サッカーがプロ化して10年が経ちました。
幸いなことにファンの関心は、サッカーが持つ魅力そのものに集中しています。
サッカーファンは、試合とテレビが違うことを知っています。
サッカーファンにとって試合に行ってナンボです。試合に行かないサポーターはサポーターではありません(あまりにも当たり前なことなので文章に書くとヘンテコです)。
サッカーにおけるゴールシーンは、それだけとってみればたいして面白いものではありませんし、ニュースで結果だけ聞いても、それがサッカー本来の面白さとはなんの関係もないことはみんな知っています。
プロ野球はいつしかメディアのコンテンツに堕してしまいましたが、サッカーファンがこれらことを忘れない限り、野球がたどった道を通ることはありえないでしょう。
そしてサッカーは幸運なことに世界と直接つながっています。
プロ野球が日本という狭い世界で自閉してしまったのに対し、日本のサッカーは世界の中のサッカーでもあるということは、このスポーツがわれわれ皆に共通する物語や伝説を紡いでいく上で、強力な役割を果たします。
ワールドカップやアジアカップにおける外国チームとの戦いは、国民全体の関心となります。そこでの真剣勝負は、たんなる一チームの戦いではなく、「代表」の戦いとして、国全体が共通に経験する戦いとして、偉大な勝利、輝く栄冠、奇跡的なプレー、そして悲惨な敗戦、馬鹿げた失敗、予期しない事故、これらの出来事ひとつひとつが、記憶にとどめられ、物語られ、歴史(伝説)になっていきます。
その中では愚かな指揮官による愚かな戦いですらも、われわれの体験の一齣として蓄積され、これからもことあるごとに取り上げられ吟味され噛みしめられ伝承されていくでしょう。
すでにわれわれはドーハの悲劇とジョホーバルの歓喜という2つの伝説を持っています。
はたして野球にこのような歴史は刻まれているでしょうか。
ワールドカップのベルギー戦、ロシア戦に匹敵する国民的歓喜とトルコ戦における寂寞とした敗戦を経験しているでしょうか。
あるいはこれからそのような機会がめぐってくるでしょうか。
ジャイアンツの勝利の記録はジャイアンツファンだけのものですし、稲尾の西鉄の3連覇、阪神の85年は、それぞれのファンの喜びにとどまります。
かって野球が相撲と並ぶ2代国民的スポーツであった時代、たしかに長嶋茂雄という伝説的人物を産み出しましたが、戦いの場を与えられなかった彼の物語は、国民的スターとしてのそれではあっても、戦いの歴史を彩る英雄伝説とはなりえないのです。
落日のプロ野球がこのことに気がつき、五輪にその舞台を求めようとしても、もはや手遅れでしょう。
わたしが日本のプロ野球に感じる浅薄さ、歴史の長さに比べて真面目に受け取るのに値しないと感じるのは、いつも野球そのものが脇に追いやられ、別の枝葉のことがらばかりが議論されていると感じからです。
古田選手会会長を応援しつつも、野球にかかわる人々が野球を真面目に考え、野球をそのものを大事にしていこうとしないかぎり、日本のプロ野球は滅亡にむかうだけだろうと断言できます。
われわれはサッカーそのものを大事にしたい。
サッカーそのものを観て、歓喜して、ブーイングして、嘆き悲しみたい。
そうしてわれわれがサッカーの魅力を夢中になって喋っているうちに、われわれの歴史や伝説に幼い頃から育まれた若い人々が現れ、サッカーにまつわるさまざまな思いを美しい言葉に結晶させ、海外の先達に負けない作品をわれわれの前に提示してくれる日を待ちたいと思うのです。
幸いなことにファンの関心は、サッカーが持つ魅力そのものに集中しています。
サッカーファンは、試合とテレビが違うことを知っています。
サッカーファンにとって試合に行ってナンボです。試合に行かないサポーターはサポーターではありません(あまりにも当たり前なことなので文章に書くとヘンテコです)。
サッカーにおけるゴールシーンは、それだけとってみればたいして面白いものではありませんし、ニュースで結果だけ聞いても、それがサッカー本来の面白さとはなんの関係もないことはみんな知っています。
プロ野球はいつしかメディアのコンテンツに堕してしまいましたが、サッカーファンがこれらことを忘れない限り、野球がたどった道を通ることはありえないでしょう。
そしてサッカーは幸運なことに世界と直接つながっています。
プロ野球が日本という狭い世界で自閉してしまったのに対し、日本のサッカーは世界の中のサッカーでもあるということは、このスポーツがわれわれ皆に共通する物語や伝説を紡いでいく上で、強力な役割を果たします。
ワールドカップやアジアカップにおける外国チームとの戦いは、国民全体の関心となります。そこでの真剣勝負は、たんなる一チームの戦いではなく、「代表」の戦いとして、国全体が共通に経験する戦いとして、偉大な勝利、輝く栄冠、奇跡的なプレー、そして悲惨な敗戦、馬鹿げた失敗、予期しない事故、これらの出来事ひとつひとつが、記憶にとどめられ、物語られ、歴史(伝説)になっていきます。
その中では愚かな指揮官による愚かな戦いですらも、われわれの体験の一齣として蓄積され、これからもことあるごとに取り上げられ吟味され噛みしめられ伝承されていくでしょう。
すでにわれわれはドーハの悲劇とジョホーバルの歓喜という2つの伝説を持っています。
はたして野球にこのような歴史は刻まれているでしょうか。
ワールドカップのベルギー戦、ロシア戦に匹敵する国民的歓喜とトルコ戦における寂寞とした敗戦を経験しているでしょうか。
あるいはこれからそのような機会がめぐってくるでしょうか。
ジャイアンツの勝利の記録はジャイアンツファンだけのものですし、稲尾の西鉄の3連覇、阪神の85年は、それぞれのファンの喜びにとどまります。
かって野球が相撲と並ぶ2代国民的スポーツであった時代、たしかに長嶋茂雄という伝説的人物を産み出しましたが、戦いの場を与えられなかった彼の物語は、国民的スターとしてのそれではあっても、戦いの歴史を彩る英雄伝説とはなりえないのです。
落日のプロ野球がこのことに気がつき、五輪にその舞台を求めようとしても、もはや手遅れでしょう。
わたしが日本のプロ野球に感じる浅薄さ、歴史の長さに比べて真面目に受け取るのに値しないと感じるのは、いつも野球そのものが脇に追いやられ、別の枝葉のことがらばかりが議論されていると感じからです。
古田選手会会長を応援しつつも、野球にかかわる人々が野球を真面目に考え、野球をそのものを大事にしていこうとしないかぎり、日本のプロ野球は滅亡にむかうだけだろうと断言できます。
われわれはサッカーそのものを大事にしたい。
サッカーそのものを観て、歓喜して、ブーイングして、嘆き悲しみたい。
そうしてわれわれがサッカーの魅力を夢中になって喋っているうちに、われわれの歴史や伝説に幼い頃から育まれた若い人々が現れ、サッカーにまつわるさまざまな思いを美しい言葉に結晶させ、海外の先達に負けない作品をわれわれの前に提示してくれる日を待ちたいと思うのです。