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Asianwalker

アジアの路地裏から

2010年3月4~6日博多・湯布院1

2010年04月04日 | 日本
2010年3月4日(木)、5日(金)


九州へ出張に行く事になった。九州に行くのは1999年の3月以来なので実に11年ぶり2回目になる。

普通に航空券とホテルを別途手配して経費清算をしようと思っていたのだが、別件で近畿日本ツーリストに行った際に何気なく九州のコーナーを見てみると激安価格のツアーがあり、しかもこの種のツアーにしては珍しいことに一人申し込みが可能である。肝心の料金だが、スカイマーク利用で2泊の設定だと32,800円。木曜出発の土曜戻りなので最も安い価格帯ではあるのだが、それにしても、どうしてこんな価格で発売できるのか謎である。会社には領収書不要の新幹線で行ったことにして、旅行会社には9,000円の宿泊費という項目で領収書を発行してもらった。せっかく遠くの博多まで行くのにただ仕事して帰ってきました、では何だかもったいない気がするのでもう1泊して観光もしてみたい。それでも東京・博多間の新幹線料金が往復42,420円、宿泊費が9,000円の合計51,420円で経費清算をしたとして、実際は飛行機で往復して博多で2泊して32,800円で済むので18,620円も得したことになる。



午前中まで仕事をして、羽田空港に向かう。スカイマークに乗るのは初めてである。国内線なので大してマイルも貯まらないので安ければどこの航空会社でもいい。





掃除のしやすい革張りのシートはエアアジアを思い出す。ウィンドブレーカーのお姉さんはCAというよりも野球場のアルバイトの学生みたいである。もちろん飲み物のサービスなんてものは無い。しかし、安ければそんなサービスなんてどうでもいい。必要なら買えばいいのである。国際線も同様である。機内食なんて食べたい人だけ金を払って食べればいいのだ。コンビニ弁当で十分だからその分料金を安くして欲しいと思う人も多いであろう。酒を飲む人も然りである。無料だと飲まないと何だか損した気分になるので、精神衛生上、健康上、ともによろしくない。

しかし、スカイマークはJALと違って、びしっとスーツを着こなしたビジネスマン風の客がほとんどいない。明らかに客層が違う。学生・フリーター風、老人、主婦、外人(アジア・インド・中東系)ばかりのような気がする。スカイマークには申し訳ないのだが、なんだか機内が貧乏臭いというか、良く言えばカジュアルなのである。スーツを着ていると完全に浮いてしまう。しかし個人的には日本の空もついにここまで来たかと逆に嬉しくなった。世界の流れを見ても、もはや飛行機は金持ちだけの乗り物ではない。大衆的な安くて気軽に乗れる乗り物なのである。金持ちが乗り、良家の子女がサービスをする。いわば上流階級だけの世界。そんな時代はとっくに通り過ぎたのだ。JALはそんな過去の遺産から結局抜け出せないまま破綻してしまった。時代とともに変化し続けることがどんな業界でも必要不可欠な事である。スカイマークに乗っただけでこんなに考察ができるなんて素晴らしい。いつも通りにJALに乗っていたら何も考察することなく、何も気がつくことなく終わっていただろう。





JALに乗った時の格調高いCAのアナウンスもなければ、ありがたい操縦席からのご挨拶もない。そんなものはいらない。安全で安ければよろしい。

当然、何事もなく、無事に福岡空港に到着。





福岡空港は市街地から近い。どんな経緯でこんなに市街地の近くに空港が出来たのか分からないが、東京から遠ければ、逆に空港を市街地の近くに造ればトータルでの所要時間は短くて済むという発想が根底にあったのなら、福岡県民の優秀さには感服せざるを得ない。福岡と似たような地理条件の札幌や同規模の地方都市の仙台、広島、より小規模の地方都市ですら空港と市街地の距離はもっと遠い。

ホテルは中心部にほど近い祇園という場所にあった。激安ツアーで使われるホテルなので多少の心配はあったが、便利な場所にあって、新しくて清潔で十分な広さの部屋である。








ホテルに荷物を置いて、天神にあるリクルート社を訪問する。九州の人の特性を教えてもらう。地元意識が強い、九州独自の文化を大事に思っている、祭りの日は会社を休んでも行く、地縁・血縁を大事にする、保守的、九州出身であることに誇りを持っている、九州でも各県ごとにカラーがだいぶ違ってくる、九州を出る人はあまり多くない、九州を出る事=東京に出ること=日本一を目指す、天下を取るくらいの意気込みである。などなど、とても参考になるお話であった。なかなか一筋縄ではいかない土地柄のようである。さすが、明治維新を成し遂げ、現在の日本の基盤を創った人物を輩出した九州である。九州人はプライドが高そうだ。東京からのこのこやって来て九州は中央から遠く離れた田舎で遅れた土地という考えが少しでも頭の中にあると、彼らはそれを敏感に察知するに違いない。元々、そんな考えは毛頭ないのだが、明日の言動には十分に注意することにしよう。九州は食べ物が美味しい、人が優しくて親切、明治維新を成し遂げた優秀な九州人、現在でも多くの文化人、芸能人を輩出する独自の素晴らしい文化、ホークス最高!などなど、明日は、九州についての全ての事を褒め称えよう。



そんな事を頭に思い浮かべながら天神を後にして、明日の仕事場の下見に中洲へと移動。











明日の仕事場。会場で会社を判断されると困るので、上司を説得して、わざわざ高い金を払って中洲の新しい綺麗な会議室を用意しておいた。優秀な人材が多く集まるといいのだが。





しばらく、中洲を散策。やはり昼間よりも夜の街といった感じがする。天神の方が多くのビジネスマンで賑わっていた。





中洲の大洋映画劇場。その名前といい佇まいといい一目で気に入ってしまった。名画座だろうと思ったのだが、普通のロードショーの映画館であった。これで名画座だったら完璧なのだが、そううまく事は運ばない。やはり商業主義的である。二本立ての名画座は今や都内でも数少ない。客の回転が悪く、なかなか採算が取れないので商業主義的な考えの企業ではやっていけない。









外は雨が降っている。ホテルでのんびりした後は、広島の所長と合流して、飲みに行く。

夜の中洲は大勢の人々で賑わっている。












中洲名物の屋台。九州には本州にはないアジア的な空気がある。しかし、残念なことに屋台は年々、減少しているという。














北のススキノ、南の中洲と並び評されるだけあって、巨大な歓楽街である。北海道の中心、札幌市の人口は188万人、一方、九州の中心、福岡市の人口は145万人だが、歓楽街はその人口に不釣合いなほど巨大である。まるで、新宿歌舞伎町や池袋西口にいるような気がする。

広島の所長は同期入社で気心知れた仲である。元々は大阪の人なのだが、転勤で頑張っている。広島はあまり好きになれないらしく、福岡の方が好きならしい。それにしても福岡は欲望のみなぎる町である。広島の所長が九州を担当していた際に取引先とよく中洲で飲み歩いたそうだが、中洲の歓楽街の素晴らしさを称えると、地元の取引先の人は揃って「博多は大したことなか。やっぱ熊本ばい。熊本はすごかと。」「く、くまもとですか・・・。」「熊本に比べると博多はまだまだ子供の町ですたい。」「・・・。」

それ日以来、広島の所長はいつか熊本に行く日を夢見ているとの事である。熊本・・・。




楽園ビルって・・・。何これ珍百景に出てきそうである。





ここは歌舞伎町かと一瞬、錯覚してしまいそうだが、呼び込みのお兄さんの掛け声が博多弁なので、九州なんだなと実感する。






広島の所長の話では中国地方の中心、広島市は人口115万人の大都会なのだが、歓楽街はそれほど巨大ではないらしい。私も仕事で広島は何度か訪れた事があるのだが、同感である。もっとも広島は戦争の悲劇の土地なので歓楽街があるのは不謹慎とも言えるかもしれないが。一方、昨年の9月に旅行した東北地方の中心、仙台市は人口103万人広島市と同規模だが、歓楽街は東北らしく真面目で控え目な感じであった。3大都市圏以外で100万都市は札幌、仙台、広島、福岡だけなので、やはり、札幌と福岡の歓楽街の巨大さは群を抜いている。

今回、人口を調べてみて気づいたのが、小学生の社会の授業で習った当時、仙台市は100万都市に入っておらず、その代わりに北九州市が入っていたはずであるが、90万都市に陥落していた。また、大阪が2位から3位に転落して横浜が2位に台頭しており、当時はまだ存在していなかったさいたま市が9位にランクインしているが、両方とも首都圏、東京の一部と言ってもいい地域なので、いかに東京への一極集中が進んだという事がよく分かる。


都市の人口推移(上位12位まで)を調べてみるとなかなか興味深いデータであった。

1920年は東京、大阪、神戸、京都、名古屋、横浜、長崎、広島、金沢、仙台、鹿児島、札幌。(意外な都市、長崎、金沢、鹿児島がランクイン。)

1930年は大阪、東京、名古屋、神戸、京都、横浜、広島、福岡、長崎、仙台、札幌。(なんと大阪が東京を抜いて1位だった時期があるのだ。これは大発見であった。また、ここでようやく福岡が長崎を抜いてランクイン。九州の中心となる。)

1940年は東京、大阪、名古屋、京都、横浜、神戸、広島、福岡、川崎、長崎、仙台、静岡。(東京が大合併をして一気に巨大都市になり2位以下を突き放す。また、現在に至る3大都市圏が形作られてそれにともない、横浜、川崎の人口が急増。なぜか静岡の人口が急増して札幌がランク外へ。)

1950年は東京、大阪、京都、名古屋、横浜、神戸、福岡、仙台、川崎、札幌、広島、熊本。(名古屋と広島の人口が急減している。戦争の影響だろうか。)

1970年は東京、大阪、横浜、名古屋、京都、神戸、北九州、札幌、川崎、福岡、仙台、広島。(合併により誕生した北九州が一時的に台頭。)

2010年は東京、横浜、大阪、名古屋、札幌、神戸、京都、福岡、川崎、さいたま、広島、仙台。(これから日本は人口減少時代を迎える。上位の顔ぶれは固定化する可能性が高い。)


安定して上位ランクに入っている都市もあれば、浮き沈みしてきた都市、沈んだまま浮き上がれなくなってしまった都市など悲喜こもごもである。将来はどの都市が台頭し、どの都市が衰退するのであろうか。予測できない部分が大きいが、間違いなく言えるのは東京は未来永劫に渡って繁栄を続けるはずである。そして、東京の繁栄が続き限り、東京首都圏の一部である、横浜、川崎、さいたま、千葉も安泰であろう。東京で生活の基盤を作って生きていくのも大変な苦労があるのだが、頑張り続ければ将来は報われる可能性が高いかもしれない。


地元の美味しい食べ物と酒を飲んだら、締めはやはり豚骨ラーメンを食べたい。豚骨ラーメンの店は多数あるのだが、東京で見かける店も多い。今日の店探しのテーマはここ博多でしかやっていない店、そして汚くて男しか入らなそうな油ぎとぎとの店である。

最近のラーメン屋はきれいになった。また、女性の一人客でも入りやすいような店も増えたので、昔ながらの、THE男のラーメン屋を探すのが難しい。

ようやく見つけた1軒。すでに中洲から離れて、祇園の近くまで来てしまった。





歓楽街から離れた場所にあるにも関わらず芸能人や野球選手の色紙がいっぱい飾られている。そのほとんどが、男らしい面々である。


中でも目を引くのが、巨人時代の松井。





極めつけは男清原。清原に一番似合うラーメンを選べと言われたら間違いなく豚骨ラーメンと答えるだろう。





油ぎとぎとの昔ながらの男の豚骨ラーメンといった味であった。さすが本場の味は本格的である。油を大量に補給したので明日の仕事もエンジン全開で最初から飛ばしていけそうである。






翌日、仕事も無事終え、みんなで居酒屋でもつ鍋や焼き鳥を食べ、酒を飲み、今日中に帰宅する上司と広島の所長を見送った後で、ひとり中洲を歩いていたら、前からひときわ目立つ美女を連れたインパクト十分なぼさぼさ頭の太った中年男性が歩いてきた。脳科学者の茂木健一郎氏であった。最近、氏の著作「クオリア立国論」を読んだばかりであるので、氏とすれ違ったのも奇遇である。プライベートをお楽しみのようなので声をかけるのは遠慮しておいた。しかし、なぜ、ここ中洲に茂木健一郎がいるのかが意外すぎてよく分からない。氏のする事だから脳にいい事をしているのに違いないが、それにしても連れ立って歩いてた若い美女は奥さんにしては若すぎるし(茂木健一郎氏は1962年生まれの47歳)、清楚で知的な感じであるのでホステスさんではないと思う。教え子か、仕事関係の人であろうか?本には書かれていないが、若くてきれいな女性と一緒においしい酒を飲むのはきっと脳にいい刺激を与えるのに違いない。もっとも、そんな素人でも分かるような事を学者がわざわざ本に書くまでもないであろう。いずれにしても茂木健一郎が誰と中洲で飲み歩いていようが興味がないので、とっととホテルに帰って寝る。


1,2日目終了。
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2010年2月27日日光・鬼怒川2

2010年03月18日 | 日本
昼食後、寂れた感じの日光市街を後にして、いろは坂へと向かう。






Sさんの車はレース仕様なので、路面の感触がダイレクトにゴツンゴツンと伝わってくるので、乗り心地は快適とは云い難い。乗り物酔いしやすい人は気持ちが悪くなるに違いない。

この時期のいろは坂は凍結注意でチェーン規制中である。ノーマルタイヤで心配だから行きたくないというSさんに対して「全然凍結していないと思うから大丈夫だと思いますよ。」「長かった単身赴任もあと少しで終わりですけど、豊橋に戻ったらこんな所には中々これませんよ。」「今、行かないと一生後悔しますよ。」などと励まして無理やり行ってもらう。


実際に行ってみると、やはり、凍結はしていない。道路関係者からすると事故を起こされるのが面倒なので、多少大げさに注意喚起するのである。

ここの猿は凶暴なのでドアを開けると車内に入り込んでくるので、要注意である。









いろは坂は一方通行である。遠くに下りの道が見える。









明智平に到着。かなりガスがかかってきた。


















長いトンネルを抜けると、山頂に平地が広がり、中禅寺湖や華厳の滝がある。









華厳の滝。冬なので一部凍結して水量が少ない。水量が豊かな季節に来たら荘厳な眺めであろう。









転落に注意の看板。時代を反映してか、英語に加えて中国語とハングル表記がある。気のせいか、日本人よりも、台湾・中国人、韓国人旅行客の方が多いような気がする。






実際に転落した人も数多い。有名なのは1903年(明治36年)に自殺した東大生藤村操である。自殺現場に残した遺書「巌頭之感」の写真が現存し、お土産として売られている。






華厳の滝のかなり下の方に川は流れている。周囲は高い山々に囲まれている。












滝の近くまでエレベーターで下ることができるらしい。乗り場入口。






周辺はお土産屋が多い。何も買いたいものはない。買っているのは外国人だけである。彼らはお土産屋さんにとっていいお客さんである。






日光に戻る。帰りは下り坂なので、レース仕様の車でドリフト走行を楽しみながら走る。神橋をすぎると日光ともお別れである。






このまま宇都宮に向かうのには、まだ早いので、鬼怒川に行くことにする。

4年前の2006年のちょうど今の時期に鬼怒川へ温泉旅行に行った。日光江戸村に行った後は個室露天風呂のある豪華な旅館に泊って豪勢な料理を堪能した。

今日はSさんと男二人旅である。全体的にバブル後遺症のような雰囲気の鬼怒川の温泉街のなかでも、最も貧相な旅館で日帰り入浴をする。なんとたったの500円である。まるで銭湯なみの料金である。









創業当時からそのままの姿の設備投資していない感がたまらない。懐かしい昭和を感じる。









14時とチェックアウト、チェックインの間の時間であるので、大浴場には誰もいない。









露天風呂をひとり占め、いや、ふたり占めする。






露天風呂からの眺めが素晴らしい。渓谷の眺めの良さが鬼怒川温泉の最大の売りである。


















肝心の温泉であるが、加水・加温であり、残念ながら源泉かけ流しではない。鬼怒川ではこんなものであろう。






じっくり入浴した後のビールが最高にうまい。運転してきたSさんには申し訳ないが、おいしく頂く。

旅館の主人と話しをする。鬼怒川で創業以来、オーナーの変っていない旅館はここをふくめて2,3軒しかないらしい。やはり、バブルの後遺症は大きかった。ここの旅館が生き残れたのは、バブルの時代に他の旅館は莫大な借金をして過大な設備投資をして高級化路線に走ったのに対して、ひたすら設備投資をしないで、いや、ただ単にお金がなくて出来なかっただけかもしれないが、健全な経営をしてきたからだと思う。館内はとても鬼怒川だと思えない雰囲気でまるで鄙びた温泉旅館に来たような感じである。この旅館の建物・設備はもうとっくに償却済みであろう。借金がなければ、あとは利益が生まれてくるだけである。その分、料金も安くできるであろう。






旅館の主人から1泊素泊まりで2980円だから泊っていかないかと誘われた。土曜日にも関わらずこの値段である。デフレ社会恐るべし。そもそも温泉旅館の1泊2食でいくらという画一化された料金設定自体が時代遅れである。夕食なんてそこら辺のラーメン屋かコンビニで済ませればいいし、朝食はいらないと思う人もいるであろう。不況、不況と嘆く前に今まで温泉旅館に来なかったそういう層の需要を取り込めばいいのだ。この値段にはさすがにSさんとふたりで本気で泊ろうかと悩んでしまった。


心地よい温泉に浸かり、ビールを飲んだので、気持ちよく寝てしまった。気がついたら宇都宮の近くまで来ていた。


宇都宮では餃子をたくさん食べた。この店は60種類以上の種類の餃子があり、バナナ餃子、チョコレート餃子、ヨーグルト餃子、くるみ餃子、アスパラ餃子とかカレー餃子、からし餃子、真鱈餃子などなど挙げたらきりが無いがなんとも摩訶不思議なメニューが並んでいる。















まずい餃子にお目にかかる機会は滅多にない。誰が作ってもおいしくできる料理のひとつである。









変り種餃子もそれなりにおいしかったのだが、結局はスタンダードな餃子が一番おいしかった。という落ちの無い話しであった。


帰りは湘南新宿ラインで乗り換えなしで池袋まで帰れる。上野で乗り換える事を考えると所要時間も新幹線と大差ない。遠いと思っていた宇都宮に行くにも便利になったものである。


おわり。
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2010年2月27日日光・鬼怒川1

2010年03月16日 | 日本
2010年2月27日(土)


豊橋から東京に転勤した人たちと一緒に日光に行くことになった。日光には三河の国が生んだ日本史の英雄徳川家康が眠っているので、同郷の三河人の彼らにしても関心があるらしい。


財務部のN君と大塚で待ち合わせをしていたが、時間になっても一向に来ない。電話も出ない。上野に着いたときに「寝坊しました。申し訳ございません。」と連絡があった。急いで浅草まで行きますというのだが、待ちきれないので先に出発する。


浅草駅に来るのは4年ぶりである。前回は鬼怒川に行った。






日光や鬼怒川までは特急が早くて快適で便利である。日光までは2,620円。






しかし、お金がもったいないので快速で行く。株主優待券を買ってきたので850円。






前4両が鬼怒川方面、後ろ2両が日光方面なので乗車の際は注意が必要である。






土曜日なのだが車内はあまり込んでいない。今日は雨なので行楽客も出発をあきらめたのかもしれない。8時10分出発。






浅草を出てすぐに隅田川を渡る。桜が咲く季節はとても綺麗である。






反対側にはアサヒビールの本社が見える。






列車は東京北部、埼玉県の住宅街を走り、栃木県に入る。N君は浅草まで来たのだが、体調が悪いのと日光までの行き方がよく分からないというので結局、来ない事になった。細かいことや人のことを気にしないこういうマイペースなタイプの方が将来は大物になりそうな気がする。財務部長よりさらに上を行って将来は取締役、もしかするとCFOになるかもしれない。自分の将来のためにも、駆け出しの今のうちからよく面倒を見て恩を売っておこう。






栃木県に入ると田園風景が広がり、やがて山々が見えてくる。












下今市で鬼怒川方面行きと日光方面行きに別れる。






日光には10時18分に到着。停車駅が少ないので所要時間は特急とそれほど差はない。









宇都宮からSさんが来るまで周辺を散策。


JR日光駅。歴史のありそうな駅舎。









東京は大雨であったが日光は晴天である。遠くの山々まで綺麗に見える。






Sさんの車が到着。豊橋ナンバーの真っ赤なマーチなのでよく目立つ。車で日光の社寺エリアまで行く。


日光らしい杉並木の道を抜けて歩いていく。






世界遺産日光の二社一寺。まずは輪王寺から見学。





















参道内をさらに奥へと進んでいく。






日光東照宮の五重塔や社殿。












神厩舎には猿の彫刻を施した8枚の浮彫画面がある。この8枚で猿の一生が描かれており、ひいては人間の平和な一生の過ごし方を説いたものとなっている。「見ざる、言わざる、聞かざる」で有名な3匹の猿はこの神厩舎にある。なお、「見ざる、言わざる、聞かざる」は幼少期には悪事を見ない、言わない、聞かない方がいいという教えである。 


















落ち込んだ時、励ましてくれるのは友であり、持つべきものは友であるという教え。















御水舎。









三神庫。









石鳥居。






陽明門。いつまで見ていても見飽きないところから「日暮の門」ともよばれ、故事逸話や子供の遊び、聖人賢人など500以上の彫刻がほどこされている。































今日は暖かいが、昨日までは相当寒かった。今年の冬は例年になく寒かった。






全国各地から奉納されたお神酒。






御本社は保護工事中であった。ここ1,2年、日本各地の社寺や城は保護工事をしているところが多いような気がする。









二社一寺の最後は日光二荒山神社。









これから結婚式を挙げるのであろうか。世界遺産の神社で結婚式を挙げるのは非常に神聖なことである。必ずや神様のご加護に恵まれるはずである。















日光に来たのは2度目だが、「日光を見ずして結構と言うなかれ」という格言の通り、自然の景勝と歴史的建造物など、古来より変わらぬ歴史的観光資産が散在する日本が誇る世界遺産であり、何度来ても素晴らしいところである。


杉並木の中を歩いて駐車場に戻る。






近くの大衆食堂で昼食を食べる。私は肉そば、Sさんは日光名物の湯葉そば。








観光食堂ではないので、安く済んだ。
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2009年12月19日愛知

2010年01月24日 | 日本
2009年12月19日(土)

特に理由はない。昔、住んでいた懐かしい町を久しぶりに訪れようと思い立った。

金曜日に愛知県にある工場に出張に行く。朝の東海道新幹線で西へと向かった時、天気が良くて富士山が綺麗に見えると、今日はとてもいい日になりそうな予感がする。日本人だなと思う。



東西に長い静岡県も浜名湖を越えると、まもなく愛知県である。





仕事を終え、ホテルにチェックインして、工場赴任当時に仲の良かった同僚達と夜遅くまで楽しく飲んで、ホテルに戻って寝る。ホテルに戻って寝るだけのタイプの人にとって、東横インは最高にコストパフォーマンスに優れたホテルである。宿泊することに特化しており、レストランや宴会場、会議室、お土産屋等の余分な設備が無い分、人件費、固定費が低く済むため、その分だけ宿泊費が安い。全国どこでも、朝食付きで1泊6000円程度であり、10泊すれば1泊無料券がもらえるので、実質は5000円代である。部屋も清潔で綺麗である。全国いたる所に東横インはあるのだが、どこの東横インでも部屋が同じつくりなので使い勝手がいい。初めて訪れる知らない町でも、使い慣れた東横インの部屋に入ると、自分の家に帰ってきたような安心感がある。





この日の夜はとても寒い日であった。この町は風がとても強い。強い風も相まって、体感温度はとても寒い。海が近いので雪が降ることは滅多にないのだが、それでも、ちらほらと雪がちらついてきた。

翌朝は雪が降っていた。名鉄で名古屋方面へ移動。名古屋はここ数年の好況に沸いた結果、日本で最も変化の激しい街になったと思う。駅前の様相も一変した。







名古屋から北へ向かい、途中の駅で降り、さらにバスに乗り換える。一面の雪景色の中をバスは走り、懐かしい町に到着した。

名古屋の北部に位置するこの町は立派な駅があるのだが、名古屋方面への鉄道の接続が悪くバスを利用する人も多い。かつてはこの駅からニュータウンへ向かう、おもちゃのようなモノレールが運行されていたのだが、今は廃止されたようである。





20代前半の1年間、名古屋の北部に位置するこの町で過ごした。それから10年近くが経過するが、モノレールが廃止になった以外、駅前は当時とほとんど変わりはない。当時から時間が止まっているような感じである。駅前の人気のなさと静けさも、当時と変わりはない。







駅からほど近いところにあった、当時住んでいたアパートに向かって歩く。



当時、住んでいたアパートも時間が止まったように全く同じ姿であった。メンテナンスが良いのであろう、不思議と年月を感じさせない。古くなっていない。もちろん、新しくもなっていない。当時と同じままである。しかし、かつてここに住んでいた住民は確実に年を重ねている。



近所の公園も当時のままである。しかし、一面の雪景色は初めて見る光景である。この町に住んでいた時に大雨、水害の被害はあったが、雪が降ったことはなかったと思う。





この公園は城見公園という名がつけられているのだが、当時は城よりも上空を飛んでいく飛行機の姿が多く目についた。その後、ここから、遠く離れた海の沖合に新空港が完成したので、飛行機の姿を目にする事もない。



公園を過ぎて住宅街が終わると水田が広がる。稲の生育度合いで、季節を感じることができたのだが、今日は一面の雪景色である。



水田を過ぎると、巨大なショッピングセンターがある。



ショッピングセンターの屋上の駐車場からはこの町の全景が見渡せる。変っていないと思っていたこの町だが、中心部に新しい高層マンションが増えているようである。







休みの日はよく図書館に行って本を読んで時間を潰した。その後はバッティングセンターに行って、汗を流した後は、スーパー銭湯でリラックスして、おいしいビールを沢山飲んで、畳の上で昼寝をした。





小高い山の頂上にある城はこの町のいたるところから見える。



掘。夏は水の流れが豊富で綺麗である。



城の周辺は公園として整備されている。芝生の綺麗な広場であるが、今日は珍しい雪景色である。子供達は嬉しそうに雪だるまを作ったり、雪合戦をしている。この町に雪が降り積もるのは何年かに一度の出来事であろう。



久しぶりに城に登りたかったのだが、雪が積もっており、歩きにくいので諦める。燃えるような真っ赤な紅葉が美しい。







1年しかいなかったこの町だが、この町で過ごした1年が、今、振り返ると、今の自分の仕事や生活に係る最大のターニングポイントであったような気がする。

大学を出て憧れの会社に入り、みんなから祝福されたりしていたら、自分の人生を託してみようとか、期待は裏切れないといった思いがわいて、無意識のうちに会社にしがみついていたかもしれない。新しい事を始めようという気にはなれなかっただろう。人間、何かにしがみつくと本当の力は出せないのだ。

もし、挑戦しようと思いながら踏み出せないでいたら、一度、自分をとらえ直してみることだ。会社、地位、肩書き、経済的安定、プライド・・・・・、何かにしがみついていたら、その手を一度離してみる。肚がすわり、度胸がわいてくるはずだ。

忘れかけていた、当時の決断、決心、決意を思い出した。今年は散々な一年であったが、来年は新たな事に挑戦してみようと思う。
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2009年12月13日草津・軽井沢

2010年01月17日 | 日本
12月13日(日)

いよいよ冬到来。しかし、今年は暖冬のようである。冬らしくない毎日が続くので、季節を感じる為に温泉に行くことにした。

温泉番付横綱の座にランク付けされる草津温泉には今まで行った事が無い。草津温泉は交通アクセスが悪い。8時にレンタカーを借りて、池袋を出発。

日曜日であるが、関越道は意外にも空いており、渋滞しない。群馬県あたりからは、ようやく冬の初めの風景といった感じになる。都会に住んでいると、本当に季節感が失われる。

草津温泉は標高の高い場所にあった。気温が一気に下がる。外は雪景色であった。



草津温泉の中心街から外れた住宅街のような所に、目指す大滝乃湯があった。











白濁した熱めの湯に浸かっていると、心も体も癒される。外はとても寒いが、お湯が熱いので、ちょうどいい具合である。空気もとても澄んでいる。都会暮らしで汚れた肺が少しは浄化されたような気がした。

一風呂浴びて、体が温まったので、草津温泉街を散策。





草津温泉の特長として、泉質の良さはもちろんだが、無料で入れる共同浴場がいたる所にある。安宿に長逗留しながら、湯治三昧の生活を過ごしてみるのもいいだろう。







温泉街の中心から少し離れた所には、安宿が豊富にある。




湯畑が見えてきた。しかし、お腹が空いているので、腹ごしらえの方が先である。



湯畑から脇道に入ると、趣のある店がたくさんある。



まいたけうどんの文字に目がひかれる。この寒さなので温かいうどんが心と体に染み入る。





温泉街を散策。古い温泉街は日本中どこも似たようなものである。独特の情緒があっていい。できれば、昼よりも夜に来たかった。










草津温泉は近代的な巨大温泉旅館より、昔ながらの木造建築の宿が多い。この辺も人気の理由のひとつであろうか。








温泉街をぐるりと一回りして、湯畑に戻ってきた。









湯畑の周辺は観光客で大賑わいである。







明治・大正時代からありそうな、旅館と商店。





湯畑は思ったより巨大であった。湯畑を横目に見ながら、散策。







足湯があった。



近代的な巨大旅館もある。しかし、もし泊りで来ることがあるなら、渋い木造建築の古い旅館に泊ってみたい。ここでは快適さよりも情緒を選択したい。



湯畑は長時間見ていても飽きない。本当に不思議である。お湯の色が独特で綺麗である。強いアルカリ性特有の色であろうか。












温泉の効用か、寒いなかを長時間歩いていても、体が冷えなかった。

草津温泉を後にして、軽井沢に向かう。位置関係は群馬県と長野県の県境を越えるが、意外と近い。

新軽井沢はあたり一面雪景色であった。遠くに浅間山が見える。









長野県に入ってから、浅間山がずっと見えているが、あまりの美しさに息をのむ。急な下り坂にも関わらず、車を停めて、見入ってしまった。



ノーマルタイヤなので、雪道の運転に気をつかいながら、軽井沢駅前に到着。



駅前に車を停め、車外に出たら草津よりもはるかに寒かった。駅前にも観光客の姿はない。人気がなく、寒々しい。やはり、軽井沢は夏に来るに限る。冬の軽井沢に来ても、気が滅入るだけである。











運転するとなぜか、お腹が減ってしまう。いつもより大食いになってしまう。草津でまいたけうどんを食べたが、草食系ではなく、がっつり肉食系を食べたい気分である。駅前にキッチンがあったので、覗いてみるが、観光地価格なのでどのメニューもとても高い。どうせ冬は観光客も来ないのだから、冬季料金で安くすれば、商売上手なのだがと思うのは貧乏人のひがみであろう。



仕方ないので、駅弁でも買うことにする。ちょうどいいタイミングで焚きたての釜飯が入荷したばかりであったので、ひとつ買う。




淋しい冬の軽井沢を離れ、高速道路で東京へ戻る。日曜日の午後なのに渋滞がない。珍しいことである。しかし、運転していると本当にお腹が減って仕方が無い。運動をしている訳でもないのに、なぜであろう。不思議である。体は大して動かしていないのに、実は頭をフル回転させているのかもしれない。脳の疲労は多くのエネルギーを必要とする。パーキングエリアでもつ汁、豚串、ステーキ串やら肉食系をがっつり食べるが、空腹が満たされることがない。食べても食べても満足する事の無い、餓鬼地獄にいるようである。お金ばかり減って、空腹は満たされず、何もいい事が無い。

練馬で高速道路を降りると、そこはもう、いつもの車が多い渋滞気味のせわしない都会の道である。不思議と空腹感も無くなった。

思ったより早く、18時に帰宅できた。渋滞が無ければ遠くに感じる草津も軽井沢も実は意外と近いかもしれない。

本日の走行距離350km。
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2009年12月6日大阪

2010年01月16日 | 日本
12月6日(日)

月曜日の午前中から終日、大阪での仕事がある。せっかくなので日曜日から前泊して、大阪のディープな場所を楽しみたい。

大阪の好きな場所はいくつかあるのだが、今回、訪れたのは、ディープな観光地、コリアンタウン鶴橋である。

鶴橋駅。駅を降り立った途端、感じてくるこのディープさ。大阪ならではである。



鶴橋の焼肉屋ストリート。





焼肉屋で遅めの昼食を食べた後は、駅周辺に広がるコリアンタウンを散策。











熱々のニラチヂミを食べる。



国内にいながら、韓国の市場の雰囲気を味わえる。

















こちらはファッション関係。









駅に近い食べ物系の店は多くの人々でごった返しているが、外れの方エリアは、既に閉店しており、ひっそりとしている。卸売りの店が多いようなので、早朝~午前にかけて営業しているのであろうか?








鶴橋を離れ、難波に向かう。ミナミの繁華街は今日も多くの人々で賑わっている。












道頓堀から心斎橋まで、大阪のメインストリート、御堂筋を北に向かって歩く。銀杏並木が綺麗である。






仕事で大阪に行く時は、日帰りも多いが、今回は翌日が早いので、前泊する。心斎橋のランドマーク的存在である定宿のホテル日航大阪。



日曜日で空室が多いのか、アップグレードしてもらえた。いつも12,000円前後の最も安いシングル部屋を予約しているが、アップグレードされた事なんて初めてである。このフロアー自体が、リニューアルされているのか、廊下からシックな感じである。一体、どんな部屋なんだろう。



部屋は普通のシングルと変りはない。違いを探すとしたら、内装が白と黒を基調にしたシックでモダンな感じになった程度である。ベットも寝心地のいいものに変えてあるかもしれない。一体、この部屋のどこがアップグレードなのであろうか。ひょっとしたら高層階のスイート、最低でもダブルの部屋にアップグレードしてくれるのかと、ぬか喜びしてしまった。でも、どうせ帰って寝るだけであるので、広い部屋は無駄なだけである。アップグレードと言われて、一瞬といえども、ドキドキしてしまった。大阪の人は人を喜ばせるのが上手である。





何度も、このホテルには宿泊したのだが、未だに東側の御堂筋側の部屋に当たったことがない、いつも、西側のごちゃごちゃした雑居ビルが建ち並ぶ側の部屋に当たる。




アップグレードされた?らしい部屋に荷物を置いたら、即出発。大阪らしいディープな商店街が続く町を見て歩く。大阪はアーケードのある商店街が多い。しかし、シャッターが下りている店がほとんどである。時間が遅いためか、普段からシャッター通りなのかは分からない。






難波に戻ると多くの人々で賑わっている。お好み焼きを食べて、夕食とした。まだ、何か食べられそうなので、串かつの店を探すが、意外と見つからない。宗右衛門町界隈をぶらぶらした後は、コンビニで夜食と明日の朝食を買ってホテルに戻る。






翌日は遅くまで仕事をして、関空から最終の羽田行きの飛行機に乗る。もう、この時間になると空港を利用する人もほとんどおらず、ガランとして淋しい。JAL194便は定刻通り22:10に離陸した。羽田には23:20に到着するダイヤである。大阪に出張する時、帰りはこの便を利用する事が多いが、回送便のようなもので、小さな飛行機にも関わらず、いつも乗客は少なめである。

冬の夜間飛行は空気が澄んでいるので、東京湾の夜景が絶景である。明るい部分(陸地)と暗い部分(海)がはっきりしているので、地形からどの辺を飛行しているのか容易に想像がつく。夜景が最も綺麗に見えるのが、一旦、千葉方面へ迂回してから、東京湾を横断して着陸するルートである。今日は、千葉方面から迂回せず、そのまま真っすぐに神奈川方面から着陸した。最近は、燃料節約の為か、着陸アプローチのコースが変更になったのか、このコースばかりである。







羽田へはたいてい早着する事が多いので、いつも、23:30の池袋行きの最終バスに間に合う。

ほとんど乗客のいないリムジンバスは深夜の首都高を都心方面に向かって走る。この時間は道も空いているので、スピードをあげて追い越し車線を走る。いつも池袋には30分もかからずに到着する。都心に向かうに従い、オフィス街のビル群が見えてくる。こんな深夜でも、ほとんどのオフィスビルの明りが煌々と点り、結構多くの数のビジネスマンが残業しているのにはいつもながら感心する。

この光景は戦後~高度成長~バブル崩壊~現在、そして未来に到るまで、延々と続く光景であり、別段、特筆すべきことでもないが、日本人がこのように真面目で責任感があり、勤労意欲の高い国民であり続ける限り、アジアの他の国々に追い越される事はないのではと思う。
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2009年11月21日~23日沖縄5

2010年01月14日 | 日本
11月23日(月)

今日の天気は曇り。観光的に最も重要な昨日が晴天だったので、天気が悪くても問題はない。今回の旅行は、本当は那覇市内のホテルを選択したかったのだが、間際の予約でもあり、ここしか空きがなかった。他は、名護市、恩納村のホテルであったので、糸満市という那覇市に近いことだけがせめてもの救いだった。せっかくの新築リゾートホテルであるが、ただ帰って寝るだけであった。ホテルに対して何だか申し訳ない気もするので、チェックアウト前にホテル周辺を歩いてみる。







糸満の人工ビーチは、沖縄としては特別綺麗というわけでもないが、浅瀬なので子供連れのファミリーも安心して遊ぶことができる。人気のないビーチでしばらくボーッとする。







マリンメニューの看板もどこか淋しげである。それでも、観光シーズンには大勢の人々で賑わうのであろう。



ここのビーチは空港に近く、着陸コースの真下にあるので、飛行機がひっきりなしに着陸する。着陸時の騒音はそれほどうるさくはないので、頭上を行き交う飛行機を眺めながら海水浴をするのも楽しいかもしれない。





このような中途半端な場所にこれほどの巨大なリゾートホテルを建設して事業計画通りに収益を上げることができるのだろうか。開業早々、激安ツアーに使用されるあたり、宿泊施設としては、すでに叩き売り状態なのであろう。しかしながら、3連休の間は地元の方々の結婚式にも使われていたようであるし、結婚式、同窓会や、コンベンション会場としての需要が案外多いのかもしれない。もし、リゾートホテルの運営がうまくいかなければ、本土からのリタイヤ組を狙った、格安のコンドミニアムか低価格会員制リゾートクラブに転用する事も可能であるし、それほど心配はいらないのかもしれない。




ホテルをチェックアウトし、ガソリンを入れる。沖縄はガソリンが安い。朝食は沖縄に来たからには本土に店舗のない、ハンバーガーショップA&Wに行きたい。何といっても、ここではルートビアが飲める。しかも、嬉しいことに飲み放題である。ルービアはアルコールを含まない炭酸飲料の一種である。本土では飲める店がほとんどないので、あまり知られていない存在であるが、アメリカやアジアではメジャーな飲み物である。ルートビアは、アメリカ合衆国において19世紀中頃に生まれたとされる。バニラや、桜などの樹皮、リコリス(甘草の一種)の根、サルサパリラ(ユリ科の植物)の根、ナツメグ、アニス、糖蜜などのブレンドにより作られる。使用原料やその配分は厳密に決まっておらず、銘柄によって様々なアレンジが施されている。アメリカ合衆国においてルートビアは、飲料市場3%のシェアを持っており、市民にとってなじみ深い飲み物であると言える。また、地ビールのように、地域独自の「地ルートビア」と呼ぶべきものも数多く販売されている。それほど一般的ではないが、自家製ルートビアも造られている。日本においては、アメリカによる長期にわたる占領の経験がある沖縄県や小笠原諸島ではよく飲まれるが、それ以外の地域では輸入食品店や沖縄地方の商品を扱う専門店、物産展などごくわずか販売されるのみである。各地の米軍基地内の自動販売機には必ずと言っていいほど入っているため、施設開放イベント等で入場出来る機会がある際に入手することもできる。

以前、バリの山中のカフェで間違ってビールだと思って注文して、飲んだのがきっかけで、その不思議な味の虜となってしまい、それ以来ルートビア中毒になってしまった。本土では残念な事に売られていない。ドクター・ペッパーに近い味と言う意見もあるが、全然比較にならない。とにかく深い味わいなのである。いろいろなハーブや森のエキスがぎっしりとつまった味である。

アジアや沖縄の人々に愛されてやまないルートビアであるが、どういうわけか、本土の日本人には大不評である。ルートビアを飲んだことのある人はみんな揃ってサロンパスを水に溶かしたような味、または、子供の頃、飲んだ風邪薬の味に似ているとか、ほとんどの人がその味を酷評する。最もひどい人にいたっては、アメリカの最終化学兵器では?と言う人までいた。しかし、本土の日本人にも少なからずファンはいる。旅行作家の下川裕治氏がその著作でルートビアの味の奥深さについてふれ、自身もルートビア中毒だと告白したエッセイを読んだ時はその説明の素晴らしさに著しく同意した。酷評やまないルートビアではあるが、この味の素晴らしさが分かる人だけが飲めばいい。そして、この味を愛する沖縄の人々には日本唯一のルートビア文化を永遠に守り続けてもらいたいと願っている。

興味のある方はどうぞ。楽天市場で購入できます。
A&Wルートビア(沖縄で人気ルートビアー通販・販売)Root Beer24缶

A&Wでルートビアを満足するまでおかわりした。やはり、缶で飲むよりもジョッキで飲むほうがうまい。これが真夏の暑い盛りなら、軽く3~5杯はいけてしまう。

O君の感想はやはり、マズイ、サロンパスの味がする。平均的な日本人の味覚の持ち主であった。


ルートビアをたらふく飲めたので、もう思い残すことはないのだが、沖縄に来たからには、世界遺産の首里城を見に行かなくてはならない。首里は那覇市の北側に位置するので糸満市~那覇市の北側へと続く道を走る。幹線道路から外れたコースなので、昔ながらの沖縄の渋い街並みが続く。




世界遺産首里城。















首里城は高台にあり、那覇の街並みを一望できる。





ここから先は入場料800円が必要になる。ここに来るのは二度目なので、いわばお付き合いである。城、神社仏閣、旧跡の類は一度来れば、もう十分である。



優雅な動きの沖縄舞踊の演舞をしている。



本殿は改修中であった。




















首里城見学の後は、O君が免税店で買い物をしたいというので、一緒に行く。

国内旅行にも関わらず、免税店で買い物ができるのは沖縄の特権である。免税店で買って安いのは酒とタバコと本くらいだと思う。他のものは量販店の方が安いことがほとんどである。しかし、大抵の日本人は免税店が安いと思い込んでいるようである。私は30分も見たら飽きてしまった。何も買いたいモノが無い。外に出て、ぶらぶら散歩をするが、ここは那覇のおもろまちという副都心のような場所で、ゆいレールの駅やバスターミナル、本土資本の量販店があるくらいで、全然、おもしろくない。













いつまで経っても、O君の買い物は終わらない。車内で待っているうちに眠ってしまった。O君が戻ってきて、起こされたのだが、2時間も経過していた。せっかく沖縄に来たのに、全く無駄な時間を過ごしてしまった。男性の買い物なので短時間と終わると思っていたが、甘かった。女性の買い物に匹敵する時間の長さであった。ここは別行動にすべきだった。失敗した・・・。


残された時間は中途半端である。もう少し時間があれば、海の上を延々と続く海中道路に行ってみたかったが、断念。

那覇から近い、コザの町に行って、米軍基地を見学した後は、レンタカーを返して、空港へ向かう。



早めに空港に行き、チェックインを済ませて、夕食を食べる。



O君が買った免税品を受け取る。本土でも買えるブランド品であった。結構安かったらしい。

ANA136便はオーバーブッキングしていた。30分後の便に振り替えをしてくれる乗客には1万円を謝礼として支払ってくれるとのことなので、喜び勇んでカウンターに向かうが、団体チケットでは、それすらできないらしい。30,800円の旅行代金に往復の飛行機代、2泊のホテル代、レンタカー代が全て含まれている。飛行機代は一体、いくらなのであろう。もし、これで1万円もらったら、旅行代金は実質20,800円になる。世の中そんなに甘くはないということか。

ANA136便は20:00に那覇空港を離陸。今まで、数えたことはないが、飛行機には少なくとも100回以上、航空会社は記憶にあるだけでも15社以上は乗ってきたはずである。しかし、ANAに乗るのは初めてだと思う。

定刻通り、羽田空港には22:10に到着。

3日間の走行距離は500kmであった。沖縄本島は思っている以上に結構狭い島である。

3日間の沖縄旅行も無事終了。値段と内容がこの程度であれば、有給を使わずに済む週末の3連休は沖縄もいいかなと思う。国内旅行もデフレに突入したのか、今回限りのスペシャルプライスなのか、どちらであろうか。いずれにせよ、安さに驚きの沖縄旅行であった。

おわり。
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2009年11月21日~23日沖縄4

2010年01月13日 | 日本
やんばるへ向かう前に、寄り道して、個人的に大好きな一押しスポットの古宇利島大橋を渡る。












古宇利島。さとうきび畑と綺麗なビーチだけがある、のんびりとした素朴な小さな島である。名物のうに丼の店やアジアンテイストなカフェが多い。観光化が進んでいるようだが、その一方でリゾート建設反対の巨大な看板が立っている。橋が出来ると、従来の人・物の流れが変り、大きな資本まで流入してしまう可能性すらある。もちろん流出するモノもあるが、素朴な小さな島に大きな資本はない。流出するのは人だけである。

















沖縄本島で最も綺麗かもしれない、極上のビーチを眺めながら、アジアンテイストなカフェでうに丼を食べたかったのだが、O君がうにが苦手だと言うので行かない。O君が食べられそうな、普通の食事を出す食堂を探すことにしよう。

ふたたび、国道58号線に戻って、北上する。大宜味村、国頭村まで来ると人家も稀である。ようやく無難そうなドライブインを見つけたので、ここで昼食とする。

国頭定食を頼んだら、ごく普通の焼き魚定食であった。



O君はチャンプルー定食。これなら食べられそうだ。



沖縄の食事はとにかくボリュームがある。天気は快晴、店内は冷房が必要なほど暑い。

朝からずっと運転してきた、O君が運転を交代してくれと言うが、沖縄最北端の辺戸岬に着いたら交代すると言う。当然、不満の声が上がるが、その後は快適な国道も終わり、狭い道の県道となり、悪路の連続で運転が大変だからと言って納得させる。

沖縄もこのあたりまで来ると、海も鮮やかな南海の風景から日本海を彷彿とさせる厳しい風景になる。



沖縄最北端の辺戸岬に到着。ここまで来る観光客はあまりいない。

同じ真っ赤なデミオが駐車してあったので、すかさず横チェックする。滅多にお目にかかれない、真っ赤なデミオのツーショット完成。



荒涼とした辺戸岬。




















ここで運転を交代する。国道58号線は、この先の奥という。沖縄最北端の集落で終了する。



奥共同店。共同店とは沖縄独自のシステムの店で、集落で経営し、地域住民の日常品や農業資材などを販売し、また地域の生産物を集荷し、都市地区で売る購買事業、施設の共同利用、金の貸し付けなどの事業がある。中には地域貨幣に相当する「切符」を発行したところもあり、地域経済を支えてきた。構成員は幼児を含む集落の全人口であり、集落の存立と運命を共にする存在である、という特徴がある。

共同店は道路事情が悪く、町と離れた僻地などで発達してきた。やんばるという名称で、その辺境ぶりが表現されている国頭郡に多い。地域経済を支えてきたばかりでなく、住民に集落の共同体の一員としての意識を高めてきた。共同店は1975年ごろには沖縄本島の北部に位置する国頭郡に86、中部の中頭郡に7、南部の島尻郡に10、宮古郡に3、八重山郡に10の合計116店があった。しかし、現在は個人に経営を譲ったり、廃業に追い込まれたりして大幅に減少している。

現在、各集落に残っている共同店は、経営的には危機的な状況にある。復帰後、道路が整備されたことや自家用車の普及で、町や大型店に出かける住民が増え、共同店の売上が減少している。その一方で、集落には年と共に老人世帯が増え、遠くに買い物に行けないお年寄りたちは日用品の購入を共同店に頼らざるを得ない、という現実がある。

奥の共同店は1905(明治38)年に沖縄で初めて設立された。お茶や林産物などを生産者から集め、都市地区で販売。その帰途、住民が必要とする日常雑貨や食料品、生産資材などを仕入れ、共同店で販売してきた。一般に共同店の利益は、経営などの必要経費を差し引き、その純利益を共同店の出資者に年に1回配当するケース。また集落の運営資金に組み入れたり、集落内の各種行事に寄付するなど様々のケースがある。その根底には全住民のために活用する、という考えがある。




店内はコンビニに似た品揃えである。



後は、悪路が連続する県道70号線を南下。地形の関係で内陸よりの山の上を走るので、アップダウンと急なコーナーの連続で綺麗な海も見えず、ただひたすら山道を走っている感覚である。運転していてあまり爽快とは言い難い道である。行き交う車も少ない。ここで一番目立つのはヤンバルクイナの飛び出しに注意の標識である。


とにかく広い国頭村をようやく抜けると、東村。国頭村と同じような人影のない、山村風景が続く。人口僅か1,700人のこの村だが、プロゴルファー宮里藍を輩出した村として全国的にも名が知れた。宮里一家がこの村に納める税金は、村の税収の多くを占めると言われている。

宜野座村に入るとようやく街並みが開けてきた。沖縄の北部は秘境と呼ぶにふさわしい環境であった。

ここから先は市街地が連続し、渋滞するので那覇市まで高速道路で一気に戻る。急に運転したいとO君が言い出すので、途中のパーキングエリアで交代する。





高速道路の運転は快適である。沖縄は圧倒的に軽自動車が多い。そして、のんびりと走っている。こんなにのんびりと走っていたら、本土では通用しない運転技術である。本土から来た観光客の運転するレンタカーは、明らかに運転の仕方が違う。上手い下手の話ではなく、きびきびと走るかだらだらと走るかの話である。沖縄の人たちは本土の人間が運転する、わナンバー(レンタカー)の運転を凶暴と思っているに違いない。時間に追われる生活を日々過ごしている本土の人々、ゆったりとした時間が流れるおおらかな日々を過ごしている沖縄の人々、本土との貧富の格差の問題が叫ばれて久しく、未だに解決するどころか、差はどんどん広がっていく。本土の人間と沖縄の人間、本当に豊かなのはどちらであろうか。ここ近年、本土からの沖縄への移住者の流れは拡大傾向である。


那覇市に到着。国際通りの近くに車を停め、居酒屋を探す。私はいかにも沖縄らしい店に入って、コテコテの沖縄料理を食べたいのだが、O君は沖縄料理はおいしくないので、普通の焼き鳥を食べたいという。沖縄料理はバリエーションこそ少ないものの、決しておいしくないというわけではないと思う。おいしいものだってたくさんある。しかし、本土の都会育ちの人間は食べられるバリエーションが少ないのか。それとも、個人の問題であろうか。

国際通りの裏手、久茂地川に沿った通りに居酒屋が続いている。結局、普通に無難な焼き鳥とか、刺身を食べた。O君はビールを頼む。私は運転するのでノンアルコールビールを頼んだのだが・・・。乾杯してぐいっと飲んでみると、普通のビールであった。店員の女の子に言ったら、笑いながら、間違っちゃったと言う・・・。これは笑って済まされる問題ではないぞ・・・。その後、グルクン(沖縄の県魚)のから揚げを頼んだら、鳥のから揚げが出てきた。本土の居酒屋でこれだけ間違いを続けられると、さすがに怒ってしまうが、ここは沖縄である。南国特有の、このいい加減さと、ゆる~い感じを心地よいと感じるかストレスと感じるか。私は沖縄だから(南国の人達だから)と苦笑いを浮かべながら、仕方ないなと思ってしまうタイプである。

普段、あまり酒を飲まないO君が珍しいことにビールを2杯、サワーを1杯も飲んだ。私の方は、ぐいっとビールをひと飲みしたアクシデントはあったが、この程度では飲酒運転にはならないであろう。O君はラーメンを食べたいのでラーメン屋を探してと言い残した後はひたすら熟睡している。糸満市へ向かい、南へ走り続けていると、突然、大粒の雨が降り出して来た。昼間はTシャツ1枚でも暑いくらいの晴天であったが、いかにも南国らしい天気の移り変わりである。糸満市に入りようやくラーメン屋が見つかった。沖縄なのに札幌ラーメンの店であった。沖縄で札幌ラーメンなんて食べたくない。沖縄そばを食べたい。しかし、O君はこれが食べたかったと食べる気マンマンである。沖縄で食べた札幌ラーメンはおそらく今まで食べたラーメンで一番おいしくなかった。でも、作った人に悪いので頑張って全部食べた。O君は一口だけ食べた後、箸をつけることはなかった。



ホテルに戻ると、プールの前で沖縄音楽のミニコンサートが開催されていた。大勢の宿泊客で賑わっている。しかし、もう最後の曲の演奏であった。

ここは安いリゾートホテルではあるが、それなりに工夫している。







難点を挙げればいくつもあるが、最大の難点はレストランが1ヵ所しかないことであろう。周辺に飲食店はない。最も近いところでも2km以上はある。




それにしても、今日はよく走った。沖縄の都会から田舎まで沖縄の魅力を凝縮して見ることができた1日だった。

2日目終了。
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2009年11月21日~23日沖縄3

2010年01月12日 | 日本
11月22日(日)

今日は天気も良さそうである。恩納村の綺麗なビーチリゾートエリアを巡り、綺麗な隠れビーチでのんびりして、その後は、やんばると言われる田舎の沖縄の北部を一周する予定である。



8時に出発。国道331号線を北上して那覇市内を通過。日曜日の朝なので、那覇市内の渋滞もなく、車はスムーズに進んでいく。







那覇市内から国道58号線を走る。沖縄は車社会であり、道路の整備状況がいい。車線の多い道をスムーズに走り、浦添市を抜け、左側に美しい海岸線、右側に普天間基地が見えてくると宜野湾市である。その後、北谷町、嘉手納町に入ると右側に大きな飛行場が見えてくる。沖縄最大の米軍基地である嘉手納基地である。ここを過ぎると風景ものどかになってくる。読谷村である。北に行けば行くほど、市→町→村と段々と田舎になってくるのが沖縄である。




リゾートホテルが立ち並ぶ、恩納村に入る。



サンマリーナホテル。以前、このホテルでのんびり過ごす旅行を申し込んだが、直前に予想外の用事が入ってキャンセルした苦い思い出がある。



美しい海岸線が続く道を走る。



恩納村最大の観光スポット。万座毛。駐車場は観光バスやレンタカーで大変込み合っている。





















万座ビーチホテル。恩納村のビーチリゾートホテルではやはりここが一番、海が綺麗で立地条件がいい。当然、値段も高い。









恩納村に巨大リゾートホテルが立ち並んでいるのは、沖縄本島のなかでも海が抜群に綺麗だからであろう。しかし、周囲には何も無いので、食事から何まで、ホテル内で済ませないといけないので、お金がある人向けである。ここから那覇市内まではあまりにも遠すぎる。

リゾートホテルの合間に人気のない静かなビーチがあったので、一休み。







3連休ということもあり、オフシーズンにも関わらず本土からの観光客が多い。道行く車はレンタカーばかりである。しかし、真っ赤な車に乗るのは本当に恥ずかしい。かわいい女の子が乗っていればきっと似合うのであろうが・・・。



綺麗な海岸線が続く道を北へ向けて走り続ける。



やがて、久しぶり市街地が見えてくると、沖縄北部の中心都市名護市である。







名護市を抜けると、いよいよ、やんばる、沖縄北部の田舎である。
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2009年11月21日~23日沖縄2

2010年01月11日 | 日本
ホテルの周辺は港と倉庫が立ち並ぶ工業地帯であり、飲食店等は一切無い。ホテルで一休みした後、タクシーで那覇まで向かう。位置関係でいえば、南から糸満市、豊見城市、那覇市の順に並んでおり、決して近い距離ではないのだが、沖縄のタクシー代は安い。12,3km先にある那覇市の中心、国際通りまでたったの2,700円で行けた。

観光客で溢れる国際通り。沖縄に行ってここに行かない人はいないのではと思うくらいのメジャーな観光スポットである。










市場本通り。








「那覇で最もおもしろい所はどこか?」と聞かれたら、「牧志市場!」と答えるだろう。ここみたいに観光客志向ではなく、地元志向の市場も他にあるのだが、エキサイティングなアジアの混沌を体感できるとてもおもしろい場所である。ここに来ると沖縄は日本でありながら、ここまで来ると、もう東南アジアの一角なんだと、訳もなく嬉しくなってしまう。日本の領土の中にも大好きな東南アジアがあるのだ。





















市場好きの自分は何時間見ていても飽きることがないのだが、都会育ちのO君は臭い、グロテスクで気持ち悪いから外で待っていると行って、早々に退散してしまった。あまり待たせるのも悪いので、ほどほどに見て切り上げる。

国際通りに戻る途中、向こうから、沖縄に似つかわしくない、青山あたりを歩いていそうなシックでおしゃれな服装の4人組みの女性達が歩いてきた。特に真ん中の女性が目立つ。顔が分かるくらい近づいてようやく気がついた。東ちづるさんであった。至近距離で正対すると、テレビで見るより、もっとしわの目立つおばさんである。後で調べたら、御年49歳とのことである。お顔、スタイル共々、とても並の49歳ではないと思った。10歳は若く見える。さすが、芸能人は持っているモノが違う。また、日々の努力も相当なものであろう。思わぬところで、以外な出会いと発見があった。



沖縄らしく自己主張の強い看板の食堂。




国際通りはお土産屋、レストラン、居酒屋、バー等が途切れることなく立ち並んでいる。特にステーキハウスは数多い。中でもサムズは有名である。サムズの南国ムード溢れるおしゃれな店内で、アクロバティックな手捌きで調理するシェフのパフォーマンスのおいしいステーキを食べると南国沖縄に来たんだな~と旅情ムードも盛り上がること間違いない。


しかし、沖縄の人はサムズには滅多なことがない限り行かない。お祝いや肉親が本土からの出稼ぎから帰って来た時くらいであると聞いた。


沖縄の人々が普段、食べに行くステーキハウスと言えば、那覇港近くのポートホテル裏にあるジャッキーステーキハウスである。



私はテンダーローインステーキM(1,700円)を食べる。



O君はテンダーローインステーキL(1,900円)を食べる。



ライス、スープ、サラダ付きでこの値段は安い。さらに不景気をぶっとばせキャンペーンで通常より200円引きであった。ここでもデフレ現象が進行している。

店内の雰囲気やパフォーマンスはサムズに負けるが、肝心のステーキの味は同程度に美味しい。それでいて値段はサムズの半額以下である。観光客が来ることはあまりない。客の大半は地元の人と米軍関係者である。

「最低の金で最高の旅を」今回は自分の信念通りの沖縄旅行が実現できている。


結構な量のステーキをぺろりと平らげた。まだ、他にも何か食べられそうな気がするので、近くの沖縄料理屋で沖縄らしい料理を食べたい。幸いな事に、すぐ近くに山海といういかにも沖縄らしい居酒屋があった。

メニュー。ヤギ刺身、ヤギ汁、イカ墨汁、魚汁、ゴーヤチャンプルーなど、沖縄ならではの料理がならんでいる。



私はイカ墨汁とヤギ刺身を頼む。





O君はどれも食べられそうにないと、食べる前から降参気味であるが、魚汁なら、なんとか食べられそうとのことである。



イカ墨汁は色こそ真っ黒でグロテスクであるが、以外にもあっさりしており、出汁の効いた味噌汁に近い味であった。おいしくいただいた。

ヤギ刺身は羊の肉に近い味をしている。ジンギスカンが大丈夫な人なら食べられるだろう。私は難無く食べることができた。O君は一切れだけ食べて、あとは全部食べてと言い残して、魚汁に専念した。この味なら、ヤギ汁にしたらもっとおいしく食べられると思う。以前、ベトナムのニャチャンというビーチリゾートの町で、大勢の人々で賑わうヤギ鍋の店を見たことがある。その時はあれだけ大勢の人々で賑わうのだからきっとおいしい味なのだろう。いつか食べてみたいと思った。今日、ようやく念願が叶って食べることができた。その土地でしか食べることができないものを何でも食べようとする好奇心を持つ人は幸せである、もし、それがとてつもなくおいしい食べ物であれば、また、それを食べに行こうと思い旅行のきっかけになるかもしれない。もし、それがとてつもないゲテモノでまずい食べ物であっても、普段のありふれた食事と違って、一生記憶に残るであろう。少なくとも話のネタくらいにはなる。普段のありふれた食事は全く記憶に残ることも話のネタになることもない。

那覇港の近くはバスターミナルである。那覇市内を走るゆいレールを除いて、鉄道のない沖縄ではバスが公共交通機関の基幹を担っている。沖縄各地へと向かうバスが次々に発着していく。タクシーで帰ろうかと思ったが、糸満市まで行くバスがあったので、バスで糸満市まで行く。バスは那覇、豊見城市内をあちこち経由するので、時間がかかってしまった。さらに糸満市内に入ってからは雨が降り出してきた。ホテルに一番近いらしいバス亭で降りて、すぐにタクシーがつかまったのでラッキーである。しかし、バス亭のある国道からホテルまでが遠い。タクシー代が1,200円もかかってしまった。行きは何であんなに安くいけたのであろう。謎である。

1日目終了。

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2009年11月21日~23日沖縄1

2010年01月10日 | 日本
11月21日(土)

3連休を利用して、沖縄2泊3日、フライト、朝発、夜戻り、サザンビーチリゾートホテル、レンタカー付きという内容充実、しかし、価格はたったの30,800円の激安旅行に行くことになった。

沖縄は2005年の11月に弟の結婚式の際、行った以来なので、ちょうど4年ぶりになる。その時の旅費は4日間で10万円以上もした。ご祝儀と合わせて15万円以上の出費は痛かった。本来はめでたいことなのだが、行きたくも無い沖縄なんて所に、こんな大金を投じるのは自分の信念に反する。父親にせめて、旅費くらいは出してくれないかと懇願したが、すげもなく、断られた。一方、当時、まだ学生だった下の弟の旅費は父親が出した。これにはさすがに頭に来た。しかし、なぜか、怒りの矛先が父親ではなく、沖縄で結婚式をあげる弟に向かってしまい、さらに、弟の嫁となる人がJTBの社員だと言う事を知り、嫁に儲けさせるためか?と毒づきたくもなったが、結婚式の主役は何と言っても花嫁である。女性にとって、この日ばかりは世界中で一番強気になれる日である。彼女の好きなようにさせてやるのが、禍根を残さず丸く収まるし、今後の弟夫妻との関係もあるので、何も言わず、表向きは喜んで参加した。もし仮に毒づいたところで、弟に先を越された兄のひがみとしか人は思わないであろう。

普段、安い旅行ばかりしていると、高い旅行代金を払うことに罪悪感を感じてしまうようになってしまう。しかし、私の信念「最低の金で最高の旅を」は揺らぐことが無い。

沖縄は旅行代金が高い。近くの外国に行くほうが安くつく。しかし、30,300円という価格でこの内容なら、行ってもいいかなという気になる。自分にとって沖縄とは、その程度の魅力の場所に過ぎない。

出発の1週間前になり、行程表が届いた。往路羽田発6:25(JAL901便)、復路那覇発20:00(ANA136便)。往路がJALで復路がANAという、何とも不思議なパッケージツアーであるが、現地での滞在時間が長いのはいいとして、出発日は羽田に5:40に集合して手続きをしなければいけないところが、何とも辛い。

朝、始発の山手線で浜松町に向かい、モノレールに乗り換え。羽田には5時には着いた。早く着きすぎた。それから、5:30にO君と合流。JAL901便は定刻通り、6:20に離陸。仕事で大阪に行く際に同じ時間帯の飛行機に乗ることがあるが、いつもビジネスマンで満席状態である。今日の那覇行きは旅行客で満席状態である。こんな早朝に飛行機を飛ばしても運賃が安ければ、利用客はいるのである。恐るべきデフレ社会である。

那覇には9:15に到着。空港からレンタカー会社に送迎してもらい、レンタカーを借りる。禁煙車をお願いしたら、真っ赤なマツダデミオになってしまった。30を越えた男ふたりで真っ赤な車に乗るのは相当恥ずかしい。O君とふたりで「これは最初からテンション下がるね・・・。」とお互いを慰めあう。さらに悪いことに天気もイマイチである。


気を取り直して、沖縄観光開始。今日は、沖縄戦の戦争の傷跡深い、南部を回ろうと思う。


まずは旧海軍司令部壕に行く。

沖縄戦は第二次世界大戦における、日本国内での最大の地上戦である。民間人が多く参加、ないし巻き込まれたのもこの戦闘の特徴である。主戦場は沖縄本島およびその周辺の島々である。

日本軍は水際迎撃を避けて、持久戦闘を基本方針として戦った。特に首里(現那覇市の一部)北方で激戦となった。沖縄諸島周辺の海上でも、神風特攻隊を中心とした日本軍航空部隊などと、連合軍艦隊の間で戦闘が行われた。上陸後2ヶ月経った1945年5月末に、連合軍が首里を占領した。日本軍は南部に後退したが、6月下旬までに組織的戦力を失った。掃討戦は終戦まで続いた。

沖縄県の1976年3月の発表によると、日本側の死者・行方不明者は18万8136人で、沖縄県出身者が12万2228人、そのうち9万4000人が民間人である。日本側の負傷者数は不明。アメリカ軍側の死者・行方不明者は1万2520人で、負傷者7万2千人であった。

圧倒的不利な状況の日本軍であったが、アメリカ軍に対して、徹底したゲリラ作戦で挑み、アメリカ軍の予想を大幅に上回る3ヶ月の長期戦へと持ち込む結果となったが、圧倒的な戦力を誇るアメリカ軍に徐々に追い込まれ、最後は陸軍司令官牛島満中将、海軍司令官大田実少将共々、自決。一方、アメリカ軍アメリカ軍司令官バックナー中将も喜屋武半島の最前線視察中に砲撃され死亡。日米双方の司令官の死亡、また兵士のみならず、多数の住民の死、等々甚大な被害をもたらした。

今では、那覇の市街地を見下ろす静かな丘に平和記念碑が立つ。







壕の内部。













海軍司令官太田少将が自決する前に送った、最後の電信、「沖縄県民はこのように戦い抜いた。県民に対し、後世、特別のご配慮をしていただくことを願う。」の有名な一文は現代の沖縄でも語り継がれている。日本軍への反感が強い沖縄でも、多くの人に愛される数少ない軍人の一人である。

日本では戦争被害となると、毎年夏、決まったように、広島、長崎の原爆被害ばかりがクローズアップされがちだが、当時の沖縄の人口50万人のおよそ24%にあたる、12万人が亡くなった沖縄戦の悲劇を忘れてはならない。


その後は国道331号線を南下して、糸満市に入ったところで、沖縄そばを食べる。そういえば、朝から何も食べていない。



O君はラフテー(豚の角煮)そばを食べる。



私はソーキ(豚のあばら肉)そばを食べる。



沖縄そばはあっさりして食べやすい。空腹だったせいもあって、とても美味しかった。

ここまでの旅程を消化してもまだ12時である。羽田6:20発の効果たるや恐るべし・・・。


続いて、ひめゆりの塔に行く。

1945年3月24日、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒及び職員総計240名(教師18名・生徒222名)は、南風原にある沖縄陸軍病院に看護要員として従軍した。しかしその後激しい戦闘が続き、日本軍の防衛戦が前田高地附近に撤退した4月24日頃には山容が変わるほどの激しい砲撃にさらされるようになったため、5月25日には陸軍病院そのものが回復の見込みのない負傷兵・学徒を置き去りにして南部の伊原・山城周辺に撤退し、分散して地下壕に潜んだ。この際患者を収容する壕が確保できなかったために負傷兵は原隊への復帰が命じられ、病院としての機能は失われていたという。

戦局が絶望的になると、6月18日、学徒隊は解散を命じられる。しかし、既に沖縄のほぼ全域をアメリカ軍が支配しており、また周辺も既に激しい砲撃にさらされていたため、地下壕から出ることはほとんど死を意味した。

最も被害を受けたのは第三外科壕の学徒隊である。第三外科壕は19日朝、黄燐手榴弾などの攻撃を受け、壕にいた96名(うち教師5名・生徒46名)のうち、87名が死亡した。さらに壕の生存者9名のうち教師1名と生徒3名は壕脱出後に死亡した。従って、第三外科壕にいたひめゆり学徒隊のうち沖縄戦終結まで生き残ったのはわずかに生徒5名のみである。

第一外科壕、第二外科壕は、アメリカ軍の攻撃を事前に察知し、19日未明までに地下壕から脱出した(そのうちの一部は第三へ避難)。しかしこれらの学徒隊もその後の激しい戦闘で多くが死亡した。職員を含むひめゆり学徒隊240名中、死亡者は生徒123名、職員13名であるが、このうち解散命令以後に死亡したのは117名で全体の86%にものぼり、さらに判明しているだけでも全体の35%にあたる47名が第三外科壕に攻撃があった6月19日に亡くなっている。







当時、ひめゆり学徒隊にいた、おばあさんの説明を聞くことができた。貴重なお話を伺うことが出来た。実際に戦争を体験した人々の話を聞ける機会はその世代の高齢化も相まって、残された時間はあまり無い。私の祖父は二人とも、戦時中は兵隊として、それぞれ、タイ・ビルマ、満州へと出征していたとの事だが、戦争の話を聞いた事は一度も無かった。子供たち(父、母)にもほとんど語ることは無かったらしい。

個人的にとても疑問に思ったのが、この悲劇の場所でお土産屋を営んでいる人々がとても多い事である。確かに、ここは毎日、多くの観光客が来るので、お土産屋としては絶好のロケーションであろう。しかし、この悲劇の場所でTシャツとか、ワッペンとか、お菓子とか、戦争に全く関係の無いものを売って、一体何の意味があるのだろう。商売人という人々は、そこまでして、お金を儲けたいのであろうか?


続いては沖縄戦跡国定公園に行く。

沖縄戦跡国定公園の広さは81.3km²(陸域31.27km²、海域50.03km²)。戦跡としては唯一の国定公園である。

1965年(昭和40年)、琉球政府立公園に指定され、1972年(昭和47年)の本土復帰に伴い、国定公園に指定された。

公園内の戦跡は沖縄戦最大の激戦地であり、終焉地である。1945年(昭和20年)5月、アメリカ軍の攻撃により、首里(那覇市)にあった日本軍司令部は、この沖縄本島南端部(島尻)に撤退した。狭い島尻には、南下侵攻する米軍から避難する一般住民と撤退・抗戦する日本軍の軍人が混在し、パニック状態に陥った。日本軍による組織的抵抗は、同年6月23日に司令官・牛島満中将が摩文仁の司令部壕で自決したことにより終了したが、アメリカ軍は翌7月初めまで掃討戦を続けた。

沖縄県は日本軍の組織的抵抗が終了した6月23日を「慰霊の日」としている。例年この日には、摩文仁の平和祈念公園で、県主催の沖縄全戦没者追悼式が行われる。





戦争の悲劇が想像できない、綺麗で広大なのどかな公園である。ここでいよいよ雲行きが怪しくなり、とうとう雨が降ってきた。


ここは沖縄の最南端の近くである。今度は国道331号線を北上することになる。国道は海岸線を走る。地形の関係で海からだいぶ上のあたりを走るが、海が綺麗である。途中の適当なビーチで休憩することにする。


新原ビーチ。ペンションが1軒だけあるマイナーなビーチである。





グラスボートが発着するのだが、この天気では透明度もイマイチであろう。なので乗らない。それでも、5,6人の乗客がいた。



観光シーズンにはそれなりに賑わうのであろうが、こんな中途半端な時期のビーチに人はいない。しかし、猫はいる。





新原ビーチで唯一の宿泊施設。ペンションみーばる。このビーチは観光シーズンでもあまり人が来ないのかもしれない。地元ローカル、沖縄の人が中心の観光客のあまり来ない隠れビーチとしてのんびりできそうである。やはり、沖縄は巨大リゾートホテルが立ちならぶ、東海岸が観光の中心である。





あまりぱっとしないビーチでのんびりした後は、国道331号線を北上して、南城市をぐるりと回った後は、沖縄南部を横断して糸満市にあるサザンビーチリゾートホテルにチェックインする。



今年の5月にオープンしたばかりのホテルである。オープンしてまだ半年である。



2階にあるフロント。開放感があっていい。リゾートホテルの場合、ホテルのフロント特有の重々しさが無いほうがいい。



1階は特に何もない。



吹き抜けになっているロビー。





廊下。



部屋。激安ツアーなので文句は言えないが、ビジネスホテル並みの狭さである。リゾートホテルだと思って期待して来たらがっくりすると思う。どうせ帰って寝るだけなので、これで何の支障もない。





部屋からの眺め。最も安いカテゴリーの部屋なので、当然、オーシャンビューではない。目の前は港である。





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2009年10月3日、4日仙台4

2010年01月08日 | 日本
牛タンで腹ごしらえをした後は、いよいよお待ちかね、楽天イーグルスVS西武ライオンズ野球観戦である。

仙石線で宮城野原駅下車、徒歩5分でKスタに到着。





この球場に来るのは、15,6年ぶりくらいであろうか?当時としては珍しいオールスターゲームの地方主催試合で、地元仙台出身、ハマの大魔神佐々木が清原に全球ストレート勝負でホームランを打たれたのが印象に残っている。伝家の宝刀フォークを投じたならば、いとも簡単に三振を取れたであろう。そこをあえて直球勝負にこだわったところに、後のメジャーリーガー佐々木の男気を見た。その佐々木の引退試合の最後の打者が清原だった。不世出の大投手佐々木、現役最後の投球で清原を三振に切って捨てる。両者とも最後まで涙が止まらなかった。佐々木、清原、最高の同級生対決であった。


オンボロだった県営宮城球場時代の面影はほとんどない。コンパクトで選手との距離が近い。ものすごく臨場感溢れる球場である。先月、行ったばかりのデトロイトのコメリカパークはあまりにも巨大すぎて、野球を観ている感じがしなかった。












プロの選手のシートノックはさすがの一言につきる。流れるようなプレーである。高校野球を観戦すると、試合前のシートノックでその高校の守備の力量が分かってしまう。並の公立高校だとポロポロ落っことしてしまうが、強豪私学は流れるようなプレーをする。試合前からうなってしまう。ノックをする監督もまた名手である。でも、今日はプロ野球、お金をもらってプレーする選手たちである。上手くて当然である。













楽天ファンで埋まるスタンド。昨日、球団史上初のCS進出を決め盛り上がりは最高潮に達している。





球場の外ではアンタッチャブルがイベントをしている。楽天ファンとは知らなかった。それともただの営業か。





隣は陸上競技場。それにしてもいい天気である。絶好のデーゲーム日和である。


試合開始。楽天の先発はラズナー、西武はエース涌井。昨年までヤンキースの先発投手だった(5勝10敗、防御率5.40と微妙な成績ではあるが)現役バリバリのメジャーリーガーのラズナーには失礼だが、岩隈か田中マー君が投げる姿を見たかった。それならば、涌井との夢のWBC代表対決なのに・・・。







1回表、立ち上がり、早くもラズナーがつかまった。コントロールが定まらず、四球を出して、ボールを置きに行ったところを、おかわり君中村に特大のホームランを被弾。日本の野球をなめると痛い目を見る悪い見本だ。







おかわり君、悠然とホームを一周。ホームランなら足が遅くても関係ない。

それでも、超満員の楽天ファンは落ち込むことなく、元気に応援。











Nさんは埼玉出身なのに、どういう訳か、地元、西武ファンではない。楽天ファンの応援のあまりの熱さに感動したのか、何を思ったか、俺も楽天ファンになろうかなと言い始めた。

楽天の攻撃は拙攻続き、繰り出す投手陣は次々に打ち込まれる。今日の楽天はいいところがない。







Kスタは珍しいことに(この球場だけだと思う)、ホームチームの応戦席が三塁側である。立地の関係で西日が眩しい。

やがて、日も暮れ、照明に明りが点り始めた。北国である東北は日が落ちるのが早い。高く上がったフライの捕球には注意が必要である。外野手にとって魔の時間帯である。









試合は6-2で西武の勝利。涌井9回160球の力投で16勝目。WBC戦士の意地を見せた。今年、涌井はパリーグ最多勝で沢村賞を受賞した。


帰りはKスタから、仙台駅まで歩いて帰る。歩いても15分程度である。



夕食は仙台のもうひとつの名物牡蠣を食べたい。結局、ふたりとも無難なカキフライ定食を食べる。やはり牡蠣はフライにするのが一番おいしい食べ方だと思う。

20時の新幹線を予約してあったが、早めの夕食を食べてしまうと、もう東京に帰りたくなった。19時の新幹線で帰る。自由席でもガラガラであった。高速道路1000円の影響か、不況の影響かJRの乗客減が著しい。


久々の仙台だったが、旧友との再会、歴史探索、地元グルメ、野球観戦と盛りだくさんの充実した2日間だった。

仙台は最も好きな街のひとつである。今度、来るときはどんな楽しみが待っているのであろうか。何年先になるか分からないが、きっとまた来る機会もあるだろう。

その頃にはN君の子供も大きくなっている。また、楽天イーグルスも強豪球団へと変貌を遂げているかもしれない。今年の大躍進がフロックでなかったと後年、語り継がれることになるのであろうか。おそらく大丈夫だと思う。楽天イーグルスには日本一熱い仙台の野球ファンがついている。この熱いファンがいる限り、楽天イーグルスは強豪球団の道を歩き続けるに違いない。球団創設5年でここまで強くなれた。5年後はさらなる進化を遂げ、もっと強くなっているはずである。

※横浜ベイスターズは球団も選手もファンも横浜市も楽天イーグルスのその全てを学んでいかなくてはならないと思う。慢性化した弱体化、選手の覇気の無さ、ファン離れ、横浜市の無関心、その全てが悪循環として続いている。その悪循環を断ち切る解決策のヒントはここ仙台にある。(自分なりの答えは見つけたが、ここでは言わないでおこう。もし、今後、新潟か長野に行く機会があれば、そこで話そうと思っている。)


おわり
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2009年10月3日、4日仙台3

2010年01月08日 | 日本
10月4日(日)

昨夜は遅くまで飲んだが、朝8時に目が覚めた。Nさんを誘って朝食を食べに行くが、飲みすぎで気持ちが悪いらしい。そういえば、昨夜、行った1件目の飲み屋で店にあった宮城の銘酒一ノ蔵をG君とNさんの二人で全部飲んでしまった。少なくとも、二人で一升瓶3本は飲んでいたはずである。

仕方が無いので、一人で朝食を食べて、しばらく散歩をする。





緑のトンネル青葉通り。日本中の様々な町を見てきたが、この町の緑の美しさ、豊かさは本当に素晴らしい。やはり、緑はいいものである。都会でありながら、とても心やすらぐ。この町で働く人々は、都会特有のストレスも少ないかもしれない。自然と都会のハイブリッドシティ、杜の都仙台。







10時になって、ようやくNさんも復活してきた。昨夜の飲みすぎの影響で手元が狂ったのか、安ホテルの粗悪な剃刀のせいか、原因は不明だが、剃刀で顔中血だらけになっている。コンビニで絆創膏を買って緊急治療をするが、顔中絆創膏だらけになってしまい、まるで喧嘩で怪我をした後のようになってしまった。

るーぷる仙台という仙台市内の観光名所を1周するバスに乗り、仙台市内観光を開始。

まずは、瑞鳳殿から観光スタート。



瑞鳳殿(ずいほうでん)は、仙台藩藩祖伊達政宗を祀る霊廟である。何となく雰囲気が日光東照宮に似ている。

また、二代藩主忠宗の霊廟感仙殿、三代藩主綱宗の霊廟善応殿もここにある。









仙台市博物館は改装の為、休館中であった。ダースベイダーのモデルとなった伊達政宗の甲冑を見たかったのだが、残念。

バスは坂を登り続けて、仙台城、通称青葉城に到着。







青葉城は戦災で消失してしまい、今ではわずかに石垣が当時の名残を伝えている。


青葉城からの眺め。眼下には高層ビルが建ち並ぶ東北一の大都会、100万都市仙台の街並みが一望できる。












仙台藩62万石の藩祖伊達政宗が自ら作り上げたこの町を見守っている。仙台という日本にここしかない、一風変わった独特の地名は伊達政宗が当時、何もない荒野だったこの場所に城下町を建設するにあたり、千代続く(永遠に続く)町にしたいという思いから千代、より堂々たる漢字を考え当てはめた結果、仙台と相成った。







生まれるのが、あと10年早ければ天下を取ったであろうと言われる稀代の英雄、伊達政宗は18歳で家督を相続後、わずか5年で南東北を統一する。しかし、時は既に豊臣秀吉の全国統一の最終段階、関東の北条氏討伐の時代であった。政宗は最後まで北条氏と組んで秀吉と戦うか迷ったが、結局は秀吉に従うことに決める。秀吉に会いに行く(降伏する)際、金色の十字架を背負い、白装束を身に纏い、髷をおろして、会いに行く。死装束を身に纏い、どうぞ自由に殺して下さいと秀吉への強烈なメッセージである。これでは秀吉も政宗を殺せない。親子ほど年の離れた老獪な天下人、秀吉相手にとても23歳の若者ができる芸当ではない。

南東北を統一した時点での政宗の領土は200万石を越えていたのだが、天下取りの野望を最後まで諦めなかった政宗は最後まで秀吉、家康に警戒されていた。結局は徳川幕府が開府した時の政宗の領土は仙台藩62万石に落ち着く。62万石は加賀・前田氏、薩摩・島津氏に次ぐ全国第3位であるが、それは表高であり、仙台藩の実高は優に100万石を越えていたといわれる。

2009年の大河ドラマ「天地人」では伊達政宗役を松田龍平が演じたが、やはり伊達政宗役といえば、NHK大河ドラマとして史上最高の平均視聴率39.7%を獲得した1987年の大河ドラマ「独眼竜政宗」の渡辺謙であろう。当時、無名だった渡辺謙は伊達政宗役から一気にスターダムにのし上がり、今や、名実共に日本一のハリウッドスターである。

青葉城は山城にも関わらず、敷地が広い。広い敷地のなかには神社もある。



伊達政宗と青葉城に別れを告げ、仙台市街地へ戻る。




市内中心部にある江陽グランドホテル。内部は中世ヨーロッパの彫刻、甲冑、噴水らやで何ともいえない摩訶不思議な空間となっている。オーナーの趣味なのであろうか。この怪ホテルは隠れた仙台の観光名所になると思うのだが。








昼食は仙台名物、太助の牛タン定食を食べる。



行列に並ぶこと約30分、ようやく牛タンを食べることができた。太助は牛タンの元祖で有名店であるのだが、多店舗展開、全国展開をしていない。ビジネスの拡大よりも、自らの味を守り続けている。はるばる仙台まで来ないと食べられない味なのである。



普通の牛タンは薄いスライス状に切ってあるが、ここの牛タンは分厚く切ってあり、牛タンステーキといった方がいい。牛タンをこれだけの厚さに切ると、固くてとても噛み切れなくなるのだが、ほどよい弾力の噛み応えで、旨みが凝縮されている。かなりの時間をかけて熟成させているのであろう。客の目の前で焼くという、分かりやすいパフォーマンス以上に見えない所で、じっくり時間をかけて、職人の技で仕込みをしている。多店舗展開をしないこだわりの理由が少しは分かったような気がした。この味を守るにはひとつの店舗で精一杯なのであろう。最近は仙台市内に牛タンの店が溢れかえっているが、この店の味とこだわりに勝る店はない。ビジネスを取るか、味とこだわりを取るか、飲食店の経営で双方を両立させるのは難しい。私はどちらも賛成も否定もしない。その時の気分、懐具合で客自身が利用する店を選択するだけの事である。どちらのタイプの店もそれぞれに利用価値・存在価値がある。我々、客は選択する事ができるのである。

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2009年10月3日、4日仙台2

2009年12月23日 | 日本
Nさんはお疲れのようで、しばらく部屋で休みたいというので、ひとりであたりを散歩してみることにする。




青葉通りは地下鉄東西線の建設中であった。杜の都仙台を象徴する壮観なけやき並木が無残にも伐採されている。仙台クラスの規模の都市で南北線、東西線と2本の地下鉄の路線が本当に必要なのであろうか?仙台市民の方々には失礼な言い方かもしれないが、これは明らかに無駄な公共工事である。同規模の都市である広島市や千葉市やさいたま市に地下鉄は無いし、1,5倍の規模の都市である京都市、神戸市でさえ、地下鉄の路線は2本である。さらに言うと、日本で2番目の人口を誇る横浜市でさえ、地下鉄の路線は2本しかない。人口100万人の仙台市に2本の地下鉄路線は明らかに分不相応である。それとも、仙台市は将来的に人口が150~200万人に増加する見込みなので、その為の先行投資なのであろうか?日本は既に急激な勢いで人口が減り続けているのだが・・・。いずれにせよ、完成後は莫大な借金が残り、そのつけは長い間に渡って、住民が払い続けることになる。




青葉通りから西公園通りを望む。






こちらは広瀬通り。






西公園通りを西公園に向かって歩いていく。






仙台市民憩いの場、西公園。






公園の西側は断崖になっており、眼下の流れは清流、広瀬川である。都会の真ん中にこのような自然溢れる清流が流れているのはとても珍しい。




西公園が終わる場所には老朽化著しい仙台市民会館がある。






青葉通りと並び、杜の都仙台を象徴する通りが定禅寺通りである。






定禅寺通りはケヤキの街路樹が、通りの両脇の歩道にそれぞれ1列ずつ、中央分離帯(定禅寺通緑地)に2列の計4列に並んでおり、枝葉が通りの上部の全てを覆っている。道路標識や信号機が葉に隠れないようケヤキは下枝が刈られており、葉の生い茂る高さは周辺ビルの3-4階辺り(中規模ビル)または4-5階辺り(小規模ビル)となっている。このため、冬季以外は「天井の高い緑のアーケード」のような状態となり、少々の雨では歩いていても濡れることはない。また、冬季のSENDAI光のページェントの際には「光のトンネル」のような状態となる。その景観の美しさから、日本の道100選に選ばれている。










この新しい建物はせんだいメディアテーク。仙台市民図書館・ギャラリー・イベントスペース・ミニシアターなどからなり、仙台の文化受容の中心のみならず、アート関連の中心となっている。

また、建築家・伊東豊雄の代表作品であり、特に構造の特殊性が注目されている。海外からの観光客が多いのも特徴である。伊東豊雄の代表作となっているこの建築は、6枚の床(プレート)と、揺れる海草のような形状の13本のチューブと呼ばれる鉄骨独立シャフトのみの単純な構造によって、地下2階、地上7階の空間のすべてが作られている。これは、「柱」によって建てられる旧来の日本家屋と建築思想が同じであるが、梁はなく、造船技術を用いて気仙沼の職人が床や天井を造った。また、全面がガラス張りであり、支柱のスケルトン構造が外から直接見ることができ、一方、中からもケヤキ並木の定禅寺通りを見渡せ、中と外との一体感がある。このような構造とデザインの優秀さのため、建築関係者をはじめとして世界各国からカメラ片手に訪れる人が多い。






定禅寺通りをさらに東へと歩いていく。












定禅寺通りの景観を楽しんで散歩した後はホテルへ戻る。Nさんもひと眠りして、少しは元気を回復したであろうか。










ホテルの部屋で十分に休憩してNさんも元気になったようである。私は旅行に出ると、部屋にいるのが勿体無くて、寝食の間も惜しんでひたすら街歩きをして、夜遅く部屋に帰って寝るだけである。

Nさんと一緒に夕暮れどきの仙台を歩いていく。






仙台では日本各地で姿を消している横丁がまだまだ元気である。ここは文化横丁。






19時になり、G君と合流して久しぶりに3人で酒を飲んだ。こうして3人で酒を飲むのも実に5年ぶりである。G君は昨年、結婚して、今は奥さんのお腹に赤ちゃんがいる。来年早々にはパパになる予定である。

今日は、地元楽天イーグルスが見事、CS出場を決めた。球団職員のG君も心から喜んでいる。近鉄とオリックスから要らないと判断された落ちこぼれ選手達で結成された球団創設の年は38勝97敗とおよそプロの集団とは思えない驚異的な惨敗を決してしまい、将来が不安視された楽天イーグルスであるが、わずか5年で強豪ひしめくパ・リーグで2位に躍進したのは見事としか言いようがない。これもひとえに、球団の姿勢・努力、選手達の勝ちたいという気持ちの強さ、ファンの熱い応援の後押しがあっての事である。それに対して我らが横浜ベイスターズは2003年から2009年の7年間に80敗以上したシーズンが1回。90敗以上したシーズンが実に3回もある。楽天イーグルスのような、球団の姿勢・努力、選手達の勝ちたいという気持ち、ファンの熱い応援の後押しといったものが全く感じられない。常識人であれば、これで本当にプロの集団かと疑ってしまうのであろうが、長年、この球団のファンを続けていると諦観というか、諦めの境地に達してしまう。そんなもんだろうと大した疑いもなく普通に思ってしまうから、慣れとは恐ろしいものである。球団、選手、ファン、3者共々、負けて当たり前、いわば負け癖が付いては消える事の無い負け犬集団なのである。弱いモノ同士、ぬるま湯の温泉につかりながら、傷を舐め合って、それでよしとしている。それでも、少なからず存在した、志のある人たちはこの集団から立ち去り、新天地に活躍の場を求めた。一方、残った多くの人達は結局、何の進歩もなく、長年、同じことを繰り返している。しかし、仙台の人々は違った。負け犬であり続けることを断固拒否して戦い続けた。仙台の人たちは元々は圧倒的に巨人ファンが多かったはずである。もしくは1973年から1977年の5シーズンの間、ロッテオリオンズが本拠地を置いていた名残でロッテファンも多かったと思う。しかし、今は楽天イーグルス一色に染まっている。他球団のファンなんて存在しない勢いである。この郷土愛が球団を強くする大きな原動力であると言えよう。それに対して、我らが横浜ベイスターズファンは地元横浜でも、むしろ少数派であり、肩身の狭い思いをしている。横浜以外の地域では尚更である。本拠地横浜スタジアムでも巨人戦や阪神戦になると、なぜか横浜ファンより相手球団のファンの方が多い時がある。横浜市民は仙台市民を見習ってもっと地元球団に強い愛着を持ち、郷土愛を持って応援していただきたい。うかうかしていると、新潟・長野などの郷土愛の強い地域に球団を誘致されてしまう可能性だって十分にあることに気がついて欲しい。失ってしまってから気がついても、もう遅い。失ったものが元に戻ることは無い。その頃には、今までプロの球団のなかった地域の人々の熱烈な後押しによって強豪球団への道を歩み始めているであろう。選手、ファン共々、もっと危機感を持たないといけないのである。万年Bクラスだった、ソフトバンク(旧ダイエー・南海)、ロッテ、日ハムは地方に移転してから強豪チームへと変貌を遂げた。これも郷土愛溢れる地元ファンの応援の力の結果である。応援の力が選手を戦う集団へと変えたのである。

いつもガラガラに近い横浜スタジアムと違って、楽天イーグルスの試合のチケットは入手困難らしい。そんな貴重なチケットをN君から貰った。明日の試合が楽しみである。

5年ぶりの再会は深夜にまで及び、久しぶりに楽しい時間を過ごすことができた。来年には新しい家族も増えるN君の今後の幸せを願って、お開きとした。

1日目終了。
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2009年10月3日、4日仙台1

2009年12月22日 | 日本
10月3日(土)

旧友のG君を訪ねて、仙台へ旅行する事になった。今回の旅の同行者はNさん、昔、3人とも池袋に住んでいた2001年~2004年頃はG君とNさんと3人で池袋でよく飲み歩いたものであった。その後、G君は仙台へ帰郷し、Nさんは練馬区に転居、自分は愛知県に転勤と、それぞれバラバラに散っていった。自分のみが今年、ようやく池袋に戻ってきたのだが、あの楽しかった時代はもう戻らない・・・。と懐かしんでばかりではいけないので、あの楽しかった時代を再現しようin池袋!なのであろうが、Nさんは仙台に行ったことがないと言うので、それならば、仙台に行ってみようという事になった。こういう機会でも無理矢理作らないと、仙台なんてところには滅多に行く機会もない。

池袋のびゅうプラザで新幹線とホテルのパックを申込んだ。19,700円。一番安いホテルで、シングルルームであるが、新幹線の往復分と同じ位の料金である。せっかく仙台まで行くので、日本三景の松島の観光とG君が球団職員として勤務している楽天イーグルスの試合も観戦することになった。

上野駅でNさんと待ち合わせ、8:14発のやまびこ105号で仙台へと向かう。仙台には10:17着。それから、仙石線に乗り換え本塩釜駅で下車、港まで歩いて10分。11:00発の松島行きの遊覧船に乗船する。








土曜日なのにガラガラの船内。




塩釜港を出港。残念な事に曇り空である。








沖の方では、ヨットレースをしている。松島湾は波が穏やかである。






やがて、大小さまざまな島々が見えてきた。日本三景松島である。












































50分で松島に到着。




美味しい海の幸の昼食をたらふく食べたら、お次は松島観光である。






五大堂






瑞巌寺




















本堂は修復作業中であった。










松島観光を終えて、松島海岸駅から仙台へ戻る。






仙台駅に到着。都会の雑踏と伊達政宗公と七夕祭りがお出迎えしてくれる。






仙台駅は東北一の大都会の駅にふさわしく、威風堂々としていて、駅らしい駅である。新宿、渋谷、池袋などの東京のターミナル駅は駅ビルと一体化していて、便利ではあるが駅らしくない。東京だと東京駅(丸の内)、上野駅はさすがに歴史と風格を感じる駅である。






仙台駅前。東北一の大都会、100万都市の玄関口。以前は無かったパルコが出来ている。仙台もオシャレな街になったものである。








仙台の街をホテルに向かってぶらぶら歩く。
















一番安いホテルがここホテルレオパレスであった。初めて聞くホテル名であったので、新しいホテルかと期待していたのだが、残念ながら、昔、ワシントンホテル仙台第一といった古いホテルを買収したようであった。



次に安いホテルが隣接するアークホテル仙台というところで、どちから迷ったのであるが、昔のワシントンホテル仙台第二であった。





一応、エントランスとフロントはリニューアルしているようである。





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