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Asianwalker

アジアの路地裏から

2017年3月8日~3月12日北海道

2018年02月04日 | 日本
2017年3月8日(水)


19:30 羽田発千歳行のフライトで北海道へ。

21:00に千歳空港に到着。今日は札幌まで行かずに千歳に泊まる。

千歳駅前は北海道らしく開放的で広々としているが、この時間で周辺でオープンしている飲食店はラーメン屋しかない。
北海道の都市の他の例にもれず、駅と市街地が離れているようである。市街地までは歩いて15分程度である。地元客相手の
居酒屋はちらほら営業しているが、酒を飲むほど気合いが入っていない、軽くラーメンでもという気分だが、生憎、ラーメン屋は
閉店している。とりたてて観光地でもなく、夜が早い町のようである。コンビニで夜食を買って、そのまま、ホテルに戻って寝る。
駅直結の千歳ステーションホテル。廉価なビジネスホテルだが、清潔で適切な室温で快適である。

1日目終了。


2017年3月9日(木)

廉価なビジネスホテルの無料朝食とは思えない充実した手作り感いっぱいの朝食をお腹いっぱい食べる。これだから、北海道の
食は侮れない。食に関していえば、いつでもどこでも、ボリューム満点である。北海道の人特有のホスピタリティである。

今日はまず、JR北海道の未乗区間となっている室蘭本線の乗りつぶしである。千歳から追分経由で岩見沢に行く。







追分から岩見沢は乗りつぶし完了。追分に戻り、夕張線で夕張へ行く。夕張線は乗ったような気もするが、念のため乗車する。

新夕張~夕張間は1日の運行本が4本しかない。JR北海道は近年、営業危機に陥る程の大規模赤字を計上しており、経営改善策として、
運行本数の大幅削減を行い、路線によっては廃止の意向も示している。まるで国鉄末期のような危機的状況である。







平日の日中、車内も閑散としている。。





夕張駅。かつては炭鉱で栄えたが、閉山後は見る影も無い。かつて車で来たことがあるので、駅前の様子は良く覚えている。
2009年か2010年頃だったと思うが、何も変わっていない。







新夕張から乗って来た列車、1両だから列車では無いか、、単車か、いや違う、これは汽車だ。で引き返す。
これを逃すと、何もない寒い駅前で夕方まで時間をつぶさないといけない。



北海道の旅は、数少ない列車の乗り継ぎに妙がある。まるで謎ときを楽しむミステリー小説のようだ。
今日は、室蘭経由で虎杖浜まで行く。

夕張を過ぎた後、しばらくして、列車が急ブレーキ、警笛を鳴らす。これは、踏切事故だと直感。身構える。
やがて、ガツンという衝撃音、大きなものがぶつかったような衝撃とともに列車が急停車。

やはり、踏切事故であった。遮断機が下りているのに、無理に線路内に入ってエンストしたのであろう。
本当に悪質な事故である。夕張線である。列車が来ることは滅多に無い。1日4本、待てばいいのだ。
このような悪質な運転手(地元のおばあさんであったが)は免許返納して欲しいと思うのだが、公共交通機関も不便な土地である。
通りすがりの旅人がとやかく言う事ではないであろう。





運転手からアナウンス。列車の運転再開はせず、運転打ち切り。この後に警察の現場検証もあるので、そのまま車内に留まるよう指示。
乗客は6-8名程度か、幸いけが人はいない。



しかし、これでは、この後の乗り継ぎもうまくいかなくなってしまう。困ったものだ。

警察、消防が続々と到着。大した事故でもなく、怪我人もいないのに、大げさである。にわかに雪も激しくなってきた。
まるで大惨事である。今となっては目立った産業もない人口の激減した田舎町なので、警察も消防も暇なのであろうか。









地元のテレビ局、新聞社も到着。のどかな夕張にとっては、年に数度もない、格好のニュースである。



列車の前の非常口を通り、ようやく脱出。JRがワゴンタクシーを用意、追分方面に戻る。手筈が良い。

乗客は2台のワゴンに分乗しており、JRが1台のワゴンにまとめるよう、途中の新夕張で待機させるが、こちらは被害者である。
他の旅行者らしき数名の乗客は大人しい為、怒りの詰問口調で駅員に抗議した結果、2台目のワゴンを待たずに南千歳へ高速道路で急行してくれる事になった。飛行機に乗る人もいたようだが、間に合って良かった。

予定していた列車には乗れず、室蘭本線の追分~苫小牧の未乗区間も残ってしまった。JR北海道には悪いが、特急に乗せてもらう。
車掌が来たら、事情を説明しよう。

特急すずらんに乗り、南千歳から終点の室蘭に到着。東室蘭~室蘭は乗った事があるような、無いような。しかし、これでスッキリした。



室蘭から登別へ移動。ようやく当初の予定の列車に乗れた。







虎杖浜ではなく、登別から自家用車で送迎してくれる。登別は有名な温泉地だが、アジア系の外国人観光客の姿が多い。
本日の宿泊は虎杖浜500マイル。東京から500マイルの距離があるから、このネーミングらしい。面白いし、教養を感じる。
安くてたらふく海鮮の幸が堪能できる、ネットで話題の民宿である。冬季燃料代と料理のグレードアップしても、8700円。



あたりは、国道沿いで大型車両の通行が多い、セイコーマートや安い温泉民宿があるが、国道沿いとはいえ寂しい場所である。



セイコーマートでビールやウイスキーを買い込んで、部屋に行く。何もない場所だから、酒を飲んで、温泉に入るしかない。
民宿はこの下宿感がたまらなく懐かしい。いくつになっても、一瞬で学生時代に戻れる場所が田舎の民宿である。






自慢の源泉かけ流し温泉。他の宿泊者もまだ来ておらず、ゆっくり入湯。目の前の絶景を独り占め。穏やかな海である。



自慢の夕食。今年の北海道の海産物は過去に例が無いほどの不漁で、カニも去年までは1パイ出していたのが、半身になってしまった
との事で残念である。この勢いだと、数年後、海産資源が枯渇しそうで、そうなった場合は、何も出せないとの事である。









おいしい食事をいただき、静かな環境で波の音を聞きながら、ゆっくりと休む。

2日目終了。


2017年3月10日(金)

今日もボリュームたっぷりの朝食。ホイル焼きは椎茸のバター焼き。朝から北海道らしい。



虎杖浜駅まで送迎してもらう。朝の通勤・通学時間である。しかし、通勤者はマイカーで通勤する。通学者、高校生が主な乗客である。











虎杖浜から、苫小牧の間の車窓を見ると、雪がほとんどない。北海道の湘南と呼ばれ、雪の少ない土地らしい。
駒大苫小牧が全国優勝できたのも、この温暖な環境があったからである。
香田監督の「勝ちすぎた監督」野球ノンフィクションの名作である。

南千歳から、快速で小樽まで行く。今回は札幌はスルー。小樽は日本海側らしく雪が降り積もる町である。








駅前の市場をぶらぶらする程度で、この寒さと吹雪では市街散策をする気にはならず、キオスクで酒とつまみを買い、車内へ。







倶知安に到着。ニセコの玄関口で外国人のスキー客が多い。











倶知安から長万部は極端に本数が少ない。小樽~長万部の未乗区間もこれで完了。







函館本線の山線は豪雪地帯である。





長万部は海側であり、雪がほとんどない。







今夜の宿は二股ラジウム温泉。長万部から8kmほど先の山の中にあり、送迎が来てくれる。1泊だけなのに親切である。

ひなびた山間の湯治場であるが、建物は新しく綺麗である。















効用確かな温泉として、有名である。泥のような温泉で成分が濃い。タオルが茶色くなり、色落ちしなさそうな感じである。













温泉の成分が堆積してできたドームが大迫力の温泉である。他に客もおらず、貸し切り。何とも贅沢である。












夕食は、質素なものである。他の湯治客と一緒に食べる。全部で6.7人くらいである。年寄からOL風まで幅広い。




夜は真っ暗な温泉に入る。湯治場はそういうものなのだが、水道のシャワーとかはなく、体を洗ったり、髪を洗うのには難儀する。
本当に誰もおらず、怖いくらいである。ここは数日泊まるのがいい。きっと効用が出てくるだろう。


3日目終了。


2017年3月11日(土)

長万部まで送迎してもらう。時間があるので、送迎の方のおススメの床屋にいき、髪を切ってもらう。話が面白い床屋さんであった。
東京の修業時代、二人の娘さんのお話(札幌と千葉に住んでおり、長万部にはいない)、長万部が鉄道で栄えていた時代の話を聞く。
クラスメートの半分が国鉄関係者の家族だった時期もあるらしい。

昼食はおススメの長万部名物金谷食堂のかにめしを食べる。



長万部は函館本線が山線と海戦とに分岐する地点で、機関車の付け替えをする必要があり機関区がある駅であった。
その為、大勢の国鉄職員で賑わった。
かつてを忍ばせる広大な側線が印象的である。今は数両の気動車が係留されているのみである。



駅の向こう側には長万部温泉があり、夕食はボリューム満点の海産物が出てくるらしい。次はここに泊まろう。



長万部から函館も本数削減の影響で極端に少ない。車内も閑散としている。












いか飯で有名な森までのんびり走る。キハ40は国鉄時代から生き残ってきた車両である。耐用年数も限界に違いが、今のJR北海道に
新たな車両を購入する余裕が無い為、だましだまし使用している。これが最後の乗車になるかもしれない。



森では停車時間が長いので、ホームに出る。特急列車がやってきた。鈍行列車の利用者は少ないが、都市間を結ぶ特急列車は
乗客がそれなりに多い。



森はのどかな駅で、海が近い。暖かい。





ふたたび車内の人となり、車窓を眺めての旅。ローカル線の旅の最高の時間である。



森から乗客も増え(といっても、10人程度だが)、のんびり函館を目指す。時速40-60kmくらい。これほどゆっくり進むのは
車両にガタが来ている為だろうか。この鈍足ぶりでは、地元の人は不便すぎて高速バスを利用するだろう。



函館に到着。









函館から、市電で湯の川温泉に向かう。結構、遠い。函館は駅前より、五稜郭周辺の方が繁華街という事が分かった。



今夜の宿はKKR函館。公務員の厚生施設だが、一般の人も利用できる。民営の旅館に比べると内容の割に安い。





湯の川温泉は湯温が高く熱い。今の時期には熱いくらいがちょうどいい。公務員の施設らしく、風呂の会話から察するに、
教師の集りがあり、宿泊者の多くは道南の教師らしい。皆さん公立高校の教師らしく素晴らしい方である。教育者、聖職と
呼ばれる職業にふさわしい方々であった。

旅館だけあって、手の込んだ料理が出てくる。大満足。



4日目終了。


2017年3月12日(日)

湯の川温泉は3度目である。中学3年、高校3年以来である。当時、修学旅行で泊まった古くて大きなホテルは取り壊され、
外国人相手のモダンな高級旅館に生まれ変わっていた。

空港行きの市バスを待つ間に海岸を散策。夜景で有名な函館山が見える。湯の川温泉からは反対側で遠い。



湯の川温泉から函館空港は近い。バスで10分程度である。函館空港は市街地から近い。市街地から近い空港といえば、函館、伊丹、松山、
福岡、宮崎、那覇が思い浮かぶ。他にもあるかもしれない。もっと旅をしないと、知らないことはたくさんある。

函館を10時に出ると昼前には羽田に着く。北海道とはいえ、道南だから近いものだ。




5日目終了。

終わり。

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2016年12月22日~24日熊本

2017年11月21日 | 日本
2016年12月22日(金)


ふっこう割第4弾は熊本。

ふっこ割の期限の最後にようやく震災発生源の熊本に行く事ができる。

旅行代金は34,100円。東京~熊本の往復航空券とJR九州ホテル1泊の宿泊費が含まれる。

ふっこう割が15,000円適用の為、19,100円となる。

今回はそれ以外に山川温泉華紬で1泊する。28,000円からふっこう割が10,000円適用で
18,000円となる。国からの補助金がトータルで25,000円。

今日のJAL便は遅れ無し。熊本空港から市街地は遠い。JR九州ホテルは駅前にある立派なホテルだが、熊本は市街地と駅が遠いため、バスの終点であるので、1時間はかかる。外は寒い。駅前は繁華街では無く、飲み食いするような場所も少なく、早くも店じまいしている。



12月23日(土)


郷土料理のだご汁定食の朝食を食べた後は、路面電車に乗り熊本城に向かう。

震災の影響で無残な姿となった熊本城。熊本の象徴も西南戦争以来の無念の落城といった風景である。

















再建までにどれほどの年数と費用がかかるのか暗澹たる気分になった。


続いて水前寺公園。天気が今一つだが、ここはいい風景である。











市内には震災の影響はもう何も見ることは無い。安心した。

水前寺公園からバスで空港に向かう。オプションでレンタカーが1日1,000円で借りられる。

空港近くの菅乃屋で馬肉を食べる。馬刺しと馬肉ハンバーグ。熊本の馬刺しは東京で食べるのと全然違い上質な和牛のような味がする。

阿蘇へ向かう。被災地に近づくにつれて、道がデコボコして走りづらい。平衡感覚が狂いそうになる。

大観峰からの眺め。世界で2番目に巨大なカルデラが阿蘇らしい。

















それにしてもカルデラの頂上は風が強くて寒い。周りを遮るものが無く、木々もない。


小国町を経由して山川温泉へ行く。近隣にある黒川温泉ほどメジャーな観光地ではないが、抜群の泉質を景色を誇る隠れた優良温泉との事。

華紬は部屋に露店風呂がついており、贅沢にも源泉かけ流しである。関東なら倍の値段がする超高級ランク旅館だろう。

国からの補助金が出なければ、とてもじゃないが泊まれないランクである。







料理も素晴らしい。こまめにサーブされ、繊細な料理が連続する。おなかいっぱいで満たされる。



12月24日(日)

豪華な朝食を食べた後は、熊本空港に戻る。

距離があるのと、通行止めの道路を迂回する為、通常よりも時間がかかる。

昨日、食べた菅乃屋で馬肉の焼肉を食べたかったが、お土産に馬刺しを買う。

空港のレストランで馬刺し丼を食べる。味はまあまあ。菅乃屋で最高級の馬刺しを食べた後はこんなものだろう。

帰りの機内は空いている。窓の下から阿蘇のカルデラが良く見える。

日本とは思えない広大な風景である。




2016年は九州に4回行き、国からの補助金は64,000円受け取った事になる。

今まで遠くて知らない九州を知ることができた年になった。復興も進んでおり良かった。


おわり。
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2016年12月15日~18日鹿児島

2017年11月18日 | 日本
2016年12月15日(木)


ふっこう割第3弾は鹿児島県。

旅行代金は51,700円。ふっこう割は15,000円適用の為、支出は36,700円。

東京~鹿児島の往復航空券と1泊目鹿児島空港ホテル、2泊目旅行人山荘の宿泊費が含まれる。

木曜日の夜便で鹿児島空港に到着。今日のJALは珍しく遅延しなかった。

空港から市内までは遠い。すぐ近くにある鹿児島空港ホテルに宿泊。
ビジネスホテルなのに温泉付き。さすが鹿児島である。朝食も奄美大島の郷土料理の鶏飯がおいしかった。


12月16日(金)


今回は鹿児島市内には行かない。空港近隣の国分・隼人・霧島に行く。

大隅国一宮の鹿児島神宮。隼人市街地にある。静寂なパワースポットである。










昼食は夜は鹿児島黒毛和牛が食べ放題になる、きりしま畜産で焼肉定食を食べる。食べ放題のサラダやビーフカレーもおいしい。
また、産地直産の地元ならではの価格設定が嬉しい。

隼人は京セラの工場も多くあり、農業王国鹿児島のイメージがあったが、製造業では京セラ関連の生産も多いようだ。

京セラの創業者稲盛氏は鹿児島県の出身である。鹿児島は時代を問わず、実に多彩で優秀な人物を輩出する地域である。


霧島神宮へ行く。ここは今までに体験した事のない神秘的な神々のパワーを感じる。また、大自然の精霊の気も物凄く感じる。

バリ島のウブド、日本では屋久島と同じ空気を感じる。











霧島の雄大な風景を眺めながら、霧島温泉に向かう。日本広しといえども、これほど雄大な景色が堪能できる温泉街も無い。

今夜の宿は、温泉街の中心から少し外れた山の上に建つ旅行人山荘。

かつてバックパッカーの間で絶大な人気を誇った雑誌「旅行人」の蔵前編集長の実家である。







部屋にもロビーにも旅行人のバックナンバーが置いてある。特に初期の同人誌時代のバックナンバーは貴重である。

内容が非常に興味深い。またインターネットもなかった時代、旅行者の口コミだけが頼りだった時代に思いをはせ、簡素な印刷の同人誌を読む。温泉に入ったらじっくり読もう。









旅行人山荘は温泉旅館としての実力も確かなもので、霧島温泉で初の露店風呂をオープンした予約が取れない人気の宿である。

チェックイン時に露店風呂の予約をする。露店風呂は建物の裏手の山を登ったところにあり、ちょっとしたアトラクションである。













湯の花がたっぷり沈殿している。本物の源泉かけ流しの温泉である。







チェックインが早くて、一番風呂の為、お湯がフレッシュでパワーがある。温度も適温のぬるめでいつまでも入っていたくなる。
時間は一人45分。霧島の大自然に囲まれて、時間があっという間に過ぎていく。

心身共に癒され、パワーが充填される。今まで北海道から沖縄までいろいろな温泉に行ったが、一番素晴らしい場所だと思う。

南国鹿児島は東京とは比較にならないほど暖かで、散歩も楽しい。




夕食は鹿児島の地鶏を使った鍋が名物らしい。あとは新鮮なお刺身が少しばかりある。正直、料理は期待していたほどではなく、普通だが、
従業員のホスピタリティが素晴らしい。




旅行人をじっくり読んで、内風呂に入り、就寝。


12月17日(土)


朝食を食べたあとは、散歩。










山の上に立地しており、錦江湾の眺めが素晴らしい。









大満足の旅行人山荘を後にして、霧島温泉の中心部に向かう。









コンビニ、スナックなどあり、歓楽街的な要素も少しある。


もっと山の中に入り、秘湯を目指す。


新湯温泉。国民宿舎新燃荘の一軒宿である。













解放感抜群の露店風呂に入る。とにかく乳白色が濃い。まだ、朝早い(10:00)のか、他に客はおらず、独り占め。

ここの温泉は成分は危険なくらい濃い。入浴時間に制限がある。かつて硫化水素中毒で死者が出た為である。







次の秘湯は湯ノ谷温泉の一軒宿。湯ノ谷山荘。









宿主の思いがこもった効用書。











秘湯ムードたっぷり。湯船は3つあり、熱めの硫黄泉はやさしいお湯、冷たい微炭酸泉は湯の華がたっぷりで体中に炭酸がまとわりつく感覚、その両方を混ぜたぬるめの混合泉は適温でゆっくり浸かることができる。

お湯が3種類楽しめる。熱い湯、冷たい湯、適温の湯と長時間入れる。まさに湯治場。浴室も源泉かけ流しにこだわった小さなサイズ。
まじめに馬鹿正直に温泉を提供するとこのサイズになる。好感が持てる。今度は宿泊したい。




霧島温泉に戻り、定食屋で生姜焼き定食を食べる。鹿児島では肉ばかり食べている。


本日の宿泊は妙見温泉。川沿いに数件の温泉旅館が立ち並んでいる。





田島本館に宿泊1泊2食で1万円。











歓楽街などはなく、完全にひなびた湯治場である。





きらく温泉。ここは素泊まり2700円。







田島本館の露店風呂浴槽。泉質の異なる2つの浴槽がある。




成分が濃い。ぎしぎしした泉質である。





内風呂は地元の老人でにぎわっている。





夕食はとても質素であり、おかずが足りないので、ご飯が残ってしまう。

隼人の市街地で食料を買い込んできて、素泊まりのきらく温泉に泊まるのが良さそうだ。





土曜日にも関わらず宿泊者は少ないようである。夜の内風呂は誰も入る人がおらず真っ暗で、シャワーが無いので体も洗えない。






12月18日(日)


朝食を食べて、空港に向かう。

途中で熊襲の穴という観光スポットがある。

ヤマトタケルノミコトの熊襲征伐神話の舞台になった場所といわれている。

熊襲の酋長が酒盛りをしている際に、女装したヤマトタケルノミコトに討たれたらしい。




















鹿児島空港へは20分もあれば着いてしまう。

鹿児島空港は遠くに霧島が見える。日本一風光明媚な空港だと思う。










終わり。
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2016年11月25日~27日長崎軍艦島・雲仙

2017年11月07日 | 日本
2016年11月25日(土)・27(日)


軍艦島が世界遺産になった。

一部の廃墟マニアでは有名であったが、今では世界的に知られる有名な観光スポットとなった。

ふっこう割第2弾は長崎県。

旅行代金は54,500円。ふっこう割が12,000円。実際の支出は42,500円。

東京~長崎・福岡~長崎間の航空券と11月24日(金)ホテルウイングポート長崎と
11月25日(土)富貴屋の宿泊費が含まれる。


2010年10月に軍艦島を初めて見たが、上陸は果たせなかった。

当時の様子。ブログも今と違い、気合いが入っている。

http://blog.goo.ne.jp/macauchairman/e/7c0793b86414b64a8f8ca4d13398929f


いよいよ6年越しの夢が実現した。

軍艦島上陸ツアーも複数社主催しており、6年前とは比較にならない程の活況を呈している。





念願の上陸を果たす。説明はいらない。画像が全てを語る。





































































ガイドさんの懇切丁寧な説明があり、当時の様子がよく理解できた。


















長崎港に豪華客船が来ていた。三菱造船長崎で建造された船かもしれない。里帰りか。





昼食は中華街で長崎ちゃんぽん。味は東京で食べるリンガーハットと変らない。





市内を散策した後は、バスターミナルから雲仙へ向かう。九州は東南アジアのようにバスターミナル文化が根付いている。








午後からは天候が悪くなってきた。晴れている時間に軍艦島に上陸できて良かった。

風光明媚な島原半島を車窓に見ながら、山を延々と登り雲仙温泉に到着。

今夜の宿は富貴屋。雲仙温泉は一見すると高級な旅館が多いが、意外と料金はリーズナブルで良心的である。








雲仙地獄は目の前にある。





























雲仙温泉の中心街。酒屋でビールを買い込む。








これで温泉が期待できないはずがない。乳白色のこれ以上無い素晴らしい濁り湯であった。大満足。


食事も工夫があり、地元の食材と新しいアイディアもあり大満足。全てにおいて高レベルな雲仙温泉である。

元々は長崎の外国人の避暑地として発展してきた歴史があるので、湯治場と違って食事・サービス水準が高い。


翌日は、大雨のなか、バスで島原市内へ下り、島原城や市内を散策して、高速船で三池港へ行き、JR快速で博多へ行った。
電車や高速バスと違い半島をぐるりと回ることなく、海上を一直線で結ぶルートであり、福岡まで2時間と意外と近かった。


終わり。
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2016年11月4日~6日大分

2017年11月05日 | 日本
2016年11月4日(金)


今年は熊本の震災があった。被災地の復興を支援し、観光客を呼び戻す為、復興割引で九州へのツアーに国からの補助金が出る。

旅行代金総額/宿泊県 熊本県 大分県
旅行代金総額2万円以上10,000円割引
旅行代金総額3万円以上15,000円割引
旅行代金総額5万円以上20,000円割引(※2泊以上)

旅行代金総額/宿泊県 福岡県 長崎県 宮崎県 鹿児島県
旅行代金総額2万円以上8,000円割引
旅行代金総額3万円以上12,000円割引
旅行代金総額5万円以上15,000円割引(※2泊以上)


福岡県で仕事があるので、往路を大分、復路を福岡にする。

旅行代金は45,200円。ふっこう割が12,000円。実際の支出は33,200円。

東京~大分、福岡~東京の航空券と別府ホテルニューツルタ2泊(うち1回は夕食付)の宿泊費が含まれる。


大分県。

九州の中でも、佐賀県と並び地味な県で有名な大都市も観光地も何も思い浮かばない。

しかし、そういう知らない土地、初めていく土地ほど旅行しがいのある場所もない。

知らない事は全てが初体験で伸びしろである。自分を大きく成長させてくれる場所である。

金曜日の最終便で羽田から大分空港まで移動。最前列のファーストクラスには小室哲哉氏が
ご搭乗である。マイナスオーラ全開の暗く沈んだ目の、肌の汚い真っ白なおじさんであった。
大分が実家の病気の奥様のお見舞いに行くのであろうか?

日本航空便は到着機材遅れの為、出発が40分遅れる。大分空港は国東半島にあり、遠くて不便な
場所である。大分行きは数台のバスが並んでおり、経由地が異なるが、最も発車時刻が迫っている
別府経由大分行きのバスに乗る。

別府は大分の手前にあり、40分ほどで到着。夜遅くにも関わらず、温泉街の為、人通りも賑やかである。
今夜の宿泊場所のホテルニューツルタは温泉旅館である。大分市内のビジネスホテルと料金はさほど変わらない。
それなら、温泉旅館を選ぶ。フロント前には温泉について細かい採点があり、ランク付けされている。
源泉かけ流しを原則としているらしい。大分県は温泉県を標榜しているとの事。

夜遅くのチェックインの為、和室の部屋には布団がひいてあり、温泉に入ってそのまま就寝。

1日目終了。


2016年11月5日(土)

朝食バイキングを食べて、別府市内を駅まで散歩。




宿から徒歩3分の場所にある竹瓦温泉。夕方に入湯したが、建物が大きい割には浴室は意外に小さかった。源泉かけ流しに
こだわった為であろうか。屋根がとても高いのが印象的であった。湿気を逃す工夫であろう。





駅前高等温泉。学生時代に九州一周旅行をした時に立ち寄りした思い出の場所である。





行先は国東半島。半島らしくない雄大で真っすぐで平坦な風景が連続する。

有名なお寺らしい。両子寺。石仏文化で有名な場所である。














豊後高田は発展に取り残された町である。それを逆手にとって、昭和レトロの町で全国からの観光客を呼び寄せている。

かつての鉄道駅はバスターミナルとなっている。





今にもローカル線の列車が到着しそうなホーム。





駅からは商店街が続く。往年の賑わいが偲ばれる。昭和の雰囲気。











古い車や、学校を移設してテーマパークにしている。















昼食を食べる適当なレストランが見つからず、国道沿いのラーメン屋で豚骨ラーメンを食べる。ラーメンを頼むと普通に豚骨が出てくるのが、
九州らしい。醤油ラーメンはメニューにない。男らしく豚骨一本勝負。



宇佐八幡宮。伊勢神宮なみに広大な敷地と厳かな雰囲気のある神社である。





熊野磨崖仏。急な石段を登った先にある。訪れる人もいない。








如来形像。






不動明王。








並ぶとこんな感じ。不動明王は明らかに制作年代が古い。





別府に戻り、地獄谷観光。

















市内をぶらぶら。あちこちから湯煙が上がり、さすが日本一の温泉街である。海側の旅館に泊まっているが、山側の旅館もいい。
泉質が異なる。山側の方が泉質がより良さそうだ。











温泉旅館の為、夕食付。大分名産のひゅうが(鮮魚のづけ)が美味しい。海産物が豊かである。


2日目終了。



2016年11月6日(日)


今日は一転、南へ向かう。

城下町臼杵。












臼杵磨崖仏。磨崖仏として日本初、彫刻として九州初の国宝に指定された日本で最も有名な磨崖仏である。(今まで知らなかったが)




































シルクロードの遺跡、スリランカの仏教壁画を目にした時と同じくらい感動した。今まで知らなかった場所だが、日本が世界に誇る遺跡
といっていいだろう。いや、これは遺跡ではない。現役である。保存状態が素晴らしくいい。

周囲は日本の里山の風景。





臼杵はふぐ料理が有名らしいが、パスして、さらに南下し、津久見でぶりのひゅうが丼を食べる。九州風の甘いタレにからめた鮮魚が美味である。
調味料を買って帰る。東京では食べられない風味である。


大分に戻り、レンタカーを返却して、JR特急で博多に向かう。


博多では定番のもつ鍋を食べた。大分から来ると大都会、観光地であり猥雑な印象を受ける。

大分を全て堪能できたとは言えないが、メジャーではない、観光地ずれしていない日本の原風景を堪能できた。

これからは今まで行ったことのないマイナーな観光地、落ち葉拾い的な旅行をしていこうと思う。


3日目終了。

終わり。

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2016年7月29日尾道、7月30日呉

2017年10月31日 | 日本
2016年7月29日(金)


尾道は坂の町。箱庭都市。町自体がテーマパーク。

いつか行ってみたいと思っていたが、ようやくその機会に恵まれた。

広島空港から直行バスで1時間30分。尾道駅に到着。








瀬戸内は過ごし易いと聞いていたが、暑い・・・。30度以上あるだろう。





駅前の昭和の時代から何も変わっていないような商店街。まだ開店前で人通りも閑散としている。









銭湯は廃業して、展示場になっている。歴史的遺産の建物が残っているのは大切な事である。





商店街の裏手は港町らしい細道。





尾道ラーメンの元祖と言われる朱華園のラーメン。メニューでは中華そばとなっている。平日にも関わらずこの店だけ大行列。
店内は観光客で溢れている。愛知県から車で来たというご夫婦と話しをする。奥さんはよくしゃべる方だが、ご主人は全くしゃべらず、
無口な方であった。女性の話はあまり中身がないが、ただ聞いてあげるだけでいいのだ。





東京で食べる「尾道ラーメン」よりあっさりして、上品な味であった。また、並んでまで食べるかと聞かれると、NOである。

やはり、ラーメンは東京に限る。全国津々浦々のラーメンは東京で食べられる。地方のラーメンは古典的・伝統的な老舗の味か、数年前に
東京で流行った味がようやく伝わったか、どちらかである。もちろん、伝統的な地元のラーメンの方が食べる価値がある。


ロープウェイで尾道の街並みを見下ろす山に登る。この光景は日本全国探しても、尾道だけだろう。














細い路地から、海が見える。





大汗かいて、歩き回る。平日なので、観光客が少ない。水分補給して、一休み。その後、テレビでよく見るの名物のアイスを食べる。

尾道水道を渡る渡船に乗る。泳いで渡れそうな狭さだが、橋が架かっていない。船舶を通す為であろうか。

















島はいい。上陸した途端に島時間が流れる。ここは尾道以上に昭和を感じる。














尾道からは、電車で長い時間を乗車して広島に行き、夜は野球の応援。

猛打爆発でエース野村をノックアウト。地元広島出身石田の好投も光る。我がベイスターズの歴史的大勝利。
ベイファン、広島ファン、中日ファンの3人で試合後、おでん屋で酒を飲む。真夏のおでんもいいものだ。

それにしても、マツダスタジアムと広島ファンは素晴らしい。日本一野球を愛している。
惨敗にも関わらず、途中で帰らず最後まで応援する。
勝ち負けにこだわらない。野球場に来ることを楽しむアメリカ的なボールパーク・野球文化が根付いている。

1日目終了。


7月30日(土)

日本一の軍都といえば、海軍限定でいえば、横須賀、呉、舞鶴、佐世保であろう。
序列は分からない。個人的には呉が一位である。

呉と言えば、戦艦大和。世界一の戦艦である。

その悲劇的な最後は時代を越えて日本人の心をとらえて離さない。

日本人ほど滅びの美学を愛する民族はいないと思う。根底にあるのは仏教の無常観であろうか、自然災害の多い
島国だからであろうか。遺伝子にしっかりと組み込まれている。

大和ミュージアム。日本人なら一度は行くべきである。大勢の家族連れ、子供たちでにぎわっている。
日本の未来は明るい。敗戦後の自虐史観をようやく脱し、正しい歴史教育がなされるようになった。








呉は冷麺が有名らしいが、2日連続して中華麺はパスしたい。
どうせ夜は広島風お好み焼きを食べるし、中には中華麺がどっさり入っている。

老舗の洋食屋でカツカレーを食べる。海軍の町らしくカレー。昔ながらの小麦粉をしっかり使ったカレールーでおいしい。
しっかりしたカレールーは少量かければ十分おいしく、ごはんも食べられる。最近の飲み物みたいなカレールーを、
ばしゃばしゃかけるのは邪道である。海軍の町らしく伝統がしっかりと根付いている。
本来、カレーは飲み物ではない。兵隊さんの体力増強を第一に考えられた食べ物なのだ。


今夜も広島に戻って、野球観戦。昨日に引き続き、打線が爆発、大エース黒田を早々に粉砕し、
先発の井納が良く投げて、連日連夜の見事な勝利。

昨年は序盤戦首位で優勝かと期待したが、終わってみれば結局、最下位。
しかし、今年はAクラス、初のCS出場も現実的になってきた。
着実に力をつけてきている。1998年以来の優勝も近い。


2日目終了。

終わり。
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2016年1月23日天橋立・竹野

2017年10月29日 | 日本
2016年1月23日(土)

カニを食べたい。本物のカニを。

カニを食べたいのなら、冬の日本海側に行くしかない。

金曜日は大阪で仕事。仕事を終え、大阪駅から福知山線の特急で福知山へ向かう。

福知山で北近畿タンゴ鉄道に乗り換え。快速天橋立行き。観光列車である。








1両の為、混雑がすごかったが、一番前のいい席を確保。
1両にも関わらず、アテンダントさんが特徴のある名調子のアナウンスで沿線の観光ガイドをしてくれる。

新線でトンネルばかりで、景色は堪能できないが、山ばかりの鄙びた土地である。

天橋立駅に到着。日本三景で名高い天橋立。





スキー場みたいにリフトで展望台に登る。





晴れていて良かった。冬の日本海側が晴れになる日は珍しい。





向こう側は宮津の街並み。





帰りもリフトで下る。








天橋立を歩いて渡る。日本三景の碑。松島は出身地に近い。宮島は昨年ようやく行った。





潮の流れが複雑である。





とても風情のある道。





夏は海水浴でにぎわうのであろうか。とても綺麗な海である。












智恩寺。日本三文殊のひとつで通称切戸(又は九世戸)の文殊堂として知られている。











天橋立から、北近畿タンゴ鉄道、山陰本線の豊岡経由で城崎温泉に行く。





沿線は丹後の国の歴史を感じる重々しい風土を感じる土地である。途中から雪が降ってきた。


城崎温泉は吹雪である。猛烈な低気圧が接近中で今夜からは大雪になる予報である。

城崎温泉はとても風情ある温泉街である。日本有数の風情ある街並みだと思う。

しかし、肝心の温泉は源泉かけ流しからは程遠く、循環風呂で塩素臭がひどい。

その割には大勢の観光客でごった返している。もっと源泉かけ流しの本格的な温泉に行きたい。

猛吹雪となり、明日の鉄道の運行は保証できず、本日中の帰宅を促す駅員の案内放送が入る。
竹野までは、1両のディーゼルカーである。車内は混雑する。

1両での運航はローカル線らしい。終点に向け、乗客が少なくなるのであろう。

竹野駅からは旅館の送迎車が沢山来ている。この猛吹雪では歩いていくのは大変である。

駅から町中までは車でないとちょっと遠い。5分くらいで到着。

はまや旅館の柴山カニフルコース。23,600円。

ピンクのタグが柴山カニの証。今年は例年になくカニが高価との事。年々高価になってきているらしい。







 ・カニ味噌
 ・カニ炭火焼
 ・カニ刺し、旬の海鮮お造り
 ・カニしゃぶ
 ・カニすき
 ・カニ雑炊
 ・香物
 ・フルーツ

完璧なコースを堪能。一生の思い出になった。

JALから電話があり、明日の但馬空港から伊丹空港に向かう便は欠航が決まったとの事。

外は大雪であり、仕方がない。山陰本線が無事に走るといいが。

翌朝は、女将さんに無理を言って、朝食を6時に出してもらい、駅まで送迎していただいた。

山陰本線竹野駅から宝塚駅までのきっぷを買う。昨夜の大雪にも関わらず何事もなかったように、
山陰本線の1両のディーゼルカーがやってきた。車内はガラガラである。雪は既にやんでいる。
晴天である。どうしてJALは早々と欠航を決めてしまったのであろうか。

寒風吹きすさぶ宝塚からはバスで伊丹空港まで行く。但馬空港から乗継予定の便に搭乗できた。

終わり。
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2016年2月27日尾鷲

2017年10月29日 | 日本
2016年2月27日(土)


クエを食べたい。本物のクエを。尾鷲にクエを食べさせる事に関しては、日本一有名な宿があるらしい。

金曜日は岡崎での仕事があるので、その後に遠い尾鷲まで行く事にする。

金曜日は四日市で宿泊。駐車場が建物の屋上にある一風変わったビジネスホテルに宿泊。

トウエイホテル。シングル朝食付き5520円。

夜の繁華街に繰り出す。トンテキが名物らしいが、がっつり食べる気持ちにならず、焼き鳥を食べる。

四日市から、鳥羽、志摩半島を経由して尾鷲に向かう。名物の牡蛎がシーズン真っ盛りである。

尾鷲シーサイドビューにチェックイン。

天然クエコース。17800円。民宿に毛の生えた程度を予想していたが、立派な旅館である。

近くの世界遺産熊野古道を散策。
































途中で誰ともすれ違わなかった。熊野古道でもここは観光コースでは無いのであろう。






静かな湾内。










宿自慢の眺望風呂からの眺め。





周辺散歩。廃校になった小学校。





賀田駅まで行ってみる。歩いて15分。

















いよいよお楽しみの天然クエコース。

 ・クエ鍋
 ・前菜
 ・地元天然魚の造り
 ・クエ入り茶碗蒸し
 ・クエのアラ煮
 ・クエの唐揚げ
 ・雑炊/お漬物/デザート





























本物のクエを食べる事ができて、一生の思い出となった。

終わり。
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2015年8月28日ノルウェイの森(大悲山峰定寺)

2017年01月09日 | 日本
2015年8月28日(金)


今回の旅の目的は、

村上春樹著「ノルウェイの森」の舞台「阿美寮」のモデルとなったといわれる場所。

大悲山峰定寺。

第6章にその場所が書かれている。

「京都駅についたのは十一時少し前だった。僕は直子の指示に従って市バスで三条まで出て、そこの近くにある私鉄バスのターミナルに行って十六番のバスはどこの乗り場から何時に出るのかと訊いた。十一時三十五分にいちばん向うの停留所から出る、目的地まではだいたい一時間少しかかるということだった。僕は切符売り場で切符を買い、それから近所の書店に入って地図を買い、待合室のベンチに座って「阿美寮」の正確な位置を調べてみた」。

当時は京阪三条駅がバスターミナルであったようだが、現在は電車の終点は出町柳であり、バスターミナルも移転している。





広河原行のバスは1日に3本しかない。始発の7時50分のバスに乗る。乗客は5,6名である。

 






作中では、

「二十人ばかりの客を乗せてしまうとバスはすぐに出発し、鴨川に沿って京都市内を北へと向った。北に進めば進むほど町なみはさびしくなり、畑や空き地が目につくようになった。黒い瓦屋根やビニール・ハウスが初秋の日を浴びて眩しく光っていた。市内を出発して四十分ほどで眺望の開けた峠に出たが、運転手はそこでバスを停め、五、六分待ちあわせするので降りたい人は降りてかまわないと乗客に告げた。客は僕を含めてもう四人しか残っていなかったがみんなバスを降りて体をのばしたり、煙草を吸ったり、眼下に広がる京都の町並を眺めたりした。運転手は立小便をした。ひもでしぼった大きな段ボール箱を車内に持ちこんでいた五十前後のよく日焼けした男が、山に上るのかと僕に質問した。面倒臭いので、そうだと僕は返事した。 やがて反対側からバスが上ってきて我々のバスのわきに停まり、運転手が降りてきた。二人の運転手は少し話をしてからそれぞれのバスに乗りこんだ。乗客も席に戻った。そして二台のバスはそれぞれの方向に向ってまた進み始めた。」


バスは車外スピーカーから音楽を流して走る。対向車へ注意を促す為であろう。

花脊峠を越える道は狭く、バス同士の対向ができない為、京都バスの社員が峠の手前で待機しており、無線連絡を取り合い、大型車の通行が無いか、確認している。





作中では、

「やがてバスは山の中に入った。曲りくねった道で、運転手は休む暇もなく右に左にとハンドルをまわしつづけ、僕は少し気分があるくなった。朝飲んだコーヒーの匂いが胃の中にまだ残っていた。そのうちにカーブもだんだん少くなってやっとほっと一息ついた頃に、バスは突然ひやりとした杉林の中に入った。杉はまるで原生林のように高くそびえたち、日の光をさえぎり、うす暗い影で万物を覆っていた。開いた窓から入ってくる風が急に冷たくなり、その湿気は肌に痛いばかりだった。谷川に沿ってその杉林の中をずいぶん長い時間進み、世界中が永遠に杉林で埋め尽されてしまったんじゃないかという気分になり始めたあたりでやっと林が終り、我々はまわりを山に囲まれた盆地のようなところに出た。盆地には青々とした畑が見わたす限り広がり、道路に沿ってきれいな川が流れていた。遠くの方で白い煙が一本細くたちのぼり、あちこちの物干には洗濯物がかかり、犬が何匹か吠えていた。家の前には薪が軒下までつみあげられ、その上で猫が昼寝をしていた。」


あたりは日本の原風景といえるような里山の景色である。京都市内から1時間でこのような場所にたどり着けるとは・・・。





バス停を降りると、渓流沿いに1本道が伸びている。この先に料理旅館や民宿が数件あるみたいである。


作中では、

「僕が降りた停留所のまわりには何もなかった。人家もなく、畑もなかった。停留所の標識がぽつんと立っていて、小さな川が流れていて、登山ルートの入口があるだけだった。僕はナップザックを屑にかけて、谷川に沿って登山ルートを上りはじめた。道の左手には川が流れ、右手には雑木林がつづいていた。そんな緩やかな上り道を十五分ばかり進むと右手に車がやっと一台通れそうな枝道があり、その入口には「阿美寮・関係者以外の立ち入りはお断りします」という看板が立っていた。」












歩くこと20分くらいで、数件の集落がある少しひらけた場所に出る。








作中では、

「僕が降りた停留所のまわりには何もなかった。人家もなく、畑もなかった。停留所の標識がぽつんと立っていて、小さな川が流れていて、登山ルートの入口があるだけだった。僕はナップザックを屑にかけて、谷川に沿って登山ルートを上りはじめた。道の左手には川が流れ、右手には雑木林がつづいていた。そんな緩やかな上り道を十五分ばかり進むと右手に車がやっと一台通れそうな枝道があり、その入口には「阿美寮・関係者以外の立ち入りはお断りします」という看板が立っていた。」


やがて、大悲山峰定寺と摘み草料理で名の通った旅館『美山荘』の入り口が見えてくる。





大悲山峰定寺

峰定寺は、京都市域の北端近くの花背に位置する山寺である。花背地区はもとは愛宕郡花背村で、昭和24年(1949年)に京都市に編入された。京都盆地の北に位置する鞍馬山のさらに北方、花脊峠を越えた先の山間地に花背別所町、花背大布施町などの集落が点在する。
峰定寺は花背地区でももっとも奥の花背原地町に位置する。行政的には京都市左京区に属するとはいえ、京都市の中心部からはバスで約1時間半の距離にある。
府道京都広河原美山線の大悲山口バス停から東へ徒歩約30分、桂川の源流の1つである寺谷川沿いに峰定寺の仁王門が建つ。舞台造の本堂は、仁王門から山道を15分ほど登った先、大悲山(747m)の南中腹に位置する。山号の「大悲」は「(観音の)大いなる慈悲心」の意で、千手観音の別称・大悲観音に由来する。


旅館『美山荘』のコースは25,000~30,000円。


峰定寺の拝観受付のおばさんに、「よく来ましたね。どうしてここを知ったの?司馬遼太郎ですか?」と聞かれる。「村上春樹です。」と答えるのも、その後の説明が面倒になりそうなので、そうです。と答える。

他に入山者もいないから、50分の時間を許可されて入山する。石段を登ること20分で山頂の社寺に到着。すばらしい眺めを堪能しながら、瞑想にふける。

下山し、おばさんがいろいろと話をしてくれる。印象的だった話として、十数年前に東京でコンピューターの仕事をしていた人がストレスのあまり、病気になって仕事を辞め、いろいろと治療をしても効果が無かったが、ここに来てからは、やがて心身ともに回復して、仕事にも復帰できてから、毎年のように来ているとのことである。

それ以外に、ご神木を見ていくことを勧められたので、見ていく。





誰もこない林道を歩くこと20分で到着。











立派なご神木と対面して、パワーをいただく。


予定していた帰りのバスの時間はとっくに過ぎているので、途中でおかゆの昼食をいただく。ご夫妻の話をゆっくりうかがうことができた。京都の里山暮らしも歳をとるといろいろと大変みたいである。





バス通りに出ても、なにせ1日3本しかないバスである。途中にあった河原のキャンプ場で時間をつぶして、バスに乗る。

鞍馬で降りようとすると、小銭がない。スイカも使えない。1万札しかない。運転手は両替できないという。あるお金だけで構いませんので、料金箱に入れて下さいと言われる。親切な京都バスの運転手であった。324円を投入。

教訓「山の中では現金・小銭のみが頼り。」





先月にも来たが、台風の影響で拝観できなかった鞍馬寺に登る。











鞍馬山からの景色も素晴らしい。ここからもパワーをいただく。





大悲山峰定寺その名、場所、風景からして、ノルウェイの森」の舞台「阿美寮」のモデルといわれるのも、納得の場所であった。

ここは今と同じく人に知られずにひっそりと架空のような存在のままでいてほしい。


終わり。

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2015年7月18・19日京都2

2017年01月09日 | 日本
2015年7月19日(日)


今日は大原に行く。電車を乗り継いで出町柳まで行き、京都バスで大原へ行く。

京都駅からだと約1時間であるが、出町柳からだと30分である。渋滞もほとんどない。

大原には8時についてしまった。まだ寺院も拝観前の時間である。

今日はあいにくの雨模様である。寂光院周辺を歩く。


周辺は昔ながらの農村風景と風情ある旅館が数軒ある。


















まだ、拝観時間まで間があったので、境内には入らない。寂光院は2007年に火災に会い、貴重な文化財の本堂が焼失してしまったらしい。


古墳。




大原観光のメインの三千院に行く。





残念な事に中国人団体客と遭遇してしまった。ここまで来るようになってしまったと思うと残念でならない。しかし、ガイドさんの教育がしっかりしていたのか、マナーよく、とても静かな団体であった。小さな子供と中国人観光客には、厳しいしつけ担当が必要である。彼らに悪気はない。ただ、無知なだけである。きちんと辛抱強く教育すればそれなりに理解できるし、大人・日本人と同じ程度とまではいえないが、近い段階まではできるようになる。中国人といえども同じ人間である。彼らは猿や畜生ではないのだ。

















やはり、三千院は素晴らしい。自然に溶け込んだ宗教寺院である。この場所にあって成立する風景である。



大原は日本一のしその産地である。7月中はしそ祭り開催中である。





雨がだんだんと強くなってきた。今日はこのままバスで京都まで行って、そのまま帰ろうと思う。

今からバスに乗れば、12時ころの新幹線に乗れるだろう。2時間もすれば東京である。

京都はこんなに近いのである。

いつでも来れる。


2日目終了。

終わり。

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2015年7月18・19日京都1

2017年01月09日 | 日本
2015年7月18日(土)


京都に来るのは2008年7月20日以来、実に7年ぶりである。その前年、2007年の8月にも京都観光しており、当時は2年連続、夏の年中行事といった趣があった。その頃は愛知県に住んでいたので、距離が近いのでちょっと京都まで行ってくるという感覚であったが、関東に住むとそうはいかない。結果、7年も足が遠のいてしまった。


前日は台風直撃であった。今日は朝からJR各線は運転見合わせ。2年前のちょうど今時期に大阪にいたのだが、近畿地方は過去に例を見ないほどの豪雨で、京都の嵐山一帯が冠水して、旅館街に大きな被害が出た年であった。その時以来の関西だが、今度は大型台風である。全くやれやれである。

阪急電車で京都まで移動。昨日の台風の影響で、特急は運休で準急が一番早い電車である。しかも徐行運転の為、梅田から京都まで2時間近くもかかってしまった。通常ダイヤは特急40分くらいらしい。これならば、淀屋橋から京阪特急で行けば良かった。淀川の右岸を走る京阪は台風の影響はほとんど無かったようである。


今回の行先テーマは京都郊外。観光客で混雑する中心部は避けて、あまり人がいかない場所に行きたい。今まで知らなかったお気に入りの場所を探してみたい。

京都郊外で、真っ先に思い浮かんだのは大原。有名な「京都大原三千院~」は誰もが思い浮かぶフレーズだろう。
もっとも、三千院は子供の頃(小学校2・3年生)に行ったような気がするが、記憶が定かではない。

地下鉄で終点の国際会館まで行き、そこから大原行のバスに乗ろうとするも、台風の影響で通行止めの為、運休。全くついていない。

代わりにバスが走っている岩倉に行く。ここも秘かに行こうと思っていた場所である。ただし希望順位3,4番目(最下位)であった。


京都バスに乗り、15分くらいで終点の岩倉実相院に到着。

幕末期、反幕派公家であった岩倉具視が難を避けて一時隠棲していたこともある岩倉は京都北部の盆地で明治期までは純然たる農村地帯であったが、その後、京都府に編入され、ベットタウン化が進み、現在では同志社中高など、学校が多い文教地区である。

小さな寺院の実相院の観光客は数組である。騒がしい中国人もここまでは来ない。





ほとんど、貸切状態で静かなお寺を楽しめる。究極のヒーリングスポットかもしれない。いつも京都のお寺は駆け足で騒がしく観光するイメージしかない。定番の観光地を外すとこんなにいい場所がまだまだある。















実相院の近辺は風情ある街並みが残っており、農家が多い。明治期までは、公家や金持ち商家の子息たちを里子として預かり、その養育料として乏しい現金収入を補っていたそうである。そのせいか、農家の佇まいがとても由緒あり、立派である。現在は大地主さんで農業収入には頼らずに暮らしていけるのだろう。しかし、相続税対策なのか、マンションに囲まれた一角に突然田んぼがあったりする。ここに限らず近畿圏にはよく見られる風景である。市街化調整区域の境界線が首都圏ほどはっきりしないのか、農業委員会の政治力が強いのか、利権が絡んでいるのか、不明である。しかし、農家の政治力が強いのは都市近郊ではいい事である。残された貴重な自然の保護、巨大資本による乱開発から、残された貴重な農地を守る活動は尊重すべき事である。








昨日の台風の影響で岩倉川も氾濫している。山の方はすごい事になっていそうだ。





バスに乗り岩倉駅前で下車。13時すぎなので昼食を取りたい。駅前にある看板も無く、ひっそりとした佇まいのみやもと料理店に入店。料理店というネーミングセンスが秀逸である。料理店と名のつく料理店は、宮沢賢治の「注文の多い料理店」以外知らない。

清潔な店内の装飾の素っ気なさは、余分なものを極力までそぎ落とした日本の美意識を感じる。さすが京都である。しかし、店内を流れるアンデス風の音楽といい日本料理店っぽくない店内である。世界をいろいろ巡ってきた元旅人のような雰囲気がある女性が給仕をする。凛として笑顔ひとつもないが、それも京都らしい。

料理は8品1200円が基本で、プラス300円で天ぷらかさしみを追加できるが、1200円で充分である。京のおばんざいといった感じの手間暇かかった1品1品が並ぶ。これで1200円はお得である。河原町あたりの中心部で食べれば2000円くらいの内容だと思う。





次の目的地は鞍馬。岩倉から叡山電鉄で鞍馬に行く。午前中は運休していたようだが、現在は通常運転に戻っている。





鞍馬といえば天狗である。





鞍馬寺。なんと!大雨の影響で山道の状態が悪く危険な為、拝観はお断りしているという。全くやれやれである。








風情ある鞍馬の街並み。











鞍馬川の氾濫をみると、これは相当な雨だったのだと分かる。












鞍馬街道はこの先通行止め。バスも運休。消防署の方々が懸命に復旧作業中。





仕方が無いので、電車でひと駅戻り、貴船神社に行く事にする。





しかし、貴船口駅から貴船神社までのバスも運休。歩いて30分。2kmの距離だが、道に雨水が流れ込んでおり、とても歩く気分になれない。頑張って行ったとしても拝観中止のような気がする。今日は何をしてもそんな日であろう。





そんな訳で、市街地の観光となった。とはいっても定番のお寺には行かない。哲学の道を散策。外国人観光客が多い。西洋人は上品に静かに歩いているが、中国人の騒がしさとテンションの高さには閉口する。ここは静かに思索に耽りながら歩きたい道である。








法然院。ここは内部拝観不可の寺である。ただし、境内は観光可能である。









背後が山なので、境内も水浸しである。


















日本の禅寺の最高峰、南禅寺の三門。とにかく規模が大きい。





風情ある寺院エリアを通り、蹴上駅まで歩く。








地下鉄とバスを乗り継いで、京都随一の繁華街河原町に到着。立ち飲みやでとりあえずビールを飲む。良く歩いた1日なので、ビールがうまい。つまみに本まぐろの脳天とタイの刺身を食べる。どちらもおいしい。しかし、いつも思うのだが、タイとタコは西には全くかなわない。脂の乗りが違う。関東で食べるタイはとにかく淡泊だが、関西のタイは濃厚な旨味が凝縮されている。全然違う魚としか思えない。ビール、ハイボール、刺身2品、なす田楽で2000円。何だこの安さは。

気分がよくなり、鴨川を散策。氾濫がすごい。危険を感じるが、みんな負けずに堤防下まで降りてわいわいがやがや楽しくやっている。一人も楽しいぞ。











観光客であふれかえる河原町周辺であったが、2008年と大いに違うのは中国人観光客の多さである。彼らが好きなのは食べ物と買い物ばかりだが、京都の良さが分かるのだろうか?世界中で中国人観光客のマナーの悪さや品位の無さが問題となっているが、残念ながら京都も例外ではない。既に大勢来てしまっている。

中国人が来ると観光地としては、大衆化されすぎ、ただひたすら消費されるだけである。東京でいえば、銀座の雰囲気は変わった。結果、日本人の足が遠のいた。しかし、中国人観光客を敬遠する人達・層により、また新たな場所が開発されるであろう。

その後は、四条大宮で串揚げを食べたが、ここは観光地でもないので、地元の人で賑わっている。1本80円の価格のせいか、今まで食べた串揚げで一番まずかった。衣は固くて、中身にジューシーさが無い。

全くやれやれな1日であった。


1日目終了。

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2015年4月27日~29日稚内・道北の廃線跡巡り3

2015年11月16日 | 日本
2015年4月29日(水)


ホテルオホーツクパレスの広い朝食会場の客は自分ひとり。メニューは豊富で東京では飲めない特産の興部牛乳まである。この時期は観光客が少ないようである。でもGW・夏休み・流氷の時期には国内外からの観光客でいっぱいになるのだろう。

紋別を後にして、25km先にある鴻之舞鉱山を目指す。

途中にある旧上藻別駅逓。駅逓とは、明治から昭和初期まで北海道辺地の交通補助機関として、宿泊・人馬継立・郵便などの業務を行う制度。その運営者は、駅逓取扱人(半官半民)。1946年に駅逓制度が廃止されてから、現存するものは少ないらしい。ちょうどオープンした時間で他に見学客もおらず、管理人さんから丁寧な説明を受ける。この先にある鴻之舞鉱山のご出身の方で当時の鉱山の賑わいを詳しく説明していただいた。











鴻之舞鉱山は金・銀・銅などを産出したが、中でも金の埋蔵量は佐渡金山・菱刈金山に次ぐ日本で第三位の産金の実績であり、1940年(昭和15年)には年間金2.5トン、銀46トンを産出。1955年(昭和30年)には金年間2.98トンの最高産出量を記録した。操業開始から1973年の閉山まで、約73トンの産金をした。

鉱山の発展に合わせて、鉱山労働者とその家族の居住する街区が、藻鼈川・道道に沿って形成され、最盛期(1942年頃)には人口13,000人を数えるまでになった。 しかし、1943年(昭和18年)には戦争の激化による産業統制の一環として金は不要不急の鉱物とされたため、産金部門で働く労働者の多くが産銅部門や住友系列の他の事業所に配置替えとなったため、一時的に地域の人口は激減した。戦時中は1937年(昭和12年)に勃発した支那事変の長期化により鉱山労働者が次々と徴兵され、ついには操業に支障をきたすようになった。このため親会社の住友は朝鮮総督府や企画院に対して大陸からの労働者補充を幾度に渡り要請し、1939年(昭和14年)には、政府の労務動員計画に基づく朝鮮人労働者の移入が開始された。

第二次世界大戦後は金価格が下落し、資源も涸渇したことから、1973年に住友金属鉱山は鴻之舞鉱山の閉山を決めた。
















































1973年の閉山なので、42年前である。主要な建物は取り壊され既に自然に還ってしまったが、鉱山廃墟としては、非常に保存状態はいい方である。


この先は紋別に一旦戻る。





紋別の東の渚滑駅から渚滑川沿いに渚滑線(1985年廃止)が滝上町まで結んでいた。全長34kmの路線である。

渚滑線の遺構はほとんど残っていない。沿線は広大な牧場と農場が広がる豊かな土地である。

平野部が終わり、山が近づいてきたところが、滝上町(人口2,800人)。1970年の人口は8,500人。この人口減少では鉄道廃止も止む無しである。恐るべき少子高齢化の波である。このペースで人口減少が続くと、やがて消滅自治体となってしまわないだろうか心配である。

市街地の中心部に渓谷があり、滝がある。町名は、ポンカムイコタン(地名)の滝の上にあることに由来する。滝上は日本的な地名であり、アイヌ地名ではない。北海道では珍しい。








滝上公園のシバザクラ(10万平方メートル=甲子園の7倍の広さ)も有名である。見頃は5月下旬から6月上旬にかけてなので、まだ1か月ほど早い。





渚滑線の終点北見滝ノ上駅。旧駅構内は滝上町により「北見滝ノ上駅舎記念館」として整備されている。駅舎も当時のまま保存されており、廃線後は取り壊される駅舎が多いなか、この町の人々が渚滑線をいかに愛していたかがよく伝わってくる。















駅前は渚滑線廃止代替バスなど北紋バスの路線バスや、旭川・札幌方面が発着する。





滝上から先には町・集落はなく、深い山々を越えて、旭川へ向かう。山脈を越えると北見から上川へと地域も変わる。

旭川は大都会だ。道北~オホーツクの過疎地域からやってくると実に大都会に見える。空は雲一つない晴天で空気が乾燥して爽やかである。そして今日は暑い。半袖でもいいくらいである。高原のリゾートにやって来たような気持ちの良さである。

駅前から歩行者天国の広いストリートが真っ直ぐ伸び、おしゃれな若者達が闊歩している。とても活気のある都市である。

旭川市(34万人)は札幌市(190万人)に次ぐ北海道内第2の人口規模を持つ都市であり、東北地方を含めても仙台市(107万人)に次いで3番目の人口規模となっている。

旭川市の人口は1970年に29万人で2015年は34万人の増加。札幌市においては1970年は101万人で2015年は190万人の増加である。市町村合併の影響もあるが、都市部の人口増加が北海道においては特に顕著である。過疎地域の人口減少の原因は都市部、特に札幌への一極集中にある。

安倍政権の2015年の最大の政策課題は地方創生である。地方活性化が叫ばれて、だいぶ時代も経つが、一向に活性化される事無く、少子高齢化の悪影響が真っ先にやってきて、老人ばかりの空間になってしまっている。グローバルな資本主義のスピードが加速するにつれ、地方がその恩恵にあずかることは何も無く、時代に取り残されている。若者は都市部に流出し、マーケット感覚を持つ人材がいなくなり、何年ずっとも同じ事の繰り返しの現状維持を続けている。変化の早いグローバル化が進み国境が意味をなさなくなった今、現状維持=退歩である。

国の方でも、地域おこし協力隊制度をスタートし、人口減少や高齢化等の進行が著しい地方において、地域外の人材を積極的に受け入れ、地域協力活動を行ってもらい、その定住・定着を図ることで、意欲ある都市住民のニーズに応えながら、地域力の維持・強化を図っていくことを推進している。

いわば海外青年協力隊の国内版である。任期中は公務員として給与をもらって地域の為に働く制度である。

都会に疲れた若者、ブラック企業で疲弊する若者も多い。誰もが都会生活に合っているわけではない。日本人は元来農耕民族であり、三代遡れば8割が農家、漁師である。ルーツはほとんどみんな田舎者なのである。もっともっとこの制度の認知度が上がって、予算も多く確保され、大勢の若者が地方移住し、地方創生を担ってもらいたいと思う。

都会は消費するだけで、生産する場所ではない。人間活動の再生産(結婚、子育て)ができない持続不可能な場所である。都会化とは少子高齢化の根本原因である。周りは独身ばかりで、独身でいることにそれほど、不安も疑問も感じない。若くて健康な人間はひとりでも暮らせるのが都会生活であり、いつまでたっても永遠に若い感覚で年老いていくのが、都会に住み続ける事の怖さである。その結果としての、都会で一人で老いる事の不安や怖さをこれから大勢の日本人が体験するであろう。

現代の日本では誰もが老後の不安を抱えながら日々生きている。ひとり都会に暮らす人ほど孤独で憂鬱である。

かつての日本社会ではそんな事はなかった。田舎に住む人ほど、子や孫がたくさんいたからである。

極論すれば、子供が10人いて、孫が100人いれば、貯金がゼロでも老後の心配はないだろう。

子孫が少しづつ負担し、代わる代わる助けてくれるからである。

昔の人は財産は少なかったが、家族・子孫に投資していたのである。最も安全確実な未来への投資である。

北海道の道北、オホーツクの過疎地域に行って見えてくる景色・光景もある。都会にいては見えない景色・光景。

都会生活を一見謳歌している日本人の将来の底の見えない孤独と不安である。

そして、新たな日本の可能性も見えてきている。

答えは意外にシンプルである。昔に還る事かもしれない。



3日目終了。



終わり。
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2015年4月27日~29日稚内・道北の廃線跡巡り2

2015年11月14日 | 日本
2015年4月28日(火)


ドーミーインの朝食は地元の食材がふんだんに使用されており、大満足である。特に自分好みの刺身をのっけてマイ海鮮丼がつくれるのには感激。たっぷりもったイクラ・イカ丼にする。このボリュームだと街中で食べると2,000はする。この宿泊料で元が取れるのだろうかと心配になる。

元気な朝食のおかげでカメラ忘れのショックから立ち直った。今日はしっかりと写真を撮ることにしよう。


稚内まで来たからには日本最北端の宗谷岬に行かなければ何のために来たのか分からない。一度、来たことがあるのでいいとも思うが、どっちみち今日の通り道である。


市内からは距離がある。バスで1時間近くかかった記憶があるが、レンタカーでもそれくらいの時間がかかる。

宗谷岬。晴天だが、風が強く寒い。周りの風景は18年前と全く変わりない。














宗谷岬を後にして、オホーツク海沿いに南下。猿払村(人口2,700人)はひたすら牧場と自衛隊関連の施設が続く。海産物ではホタテの生産高が日本でも有数の港町である。

かつて稚内への鉄道ルートは海沿いを走る天北線と道北の真ん中を北上する宗谷本線の二つの路線があったのだが、天北線は廃止となってしまった。こちらの方が山越えがなく、敷設がし易かったので、宗谷本線より先の開通であった。当然メインルートであり、全ての列車が通ったわけなのだが、稚内まで直線のルートを通る宗谷本線開通後はローカル線に転落し、やがて廃止となってしまった悲運の路線である。先輩なのに後輩に引退に追いやられてしまった野球選手のような悲しさである。

浜頓別町(人口3,800人)から内陸部に入って、人家まばらな牧場地帯を走る、ようやく町と呼べるような集落が見えてきたのが、中頓別町(人口1,500人)である。


中頓別駅後は鉄道記念館とバスターミナルとなっていた。よくある北海道の廃線跡の風景である。





駅前はもはやゴーストタウン。鉄道が廃止された後はさびれる一方である。鉄道というインフラを必要としなかった人口規模、維持できなかった人口規模が北海道の廃線地帯である。








中頓別からふたたびオホーツク海に出る。ゆるやかな斜面に沿って街並みが広がる港町が枝幸町(人口8,600人)。ここもかつては鉄道が通じていた。浜頓別から興浜北線が通じていたが廃止となった。興浜北線と興浜南線はオホーツクを結ぶ長大路線となる予定であったが全線開通することなく、未成線の向こう側の興浜南線ともども廃止となる。

往年の賑わいをしのばせる街並みである。現在では毛ガニの水揚げ高が日本一の町である。


駅前はここもバスターミナルとなっている。往年をしのばせる駅前食堂が健在である。



















しかし、駅前食堂は営業しておらず、寿司屋で昼食を食べる。一応、カニはあったが、それ以外はイマイチだった。


その後はひたすらオホーツク海を南下する。枝幸町を半分くらいの賑わいにした雄武町(人口4,600人)から先は興浜南線が通じており、ここから先は以前に走ったことのある区間である。

これにて天北線、興浜北線完乗としよう。続く区間は既に完乗済み(車でのドライブだが)区間の興浜南線と名寄本線である。


アイヌの集落跡。本土の縄文時代と同じような生活をしていたようである。












かつてはここに名寄本線の駅があったのだろうか。遺構は全くといっていいほど見られない。





名寄本線最大の都市であった紋別市(人口23,000人)。稚内から下って来ると、村と町しかなかったが、ようやく市の登場である。市になれる要件は人口が現在は5万人、かつては3万人以上である。紋別市の人口だが、1970年は35,000人である。それ以前は5万人以上の人口があったのだろうか。この地域の中心都市らしく、人口規模の割に大きな建物・ビル・商店街がある。感覚がマヒしているのか、都会に見える。

網走市と並ぶオホーツクの中核都市紋別市を擁する名寄本線は本線でもあり、廃止は免れると多くの人々が信じていたが、昭和末期の国鉄民営化の前にあえなく廃止となってしまう。本線が廃止になったのが後にも先にも名寄本線のみである。なんとも不名誉というか、悲運の路線となってしまった。

しかし、今年の8月にJR北海道は留萌本線留萌~増毛間の鉄道事業廃止を決定した。留萌本線末端部分(留萌~増毛)とはいえ、本線廃止は衝撃が大きい。少子高齢化の波は地方ほど深刻である。鉄道の廃止は既存のインフラを維持できなくなった人口規模と地域経済の衰退の象徴である。

紋別山からの紋別市の街並みを一望する。網走市(人口37,000人)に似ている。











紋別で一番のホテルといわれるホテルオホーツクパレス(1泊6,000円)が今夜の宿。ドーミーインのような大浴場は無いが、近くにある紋太の湯の無料入浴券をくれる。紋太の湯は紋別駅の跡地にできた大きな日帰り入浴施設である。人が多く集まるという点においては、紋別駅としても往時をしのばせる嬉しい跡地使用法であろう。





紋別の名物はカニである。夕食は居酒屋でカニを食べる。学生らしき集団が多い。大学があるのだろうか。中心部には港町らしく街の規模にしては大きなスナック街がある。往年の賑わいと比較してはそれでも寂しいのだろうが、娯楽の少ないこの地域では気の合う仲間と酒を飲むことが最大の娯楽であろう。


2日目終了。
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2015年4月27日~29日稚内・道北の廃線跡巡り1

2015年11月08日 | 日本
2015年4月27日(月)


日本最北端の地稚内。旅情そそられる場所である。一度だけであるが、学生の時に行ったことがある。今から20年前の事である。その時は深夜の札幌から夜行列車で稚内に向かった。11月中旬の北海道の寒さと窮屈な座席、老朽化したおんぼろディーゼル列車の騒音と振動で眠れない一夜を過ごした先の終着駅が稚内であった。早朝の稚内は風が強く、吹雪舞い散る最果ての地であった。行った時期がそんな時期なので仕方ないのだが、寂寥感しか印象に残っていない。


前回は道北を背骨のように貫く宗谷本線を往路は夜行列車、復路は鈍行列車で行ったので、今回はレンタカーを借りて日本海側の廃線跡をたどるルートで稚内を目指す。

この時期の北海道の山々には残雪が残っており、新緑の芽生えもまだないが、今日はとにかく暑い。気温は20度を超えており、車内は冷房が必要なくらいである。


旭川から幌加内へ峠を越えて到着。幌加内町は1995年に廃止された深名線(深川~名寄122km)の中心駅であった。日本一のそばの産地として有名である。広い町だが人口は1,500人程度。日本一人口密度の低い町である。旧駅前の広い道路とまばらな商店はアメリカの田舎町を思わせる。ここではもちろんそばの昼食。北海道を旅していつも思うのは、働く人々がとにかくのんびり、スローペースである。何をするにも時間がかかる。ちょっとでも店内が込み合うとパニック気味になってしまう。都会から来るとそのペースにほんわかしてしまう。

のんびりと昼食を食べ、出発。

今回はカメラを忘れてきてしまった。タブレットで写真を撮ることもできるが、あまりの落胆ぶりにそんな気もなくなってしまう。


幌加内を北上する。朱鞠内から先、名寄までは以前、レンタカーで回ったことがある。これで深川~幌加内以外は深名線完乗である。

朱鞠内から日本海側に抜ける。羽幌町に到着。1987年に廃止された羽幌線(留萌~幌延141km)の中心都市である。人口7,400人の町なので、都市といえるような場所でないが、寂寥感あふれる場所をひたすら走ってきたので、そこそこの都市に見える。

留萌~羽幌間は以前、レンタカー走った事があるので、ここから先は未乗区間となる。

羽幌から先はさらにさびしい道のりである。市街地らしいところは天塩町のみである。天塩町の人口は3,200人。天塩川の河口に開けた町である。天塩川の河口は長い距離を日本海と並走して海にそそぐ。面白い地形の町である。初めてきたところであるが、稚内・根室より最果て感が強い町である。何ともさびしいところである。小説・映画の舞台になりそうなところである。

天塩から先は幌延から宗谷本線に合流して内陸部から稚内を目指すルートと、ひたすら日本海沿いを真っ直ぐ進むルートに分かれる。

このまま国道232号線を北上する。末端区間が残ってしまったが、羽幌線完乗とする事にしよう。

稚内まではひたすら一直線の道が続く。対向車もほとんどない。まれに来るのはトラックである。映画でみるアメリカの砂漠を走るハイウェイのように、遥か遠くの道がかげろうのようにみえる。そして対向車もかげろうのようにゆらゆらと小さく見えるが、いつまで経っても、その距離はなかなか近づくことはない。

高速道路以上にスピードが出せるが、180kmくらいで自重する。路面がデコボコで車がバウンドして危険である。命の危険を感じる。

稚内まで全く人家のない地帯を通る。風力発電があるくらいで、人工物の無い世界である。日本にこんなところがあるのかと思う。まだまだ日本には知らない風景がたくさんある。

山がちの地形を抜けて日本海をぐるりと回ると、急に市街地が開けてくる。稚内に到着。

稚内は平野の少ないところで、海沿いの狭い平野部に細長く市街地が長く続く。無人地帯を延々と走ってくると大都会に見えるが、現在の人口は36,000人。2008年8月に4万人を割り込み、2000年~2014年までの15年間で7,931人(減少率18%)減少している。北海道の都市で最も人口減少率の激しいところで、危機的な状況である。

かつては最果ての地ではなく、稚内から樺太へと日本の領土が続いていた。樺太を失った稚内と千島列島を失った根室は最果ての地となってしまった。

日本最北の駅。稚内駅。18年前の国鉄的な無骨なコンクリートの駅舎から一変して現代的なインテリジェントな駅舎になっている。ショッピングセンターも併設している。バスターミナルも新しく綺麗になった。








以前、来たときはここにホームがあったと思う。終着駅らしく1本のホームであった。




町一番のホテル、全日空ホテルが見える。あの先は港である。かつては、樺太に渡る連絡船に乗り換える港であった。
現在でも、国境を結ぶフェリーの便がある。




バスターミナル。市内間のバスはそれなりに頻発している。






駅前の風景。人口が減少しているが、最北端の地であり、国防上の要である。政府の出先機関が多いので、公務員や政府関係者、出入りの業者で一定数の人口は確保されるのであろうが、日本の国防の為にも活気がないといけない都市である。














ドーミーイン稚内に宿泊。6,480円。ドーミーインはお気に入りのホテルである。この値段で泊まれるのが信じられないコスパの良さである。

夜は、ツボダイの炉端焼きとボタンエビ、ホタテの刺身を食べる。それから店内で知り合った若い男女二人組(カップルではない)とスナックでカラオケ大会。見ず知らずの人たちと一緒に盛り上がる。このオープンな感じが港町、国境の町、北海道らしさである。



1日目終了。
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2014年3月14日~16日沖縄ホエールウオッチング2

2014年08月31日 | 日本
2014年3月15日(土)・16日(日)


今日は渡嘉敷島にホエールウオッチングに行く。この時期しか見れないとの事である。

大洋ホエールズ一筋38年?の筋金入りのホエールズファンとしては、一度、この目でクジラを見て拝まないといけないのだ。

離島ターミナルまで歩いて移動。徒歩15分であるが、沖縄の人(ツアー会社の担当者)からはタクシー利用を勧められた。南国の人は本当に歩くのが嫌いだ。








渡嘉敷島への高速船。シーズンオフなので乗客もまばら。








あの大型船はどこへ行くのだろうか?





桟橋を離れる。





30分ほどで渡嘉敷島へ到着。








ツアー会社の車でショップへ移動後、自由時間。








綺麗なビーチには人もほとんどいない。








昼食を食べに食堂を探して集落をぶらぶらする。

















昼食後は、ビーチを散策。それくらいしかする事がない。
























ツアー会社はホエールウオッチング以外はダイビングが本業のようである。






説明を受けて、いよいよ出発。今日はテレビの取材が入っている。

















ポイントに到着。

















まじかに見るくじらに感動。38年に渡る大洋ホールズ愛と感謝の気持ちをくじらたちに直接伝える。きっと伝わったはず。








他のツアー客も集結。











渡嘉敷島の風景。





大満足のホエールウォッチを終えて、島に戻る。ふたたびビーチでのんびり。








何もしない贅沢をありがたく思って、島を後にする。オフシーズンでフェリーターミナルも閑散としており、寂しい。














高速艇に乗船。那覇へ戻る。





何もない渡嘉敷島から戻ると那覇は大都会に見える。夜はO君の嫌いな沖縄料理で乾杯。気の抜けたオリオンビールもこういう時くらいしか飲めない。おいしくいただく。









翌日は恩納村、名護に行って、沖縄北部の田舎をのんびりドライブ。














記念に手作りの革サンダルを作って、昼食においしいハンバーガーを食べて、帰る。


今年のホエールズはきっと強いだろう。CS進出の可能性大である。


おわり。

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