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Asianwalker

アジアの路地裏から

2009年8月29日飯田富山佐久間線

2009年10月15日 | 日本
8月29日(土) 晴れ

今年の夏は天候不順で雨が多くて晴れの日が少ない。残念な夏である。2004年の夏に似ている。。その年は結局、梅雨明けしないまま、秋になってしまったような気がする。雨ばかりの日々が続いて、休日、ずっと家にいると気が滅入ってしまいそうである。そんな訳で8月は毎週、ほぼ強制的に旅に出ることを自分に課した。


3年間を過ごしたこの町は日本全国、どこにでもありそうな何の変哲もない、一地方都市なのだが、離れてみて、自分がこの町を、この町の生活を、この町の人々を愛していた事に、今さらながら気がついたのであった。

東京から赴任した当初はとんでもない田舎に飛ばされたと思ったのが、3年間住んでみて、地方ならではの生活の豊かさ、便利さが理解できるようになり、それに慣れてしまったのであろう。それまで何の不自由を感じなかった東京での生活が退屈で窮屈極まりなく感じるようになってしまった。

ひとつの場所の生活しか知らない生き方も良いかもしれないが、比較できる場所を持つことのできる生き方もまた素晴らしいと思う。3年間東京を離れた結果、それまでの何が何でも東京が一番という考えを改めることになった。東京という所は10代、20代のうちは刺激に満ち溢れ、チャンスが限りなく多く、無限の好奇心を満たしてくれる日本で唯一無二の場所であり、10代、20代のインプットを求め、必要とする時期を過ごすに最も相応しいステージである。しかし、30代、40代になり、インプットよりアウトプットが多くなる頃には、極端に生活コストのかかるだけの場所でしかない。その年代になると、東京の高い生活コストに見合うだけのものを得ることは難しい。その年代に到るまで、長年、東京に住んでいると、大概のことは、もう既に身につけてしまっているのだ。そうなると、単にコストパフォーマンスの悪い場所でしかない。どこかで見切りをつけて、東京というステージから降りるのも賢い選択なのかもしれない。

今年の東京への引越しが、11回目の引越しであった。つまり11の町で暮らしてきたことになる。この後の人生、あと何回、引越し、転居をする事になるのであろうか。縁もゆかりも無い、名前もあまり聞いたことも無い、この町で暮らすことになるなんて、10年前は1%も想像がつかない事であった。10年後はどうであろう。同じように1%も想像がつかない、名前すら知らない町で暮らしているのであろうか。








この町は、今や少なくなった路面電車が未だ健在である。

県境を越え、浜名湖を見ながらドライブする。浜名湖、特に奥浜名湖の風景は美しい。去年までは思い立ったらすぐに行けた場所である。もっと心して一期一会の気持ちでこの美しい風景を目に焼き付けておくべきだった。



浜松市を北に行くと、静岡の山村らしい風景が広がる。山間に茶畑が広がる風景はここまで来ないと見ることができない。人によって好きな風景は違うと思うが、この風景は特に心に染み入るものがある。









良く整備された綺麗な杉並木の中をゆっくりと走る。昨年まで当たり前だった事が、こんなに贅沢で素晴らしい事だったのかと気がついた。





そして山が開けたところには、必ずと言っていいほど、時代に取り残されたような集落がある。



県道1号飯田富山佐久間線は何度もドライブした一番印象に残る道である。今日は一番好きな所だけを楽しみながらのドライブである。



佐久間の街並み。



素掘りのトンネル。





佐久間ダム。



日本一人口の少ない村だった旧富山村。





深い緑の色の水をたたえた天竜川。



日本一小さい自治体だった旧富山村の玄関口大嵐駅。日本一大きな自治体の東京都の玄関口東京駅のミニチュアをイメージしたデザインが素晴らしい。

それから天竜川に沿って県道1号線の終点の飯田まで行った。飯田では思い出の場所へ行き、その時の楽しかったひととき、ひとコマひとコマを思い出そうと努力したのだが、記憶の劣化は時間と共に進んでいた。僅か3年前の出来事であるのだが。

後は、快適な国道151号線で一気に帰った。

夜はK部長にうなぎをごちそうしてもらった。この町のうなぎの美味しさは日本一だと思う。

美味しいうなぎでお腹一杯になって心が満たされて、気が緩んだのか、帰りにパーキングの支払いをする際に、ミラーを擦ってしまった。車を返却する時にばれるかと緊張したが、ばれずに済んでほっと一安心。借りた車なのに申し訳ない事をしてしまった。次回からはもっと気をつけよう。今回はマツダレンタカーで借りたのにも関わらず、どういう訳か、トヨタのヴィッツであった。とにかく運転していて疲れる車であった。何でこの車が売れているのかよく理解できない。

本日の走行距離340km。



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2009年8月22、23日会津、米沢

2009年10月12日 | 日本
8月22日(土)晴れ

香港旅行から1週間後、次に待っていたのは会津、米沢旅行である。会津は小学生の修学旅行以来なので、約20年ぶりである。米沢については、米沢牛以外、特に印象は無い。

朝8時に池袋を出発、土日高速1000円乗り放題効果で東北自動車道は大渋滞。土曜日の朝は、どうしても出発の時間帯が重なってしまうので、渋滞は避けられない。渋滞を避ける方法はただ一つ、思いっきり朝早く出発するしかない。

埼玉県を過ぎてもまだ渋滞。渋滞が解消されたのは栃木県の那須あたりであった。ここまで来れば、もう東北も近い。郡山から磐梯自動車道を快走。那須からO君に運転を代わってもらってからは、時速150kmオーバーの速度で渋滞の遅れを取り戻す快走をしてくれる。借りた車はまだ2300kmしか走っていない新車なのだが、ちょうど時速160kmを越したくらいで、突然、エンジンが「シャシャシャ」と不気味な音を立てたので、少しビビッた。それからは無理をしないで120km程度で走るようにする。1300ccの小さな車なのであまりスピードを出さないほうがよい。今回借りた車はマツダデミオ。軽量で軽快なハンドリングなので運転が楽である。しかし、高速走行にはいささか不向きではある。





磐梯山が見えてきた。まもなく会津である。



会津若松市内に到着したのが、12:30。池袋から4:30もかかってしまった。昼食に喜多方ラーメンを食べる。あっさりしており、美味しかった。

会津若松観光の目玉、鶴ヶ城。









元来、会津の領主は葦名氏だったが、伊達政宗に滅ぼされてしまう。伊達政宗が豊臣秀吉により、領地替えを命じられた後は、上杉氏が領主になる。しかし、上杉氏は関が原の戦いで西軍に組した為、短期間で米沢に領地替えとなる。今年の大河ドラマは上杉氏の重臣、直江兼続が主人公の天地人である。城内の展示品はドラマにあやかって上杉氏や直江兼続ゆかりのものが中心であった。

鶴ヶ城の後は、白虎隊の悲劇の地、飯盛山へ。



白虎隊の墓。



遠くに鶴ヶ城が見える。



サザエ堂。





会津若松を離れ、琵琶湖、霞ヶ浦、サロマ湖に次いで日本第4位に広い湖の猪苗代湖に向かう。砂浜があり、ヨットを楽しんでいる人を見るとまるで海のようである。しかし、ボート遊びをしている人を見ると湖だなとも思う。







猪苗代湖から、今日の宿、猪苗代リゾートホテルへと向かう。真向かいに見える磐梯山の山裾にある。



酪農が盛んらしい。高原の風景に心が和む。



猪苗代リゾートホテル。まだ8月の22日というのに東北はもう秋の始まりを予感させる風の冷たさである。プールで泳ぐ人の姿はない。東北の夏は短い。







ここから見る磐梯山もどこか淋しげである。





しかし、ここのリゾートの本領は夏より冬のスキーシーズンであろう。



夕食はいたって普通であった。会津らしい食材もあまりなかった。まあ、値段相応である。









8月23日(日)曇りのち晴れ

今日は、磐梯山の裏側へとまわり、米沢へと到るコースを辿る。

五色沼を少しハイキングする。天気が良ければ、様々な水の色が綺麗なところである。しかし、生憎の曇り空である。















檜原湖。



国道121号線を山形県との県境に向かって、ワインディングロードをひた走る。県境からは檜原湖が遥か眼下に見える。




米沢に到着。米沢は元々、伊達氏が本拠としていたのだが、結局は上杉氏が統治する事になる。伊達政宗が米沢から会津を攻略し、本拠を移すのだが、領地替えにより仙台に本拠を移し、最後は仙台藩62万石の大大名となる。上杉氏は越後と会津の120万石から、最後は米沢藩30万石のみの大名へと転落してしまう。ここ米沢は東北の雄伊達氏と北陸の雄上杉氏との因縁浅からぬ土地である。


天地人の主人公である直江兼続の墓がある林泉寺。当時としては珍しく側室を持たなかった兼続と妻のお船の墓が仲良く並んでいる。ただ一人、正室のお船のみ愛したところ、さすが愛の男である。













大河ドラマの主人公になる程であるから、直江兼続という人物はたいそう魅力のある大人物なのであろうが、主君の上杉景勝より目立ってしまうのは如何なものであろうか。大河ドラマの主人公が大名でなく家臣なのも珍しい。直江兼続が傑出した人物なのは分かるが、主君の上杉景勝は凡庸な人物だったのだろうか。いくら優秀な部下を抱えていても、トップが凡庸だと120万石の領地が30万石になってしまった事実が証明していると思う。現代なら120億円の売り上げを誇っていた企業が突如、30億円に売り上げが落ちてしまったら、倒産、もしくは従業員数を四分の一以下にする大リストラは避けられないであろう。そうなった場合、もちろんトップは引責辞任である。

昼食には名物の米沢牛を食べた。私は牛丼、O君は焼肉定食を食べた。





米沢を14時に出て、池袋には19時に着いた。宇都宮あたりから渋滞したが、往路ほど酷い渋滞では無かった。帰りは時間が分散するのであろう。

2日間の走行距離740km。


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10月11,12,13日滋賀、三重

2009年03月09日 | 日本
10月11日

O君と一緒に今まで行った事の無い所に旅行しようと二人で考えた結果、滋賀、三重に行ってみようということになった。

豊橋駅でO君と待ち合わせ。大垣まで高速道路で一気に走る。連休初日だけあって、名古屋あたりは渋滞。名古屋を抜けるとスムーズに走る。



大垣市街。今日はお祭りであった。





大垣城。わざわざ大垣に寄ったのは城好きのO君のリクエストがあったからである。



岐阜県の城ではやはり岐阜城が一番である。山の頂上にあり難攻不落という言葉がふさわしい。

再度、高速道路を走り彦根に到着。ETC割引は1日2回までなので今日はもうこれ以上、高速道路は使わない。









彦根城。これで国宝四城(松本城、犬山城、姫路城、彦根城)すべて制覇したことになった。O君も同じだそうだ。お互い大満足である。





彦根は城下町らしい街並みである。彦根は観光地としては決してメジャーな所ではないかもしれないが、思った以上に素晴らしい所であった。

その後は琵琶湖沿いを走る。琵琶湖は本当に海のようである。風も吹けば波もある。風光明媚な湖である。





琵琶湖の見える温泉に泊まった。


10月12日

今日は琵琶湖から鳥羽まで行く予定である。長距離の移動となる。







比叡山延暦寺。日本の仏教の聖地であったが、ほとんどの寺院は織田信長の焼き討ちで全焼してしまった。現存するのはその後、再建されたものばかりである。



京都方面の眺め。



琵琶湖方面の眺め。

その後は山を越えて奈良県に入り、また山を越えて伊賀上野に行く。



上野城。伊賀上野は伊賀の国の中心地であり、古くからの城下町の風情が色濃く残っている。

その後はひたすら南へと走って、鳥羽に宿泊。ふたりで海の幸を堪能する。特に伊勢海老には大満足である。

10月13日

鳥羽から伊勢湾フェリーで伊良湖まで1時間。去年、車で来た時は半日かかった事を思うと便利なものである。伊良湖に着いてからは伊良湖ビューホテルでコーヒーを飲む。このホテルからの絶景を見られるのも最後かもしれない。豊橋にいられるのもあと半年もないであろう。

その後、メロン農園で冷やしメロンを食べたり、豊橋に戻ってからはO君が来た時には必ず行くうなぎ屋で昼食とした。ここのうなぎ屋は自分の知っているなかでは一番おいしい。

O君を駅まで送ると、いつものひとりの生活に戻った。遠方より友来る 亦楽しからずや。帰りの車中で孔子の言葉がふと思いついた。

3日間の走行距離480km。



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2008年9月27日天竜川林道2

2009年03月04日 | 日本
門谷分校に別れを告げて、天竜川林道を進む。道幅の狭い道だが、対向車は無い。





途中、何度も天竜川に流れる小川に架かる橋を渡る。



遥か眼下に天竜川が見える。天竜川林道は標高の高い場所を走っている。



天竜川の対岸に県道1号線が見える。天竜川林道に比べて標高の低い場所を走っている。



しばらく無人地帯を走っていると、向こう側に塩沢集落が見えてきた。





塩沢集落。戸数3,4戸の夏焼集落や廃集落になった門谷集落に比べて、10戸以上の戸数はある。これくらいの戸数でようやく集落といった感じがする。



塩沢集落内のこの階段の道を下って行くと、飯田線の小和田駅に通じる。この駅は鉄道でしか行けない秘境駅として知られている。以前、訪れたことがあるが、駅に通じる道は無く、まわりには民家もなく、製茶工場の廃墟のみ存在していた。







小和田駅。









駅のまわりには廃墟となった製茶工場と民家しかない。以前は集落があったそうだが、ダムの建設に伴い、水面に沈んだそうである。高台にあった駅と製茶工場と1,2戸の民家のみ残ったそうであるが、道路も水没したので鉄道しか交通手段がなくなってしまったのである。



小和田駅から天竜川沿いの道。比較的良く整備されたハイキングコースのような道がしばらく続く。やがて、1件だけ残った民家を過ぎるとあとは山道が続く。





小和田駅から塩沢集落までは1時間くらいであろうか。300mほどの高低差があるので結構きつい。道はひと一人が通れるほどの幅しかなく、しかも蜘蛛の巣が多くて顔が蜘蛛の巣だらけになるので気持ちが悪い。虫、蛇もたくさん出る。それより熊に遭遇しそうなのが恐い。相当な覚悟がないと塩沢集落まではたどり着けない。



塩沢集落で小休止。愛車も一休み。



廃墟巡りをするとよく廃車を見かける。廃墟と廃車の組み合わせは絵になる。



遠くに集落が見える。天竜川林道はこうした山中の集落を結ぶ唯一の交通手段である。





このような集落を限界集落と呼ぶのだが、近年、急速に廃墟化が進んでおり、問題化してきている。耕作地を放棄するとえさに困った野生動物(熊、猿、猪などが)人里まで下りてきてしまうのである。



中井侍への分岐点にやってきた。



天竜川林道から離れて細い道を下って行く。



中井侍駅への分岐点。



駅前の自転車のりば?自転車の停めるところなら意味が分かるが自転車のりばとはいったいなんのことであろう。



駅のホームに張り付くように1件の民家が見える。





中井侍駅。ここもたどりつくのが困難な秘境駅である。ここに停車する列車は上り8本、下り9本のみである。



ちょうど上り豊橋行きがやってきた。中井侍発15:52で豊橋着は18:14。





駅から九十九折の道を登って天竜川林道に合流。中井侍集落は有名なお茶の産地でもある。









三十三所観音。中井侍という地名といい、なんとも由緒ある集落である。平家の落人集落であろうか。







小沢集落で国道418号線に合流。ここで天竜川林道も終わりである。穏やかな流れの天竜川が迎えてくれた。

この後は国道418号線を走るが、国道というのが信じられない隘路である。また、道路工事の大型ダンプカーとしょっちゅうすれ違うので気をつかう。



天竜温泉おきよめの湯。悪路の連続で疲労した体を癒してくれるのが温泉である。これもドライブの楽しみのひとつである。

天龍村を過ぎると国道151号線に合流する。さすがに国道151号線は走りやすく豊橋まで快適走行で帰れた。

本日の走行距離280km。









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2008年9月27日天竜川林道1

2009年03月01日 | 日本
9月27日 晴れ

今日も絶好のドライブ日和である。先週は天竜スーパー林道をドライブして、火防の総本山秋葉神社にお参りをしてきた。



秋葉山の頂上にある荘厳な社殿である。



本殿境内からは遠く太平洋まで見渡せる。

ちょっとドライブのつもりが家に帰ると280kmもの走行距離になっていたのでびっくりした。

今日は天竜川林道を走って廃村や廃屋を訪ねてみようと思う。豊橋から国道151号線を走る。今回は恐怖の県道1号線のルートはやめて、豊根村から県道426号線を走って旧富山村に到着。この道も狭いが、県道1号線ほどの恐怖感はない。









旧富山村を抜けて天竜川を渡り、静岡県側に行く。ひと一人おらず、あたりは静寂に包まれている。



飯田線大嵐駅。日本一小さな村だった富山村の玄関口にちなんで日本一大きな駅である東京駅のミニチュア版をイメージして作られたそうである。



廃車が放棄されている。



飯田線の旧ホーム跡。現在の水窪を通るルートの前は天竜川に沿って線路は続いていたらしい。



飯田線の旧線跡のトンネルを車道にした夏焼トンネル。元々、鉄道のトンネルだったので狭く1車線しかない。途中でのすれ違いは不可能であるが、全く出口の見えない長大なトンネルである。



対向車が来ないことを祈りながら進む。





出口は県道288号線である。天竜川を挟んで県道1号線の対岸を走る道であるが、廃道となっている。



歩いて進んでみたが、こんな状態である。



夏焼トンネルはなんのために存在するのか?旧富山村の天竜川対岸にある夏焼集落への唯一の道だからである。車が通れるのはトンネルの出口まで。ここからは徒歩で行くことになる。



山の斜面に張り付くような夏焼集落が見える。











15分ほど歩いて夏焼集落に到着。何とも不便な場所である。今では戸数3,4戸ほどであろうか。



天竜川の眺め。



来た道を戻り、林道西山線に入る。



このあたり一帯を大嵐峡というらしい。



林道西山線はどんどん高度を上げていく。



途中、何度もこのような落石と出会う。その都度、車を降りて落石をどかす。





廃屋。2年前に初めてこの廃屋を見たとき感動のあまり体の震えが止まらなかった。堂々たる廃屋である。何度見ても素晴らしい。廃墟マニアにはたまらない物件である。このあたりは門谷集落の外れであるが、門谷集落自体が既に廃集落となっている。



今でも現存するのはおそらくこの1戸のみと思われる。



林業とお茶の栽培で生計を立てているのであろう。



もっと探索をしていたいのだが、熊が出そうなのでやめる。





天竜川林道に合流。





門谷集落の中心地に到着。山の中の廃集落であるが、別荘?のようなコテージを建てて暮らしている人がいるようである。

今回、ここに来た最大の目的は廃校を見ることである。門谷分校は明治28年に「奥山尋常小学校門谷分教室」として作られたのがはじまりである。その後、戦後の教育制度改革で「水窪小学校門谷分校」と名前を変えた。元々は周辺の子どもたちが通っていたが、昭和30年飯田線の水窪迂回開通により学区の一部の児童は水窪小学校に通うようになり児童数が減少。昭和43年4月には6年生女子1名になってしまう。その1名も三学期からは水窪小学校に通うようになり、分校はその年度末に一時閉鎖。昭和45年3月31日をもって廃校となった。現存する建物は明治時代からのものではなく、昭和34年伊勢湾台風で全半壊したものを修復・再建したものである。



門谷分校。周囲の木に埋もれつつ存在している。正面の入口は鍵で閉ざされている。外に回って侵入を試みるも、横がすぐ崖となっており、建物にへばり付きながら何とか中に入ることができた。









人は感動を通り越すと言葉が出てこないようである。廃墟マニアにとって至福の瞬間である。長い間、この瞬間、この場所を求めて旅をして来たのである。ここは昭和45年から時が止まっている。自分の生まれる何年も前、今から38年も前のことである。しかし、私には見える。今でもここでたった1人の先生と数人の生徒が授業をしている光景が。



























教室は2つあったようである。最も多くの児童がいた時代でも15人もいなかったと思われる。



















いずれ自然の中に埋もれてしまうのかもしれないが、人々の心の中ではずっと残り続けるはずである。私もそのひとりである。



校庭の遊具は既に半分以上が自然に埋もれている。



学校の横には忠魂碑。昔の学校の敷地内に神社と一緒に建てられていることが多い。戦争で亡くなった卒業生の名が刻まれている。

門谷分校の沿革誌の最後に当時の教員、桜井貞彦教諭が次のように書き残している。明治十二年開校以来九十一ヶ年の間二百九十一名の卒業生を送り出し 輝き続けていた学灯を消し廃校となる。

学灯が消え、38年たった今でも当時の情緒を色濃く残すこの分校。詳細な場所についてはこの分校を守る意味でも伏せることにする。

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8月29、30、31金沢・能登半島3

2009年01月19日 | 日本
8月31日 晴れ

今日は帰るだけである。金沢、能登半島は十分に観光した。素晴らしい文化があり、雄大な自然があって大変魅力的な場所であったと思う。

レンタカーを営業所に返して、金沢駅に向かう。



近い将来、新幹線が開通するそうである。



帰りは名古屋行きの高速バスに乗る。渋滞もなく4時間ほどで名古屋に到着した。名古屋で昼食をとってから、JRで豊橋に帰った。太平洋側の豊橋は真夏の暑さであった。

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8月29、30、31金沢・能登半島2

2009年01月19日 | 日本
8月30日 曇り

今日は能登半島を一周する。いつかは行ってみたいと思っていた能登半島。いったいどんな秘境なのであろうか?

9:00にレンタカー会社の迎えが来る。東横インに宿泊するとレンタカーが24時間5,000円で借りられる。通常よりも大幅に安いらしい。レンタカーを借りるのは今回が初めての体験である。特に問題も無くスムーズに手続きを済ませて出発。

金沢市内を抜け、内灘の海岸に入る。







ここの海岸の砂は締まっていて、車で海岸線を走りぬけることができる。大変珍しい海岸である。映画のワンシーンのように波打ち際を走行する。もちろん窓は全開である。豊橋はまだまだ猛暑が続いているが、ここはもう夏も終わり、初秋の寂しささえ感じる。

白尾ICから能登道路に入る。海沿いを走る爽快な直線路である。これで天気が良ければ最高なのだが生憎の曇り空である。柳田で能登道路も終了。日本の道100選に選ばれただけあって爽快な道であった。快適走行の有料道路も終わり、国道249号線を北上する。黒瓦と板塀の昔ながらの風景が残る日本海の厳しい風土が伝わってくる集落が連続する光景を見ながらのんびりと走行する。



能登金剛。激しさと優しさが交錯する雄大な眺めである。夕日が海に沈む頃が一番の見所らしい。海岸線が西向なので日本海に沈む雄大な夕日を見るには最高の立地である。

国道249号線はやがて海岸線から離れ内陸を通り、山中へと道は続く。トンネルで山を越え、平地が広がり、海が見えてくると能登半島の中心地輪島に到着である。輪島塗とキリコと朝市で有名な輪島であるが、もう昼である。朝市は終わっているだろうし、輪島塗もキリコにも興味は無い。



輪島市街。車を止めて観光したいが、駐車する場所が見つからない。



輪島駅。ようやく車を止めることができた。新しくて大きい立派な駅である。食事を取れるかもしれないと期待して駅の構内に入ってみる。



しかし、鉄道は廃止になっていた・・・。輪島の次がシベリアとなっているのが哀愁を誘う。結局、寿司屋で寿司を食べることにした。2,500円は観光地価格である。のどぐろを追加で頼む。のどぐろは赤ムツのことをこの地域では、そう呼ぶらしい。初めて食べるが、とろけるようなおいしい魚である。ここでしか食べられない地魚であるのが残念である。

輪島を出ると、いよいよ秘境の趣きを増してきた。国道249号線はふたたび海沿いを走る。能登の変化に富んだ海岸風景を楽しみながらドライブする。



有名な千枚田。TVでは何度か見たことがあったが、実際に見ると何ともいえない美しさである。この地域の米作りの困難さがよく伝わってくる。



棚田の一枚一枚の小ささに驚く。昨日、夕食を食べた店の常連客が言うには、昔、棚田を一枚一枚数えた農民がいたそうだ。結局、棚田は999枚だった。千枚では無かったと思っていたら、実は最後の一枚は蓑の下に隠れていて見えなかったとの言い伝えがあるらしい。それくらいの小ささである。










岩礁に砕ける波を眺めながら、走行する。曽々木海岸の海触によってできた洞門や奇岩が続く光景はまるで北海道のようである。




国道249号線を離れ海沿いの県道28号線を走る。ここまでくると人家も少なくなる。能登半島の最北端、狼煙に向かって一気に山を駆け上る。



禄剛崎灯台。とうとう能登半島の最北端まで来たことになる。







歴史のある灯台が出迎えてくれる。朝から曇りが続いてきたが、ここにきて雲行きが怪しいと思っていたら、あっという間に土砂降りの雨になった。

雨の中を南へ走る。あと半分の旅程である。珠洲飯田で再び国道249号線に合流。のどかな砂浜をつなぐ道である。天気が良ければ最高だったであろう。波も穏やかである。能登半島をぐるりと回り日本海の外洋から富山湾の内海へと出たことになる。珠洲市は能登半島の富山湾側の中心都市である。人家が途切れること無く続く。昼食に寿司を食べたが、量が少なかった。ずっと運転をしていると以外にお腹が減るものである。何か食べたくなった。駅の周辺に行けば何か食べられると考え、珠洲駅に向かう。



珠洲駅。あたりの商店街はほとんどの店がシャッターを降ろしており、だいぶ寂れている。郊外に大きなショッピングセンターでもできたのであろうか。



どうやらここも鉄道が廃止になったらしい。ここも輪島も駅や線路を撤去する費用すら無いのであろうか?

結局、国道沿いにどさん子ラーメンを発見したのでそこで食べる。どさん子ラーメンなんて何年ぶりに食べるのであろう?一時はあれほど沢山あったどさん子ラーメンも今は見つけるのが難しくなった。



能登島が対岸に見える。穏やかな海域である。このあたりは七尾北湾といい、波が穏やかで魚の種類も多くとりわけ名産の牡蠣は身が肥えて美味とのことであるが、残念ながら季節は夏である。

その後、七尾からは国道159号線を走り金沢へと戻る。海岸沿いの道から、平野部の穀倉地帯を走る道を走るとようやく半島を抜けたような気がした。長い夏の陽もようやく暮れかかってきた。









曇り時々雨だった天気も夕暮れ時を迎える時間になってようやく晴れてきた。久しぶりに虹を見ることができた。









広大な平野に夕焼けが広がる。



車もよく走ってくれた。今回、借りた車はマツダデミオ。軽くて小回りのきく運転しやすい車であった。



夏の終わりの長い夕暮れも、そろそろ終わりである。もうじき日が沈む。今年の夏ももう終わりである。

本日の走行距離 350km。
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8月29、30、31金沢・能登半島1

2009年01月15日 | 日本
8月29日 晴れ

今回の旅は金沢と能登半島を訪れる計画である。前日に愛知県一帯をゲリラ豪雨が襲い、各地で大きな被害が発生した。岡崎では濁流に家々が飲み込まれて死者も出たほどである。今年は台風の上陸は無いのだが、ゲリラ豪雨が各地で発生して大きな被害が出ている。この異常気象も地球温暖化の影響であろうか?

交通機関への影響が大変気になるところである。朝からJR・名鉄ともに運休の情報が入っているが、とりあえず駅に向かう。



8時を過ぎてようやく一部の列車も動き出したようであるが、列車に乗れない人々で構内は溢れかえっている。

それでも新幹線は定時運行である。米原まで新幹線で移動する。途中、昨日のゲリラ豪雨の被害の爪あとを多数見かける。冠水しているところもある。米原からは北陸本線に乗り換えをする。しかし、昨日の豪雨の影響かダイヤが大幅に乱れている。





敦賀、福井、小松と北陸地方の都市を通り、金沢に着いたのは16時になっていた。
東横イン金沢香林坊にチェックイン。今日から2泊する予定である。晴天だった太平洋側と違って日本海側は曇りである。







金沢といえば兼六園が有名な観光スポットである。広さ約3万坪、江戸時代を代表する池泉回遊式庭園としてその特徴をよく残している。国の特別名勝に指定されている。岡山市の後楽園と水戸市の偕楽園と並んで、日本三名園の一つに数えられる。



兼六園は高台に位置する。金沢市街の眺め。



金沢城。加賀藩100万石に相応しい雄大な城郭である。





金沢の繁華街香林坊。北陸随一の繁華街とのことである。



犀川の流れ。金沢出身の詩人室生犀星の「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」でよく知られている。情緒ある眺めである。



犀川大橋。とにかく歴史のありそうな橋である。



戦災を免れた金沢には歴史ある建物が数多く残っている。北陸の小京都と呼ばれるのも納得の街並みである。







香林坊界隈の路地裏。郷土料理の店が多い。間口が狭くて、鰻の寝床のような造りの店が多い。このあたりも京都に似ている。

お腹もすいてきた。そういえば今日は、朝からまともに食事をしていなかった。郷土料理の店で刺身と天ぷらを食べる。金曜の夜なのに先客は常連客らしいサラリーマン一人だけである。他に客もいないので自然と店の人と常連客の会話に加わる。明日、能登半島を一周するのでいろいろと質問するが、あまり的確な回答が返ってこない。能登半島に行っても何も無いところなので、金沢の街並みを見る方がきっと楽しいでしょうとの意見である。石川県は加賀国と能登国が一緒になってできた県である。このような場合、未だに廃藩置県以前の感覚が抜けないようで、違う国のことはお互い無関心である。
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2008年8月2、3日県道1号線~飯田へ3

2008年09月27日 | 日本
飯田に到着。2年前と同じようにホテルニューシルクにチェックインする。



飯田で一番のホテルである。それでもシングル1泊7,500円。



道路を挟んで向かい側にはシルクホテルがある。こちらは1泊5,000円。養蚕工場の跡地に開業したのでシルクホテルとホテルニューシルクなのである。

ホテルの部屋でしばし寛ぐ。悪路の連続で神経も体力もだいぶ消耗したが、2年前程では無い。ペーパードライバーだったのが、この2年でだいぶ上達したしタフになったと思う。落ち着いたところで携帯のメールの事を思い出した。2,3日前に知らないアドレスからメールがあった。「元気?」とだけ書いてあった。この種のメールは迷惑メールの可能性が殆どなので無視していたが、旅の開放感と無事に目的地に着いた安堵感があったのであろう。「元気ですけど、どちら様ですか?」と返信した。

飯田の町を散策してみる。



飯田駅。名物のりんごをモチーフにした駅舎。



駅前の光景。



りんごの木が街路樹として植えられている。長野県は青森県と並ぶりんごの産地である。



りんごの青い実が生っている。冬にかけて赤く色づいてくるはず。



ホテルニューギンザ。廃墟っぽい。



やはり営業していない。



ホテルニューギンザがある場所の地名は銀座であった。このあたりは飯田の繁華街である。



駅・繁華街のあるエリアは丘の上に位置する。

町を散策していると携帯にメールが着信した。さっきのメールの返信である。相変わらず自分が誰とは名乗らないが、内容で誰か分かった。2年前、一緒にここへ来た人であった。その人とはそれ以来、会っていない。メールのやり取りもその後、間もなく途絶えた。突然の予期せぬ出来事に心が動揺する。禁酒してしばらく経つが、急ぎ自販機を探し求めビールを手に取る。アルコールは現実を見つめようとする自分から目をそらすために有効な液体である。冷えた缶ビールを飲みほす。最初の1本は喉の渇きを潤すために。次の1本は2年前の自分に敬意を表して。最後の1本は自分の今いるこの場所を確認するために・・・。




飯田の町を取り囲む山々に夕日が沈む。ホテルに戻る途中、足がふらついていたのであろう、歩道の段差に足を取られ転ぶ。膝のあたりに青黒いあざができた。体に出来たあざは何日かすれば消える。別に気にする必要は無い。


2年前に来た時はちょうどお祭りの日であった。大人も子供もお揃いのはっぴを着て、りんごの踊りをして町中を練り歩いていた。露天も沢山出ていてたいそうな賑わいであった。今年のお祭りは次週開催するようである。今日はひっそりとしている。交差点の角でアクセサリーを売っている人に声を掛けられる。アジアを放浪して来た感じの人である。売り物もそんな品揃えである。この人と会話をしていると物腰が大変柔らかでやさしく誠実な人柄が伝わってくる。この人の風貌、衣装、話し方。性別は男性であるのだが、心は女性のようである。いわゆるおかまであるが、身長が180cm以上ある。おかまの人は人知れず苦悩を抱え、肩身の狭い思いをして生きて来たのでとても心優しい人が多い。この人もそういうタイプである。路上で結構話し込んでしまった。私も話相手が欲しかったみたいである。人間、誰もがみんな本当は淋しいのである。

夜、ホテルのロビーで人形劇をやっていた。8月は飯田市内で人形劇フェアを開催しており、何箇所かの会場で上演しているみたいである。夜の9時半だというのにロビーは大人たちで人だかりになっている。この町の人々は大人も子供も本当に心が豊かである。

翌朝、ホテルで朝食を食べる。地産地消にこだわっているメニューである。りんごジュースとりんごジャムは手作りでとても美味しかった。

帰りは国道151号線で帰ることにした。



さすがに国道だけあって、トンネルと橋で山と川をショートカットするので所要時間が早い。お昼には豊橋に到着した。

2日間の走行距離340km。





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2008年8月2、3日県道1号線~飯田へ2

2008年09月27日 | 日本
国道418号線と合流。ここはもう長野県である。





天竜川から離れ遠山川に沿って走る。



飯田線の旧線跡。この険しい山中を走る飯田線の建設は多くの困難を伴った事であろう。



つり橋。2年前にもこの橋を渡った。



川の流れがやさしい。ほっと一息つける光景である。



悪路の連続だったが、車もよく走ってくれた。




遠山郷かぐらの湯。



総檜作りの贅沢な建物である。ここの温泉は源泉かけ流しの天然温泉である。お湯がそのまま飲める。塩分が多く含まれていてしょっぱい。温泉で一服してから昼食を食べる。名物遠山ジンギス丼を食べた。なんで羊が名物なのか謎だが美味しかったのでよしとする。遠山郷の本当の名物は野生動物料理である。2年前は星野屋という店でイノシシと鹿を食べた。

温泉と食事で英気を養い、次の目的地下栗を目指す。

下栗は、最大斜度38度の急傾斜地で、今も雑穀を作り続けている集落であり、別名『日本のチロル』とも呼ばれている。標高800m~1000mの厳しい自然の中で、耕地や民家が密集し、日本最後の秘境というたたずまいをみせている。























下栗はどこを見ても絶景である。それにしても、こんな厳しい場所に人の営みがあることに感心する。ここの人たちはなぜこのような人里離れた厳しい場所に住むようになったのか?一説によると平家の落人が遁れて来た集落らしい。



集落の一番上に位置する高原ロッジ下栗。他にも2、3軒の民宿がある。

下栗を後にしてしらびそ高原に向かい林道を進む。





高度が上がったので雲も近くに見える。



天体観測をするようである。きっと夜はあたり一面が星の海になるのであろう。

山を登りきったところで、しらびそ高原に到着。標高1900m。



ハイランドしらびそ。登山客で賑わっている。眼前に広がる南アルプスに加え、北アルプス、中央アルプスまで望める高原は、アルプス展望台と言われている。



ハイランドしらびそ周辺は公園として整備されている。キャンプもできるみたいである。夏なのにここは別天地のような涼しさである。

















車で来れてこれほどの絶景を眺められる場所は中々無いだろう。

ここから飯田の町までは道も広くて走りやすい。悪路もここで終了である。長い下り坂をゆっくりと走る。2年前は途中で熊と鹿に遭遇したが、今回はそんな事も無く、無事に飯田に到着した。













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2008年8月2、3日県道1号線~飯田へ1

2008年09月24日 | 日本
8月2日 晴れ

2006年の8月に飯田へ車で旅行に行った。まだ豊橋に転勤して間もない頃であったので地理が不明瞭なのと車の運転が慣れていなくて、大変苦労した道中だった。しかし、三遠南信(三河・遠州・南信州に挟まれた地域)の険しい山々、人里離れた山村や雄大な天竜川の流れなどの風景が深く印象に残った旅であった。その後、何度かこの三遠南信を訪れたのだが、やはり最初の旅が一番印象深かった。今回は当時のルートを辿ってあの感動をもう一度体験したい。

午前8時に豊橋を出発。静岡県に入り浜名湖を見ながら走る。浜名湖の湖面が太陽の光に反射して美しい。いつ来ても浜名湖は美しい。天竜二股からは北の方向へ進む。2年前は初めて来る土地で道が不明瞭なのと途中で通行止めになったりでとても迷いながら進んだ。前回と同じ道を辿ろうとしたが思い出せない。似たような道を走り、渋川の集落を通った後は人気の無い山中の道を走る。



廃屋を発見。

国道473号線と合流する。ここからは人家が見え始め人の営みが感じられる。川が合流して平地が広がった所が浦川で商店街が連なるにぎやかな町である。ちょうど夏祭りの時期のようで小さな女の子が衣装を着て踊っている。神社へ奉納する舞であろうか。





浦川駅。



駅前にあった廃墟。裏側から見ると1階建て、表側から見ると2階建てに見える。斜面を利用して建てられてた不思議な構造になっている。一体、何に使われていた建物であろうか。



浦河駅前の光景。鮎釣りと歌舞伎で知られる町である。

浦川から山を越えるとこの地域の中心地である佐久間に到着する。道は山を登ってこれから佐久間ダムへ向かう。



佐久間の街並み。





素堀りの長いトンネルを抜け、山を登り終えたところが佐久間ダムである。



巨大なダムである。



ダムが相当な高さにあることが分かる。佐久間ダムは着工年が1953年で竣工年が1956年。 佐久間ダムは計画の段階で日本最大であった。当時日本最大のダムは栃木県の五十里ダム(男鹿川)の112メートルであったが、佐久間ダムは五十里ダムを43.5メートルも一挙に上回るハイダムであった。このためダム本体建設から完成まで最低で十年はかかると言われていた。しかし、アメリカ製の重機を投入し、この規模のダムとしては三年四ヶ月という当時の技術としては異例の短期間で完成した。革新的なこの技術はその後のダム建設のみならず、日本の土木技術にも大きな影響を及ぼし、「日本土木技術の金字塔」などと称えられている。一説にはこの佐久間ダムでの成功を見て関西電力は、難易度が高いと言われた黒部峡谷へのダム建設、即ち黒部ダムの建設を決意したと言われる。



ダムによって生成された人造湖は佐久間湖(さくまこ)と呼ばれ、全長33キロメートル、総貯水容量3億2684万トンであり、ダム・発電所と同様に日本有数の規模を誇る。

県道1号線は全線が天竜川水系(天竜峡、平岡ダム、佐久間湖、大千瀬川)の峡谷沿いを走る道路であり、トンネルが多い。旧富山村から佐久間ダムの間は狭隘な悪路が続く。ダンプカーの通行が多いため、多くのトンネル内に離合のための待避所が設けられている。別名険道1号線。ほぼ全区間に亘ってJR飯田線が併走、または天竜川を挟んだ対岸を走っている。全国的にも珍しい3県を通る路線である。





途中、このような素堀りのトンネルが連続する。トンネルの中はひんやりと冷たい。



トンネルには横穴があり、天竜川に抜けられるようである。

県道1号線は狭い道と素掘りのトンネルとブラインドカーブの連続である。対向車が全く見えないので運転にはとても気を使う。しかし、交通量が非常に少ないので滅多に対向車とはすれ違わない。ごく稀にすれ違うのは砂利を積んだダンプカーである。殆どが対向不可能な区間のこの道でダンプカーとすれ違うのは非常に危険である。唯一の方法は対向車の音を感知して対向可能な場所で待つくらいしかない。物音ひとつしない静かな道である。



全くの無人地帯ではあるが、佐久間ダムの建設に伴い天竜川の水位が上がり人家は水没したようである。当時の集落の様子が書いてあった。





川底に溜まった土砂を掘り出してダンプカーで運んでいる。ダンプカーばかり走行していたわけである。ダムができた結果、今まで海まで運ばれていた土砂がダムで止められてしまう。まめに土砂を掘り出さないとダムに土砂が堆積してしまうのでこうして運ぶのしか方法が無いのであろう。



ダム湖が延々と続く。



対岸に人家が見える。対岸を走る道は前面通行止めである。あそこにはどうやってたどり着くのであろうか。



旧富山村が見えてきた。





富山村(とみやまむら)は、愛知県の東北端に位置した村である。この小さな村が有名だったのは日本一人口の少ない市町村であったからである。人口は200人程度であった。現在は豊根村に編入されている。



村で唯一の信号機。交通量は大変少なく、信号機を設置する必要は無いのだが、子供たちが将来都会へ出て戸惑わないようにと教育目的で設置されたらしい。



メインストリート。



ここでも砂利を掘削、運搬している。



天竜川の対岸には飯田線の大嵐駅がある。隔離された富山村の貴重な交通手段である。



大嵐駅の先には夏焼トンネルがあり、夏焼集落まで行けるが、その先は通行止めである。

富山村を抜けるとまた人家の無い地帯になるが、道はいくらかは走りやすくなる。



対岸に集落が見える。天竜川の対岸の集落は後日、訪れてみたい。



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7月20、21日奈良、京都

2008年09月21日 | 日本
7月20日 

今年の夏は始まりが早い。そして猛暑である。この暑さでは海にでも行きたいところだが、海は自宅から近いのでいつでも行くことができる。今回の旅行も先月に続いて京都・奈良の神社仏閣巡りを楽しみたい。きっと海に行くよりも貴重な時間になるであろう。

まず世界最古の木造建築である法隆寺を見学する。



JR法隆寺駅からバスで5分。法隆寺前に到着。周りはのどかな田園地帯である。本日は快晴、日本晴れである。空が青く夏の空らしい。

法隆寺は聖徳太子ゆかりの寺院であり、創建は同じく聖徳太子ゆかりの寺院である大阪の四天王寺より約20年後の607年とされるが、確証はない。金堂、五重塔などがある西院と、夢殿などのある東院に分かれる。西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群である。法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。法隆寺は中学生以来の訪問である。当時は自分でお金を払わなかったので分からなかったが、拝観料が1,000円である。大体どこの寺院も拝観料は500円前後だが1,000円のところに法隆寺の価値の高さが現れている。何と言っても世界最古の木造建築である。



南大門。



中門。





法隆寺西院伽藍。世界最古の木造建築という事も納得できる建築物である。明らかに他の寺院とは建てられた年代が違う事が分かる。



五重塔。



金堂。



回廊。



東院への道。それにしても今日は暑い。気温は35℃以上あるだろう。



東院で有名なのがこの夢殿。

帰りは田園地帯を歩くこと20分。駅まで戻る。法隆寺が世界最古の木造建築に成り得たのも奈良、京都のような都では無く、このような何も無い場所に建てられた事が大きいと思う。何故なら後年の数々の戦災もこの地には及ばなかったからである。


法隆寺から奈良で京都行きに乗り換え。宇治で途中下車。



宇治といえば、平等院鳳凰堂。いわずと知れた10円玉の裏側に描かれているあの寺院である。ここに来たら昔から一度やってみたかった事を実行してみる。平等院鳳凰堂を正面にして10円玉の裏側を見る。実物との比較である。実物は想像していたより小さく古ぼけていた。ここでふと思ったのだが、自分の知っている限り、紙幣は大きく2回変わった。数年前にも変わったばかりである。一番古いのは聖徳太子、伊藤博文、岩倉具視である。それに対して硬貨は500円玉が出来たくらいで変化が無い。今後、紙幣はまた何度か新しくなるかもしれないが、硬貨は何も変わらないのかもしれない。











平等院は、9世紀末頃、光源氏のモデルとも言われる左大臣である源融が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものである。道長は万寿4年(1027年)に没し、その子の関白藤原頼通は永承7年(1052年)、宇治殿を寺院に改めた。

寺院らしくない遊び心溢れた風流さが伝わってくるのは元々は貴族の別荘だったからである。


その後、京都に行きホテルにチェックインする。時間も夕方近くなってきた。嵐山に行って桂川の夕焼けを見たくなった。



ホテルのある四条河原町から阪急で四条大宮まで移動。



四条大宮からは京福嵐山線に乗り換え。



長い編成で地下を走る阪急と違って路面電車である。古都に相応しい乗り物である。



終点嵐山に到着。路面電車なので駅が多く速度が遅いのと信号でよく停まったりするので、思ったより時間がかかってしまった。



昼間は観光客で溢れかえる嵐山も夕方の時間を迎えて徐々に落ち着きを取り戻してきた。



嵐山は京の都の外れにあり山が迫っている。桂川はここから上流は峡谷となり名前も保津川となる。



渡月橋も昼間の喧騒が嘘のようにひっそりとしている。



嵐山で迎える日暮れ時。河原に腰掛ぼーっとする。



この時間は観光客の姿はほとんど見えなくなる。川沿いは地元の人たちの憩いの場となる。



今日も日が暮れる。しかし、京の夜はまだまだこれからである。

帰りは阪急で四条河原町まで戻る。



夜の祇園。



一見さんはお断りなのであろうか。



行きかう人々も無くひっそりとしている。



置屋の玄関。芸妓さんの名が表札に掲げてある。



鴨川沿いの光景。川床料理の店が建ち並ぶ。



先斗町の通り。観光客で溢れかえっており、どの店も予約無しでは入れない。先斗町から四条方面へ向かったお好み焼きの店でやべっちを見かけた。男性・女性の5人グループである。この店は外から店内が見える。店内に入って間近で見たが確かにやべっちだったと思う。土曜の夜に何で京都のお好み焼きの店にいたのであろうか。謎である。


7月21日

バスで宝ヶ池にまで行ってみた。宝ヶ池公園は池のある大きな公園だった。ただそれだけである。京都の中心部へ戻るため叡山電鉄で終点の出町柳まで行ってみる。



叡山電鉄はその名の通り比叡山の入り口や牛若丸が育った鞍馬まで行く路線である。比叡山は一度は行ってみたい。紅葉が綺麗な秋に行ってみようと思う。



出町柳は京阪の始発駅でもある。ここから大阪まで行くことができる。



ここは加茂川と高野川の合流するところである。二つの川は合流後、鴨川と名前が変わる。



鴨川もここまで来ると川床料理の店も無く、地元の子供たちの水遊びの場である。



二つの川が合流する地点は下鴨神社の広大な敷地が広がる。



君が代に歌われたさざれ石。



下鴨神社。

今日は京都でまだ行ったことのない寺院に行ってみようと思う。まずは龍安寺。



龍安寺といえば枯山水の石庭が有名である。幅25メートル、奥行10メートルほどの敷地に白砂を敷き詰め、帚目を付け、15個の石を5か所に点在させただけのシンプルな庭である。近世の地誌類には、室町幕府に仕えた相阿弥の作庭と伝えるが、作者、作庭年代、表現意図ともに諸説あって定かでない。室町時代末期の作で特芳禅傑らの優れた禅僧によって作られたものとも伝えられる。

15個の石は、庭をどちらから眺めても、必ず1個は他の石に隠れて見えないように設計されているという。しかし、中の部屋から1ヶ所だけ15個の石すべてが見える位置があるらしいが、どこから見ても石は14個しかなかった。



この部屋の中のどこかから見ると15個の石すべて見えるのであろうか。



知足の蹲踞。



鏡容池。

金閣寺・銀閣寺・清水寺ほど観光客でごった返していない。龍安寺は落ち着ける空間と時間があった。ここで石庭を眺めながら日本人の侘び寂びの精神について思索を巡らすのもいい。

次は歩いて隣の仁和寺に行く。隣といっても1kmくらい離れている。中学か高校の古文の授業で習った徒然草の仁和寺にある法師の話は細かい内容は覚えていないが間抜けで笑える話だった。



二王門。京都の寺院でも最大級の巨大な門である。



中門までが遠い。京都の寺院の中でも最大級の敷地の広さである。









宸殿の北庭。







五重塔。



金堂。



金堂に一礼して修行僧が立ち去って行く。仁和寺にある法師の話のような間抜けな僧侶にならないようにしっかりと修行してもらいたいものである。



中門から二王門を望む。


二日間で神社仏閣を沢山見てきた。もう十分である。仁和寺で終わりにしようと思う。神社仏閣ばかり見るとやがて飽きてしまう。まだお昼過ぎだが、豊橋に帰ることにする。次回は秋に比叡山の紅葉を見に行こうと思う。

おわり




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6月27~29日大阪・姫路・神戸・奈良

2008年09月21日 | 日本
6月27日 大阪

毎年この時期になるとO君が神奈川から遊びに来てくれる。2006年は日間賀島、2007年は岐阜に行った。今年は関西である。京都以外の場所に行きたいとの希望なので大阪、姫路、神戸、奈良に行くことにした。



道頓堀の光景。



大阪名物くいだおれも閉店となる。くいだおれ太郎の前は記念撮影をする人たちで溢れかえっている。




大阪ドームで野球観戦。



オリックスVS日ハム。



日ハムの先発はエースダルビッシュ。



試合は序盤、日ハムが優位に進めるも、オリックスが徐々に追い上げ、最終回1点差に迫りなおも1アウト満塁。しかし、最後はマイケルに抑えられる。



初めて来た大阪ドームでいい試合が見れた。



6月28日 姫路・神戸

城好きのO君のリクエストで姫路に行く。大阪から姫路は約90km。JRで1時間。



世界遺産 姫路城。



風格のある姿である。



天守閣から姫路駅方向を望む。





姫路はレトロな町である。懐かしい昭和の光景があちこちに見られる。

次は神戸に移動。



メリケンパークからの光景。



神戸タワー。ここからの眺めは横浜の山下公園に似ている。



帆船(日本丸)が見える。横浜の山下公園は汽船(氷川丸)である。



港の近くには中華街がある。これも横浜と同じ。



中華街の規模は横浜の四分の一くらいであろうか。



元町商店街。横浜にも元町商店街がある。


6月29日 奈良

大阪から奈良へは近鉄で40分。平城京の都が置かれた奈良は平安京に遷都した後も南都と呼ばれ一定の賑わいを見せたそうである。観光客で騒々しい京都より落ち着いた奈良の佇まいの方が古都らしく、個人的には好きである。



春日大社。



奈良といえば鹿。



どこへ行っても鹿だらけである。



東大寺南大門。



大仏殿。世界最大の木造建築である。



言わずと知れた奈良の大仏。日本で一番有名な大仏であろう。



気品溢れるお姿である。







古都らしい風景。観光客の多くは京都に行くが、奈良に来ないのは勿体無い。



世界遺産薬師寺。奈良の郊外に位置する。



金堂。ここでお坊さんのありがたいお話を伺った。お坊さんは20代の若い方であったが、5歳の時、親に連れてこられ少年僧になったそうである。日本でもまだこういう話があるのに感心する。古都の人々は信仰心が篤い。



五重塔は創建当時のものである。


奈良から近鉄で京都に移動して、新幹線に乗り換え。相変わらず京都は観光客が多い。この夏には京都をゆっくりと観光したい。


おわり





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6月22日大井川とSL

2008年09月15日 | 日本
6月22日 晴れ

「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と歌われた東海道屈指の難所大井川を遡ってみようと思う。

現在の大井川はダムが6箇所も建設されているので川幅は広いが砂利ばかりで水量は少ない。そのため、往時の様子は伺いしれないが、江戸時代は平均水深が76cmあり急流であったであったことから、江戸の防衛に加え家康の隠居城であった駿府城の外堀の役目を果たすため、架橋はおろか船による渡し舟も厳禁とされた。このため大名・庶民問わず大井川を渡河する際には馬や人足を利用して輿や肩車で渡河した川越(かわごし)が行われた。東海道屈指の難所であり、『箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川』とはこの難所・大井川を渡る苦労を表現した言葉である。洪水の際には川留めが行われ、大井川を渡河する拠点として賑わう宿場町として金谷等が発展した。

豊橋から国道1号線を走ること2時間で金谷に到着。往年は大井川の渡しの宿場町として賑わった金谷の町も今ではひっそりとした田舎町である。金谷からは国道473号線を大井川に沿って北上するルートになる。



金谷駅を出発するSL列車。金谷はSLの運行で有名な大井川鉄道の始発駅でもある。

国道473号線沿いは茶畑が広がる静岡県らしい光景が広がる。大井川周辺は川根茶の産地として有名である。大井川沿いの道はやがて国道362号線へとナンバーが変わる。国道473号線は西へ進路を変え、今度は天竜川に寄り添い北上する。その後は奥三河をしばらく西進し、次に向きを南に変えて最後は岡崎市で国道1号線に合流する。何を目的として作られたのか、良く分からない不思議なルートを辿る国道である。

国道362号線をしばらく北上すると徳山に到着する。ここには高校(川根高校)もあり、このあたりの中心地のようである。



駿河徳山駅。レトロな感じがいい。



SL列車が到着。どうやら途中で追い抜いたようである。



車内は家族連れが多い。小さな子供も多い。小さな子供たちにとってSLに乗るなんて初めての経験であろう。



駿河徳山駅を出発。終点の千頭駅にはどちらが早く到着するであろうか。



茶畑が広がる山村風景。ちょうど一番茶の収穫時期のようで茶摘をしている光景を何度も見た。



SLといい、古い家屋といい、まるで昔にタイムトリップしたような地域である。



千頭駅に到着。SL列車はまだ到着していないようである。車の勝ちであるがSLなので遅いのも仕方ない。ゆっくりと走るSLの方が景色も楽しめるので観光客には好評であろう。



5分もするとSL列車も到着した。案外いい勝負であった。



千頭駅からはおもちゃの列車みたいなアプト式列車に切り替わる。急勾配の登山列車で日本でここしか走っていないとのことである。



千頭からは県道77号線に道が変わる。県道でも片側1車線で道幅が広くて走りやすい。大井川も渓谷の様相を呈してきた。



眼下の大井川鉄道と並走して走る。



駅はあるが集落は無いので乗降客はいないようである。



このあたりは大変良く整備されていて綺麗である。道も走りやすい。しかし、ガソリン高の影響か車・バイクは全く走っていない。



長島ダム。



急斜面に茶畑が広がる。おいしいお茶が育つ環境なのであろう。



接岨峡温泉に到着。



せっかくなので温泉に入る。若返りの湯といわれる良質の湯とのことである。ここの湯は不思議なことに長い間湯に浸かっても汗を掻かない。

しばらく誰も先客がいない湯船に浸かっていると二人組みの観光客がやって来た。話をすると千葉県からやって来たとのことである。以前、船橋に住んでいたと言うと話がはずむ。一人は松戸、もう一人は市原に住んでいるとのことである。ここまでは列車で来たそうだが、大変不便だと言ってた。大井川鉄道の千頭・井川間は1日5本しか運行していない。

時間も1時を過ぎたので唯一あった喫茶店で食事をする。お腹が空いたので牛丼を食べる。店には他に客はいない。マスターの話ではやはりガソリン高の影響で車・バイクの観光客がだいぶ減っているようである。原油高で飛行機代も高くなり海外旅行も行きずらくなったが、国内旅行も行きずらくなって来た。店の下の斜面には茶畑が広がる。お茶について聞いてみると、さすがに詳しく勉強になった。有名な川根茶といっても、今は日本全国で栽培されているお茶がやぶきたという同じ品種なので川根茶が特別においしい訳ではない、国内のお茶の生産も生産者の高齢化であと5、6年で終わりになるのではないかとの話が印象的だった。この後、井川まで行くと言ったらここから先は道が急に狭くなるので気をつけてとアドバイスを頂いた。

接岨峡から先は喫茶店のマスターの言う通り急に道が狭くなるので十分に気をつけて走行する。幸いなことに対向車もあまり無く、無事に井川に到着した。



井川大仏。



井川ダムによってできた井川湖の周りに井川の集落は形成されている。険しい道を通り抜けると突然大きな集落が見えてくる。ちょっとした驚きである。しかし、この山間部でこれだけの住宅があるのが不思議である。一体、ここの人々は何の仕事をしているのであろうか。



井川駅。集落からはだいぶ離れている。鉄道でここまで来た人は何もない終着駅だと思うであろう。



あたりは作業用のバカでかいダンプカーが往来するのみである。井川からバスの路線があり、バス停があるが井川の住民はあまりこの鉄道を利用していないと思われる。この路線は大井川のダムの建設用に作られたものを観光用として運行しているのであろう。黒部川の黒部峡谷鉄道と同じである。



金谷から続いた大井川鉄道もここで線路が途絶える。

千頭への帰り道、接岨峡温泉で一緒だった千葉の二人組みを見かけたので乗っていかないかと声を掛けたが、電車で帰るとのことであった。きっと鉄道の旅が好きなのであろう。



ちょうど千頭駅から金谷駅行きのSL列車が出発するところであった。帰りもSLと競争である。帰りのSLは後ろ向きに走るようだが、ちゃんと前は見えるのであろうか。



金谷駅行きのSLだが車体にタイ文字が書いてある。後で調べたのだが、戦時中にタイに出征した車両が、日本へ戻って来てここで活躍しているとのことである。

帰りは行きと同じく国道1号線を通り豊橋まで戻った。

本日の走行距離350km。






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12月23日三ヶ根山スカイライン・知多半島一周6

2008年08月04日 | 日本
結構走った気もするが、まだ時間も午後1時過ぎである。天気も晴れてきてこのままずっと走り続けたい気分だ。国道247号線をまっすぐ進み衣浦トンネルを通り知多半島へ出る。知多半島は発電所、製鉄所やガラス工場が建ち並びさすが製造業日本一の愛知県といった風景が連続する。それもやがて終わり名鉄の終点の河和を過ぎると完全に漁村の光景である。

知多半島先端の師崎に到着。



ここからは日間賀島や篠島、対岸の渥美半島の伊良湖までのフェリーが頻繁に発着している。



去年の夏に行った日間賀島が目の前に見える。



夏は海水浴で賑わうのだが冬も名物のふぐを食べに行く人たちで賑わっている。

国道247号線は知多半島の反対側に周り海岸沿いをひた走る。今日は波も穏やかでとても12月の海とは思えない。



豊浜の魚ひろばを覗く。



アメ横みたいでスーパーで買うより断然安いがひとりでは食べきれないので何も買わない。





北上するにつれ旅館や民宿が増えてくる。おしゃれなレストランやカフェもあり、サーフィンをする人たちで賑わっている。なんだか湘南にいるような気分である。一面キャベツ畑の渥美半島とは大きな違いである。これも名古屋に近いので都会のセンスのある人たちが集うからであろう。

途中で昔、父親が乗っていたのと同じ型の車を見た。何十年ぶりに見かけた。オーナーさんにはこれからも大事に乗り続けてもらいたいものである。



半田市内は渋滞。日曜の夕方はどこでも渋滞するので仕方がない。刈谷を抜けて安城で国道1号線に合流。さすがにすいすいと走れる。しかし、いつもの事であるが岡崎市内で渋滞。岡崎を抜けるとハイペースで走り豊橋市内に入る。いつも行くスーパー銭湯で湯につかるが異様に塩素臭い。目が痛くなるくらいだ。ただでさえ塩素臭いのが嫌いでなるべく天然温泉に入るようにしているのだが今日はひどい。季節柄細菌の繁殖が多いので塩素を多めに入れてあるのであろうか。いつもゆっくり湯につかるが今日は早々に退散して帰途についた。家に帰っても肌がずっと塩素臭かった。もうしばらく行くのはよそうと思った。

本日の走行距離 224km。
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