ムーミンパパの気まぐれ日記

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いただきます

2005-11-08 | column
 ご飯を食べる時には「いただきます」と挨拶をする。子供の頃からそうしなさいと躾けられてきたし、一言発するだけのことだから別に面倒くさいというほどの儀式ではない。そうなんだけれど、この言葉はどことなく不思議な言葉ではある。
 欧米のちゃんとした家庭では「今日の糧を与えてくれた神に感謝します。」というようなお祈りを捧げてから食べるのをテレビなんかでよく見る。イスラーム教ではどういうお祈りをするのかはしらないが、仏教でもお寺ではお題目やお経を唱えてから食べるので、食事の作法と宗教というのは強く結びついているということは容易に推測できる。そう考えると日本でも江戸時代くらいまでは今とは比べものにならないくらい宗教意識が強かったから、一般家庭でも食事の際に神仏に対してお祈りを捧げる習慣があったのが、徐々に主語や目的語が省略されて、最後に「いただきます」っていう言葉だけが残ったということなのだろう。
 だが、それで一件落着かと言うと、食事が終わった後の「ごちそうさまでした」と並べてみた場合、どうも違和感が残るのである。もともと「馳走」というのは食事の用意をするために走り回るという意味で、それが転じてふるまいとか豪華な食事を指すことになったのだから「ごちそうさま」という言葉は食事を提供あるいは作ってくれた人に対する感謝の言葉であることはほぼ確実である。神様が走り回ってくれたのを感謝するなんていうのはちょっと考えにくい。そんなわけで「いただきます」と「ごちろうさま」をセットで考えてみれば、どちらも主人や料理人に対する感謝の念を表しているという解釈もできるような気がするのである。
 こうなるともう日本語の曖昧さがその実力を遺憾なく発揮することになる。日本に住む環境活動家として有名なC.Wニコルさんは「いただきますって言う言葉は大自然の恵みに対する感謝の念を表す世界のどの言葉にもない素晴らしい言葉」だみたいなことを書いていたし、作詞家の永六輔は「あなたの命を私の命にするためにいただきます」などと、おなじみの「遠くへ行きたい」という番組の中で理屈っぽく語っていました。
 別にどれが正しいとか、間違っているとかということはないのだろう。もちろん私がお二人よりも学識が深いなどと言うつもりもない。ただ、この言葉を見つめ直してみると、要は自分が生きていること、生かされていることに対して感謝の念を持つことが大事だということが見えてくるのである。(ちょっと真面目すぎ?)
 最近、ちゃんと「いただきます」って言ってないなあとちょっと反省中である。大人がちゃんとしないと、次の世代の子供もちゃんとしないもんなあ。

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