膵臓がんとお母さん。ちょこっと私たち。そしてその後。

2011年10月母の膵臓がんが判明。お母さん、がんばる。私たちもがんばる。笑顔で過ごす闘病日記。

亡くなるまでの事。

2012-03-19 19:29:15 | 日記

 

お母さんが16日に亡くなりました。

今日は19日。

今日はあまり泣いていません。

このブログも書いたら またいろいろ思い出して泣くのかな??

と思っていたけど今のところ大丈夫みたい。

 

3月7日

個室に自主的に移り、食事を断わった。

それからしばらくはお母さんのお母さんやお友達、私の彼や友達に

短い時間だけど会ったりしていた。

 

3月12日

夜、お見舞いに行くと主治医のM先生が飛んできた。

『娘さんが来ていると聞いたので・・・』

血液検査の結果を見せてくれて話をしてくれた。

肝臓の数値と栄養状態が一気に悪化した。

今までもそこいらの数値はハイだったりロウだったりしていたけれど

倍 悪い方へ数字が行っている。

突然。

そう、よくお母さんもガクッと急にくるのよね、って言ってた。

 

先生が

『もう、本当の末期で・・・』

と話していると、

意識のほとんどなかったお母さんが

『じゃぁ、〇〇ちゃん泊まって』

と言った。

 

個室になってから毎夜、お母さんのところにお見舞いに行っていた。

内臓からくる熱のせいで喉がすごく渇くから、冷たいお水を手の届く範囲に用意したり

タオルをぬらしたり。寝る前の準備をしていた。

何度も泊まろうか?と言ってみたけど泊まらせてくれなかった。

 

私 『お母さん、この部屋きれいだし、わたし泊まりに来てもいいかな?』

お母さん 『疲れちゃうわよ・・・』

私 『わたしは大丈夫だよ』

お母さん 『・・・私が』

私 『(笑) じゃぁ、帰りますよ』

 

なんて事をよく言っていて。

 

そのお母さんが『泊まって』って言う。

 

簡易ベットを借りて急遽泊まることになる。

 

夜中に水を少しずつだけど何度も飲む。

 

手も上がらず、目も開かないから水をテーブルから落としたり、用意しておいたペットボトルが

力が足りなくてあかなかったりしている。

 

痛ければナースコールはするけど物が落ちても不自由でも看護婦さんは呼ばず、

いつもじっと私が来るのを夜、待っていたんだと思う。

迷惑を掛けたくないから大丈夫なフリをしていただけだった。

もっと強引にいろいろしてしまえばよかった。

 

この日から、連日泊り込む。