとやられた。

お母さんの車椅子を押していたから見られてはいないけど。

 

自分のショックはあるけど、お母さんが「胆管の手術をしたら少し起きれるようになるかしら?」と

直前に笑っていたから、その希望がお母さんの心の中で消えてしまってすっかり諦めてしまうのがすごく怖かった。

 

先生のお話の後、お父さんも帰って、消灯前、やっぱり笑顔で私と話をしてくれるお母さんに

『ホントは悲しい?』聞いてみた。

 

『不思議なくらい悲しみも怖さもホントにないのよ』

とお母さんは言う。

 

表情を見ていると本心だと思う。

 

泣く事も、取り乱すことも人に当たることもなく

ずっと今まで通り笑っているお母さん。

 

ホントは泣けるような場所を作ってあげられたらいいのかもしれない。

 

まぁ、娘では力不足かな。