膵臓がんとお母さん。ちょこっと私たち。そしてその後。

2011年10月母の膵臓がんが判明。お母さん、がんばる。私たちもがんばる。笑顔で過ごす闘病日記。

15日~16日

2012-03-20 19:55:09 | 覚えておきたいと思うこと。

 

お父さんが駆けつけた。

東京に戻ったばかりのお母さんの弟も戻ってきた。

おばあちゃんはもう疲れて動けないから来れない。

 

お母さんは小さな氷を食べている。

ちょっとずつ。

空気のような言葉で

コオリ

と言う。

 

辛そうに、空気のような声で何か言っている。

口元に耳を近づけて何度も聞きなおすと

『お葬式・・・〇〇院・・・』と言っている。

 

お母さんは膵臓がんの告知を受けた日にその足でお気に入りのお寺の住職に会いに行った。

自分のお通夜とお葬式をここでしたいとお願いしに。

お通夜で孫や近所の人に死顔を見られたくないから、家に帰るのではなく

お寺においてほしいとの事だった。

 

お母さんの意識が無くなってから、父が病室で

「お葬式をお母さんは身内だけでと話していたけど、自分の立場上、

今後の近所とのお付き合いも考えて知らせないわけにはいかない。自宅でやりたい。」

と言っていたのをやはり聞いていたのだろう。

 

(自分の最後を自分できちんと決めた人の意見を、自分の今後の心配して勝手に変更する気??)

その話し、納得できず、そうはさせないと思っていたのでその時父に返事はしていなかった。

 

「お母さん、お葬式もお通夜も〇〇院(お寺の名前)でね。身内だけでやるから安心してね。」

というと2度お母さんがうなずいた。

続いて

『・・・おばあちゃん』

これは、お母さんが面倒を見ていた認知症の父の母なのか。今は父がみているが性格が合わず

激しく罵り合っているから心配なのか。

それとも、残していってしまう実母のことなのか。

正直今もわからない。でも。

「おばあちゃんね、私もがんばってお世話させていただくから大丈夫だよ。」

どちらもと言う意味で。

 

またお母さんは数回深くうなずく。

 

これが久しぶりで最後のお母さんとの意思のある会話だった。

 


聞こえていたとしたら・・・

2012-03-20 19:43:12 | 初ブログ。までのこと。

15日の昼間、お父さんが来た時に、

私は土曜日泊まるのを変わってほしいと話をしてしまった。

12日から泊り込みで、土曜日までで5泊。仕事もずっと休んでいたし家の事も気になりだしていた。

週末なら甥っ子も学校ないし、おばあちゃんもステイでいない。だから1泊代わってもらおうと思った。

お父さんは1泊位泊まらなくても看護婦さんに頼んであるから大丈夫と言うけれど、

実際泊まってみれば夜中は看護婦さんも少なく、個室の見回りなど頼んだ後でもほとんど来ていない。

3時間に1度くらいではお母さんが苦しい時に、間に合わない。ナースコールももう押せない。

 

お父さんが泊まってくれないなら、ずっと泊まり続けるつもりではいたけど

正直、眠れなくてちょっと疲れていた。

 

でも、その話し、お母さんに聞こえていたのかもしれない。

私より辛い人に、疲れちゃったなんて話を聞かせてしまったのかもしれない。

 

それで16日に逝ってしまったんだとしたら。

 

私はひどい。

 

 


15日

2012-03-20 19:13:16 | 日記

貼る痛み止めが強いものになったせいか、

お母さんは朝からずっと眠っている。

喉が渇いたとも言わない。

 

18日に来るはずだったお母さんのお母さんが東京からお見舞いに来てくれた。

静かに手を握り声を掛けている。

お母さんが握り返したわよとおばあちゃん教えてくれる。

帰り際にお母さんが何度もおばあちゃんに「ありがとう」と言っていた。

 

来てくれてありがとう?

いままでありがとう?

 

お母さんはまたすぐ眠ってしまった。

 

 

夕方には私の妹と甥っ子が来た。

お母さんは来たことにも気付かず眠っていた。

 

これは、この日の朝からだったんだけど、点滴の調子がよくなかったらしい。

栄養状態が良くないから点滴をいままでよりいっぱいしたいんだけど入らない。

 

5時ごろ先生と看護婦さんが来て、点滴を足の付け根から入れる措置をするということで

一時部屋を出た。

ずっと楽そうに上を向いて眠っていた日だったから動かすのはかわいそうだなって思った。

 

ナースセンターの前で待っていたけど、いつになっても呼ばれない。

看護婦さんがお母さんの病室から慌ただしく出入りしているように見える。

 

妹達は時間が遅いので帰るために荷物をとってもらおうと頼みにいくと

帰らないで待っててと言われた。

 

急変した。

 

先生が身内にすぐ電話をしたほうが良いという。

 

昼間は痛みも無く楽そうだったのに・・・と思ったけど

今考えればのどの渇きや痛みを感じるような感覚ももうなかったのかもしれない。

措置のために動かすのも、ちょっとの血が流れるのも、今のお母さんにはもう耐えられない状態だった。

 

足の付け根に点滴も入らず元の位置の戻されていた。

 

甥っ子が泣きながら岡阿南の手を握り、大きな声で死なないで と何度も言っている。

お母さん、妹にはがんばりなさいと繰り返す。

 

そして私には・・・

 

『・・・・ハンバーグ』

 

えぇ!!!ハンバーグ??

お母さん、最後に食べたいものがハンバーグなの?

『お母さん、ハンバーグが食べたいの??』

と聞いてみると、首を振る。

『〇〇(甥っ子の名前)に・・・』

 

お母さんが眠っていると思っていた夕方、確かに甥っ子がお腹がすいたーって言っていた。

 

聞こえてるんだ。

『ハンバーグ食べさせるから大丈夫だよ。』

お母さんうなずいて、話すのをやめた。


12日から

2012-03-20 18:51:14 | 覚えておきたいと思うこと。

 

12日から毎日病院にいた。

 

そこからお母さんと会話らしい会話は無かったような気がします。

夜はお水や濡れタオルやリップ、うがい。そんな繰り返しでお母さんが落ち着くまで手や顔、

痛がる胸の下あたりをさすったりしていた。

落ち着いて寝息を立て始めると一緒にちょっと眠る。

何か探している物音で目が覚めてお水を飲ませて・・・の繰り返し。

意識があるときは、(それでも意識があるかないかわからないくらい朦朧としているんだけど)

『苦しい』

『痛い』

『切ない』

『不安』

『夜が怖い』

とかすかな声で言う。辛い言葉が並ぶ。

 

でも、寝ていると

『〇〇ちゃん、(私の名前)これでいいと思う??』

「・・?良いと思うよ?」

『〇〇ちゃんが良いって言うならこれでいっか!』

とかすごく元気に明るく言う。

病気が悪くなる前のお母さんのしゃべり方。

海の中から空を見て青の美しさを語ったりもしている。

夢を見ていたのかな?

 

目覚めると苦しみと痛みで言葉を失い、夢の中ではいつものお母さんで大きな声も出る。

 

 

毎日、安心するのか比較的明るいうちは眠っていて、夕方辺りから痛みが出て

夜、寝たり起きたりしている。

 

私は夜、少しずつ眠って、明け方起きて、お母さんが落ち着いたらコーヒーを飲んだり。

10時頃にはお店のスタッフが病院に来てくれて仕事の報告、打ち合わせ。

その1時間後に父が来るので3時間ほど足りないものを買ったり、自宅にかえって洗濯したり

お風呂に入ったりして夕方お母さんの部屋に帰っていた。