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Asianwalker

アジアの路地裏から

2015年10月31日~11月4日台湾一周その2

2017年03月04日 | 東南アジア
2015年11月2日(月)


台南から高雄へは、往年の台湾最強最速特急の自強号で移動。台湾新幹線が開通しても、相変わらず自強号の本数は多いし、乗客も多い。日本は新幹線が開通した区間は特急、急行はほとんど走っていない。長距離を急ぐ乗客は高額な運賃を払って新幹線に乗るしかない。JRは台湾国鉄を見習って、乗客にもっと選択肢を与えてもいいのではないか。元植民地から学んでもいい事だってたくさんある。日本はアジアに学ぶ事は無い的な、変なプライドは捨てる段階に差し掛かっている。





高雄から、花蓮まではディーゼル特急で移動。ここから台湾の南側を廻って、東海岸へ出る。台湾の日本海側ともいえる人口の少ない地域である。






車内の雰囲気も一気にローカル度を増す。東南アジア的というべきか。スーツ姿のビジネスマンの姿は少なくのんびりしている。





しかし、平日にも関わらず満席である。隣の席の全身黄色の服のおばさんと話しをする。お寺に参拝に行くそうだ。お菓子をくれる、ひまわりの種。久しぶりに食べたが、東南アジア的な味ではない。あっさり塩味だ。

「お腹が減ったので、お菓子ではなく、弁当でも食べたい。」と言ったら、太った体からは想像できない素早さで、関山の駅降りたと思ったら、ホームを猛ダッシュして、弁当を買ってきてくれた。しかも、1つだけ。自分の分はいらないらしい。しかも、お代は絶対に受け取らない。ありがとうおばさん。太っていて膝が悪いと自分で言っていた人とは思えない機敏な動きと俊足だったよ。

もし、日本で同じ場面になったら、絶対に台湾人旅行者に1つだけ駅弁を買ってあげようと思った。











台湾東部の人口のまばらな風景は、のんびり、そして、曇り空の為、心なしか寂しい。今回で4-5回目の台湾だが、いつも台湾は雨か、曇りである。そして寒い。晴天の台湾は、高雄と嘉儀の午後の昼下がりだけであったと記憶する。


花蓮に到着。駅の様子は大きくは変わらない。ホーム番線が沢山ある大きな駅である。









駅前は相変わらず広々とし、閑散としている。北海道の駅みたいである。








市街地までは歩いて20分程度。雨が降り出してきそうである。








前回と同じホテルに宿泊。名前も変わったが、料金も値上がりした。6年前のあばた顔の親切なフロントの女の子はおらず、当時のその子と同じくらいの年齢の女の子がフロントにいる。6年前にここに泊まったことがあるといっても、英語がうまく通じないのか、ポカーンとしている。しかし、それはそうだろう。6年前はおそらく中学生くらいだったのではないか。


部屋はすっかり、リノベーションされて、今風である。料金も値上がりするわけだ。








時折、雨が降る中、旧花蓮駅に行く。蒸気機関車があり、鉄道公園として、保存中である。

街歩きを楽しむが、6年前とあまり変わりはないようだ。





前回、行けなかった鴨料理の店に行く。美味であった。





そして、前回も行った、台湾で最も有名なワンタンの店。相変わらず美味しい。台湾一に間違い無い。








街歩きをもっと楽しみたかったが、大雨であきらめる。いつ来ても「花蓮は今日も雨だった。」と言うしかない。


3日目終わり。



2015年11月2日(月)


朝の花蓮駅。台北方面へ移動。振り子式の新型特急列車が運行しており、時間が短縮になった。デザインがかっこいい。普悠瑪号。安全と信頼の日本製。最高速度は140kmで走る。JR特急の最高速度の130kmより断然速い。しかし、スペックは同じである。最高速度の違いは単に、日本と台湾の鉄道の法律の違いである。








基隆に行ったことがないので、今回は行ってみたい。途中の八堵で乗り換え。









しかし、基隆行は出発したばかりで、しばらく来ない。外は大雨。しかも寒い。この寂しげな駅でひとりでじっとしていたら、基隆に行くのが嫌になってきた。





結局、台北に来てしまった。雨もやんでほっとする。





昼食を食べる。またもやB級グルメ的な美味しさ。





台北に早く着いてしまったので、西門など、今まで行ったことのない繁華街に行く。東京となんら変わりはない。









バスで故宮博物館へ行く。





中国人の団体客でごった返しており、うるさい。しかし、見どころは多い。さすが、世界三大博物館である。


帰りのフライトは夜行便である。温泉に入ってから、飛行機に乗りたい。

有名な北投温泉に行く。市内中心部から地下鉄で40分程度で行けてしまうのだが、これが本格的な温泉でびっくりする。草津クラスの温泉が都心から40分のベッドタウンにあるようなものである。











巨大な日本式の温泉旅館が連なっている。なんと加賀屋がある。日本一の旅館が台湾進出である。





一方で、昔ながらの銭湯スタイルの公衆浴場もあり、こちらは気軽に利用できる。





銭湯では洗い場がなく、シャワーもないので、頭が洗えないので、旅館の日帰り入浴に入る。1,500円と高額である。

しかし、お湯は真っ白な本物の硫黄泉で、長時間ゆっくり浸かるのにはいい。広い浴槽にシンガポール人の公務員の青年と2人で入る。彼は日本語が達者で、留学していた訳ではないが、日本政府の招待で日本に滞在した事があるし、旅行で日本には何度も来たことがあり、日本について詳しい。それ以上にドラえもんに詳しい。日本語に興味をもったきっかけはドラえもんだそうだ。よくある話である。


シンガポールの公務員は長時間労働の激務でストレスが溜まるらしい。それは大変お疲れ様でした。ゆっくり温泉で疲れを癒して下さい。


帰りは、台北駅前の三越をぶらぶらして、夕食を食べる。高い割には、またもやB級の美味しさである。B級グルメ王国台湾を満喫した旅であった。





台北駅から空港までは、いつも國光号と決めている。アメリカ製のアルミボディと後輪が2輪あるところが、アメリカンなストロングスタイルでカッコいい。車体は老朽化著しく、料金は全バス会社の中で最も高いが、これは譲れない。台湾の旅を締めくくる儀式みたいなものである。


深夜の空港は閑散としている。しかし、これが台北の空港の基本的な姿である。東京やバンコク、ソウル、上海、北京とは人口規模、国際線の便数、国内線の便数(ほとんど無いに等しい)が格段に違うのである。











深夜のフライトで羽田に早朝着。そのまま出勤である。

6年ぶりの台湾。中国本土やアセアン諸国といったマネーが流入する実力以上の見せかけ成長国と違って、あくまで実力本位の堅実で着実な成長国である。悪く言えば変化を感じない老成された感じは既に日本と同じである。民度も高く、人は親切。B級グルメ的な美味しさに満ちている台湾。また、6年後あたりには特に理由もなく、ぶらり途中下車の旅をしている予感がする。



4日目終了。



終わり。

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2015年10月31日~11月4日台湾一周その1

2017年02月25日 | 東南アジア
2015年10月31日(土)


台湾は2009年の2月以来、約6年ぶり4回目である。前回は鉄道で台湾を一周した。今回も同じように一周したい。

早朝に羽田を出るLCCのピーチ便が台北まで就航しており、最近は安価である。

初めての台北到着は今でもはっきりと覚えている。日本の「昭和」を感じる佇まいに、既視感を覚え、市内バスの日本語の呼び込み、礼儀正しく丁寧な係員のお姉さんに台北の町中のホテルを紹介してもらった。

日本から独立して50年後も、しっかりと日本の精神を受け継いでおり、大日本帝国の残滓を初めて感じたのが、台北空港での出来事であった。それから、至る所でそれ以上の残滓というか、遺産を感じたものである。

バスの切符売り場の雰囲気ががらりと変わり、今ではとても近代的である。当時の面影を探しても何も残っていない。
唯一、切符売り場の配置レイアウトに面影を残す程度である。

バスで直接、台中へ向かう。高速道路は大渋滞。3時間ほどかかって、台中に到着。

名物の巨大な餃子に似た食べ物。お昼時を過ぎているにもかかわらず、店内は大混雑。








注文方法や食べ方を隣の席のおじさんが説明してくれる。いつ来てもフレンドリーな台湾の人々である。旅がしやすい。

台中から埔里鎮に向かうバスに乗る。





埔里鎮は台湾のへそとも言われ、位置的に中心地になる。

台湾の田舎らしい、昔ながらのバスターミナルが町の中心。





ここが台湾の中心らしい。





夕食はあまりぱっとしない安食堂で食べる。台湾はB級グルメの国だとつくづく思う。高級な料理に出会うことは少ないが、B級のそこそこ美味しい料理があふれている。お財布にも優しい。





人口8万人の南投県では県庁所在地の南投市(10万)に次ぐ規模の都市であるが、繁華街はそこそこで、夜は早い。





1泊3,000円の安宿の部屋のクオリティに懐かしのアジアの夜を感じながら就寝。

1日目終わり。




2015年11月1日(日)


朝早く起きバスターミナルへ向かい始発のバスに乗車し、山道を延々1時間30分進むと、霧社に到着。












1930年10月27日霧社セデック族マヘボ社の頭目モーナ・ルダオを中心とした6つの社(村)の壮丁300人ほどが、まず霧社各地の駐在所を襲った後に霧社公学校の運動会を襲撃した。このため、事件の犠牲となった民間の日本人約140人の内には多くの女性、子供が含まれており、彼らは無残にも首を切り落とされていた。

蜂起の連絡を受けた日本軍や警察は鎮圧を開始した。日本側は2日後の10月29日には早くも霧社を奪回した。霧社セデック族側は山にこもり、霧社襲撃の際に警察から奪った武器弾薬を使って抵抗した。11月1日の戦闘では暴徒側は日本側の鎮圧に抵抗したが、指揮を取っていたモーナの次男バッサオが死んだ。11月初めにはモーナ・ルダオが失踪し、日本側は親日派セデック族を動員し、11月4日までに暴徒側部族の村落を制圧した。モーナの失踪後は長男のタダオ・モーナが蜂起勢の戦闘を指揮したが、12月8日にタダオも自殺した。12月中に鎮圧軍は現地の治安を完全に回復し、戦闘は終結した。

台湾原住民による日本時代後期における最大規模の抗日暴動事件。霧社事件である。





現在は、山間の静かで平和な村である。






埔里鎮に戻り、日月潭行きのバスに乗り換え。


台湾で最も大きい湖の日月潭。しかし、あいにくの雨。リゾート地は何よりも天気が大切である。













雨で寒い中、こんな所にいても気が滅入るだけである。仕方がないので、バスで水里に向かう。









台湾で最も有名なローカル線の集集線に乗車。






終点の車埕までは一駅。しかし、7.3kmと北海道のローカル区間なみの駅間距離である。






休日であるのだが、ローカル線とは思えないほどの賑わいである。列車も6両編成である。特急列車なみの長大編成である。

ローカル線は2両編成がよく似合う。












日本のローカル線以上にノスタルジックな雰囲気を味わえる。集集線。歴史は古く日本時代に開通している。路線距離は二水 - 車埕間で29.7km。

ここは沿線の中心駅である集集駅。日本時代の駅舎が残る。





二水で高雄方面に乗り換え。時間があるので、昼食を食べに町を探索する。









古きよき時代の東南アジアを感じる怪しげな駅前ホテル。








二水から台南に向け、急行列車に乗車。機関車が客車をけん引する。昭和の国鉄末期の東北本線を思い出す。





台南に到着。












台湾の古都台南は歴史とグルメの町である。












食への賑わいにアジアを感じる。B級グルメ的な美味しさである。台南は飲食店が多い感じがする。当然、何を食べても美味しい。












台湾は1回の食事の量が少ないのがいい。夜食にステーキ。900円くらい。でも美味しい。ステーキまでもB級グルメ的な美味しさ。これはやめられない。









台南駅近くの、台湾的な安宿が今夜の宿。帰って寝るだけなら、十分である。台湾で優雅なホテルステイなどした事がない。毎回、待ち歩きを楽しみ、B級グルメに舌鼓を打ち、夜食を食べると既に深夜である。



2日目終了。
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2013年8月14日~19日スリランカ3

2013年11月09日 | 東南アジア
2013年8月17日(土)


GDHの朝食は港の見える最上階のレストランでおいしいパンとカレーとフルーツを朝からお腹いっぱい食べられる。コロニアルホテルのコストパフォーマンスの高さに大満足である。ここでも若い日本人の女性グループを見かける。さすがに情報感度が高い。ホテル選びが秀逸である。


アリーさんが迎えに来てくれる。従業員に車を運転させている姿をみると社長だなと実感する。アリーさんはしきりにニゴンボに行っても海しかないから、もっとコロンボにいることを勧める。昭和天皇もご宿泊されたスリランカで最高のコロニアルホテルをGDHと同じ値段で泊まらせてあげるからとも言われる。そんなに海が好きなら、そこは世界で唯一の海水が入ったプールがあるとも言われる。さすがに心が揺らいだが、コロンボの喧騒と熱気とは、もういいかげんさよならしたい。


ニゴンボ行のインターシティは古い日本製の中古のミニバスだがエアコン付で快適である。コロンボ市内の大渋滞を抜けて、2時間でニゴンボバスターミナルに到着。


ニゴンボはスリランカ有数のビーチリゾートである。空港やコロンボに近いのが利点である。本当は南部にあるヒッカドゥアに行きたかった。ヒッカドゥアは伝説のヒッピー文化とサーフィン文化が根づいている歴史あるビーチリゾートである。


オートシキシャーでリゾートエリアに行く。ホテルが林立しており、将来を見越した開発ラッシュといった感がある。

その中で手頃な値段でプール付のトパーズリゾートを選ぶ。海の見えるエアコン部屋は1泊40ドル。フロントの女の子はいつもニコニコしていて、とろけるような笑顔である。経済発展前のタイ人が見せる笑顔を思い出した。最近のタイ人はとろけるような笑顔をしなくなった。

値段相応の部屋であるが、独り者にはこれで十分である。












早速、ビーチに繰り出す。















スリランカにサンゴ礁のビーチは1か所しかないらしいので、まあ、こんなものである。南インドやパキスタンのビーチと同じような風景である。


通りには宝石店(スリランカはダイヤモンド以外は何でも採れるらしい。)や外国人向けのスリランカにしてはしゃれたレストランが多い。









イタリアンレストランでパスタを食べた後は、プールサイドで文庫本を読みながらゆったりとした時間を過ごす。ホテルに置いてあった恩田陸のライオンハートを読む。聞いた事のない作家であったが、思いのほか面白かった。


やがて日が暮れてきた。昼間は閑散としていたビーチも大勢の地元の人々で賑わってきた。


















ビーチの方が、昼間から大音量でやかましいと思っていたが、移動式コンサートが開催されていた。








今の時期のビーチはモンスーンの影響で波が高いので泳ぐには向いていないが、地元の人々はお構いなしに波遊びを楽しんでいる。


インド洋に沈む夕日は、ここが地の果てだと言わんばかりに、じっくりと時間をかけて日が沈む。









スリランカの人々大人も子供は凧揚げが大好きだ。そういえば、子供の頃、凧揚げは大好きだった。日本ではなぜか正月しか凧揚げをする習慣がないので、もっぱら正月に凧揚げを楽しんでいたが、小学4年生の時、親・兄弟家族全員が寒いから外に出るのが嫌だと言って、自分一人で凧揚げに行った事があった。東北の真冬のカチンカチンに凍結した地面で凧揚げをしようと思いっきり走り出したら、滑って転んでしまい、気が付いたら、自宅のベッドで寝ていた事があった。その間の記憶は全くない。道端で頭を打って失神したまま、誰かに発見されたのであろう。そのままベッドに寝かして治療は終わりであった。今どきの親なら心配で病院に連れて行くのであろうか。





夜はシーフードレストランで大きな海老4尾を食べる。もちろん大量のビールと一緒に。


ほろ酔いで通りを歩く。宝石店の若い店員と話が弾む。彼は日本に行きたいそうだ。スリランカにはチャンスがないと嘆く。13世紀にマルコポーロはスリランカを訪れた際、ここは世界で一番すばらしい場所だと言ったそうだ。本当にそうだと思う。スリランカの素晴らしさを逆に説明する事になってしまった。もちろん日本の世知辛さも説明したかったが、こちらの語学力不足でうまく伝わらなかったのが心残りであった。


4日目終了。




2013年8月18日(土)



今日は本当にする事がない。ニゴンボはスリランカで最も巨大な魚市場があるので有名である。

市内バスに乗り、リゾートエリアから市街地へ移動しようと思ったが、いつまで経ってもバスが来ないので、オートリキシャーで移動。

市場の賑わいはアジア諸国どこに行っても同じである。





非常に古い魚市場。今はほとんど使われていないようである。





ここは野菜や日用品が多く売られている。












ようやく魚市場らしくなってきた。





海岸では干物を大量に作っている。









肝心の魚市場だが、今日は日曜日なのでお休みらしい。








行商人が近くで魚を売っている。迫力に欠けるが、魚を見れたので良しとしたい。
























ニゴンボの街中は取り立てて見るべきものはなく、どこにでもあるスリランカの田舎町である。





バスターミナルに行き市内バスでリゾートエリアへ行く。


昼食には、本場のおいしいカレーを食べたい。レストランに行くと今から調理するので、30分かかると言われるが、時間はたっぷりある。おいしいカレーの為なら、時間は惜しまないから、おいしく作って下さいとお願いする。

それにしても、スリランカのカレーは本当に感動のおいしさである。おいしいカレーは量が多く、また何種類もあるのが、嬉しい。


後はもうする事がない。今話題のアユールヴェーダでも受けようと思ったが、思いのほか高いのでやめる。


代わりにバーで昼間から酒を飲む。ライオンというビールが安くておいしい。ビールを2杯飲んだ後は、ジャックコークを飲むが、これが思ったより高かった。アジアの貧しい国にありがちだが、為替が弱くて、外貨を獲得する手段に欠けている為、輸入品は日本以上に価格が高い。しかし、モルディブ、ドバイの高級リゾートで長年働いていたという、バーテンダーとの会話が弾み楽しい時間を過ごせて良かった。隣接するレストランから大きなロブスターを持って来て、スペシャルオファー価格で、これを今夜食べないかと言われるが、思ったより高いので、やめる。手持ちの金も少なくなってきた。


昨日に引き続き、プールサイドでのんびり本を読む。ビーチリゾートはやはりこの時間が一番贅沢だ。


昨日に引き続き、夕焼けの時間は大勢の人々でごったがえしている。スリランカの若者に話しかけられるが、地元の不良中学生といった感じである。勉強頑張れよ!と言って立ち去る。


髭づらの背の高い外国人観光客が貸自転車に乗ってビーチにやって来た。自転車の後ろには玉川高校とステッカーが貼ってあるので、おもわず笑ってしまった。何がおかしいのか?と聞かれたので、この自転車はかつて日本で高校生の通学用で使われていたようだと説明する。それが何だ、何がおかしいのだ、と言いたげな腑に落ちない表情である。

反対にここはいつもこんなに大勢の人々で賑わうクレイジーなビーチなのかと質問される。実は旅行で来たので良く分からないが、多分、いつもこんなに大勢の人々で賑わっていると思うと答える。二人でスリランカはクレイジーだと笑いながら夕焼けを見る。

外国人観光客、なぜか欧米の女性の一人旅の多い場所である。みな思い思いに夕焼けを見ている。ここはもしかすると本当に地の果てなのかもしれない。大勢の人々で賑わっているのに、なぜか感じる寂寥感。


今日も昨日と同じレストランで同じ海老を食べる。顔見知りになったウェイターと話が弾む。

明日、空港に向かうタクシー代もクリーニング代も支払い済みである。多分、もう2度と来ないであろうスリランカだから、金は全部使い切ってしまいたい。昨日同様に大きな海老をたくさん食べて、ビールをたくさん飲んだ。デザートにアイスも食べた。

明日の朝は5時出発だから早めに寝ることにする。


5日目終了。




2013年8月19日(日)、8月20日(月)


朝の3時に従業員のノックで起こされる。モーニングコールは4:30にお願いしたはずだが、これには苦笑するしかない。


タクシーを予約しておいて良かった。通りにオートリキシャーは1台もいない。人通りも車も全くない。


空港までは近い。30分である。


とても寒い空港で2時間以上費やし、シンガポールに向けて出発。


スリランカ航空の機内食のカレーもおいしいカレーで良かった。


シンガポールでは夜のフライトまで時間があるので、市内中心部まで繰り出すが、東京にいるのと何ら変わりはない。こんな場所に海外旅行に来る意味が分からない。ショピングとグルメを楽しむしかない場所である。


たんまりおいしいグルメを堪能して、空港でシャワーを浴びて、機内で熟睡したら、羽田に到着。

そのまま何食わぬ顔をして出勤するのもいつものパターンである。

しかし、さすがにその日は頭がぼーっとして仕事の能率が悪かった。

今回のスリランカ旅行は、またひとつ行ったことのある国が増えたのが、収穫であった。


6日目、7日目終了。


終わり。
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2013年8月14日~19日スリランカ2

2013年11月02日 | 東南アジア
2013年8月15日(木)



今回の旅は特に目的地も定めていない。ホテルの予約も初日だけである。

ヌワラエリアというセイロンティーの栽培で有名な高原地帯に行こうか、仏教遺跡で有名なタンブッラに行こうか迷う。

目的地を決めずに、とりあえず駅に向かう。

ヌワラエリア方面の列車の発車時刻が近い。コロンボが始発のようであるが、混んでいるのだろうか。








コロンボ発の列車がやって来た。車内に入れない猛烈な混雑である。本数が少ないうえに、キャンディ~ヌワラエリア間の車窓はアジア三大車窓のひとつと聞いた事があるので人気があるのだろう。





しかし、この状況で3時間以上も乗車するのは正直しんどいので、バスでタンブッラに行くことにする。


キャンディバスターミナル。インドの田舎町のバスターミナルの光景によく似ている。





冷房なしの普通バスの2倍程度の料金で冷房付でノンストップのインターシティという日本製の乗り心地のいいミニバスに乗れる。バス料金は非常に安いので、迷わずミニバスに乗る。


3時間ほどでタンブッラに到着。ここは世界遺産の石窟寺院で有名なところである。



































スリランカの石窟壁画のレベルはとても高度である。敦煌やトルファンに比べても遜色ないと思う。


まわりに大平原が広がり、広大なパノラマが広がる。湿度は低く晴天に恵まれ、真夏の日本から来ると涼しい。

スリランカ人の修学旅行生らしき姿も多い。人々の肌色は黒い人とそれほど黒くない人がいる。インド南部から来たドラヴィタ系民族とインド北部から来たアーリア系民族との違いである。スリランカでは長年に渡った内戦が終了して、今では平和な時代を謳歌している。町を歩いていると、こちらが日本人だと分かると、ヤスシ・アカシと声を掛けられる事が何度もある。国連幹部の明石康氏が内戦を終結させた代表人物との事らしい。スリランカの人々は律儀にもこの事実を忘れることはない。しかし、日本ではこのような事実を知る人はあまりいないだろう。マスコミもスリランカの内戦の報道はほとんどしない。

今のマスコミはやたらと中国、韓国の悪口を声高に叫び、国民の世論を一つの方向に向けて形成させるだけである。良いか悪いかは別にして、日本も賢いと思う。日本人を中国人嫌いにさせておいて、世界中を悩ませている中国人移民政策、全世界の中国人増殖計画、やがて国を乗っ取り、気が付いた時には、中国に実権を握られている傀儡国家になってしまっている国がどれほど増えているのか、平和ボケした内に籠る日本人には分からないだろう。その恐怖感といえば想像がつかない。実質的な植民地化である。現状において、お人よしの日本人がどれほど被害を受けているのかほとんどの日本人は実感が湧かないだろう。仕事がらみでグローバルな活躍をしている人のみ肌で感じている程度かもしれない。将来的にはそれがさらに増大する一方であるのだろうが、その事実を知らない内こもりの日本国民ばかりである。着実に日本政府によるマスコミ統制、コントロールの成果で中国嫌いの日本人世論が完成しつつある。その結果、日本人が結束、一体化する事が実は中国が最も恐れている事なのかもしれない。中国は一枚岩に見えて、その歴史を振り返ってみると、バラバラな多種多様な国民性である。一方、一丸となった時の日本人ほど強くて敵にすると恐ろしい民族はいない。その歴史を身をもって体験してきたのが、中国人、朝鮮人である。未だに声高に日本の脅威を叫ぶのも彼らの立場に立ってみるとよく理解できることである。









石窟寺院の観光を終え、山を下ろうとすると、先日、ホテルが隣同士だった若い日本人と偶然バッタリ会う。汗だくでフラフラで目が泳いでおり、見るからに危なそうな状態であるので、水を与える。

偶然の再会を喜び、しばらく二人で立ち話をする。お互い共通する感想は、スリランカはインドに比べると楽勝、人がいい、食べ物がおいしい、そこそこ清潔、世界遺産が多い、遺跡好きにはたまらない、意外に日本人率が高い、それもなぜか若い女性比率が高い、逆に若い男性比率は低い、といったところである。

もしかすると、若い日本人女性の間で秘かなスリランカブームが起こっているのかもしれない。本当に若い日本人女性の情報感度はすばらしい。男性の奮起を促したいが、男性は日々ハードな生活を余儀なくされるのが日本なので、もう無理となってしまうだろう。香港、シンガポールと同じくらいに女性の活躍できる社会にしなければ日本の将来も厳しいものになる。ひたすら男性頼みでここまで来たが、もう限界が来ている。アジア諸国の追い上げに対向する方法は優秀な女性の活躍にかかっている。日本の女性は優秀である。高学歴な人も男性以上に多い。しかし、活躍できる社会作りが整っていないため、結局は主婦に落ち着いてしまう。本当に国家的損失である。仕事も家庭も全てが、女性の役割ではなく、いいかげん、家事・育児はメイドに任せても恥ずかしい事ではない風潮を作り上げてもいいのではないだろうか。いかんせん、その分野では保守的で先進国にはなれきれない日本である。



タンブッラの町は静かな田舎町で宿泊施設も僅かで、見るべき場所は石窟寺院以外にはない。これからどうしようと思っていると、オートリキシャーの運転手がシギリアロックに行かないかと持ちかけてきた。実は明日行こうかと考えていたのだが、半日程度で充分に観光できるらしい。


それなら、タンブッラで今夜は泊って、これからシギリアに行った方がいい。

これぞインド圏の安宿といった感じの宿にチェックインして、身軽な恰好でシギリアに向かう。

オートリキシャーで長距離を走るのは何度も経験があるが、若かりし頃のバックパッカー時代を思い出す。今でも現役パッカーのつもりだが、周りからみるといい年してなに一人旅しているんだ!おっさんが!とヤジが飛んできそうな気もするが、気にしない。


最近、つと有名になったシギリアロック。数年前までは日本人の間では無名に近い存在だったと思う。有名になったのがアサヒビールのCMの一件だろう。シギリアロックの頂上で長瀬君がおいそうにビールを飲んで、それを空撮してシギリアロックの全景が明らかになる素晴らしい演出効果のCMだったのだが、スリランカ政府の抗議(聖なる場所で酒盛りとはけしからん!)で放送中止になったCMである。アサヒの新しいビールより、なんだあの場所は!すげー!行ってみたい!となった日本人は多い。そしてこの顛末の結果、皮肉にもシギリアロックは日本中で有名になってしまったのである。結果的にアサヒのCMではなく、シギリアロックのCMとなってしまった。


高い入場料を払っていよいよシギリアロックの雄姿と対峙。





あの岩山の頂上まで登る。何時間かかるのだろう。





石の階段やらせん階段を登りつつ上を目指す。上にいけばいくほど、風が強くなってくる。涼しくて気持ちが良い。





シギリアロックの石窟壁画はシギリアレディと呼ばれ、スリランカで最も美しい壁画といわれる。美の象徴アプサラを模したものといわれる。

































シギリアロックは父親を殺して王位についた狂気の王がインドに逃れた弟の復讐をおそれ築いた宮殿であり城でもある。防御機能は高い。








いよいよ最後の階段。現在はライオンの足が残るが、完成当時はライオンの全体像であったと想像されている。巨大さがよく分かる。














ようやく頂上に到着。

ここで狂気の王は弟の復讐、反撃におびえながら暮らしていたのだ。こんなに素晴らしい風景なのに、気が休まらなかったとは気の毒な人生である。

狂気の王は、その後、インド南部に逃れた弟がインドの王の支援を受け、大軍を率いてスリランカに反撃にやって来たのだが、戦いに敗れ自害する。































下から見上げると大迫力。








帰りは楽であった。





オートリキシャーの運転手と再会。普通の人の半分の時間(1.5時間)で往復してきたそうである。


この運転手はフルーツをごちそうしてくれたり、いい奴であった。気持ちよく観光ができたので、当初の金額にプラスしてチップをはずむ。インド人だとこうはいかない。後味が悪い事ばかりである。スリランカ人は英語がとても上手であり、インド人のような強いクセや訛りもなくとてもクリアな発音でしゃべるので会話も楽しい。盛んに日本からの援助で道が出来た。ありがとう。明石康のおかげでスリランカは平和になったと感謝してくれる。



タンブッラのバスターミナルは郊外に向かうエリアのローカルバス専用である。夕焼けのなか、バスターミナルでクリケットをしている若者に交じって一緒にクリケットを楽しむ。クリケットはしたことがないが、野球の元になった競技である。こちらは日本人である。当然、野球は大好きである。一緒にプレーするうちに、いつの間にかクリケットが野球になってしまった。スリランカの若者たちにはバットコントロールの巧みさを絶賛されてしまった。さすが日本人と感心されてしまった。スリランカの人々は大変フレンドリーな反面、とても素朴でシャイである。昔のタイ人を思い出す。しかし、この勢いで観光大国になってしまって、現代のタイ人みたいに笑顔が減って、人がすれてしまわない事を願う。


タンブッラの町にはこれといった飲食店や酒場もない。観光客が1泊するような町でもない。場末のローカル食堂でカレーを食べて、金網越しに酒を売っている汚らしい酒場でビールを飲み、地元の素朴なおっさん達と語らい(こちらも日本のおっさんだが)貧相な暗くて本も読めない安宿に戻って早々に寝るしかない。


2日目終了。



2013年8月16日(金)


以前は、こんな安宿でも何の苦も無く快適に寝れたはずだが、今や苦行に近く感じる。おかげで、朝5時に目が覚めてしまったが、フロントに人はおらず、むりやり裏口を開けてバスターミナルまで歩く。

タンブッラからコロンボに行くには幹線沿いを走るバスをつかまえるしかない。快適なインターシティはいつまで経ったもやってこない。仕方が無いので、普通バスで行くしかない。


普通バスは田舎道を我が物顔でぶっ飛ばす。ぶっとばす、バス。


しかし、坂道はあえぐように走るので追い抜かされる。乗り心地も悪い。無理な追い抜きが多いので対向車と衝突しそうになる。まるでパキスタンのバスのようだ。スリランカのバスは、ランカアショックリーランドという聞きなれない会社製が7割、タタ製が3割くらいのシェアである。日本のいすゞや日野のバスを輸出したら高価だが、快適で故障も少ないので人気が出そうだが、やはりインド圏なのでインド系メーカーが強い。日本メーカーもマーケットが小さいのか勝負しないようである。しかし、快適なミニバスや観光ツアー用のバスは日本の中古車だし、乗用車はほとんどが、日本の中古車である。なぜかプリウスの中古車が多い。スリランカでもハイブリットの時代である。世界を席巻する日本の自動車産業の底力をスリランカでも見た感がする。自動車産業に関わる人間としてこれほど嬉しい事はない。

危険な走行を繰り返していたバスだが、とうとうコロンボ市内、あと少しでゴールといった地点でトラックと接触事故を起こしてしまった。ここで乗客は強制的に降ろされる。各自、市内バスで移動。乗客は騒然とすると思ったが、インド人と違っておとなしい。バスの運転手と車掌と、トラックの運転手も互いに激高することなく、穏やかな表情で交渉している。さすが仏教国である。日本人と同じである。中国やインドだったら互いに罵り合い、掴み掛らんばかりの喧嘩となっていただろう。





コロンボでは歴史あるコロニアルホテルにそれほど高くない料金(ヒルトンの1/3~半額程度)で宿泊することができる。コロニアルホテル好きにはたまらない。

港近くの、グランドオリエンタルホテル(GDH)に宿泊。部屋はさすがに広い。調度品も品よくアンティークでまとめられている。


























カレーブッフェを食べる。日本円にして800円程度と安いが、これほど本格的で充実したカレーを食べたのも初めてである。スリランカのカレーは南インドと同じであっさりしており、いくらでも食べられる。北インドのカレーはおいしいが、油いっぱいでいかにも体に悪そうである。


数種類のカレーでおなか一杯になって、コロンボの市内観光に繰り出す。


コロンボ駅。よくあるイギリス植民地の中央駅の駅舎である。近代的な駅ビルにしないのが素晴らしい。











市街地はインドの地方都市とほぼ同じ。喧騒と混沌と熱気につつまれている。








コロンボ博物館。ここは緑が豊富で静かである。








コロンボは植民地時代の面影を色濃く残す都市であるが、見どころはそれほど多くない。カジノが数か所あるが、どこも中国人観光客ばかりであった。本当に中国人はギャンブル好きである。


夜はヒルトンホテルのバーでビールを飲む。まだ、ハッピーアワーなので、安い。ほどよく酔ったところで、少々怪しげな髭のスリランカ人にロビーで声を掛けられる。旅行会社と土産物屋と居酒屋を経営しており、今日は仕事が終わったので、家に来てカレーを食べないかと誘われる。自分で怪しい人間ではないと主張する。日本人専門で3代に渡ってビジネスをしている。信頼があるという。証拠に有名企業の人々の名刺や自衛隊(全員が海上自衛隊)の将校・士官クラス、防衛大学卒の幹部クラスである。の人々の名刺を見せてくれる。また、自身の経営する居酒屋でハンマー投げの室伏を一緒に写っている写真や有名人と一緒に写っている写真を見せてくれる。

どうせ取られるものもないし、今夜の予定もないので、ついて行くことにする。車をヒルトンの駐車場に停めているので、一緒に行くが、綺麗なプリウスである。本当に社長なのであろう。名刺にはムハンマド・アリーと書いてある。察するにスリランカ人ではあるが、人種はアラブ人でイスラム教徒であろう。それほど色黒ではなく、髭を蓄えた顔つきはアラブ系である。

家は車で10分ほど行った住宅街にあった。アリーさんは自分と同じくらいの年齢(38歳)なのに、お母さんは非常に高齢で85歳を越えている。祖母ではないのか?と確認しても母親だと譲らない。生物学的にこれは理解に苦しむ。奥さんはスカーフをしている。色白で彫が深い。アラブ系の美人の顔立ちである。この一家はやはりイスラム教徒のようだ。長女は高校生で、もう大人の女性といった雰囲気だが、男の子たちはまだ幼い。プレステが趣味のようで、ゲームは得意かと聞かれるが、残念だけど、ゲームはやらない。子供の頃はよくしたけどと答える。野球好きか?と聞くと、ゲームは大好きだと答える。それにしてもこんな小さな子供なのに英語がペラペラで羨ましい。スリランカでは家庭で英語を極力使用するようにしているそうだ。これは植民地時代の名残とはいえ、大変素晴らしいことである。日本人の英語下手は植民地化を逃れた事に原因を求める意見も多いが、家庭での努力が足りない事に起因している。しかし、親が英語を話せないと家庭での会話も成り立たない。結局は親世代のさらに親世代と植民地時代からの偉大なる遺産が英語力につながっている。

韓国や台湾に行くといとも簡単に普通に日本語を話せる若者が多いので感心するが、理由を尋ねると家でおじいちゃん・おばあちゃんが日本語を使用する事が多いからと答える人が多い。とても素晴らしいことだと思う。これも日本の植民地時代の遺産である。日本人は植民地の子供たちにも日本人と差別することなく、莫大な予算と労力をかけて教育することは惜しまなかった。これは、欧米諸国の植民地政策で現地人への教育が非常に制限されていたことに比べ、誇ってよい、特筆すべき事実である。


奥さんの家庭料理のカレーをアリーさんと一緒においしくいただく。その辺のレストランよりもおいしい。特にビーフカレーとなすのカレーは日本で店を出したら繁盛しそうな味であった。

家に日本人を招くのが趣味のようで、感想を書いたノートがあり、それを読むとみんなカレーのうまさに感動しているようだ。

アリーさんに明日の観光を一緒にしようと誘われるが、明日はニゴンボに行くのでと丁重にお断りするが、明日の午前中、偶然にも日本人のお客さんがバーベキューをするので、一緒に食材を買いにニゴンボの魚市場に行くので同乗しようと誘われる。そこまで親切にしてもらうのも恐縮なので丁重にお断りをする。

帰りはGDHを見たいというアリーさん一家と一緒にホテルまで戻り、部屋を見せてあげる。奥さんはムスリムなので外に出るのは珍しいことなのか、何事にも興味津々な様子であった。最上階のレストランから見るコロンボ港の夜景には子供たちも大喜びであった。


3日目終了。
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2013年8月14日~19日スリランカ1

2013年10月25日 | 東南アジア
2013年8月14日(水)


ここにいると海外に来た気がしない。日本の延長である。いつも旅のスタート地点であり、ゴールでもある。ディスティネーションであったことはない。

早朝6時のスリランカチャンギエアポート。昨夜は良く眠れたフライトであった。最も遅くまで会社に残って仕事をすることができた。出発間際のバタバタ感がないのが、深夜便の素晴らしさである。忙しい社会人にはありがたい深夜便。仕事からの解放感に包まれた深夜のフライトの優しさ、心地良さは、大都会東京で働く忙しいビジネスパーソンしか味わえない特別な感覚である。


一応、格好つけてみたものの、実際は、有給も取れない貧乏暇なし中小企業サラリーマンである。会社全体が休みの時くらいしか、海外旅行もできないだけである。でも、できないよりはましかと、一応は感謝、満足しなければいけない。


JALのマイルの期限が迫っており、消化の旅だが、運良くシンガポール往復が予約できた。どうせ、マイル消化の目的のない旅なので、いつもとは違った場所に行きたい。6年ぶりのバリ島か、今、世界で最もホットな旅行先と噂されているスリランカか、どちらか迷ったが、行ったことのない場所に行くのが、アジアンウォーカーらしく、正しい選択だろうということで、スリランカに決定。そんなまっとうな大義名分など必要ないのだが、そこで背中を押さないと、従来通りの安易な選択の旅行先、タイ、バリに行くようになってしまう。楽な旅を志向すると老け込んでしまう。好奇心の総量が減ってしまうと理由づけしてようやく重い腰が上がる事になった。


行く前から何となく想像がつくが、人種、文化、風俗、言語はインド文化圏であろう。しかし、スリランカはインドと違って仏教国である。自己主張激しいインド人と違って謙譲の精神をもった人々が住む国なのであろうか。同じ人種でも宗教が変われば人間性は変わるものであろうか。比較対象として興味深い。


シンガポールからスリランカへは航空代金が安い。4時間のフライトで2万円もしない。


スリランカの首都はスリジャワルナナプラコッテ?だったか、地理の授業で習ったはずだが、アジアで最も覚えづらかったような気がする。しかし、実質的な首都はコロンボである。刑事コロンボと同じであり、これは非常に覚えやすい都市名である。


久しぶりのインド文化圏ということもあり、空港に着いたときから、身構えてしまったが、拍子抜けするほど、のんびりしている。誰も声をかけてこない。インドと違って、旅行者をカモにするような悪質な人間は、ここにはいないような感じである。


今日は、古都キャンディに向かう。空港近くのバスターミナルからキャンディ行のバスに乗り込むが、満員である。いつ出発するのか分からないまま20分ほどたってようやく出発した。しかし、この満員の狭いバスで立ったままキャンディに行くと思うと、気が重くなるが、これも旅だなと、自分を納得させるしかない。

1時間30分ほどしたら、運よく座ることができた。しかし、タイの豪華な1等バスと違って、インドの市バスと同じタイプのバスである。座席は狭くて固く車内は暑く、サスペンションは固く、乗り心地は最悪である。しかし、インド文化圏に久しぶりに来た気分の高揚感で旅を楽しめる。

バスはあえぐように山を登り、高原地帯に入ると古都キャンディも近い。


キャンディ駅前で全員降ろされる。所用時間は3時間。






コロンボから鉄道で来ることもできるが、極端に本数が少ない。






列車の本数が少ないので、駅は広いが閑散としている。道路網が発達する前は鉄道が交通の主役だったのであろう。イギリスの植民地らしい。








オートリキシャでホテルまで移動。





ホテルの目の前はメインストリートである。ちょうど、年に一度のスリランカで最も盛大な祭りといわれるペラヘラ祭りの期間中であるので、ただでさえ少ないキャンディ市内のホテルはどこも満室で、非常に高額である。





本当はスリランカ屈指のコロニアルホテルであるクイーンズホテルに宿泊したかったが、空きがなく、カサマラホテルに宿泊。日本円で17,500円もする。通常であれば半額以下である。

キャンディの市街はコンパクトであるが、中心部には規模の大きなホテルはクイーンズホテルとカサマラホテルくらいしかないようである。しかし、市街地から離れた、湖の向こう側や山の上にはホテルやゲストハウスは多いようである。

市街地を散策する。祭りは夜からだが、早くも場所取りの人々が続々と集まりつつある。












キャンディに来て、いや、スリランカに来てこれを見ない人はいないだろう。世界遺産仏歯寺。仏陀の歯が祀られている。

熱心な仏教徒である日本人である自分としては、いや、実はそれほどでもないのだが、と言ったら、日本の仏教関係者に非難されそうなので、ここでは熱心な仏教徒ということにして、敬虔な気持ちで祈りを捧げる。












タイのエメラルドブッダもスリランカから来たと言われる。アジアにおける一大仏教センターの中心地のひとつといえる場所がここである。地元の人はもちろん、スリカンカ全国、アジア各国、世界中の仏教徒が祈りを捧げている光景に世界中が仏教徒であれば平和な世の中であっただろうという気持ちになる。一神教の宗教は寛容さが足りない。多神教の仏教はとことん寛容で平和主義である。


仏歯寺のすぐ横にはキャンディ湖が広がる。高原にあるスリランカの古都は本当に静かで美しい。









今夜の宿の値段が17,500円もした理由がよく分かった。部屋のバルコニーはペラヘラ祭りの最高の観覧席である。








ホテル前のスペースは指定席料金を徴収しており、プラスチック椅子にびっしりと観光客が座っているが、ここでは自分専用の広いバルコニーで足を伸ばしてビールを飲みながらの観覧である。

隣の部屋のバルコニーも若い日本人観光客である。互いに挨拶をしたのちは、たびたび、言葉を交わす。インドに比べるとスリランカの旅は楽だとの事である。到着して間もないが、それは良く分かる。

迫力あるパレードが続く。どこらかそんなに大量の象を集めてきたのかとびっくりする。








昨日から横になって寝ていない。パレードの途中から、うつらうつらしてきてしまった。


パレードは20時に始まり、22時に終了した。


ベッドに横になった途端に眠りについた。


1日目終了。
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2012年8月10日~8月20日東南アジア周遊4

2013年01月14日 | 東南アジア
2012年8月18日(土)


今日はプノンペン市内観光をする。周辺諸国みたいな1日観光ツアーのような便利なものはなく、ホテルの前にたむろしているバイクタクシーをチャーターするしかない。


最初の観光地はキリングフィールド。あの有名な映画の舞台にもなった場所である。郊外ののどかな風景を見ていると、ここで大量虐殺が行われていたとはとても信じられない。
























次に行く場所はトゥールスレン収容所。昔は高校だったが、クメール・ルージュのプノンペン侵攻後、ここで拷問が行われ、大勢の無実の人々がキリングフィールドに送り込まれた。

























































妖気漂う何ともいやな感じのする場所であった。



最後にロシアンマーケットを見学する。特に買いたいと思うようなものはない。


半日、プノンペン特有の猛暑と猛烈な排気ガスまみれていると、のどがもうそろそろ限界に近い。

しかし、このファンタジーなホテルの中だけは別世界である。



























しかし、部屋でまったりしているわけにはいかない。書を捨て町に出よう。

外の風景は当たり前だが、ここは、やはり、プノンペンであった。









プノンペンのバスターミナル。ここではまだまだ怪しいアジアの男たちが健在である。


















陸路で移動する欧米人パッカーはたくましい。






冷房の効いた空気のきれいなフードコートで昼食。まともな食事でなかなかおいしい。









引き続き市内観光。

カンボジアの寺はタイの寺のように豪華絢爛ではない。やはり貧しい国である。












夜はおいしいカンボジア料理を食べながらのリバークルーズが楽しめるようである。






かつて東洋のパリと呼ばれた時代の建物も一部現存する。






ゲストハウス街。バンコクのカオサン通り同様、欧米人の姿も多いが、日本人の姿はほとんど見られない。












のどが渇いたのでビールを飲むが、1ドルと激安価格である。これなら何杯でも飲める。暑い中歩き回ったので喉も渇いている。トリンドル玲奈にそっくりの女の子がビールをもってきてくれた。本人かとびっくりするほど酷似していた。






東南アジアはどこに行っても市場が最大の観光地だと思う。いつ、どこへ行っても市場に足が向いてしまう。
























市場を楽しんだ後は、ゲストハウス街に戻り、ビールを飲んで水分補給。









最後に王宮を見学する。王宮といっても質素なものである。




















ここは欧米人に人気のストリートとの事であるが、欲しいようなものは見つからなかった。





猛暑と排気ガスのなか、ひたすら歩き続けたので、のどが痛い。普段は決して口にする事のない甘いものを食べたくなる。





昨日のような長い時間のスコールに見舞われることなく、終日観光を楽しめた。

夜はビールを飲みながら、バーホッピングを楽しむ。

プノンペンは安全な場所と危険な場所の格差が激しいようだ。

安全な場所で楽しく飲むのなら特別危険な事はない。


9日目終了。


2012年8月19日(日)、8月20日(月)


今日はプノンペンからシンガポールに移動。空港までバイククシーで移動。

プノンペンは他の東南アジア諸国の首都みたいに観光地化するのは当分無理のようである。観光地としての魅力も特にない。


閑散としたプノンペン空港。









シンガポールに着くと空気がきれいである。しかし、ここはいつ来てもとにかく蒸し暑い。

インド人街でカレーを食べる。休日であるのでインド人家族で賑わっている。ここでは一番高価なスーパーミールを食べる。全部入りの豪華カレーである。カレー好きにはたまらない。












シンガポールを一日中ぶらぶらしてから、深夜便で羽田へ出発。朝、空港に着いて、自宅に戻ってシャワーを浴びて着替えてから出社する。余裕で間に合う時間である。羽田の国際線化を最大限に活用した旅行ができた。


10、11日目終了。

終わり。
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2012年8月10日~8月20日東南アジア周遊3

2012年11月17日 | 東南アジア
2012年8月17日(金)


爽やかなヴィエンチャンの朝はおいしいフランスパンとラオスコーヒーの朝食から始まる。今日は次の目的地プノンペンに向かう。

TUKTUKで空港まで移動。首都とはいえ朝の通勤ラッシュといえるほどの交通量ではない。10年後に来たときはどんな町になっているのだろうか?これ以上に発展しているのは間違いない。もしかしたらモノレールや地下鉄ができているのかもしれない。

空港までは20分ほどで到着。


国際線のターミナルは真新しいが、発着便数も少なく閑散としている。









国内線ターミナル(おそらく最近まではこのターミナルが国際線、国内線のターミナルだったと推察される。)は年代もののターミナルで、非常に簡素である。ターミナルというよりは小屋に近い。






内部はなんとなく石垣空港に似ている。とにかく簡素である。無駄がない。






国内線はそれなりに便数はあるらしい。しかし、本当に飛ぶかどうか怪しいものである。恐らく当日にならないと分からないのだろう。





ここが航空会社のセールスオフィスらしい。本当に営業しているのかすら怪しい。






2階もあるらしいので行ってみる。












VIPルームらしいが、誰もいない。何もない。






非常に趣のある国内線ターミナルから何の特徴もない国際線ターミナルに戻る。









いよいよ搭乗開始。おそらく6年ぶりと思われる久しぶりのベトナム航空。ハノイ~ヴィエンチャン~プノンペン~ホーチミンという不思議なルートを飛ぶ便である。もちろん区間利用客ばかりであるので、乗客はほぼ全員入れ替わる。





ラオス航空の飛行機。普通のエアバス機である。10年前はラオス航空は古い中国製の機材を使用して危険である為、外務省から乗らないようにと注意喚起が出ていたのだが、それも遠い昔の話のようである。






この空港もまた日本の援助で建設されたようである。絆。今の日本・ラオスの国交関係はこの一言につきる。地理的に中国の属国化する可能性があり、主権が脅かされる可能性が高いラオスにとって、日本は頼みの綱である。日本はこの東南アジアの小国をいつまでも温かく応援しなければならないと思う。ラオス人はどこか日本人と国民性が似ている。親切で素朴で謙虚で欲張らず、自己主張せず、正義を愛するお人よしな国民性である。正しい国、お人よしが馬鹿をみる現在の国際情勢だが、価値観を共有できる国とは仲良くやっていきたいものだ。









メコンデルタを眼下に見ながらの2時間のフライトののち、カンボジアの首都プノンペンに到着。東南アジア諸国のほとんどが日本人観光客に対してビザを免除しているのに関わらず(あのベトナム、ラオスでさえも免除である。)いまだにせこく空港でビザの取得が義務付けられいる。しかもUSドル払いである。そこまでして安全な外貨が欲しいのだろうか。インドネシアとカンボジアはケチの2大大国と呼ばせていただこう。こんな事を続けていても誰も得しない。むしろ無料にして観光客を増やした方がいい。



空港からタクシーで市内中心部へ移動。Lebiz Hotel & Library1泊50ドル。ここは本当にプノンペン?と思ってしまうようなホテルである。















部屋の中はここがどこだか分からなくなってしまいそうだが、外を見るとやはりプノンペン、カンボジアだと思う。






カンボジアは東南アジアの2大大国ベトナム、タイに挟まれる不利状況の弱小国家であったが、最近の経済発展は目を見張るものがある。労働力の安い国に資本は常に移動し続ける。次はカンボジア、ミャンマーの時代到来であろうか。









ここはとにかく暑い。そして何よりも空気が汚い。道を歩いているとすぐに喉をやられてしまいそうだ。

プノンペンの観光名所のひとつセントラルマーケットを見に行く。





東南アジアの市場はどの国もよく似ている。
























メインストリートのモニポン通りをひたすら歩く。歩いている人は皆無に近い。みんなバイクで移動する。この国の人々はいくら貧しいとはいってもやはり東南アジアである。歩くのを極端に嫌う。









伝説の安宿キャピタルゲストハウス。バンコクのジュライホテル、香港の九龍城亡き後、東南アジアの魔窟と言われるのは、プノンペンのキャピタルゲストハウスと香港の重慶マンションであろう。しかし、近年の重慶マンションの近代化に伴い、単独首位に立つのは時間の問題だと思われる。



























ホテル入口。天国(地獄)への階段ともいえるかもしれない。





それにしても、かつて闊歩していた怪しい日本人たちはどこに行ったのであろうか?わりとまともそうな貧乏バックパッカーばかりである。かわいらしい女の子までいる。ここも健全路線に転換したのであろうか?これもまた時代の流れである。


かつて東洋のパリと呼ばれたらしいプノンペンだが、そのような美しさはどこにもなく、とにかく汚らしい町である。マニラ以下、カルカッタ以上といったところであろうか。








汚らしい街並みと末期的な大気汚染で疲れ果て、ネットカフェで時間を潰していたら大雨が降ってきた。外に出れない。ここに2時間もいるハメになってしまった。

夜はセントラルマーケット近くの日本料理店で定食を食べる。こんなどうしようもないプノンペンでも頑張る日本人サラリーマンが大勢いる。まさに企業戦士である。前線で戦っている人たちが一番尊敬に値する。あらゆる面で守られた日本本国で頑張っているサラリーマンよりも数倍タフで賢い人たちである。これからも健康に気を付けて頑張ってもらいたい。

しかし、こんなところで暮らすと間違いなく寿命を縮めてしまう・・・。

帰り際、日本人の経営者らしき女将さんに夜道は危険ですからお気をつけてお帰り下さいと言われる。東南アジアの首都でこんな事を言われたのは初めての事である。


しかし、想像以上にプノンペンの夜道は暗く危険な雰囲気がプンプンしていた。歩いている人など誰もいない。夜になると交通量が極端に減る。雨は引き続き本降りで止む気配もない。角を曲がるたびに注意しないと危険な気がする。


細心の注意を払いながら早々にホテルへと退散する。


8日目終了。
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2010年4月29日~5月5日バンコク・シンガポール8

2010年06月22日 | 東南アジア
オーチャードロードのマリオットホテルの玄関の前で、突然、後ろから声を掛けられた。K君であった。卒業以来の再会である。12年ぶりの再会になる。当時から、全然、見た目が変っていない。K君も大勢の人ごみの中にも関わらず、遠くから一目で分かったらしい。お互い久しぶりの再会を喜び合う。


K君は食用油脂を製造している会社に勤務しており、会社は日本、世界各地に工場があるらしい。現在はシンガポールの現地法人に出向しており、シンガポール駐在は5年目になる。その間、子供が2人生まれた。5年間は日本人駐在員の駐在期間としては長期間になる。一般的な企業ならもう終わりに近いだろう。この灼熱の国で、ハードな仕事内容の日本企業の駐在員として5年間も頑張っている。さらには一家の長としての責任も果たし、幸せな家庭を築いている。私とは比べ物にならないほどの苦労を背負ってきた筈だが、そのわりには、見た目が若々しく年を取っていない。

南の国に住む人々は年を取るスピードが早いと思う。一般的に女性は男性に比べ、年齢による変化が著しいが、特に南の国に住む女性はその傾向が強いと思う。熱帯の果実同様、精神的にも肉体的にも早熟だが、その分だけ、衰えるのも早い。

日本人は穏やかな気候の四季のある国に住んでいるので、年を取るのも穏やかだと思う。素敵な年の取り方をしている人が多い。

何はともあれ、12年ぶりの再会である。K君と昔日の思い出話、仕事・家庭の話、趣味の話、シンガポール・アジア各地の話など、話がはずむ。それにしても、お互い12年ぶりの再会とは思えないと感想が一致する。ほんの数ヶ月前まで一緒に机を並べて勉強していた感覚である。12年という歳月を感じない。それぞれ容貌、身長・体重、さらには性格的な部分も当時からあまり変っていないとお互いに認め合う。このくらいの年齢になると、容貌が大きく変化する人とあまり変化しない人との差が現れてくる。体重の増加、腹が出てくる、白髪になる、薄毛になる、肌にしわ、しみが目立つなど悪いことばかりである。しかし、K君は学生時代とほとんど変らず、本当に若々しい。私は昔から老け顔で10歳程度年上に見られる事が多かったが、ようやく実年齢に追いついてきたようである。また、最近は実年齢より若く見られる事も多くなってきた。今まで老け顔のために損をしてきた事の方が多かったが、ようやく得する時代に突入したのかもしれない。今まで損をしてきた分をこれから回収していければと思う。

楽しかった時間もあっという間に過ぎ、今度は12年ぶりといわずに1、2年に一度は会おうという事になった。K君の駐在期間も5年になり、日本への帰任も近いらしい。勤務地は大阪、東京のどちらかになりそうとの事である。東京ならいつでも会えるし、大阪へは仕事で年に数回は行くので、今後、会う機会も増えるだろう。同級生の活躍を見ると仕事のヤル気と活力が湧いてくるので不思議である。刺激を与えてくれる相手と過ごせる時間はとても貴重である。


その後はMRTに乗り、ホテルへと戻る。駅からホテルまでは徒歩10分ほどあり、結構遠く風景にも変化があって面白い。既に何往復もしているので通いなれた安心感みたいなものが生まれてきた。しかし、この道を歩くのも最後になる。


明日の飛行機は早朝の6時発である。4時には空港に行かないといけない。この時間帯に出発する時は要注意である。過去に寝過ごして危ない目にあった事がある。目が覚めると出発の1時間前であった。その時は幸運な事に何とか間に合った。それ以来、寝ないようにしている。

しかし、ホテルに戻ったのは11時前である。4時間くらいは眠れる。念入りにアラームをセットして眠りについた。


6日目終了。




5月5日(水)


3時20分に無事、起きれた。ホテルの前でタクシーを拾って、空港へ向かう。運転手にターミナルはどこだ?と聞かれるが分からない。ターミナル間は結構距離があるらしい。まずは第1ターミナルから攻めてみることにした。結果、これがドンピシャであった。今日は早朝からカンが冴え渡っている。ターミナルに着いたが、まだ4時である。チェックインカウンターもガラガラである。スムーズにチェックインを済ませ、余ったシンガポールドルでジュースを買う。ジュースを買うくらいしか残金が無かった。今後、シンガポールへ来る機会もそうそう無いであろう。ちょうどいい具合にきっかり使い切った。


シンガポールチャンギ空港も完成した当時はアジアの、いや世界の最先端を走る空港であったが、その後、ソウル、香港、バンコク、クアラルンプールと次々に新空港が出来、今では多少の古臭さを感じるようになってしまった。









今は早朝なので営業していないが、プールやジムや遊園地があったりと面白い空港である。


誰もいないひっそりとした空間に大きないびきを掻きながら床に寝ている集団がいる。






こんなところで堂々と熟睡できるなんて、逞しい連中である。中国人か。






以前、深夜にシンガポールに到着して、朝、ペナンに出発した事があったが、さすがに彼らみたいに床に寝そべる気にはなれなかったので、空港内にあるトランジットホテルに宿泊した。アンバサダーのブランド名を冠したトランジットホテルにしては安く、6時間の利用で4000円前後だったと記憶している。






デルタ航空620便は懸念されたオーバーブッキングをおこすことなく、定刻通り6時10分に出発。成田空港には定刻通り14時10分に到着。

ゴールデンウィークの最終日の午後である。きっと高速道路も大渋滞であろう。電車で帰ろうと思ったが、意外にも高速道路は渋滞していないらしい。バスは70分ほどで池袋に到着した。今までの最短タイムは22時頃に出発した時の60分であるから、昼間の時間帯としては上出来である。


7日目終了。

おわり。
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2010年4月29日~5月5日バンコク・シンガポール7

2010年06月19日 | 東南アジア
5月4日(火)


トラベルライティングの基本は今まで、誰も書いた事の無い事を書くことである。それには、誰も行った事のない土地に行くことである。と誰かが言っていたような気がする。

今日は、シンガポールの観光地ではない場所に行ってみようと思う。


駅に向かう前に大蝦麺を食べる。蝦の出汁が効いたスープが美味しい。400円。もう、この国の物価感覚に戸惑わなくなった。

カールスバーグのジョッキになみなみと注がれた、アイスコーヒーも東南アジア特有の甘ったるい味で美味しい。さすがに朝からビールは飲む気になれないが、この砂糖とミルクたっぷりのコーヒーを飲むと体に糖分が行き渡り、徐々に活力がみなぎってくる。









MRTの終点まで行ってみる。結構、遠い。周囲は郊外のニュータウンといった感じで、駅前にはバスが沢山駐車している。






ここから、さらに先のニュータウンに向かう無人の電車が出ている。SF映画で見るような未来都市に最も近い光景かもしれない。日本でここまで進化しているニュータウンはないであろう。多摩ニュータウン、千葉ニュータウンも今では活気のない住宅地になってしまっている。近年は都心回帰の人気が高まっており、さらに追い討ちをかけるように日本は既に人口減少国家になっている。今後、新たな大規模ニュータウンは開発されないかもしれない。


大勢の人々が降りる。乗る人間はわずかに2人のみである。











周囲にはまだまだ土地が余っており、大規模なニュータウンの開発中である。MRTに乗っていて感じるのは、シンガポールは実はかなりの高齢化社会なのかもしれないという事実である。やたらと高齢者の姿が目立つのだ。男女同権、女性の社会進出がごく当たり前のシンガポールでは日本以上に少子化のペースが速く進行しているのだろう。






よく中国大陸を旅して、目にするのが、移民募集の広告である。最も大々的に募集しているのが、広大な国土を有するにも関わらず、歴史的に慢性的な人口不足に悩むカナダ、そしてオーストラリア、ニュージーランドのオセアニア勢。そして、意外なことにシンガポールである。アメリカは単純労働者は受け入れないが、少数の技能労働者は受け入れている状態なので、移民募集の広告は出すまでもない。


シンガポールでは頭脳労働者が多いので、単純労働に従事する中国人移民1世を必要としているのだろうし、同じ中国語、中国文化の国である。移民というよりも、もっとハードルが低く遠くへ転居する程度の感覚であろう。この移民政策がシンガポールの少子化対策に最も有効で即効的な政策であることには間違いない。シンガポール政府もしたたかである。しかし、この狭い国土で養える人口には限りがある。

シンガポールはアジアの大国にはなれないだろう。しかし、小国ながら、これほど存在感のある国も世界中見渡しても中々、無い。


アジアの覇権争いは結局のところ、日本と中国の争いである。近年は経済、スポーツ、文化と元気いっぱいな韓国が参入しようと頑張っているが、最後は人の多さがモノをいう。人口が日本の1/3程度の韓国は残念ながら、どう頑張っても無理である。日本VS中国の争いはどちらが勝利するのだろうか。

もっと正しく表現すれば、日本(アメリカ)VS中国の争いである。日本はアメリカの言うことをきちんと聞き、決して逆らっていけない立場だということをわきまえないといけない。



SF映画ばりの無人の電車はまるで、どこかの新惑星に造られたコロニーを走っているような感覚である。こんな雰囲気を感じられる場所も中々ない。






途中の駅で降りてみる。無人化されており、降りる人もおらず、シーンと静まり返っている。人の気配が全く感じられない。









高層マンションが立ち並んでいるが、人ひとり見かけることがない。オートロックも無く、簡単に内部に入れてしまう。治安は日本以上に良さそうである。









外観は無機質な高層マンションであるが、各家庭の入口はわずかながら中国色が感じられる。






ここは最上階の17階である。ゴミ出しするのにいちいち下まで降りるのも面倒なので、ダストボックスがある。





周りは同タイプの高層マンションであり、高層階にも関わらず、風景は無機質で単調である。








ただし、この棟は最も北のはずれにあり、北側の眺めは自然を感じられるので、多少は心が和む。






14階は空中庭園となっている。とても有効的なスペース活用である。しかし、誰もいない。









無機質で誰も見かけることのない、高層マンション群。17~20階建ての高層マンションがこれだけ林立しているのだから、人口もかなり多いはずだが、全く人の気配が感じられない。日本のニュータウンも平日の昼間は似たような雰囲気があるが、主婦が就学前の子供や赤ちゃんを連れて、散歩していたり、公園で遊ばせていたりする光景を見るのだが、ここはそんな気配すら無い。

まるで、地球が滅亡した後の光景のようでもあるし、人がどこかへ消えてしまった異次元の世界に迷い込んでしまったような奇妙な感覚である。












ようやく人の姿を見かける事ができた。中央のスペースに公園があり、2,3人の幼い子供が遊んでいる。日本のニュータウンと同じ光景を見ることができたと思ったら、何だか様子が変である。近づいてよ~く見てみると子供を遊ばせている女性は中国系ではない。フィリピン人かインドネシア人のようである。母親は日中働きに出ているので、メイドが子守をしている。やはりであった。

女性の社会進出が当然のシンガポール社会では専業主婦という職業がそもそも成立しないのであろう。香港と同じである。昨年(2009年)夏、香港を訪れた際もそう思ったのだが、日本も早くこのような社会構造へと進化しないとジリ貧になってしまう。日本の女性もシンガポール、香港に負けず劣らず高学歴で優秀なのだ。結婚して職場を退職して専業主婦となり、キャリアを終わらせてしまうのは国家的な大損失である。日本の政府も官僚もそんな事はとっくに気づいているのだろうが、未だ何も有効な手を打てていない。日本の国際競争力が年々下がっていることに対してどれくらい危機感を持っているのだろうか。






結局、最後まで人の気配を感じることの無かった、この無機質で奇妙なニュータウンを立ち去ることにする。駅から無人の電車に乗ろうとするが、券売機が使用できない。しかも、間の悪いことに、この1台しかない。券売機にマイクがあり、係員と話すことができるので、事情を話すと、すぐに次の電車にのってやって来た。この間、わずか3分の早業である。おそらく隣の駅も同じような無人駅であろう。どうしてこんなに早くやって来れたのであろうか。こうなることを見通していたのであろうか。一見、全てが無人のニュータウンだが、自分の行動が逐一監視されているような不気味さを感じる。






再度、MRTの駅に戻り、シンガポールの北端の駅で降りてみる。ここも何の特徴の無い、ニュータウンといった風情の駅前である。






駅前から、国境を越えて、ジョホール・バルへ行くバスが出ている。せっかくなので、国境を越えてみようと思う。

シンガポール・マレーシア間の国境。シンガポールは島なので、海を越えるのだが、大きな川、河口くらいの幅である。






システマチックな入管手続きをし、国境を越える。あまりのスムーズさに国境を越えたという実感がない。しかし、建物の外に出るとマレーシアに来たんだなと感じる街並みである。狭い海峡を隔てたシンガポールとは雰囲気が全然違う。イスラム色が濃くなり、東南アジア特有の混沌を感じる。






ジョホール・バル駅。






ジョホール・バルはただひたすら暑いだけで、特に見るべきものはない。ジョホール・バルは確か、1998年、サッカー日本代表が初のワールドカップ出場を決めた時の会場だったはずである。深夜のテレビ観戦、延長戦までもつれた試合、岡野が決勝ゴールを決めたシーンが今でもはっきりと脳裏に焼きついている。何でサッカーの試合をそんな夜遅くにやるのだろうと疑問に思ったのだが、それも当然である。こんな暑さの中、サッカーなんてやったら生死に関わる。普通に歩いているだけで、汗だくである。

暑さから逃れるため、冷房の効いたショッピングモールを冷やかしただけで、すぐにシンガポールへ引き返す。マレーシア滞在時間、わずか1時間30分ほどであった。


バスでシンガポールに戻る。終点のMRTの駅で降りる。このまま、MRTに乗って中心部まで行こうと思ったのだが、数多いバス路線を眺めていると興味深い路線を見つけた。シンガポールの北端からひたすら南下してラッフルズホテルを経由し、ホテルのあるゲイランが終点である。最後に残ったシンガポール観光の目玉、ラッフルズホテルを見ることができるし、それから、そのままホテルに帰れる。今日の残りの観光スケジュールにぴったりの路線である。


シンガポールの面積は淡路島、プーケット島と同程度だとの知識はあるが、淡路島は行ったことがないので良く分からない。でも、離島では日本屈指の広い島である。プーケットは東西に長いシンガポールと逆に南北に長い。バイクで島の南半分を周遊した時は、休み休みであったが、昼に出発して帰ってきたのが夜の8時であった。距離感覚としてはそれなりに広い島であることは分かる。このバスは北から南まで縦断するので香港のバス同様に途中から高速道路を経由し案外短い時間で着くかもしれない。

しかし、バスは一般道を走り続け、丁寧に停留所に停車し、1時間以上かけて、ようやくラッフルズホテルに到着した。こんなに長い時間路線バスに乗り続けることも滅多に無いが、おかげで観光コースでない、シンガポールをたくさん見ることができた。


ラッフルズホテルに到着した頃には、既に西日が射している。この由緒あるホテルは思ったより、こじんまりとした小さなホテルであった。









コロニアルスタイルの中庭があり、東西南北に棟が連なっている。









ここにいると、不思議と暑さを感じない。木々や花々が豊富に植えられており、噴水もあり、涼しさを感じる。熱帯の不快な暑さを感じさせず、いかに快適に過ごせるか、設計者の意図を感じる見事な建築と配置である。






観光客で賑わう、お土産屋以外のショッピングアーケードはひっそりとしている。









宿泊者以外は内部に入れない。従業員に頼むと写真だけならO,Kとのことであった。






威厳あるマハラジャスタイルのドアマンに見送られ、ラッフルズホテルを後にする。









バスに乗り、ホテルに戻る。この界隈はドリアンストリートとして有名らしい。ドリアンを食べたいが、今夜は酒を飲む予定があるので控える。昔、ドリアンを食べた後にビールを飲んだら、夜から翌日にかけて終日、今までに経験したことのない激痛に見舞われた。あまりの痛さに医者に行ったのだが、為す術が無かった。結局、整腸薬を処方されただけだった。









ホテルに戻り、シャワーを浴び横になると、すぐに眠りについた。目が覚めると、既に6時になっている。急いで仕度しなければいけない。これから、オーチャードロードのマリオットホテルで待ち合わせをしているのだ。
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2010年4月29日~5月5日バンコク・シンガポール6

2010年06月09日 | 東南アジア
チャイナタウンは思ったほど遠くはなかった。多少迷いながらも、20分程で着いた。






中国寺院。









途中、小さな丘を越えると、狭い道に古い建物が立ち並ぶ通りに出た。マカオに似た街並みである。









かなりの距離を歩いて、相当汗をかいた。屋台が立ち並ぶ通りで、ルートビアを飲む。南国で乾いた喉に流し込むルートビアに匹敵するものはあるだろうか。あるとしたら、カールスバーグくらいであろう。大好きなルートビアもカールスバーグもシンガポール、インドネシアでは普通にどこでも売られており気軽に飲むことができる。






この辺りはチャイナタウンの中心部らしい。真新しい巨大な中国寺院がある。






すぐ近くにはヒンズー教寺院がある。シンガポールにはインド系の住民も少数ながら存在する。






隣にはイスラム教寺院もある。イスラム教徒は世界中どこにでもいる。世界最大の宗教であり、その拡大の勢いはとどまるところを知らない。






しばらく、露店やおみやげ物屋を見てみるが、購買意欲をそそるようなものは無いし、物価も高い。ぼーっとしながら歩いていると、突然、マッサージ屋の呼び込みのお姉さんに英語で声を掛けられる。1時間4500円という日本なみの料金に反射的に日本語で「高い!」と言ったら、「高くないよ!シンガポールでは一番安いよ!」と日本語が返ってきたのには驚いた。


チャイナタウン散策後は、歩いて行ける距離ではないが、わりと近くの場所にマレー鉄道のシンガポール駅があるので、タクシーに乗って行ってみる。10分ほどで到着。


駅に着いて、タクシーの料金を支払うと、メーター料金に何やら加算されて200円くらいの料金が、一気に600円に跳ね上った。なぜ?と聞くと、シンガポールでは中心部の時間帯や車両の通行量によって、通行車両に通行料が加算されるらしい。よって中心部への車の出入りには課金されるので、車の出入りが減少する。中心部の渋滞防止には有効な対策である。シンガポールは公共交通機関が高度に発達しているので、車はそれほど必要のない乗り物であるし、この豊かで狭い国で国民の車の所有率が急激に上昇すると、たちまち道路は車で溢れかえり、機能しなくなってしまう。この制度は東京でも導入したらいいと思う。東京もシンガポールと同じく車の必要性の低い都市である。


マレー鉄道の終着駅、シンガポール駅。






内部は天井が高く、かつての栄華を彷彿とさせる堂々たる造りであるが、閑散としている。僅かに欧米人のバックパッカーの姿が見られるくらいで、地元の人々の利用はあまり無いように思える。









時刻表を見ると1日2本しか列車がない。クアラルンプール行きが朝と夜にあるだけである。






ここを出る列車は全て国際列車となるので、ホームで出入国管理をしている。






ちょうど、夜に出発する列車の改札中であった。マレー鉄道が栄華を誇った時代は長い編成の列車がホームぎりぎりに停車したのであろうが、今は短い編成になっているので、長いホームの1/3程度で十分である。短い編成の列車がホームの先の方にちょこんと停車している。






1日わずか2本しか列車がないので、ホームも1本あれば十分である。一番広いホームは地元の人々で賑わうレストランになっている。






ここが、遠くタイから続くマレー鉄道の終点であり、起点でもある。いつの日にか、バンコクからマレー鉄道に乗りマレー半島を縦断してシンガポールへ。マレー半島の歴史を思い浮かべながら、そんな地を這いつくばるような旅をしてみたい。






※その直後、5月24日にシンガポール駅が廃止になるというニュースが報道された。

マレーシアのナジブ首相は24日、シンガポールを訪れ、リー・シェンロン(李顕龍)首相と会談した。この席上、マレーシアの国鉄に相当するKTMがシンガポール領内に保有している鉄道用地を返還することで合意。マレー鉄道は2018年までに、シンガポールへ乗り入れなくなることが決まったとシンガポール国営SPH通信の英語朝刊紙「ストレイツタイムズ」が報じた。

まず2011年7月までに、現在のシンガポール駅とウッドランズ駅の間の営業を廃止。シンガポール駅にあるマレーシア入国審査と、ウッドランズにあるシンガポール出国審査の位置を近づける。シンガポール~ウッドランズ間の鉄道用地は両国の政府系投資ファンド(テマセックホールディングスとカザナナシオナル)が共同出資する特別目的会社に移し、その後、シンガポールの中心・ブギスの土地と等価交換して返還する。

その後、MRT東西線クランジ駅とジョホールバル市内を結ぶ新路線の工事を進め、それが開通する2018年には、ウッドランズ~ジョホールバル間も廃止。マレー鉄道はシンガポールでの100年以上に渡った運行を終えることになる。


廃止になったところで、1日わずか2本しか列車がなく、地元の人々の利用もほとんど無いのだから、大した影響もないだろう。マレー鉄道はその役割をとうの昔に終え、もはやノスタルジーの対象でしかない。


シンガポール駅は周りに地下鉄の駅もなく、孤立した場所にある。地下鉄タンジョン・パガー駅までは1,5kmの距離を歩かなくてはならない。もう夕暮れ時だが、まだまだ暑く歩くと汗をかく。たまらず、水分が欲しくなる。シンガポールではレモンジュースが安くて美味しいし、様々なフルーツのミックスジュースも豊富である。途中のスタンドでミックスジュースを飲みながら、店のおばさんにタンジョン・パガー駅までの道程を聞く。


タンジョン・パガー駅周辺は新しいマンションが立ち並ぶ住宅街であった。









地下鉄に乗り、シンガポールの目抜き通りオーチャードロードに行く。オーチャードロード駅はionという最先端のショッピングセンターを併設している。






この特徴的な形のマリオットホテルがオーチャードロードの入口の目印である。






オーチャードロードを端から端まで歩いてみる。






東京の繁華街を歩いているのと、何ら変りはない。最も大きなショッピングセンターは高島屋と伊勢丹である。ますます、どこにいるのか分からなくなった。









デパートの内部なんてものは、どこでも同じようなものである。ましてや高島屋と伊勢丹である。見ても何もおもしろいものはなく、唯一、おもしろかったのは巨大な紀伊国屋書店であった。バンコクの伊勢丹の紀伊国屋書店の2,3倍の規模で、特に日本書籍の充実ぶりには目を見張るものがあった。日本にいるのと遜色なく、タイムラグ無く情報が手に入る。






書店にいたら、結構時間が経ってしまった。フードコートで海南鶏飯を食べる。本場、シンガポールの海南鶏飯はタイで食べるものとは比べ物にならないほど、おいしい。しかし、タイなら80円~120円なのだが、ここでは650円もする。日本で食べるのと全く変わりはない。






外に出て、駅まで歩く。出来たばかりの最新鋭のショッピングセンターらしく、ionの外観は夜になると光の演出効果が美しく夜のオーチャードロードに一層映えて見える。





このまま、ホテルに帰るのもまだ早いので、このおしゃれなショッピングセンターを散策してみる。地下の食品売り場、レストラン街は高島屋、伊勢丹以上にまるで日本そのものであった。


北海道ラーメンや北海道風居酒屋がある。シンガポールでは雪国の北海道への憧れが強いのであろうか。






何と!和民があり、しかも大行列である。そんなに行列してまで、たいして料理がおいしいわけでもなく、サービスが抜群にいいわけでもない、和民に行きたいのであろうか。日本ではごく普通レベルのサービス、料理の品質レベルでも、東南アジアでは素晴らしく高レベルの商売になるのであろうか。もし、そうだとしたら、日本式のサービス、料理をシステムとして輸出すれば、受け入れられる可能性が高い。現に、所得水準の高いシンガポールや香港では一定の支持を得るに至っている。単なるブームに終わるのか、現地に根付いたビジネスとなるのかこれから、期待して見守っていきたい。成功すれば、日本は工業製品、第2次産業の輸出大国としてだけでなく、サービス、第3次産業の輸出大国としても成功する可能性を秘めている。






本当に日本人は何をやらせても優秀でそつがない。もっと日本人は自らの優秀さに自信を持っていいと思う。日本はアジアにおいて全ての面で一歩も二歩も抜きん出ている。世界においても欧米諸国と肩を並べている分野は多数あるし、リードしている分野も当然、多数ある。


アジア各国でで他の国が日本のレベルに達しなかったのは、何故であろうか?それはおそらく日本人がアジアの他の民族に比べて、突出して優秀だからである。突出してというのは、ごく一部に優秀な人材がいるということではない。国民全体のレベルにそれほど差がなく、皆、一定以上の優秀さを保っているということである。

世界中で植民地にならなかった国は、日本、タイ、エチオピアの3カ国だけだという話を聞いたことがある。しかし、エチオピアはイタリアの侵攻を受け、短期間ながら支配された。タイも第2次世界大戦中は日本の同盟国という位置づけながら、実質的には日本の支配下におかれたようなものである。さらに歴史を遡ると、ビルマによってアユタヤ朝が滅亡させられ、支配下におかれた歴史もある。この3カ国で現在、世界に冠たる先進国の位置を占めているのは日本のみである。それ以外の先進諸国は植民地にならなかった国々と、かつて世界中に植民地を有していた宗主国ばかりである。タイ、エチオピアが植民地にならなかったのは、日本のように国民が優秀だったわけではなく、たまたま全ての面において運が良かったからとしか言いようがない。


近年、日本のマスコミが中国脅威論を不必要なほど、偏向的に報道するのが目につくが、中国は一部にものすごく優秀な人材がいるだけで、その他、大多数の人間は日本人と比べるまでもない。全体のレベルはまだまだ低いのが実情である。今のままだと、中国はこのまま貧富の差が一方的に拡大し続けるであろう。そして、やがて、国家全体の統制が効かなくなり、中国内部から崩壊する可能性もある。その対応策として、また、貧富の差がない共産主義に回帰するのであろうか。その可能性は限りなく低い。中国はもうブレーキの効かない速度で走り続けてしまっている。そして、もう後戻りのできない位置まで来てしまっている。


国民全体のレベルが高い国は韓国、台湾であるが、この2国に共通しているのはかつて日本の植民地だったという歴史である。今に至る発展の基礎となったのは、長年の日本の植民地時代、日本人による高度な教育を貧富の差がなく国民全員が受けられた事、、また、日本的民度の高さが身につき国民性が国際的な競争力を持てるようになった事、また、植民地教育の置き土産ともいえる、ある一定の世代が日本語を不自由なく使いこなせるようになった事、日本の植民地時代に日本の巨額な資本投下による工業化が進み、それを戦後、日本が放棄した事により、高度なインフラ、資本をただ同然で貰い受けた事、戦後、日本がいち早く世界へと飛躍、発展した余波がかつての植民地の韓国、台湾に波及した要因が大きい。その原動力となったのが、日本語を話す世代が社会の労働力の中心となった事である。彼らが日本との架け橋となり、日本の進んだ技術、システムを吸収し、かつての宗主国、第2、第3の日本を目指そうとした結果である。


もちろん、韓国人、台湾人自身の優秀さもその根底にある。もし、タイやベトナム、マレーシア等の東南アジア各国が同じように日本の植民地になったとしても、韓国人、台湾人のように国家、経済、産業を発展される事は出来なかった可能性が高いだろう。その点、東南アジアにおけるシンガポールは異色の国家である。香港と共に、中華系の人間の優秀な部分だけが結集された国家である。大陸の中国人とは違い、国民全体の優秀さという点は日本に共通する部分がある。


そんな優秀な国民が集うシンガポールだけに、第3次産業の日本企業が真っ先に進出し、受け入れられる土壌がある。地下の食品売り場はまるで東京のデパ地下である。






まるで日本一色の地下食品売り場であるが、その勢いにあやかるかのように、JTBも店舗を構えている。シンガポール在住の日本人も多いが、所得が日本人と同等かそれ以上にあるシンガポール人にとっても日本は手頃で魅力ある観光地に違いない。






シンガポールにいると実感が湧いてきたのは、ホテルのあるゲイランに戻ってからであった。ここにはまだ東南アジアの姿が残っている。


5日目終了。
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2010年4月29日~5月5日バンコク・シンガポール5

2010年06月06日 | 東南アジア
5月3日(月)


インドネシアの習慣なのか、法律の決まりがあるのか、不明だが、ホテルには朝食が付く場合がほとんどである。安宿でも朝食に力を入れて数種類からなるメニューから作ってくれるところもあれば、中級ホテルにも関わらず、やる気なく2,3品のバイキングだけの場合もある。いずれにしても、インドネシアに限らず、世界中で朝食を出す店はあまりない。ありがたいことである。


朝食後は、早くバタム島を離れて、シンガポールに向かおうと思う。タクシーでバタムセンターの港まで行く。やはりメーターでは行かない。この島はそういう習慣なのだろうか。港までは20分、200円で着いた。


バタム島に到着した時のノングサプラの港とは比べようにならないほど、立派な港である。












シンガポール行きの船は、月曜の午前中という事もあってかあまり乗る人はいない。









大型船が行き交う海峡を通る。






遠くにシンガポールの近代的な街並みが見えてきた。






手前に見える小さな島はセントーサ島であろう。






セントーサ島の前を通る。遊園地やビーチ、リゾートホテルが見える。












途中、シンガポールの海上保安官が乗船してきて、臨検をするが、形式的なものであった。1時間ほどでシンガポールに到着。






入国して、早速だが、バタム島とのギャップに戸惑いを感じる。船でわずか1時間の距離で一気に時代の最先端の都市国家の洗礼を浴びる。意識がついていけない。






地下鉄に乗る。東京以上に近代的な地下鉄である。香港に似ている。しかし、香港みたいな混沌はない。整然としている。








シンガポールは全ての面において物価の高い国である。それも当然でこの国の一人当たりGDP(国内総生産)は既に日本を抜き、アジアナンバーワンである。

シンガポール 35162ドル
香港     29649ドル
韓国     19751ドル
台湾     16606ドル

というように、シンガポールの一人当たりGDPは3万5千ドルを越えて、日本の3万4千ドル台を抜いた。


当然、宿泊代は東京並かそれ以上に高い。よって安宿を探すのが難しい。安宿のあるエリアはゲイランかチャイナタウンに限られる。選択肢がないので、最大の安宿街のゲイランに宿を求めることにした。






ゲイラン地区周辺一帯にホテルが林立している。1軒目のフレグランスホテルという、このエリアにしては高級そうな構えの立派なホテルに入り値段を聞く。思ったよりも高かった。1泊6000円もする。となりにハッピーホテルというこじんまりとしたホテルがある。通常のルームレートの4200円を2泊する条件で3100円にしてもらった。これなら安い。












見晴らしのいい部屋であるが、見えるのはホテルばかりである。









このあたりは観光地ではなく、ローカル色の強いエリアである。安くて美味しい店が多そうだ。昼食にシンガポール名物の肉骨茶を食べる。地元の人たちで混雑しており、味には期待できそうだ。





予想を裏切らず、とても美味しい。スペアリブが口の中でとろける。肉骨茶のスープは白醤油と黒醤油があるが、この店は黒醤油のスープである。上品な出汁がでており、スープまで全部飲み干してしまった。味には満足したが、560円と日本で食事するのとあまり変りのない値段である。中心部の観光地エリアで同じものを食べたら800円以上はするだろう。






蒸し暑いなか、汗をかきながら古い町並みを見てまわる。まだ時間は充分あるので、中心部へ観光に行こうと思う。






地下鉄に乗り、中心部へとやって来た。近未来的な高層ビルが建ち並ぶ一方で、ヨーロッパの街並みが出現したような歴史ある建物が立ち並ぶ。















大勢のタイ人観光客が写真を撮っている象の像(ぞうのぞう、変な言葉だが)がある。昔、タイの王様がシンガポールを訪問した際、あまりの熱烈な歓迎ぶりに感激し、後日、感謝の気持ちとして、この象の像を進呈したらしい。






ヨーロッパ風の歴史ある建物は見ているだけで、興味が湧いてくるが、この蒸し暑さに気力・体力を吸い取られてしまいそうだ。









シンガポール建国の父、ラッフルズの像。






ラッフルズ像のあるあたりはおしゃれなウオーターフロントといった感じである。













橋を渡って、向こう岸へと行ってみる。









海鮮料理の店が並んでいる。シンガポールで最もロケーションのいい場所にあるので、場所代も含めて相当に高そうである。見学して雰囲気を楽しむ分にはお金はかからない。









この巨大なカニは食べ応えがありそうだ。でも、値段が気になる。






見たことのない魚だが、大きさ形といい、見るからに美味しそうである。






水辺の道を歩いていく。シンガポールの歴史を感じるエリアである。















やがて、歴史と風格を感じさせる立派で巨大なホテルにたどり着いた。これが、あのラッフルズホテルかと思ったが、フルトンホテルというところであった。












道路をはさんだ、反対側にはシンガポール随一の観光名所、マーライオンがある。














さすがに、ここは大勢の人だかりである。マーライオンは世界三大がっかりと酷評されているが、それほど酷いものではないと思う。これはこれで素晴らしいと思うし、もし、マーライオンとラッフルズホテルがないシンガポールを想像すると、この国の観光産業に特筆すべきものはない。寂しいところである。

シンガポールは2回目だが、前回、来た時はなぜか、マーライオンもラッフルズホテルにも行かなかった。

後ろからみたマーライオン。






マーライオン周辺は見通しがよく、近未来的なデザインの建築物が立ち並び、見ていて飽きない。












とりあえず、マーライオンは見たので、目的は果たせた。地下道をくぐるとオフィス街のど真ん中に出た。いかにもシンガポールです。といったイメージ通りの中心部である。









ここから、次の目的地、チャイナタウンまでは微妙に遠い。この蒸し暑さのなか、ここまでかなり歩いて来たので、もう既に疲労困憊状態である。楽してタクシーで行こうとするが、中心部ではタクシースタンドでしか止まらないのであろうか。商売気のない走り方をする。ようやく見つけたタクシースタンドであったが、行列が出来ている。タクシーを待つというよりは、休憩しているようにも見えるが、肝心のタクシーの姿が見えない。タクシーに乗るという簡単なシステムとルールが良く分からない。面倒くさいので結局、歩いて行くことに決めた。
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2010年4月29日~5月5日バンコク・シンガポール4

2010年06月04日 | 東南アジア
この辺り一帯は市場や専門店が連なっている。

廃墟かと思ったら、立派に営業していた。






市場一帯は猛烈に臭い。けど、我慢して歩いて行く。






野菜売り場周辺も埃っぽくって臭い。市場を見るのは楽しいが、ここにいると呼吸器系が病気になりそうな気がする。早々に退散。






市場一帯はコロニアルな感じの古い建物が多い。






専門店は携帯ショップや電気屋が多い。









パダン料理の店が建ち並んでいる。インドネシアらしい光景である。









ホーローの器に盛り付けられたカレーや惣菜を見ていると思わず食べたくなるが、パダン料理を食べると翌日、お尻に火がつき、トイレで長時間苦しむことになるので食べないようにしている。







再度、メインストリートに戻る。遠くからでもパノラマリージェンシーホテルが目印になるので、ナゴヤの街の位置関係が分かるようになってきた。






このあたりがナゴヤの中心部なのであろう。路地に入るとホテルが異常なほど多い。そのほとんどが、古くて小さなホテルである。この島にそれほどの宿泊需要があるのか謎である。週末になるとシンガポール人が大挙して押し寄せて来るのだろうか。









ホテルが立ち並ぶ路地。






その中でも、最も安そうなホテルをのぞいてみることにする。NAGOYA INN その安直なネーミングからして早くもチープな安宿感が漂ってくる。






まず、エレベーターが無い。そして階段が極端に狭くて急である。階段をあがると、照明もない、狭くて暗い廊下があり、なかなかいい味を出している。これだけで気が滅入ってきそうである。









窓の無い部屋はまるで独房のようである。この部屋にずっといると気が滅入ってしまうだろう。狭い部屋の中はじめじめして、ベットからは変な臭いが漂ってくる。これで1泊900円。10年前ならこれでも泊れたかもしれないが、今は無理である。






トイレ・シャワー付きなのが有難いが、清潔感はない。こんなところで、シャワーを浴びると病気になってしまいそうだと瞬間的に悟った。10年前ならこの程度なら、何てことはないレベルであるが、いつからこんな神経質になってしまったのだろう。






このホテルで唯一、日の当たる場所が通りに面したバルコニーだが、洗濯物干し場になっている。






こんな場末のホテルでも利用者がいるから営業しているのだろう。しかし、宿泊する人はあまりいないと思う。ほとんどが休憩目的で利用するのだろう。



炎天下の中、しばらく歩き続けたので、冷えたビールが飲みたい。食堂に入ると、暇な人たちが大勢、昼間からうだうだしながらビールを飲んでいる。






土地柄、ビンタン、タイガー、アンカーといった地元のビールが安くて豊富であるが、定番のハイネケンもある。しかし、嬉しい事に世界のメジャーなビールの中で最も好きなカールスバーグがある。


日本の外国ブランドビールのブームの頃、バブル前後だったと思う。外国のビールを飲むことがカッコイイという風潮があった。世界1位のバドワイザーはキリン、2位のミラーはアサヒ、3位のハイネケンはキリン、4位のカールスバーグはサントリーとパートナーを組み日本でライセンス生産するという気合の入れようだったが、人気は一時的なものに終わってしまった。個人的にはバトワイザー、ミラーは美味しいと思った事がない。アメリカの水っぽいビール(アメリカではビールは水代わりに飲むものかもしれないが)程度の印象しかない。中でもバドワイザーの販促キャンペーンの気合の入れ方といえば、時にはえげつなささえ感じたほどであったが、日本人の味覚を満足させるには至らなかった。飲んでカッコイイのと美味しいのとでは、一時的にはカッコイイ方に人気が出るのかもしれないが、最後には美味しい方=本物が勝つのが日本市場である。味覚オンチのアメリカ人はごまかせるかもしれないが、日本人はごまかせない。


一方、伝統、クオリティ、味、本格派といった日本人の求めるものを追求したかのようなマーケティングを展開したのが、ハイネケン、カールスバーグのヨーロッパ勢なのだが、一定のファン層を取り込むという成功を収めるには至ったが、大衆的な人気が定着するまでには至らなかった。結局、好きな人、違いが分かる人だけが飲めばいい程度の市場規模に落ち着いてしまった。


ハイネケンはホップがよく効いてて、モルトの旨味と程よいバランスでミックスされ、後味はやや甘く、そして何より爽快。心地良く次の一口を誘ってくれる。ただ、炭酸が強すぎて少し飲みにくさも感じる。総じてバランス重視の無難で手堅い美味しさであまり特徴がない。外国で何だか訳の分からない怪しいビールの中にハイネケンがあったら、迷わずに選んでしまう。そんな安パイ的なビールだと思う。


ハイネケンの好敵手、カースルバーグは非常にキリっとした苦味と強い炭酸。モルトの甘味は控えめで、日本のクラシックなラガーのような飲み口。ただ、後味にしっかりとしたホップフレーバーが残る点は大きく異なる。総じて力強さを感じるところが良い。最も好みの味である。


下手な論評を展開してしまったが、ビールなんてものは、暑い時に美味しく飲めればそれでいいのである。また、味覚、嗜好は個人により異なるものだから、好きなものを飲めばいいのである。総じて、アジア諸国のビールは暑い時に飲むと美味しいものが多い。中でも、自分好みの美味しいものをピックアップすると、韓国のOB、ベトナムの333、ラオスのビアラオ、フィリピンのサンミゲルであろうか。残念な事に大好きなタイには好みのビールはない。シンハーなんて苦いだけである。そんな訳で、タイでビールを飲む時は、ハイネケンかカールスバーグとなるのだが、いつの頃からかカースルバーグは姿を消してしまった。おそらくタイ国内でのライセンス生産を中止してしまったのであろう。一方、ハイネケンはしぶとく生き残っている。ライバルのカールスバーグ亡き後、その反動か、年々、人気・ステータスが上昇してきているような気もする。暑いタイにはカールスバーグの方が、飲みやすくて合っていると思うのだが、それは自分の好み、味覚のモノサシである。あの苦くて美味しくないシンハーを愛するタイ国民である。ハイネケンの方がシンハーに近い味がする。タイ国民の味覚に合っているのだろう。タイに行くたび、カールスバーグ健在の時代を懐かしみながら、ハイネケンやシンハーを飲み続けている。


外国ブランドビールのブームが去った後の日本ではみんながアサヒやキリンを美味しいと言いながら、何の迷いも無くガブガブと飲んでいる。個人的にはアサヒスーパードライは世界の市場でも十分通用する個性的なビールだと思う。炭酸がコーラ並に強く、もはや暴力的とも言えるほどであり、苦味もやや強めで口の中がビシビシする。モルト感はあまり感じられず、副原料のコーンのような風味が感じられ、後味まで炭酸が残り、爽やかなキレを演出、最初の一口がとにかく美味い!喉越し至上主義!日本人の多くはビールは最初の1杯、味わって飲むほどのものではないと考えているので、市場に受け入れられるのも当然である。アサヒのマーケティング力の勝利である。また、このコンセプトはビールの革命と言っても過言ではないと思う。今、日本のビール会社はアジア市場への進出に躍起となっている。アジア諸国のビールに比べて、日本のビールが突出して美味いとは思わない。果たしてどこまで受け入れられるか注目である。


外国ブランドビールのブームは去ったのだが、世界のビールだけを集めたバーが少ないながらも東京には存在する。そんなバーの一つが会社の近くにあるのだが、場所柄、外国人が多いので、ビールにはうるさそうな面々が多い。日本、アジアのビールを飲むような客はいない。ドイツやベルギーの小さなワイナリーが生産する地ビールを飲んでいる。その中でも特にお気に入りなのが、ベルギーのセゾンビールである。入荷数が極端に少なく飲めるチャンスが滅多にないので、税関に到着した時点で連絡するように店員には言ってある。そんな努力の甲斐もあって、先月、入荷直後に飲みに行った。1瓶(750ml)3000円というワイン並みの値段。店員もうやうやしく、瓶をクロスで包みながら、ワイングラスにゆっくりと丁寧に注いでいく。グラスに流れ落ちるなり凄まじい量のコンモリとした泡がモコモコ盛り上がる。ビールの色はかなりの濁りがありやや褐色がかる。熟したフルーツのようなアロマがある。飲んでみると、ピリッとした舌を刺すような強烈な苦味と酸味が出迎え、しばらくするとマッタリとした甘味が訪れ一息。後味はフワっとアルコール感があり最後はすべて散逸するように軽く消えていく。セゾンビールはベルギーでは農民のお茶代わりに飲まれていたと言うが、奇妙奇天烈な味のビールである。こんなビールを毎日飲めるベルギーの農民は世界一の幸せ者である。あまりの強烈さに別のセゾンビールをもう1瓶オーダーしてみた。例によって店員がシャンパンを注ぐようにグラスに注ぐ。色は濃くアンバーカラー、セゾンスタイルとしてはかなり濃い色。そしてほんのりとフルーティな香り。飲んでみると、ものすごく円やかでオレンジのような柑橘系の香りあり(単純にホップ由来ではないっぽい)、苦味は強めで辛口ながらフルーツのような甘味も兼ね備えて飲みやすい。それはもはやビールではない別の飲み物であった。店員に今年、一番美味しいビールを飲まれましたね。すぐに無くなってしまいますよ。さすがお目が高いと最大級の賛辞を送られてしまった。こんなまるでワインを味わうようなビールの飲み方はあまり好きではない。


暑い国で沢山汗を流した後に飲むビールが一番美味いに決まっている。それが、カールスバーグなら最高である。カールスバーグを一気に飲み干す。南国の暑い空の下でビールの王様、カールスバーグを飲むのは至福のひと時である。タイの綺麗な海を見ながらカースルバーグを飲み干したい。いつの日かまた、タイで復活してもらうことを願っている。






渇いた体にビールを補給して生き返った。その辺の路地裏を歩き回るが、楽しい発見はない。






センターポイントというロータリーに面したショッピングセンター。ここが正真正銘のナゴヤの中心なのだろう。






近くにはホテルフォルモサがある。ここは高級感があるわりには4500円とリーズナブルであり、ロケーションも最高である。恐らくもう二度とバタム島に来る機会もないと思うが、もし、今度、来る事があるならばここに宿泊しようと思う。






正面には彩鮮やかなファンタジーホテルがある。安宿には違いないが、全然、ファンタジーではない。






かなり歩きまわって、ナゴヤの概要を把握したので、いったんホテルに戻る。少しの休憩のつもりが、いつの間にか眠り込んでしまった。目が覚めると6時であった。2時間も寝てしまった。

再度、センターポイントに行き、近くのホーカーズ食堂でフィッシュヘッドカリーを頼む。注文係の女の子がフィッシュヘッドでいいのと頭を指すしぐさがかわいい。土鍋でぐつぐつ煮込んだフィッシュヘッドカリーは今まで食べたなかでは最高の美味しさとボリュームであった。しかし、料金も最高に高く800円もした。一瞬ぼられたかと思ったが、昼に食べたナシゴレンが300円だったことを考えると、そんなものであろう。それにしてもバタム島は物価が高い。









早めの夕食を食べ終えると、もうすることがなくなった。ロータリーでたむろしている与太郎どもと話しをしたりしているうちに、そのうちの一人と仲良くなってしまった。お互いヒマなので、彼のバイクの後ろに乗って、夜のナゴヤの街を案内してもらった。つまらないバーやプールバーで酒を飲んだ後、チップを1000円ほど渡してお別れした。彼は地元の与太郎だと思っていたのだが、スマトラ島からの出稼ぎ者であった。スマトラ島は行ったことがないので知識もないが、敬虔なイスラム教徒の島というイメージがある。酒の相手をさせるなんて悪いことをしてしまった。バタムはローカルの人間よりもインドネシア各島からの出稼ぎ者が多い島である。ジャワ島からの出稼ぎ者が多いバリ島に似ている。


時間はまだ10時である。インドネシアのマッサージは指でごりごり押すだけなので、痛いだけで気持ち良くないので嫌いである。しかし、他にする事もないので1時間ほどマッサージをしてホテルに帰ることにした。マッサージで多少リフレッシュしたのでホテルに帰ろうとするが、なかなか、タクシーがつかまらない。ようやくつかまえたタクシーであったが、メーターで行かない。何度も強い口調で言ってようやくメーターを押す。初乗りが60円である。この運転手、英語が流暢でとても陽気だが、妙にハイテンションで言っている事が支離滅裂である。クスリでハイになっている感じがする。変な奴である。あまり関わりたくない。うわの空で話を聞き流す。ホテルに着くと、いつの間にかメーターの数字が消えていた。いくら?と聞くと200円だという。こんな近くの距離でそんな料金の訳が無い。せいぜい80円がいいとこだろう。頭に来たので60円を突き出して車から降り、ホテルに入る。運転手がわめき散らす。ロビーで鍵を受け取ると、運転手が怒り心頭といった様子で車から降りて追いかけて来ている。平均的なインドネシア人の男性は小柄で貧相な体格の人が多い。しかし、この運転手は身長175cm前後、がっしりとした筋肉質な体つき、しかも若い。争うには分が悪い。

海外旅行で一番気をつけているのが、外国では絶対に争い、喧嘩をしない事である。外国で現地の人間と争っても勝利する確率は限りなく低い。いくらこちらが正しくて相手が間違っていようが、そんな事は関係ない。自国の人間が正しくて勝つことになっているのだ。おそらくそれは日本でも同じであろう。しかし、今夜はどういう訳か理性がどこかに飛んでしまい、闘争心が満ち溢れてきた。この島の空気がそうさせたのか、この島に来てフラストレーションが溜まっていたのか、運転手の不正がどうしても許せなかったのか、酒に酔って気持ちが大きくなっていたのか、理由は分からない。相手はヤク中の可能性が高いし、武器を所持している可能性もある。しかし、そんな事はどうでもいい。今、ここで、こいつと決着を着けないといけないのだ。後ろを振り向き、運転手の方に歩み寄っていく。お互いの距離が近づき、相対する。お互いの顔と顔が近づいたその瞬間、ドアマンに運転手が取り押さえられ、外に放り出された。このドアマンは身長185cm、体重100kg以上はありそうなインドネシアでは規格外に近い大男である。昼にチェックインした際、部屋に荷物を運んでもらった時に手持ちのルピアが無かったので、財布に入っていた最も小額なUSドル、5㌦をチップに渡した。彼にとっては破格のチップだったのであろう。満面の笑みで受け取った後は、しばらく話がはずみ、その後、ホテルを出入りする際は笑顔で挨拶を交わす関係になっていたのであった。運転手を外に放り出したドアマンが戻ってきた。ここは、お互い男と男である。何も会話は要らない。固い握手を交わした後は部屋に戻った。


4日目終了。
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2010年4月29日~5月5日バンコク・シンガポール3

2010年05月30日 | 東南アジア
5月2日(日)


エアアジアは本当に毎回、何かやらかしてくれる。しかし、今回はまだマシな方である。出発時刻が1時間早まって6:30になっただけだ。ディレイ、フライトキャンセルは理由が想像がつく、仕方ない時もあるので理解できるのだが、出発時刻が1時間も早まるとは一体どういう訳であろうか?そこはエアアジア常識でモノを行っても通じる相手ではない。何と言っても、シンガポールまで飛んで1万円もしないので文句は言えない。シンガポールのローコストエアラインのタイガーエアは1万7000円であった。タイ国際航空、シンガポール航空は料金を調べる気すらしなかった。


早朝に空港に着いて、チェックインを済まして、機内に入るとすぐに眠りについた。目が覚めると、既に着陸態勢に入っていた。バンコク・シンガポール間のフライト時刻は2:30程度であるのだが、1時間くらいに感じた。


10時前にシンガポール、チャンギ空港に到着。シンガポールに来るのは2006年4月29日以来、約4年ぶりである。


シンガポールに4日間もいると飽きてしまう。シンガポールは狭い国である。隣国のマレーシア、インドネシアに行くのもいいだろう。都合のいい事に、空港の近くにタラ・メラというフェリーターミナルがあり、隣国インドネシアのビンタン島、バタム島へのフェリーが発着している。1日くらいは島に行くのもいいだろう。タクシーでフェリーターミナルへと向かう。空港からは10分程度であった。


フェリーターミナルの中を見渡すと、行き先はやはり、ビンタン島とバタム島のみである。両方とも行ったことのない場所である。ビンタン島はインドネシアで最も有名なビールのビンタンビール、また、リゾートアイランドとしてそれなりに知名度があるが、バタム島については聞いたことがないし、知名度も低い。ビンタン島行きのチケット売り場には長蛇の列が並び、家族連れ、海水浴に行くのだろう、それらしき格好をした子供達がはしゃいでいる。一方、バタム島行きのチケット売り場は閑散としており、隅の方で済まなさそうに営業している。どちらの島に行こうかと迷ったが、ビンタン島はリゾートなのだろう、一人で行ってもつまらなそうである。バタム島行きのフェリーの出発時刻は10:30、10分後に迫っている。それほど考える間もなく、急かされるようにバタム島行きのフェリーチケットを買う。






チケットの発券にやけに時間がかかると思っていたら、紙のチケットではなく、スイカみたいなカードに氏名、生年月日、国籍、パスポート番号が印字されており、インドネシアの入国書類にも印字済みであった。とてもシステマチックで驚いた。しかし、入国書類への記入手数料も含まれているのだろうが、1時間の距離にもかかわらず料金が3000円もしたのには驚いた。

日曜ということもあってか、出国審査は家族連れで混雑している。









チケットを買った時はぎりぎりかと思ったが、案外のんびりしており、10分程度遅れて出航。






ビンタン島行のフェリーに比べ、小型で古い船だが、それほど乗客はいない。乗客は家族連れのシンガポール人が多い。









船は出港すると、大型船が停泊している海域を通り、遠くにシンガポールを眺めながら南へと向かう。









遠くに見える島がバタム島であろうか。






1時間ほどで、バタム島に到着。そこそこ美しいビーチのある自然溢れる島という印象である。






ビーチで子供達が遊んでいる。リゾートの島なのであろうか。






マングローブの生い茂る河口を遡ると港がありそこに到着。









ビンタン島に行く船の乗客の中には現地の日本人らしき姿や海外からの観光客らしき姿もちらほら見られたが、バタム島に行く乗客はシンガポール人とインドネシア人ばかりであり、ビザを必要とする日本人は別口にあるイミグレーションで手続きをしないといけないらしい。

イミグレーションは閑散としており静寂に包まれている。イミグレーションは国境である。国によって程度は異なるが、緊張感の伴う場所である。こんなにのどかなイミグレーションは今まで見たことがない。果たして入国できるのだろうか。先ほど乗ってきたフェリーの乗客でビザが必要な国籍の人間は他にいないらしく、いつまで待っても入国審査官が出てこない。大声でハローと言うと、ようやく面倒臭そうに控室から出てきて、ビザの発給手続きをする。しかし、インドネシアのビザ代は7日間は10㌦、7日間以上は25㌦だったと記憶していたが、いつの間にか7日間ビザが廃止になったようで、結局25㌦も支払う破目になった。以前はビザ無しで入国できたのに、インドネシアはどんどん観光に無関心な国になっているような印象を受けてしまう。






無事、インドネシア、バタム島に上陸。建物の外にはバスやタクシーもなく、誰もいない。両替もできない。誰もいないガランとした建物内でどうしようかと思案に暮れていると、イミグレーションの係員がドライバーを連れてきてくれた。この港はノングサプラという場所で、バタム島の北東にあり、周囲に町は無く、リゾートが点在するエリアらしい。バタム島の中心をなす町はバタムセンターとナゴヤという、ふたつの町らしい。どっちに行くかとドライバーに聞かれる。バタム島については何も知らないし、何の目的があって来たわけではない。昔、名古屋に住んでいた事もあり、名前が気に入ったナゴヤという町に行くことにした。ドライバーは最初20㌦を要求してきたが、12㌦にまで負けさせた。しかし、バタム島がどのくらいの広さでここからナゴヤまではどれくらいの距離で、この料金が高いのか安いのか妥当なのか分からない。


バタム島は超近代的な未来都市のようなシンガポールと海一つ隔てただけなのに、赤土とジャングルばかりが目立つ未開発で荒蕪地ばかりが目立つ殺風景な島である。周囲の生活環境はインドネシアらしくイスラムの世界が広がる。ナゴヤまでは結構距離があり、45分ほどして到着した。


ドライバーが日本人もよく利用するいいホテルがあると言うので、そこへ行ってもらう。昨年オープンしたばかりだというiHotelという名のそのホテルはインドネシアとは思えないほど、最新鋭で清潔で高級感に溢れており、それでいて宿泊料は6000円であるのでコストパフォーマンスは高い。






しかし、いくらコストパフォーマンスが高いといっても、インドネシアで6000円の宿泊料を出す気にはなれず、結局、道路の向かい側にあるiHotelの半額以下の宿泊料の中級クラスのホテルにチェックインすることにした。それでも、インドネシアにしては物価が高い。バリ島やジャワ島を旅行する方がよほどリーズナブルに快適に旅を進める事ができそうだ。やはり、シンガポールのすぐ近くという土地柄、物価が高くなってしまうのであろうか。









ホテルの外観、ロビーは中級クラスであったが、一番安い部屋は狭くて安宿クラスである。こんな部屋でも2800円もするのである。






この場所がナゴヤのどのあたりにあるか、分からないが、とにかく中心部ではない事は明らかである。中心部を目指して歩き始める。






ほどなくして、NAGOYA HILLという大きなショッピングモールがあった。ここなら両替もできそうだ。






両替して懐が温まり、ようやく食事にありつけそうである。いろいろな店があるが、まずはインドネシアらしく、ナシゴレンを食べる。ジュースがついて300円。ここは本当にインドネシアなのだろうか?バリ島の街角の食堂でナシゴレンを食べた時は100円もしなかったと思う。









外はとにかく暑い。冷房の効いたモール内をしばらく散策する。









外に出るとバイタクの兄ちゃん達がたむろしている。ナゴヤの町の概要を知るには彼らに案内してもらうのが一番手っ取り早い。1時間600円で案内してもらうことにした。


まずは、丘を登って、見晴らしのいい場所に行ってもらう。ナゴヤから丘を挟んだ反対側にはバタムセンターの街並みが広がる。シンガポールへの玄関口になる町らしく、家々が密集して立ち並んでいる。何もなかったリゾートエリアのノングサプラとは違って、産業都市らしくなかなか発展している。









シンガポールに近いので工業地帯があり、大型船舶が多数、停泊している。






目を凝らして遠くを見ればシンガポールの摩天楼が見える。すぐ近くに世界屈指の大都会があるのに、バタム島は昔ながらのインドネシアのゆったりした感じの島である。






丘の反対側にはナゴヤの街並みが広がる。街の規模はバタムセンターよりも小さいが、高層建築(そのほとんどがホテルだが)はこちらの方が多い。バイタクの兄ちゃんのつたない英語によるとナゴヤという地名は、第二次世界大戦時、日本軍が島に進駐して来た際に付けられた名前であるらしい。









目立つ建物は巨大なホテルくらいしかない。カラフルな色が目立つ巨大ホテルはプラネットホリディ。






遠くからでもひときわ目を引くのが、豪華巨大客船のようなパシフィックホテル。






丘の上はお金持ちが住みそうだが、このあたりは貧乏そうな家並みである。






おもしろそうなパシフィックホテルに行くことにした。近くでみると笑ってしまうほど、巨大である。このまま海へ進んでどこか行ってしまいそうである。なかなかリアルに出来ている。似たようなホテルでタイのパタヤにA-ONEホテルというのがあるのだが、周りにホテルが密集しているので、船の形を模したビルディング型ホテルにしか見えないが、ここは周りは何もなく、目の前は港である。本当の船に見えてしまう。思わずバイタクの兄ちゃんとふたりで大笑いしてしまった。この時間は閑散としているが、バイタクの兄ちゃんによると夜になるとここのディスコはバタムで最も賑わうらしい。









バイタクの兄ちゃんによると、日本人が最も多く利用するパノラマリージェンシーホテルの前で降ろしてもらう。このあたりがナゴヤの中心部みたいである。中に入ってみると、日本人どころか誰もおらず、がらんとしている。宿泊料はやはり6000円~8000円と高い。ホテルを出たところで、日本語を話すドライバーに声を掛けられ、しばらく立ち話をする。話をした限りではバタム島は結構広い島でリゾートも、ゴルフコースも多数あり、島の南側へ行けば行くほど、原住民が住む昔ながらの光景が広がるらしい。島の中央部には空港もあり、インドネシア各地への航空便も多数あり、また、島の北側、シンガポールに近い所には工業地帯もあり、インドネシアでも経済的に繁栄している島とのことであるが、特に観光地があるわけでもなくそれほど楽しい所でもなさそうである。







ナゴヤの中心部を散策する。果物屋台があり、地元のしけたショッピングモールがある。歩いていてもあまり面白みがない。










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2009年4月30日~5月6日フィリピン6

2009年07月21日 | 東南アジア
5月5・6日

今日はマニラからマカオへ移動する。いよいよフィリピンともお別れである。フライトは夜なので1日マニラをぶらぶらしようと思う。



グリーンベルトモール。マカティの高級ショッピングモール。



フィリピンを代表するファーストフードチェーン ジョリビー。国中、どこへ行ってもジョリビーだらけである。この国でマクドナルドは限りなく影が薄い。成功の秘訣はフィリピン人の好みに合わせた甘い味付けにあると思う。個人的には何を食べても甘くて美味しくないので好きではない。甘いハンバーガーなんてとてもうけつけられない。


続いて、SMメガモールに行く。ここは大規模庶民派ショッピングセンターである。じっくり見ると1日ではとても足りない。フィリピン人で溢れ帰っている。





日本のペッパーランチ。大人気である。



牛丼の吉野家。海外で食べる吉野家の牛丼は日本のものよりも美味しいと思う。昔、高校の部活帰りに食べた吉野家の味がする。その後、吉野家は低価格戦略をとりはじめ、味も変わってきたような気がする。海外で食べる吉野家はそんな懐かしの昔の吉野家と同じ味がするのである。

そんな事を思いつつ、結局は韓国料理屋で豪勢にカルビとチゲ鍋を食べた。



MRTで終点のノースアベニューを目指す。





郊外には昔ながらのスラム街が残る。





フィリピン名物ジープニー。

暑いなか、観光する気も無くなり、ホテルに戻ってマッサージをしてもらう。いい時間潰しになった。

タクシーで空港まで移動。マニラの空港はターミナルが3ヵ所あり、それぞれタクシーを使わないと移動できないので微妙に遠い。さらに新ターミナルができたので4ヶ所まで増えた。非効率極まりない空港である。セブパシフック航空は新ターミナルに移動していた。



マカオまでたったの7,000円である。でも、やはりというか30分ディレイした。

マカオ到着は10時過ぎと遅くなってしまったが、そこは眠らない町、不夜城マカオである。何も心配はいらない。





またまた、新しいカジノホテルがオープンしたようだ。マカオの発展は止まらない。

ホテルに泊るのももったいないので、サウナで寝た。

朝はいつものお粥屋さんで海鮮粥を食べた。

帰りはマカオから直接、フェリーで香港空港まで移動する。空港税120香港ドルが戻ってくるので、お得である。このルートだと香港には入国しない。今度、時間があれば久しぶりに香港をゆっくりと観光したいと思った。最近、香港は通過するだけの町になってしまった。温故知新。夏には香港だけ5日間くらいかけてくまなくじっくりと観光してみようと思う。

6・7日目終了。

おわり。

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2009年4月30日~5月6日フィリピン5

2009年07月21日 | 東南アジア
5月4日

クラークからマニラへ移動。あまりいいイメージが無いマニラであるが、前回来た時も嫌な思いをした。その反省を生かして今回はツーリストエリアのエミルタ、マラテではなくマカティのホテルに宿泊する。













このクラスのホテルが4000円なので安い。エミルタ、マラテなら1.5~2倍はするはずだ。

マニラに来たからには、世界3大夕日のマニラ湾に沈む夕日を見なければならない。ここはおしゃれにエミルタのダイヤモンドホテルのバーから夕日を見ることにする。



マニラといえばダイヤモンドホテル。老舗ホテルらしい落ち着いた重厚なロビー。



ロハス通り。





ラッキーなことにハッピーアワーで半額である。広いバーに他に客はいない。









曇り空で夕日が沈むのは見えなかったが、綺麗な夕焼けを見ることができた。



ロビーへ降りると、夕食を食べる人たちで賑わっていた。エミルタまで来たのでおいしい日本料理屋はたくさんある。フィリピン最後の夜は炉辺焼きの店でおいしい日本食を食べた。

5日目終了。

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