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Asianwalker

アジアの路地裏から

2015年1月30日~2月2日香港・マカオ1

2015年04月12日 | マカオ・香港
2015年1月30日(木)

香港・マカオは2012年11月以来である。2泊3日の小旅行であった。マカオではベネチアンカジノ、マカオの最南端のコロアネなどのまだ行ったことのない新しいスポットを確認しに行き、香港はおまけ程度であった。特に文章に記録にするほどの旅行でもないので、ブログには記載していない。

今回はよりディープな場所を巡りたい。


しかし、計画など何もなく、ガイドブックも持たずに行き当たりばったりで行こう。勝手知ったる香港・マカオである。


JALの香港便で到着。1時間後にマカオ行きのフェリーがあるので、最初に挨拶がてら、マカオに行ってこよう。何度も行っているマカオに今更新たな発見はないと思いながらも、素通りするわけにもいかない。


いつも通りに、ぶらぶらと街歩きを楽しんだ後は、福隆新街のポルトガルレストランで豪華にカニカレーの晩餐。





夜のマカオ。昼間の中国人観光客の喧騒から解き放たれて、マカオが本来持つ静寂さが少し戻ってきた。









他にすることもないので、国境を渡り、中国本土、珠海まで足を延ばす。








マカオに戻る。新しいカジノホテルが出来ても、マカオのシンボルはリスボアに変わりない。70年代に戻ったような冷めた熱し方を感じるカジノ内部もマカオ本来の姿を感じる。





こちらはグランドリスボア。現代版リスボア。カジノの内部もこれといって味わい深いものはない。





1日目終了。


2015年1月31日(金)


週末のマカオは香港からの観光客でごったがえし、ホテルの値段も倍に跳ね上がる。

そんな話は既に過去の話で今は中国大陸からの観光客で潤っているマカオ経済である。

大陸からの観光客がやって来ないうちに、定番の観光地を巡っておこう。

昼間のリスボアからスタート。














ここから眺めるマカオの風景はあまり変わっていない。季節がら寒々しい感じがする。





観光客が大勢やってきた。





いつもながらの裏道観光に切り替えよう。











いつも行くお粥屋さん。





ツアー客はここまでやって来ない。本来のマカオの静寂さがまだ保たれている。良かった・・・。














静かな活気のマカオの市場。





道の広さも交通量もマカオサイズ。都市のサイズはマカオサイズが最も快適だと思う。





昼間のターボジェットで香港に渡る。





佐敦の安宿にチェックイン。平均的香港安宿クオリティ。これで300HKD。いつ来ても香港は宿代が高い。しかし、佐敦はいつも通りすぎるだけなので、じっくり街歩きを楽しむいい機会である。








倫敦レストランで飲茶の遅いランチ。しかし、名物のワゴンスタイルの時間帯ではなかった。ここは午前中に来るに限る。






佐敦・旺角の街歩きを楽しんだ後は、観光客が行かない場所に行ってみたい。地下鉄に乗って、将軍澳駅で下車。香港的ニュータウンである。








駅前から、ミニバスに乗り終点の清水湾で下車。








誰もいないビーチ。ガイドブックにも載っていない季節外れのビーチ。






将軍澳から香港島に地下鉄で行く。目指すは夜のソーホー。











いつもソーホーは観るだけで終わる。西洋人しか入れない雰囲気がある。


結局、庶民の街、九龍半島に渡って、ぶらぶら、遅い夕食を食べる。香港は何を食べてもおいしい。











2日目終了。



2015年2月1日(土)


今日はラマ島に行く。漢字で書くと南Y島。この不思議な名前の島にはいつか一度行って見たかったが、最後になってしまった。


スターフェリーで香港島に行く。地下鉄で行くのが早くて便利なのだが、そこは旅情重視ということで、あえて大好きなスターフェリーで香港島に行く。香港での儀式、旅の流儀というべきか。











中環からフェリーでラマ島に渡る。





到着。中環までフェリーで通勤できるので、西洋人の居住者が多いらしい。それ以外は火力発電所と大自然のみ存在する島である。
















香港の離島特有ののんびり感。島時間が流れる。





島には飲食店自体少ないが、朝食を出す店はさらに少ない。おかげで飲茶店は大盛況。





島の雰囲気は長州島の密度を引き延ばして人口密度が低い感じである。








郊外には大自然が広がる。














夏には賑わうのであろう。





ビーチが途切れると、山登りのスタート。

















1時間ほど歩くと、島の反対側に出る。





日本軍が立てこもった洞窟。








こちら側の方が、人口は少ない。








人口が少ない分、観光地として賑わっている。海鮮料理店がずらりと並ぶ。

















この何もない場所で1時間を過ごし香港島に戻る。












香港島からはスターフェリーで九龍へ、そして歩いて佐敦へ。途中で重慶マンションを通る。外壁がリニューアルされ、すっきりとした。かつての怪しげな雰囲気は多少払拭された。しかし、内部は相変わらずである。ここで両替をするも、日本円の弱さには参ってしまう。そして香港の物価の高さは相変わらずである。円安も相まって、東京の1.5-2倍の物価の印象である。




宿に戻り、次に行く場所の確認。地下鉄で虹彩駅へ、そこからミニバスで西貢へ行く。





西貢は客家の人々の交易の町として古くから栄えてきた。近年では交通が便利になりよりよい住環境を求める中産階級や外国人もたくさん住むようになったエリアである。








漁民が魚を売りにきている。通りに立ち並ぶ海鮮料理屋で調理してもらえる。








また、サンパンをチャーターして島めぐりを楽しむ事ができる。








街中は古い街並みが残り、昔の面影を色濃く残している。























3時過ぎなので誰も客のいない海鮮料理屋で、ビールを飲みながら旬のシャコのから揚げと、豆板醤の効いた貝を食べる。

海を見ながら、特にすることもなく、ただひたすらボーッとする。アジア旅の至高の瞬間である。

残念なのは今時期の香港はとにかく寒い。陽射しもなく、雨は降らないが、終日どんより曇り空である。








いつも思うのだが、香港のビールはまずい。特に瓶ビールは泡が全く立たず、薄く、炭酸が効いておらず、独特の酸味だけが悪い後味として残る。せっかく大好きなカールスバーグを頼んだのになぜか青島ビールの味がする。これのどこがカールスバーグだとクレームをつけたくなる。これもまた大好きなサンミゲルを飲んでも同じ味であった。独特のサトウキビの甘さがない。一体、どうなっているのか。


西貢の街はいっぺんで大好きになってしまった。香港特有の喧騒がなく、ゆったりとした時間が流れる。空気も綺麗だ。その環境の良さが西洋人を引き付けるのだろうか。街には西洋人の姿が多い。西洋人向けの飲食店も多い。


バスターミナルは2つある。1つは2階建ての大型バス専用。1つはミニバス専用。そして、路地にひっそりとミニバスが並んでいる。行先は4か所くらいあり、近郊の小さな村に行くようだ。客は地元民と西洋人が入り混じっている。

適当なバスに乗り、終点で下車。西貢から山を登って15分くらいで到着。南山村という場所らしい。





典型的な昔の風情を残す香港の山の中の田舎の村である。その一方で新しく豪華な西洋人の住宅が多い。高級車ばかり目立つ。











西洋人の小学生くらいの女の子2人をトランポリンで遊ばせながら、父親は携帯でずっと話をしている。仕事の話でもしているのだろうか。ここは環境は香港と思えないほどいいし、子育てには最高の環境だろう。でも、週末なので別荘として使用しているのかもしれない。香港の西洋人は豊かな階級が多い。世界の金融センターで働くエリート層が多いのだろう。


人口の少ない南山村であるが、ミニバスは10-20分間隔で頻発してる。西貢に戻って、また行先の分からないミニバスに乗る。10分くらいで今度は港の近くの団地のような場所が終点であった。ここは富裕層が住む場所とは思えない場所だが、西洋人の小学生くらいの女の子2人が降りた。











ミニバスは遠くには行かない事が何となく分かった、さらに西側の奥地を目指したい。意外な事に2階建てバスに満員の乗客が乗っている。全員山登りの恰好で大きなリュックを背負っている。この装備からすると山登りしてキャンプをするのだろう。香港人は意外にもアウトドア派が多いようだ。確かに東京の2-3倍以上の人口密度の濃い街中で、流れるスピードが早く激烈な競争の毎日で平日仕事をしているのである。週末は自然と触れ合いたくなるだろう。


暗くてよく分からないが、西貢からさらに西側に小さな村々が続いている。どこも昔ながらの香港住民である。客家系が多いのだろう。一族の結束が強い人たちである。

途中の登山道入り口で大勢の乗客が降りる。夜道を登山するのであろう。なかなかアクレッシブな登山である。西洋人の姿も見える。

終点はどこだか分からないが、船着き場であった。ここでは各自、船をチャーターして島に渡るようだ。島でキャンプするのであろう。








キャンプ場があり、若者達が音楽を流しながら、バーベキューをしている。大陸人と違ってスピーカーの音量も話し声もごく控え目である。先進国だなと思う。日本人同様民度が高い。





西貢に戻って、旺角行きのミニバスに乗って中心部に行く。ノンストップなので驚くほど早い。30分はかからなかった。


旺角から佐敦までぶらぶら歩きながら、入口に紹介記事がベタベタ貼ってある(周富徳の紹介記事もある!)有名らしい麺屋でチャーシュー麺を食べる。今までに食べたことのない干海老のいいダシの効いた麺であった。既に閉店時間の2時近くにも関わらず店内は大盛況であった。


3日目終了。

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2009年8月11日~8月16日香港11

2009年10月07日 | マカオ・香港
8月16日

薄いカーテンから射す、まぶしい太陽の光で眼が覚めた。浅い睡眠で、あまり元気が出ないが、とりあえず、朝食を食べに行く。今日も朝からワンタン麺である。香港で食べるワンタン麺も今朝で最後になると思うと、いささかしんみりして、味が薄く感じる。



朝の8時過ぎから、外は既に猛烈な暑さである。ネイザンロードを南下して、海を見に行こうと思う。何故だが分からないが、香港一、いや、アジア一かもしれない高級ホテル、ペニンシュラホテルの前で急にお腹が痛くなってしまった。正装したドアマンがうやうやしく待ち構えている正面ロビーから入るには、少しばかりみすぼらしい格好であるので、誰もいない横のショッピングセンターのアーケードから入館する。













ペニンシュラホテルの豪華なトイレを拝借したら、体も気持ちもすっきりした。ペニンシュラホテルには恐らく一生泊まるチャンスはないだろうが、いい思い出になった。これで気持ちよく朝の散歩を楽しめそうだ。

九龍側のバスターミナル。多くのバスの始発点である。九龍と香港島をダイレクトに行き来する路線はあまり無い。



バスターミナルはスターフェリー乗り場の目の前である。九龍と香港島間の人の流れの多くは地下鉄へと移ったが、スターフェリーからの人の流れも現実的というよりも、形式的なものかもしれないが、現在でも存続しているし、これから先も永遠に続いてもらいたい。









1916年開通の九広鉄路の始発駅の九龍駅がかつてはここに存在していた。香港島から大勢の人々がスターフェリーを利用して、九龍に渡り、九龍駅から鉄道に乗車していたのである。その後、九龍駅は1978年に廃止になり、ホンハムが始発駅になった。何故、香港島が目の前の好立地の九龍駅を廃止して、不便なホンハム駅を始発駅にしたのであろうか。理解に苦しむところである。今では、九龍駅のシンボルだった時計塔だけが、当時の名残として残るのみである。




海沿いに続く、星光大道(アベニュー・オブ・スターズ)を歩く。ここからの香港島の光景も見納めである。



昨日、行った香港島の高級マンションが建ち並ぶエリアはあのあたりであろうか。



星光大道は香港映画史を飾ったスター達の手形と解説が道路に彫ってある。あの有名なロサンゼルス、ハリウッドのチャイニーズシアターに似ている。

古い年代のスターは知らないが、時代が遡るに連れ、知っているスターの名前を見かけるようになってきた。

そして、香港映画伝説の大スターの登場である。





ブルース・リーだけは銅像が立てられていた。別格の扱いである。若くして亡くなった人はその見返りとして、人々の記憶の中で歳を重ねることなく、永遠に若いままで語り継がれるのである。

ブルース・リーも好きだが、私の世代の最大のヒーローといえば、やはりジャッキー・チェンである。ジャッキー・チェンの全盛期が香港映画が最も香港映画らしい時代だったと思う。とことんストイックで寡黙なイメージのブルース・リーと対照的にコミカルさと超人的な強さを併せ持つジャッキーは、その人柄も相まって、当時の子供たちに絶大な人気を誇っていた。動けるデブのサモ・ハン・キンポーも大好きだった。そんな当時の並み居る香港映画のスター達のなかでも、一番大好きだったのは、気弱そうな眼鏡のインテリ風の優男なのに、格闘シーンになるとジェッキーに負けず劣らず強かったユン・ピョウであった。三人が共演した「スパルタンX」は何度見ても楽しい映画である。

楽しかった星光大道を後にして、左側に海の見える高級ホテルを見ながら尖沙咀プロムナードを歩く。2kmは歩いたであろうか、あまりの蒸し暑さに頭がクラクラしてきた。熱中症の症状が出てきたような感じである。昔、タイの動物園で同じような症状が出てきた時は冷水を買い、頭からドバドバと冷水を掛けたら何とか復活した。その時、前の晩は徹夜で遊んでいた。今さらであるが、寝不足の状態で直射日光に当たりながら長時間歩くと、熱中症になりやすい事を思い出した。フラフラの状態になりながら、ちょうど尖沙咀プロムナードの終わる場所にあったホテル日航香港のロビーでしばらく休憩する。フロントでは今日にも日本に戻るのであろう、沢山の日本人観光客がチェックアウトの手続きをしている。この人たちと同じく、もう間もなく香港を去らなければいけないのだ。



10分も休んだであろうか、フラフラの状態から何とか歩けるくらいにまで回復したが、直射日光が恐いので地下道を通りながら、重慶マンションに戻った。部屋に戻り、ベットに横になると活動的な気持ちが失せ、何もする気が無くなった。もう、香港でやり残したことは無いなと思った。


重慶マンションを後にして、近くのバス停からA21の空港行きに乗る。



バスは九龍を北上して、小さな青衣島を渡り、広大なランタオ島に入って行く。

















広大な敷地の空港が見えてきた。



空港に早く着いたので、食事を済ませ、オクトパスカードをリファンドする。オクトパスカードは本当に便利であった。これさえあれば、行き先も料金も気にせずに様々な乗り物に乗れるし、多くの店で買い物もできる。このカードさえあれば、香港での生活に不自由はしないと思った。

空港で飛行機の搭乗を待っていると、観光局の女性からアンケートの記入を頼まれる。香港で行った場所、食事した場所、利用した交通機関、観光地としての魅力や物価など、全ての質問にくまなく回答した。宿泊先には重慶マンションと記入した。女性は「良く知っているわ」と答えて、なるほどといった表情で私の顔を見て、礼を言って立去った。

JL732便は定刻通りに離陸。香港だけで6日間もいたので、十分に満足した。やはり香港は旅の最終目的地よりも、中継地点がふさわしいような気がした。



この旅行中、2冊の本を読んだ。

白石康次郎「七つの海を越えて」
たかのてるこ「カンジス河でバタフライ」

白石康次郎は彼の出演したテレビ番組を何度か見たこともあり、人物像は大体分かっていたのだが、本を読むと彼のあまりのひたむきさ、純粋さに、どこか浮世離れした印象を受けた。ヨットによる単独航海は自然と孤独との闘いである。本にすると海や気象の事にどうしても内容が偏りがちになる。また、ひとりでいる時間が長いので自身の半生や経験を振り返る内容になってしまうのは、どれも似ている。しかし、白石康次郎の半生は中々、興味深いものがあった。堀江謙一のベストセラーである「太平洋ひとりぼっち」も面白い本であったが、この本もそれに負けないくらいの面白い本であった。

たかのてるこ「カンジス河でバタフライ」は数年前にかなり話題になってから、ずっと読もうと思っていたのだが、なかなか叶わず、念願叶ってやっと読むことができた。初めて旅に出たときのドキドキ・ワクワク感がうまく表現されているのだが、評判ほど面白い本だとは思わなかった。いや、むしろ私の中ではつまらない部類に入るであろう。

残念な事に、未だに女性の書いた旅行記で面白いと思える本に出会ったことが無い。それでも、売れている本はたくさんあるのだから、感性の違いとしか言いようが無い。本ほど人によって好き嫌いが分かれるものは無いと思う。だから、自分が読んでいくら面白かったと思っても、人に本を薦めることはない。

しかし、そんな自分の主義を曲げてまでも、人に薦めてしまう本が、沢木耕太郎の深夜特急なのである。

6日目終了。

おわり。



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2009年8月11日~8月16日香港10

2009年10月01日 | マカオ・香港
地下鉄に乗って中環まで行って、とりあえず目に付いたトラムに乗り込む。年代物のトラムは香港を象徴する乗り物のひとつである。2階建てのトラムは世界でもここ香港でしかお目にかかれないという。






西行きのトラムに乗って香港島の街並みを眺めながら、ゆっくりと移動。終点の堅尼地城(キンバリータウン)で下車する。正しくは、運転士にここが終点だと言われて降ろされた。途中まで混雑していた車内も他に観光客らしき白人がいただけだった。堅尼地城は海と丘に挟まれた狭い土地にある住宅地であった。香港島もここまで来るとツーリストエリアから離れて、普段歩きの香港の雰囲気が漂う。









お腹が空いてきたので、昼食を食べる。海が見えるおしゃれなイタリアンレストランや日本料理店もあったが、香港の大衆食堂といった風情の店であんかけご飯を食べる。なかなか美味しい。香港と台湾の中華料理は中国本土の中華料理と違って、くせが無いので何を食べても美味しいし、衛生面でも安心して食べることができる。



トラムは遅いのとエアコンが無くて暑いので、次はバスに乗ることにする。今度は中環を通り越して、香港島の東側まで行ってみたい。



土曜日の午後なので大渋滞である。中環のオフィス街を通過して、銅鑼湾へ向かう。



銅鑼湾に到着。この街のランドマークであるそごうデパート。そごうの向かい側にはさらに巨大な三越デパートがある。





銅鑼湾はここ数年で香港で最もパワーのあるエリアになった。瞬く間に古いビルが立派な新しいビルに生まれ変わっていく。香港島らしく、九龍よりおしゃれな感じがする。街並みも、歩いている人々も九龍とは明らかに違う。東京に例えると、渋谷と池袋くらいの違いがある。





銅鑼湾の喧騒から離れ、ビクトリア・パークを歩いていると白人にプールはどこにあるのかと訊ねられる。日本人の観光客なので分かりませんと答える。お互いに意味のない会話を交わしてしまったが、これもまた楽しい。

銅鑼湾から湾仔の屋台や金鐘の商店街を見ながらただひたすら歩く。とにかく蒸し暑いので大量の汗をかく。こまめな水分補給は欠かせない。4kmは歩いたであろうか。さすがに歩き疲れたので金鐘から中環まではトラムに乗る。



香港島の中心、中環に到着。



坂を上って、世界各国のレストランやバーが集まっている夜遊びスポットとして有名な蘭桂坊を歩く。おしゃれなバーが多い。従業員も客も白人が多くて、入るのにちょっと躊躇してしまうような雰囲気の店が多い。







香港島は海沿いから山沿いに向かって、地形に沿って猥雑な下町からハイソな山の手まで様々な街がパイ生地のように幾層も重なり合う複雑なエリアである。平地ばかりで下町風情の九龍とは全く異なる雰囲気である。



このバスに乗ると相当に暑いのと日焼けするので絶対に乗りたくない。



半山区(ミッドレベル)へ向かうヒルサイドエレベーター。20基のエスカレータと3基の歩く歩道からなる全長800mの便利な通路である。



最初の下の方のエリアは下町風情な古ぼけた建物や老朽化したアパートが多く見える。



だんだんと上のエリアへと進むと、おしゃれな店が増えてくる。SOHOと呼ばれるエリアである。ここも白人同士で楽しんでいるような雰囲気の店ばかりである。









エスカレータの終点は林立する高層マンション群であった。1m上がるごとに景観が変わり、思いがけない物に出会えるミニトリップ、香港の断面図がそこにはあった。



このエスカレータは上りのみの片道通行である。朝の通勤時間帯のみ下り通行になるらしい。さらに上へと向かうミニバスが来たので乗ってみる。九十九折の道を登っていくにつれて、高級マンションが建ち並ぶ。下町の老朽化したボロアパートとはえらい違いである。山の中腹に建つ高層マンションである。部屋からの景色は絶景であろう。やはりというか駐在員風の金持ちそうな白人の住民が多い。





バスの終点からの眺め。乗ってきたバスでここから中環まで戻る。



ちょうど日が暮れてきた。すぐに九龍に戻るのも惜しいのでもう少し香港島を歩いてみる。

創業1933年。かつては一見客は入店できないほど敷居の高い店であったと伝わる陸羽茶室。陸羽は唐代の思想家・文筆家で「茶経」を著し、中国の茶道の祖と伝えられる人物である。





沢木耕太郎は深夜特急で陸羽茶室についてこのように記述している。

彼が案内してくれたのは、陸羽茶室という広東料理の老舗だった。しかし、その名店は、調度こそ重厚だったが、サービスは妙に格式ばったところがなく、実質一本槍なのがいっそ気持ちよかった。ディナーはまた別なのだろうが、近くの商店主やサラリーマンで満員になる昼は、メニューといってもザラ紙に印刷された品書きが出てくるだけだ。客はそこに自分たちの食べたい物の数を書き入れていく。値段もすぐに計算できるので懐の心配をしなくてすむ。茶はポットに入ってくる。茶碗は小ぶりで、はじめ飲む時は熱湯の入った容器で洗ってから使う。ポットはふたを開けておけば何回でも注ぎ足してくれ、何十杯でも飲むことができる。点心を四種、肉と野菜の炒め物、魚の油煮、中国式ヌードル、中国式パイ。料理の値段はわからないが、とにかく満足するまで食べて、二人で二十ドル、千二百円にしかすぎないのだ。

後は、真っ暗になるまで中環周辺をぶらついた。





午後から夜になるまで、香港島を歩きまわった。満足したので九龍に戻ろうと思う。

旺角で地下鉄を降りる。香港の最後の夜である。歩き疲れてはいるが、もっと香港を歩き、見たい。もう、ひと頑張りしよう。亀ゼリーを食べて、栄養補給とする。600円と結構な値段である。甘さ控えめのコーヒーゼリーといった感じで美味しい。亀の味はしないというか、そもそも亀の味を知らないので何ともいえない。亀パワーを注入したところで、油麻地方向に向かって歩き始める。



ネイザンロード沿いは日本料理の店が多い。通りから少し入ったYOKOZUNAという店は大人気らしく、店外まで順番待ちの人々で溢れている。今、香港で日本食は大ブームのようである。ここ香港でもといった方が正しいのかもしれない。今、日本食はアジア各地で大ブームである。本当に美味しくて日本食が人気なのか、それとも単なるファッションとして人気なのか、いまいち良く分からないところもある。一過性のブームで終わってしまうのか、現地に根付いた存在となるのか数年後に出る答えが楽しみである。



廟街のナイトマーケット、なかでも男人街をくまなく歩いてみるが、特に興味をそそるような物は無い。



歩き疲れて、お腹か減ったので夕食にする。カレーを頼んだつもりだったが、あんかけご飯が出てきた。昼間と同じものを食べることになってしまった。






唯一、興味を引いたのは占いが並ぶ一角だった。



日本語ができる占い師に呼び止められる。どうして日本人だと分かったのだろうか。3000円を2000円に負けてもらい、手相を見てもらう。通常の手相だと、頭脳線と感情線がそれぞれ横に一本づつあるのだが、私の場合、真っすぐな一本の横線になっており、しかも両手とも、である。「ますかけ」手相というらしい。幼稚園の頃、住んでいた家の近所に手相に詳しいおばさんがいて、会うたびに手相を見せてと言っては、「これは大変珍しい手相だわ!」と何度も繰り返し言っては、まるで珍しいものでも見るような目で長い時間じっと見るのであった。満足行くまで見終わった後は、しみじみと「きっと、将来は立派な人になるんだわ」といつも決まってそう言うのであった。その時は変わったおばさんと思っていたのだが、中学生の頃に読んだ手相占いの本によると確かに珍しい手相だと書いてあった。

いろいろと調べてみると、「ますかけ」の手相の人は
天下を取る、強運、金持ちになる、商いに奇才を発揮する、他人に振り回されずに自分の思った通りに進んでいく、浮き沈みが極めて激しく、大成功の後の大失敗、大失敗の大成功と両極端 波乱万丈の人生、吉凶を含む波乱の相。

この手相は、自分のやりたいことがわかっていてそれに向かって進めば、大きなパワーを発揮するので、大成功を収めるが、自分のしたいことがわからなかったり、夢が小さかったりすると、うだつのあがらない人生になりがち。もともとが平凡な資質ではないので、社会にうまく適応できず、変わり者どまりになってしまいがちである。

ますかけ手相の有名人は
織田信長 豊臣秀吉 徳川家康 松井選手 イチロー選手 小泉純一郎 ナポレオン 田中角栄 石原慎太郎 貴乃花親方 小澤征爾 手塚治虫 アインシュタイン アントニオ猪木 明石家さんま 志村けん 久米宏 梅沢富美男 テリー伊藤 齋藤孝 ぺ・ヨンジュン 他沢山いるらしい。錚々たる面々であるが、本当だろうか?有名人や成功した人ばかり並べているので、無数の失敗した人や、それ以上の平凡な人生を送った人の数は計り知れない。

片手の「ますかけ」手相、は100人中数人いるようだが、両手の「ますかけ」手相は相当に珍しいらしい。手相は左右対称だと思っていたので、これは以外であった。

そんな予備知識を持って、手相占いの発祥の地の中国、香港で占ってもらった結果であるが、

左手は30歳まで、右手はそれ以降を示す。「ますかけ」手相の人は7~8%。しかし、両手とも「ますかけ」手相は本当に珍しい。

32、33歳までは良くも無く悪くも無く、平凡な人生。35~43歳は運気が上がる。特に仕事、お金の運が良い。

35歳を過ぎてから、事業を起こすと成功する。なかでも、コンタクトレンズ、眼鏡の販売、電子製品の販売、化粧品の販売はうまくいく。

35~40歳で結婚。子供は2~3人。しかし、2011年は三角関係に注意。

生まれつき持っている要素は、①お金②有名さ③福の多さ

人物像は、強い人、でも、やわらかい人。

2009年8月15日(土曜日)香港廟街、麗音神相の黄普豹先生による占いの結果である。姓名、生年月日を元に分厚い易本をパラパラめくり、基本となるデータを導き出してから、手相と手の肉と皮の厚さや柔らかさで占う方法であった。

ネイザンロードに戻り、時計を見ると既に1時を過ぎていた。だが、香港のバスは24時間営業である。こんな深夜でも結構な数のバスが走っている。しかしながら、尖沙咀方面へ向かうバスの乗客は私と酔っ払った若い白人の女性だけであった。

重慶マンションに戻り、早く寝ようと思っても、窓に備え付けられたエアコンがうるさいのか、頭が冴えているのか、体は相当に疲れているのになかなか寝付けなかった。起きているのか、眠っているのか、よく分からない状態が長時間続き、ようやく浅い眠りについたと思ったら、まるで映画かドラマを見ているような鮮明な夢を延々と見た。仲良く幸せに暮らしていた一家が借金に苦しみ、それぞれ別々に夜逃げして一家離散となってしまったり、野球の往年のスター選手が長年在籍した球団から、無念の戦力外通告を受けたりと恐ろしい悪夢という程ではないが、妙にリアリティのある夢ばかりであった。普段、夢を見ることなんて滅多に無いのに、こんな内容の夢だったのは、そこそこいいホテルの客から重慶マンションの安宿の客へと転落した、今の自分を象徴しているようでもあった。

香港で快適なホテルに3泊したので、心も体も安宿に急には適応できないようであった。

5日目終了。









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2009年8月11日~8月16日香港9

2009年09月27日 | マカオ・香港
8月15日

朝早く起きて、市場を見に行く。漁業の島だけあって、魚の種類が豊富である。





香港の市場の主役は実は肉屋の親父かもしれない。これほど市場が似合う男たちは世界中どこを探してもいないだろう。





出航の時間まで、まだしばらく時間があるので、昨日、何度も歩いた道を今日も歩く。路地が入り組んだ狭い島だが、中心部の道はほとんど覚えてしまった。











香港人で知らない人はいないといわれる超有名人、張保仔が宝を隠したといわれる洞窟に行く船。張保仔とは昔、この周囲の島々を拠点に大活躍した海賊の首領らしい。



10:40の高速船に乗り、長州島を離れる。現在のように発展する以前の素朴な漁村だった香港を彷彿とさせる、まるで時間が止まったような島であった。日帰りでも十分見て周れるので、訪れる価値のある所だと思う。







香港島が近づいてきた。



時間が止まったままのような長州島から、たったの35分でまるで近未来都市のような中環に到着する。長州島からやって来ると隔世の感がある。









今日の滞在場所、宿は何も決めていない。香港島については知らない事が多すぎるし、何よりも手ごろな値段のホテルが無いような気がする。目の前には天馬埠頭。そしてスターフェリー。自然と九龍へ足が向いてしまう。



気持ち良く晴れた日のスターフェリー。夜の情感溢れるスターフェリーも好きだが、晴れた日のスターフェリーは明日への希望と活力を与えてくれる。









九龍にはスタークルーズが停泊中であった。





新鋭の豪華巨大客船のスタークルーズに乗船すれば100万単位のお金が必要なのだろうが、我らが年代物の小さなスターフェリーの2等席に乗船するとたったの1ドル70セントで最高の航海が楽しめるのだ。







結局、重慶マンションの住民と相成った。やはり、香港での自分の居場所はここが分相応なのだ。



今回は奮発して、重慶マンションで一番の高級宿、重慶招待所に泊ることにした。それでも1泊200ドル。約3,000円である。



初めてここに泊るが、重慶マンションにしては破格の広さと清潔さである。











深夜特急で沢木耕太郎が香港で滞在した安宿の記述を考証すると、重慶マンションのどこかのゲストハウスであるのは間違いない。

男は無表情に荷物を拾い上げ、何も言わずに歩きはじめた。私も仕方なく後に従った。雑居ビルの中の迷路のような商店密集地帯を通り抜けると、突き当たりにエレベーターがあった。年代物らしく、降りてくるスピードが恐ろしくのろい。ようやく1階に到着し、扉の開いたエレベーターからは、強烈な香辛料の匂いが溢れ出てきた。中国人に混じって何人ものインド人が乗っていたのだ。全員が降り、私が男の後ろから乗り込むと、また別のインド人が走りこんできた。この雑居ビルにはインド人がかなりいるようだった。男は11階で降りた。薄暗い踊り場の斜め前にガラスの扉があり、男はそこをノックした。(中略)部屋にはセミダブルのベッドが置いてあり、その上に薄汚れたベージュ色のベッドカバーが掛かっている。一応、椅子と机もある。奥の戸を開けると、汚れてはいるがバスもトイレもついていた。窓際には、壊れかかったクーラーも、だ。男は私の視線に気がついたらしく、クーラーのスイッチを入れた。すると、一拍置いてから、ドカンという派手な音を立てて動きはじめた。汚いのを我慢しさえすれば、泊って泊れないことはなさそうだった。しかし、我慢してまで泊らなければならない理由はない。断る口実を見つけるために部屋を見廻していると、机の上に小さな赤いカーテンが垂れ下がっているのに気がついた。私は勢いよくカーテンを引き開けた。と、そこには、すぐ眼の前に今にも崩れ落ちそうな高層アパートがそびえるように立っているではないか。その建物もまたその隣の建物に接するように立ち、いやすべての建物がコンクリートの林の中で視界を失うほど密集している。眼の前のアパートは各階の窓が見え、そこから部屋の中の様子がうかがえた。誰もいないらしくカーテンの閉まったままの部屋もあれば、電気がつき主婦らしい女性が忙しげに歩き廻っている部屋もある。別の階に眼を移すと、兄妹らしい幼児がテレビの前に座り込んでいる部屋もある。このアパートの住人は、香港の、ごく普通の生活をしている人々であるようだった。面白そうだな、と思った。このいかにも凶々しくいかがわしげな宿の窓からは、絵葉書的な百万ドルの夜景も国際都市の活気あふれる街並みも見えなかったが、香港の人々の日常を、だから素顔の香港そのものを眺めることができそうだった。しだいに、泊ってみようかなという考えが頭をもたげてきた。


重慶マンションは1961年に重慶市場の跡地に建てられた。当時としては最新鋭のモダンな高級マンションだったのであろう。年月とともに、立地の良さから、用途が次第に住居からゲストハウスや各種店舗へと移行していき、現在に至る。



1階の迷路のような商店密集地とインド人の多さと年代物の恐ろしくのろいエレベーターは今も変わりはない。変わったのは、今では住居として利用する人がいなくなった点くらいであろうか。









2,3階は近代的なショッピングモールに生まれ変わっている。



怪しげな宿が多数存在し、今にも崩れ落ちそうな高層アパートがそびえ立っているのは今も変わりはない。







重慶マンション探索を切り上げて、香港島探索へと向かう。

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2009年8月11日~8月16日香港8

2009年09月13日 | マカオ・香港
ホテルをチェックアウトして、次なる目的地に向かう。ただ帰って寝るだけにはもったいない部屋だった。部屋がアップグレードされた要因は3連泊したからだと思う。

地下鉄で中環へ向かう。香港の地下鉄料金は安い。九龍から香港島へ行くと距離的には近いのだが、どういう訳か一気に料金が跳ね上がる。バス、タクシーも同様である。莫大な建設費がかかった海底トンネルの建設費償還の為、伝統あるスターフェリーの利用者を減らさないため(スターフェリーは料金が安い)、それとも下町の九龍の貧乏人は山の手の金持ちが住む香港島に来るなということであろうか?

見事な景観が続く、香港島の高層建築が立ち並ぶエリアは埋め立てられた場所である。さらに埋め立ては拡大しているようである。数年後には景観もまた違ったものになるであろう。もしかすると、いつの日かヴィクトリア湾は埋め立てにより消滅してしまうかもしれない。転がる岩に苔は生えない。香港をそのように評した人がいるが、この街が自らの進化を止める様な事は決してないであろう。









中環の埠頭にはスターフェリーのような九龍と香港島を結ぶ短い航路から離島へ向かうフェリーまで大小様々な船が並ぶ。目的地の長州島行きのフェリーは5号埠頭から出発する。



長州島へは1時間に2本の割合で所要時間60分の普通船と35分の高速船が交互に発着している。料金は長距離航路にも関わらず、11ドルから22ドルと安い。きっと離島から通勤・通学する人々も多いので公共交通機関という位置づけなのであろう。どちらの船でも先に出たほうが島には先行して到着するので、船を選ばずに来た船に乗るだけのことである。次の船は高速船であった。





視界から香港島が遠ざかってゆくにつれ、離島に向かう嬉しさでわくわくしてくる。



途中、外洋航路の大型船と何度もすれ違う。街中にいるとあまり気がつかないが、香港は言わずと知れた世界有数の国際貿易港である。



マカオ行きのジェットホイルに追い抜かれる。こちらも一応、高速船であるのだが、飛行機と同じジェットエンジンを搭載したジェットホイルとは船足が全然違う。70kmの距離をたったの1時間で到着する驚異的なスピードである。



途中で大小様々な島々が見える。そのほとんどがは無人島のようであるが、中には大富豪の別荘のらしき豪邸が見える島もあった。



香港島を出航してから段々と雲行きが怪しくなってきたが、とうとうスコールが降ってきてしまった。



賑やかそうな島が見えてきた。あれが長州島であろう。空も晴れてきた。



およそ35分で長州島に到着。長州島は香港島や九龍が栄えるずっと以前から漁港、貿易船の寄港地として繁栄したところである。現在では、貿易の中心は香港や九龍に移ってしまったが、漁港としての面目は少しも色あせていない。離島の中では小さいほうに数えられるこの島には約4万人が住んでいるという。漁港独自の活気のある島である。







船着場の前には渡假屋(自炊式民宿)の予約デスクが並ぶ。船が着いた途端に呼び込み合戦が始まる。一瞬、夏の日本のどこかの島に船で到着した時のような錯覚を覚える。民宿のおばさんたちに強引に腕をつかまれてひっぱられる、あの光景である。長州島では決められたルールがあるのか、あまり商売熱心でないのか、夏休みの週末なので客はいくらでも来るのか、そこまで激しい客の奪い合いは無い。



場所と料金を確認して、お金を払い鍵をもらう。場所と部屋によるが、250~500ドルと結構な値段である。金曜日だから高いらしい。土曜日はさらに高くなるとのことである。ここでチェックイン・チェックアウトをするので、部屋を見て決めることができないので注意が必要である。本来は部屋を見て決めたいのだが、荷物を持って暑いなか、部屋まで往復するのは辛いものがある。ここから徒歩で約10分、船着場の反対側に広がる東湾の北側に渡假屋は連なっている。





今回、泊る部屋はオーシャンビューなので300ドルと高いが、路地側のオーシャンビューでない部屋は250ドル程度で泊れる。部屋にアメニティの類は何も無い。タオルや石鹸すらない。本当に部屋を貸しているだけである。それでも、バルコニーからは海が目の前に見えるので気持ちが安らぐ。







部屋に荷物を置いて、島を散歩する。気持ちのいい晴天といいたいところだが、ものすごく蒸し暑い。体の奥から大量の汗がドッと流れ出てくる。ちょっと歩いただけであまりにも大量の汗が出るので、水分がすぐに欲しくなる。今までに経験したことの無い蒸し暑さである。







東湾は香港全体でもベスト5に入る人気のビーチである。ここからの香港島やラマ島のパノラマは素晴らしい。ビーチ自体は格段美しいわけでもなく、海の家が並び、どことなく日本の田舎町の風情である。



遠くに香港島の高層ビルが見える。



ラマ島の火力発電所も見える。



砂浜に坐って海を眺める。目の前はのどかな海が広がり、遠くを見ると高層ビルが建ち並ぶ香港らしいビーチである。それにしても蒸し暑い。浜辺なのに風が全く無い。ただ坐っているだけなのに汗がポタポタと大量に流れ落ちてくる。

海も見飽きたので、気分転換に島内を散歩してみることにする。島内に車は走っていない。島特有の狭い道に家々が密集している光景はどこか日本の島に似ている。









自転車を借りて島内をぐるっと周る。狭い島なので1時間もあれば周れてしまう。漁港らしく多くの漁船が賑やかに停泊していたり、人気のない静かな入り江があったりとコントラストに富んだ島である。











自転車を返した後は、海辺に建ち並ぶ海鮮料理の店で蒸したマナガツオを食べる。油ののったマナガツオに醤油味が良く合う。この蒸し暑さなので冷えたビールが最高にうまい。まだ、客もいない暇な時間であるので、しばらく店の女の子と話をする。愛想のいい子で話していて楽しい。この子は長州島のローカルである事に誇りを持っていることが会話から感じられる。いろいろな国の島々を旅行して、共通して感じるのは、島に生まれ住んでいる人々は島人の心というか、自分の生まれ育った島に対する誇り、愛着を非常に強く持っている。人間、誰にでも多かれ少なかれ郷土愛はあるのだが、島の人々が持つ、自分の生まれ育った島を愛する気持ちには決して敵う事が無いといつも思うのだ。





中にはこんなものまであった。日本では天然記念物のカブトガニだが、東南アジアでは食材になってしまう。私たちの年代の子供たちにとって憧れの存在であったカブトガニを食べてしまうなんて恐れ多いことである。子供の頃、図鑑で見たカブトガニは昆虫くらいの大きさだったと記憶するが、実物は気持ち悪いほど巨大である。



お腹も満腹になって、ほろ酔い加減で浜辺を歩く。やがて日が沈み始める。島に来て、一番好きな時間帯である。









東湾の南端にはこの島で唯一のホテル、華威酒店がある。



華威酒店側から見た東湾。



華威酒店の先には観音湾という人影も疎らな隠れビーチがある。



マリンスポーツの施設もある。長州島はマリンスポーツの盛んな土地柄で、1996年のアトランタオリンピックのヨット競技のミストラル級(こう書くと何の種目か分からなくなるが、ウインドサーフィンのことである)金メダリスト李麗珊の出身地である。香港はよほど金メダルが嬉しかったのか、1998年開通の地下鉄東涌線の駅のひとつを「奥運(Olympic)」と名付けた。もともとは地名から大角咀となるはずのところだったのだ。このときの金メダルは植民地香港の最初で最後のものとなった。それにしても、全くといっていいほど、風の無い島である。今日も誰一人として、ウインドサーフィンをしている人を見ることはなかった。それでも風が吹く季節には大勢のウインドサーファーで賑わうのであろう。





人影の疎らなビーチでそんな事を思っていたら、静寂を切り裂くような爆音でヘリが飛んできた。ヘリポートにはおもちゃのような救急車が到着して、病人を搬送している。急病人が出たら、医療施設の整った香港島か九龍の総合病院へとヘリで搬送するようである。ここでは急病人の対応という、離島ならではの心配ごとは無縁のようである。ヘリで香港島へはものの5分とかからず到着するであろう。





日が暮れてしまうと、もうする事が無い。たまたま船着場の近くで京劇の劇団が公演中だったので観劇する。各国の伝統芸能の中で最も退屈で苦手なのが京劇である。いつもは見ていて3分と持たないのだが、今日は30分も辛抱して見る事ができた。新記録である。



退屈な京劇を途中で切り上げて、香港島の夜景を見ながら浜辺を散歩して、部屋に帰って寝た。



4日目終了。
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2009年8月11日~8月16日香港7

2009年09月12日 | マカオ・香港
8月14日

今日も朝から雨である・・・。午前中は九龍城に行く。バスに乗ること30分で到着。香港は公共交通機関が非常に発達しており、自家用車の所有率が低い。道を走るのは殆どがバスという印象さえ受ける。朝の通勤時間帯でも渋滞はそれほど酷くない。というか、渋滞していない。また、東南アジアの大都市で良く見る光景のバイクの洪水がない、というか、バイクがほとんど走っていない。何故だろうか?

九龍城砦(きゅうりゅうじょうさい、きゅうりゅうじょうとりで)は、現在の香港・九龍の九龍城地区に造られた砦、またはその跡地に建てられていた巨大なスラム街を指す。

日本では九龍城砦を「九龍城」(「クーロンじょう」)と呼ぶ場合があるが、これは九龍城砦が存在した一帯の地域名あるいは行政地区名の呼び名である。

正式名称は「九龍寨城」といい、これは1994年に当時のイギリス・香港政庁が行った構造物解体時に廃棄物の中から発見された石製の大きな表札から判明した。この時、同時に砦時代の大砲の砲身なども見つかっている。現在では貴重な文化財として九龍寨城公園内の資料館に保管されている。

1898年、イギリスが清朝から香港島や九龍に隣接する新界、及びランタオ島をはじめとする香港周辺200余りの島嶼部を99年間租借。九龍城砦は新界地区に所在していたが、例外として租借地から除外され清の飛び地となる。後にイギリスの圧力で清軍・官吏等が排除されてしまい、以後中国大陸が中国国民党率いる中華民国となって以降も、事実上どこの国の法も及ばない不管理地帯となる。

啓徳空港(1990年代)1941年から1945年の日本軍による香港占領期間中に、近隣の啓徳空港(旧香港国際空港、1998年に移転のため廃止)拡張工事の材料とするため城壁が取り壊された。1940年代の中国内戦と、1949年の中国共産党率いる中華人民共和国の樹立により、香港政庁の力が及ばないこの場所に中国大陸からの流民がなだれ込みバラックを建設、その後スラム街として肥大化する。

1960年代から1970年代には高層RC構造建築に建て替わるものの、無計画な増築による複雑な建築構造と、どの国の主権も及ばずに半ば放置された環境から「東洋の魔窟」と呼ばれ、「アジアン・カオス」の象徴的存在となっていた。1960年代後半から1970年代にかけては鉄筋コンクリート(RC造)のペンシルビルに建て変わったものの無計画な建設のために九龍城砦の街路は迷路と化した。「九龍城には一回入ると出てこられない」といわれるゆえんはここにある。また行政権が及ばなかったために売春や薬物売買、賭博、その他違法行為が行われ、中国語で「無法地帯」を意味する「三不管」の地域と呼ばれるようになる。

そのため、イギリス領である香港領内での認可を受けておらず、中華民国および中華人民共和国内のみで通用する免許で開業した歯科医院や海賊版の出版物の出版、コピー商品の製造、麻薬の取り引きなどが半ば公然と行われていた。また衛生法上許可し難い環境下での中華料理の点心製造などがあったが、最盛期には香港のホテルや飲食店で使われた点心のかなりの割合を請け負っていたとの説もある。城内警備においては1970年代後半から1990年代にかけて住民達が一丸となり自警団を組織し治安の改善を図った。

1984年にイギリスのマーガレット・サッチャー首相と中華人民共和国の趙紫陽首相が行った英中共同声明調印により、香港が1997年7月1日に中華人民共和国に返還されることが決まり、1987年には香港政庁が九龍城砦を排斥し、周囲のアパートや郊外のベッドタウンに政庁が建設した高層アパートへ住民を移住させる方針を発表したが、補償などの問題で住民はこれに異を唱えた。また何十年もの間行政が立ち入ることはなかったが、共同声明の後に漸く香港警察の警官が定期的に巡回を行った。その頃には香港の他地域よりもむしろ城内の方が安全であったと伝えられている。

九龍城砦が取り壊される直前の1990年代頭頃には、0.026km2(約200m×120〜150m)の僅かな土地に5万人もの人々がひしめき合って人口密度は約190万人/km2と世界で最も高い地区であった。これは畳1枚に対して3人分の計算である。比較参考値として東京ドームの面積は0.0467km2、観客席の収容人数は4万5000人である。
しかし1984年の中英共同声明により香港が1997年に中華人民共和国に移譲、返還されることが確定すると1987年には香港政庁が九龍城砦を取り壊し、住民を強制移住させる方針を発表。

1993年から1994年にかけて取り壊し工事が行われ、その後すぐに行われた再開発後に九龍寨城公園 (Kowloon Walled City Park) が造成された。







在りし日の九龍城。香港の主権が及ばない、中国本土の飛び地という特殊事情がこのような世界に類を見ない魔窟を作り上げた。高層スラム街という形容がぴったしくる。かつて見たことのある中国の大都市の駅の近くにあるスラム街(広州、昆明など)もこんな感じだが、ここまで巨大で邪悪な空気を醸し出してはいない。日本で似たような所をあえて探そうとすれば、東京のスラム街こと、足立区の竹ノ塚を連想するが、九龍城の足元にも及ばない。ずっと昔から憧れていた九龍城ではあるが、今となっては、人も疎らな味気ないただの公園となっていた。



















九龍城の歴史についての説明があった。







九龍城の再現ジオラマ。九龍城のプラモデルを販売すると、カルト的な人気を博すと思うのだが、実現しないだろうか?





公園の外にはかつての九龍城を偲ばせる老朽化したビルが建ち並んでいる。城壁の外にあった、中国本土の飛び地では無い、香港の九龍城の街である。











在りし日の九龍城の面影を残すビルの入口。魔窟の入口というほど恐ろしいものではないが、怪しげなビルばかりである。















九龍城の街は、現在は食通の集まる街として知られている。香港の人たちは週末などにおいしい物を食べに九龍城へやってくるようである。中華料理はもとより、評判のエスニック料理の店も多数ある。もともとこの地にタイ人が住み着いていたことから、タイ料理の食材店やタイ料理の店が軒を連ね、独特の匂いが街を包んでいる。リトルタイランドと思えるほど、タイ人に関する店が多い。タイ人らしき姿を街でよく見かける。





九龍城の市場。市場の少ない香港で一番インパクトの強い市場ではないだろうか。



























香港映画のワンシーンのような光景である。今にも肉屋の親父役のサモハン・キンポーが包丁を持って飛び出してきそうである。



九龍城は現在の香港が失ってしまった、元来の香港の魅力ともいえる東南アジアの複合文化、ミックスカルチャーを腹の底から味わわせてくれる。そして何が飛び出すかわからないおもしろさを秘めているカオスな所であった。

雨も小降りになってきたところで、バスでホテルへ戻る。
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2009年8月11日~8月16日香港6

2009年09月11日 | マカオ・香港
今夜は晴れである。ヴィクトリア湾に行って、香港島の夜景を見ようと思う。











九龍側から香港島を見ると、滞在3日目にしてようやく香港にいることが実感できた。天馬埠頭からスターフェリーに乗り香港島へと渡る。



沢木耕太郎はこのスターフェリーが大のお気に入りだったようで深夜特急では、これ以上ない賛辞を送っている。

香港を歩き廻るのには、人力車を除いてあらゆる乗り物を利用した。二階建ての路面電車やバス、それに小型のパブリック・バスや稀にタクシー。しかしなんといってもよく乗ったのはフェリーだった。とりわけスター・フェリーは、香港島に渡る時はもちろんのこと、用がない時でもただ漠然と乗っては往復して帰ってきたりするほどだった。私はスター・フェリーが好きだったのだ。スター・フェリーには、昼は昼、夜は夜と、その時刻によってそれぞれ異なる心地よさがあった。光の溢れる日中には、青い海の上に真っ白な航跡が描かれ、その上をゆったりと鳥が舞う。大気が薄紫に変わる夕暮れどきは、対岸の高層建築群に柔らかな灯が入りはじめる。そして夜、しだいに深まる闇の中で、海面に映るネオンが美しい紋様を描いて揺れるのだ。私はこのスター・フェリーに乗ると、それまで自分が身を置いていた街路の興奮から醒め、心が穏やかになっていくのを感じた。それは必ずしも私だけのことではなく、香港の市民にしても同じことだったのではないかと思われる。生まれてから何百回、何千回と往復しているに違いない彼らが、フェリーの動きと共に変化していく風景に、優しい視線を投げかけている姿をよく見かけたからだ。本や新聞に眼を落としている客はほとんどいず、大部分は、男も女も、老人も子供も、対岸の建物や往きかう大小の船、風に舞うしぶきなどを眺めている。人が狭い空間に密集し、叫び、笑い、泣き、食べ、飲み、そこで生じた熱が湯気を立てて天空に立ち昇っていくかのような喧騒の中にある香港で、この海上フェリーにだけは不思議な静謐さがある。それは宗教的にも政治的にも絶対の聖域を持たない香港の人々にとって、ほとんど唯一の聖なる場所なのではと思えるほどだった。十セントの料金を払い、入口のアイスクリーム屋で五十セントのソフト・アイスクリームを買って船に乗る。木のベンチに坐り、涼やかな風に吹かれながら、アイスクリームをなめる。対岸の光景はいつ見ても美しく、飽きることがない。放心したように眺めていると、自分がかじっているコーンの音がリズミカルに耳に届いてくる。このゆったりとした気分を何にたとえられるだろう。払っている金はたったの六十セント。しかし、それ以上いくら金を積んだとしても、この心地よさ以上のものが手に入るわけでもない。六十セントさえあれば、王侯でも物乞いでも等しくこの豪華な航海を味わうことができるのだ。六十セントの豪華な航海。私は僅か七、八分にすぎないこの乗船を勝手にそう名付けては、楽しんでいた。





中環の埠頭からヴィクトリア・ピークへ行くトラム乗り場に歩いて向かうが、結構距離があり、迷ってしまった。ウォール・ストリートか丸の内かという雰囲気もある国際的な街、中環だが、平日の夜、一歩裏道に入ってしまうと人も車も極端に少ない。あたりは香港とは思えないほど暗く、一人で歩くのが恐いほどである。そうした苦労の末、ようやくピークトラム乗り場にたどり着くことができた。トラムは1888年の完成で、香港で最初の公共交通機関。イギリス人はよほど香港の暑さがこたえたらしい。



トラム乗り場の周辺は、死んだように静まり返っているし、夜の10時半と遅い時間に来たので、誰もいないかと心配していたが、乗客はまだいるようであった。下ってきたトラムは立錐の余地が無いくらいの大混雑だが、登りのトラムに乗車する人は僅かなので、余裕で眺めのいい右側の席に座ることができた。





スリル満点の急勾配を登る事、約8分、ヴィクトリアピークに到着。





























昔のトラム。



100万ドルの夜景を楽しんだ後は、トラムに乗って帰る人たちの長蛇の列を横目に、バスで中環へと戻る。観光客はバスの存在を知らないのか、トラムに乗ることにこだわっているのか、ダブルデッカーの大型バスにも関わらず乗客は10人もいなかった。



中環から地下鉄に乗り、ホテルに戻ると12時を過ぎていた。今夜の天気だと、明日は間違いなく晴れるだろう。明日は島に渡る予定である。明日さえ晴れてくれれば、香港に着いて以来、ずっと続いた連日の雨を帳消しにしてくれるはずである。

3日目終了。
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2009年8月11日~8月16日香港5

2009年09月10日 | マカオ・香港
ホテルに戻り、一休みする間もなく、次の目的地の深センに向かう。国境まで行く九広東鉄の始発駅のホンハム駅は近くにあるのだが、雨が強く降っているのでタクシーで向かう。





香港始発の中国本土行きは出国審査も兼ねているので、別の改札となっている。広州、上海、北京の行き先表示がある。





九広東鉄は深センとの国境である羅湖行と落馬州行きが交互にやってくるダイヤとなっている。この時間帯でも5~7分間隔で列車はやってくるので便利である。



ホンハムが始発駅だと思っていたが、それは古い知識で今は尖沙東が始発駅であった。地下鉄の尖沙咀と連絡通路で結ばれているので同一の駅と考えてよい。それを知っていたらわざわざタクシーでホンハムまで来る必要もなかった。さらに、4日後の8月16日には九広東鉄と九広西鉄が尖沙東で結ばれるらしい。駅で祝開通のビラを配っていた。それにしてもガラガラの車内である。新しい車両だが、椅子がステンレス製で固い。国境までの40kmの距離を乗車しているとお尻が痛くなりそうである。しかし、何故、香港でも一番の長距離路線の車両がこのようなステンレス製の固い椅子なのであろうか?中国本土から大挙して押し寄せる人民への差別かと訝ってしまう。なお、この路線のみ1等車が連結されている。お金のある人は2倍の料金を払えばきちんとした布張りの1等車に乗れます。それが資本主義というものです。資本主義の香港から社会主義の中国及び人民へのメッセージなのであろうか。



列車は旺角を過ぎ、香港北部のベットタウンに近づくと乗客も増えてきた。途中駅でフィリピン人のメイドと香港人の子供が2組乗車した。まだ、幼稚園児くらいの年齢と思われる子供たちだが、流暢な英語でフィリピン人と楽しそうに会話をしている。家に帰ると両親とは中国語で会話するのであろう。香港を歩くとフィピン人の姿を多く目にする。メイドとして出稼ぎに来ているのである。香港の場合、共働きの家庭がほとんどである。日中、母親が働きに出ている間は、メイドが家事、育児をこなす。これは日本も見習うべき事だと思う。日本人女性は香港人女性に負けないくらい高学歴で、20代のうちは男性よりも格段に仕事を覚えるペースが早く、成長曲線も早い。しかし、せっかく社会に出て仕事をバリバリこなしても、一旦、育児で家庭に入ってしまうと社会復帰が困難なケースが未だに多い。また、仮に社会復帰を果たしたとしても、あらゆるものの時間の流れが速い現代では、せっかく培ってきたスキルが既に過去のもの、古くて使えないスキルになってしまっているケースが往々にしてある。そして気がつくと、いつの間にか、あれほど差をつけていたはずの男性社員に先を越されてしまっている。これでは本人も悔しいだろうし、企業としても、女性は使いづらいという事になってしまう。従来の日本社会の旧態依然とした仕組みのままだと、お互い不幸な結果になってしまう。このような従来の日本社会の枠組みを変えていかなければ、少子化の流れも止まらない。また、高学歴で優秀な女性を家庭に閉じ込めてしまう、日本のシステムではグローバル競争に勝ち残れない。香港のように女性も男性と対等に活躍できる枠組みを早急に作るべきである。その枠組みを作る一つの鍵は香港と同じように、フィリピン人のメイドの導入である。しかしながら、家事と育児をメイドに安心して任せられるようになるほど日本社会が成熟するにはそれ相応の時間が掛かるであろう。香港の場合はどうだったのであろうか。香港のケースは現代の悩める日本社会の回答の一つである。優秀な女性の活用、少子化の歯止め、国際競争力のアップが期待できるだけでなく、英語が堪能なフィリピン人メイドに育てられた子供は自動的に英語ペラペラのバイリンガルに育っているという嬉しい副産物までついてくる。いいことずくめではないか。

羅湖までの長い道中でそんな社会的考察と将来の日本の国際競争力アップの提言まで考えついてしまった。普段、政治には無関心であるし、日本ではこんな事は考えた事もない。フィリピン人のメイドと香港人の子供を見かけただけで、ここまで話が大きくなってしまった。これも旅ならではの事である。

そんな事を考えているうちに、終点の羅湖に到着。ステンレス製の固い椅子に長時間座っていたので、思った通りお尻が痛くなってしまった。



イミグレーションを通過すると、中国本土、深センである。道路が左側通行から右側通行に変わる。何故だか分からないが、中国本土に入ると匂いが違ってくる。中国独特の匂いである。





羅湖商業城。中にはショピングセンターやバスターミナルが入っている。香港からの買い物客で賑わっている。











財布が古くなっていたので、財布を買おうと思っていた。各店舗の呼び込みが激しいが、純朴そうな子が店番をしている店で買うことにする。中国で買い物をする場合、値段交渉が面倒である。なるべく欲しそうな顔をしないのが鉄則なのだが、もう一つ、若い女の子が店番をしているところがいい。店に入ると早速、女の子が名刺を差し出してきた。林冬燕(Angel)と書いてある。中国語の読みは分からないのでAngelちゃん呼ぶことにする。Angelちゃんと交渉開始。欲しい財布があるのだが、やはり値段が折り合わない。話題を変えて、Angelちゃんの事を色々と質問する。ようやく話が盛り上がって来たところで、「ところで、Angelちゃんは学生でしょ。今日はアルバイトなの?」「え~、私はずっとここで働いているのよ~。」「うそだ~。だって19歳くらいでしょ?」「あはは!私は26歳よ」「うそでしょ~。どうみても19歳くらいにしか見えないよ。」などなど、ひたすら褒めまくる。Angelちゃんも私の年齢を25歳だと思っていたとか、持ち上げてくるが、気分が良いのであろう。結局は、当初の提示金額の480元から200元にまで値下げしてくれた。予算の範囲内なので、気持ち良く買うことにする。なるべく若い女の子が店番をしている店で、商品のことはさておいて、その子の事をひたすら褒めまくるとうまくいく事が多い。逆に年配の女性店員にこの手は通じない。過去に何度も敗北を重ねてきた。手ごわい相手なので、最近は、最初から相手にしないようにしている。



深セン駅。





深センシャングリラホテル。



深センは中国の他の都市とはまったく違う、まさに香港と中国の中間といった感じである。30年ほど前は、漁業を中心とした人口わずか3万人の町にしか過ぎなかったが、1979年に経済特区に指定されて以来、新興商工業都市としてめざましい発展を遂げ、現在は人口400万人を超える大都市である。









街には近代的な高層ビルが建ち並んでいるが、一歩中に入ると、庶民の暮らしが垣間見れる。そこは香港と違い中国の風景であった。



深センには特に観光名所は無い。時間つぶしにマッサージをして、外に出たら、空は晴れわたっていた。この旅で初めて太陽の光を見る事ができた。





帰りの電車は香港へ行く乗客で込み合っている。しかし、途中の駅でほとんどの乗客は降りてしまった。ステンレス製の固い椅子に長時間座って終点まで乗るとまたお尻が痛くなった。この椅子は何とかならないのだろうか。

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2009年8月11日~8月16日香港4

2009年09月09日 | マカオ・香港
8月13日

昨夜は熟睡したおかげで、目が覚めたらもう8時だった。外は雨がかなり強く降っている。この雨だと観光するのも難儀である。午前中はゆっくり飲茶でも楽しむことにしよう。地下鉄で油麻地まで行き、安さと種類の多さで人気の庶民派飲茶店、倫敦大酒楼に行く。ここは早朝から地元の常連客で賑わう庶民派酒楼。人気の秘訣はリーズナブルな価格と100種類は優に超えるという種類の多さ。しかも、最近では少なくなってきたワゴン式を採用しているので、香港飲茶の醍醐味を満喫できる。

お茶は選べず普洱茶のみ。



最近はオーダー式の飲茶店が多いが、ここは伝統のワゴン式。目で見て選ぶのが楽しい。



とにかく広い。そして地元の人たちで賑わっている。庶民の街、油麻地の店らしい光景。



一人なので多くの種類の点心を食べられないのが残念だった。それでも、あまりの美味しさに5品も食べてしまった。

美味しかった点心ベスト3

第3位 鮮蝦餃(エビ入り蒸し餃子)飲茶を代表する人気No1の点心。エビのプリプリ感がたまらなく美味しい。





第2位 鮮蝦腸粉(ライスクレープのエビ巻き) 浮き粉で作る餃子と違って米を絞った液を膜状に蒸した皮でエビを巻いている。食感が餃子よりもつるっとしていてエビひとつひとつのプリプリ感がいっそう際立っている。また、油と醤油のたれが美味しい。餃子よりもこっちの方が美味しかった。



第1位 豉油鮮竹巻(豚肉やエビのすり身のゆば巻き)ゆばの皮とオイスターソースの相性がバツグン。圧倒的な第1位。もう一皿おかわりしたいくらいだった。





お茶と点心を楽しみながらゆっくりと時間を過ごすことができた。外に出ると雨も小降りになっている。ネイザンロードを歩きながら南下していくとほどなくして旺角の街に出た。ここから各地へ行くミニバスが多数出ている。そのなかに香港仔(ホンコンジャイ)と書かれた行き先札を掲げているミニバスに乗ってみる。海底トンネルを通って、香港島の山を越えて九龍から香港島の南側まで一気にミニバスで走り抜ける。渋滞も無く、30分もかからずに香港仔に到着した。こうしてみると九龍、香港島は実に狭いエリアだということが良く分かる。反対に昨日1日かけて周った新界の広さも良く分かった。

かつて香港仔は香港有数の観光地だった。水上生活者の船がびっしりと浮かび、その景観と人々の暮らしを見るために多くの観光客が訪れたのであった。漁業を生活の糧とする香港仔の人々は、船を仕事場兼住居とし、35年ほど前はその数15万人もいたという。彼らは陸上での生活を嫌い、船の住居を捨てようとはしなかった。しかし、15年ほど前から政府の政策によって陸地には続々と高層団地が誕生。船で生活していた人々も陸地に定住するようになり、今では香港仔にかつての面影はない。

沢木耕太郎著 深夜特急1香港・マカオ編で香港仔についてこのような描写がある。

夜の香港仔でも、昼間と同じように筆談が始まった。子供たちはみんなこの異国人に興味を持ち話しは弾んだ。もちろん紙の上での会話である。話が弾んだというのは妙な表現だが、私には喋っている以上に生きいきと彼らの会話が伝わってきた。彼らの顔には素朴な好奇心が溢れていた。中でも、頬のふっくらとした、中国版ベティちゃんといった感じの七、八歳の少女が私に強い興味を持ち、いろいろ知りたがった。不意に姿が消えたかと思うと、右手を後ろに隠すようにして戻ってくる。そして恥ずかしそうに右手を突き出すと、「スイクァ」と言った。彼女の手には西瓜が一切れあった。みんなが食べろ食べろと勧めるので、ひとりだけありがたくご馳走になることにした。どれくらい遊んでいただろう。あまり遅くなってもいけないと思い、アドレスを交換して別れることにした。私が紙に書いて渡すと、ベティちゃんは嬉しそうに胸のポケットにしまったが、自分の住所は書こうとしない。紙を渡してうながすと、陳美華、とだけ書いた。君の住所は?私が訊ねても不思議そうに見つめ返してくるばかりなのだ。住所、住処、居処などと思いつくままに試みてるうちに、やっと私の求めているものがわかったらしく、大きく頷いた。そして彼女はどうしたか。走り出したのだ。彼女は道が広い通りにぶつかる交差点まで走って行き、道路標識を見上げ、何かを書き取った。しかしまだその時になっても、私は彼女が何をしているのかわからなかった。息をはずませて戻ってくると、ベティちゃんはニコニコしながら紙を差し出した。そこには、こう書いてあった。 陳美華 湖南街 彼女たちは水上生活者だった。住所を持っているはずがなかったのだ。彼女の明るい笑顔に胸を衝かれた。さあ、帰ろうかな。私は日本語で呟いて腰を上げた。これからどうするのさ。子供たちが訊ねてきた。この辺をもう少し散歩してから帰ろうと思う。手真似で説明すると、ベティちゃんが顔を曇らせた。白いTシャツの上で細い指が動く。しかし、何という字なのかわからない。首をかしげると、もう一度彼女は指を動かした。晩。それはわかった。さらに一文字。女。ベティちゃんは晩女、と書いたらしい。晩と女、あるいは晩の女。そして、そうなのか、というように私の顔を覗き込んでくる。もしかしたら、と私は思った。彼女たちは、私がこの辺をうろついて女でも探そうとしているのと誤解しているのかもしれない。そういえば、気のせいかもしれないが、ベティちゃんの顔に、おまえもなのか、といった失望の色が浮かんでいるようにも見える。そうか、わかった。そう思うのなら、真っすぐ宿に帰ろうね。散歩なんていつだってできるんだから。近くの停留所からバスに乗り、「グットバイ」と手を振ると、少年たちも少女たちも、ベティちゃんも、みんな大きく手を振った。


現在の香港仔は観光客が好みそうなおしゃれな店やレストランはなく、高層団地と小さな広場と小さな商店街とショピングセンターがあるだけのローカル色豊かなエリアである。観光客が行きそうな場所はあの有名な巨大水上レストラン「ジャンボ・キングダム」くらいであろう。きらびやかな色で彩られた巨大な宮殿をかたどった観光パンフレットでよく見るあれである。













当時26歳だった沢木耕太郎は現在62歳、7、8歳だった陳美華ちゃんは今頃は42、3歳くらいになっているだろうか。水上生活を捨てて、どこかの高層団地の一角で幸せに暮らしているに違いない。


香港仔からバスに乗って、香港島の反対側の中環に行く。



途中、香港島の真ん中の山の中にある香港大学前を通る。



山を越えると香港島北部の高層団地が見えて来た。




島特有の細い坂道を大きなダブルデッカーのバス同士がすれ違うのは乗っているこちらもはらはらする光景だが、熟練した香港のバス運転手はなんなくすれ違って行く。



坂を下り終え、トラムが見えて来ると目的地の中環も近い。





中環からは降り止まぬ雨の中、地下鉄に乗ってホテルに戻る。
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2009年8月11日~8月16日香港3

2009年09月07日 | マカオ・香港




地下鉄荃湾線に乗り、三つ目の美孚で九広鉄路西線に乗り換え。





九広鉄路西線は2003年に開通した新しい路線で全長30,5km。元朗、屯門など新界のベットタウンに向かう路線である。進むにつれ車窓に山々が見えるようになり、香港の田舎、新界へ向かっているという感じがする。





終点の屯門。日本の私鉄のニュータウン駅にそっくりな佇まいである。駅の周辺も似たような感じであり、ジャスコがあったり、昼間の人の少なさといい、なんだか多摩ニュータウンあたりにいるような気がしてきた。それにしても雨が強い。外を歩くのはちょっと無理なくらいの雨足である。





屯門からは軽便鉄道(LRT)で港へと向かう。屯門は今では30~40階建ての天を突くようなノッポビルのアパートが建ち並ぶ人工的で近代的な雰囲気を持ったベットタウンになっているが、古くから貿易や漁業と深く結びついた港町だった。それだけに、時の中央政府もここの産業を守るため兵士を派遣している。屯門という地名は軍が駐屯し守る門戸からきているといわれている。







周りは高層アパートや海が見えるくらいで特に見るべきものはなさそうである。もっともこの強い雨ではあまり外を歩きたくない。LRTの終点から元朗行きに乗るが、ホームのセンサーにオクトパスをタッチしても出口専用なのであろうか、エラー音がする。運賃は降りるときに払うものとしてとりあえずLRTに乗り込む。



屯門を出るとのどかな風景が続き、30分も走ると高層団地が林立する大きな街が出現する。ここが終点の元朗であった。LRTを降り、ホームのセンサーにオクトパスをタッチするとまたエラーになってしまった。そのつもりは毛頭無かったのだが、結果として無賃乗車になってしまった。改札も無く車掌もいないLRTはいくらでも無賃乗車ができてしまう。気軽に乗れるのがLRTの良いところであるが、これでいいのであろうか?

元朗は20年ほど前までは周りを田畑に囲まれたショッピングセンターもない、本当にのんびりとした田舎町だった。しかし、九広鉄路西線、LRTの開通や中国本土からの高速道路の完成、香港の中国向けの物流拠点としての工場や巨大コンテナターミナルが建設され大きな変貌を遂げた。中心部には大きなショッピングセンターも複数あり、大通りにはシティバンクの支店まである。香港返還が契機になって新界で一番変わったのは元朗であるといわれている。



ネイザンロードを小型化したような大通り。屯門と違って商店も多く、大勢の人々で賑わっている。



飲食店はたくさんあるのだが、新しくできた街なので、老舗のような趣の店はあまりない。裏通りにチャーシューが有名でTV、雑誌で紹介された写真が沢山貼ってある店に入って昼食とする。チャーシュー飯を食べるが、米が臭いのか癖のある味であまり美味しくない。チャーシューはご飯にではなく麺と一緒に食べるのが美味しいと勉強になった。店内の客もほとんどチャーシュー麺を食べている。

雨の元朗を後にして、バスで錦田へと向かう。



香港もここまで来るとのどかな山々が見え、山の向こうは中国本土である。





錦田は元朗の東に広がる農村地帯である。この錦田には周りを四角くレンガの壁で囲まれた客家の城壁村がいくつもあった。今ではそのほとんどが壁を取り壊して、普通の村になってしまっているが、香港のイメージからは遠くかけ離れた、まるで中国の田舎の農村にいるような感じになる。香港にもこのようなところがあるなんて思いもよらなかった。







九龍、香港の喧騒があり、一方、錦田のような渋い農村もある。ステレオタイプの香港では語れない多様性を発見した。歩けば歩くほど、まるで時代が止まったままの様な錦田が好きになってくる。



錦田の外れにある客家の城壁村が、この錦田吉慶園である。入り口は壁の西側にただひとつだけあって、ここだけが城壁村の内と外をつないでいる。この錦田吉慶園の先祖は北宋(960~1127年)の時代、北からやって来た符協という人で、時が経ち子孫の発展した一族は1400年代に今の錦田吉慶園の村の基礎を作り、17世紀の終わり頃、外敵を防ぐために壁をこしらえたと伝えられている。壁の前の駐車場にはJTBの観光バスが駐車しており、日本人の観光ツアーに組み込まれている場所のようであるが、このような香港のはずれの城壁村まで来るなんてJTBも粋なツアーを企画するものである。

























城壁の中は以外に狭い。200m×200mくらいしかない。古色蒼然とした石造りの家があると思えば、新築マンションがあったりと新旧ごちゃまぜである。



バスで元朗に戻る。新界を離れて九龍に戻ろうと思う。帰りは乗り換えの必要な鉄道ではなくて、バスで行こうと思う。佐敦行きのミニバスが列をなして客待ちをしているので、それに乗って行こうかと思っていたら、思いがけなくダブルデッカーの大型バスの佐敦行がやってきたのでそれに乗車する。2階の一番前に座ると見晴らしが良くて快適である。







バスは強い雨の中、高速道路を走り九龍を目指す。電車よりも乗り心地はいいし、見晴らしも良くて、速くて、ノンストップで走る。香港のバスがとても頼もしく思えてくる。















山々を抜けて、港湾、船舶や高層マンションが見えてくると九龍である。







30分ほどでネイザンロード、佐敦に到着。電車よりもバスの方が速くて快適であった。

ホテルまで歩いて戻り、部屋で一休みする。ちょっと一休みのつもりでベットに横になったらいつの間にか寝てしまい、気がついたらもう夜になっていた。











目を覚ますと体に強い疲労感が残っている。近くで食事を取ってこのまま寝てしまいたい気分だが、限られた時間で旅行をしているのであるし、香港をじっくり観光する機会ももう無いかもしれないという義務感のような気持ちで体を奮い立たせる。外はまだ雨が降り続いている。地下鉄に乗り、油麻地(ヤウマテイ)の廟街のナイトマーケットの賑わいを見に行く。終日降り続いた雨のせいか、気持ちが乗らずにやってきたせいか、特に珍しいモノも無く、欲しいモノも無く、食べたいモノも無く、ひととおり見てしまえば、もうホテルに戻りたくなってしまった。それにしても、ここまで雨が降り続くとテンションが下がってしまう。明日はきっと晴れますようにと願いながら就寝。物思いに耽る間もなくあっという間に深い眠りについた。

2日目終了。

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2009年8月11日~8月16日香港2

2009年09月07日 | マカオ・香港
8月12日

熟睡できたので気持ちよく目覚めることができた。朝食を近くの食堂で取る。朝食メニューはサンドイッチ類が多いが、牛筋ラーメンを食べる。香港のラーメンはあっさりしているので朝から食べたくなる味である。牛筋がやわらかくて美味しい。



天気は曇り、何の予定も無いので、ネイザンロードを歩いて南へ向かう。



美麗都マンションは改築しているようであった。香港の安宿トップの座を重慶マンションと争い、一時はその座を奪う勢いであった美麗都マンションだが、今ではひっそりとしている。軍配は完全に重慶マンションに上がったようだ。





やがて重慶マンションに到着。ネイザンロードの一等地に面しておりながら、この汚さ、ボロさ、まるで巨大な廃墟ビルである。まわりが新しくて綺麗なビルばかりなのでより一層際立ってしまう。これでは香港のゴミビルとも言われても仕方が無い。



香港で一番両替レートがいいのはここの奥にある両替所である。香港に着いてからまだ両替をしていないので、両替する。最近は円高なのでレートがいい。



重慶マンション名物、少人数しか乗れずしかも非常に遅いエレベーター。2台あるが、奇数階停まりと偶数階停まりとに別れているので注意が必要。

重慶マンションは正面から見ると巨大な箱型のビルに見えるが、実はとても複雑な構造になっており、ネイザンロードに面しているのがA座、A座に対して直角にB座、C座、D座、E座と5棟の建物がつながっている。5棟の建物で構成されており、ネイザンロード正面に見えるA座は一見、巨大な建物に見えるが横から見ると実は薄っぺらい建物である。そして同じように薄っぺらいB座、C座、D座、E座の4棟が平行に並んでいる。上空から見ると櫛のような形をしているはずである。



彌敦道(ネイザンロード)に面しているA座は、重慶大厦の中でも最もゲストハウスの軒数が多いブロックである。したがって名物のエレベーターもこのブロックの行列が一番長いので、上層階の宿を利用する人はそれなりの覚悟が必要。また、上層階の宿は比較的料金が安いため、少しでも安い宿を好むアフリカの人達でいつも大変混雑している。



B座は、A座に次いでゲストハウスの軒数が多いブロックだ。したがって、名物のエレベーターもかなり混む。香港の定宿ドラゴンインはここの3階にある。しかし、もう重慶族は卒業した身分なので見物のみである。



C座は、A・B座に比べてゲストハウスの数は少ない。また、一部のゲストハウスは、B座と同フロアで直接つながっている。D座はA・B・C座に比べてゲストハウスの数はかなり少ないので、エレベーターもほとんど混むことがない。便利さでは、A・B・C座をしのぐ。また、一部のゲストハウスは、E座と同フロアで直接つながっている。E座は、各ブロックの中で最もゲストハウスの数かなり少ない。そのため環境もかなり静かだ。エレベーターが混むこともない。






両替もして財布も厚くなったのでほっと一安心。今度はネイザンロードを北に向かい佐敦(ジョーダン)まで歩く。







佐敦周辺の雑居ビルにも旅社、賓館の文字が目立つ。中国人相手の安宿であろう。重慶マンションの安宿よりさらに安い値段で泊れるはず。





それから、佐敦から地下鉄で二駅の旺角(モンコック)に行く。香港で一番人口密度が高く、今、最も活気があり、吸引力のある街といわれている旺角だが、時間が早いのか人影もまばらで商店もまだオープンしていない。きっと昼前から深夜にかけて賑わうのであろう。







続いて、旺角から二駅の深水捗(サムスイポー)に行く。ここは香港の秋葉原ともいうべき所でおもしろそうなものが手に入りそうだと期待して行ったのだが、あいにくまだ開店前であった。お昼頃から開店するような気配である。また、安い洋服の露天が建ち並んでいるので有名な所でもあるのだが、それもまだ開店前かぼちぼち開店といった感じであった。空からは雨が降り出してきた。午前中に九龍を観光してもあまり意味がない。また夜に来ようと思う。九龍観光は一旦、終了して新界に向かうことにする。

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2009年8月11日~8月16日香港1

2009年09月03日 | マカオ・香港
8月11日

今年の夏休みは8月12日から16日の5日間と短い。一昨年、昨年は9日間の長期休暇を取得できたので、中国の雲南省、新彊ウイグル自治区といわば辺境とも言える場所へ旅行する事ができたが、5日間ではどうも中途半端である。今年は2月に台湾、3月にタイ、GWにフィリピンへと行って来たので、5日間で行けるその他の場所を考えると①韓国②北京③香港あたりが候補となったが、結局、うまい具合にマイルで航空券が取れた香港に決定。香港には過去何度か行った事があるのだが、いつも旅の中継点でしかなかった。5日間に渡って香港を観光する機会など、なかなか無いであろうから、テーマを決めてじっくりと巡ってみたいと思う。

今回の香港の旅のテーマ
①良く言えば香港のカオサン、悪く言えば香港の魔窟、犯罪の温床と言われる定宿の重慶マンションには泊らず最低でも中級ホテルに宿泊する。(重慶族からの卒業)
②メインの観光地の九龍、香港島をあらためてじっくりと観光する。
③観光客が訪れない新界まで足を延ばす。
④綺麗なビーチがある島に滞在する。
⑤中国本土、深センに行ってみる。
⑥香港の様々な交通機関(地下鉄、ダブルデッカーバス、ミニバス、タクシー、LRT、トラム、フェリーなど)を乗りこなす。
⑦おいしい飲茶、海鮮料理を食べる。
⑧マカオには行かない。

ざっと思いつくのはこんなところであろうか。そもそもテーマを決めて旅をしても途中で忘れてしまったり、旅の展開次第ではいくらでも変わってしまう可能性が高い。そこが一人旅の好い所というか、いい加減なところである。

香港には羽田から夜に出発する便がある。会社帰りにも十分間に合う時間なので都合がいい。現在、羽田から発着する国際線はソウル、上海、香港、グアムの4路線。将来的には近距離アジア線の発着がさらに増える予定だが、成田に遠慮する事無く、近距離アジア路線は全て羽田発着になって欲しいと思う。国民全員(千葉県民以外)が喜ぶ事は早く実現してもらいたい。国際線がどんどん成田から羽田に移管すれば、成田も羽田という強力なライバル出現によって危機感を抱いて今より少しはマシな空港になると思うし、身勝手で強欲な地権者達の土地の強制収用も進んで積年の課題であった空港の拡張も早まるであろうし、また、交通アクセスの改善も期待できる。いずれにせよ、日本の首都の国際空港があれだけ不便なままでは国際競争に乗り遅れてしまうし、海外からの訪問客に対しても恥ずかしい限りである。

仕事を定時で終え、時間に余裕があるので髪を切りに行く。さっぱりしたところで、羽田へ移動。仕事で羽田は年に2~6回は利用するのだが、旅行で利用するのは初めてのような気がする。国際線ターミナルは第2ターミナルの隣にあるこじんまりとした建物である。新しい国際線ターミナルの完成が近いので、ここを利用するのは最初で最後になるかもしれない。夜の時間の利用者は圧倒的に外国人が多い。香港行きはJALとANAが就航しているのだが、なぜかCXは就航していない。夜に羽田を出て、深夜に香港に到着して折り返し早朝に羽田に戻ってくるスケジュールである。昼間の便は無いので、国内線に機材を使用できるJALやANAと違って、CXの場合は機材を羽田に丸一日寝かせておくか、成田や他の国際空港へと回送しなければならない。それでは効率が悪いので就航していないと見た。JL8739便は定刻通り20:45分に出発。機内ではワイルドスピード4を見るがストーリーが退屈なのと小さい液晶画面では迫力が伝わってこず、途中で寝てしまった。このシリーズは最初が一番面白かった。3は東京が舞台だったが、日本人役がなぜか全員、もろに朝鮮人顔の韓国人で、妻夫木聡がほんの一瞬だけ出ていただけであった。日本人の若手俳優には英語の壁があるのだろうが、もっと頑張ってもらいたい。

目が覚めたときには飛行機は既に降下中であった。定刻通り0:20に到着。この時間に到着する飛行機は他にないようで、いつもの香港の長い入国審査の列も短い。入国審査を済ませて、オクトパスカードを購入する。これ一枚で香港の殆ど全ての交通機関に乗れるばかりでなく、コンビニなどでも利用できるすぐれものである。エアポートエクスプレスの最終に何とか間に合い、九龍で降りる。駅から各ホテルへは連絡バスがあるのだが、さすがにこの時間には終わっている。仕方がないのでタクシーでホテルへ向かう。ペニンシュラホテル、ネイザンロードを通り、今夜の宿、粤海酒店に到着。















割引価格とはいえ、九龍の中心部の尖沙咀で5,000円である。いささかの不安があったが、豪華な部屋でびっくりした。アジアで一番ホテル代が高いといわれる香港、この立地、この部屋なら以前なら1万円は下らなかったはずである。これで5,000円なら2,000~3,000円の重慶マンションの安宿に泊るのが馬鹿馬鹿しくなる。香港のホテルも本当に安くなったものである。後で気がついたのだが、ラッキーなことに14階のエクゼクティブフロアにアップグレードされていた。

安宿と違っていいホテルの豪華な部屋に宿泊するとすぐに熟睡できる。清潔な大きなベットに横になった途端、すぐに眠りについた。

1日目終了。
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2007・2008年年末年始のマカオ・タイ10

2008年09月10日 | マカオ・香港
2008年1月6日

10日間に渡った休みも今日で最終日である。香港から名古屋へのフライトは夕方なので時間はたっぷりある。今日はマカオをゆっくりと探索してみようと思う。



安宿のある内港エリアは下町の風情である。



路地を入れば昔ながらの庶民の生活が感じられる場所がある。



福隆新街。この通りは昔は遊郭街だったらしい。両側の赤い格子戸の建物は当時の名残を残している。現在は古い遊郭の建物を改装してレストランやショップとして営業している。



福隆新街は下町から丘に向かい坂道になっている。石畳の道を登って行く。



坂道を登りきった所にお気に入りのお粥屋「誠合」がある。ここは朝しか営業していない。



壁にマジックで手書きのメニューが書いてある。お粥の種類の豊富で、12元からと値段も安い。日本のお粥は病人食のようなイメージがあるが、中華圏のお粥は具材が沢山入っており、量も多く、スタミナメニューである。特に朝食に好んで食べられる。お粥が1日のエネルギーの源なのである。



魚のつみれ入りのお粥を食べる。手作りのつみれがゴロゴロ入っている。食感、味ともにこんなにしっかりした魚のつみれは日本では食べたことがない。



福隆新街の上のエリアは観光地ではないマカオが見れる。マカオの通勤・通学風景。



石畳の道。マカオはポルトガル人が築いた町である。故郷の町をイメージして石畳の道も作られたのであろうか。



道が狭いのと、坂道が多いのがヨーロッパの町の旧市街のようである。マカオは世界遺産の町でもある。



狭い道をバスが通り抜けていく。マカオは自家用車の保有比率が極端に低い。住民の多くはバスを利用する。マカオの面積は世田谷区と同じくらいである。移動はバスもしくは徒歩で十分である。



教会が多いのもマカオの特長である。かつてここから数多くの宣教師がアジア各国に布教へ旅立った。日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルもその一人である。



建物自体は古いのだが、外壁を塗り替えているので新しく見える。良好な保全状態である。マカオの街並みが世界遺産に認定されてから文化財の保存の機運も盛り上がっているようである。



マカオのビジネス街。マカオはカジノの町以外にも金融の町の一面も併せ持つ。一部の銀行は北朝鮮のマネーロンダリングに加担しているとの黒い噂も付きまとう。金正日の長男金正男もマカオ在住らしい。



マカオタワー。高さ338m。東京タワーより5m高い。



南湾湖沿いの道を歩く。



湾の向こうにはマカオの中心地グランドリスボアが見える。中心地は現在、開発ラッシュで高層ビルの建築が相次いでいる。



この辺は開発ラッシュとは無縁の落ち着いたエリアである。



このような古い洋館も廃墟にならずに、綺麗に保存されているのがマカオの素晴らしいところである。住民全体が街並みを大切にしている。



ここを歩いているとまるでニースかモナコにいるみたいである。



上にはペンニャ教会が見える。ペンニャの丘を登ってあそこまで行ってみる事にする。



落ち着いた街並み。集合住宅が多いマカオには珍しく一戸建ての邸宅が建ち並んでいる。



ポルトガル風の洋館。



坂の両側は高級住宅街となっている。山の手は金持ち、下町は庶民が住むという構図は古くからの港町に共通している。



日曜の午前に使用人が主人のベンツを洗車する。山の手らしい光景である。



ペンニャの丘。別名西望洋山。



丘の上からはマカオの街並みが一望できる。内港エリア方面。



こちらはタイパ島へ向かうタイパ大橋方面。



1622年にオランダ艦隊の攻撃から逃れた船員と乗客によって創建されたペンニャ教会。航海の安全を祈る聖地として信仰を集めている。



丘を下ると山の手の一戸建てから集合住宅の街並みとなる。このエリアは下町の内港エリアと違って、中国的な陰気な印象のアパートでは無くヨーロッパ的なしゃれたセンスのアパートが多い。



狭い道をバスが通り抜ける。自宅の前をバスが通るのなら車も不要である。



新中央酒店が見えてきた。このホテルはリスボア等のホテルがオープンするずっと以前、マカオで一番の高級ホテルであったらしい。しかし、現在は1泊3,000円程度の安宿に成り下がっている。



セナド広場に到着。昼間は観光客で溢れかえっている。



古い教会もマカオらしく綺麗である。



マカオの行政の中心である民政総署。



マカオのシンボル的観光地聖ポール天主堂跡。



火災により焼失し正面のみが現存する。アテネのパルテノン神殿同様、一部のみが現存した方が美しいと思われる建物である。



今も昔もマカオを見守り続けている。



午後になり、もうそろそろ香港に行かなければならない時間である。フェリー乗り場へ移動する。



香港行きは24時間、10~15分間隔で運行している。将来は橋を架ける計画もあるみたいである。将来、橋が架かり、バスで香港から移動できる日が来るのであろうか?マカオへは海路で来るのが魅力のひとつになっていると思うのだが。



香港、マカオ間は海路で70kmの距離である。ジェットホイル(水中翼船)に乗ること1時間、香港の高層ビル群が見えてきた。



中環からエアポートエクスプレスに乗って空港まで移動する。160kmの速さで走るので空港まで近く感じる。



香港郊外の街並み。



香港空港。



キャセイパシフィック航空名古屋行きで帰国。なんとか復路は名古屋行きが取れた。香港、名古屋間は日系航空会社のフライトが無いので不便である。

10日間に渡った冬休みもこれで終わりである。長すぎず短かすぎず旅行の期間はこれくらいがちょうどいい。

おわり。




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2007・2008年年末年始のマカオ・タイ9

2008年09月07日 | マカオ・香港
2008年1月5日

エアアジアは定刻通りマカオ国際空港に到着。

空港から市街へ向かう。AP1以外のバス路線も開設されたようである。だいぶ便利になったものである。



建設中のMGMグランド。昨年はベネチアンもオープンした。両方ともラスベガススタイルのカジノホテルである。



こちらもラスベガススタイルのウィン。

長年に渡りマカオのカジノはカジノ王スタンレー・ホーの独壇場であったが、近年、マカオのカジノも外資の参入が認められ、ラスベガススタイルのカジノが増えてきた。



総統娯楽場。昔ながらのマカオスタイル。



金碧娯楽場。同じく昔からのマカオスタイル。



リオカジノ。ここも同じくマカオスタイル。






マカオ最大の集客数を誇り、マカオのランドマーク的存在でもあるホテルリスボア。中国返還前の1970年にオープンしたリスボアはマカオ最大のカジノホテルとして君臨し続けてきた。マカオのカジノ王スタンレー・ホーの運営するホテルの中でも最大の規模を誇り、独特な外観を持つ葡京娯楽場(カジノリスボア)に加え、水晶宮娯楽場(クリスタルパレス)が並んでいる。もはや、ただのカジノでは無くマカオの観光名所である。



リスボアはマカオの中心にあり、あたりはマカオでもっとも賑やかな界隈である。また、交通の中心でもあり、市内を走るバスの多くはリスボアを経由する。




リスボアから關閘(中国との国境ゲート)まで3番の路線バスで移動する。3番はマカオで一番本数が多い路線で2,3分に1本の間隔である。その他多くの路線バスはここ關閘が終点になる。地下にはマカオ最大のバスターミナルがある。



ポルトガル統治時代の国境ゲートか?



せっかくここまで来たので中まで入ってみた。しかし、これが失敗だった。人の流れに巻き込まれて後戻りができなくなり、そのままイミグレまで進んでしまった。



来る気は無かったのだが・・・。中国大陸、珠海入国。昨年の8月以来である。不思議な事に国境を越えるとマカオと匂い、空気が違う。中国大陸の匂いと空気である。



拱北地下街。



蓮花路。冬なので日が暮れるのが早い。予定していなかった珠海である。早くマカオへ帰ることにする。約30分の中国滞在であった。

マカオ側の国境から各ホテルへの無料バスが出ている。リスボア行きに乗り込む。



リスボア到着。夜のリスボアはネオンを見ているだけで楽しい。マカオは昼と夜では全く別の顔を見せる街である。



こんな色にもなる。ずっと見ていても飽きることが無い。



マカオを紹介する場合、テレビもガイドブックも旅行のパンフレットにも、リスボアか聖ポール天主堂が最初に出てくる。マカオの象徴である。



リスボアの内部。金ピカの内装とタイル貼りの床。



この金ピカ中華的内装+バロック絵画。このセンスはラスベガス資本のホテルでは出せないものであろう。本当に素晴らしい




天井にはシャンデリアと大航海時代をモチーフにした天井画がある。リスボアとはポルトガル語でポルトガルの首都リスボンの事である。このホテルが建てられた1970年はポルトガルの統治時代であった。



階段はガラス貼りになっている。ブルース・リーの映画「死亡遊戯」を彷彿とさせる。ガラスの裏から誰かが出てきそうである。



外資の進出に対して防戦一方に見えたスタンレー・ホーだったが、そこはさすがに伝説のカジノ王である。リスボアの真向かいに超巨大なグランドリスボアをオープンした。



内部は本家リスボアと比べるモダンな内装である。リスボアの金ピカ中華的センスをここでも発揮してもらいたかった。



リスボアに似た球状のデザインにしたところにスタンレー・ホーのこだわりを見た。



ホテルはマカオタワーに次ぐ高さを誇る。リスボアは乱立するマカオのホテル・カジノビジネスの中でトップの座を保ち続けている。




深夜のセナド広場。



メリークリスマスandハッピーニューイヤー。



まるでヨーロッパにいるみたいである。



午前2時、昼間の喧騒が嘘のように静まり返った新馬路。



深夜でも麺屋は営業している。12元の雲呑麺を食べてから安宿に戻った。





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2007・2008年年末年始のマカオ・タイ2

2008年08月25日 | マカオ・香港
2007年12月29日

朝になり、外へ出る。この時期のマカオは晴天が多い。1年ぶりのマカオとの再会も晴天で迎えることができた。



マカオの下町ともいえる内港エリアを散歩する。マカオで一番好きなエリアである。


定宿の東亜酒店(以前は1泊3,000円程度だったが、マカオの好景気と物価上昇に伴い今は4,500円程度である。)


東亜酒店と並ぶ定宿だった国際酒店。今は廃墟となっている。新国際酒店として生まれ変わると聞いたのだが・・・。


廣東大酒店。廃墟というよりは立派な文化遺産である。インディジョーンズのロケにも使われた。


安宿ばかりであった内港エリアにも開発の波は及んでいる。ソフィテルのような高級ホテルもオープンした。

AP1バスで空港まで移動。以前はマカオの街中をぐるぐる回り時間のかかったAP1バスであるが、空港まで寄り道せずに走るようになったが、バス代も値上がりした。しかし、依然として空港までの一番安い移動手段に変わりは無い。


マカオ国際空港。当たり前だが、マカオに国内線は存在しないので全てが国際線となる。この閑散とした感じがいい。

エアアジアだが、2時間のディレイとなった。この何もない空港で時間を潰すのは辛い。


ようやく搭乗。なんといっても安いので2時間程度の遅れに目くじらを立てることはナンセンスである。それがいやならきちんとした航空会社に乗ればいいのだ。
コメント
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