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Asianwalker

アジアの路地裏から

2010年10月9日、10日長崎くんち祭りと軍艦島1

2011年01月10日 | 日本
2010年10月9日(土)


福岡で仕事を終えた後、念願の長崎へ行く事が出来た。

しかも、今日は、年に一度の長崎くんちの日である。

博多駅から特急に乗って長崎駅に到着。






駅を出たら既に祭りは最高潮に達していたところであった。































駅前で行われていた派手に山車がぐるぐると回転する様子を見終えた後はホテルに向かう。












ホテルにチェックイン後は祭りで賑わう長崎市内を散策する。





















ここは思案橋という長崎で一番の繁華街。なかなか洒落た町名である。












くんちの行列に遭遇。














































商店街もこの賑わいである。









有名な眼鏡橋。









夜は長崎の夜景を見に行く。





















思案橋界隈で酒でも飲もうかと思ったが、福岡や熊本に比べてひっそりとした繁華街である。結局、ちゃんぽんを食べてホテルに戻って寝た。





1日目終了。



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2010年8月28日熊本

2010年09月02日 | 日本
8月26日(木)


2年ぶりに広島へ出張である。仕事を終えた後は、博多まで新幹線で移動する。









8月27日(金)

博多で仕事を終えた後は、その日のうちに東京、広島に帰る上司、同僚と別れて夜の博多を歩き回る。前回、来た時はまだ冬の寒さの残る時期であったが、今は猛暑の真っ只中である。夜でも暑い。

博多は冬よりも夏の方が活気があるような気がする。観光客で溢れている。韓国人も多い。

ホテルに戻ると、既に日付が変っていた。



8月28日(土)

前回は湯布院に行って温泉に入って来た。今回は都市に行ってみたい。長崎か熊本かで迷ったが、長崎はいつか観光に来る機会があるような気がする。今回は出張のおまけの旅行であるので、熊本に行こうと思う。

福岡の中心地、天神駅周辺。JRの駅は町の外れにあり、西鉄の駅が中心地にある。









西鉄の終点の大牟田から、JRに乗り換えて熊本まで行けるようである。1950円。ホテルの人の話によるとバスが速くて安いらしい。どうせ、渋滞するので、電車の方が早く着きそうな気がするが、地元の人のアドバイスに従うのがベストであろう。






バスターミナルは駅の上にあり、九州各地へ行くバスが頻繁に発着している。日本でこれほど、長距離バス路線が充実している場所も九州しかないと思う。






なかには、遠く、東京、大阪、名古屋まで行くバス路線もある。東京・福岡間の距離は約1,100km。所要時間は14時間。






熊本行きは20分間隔と本数が多い。所要時間は2時間。





バスは福岡市内の都市高速を走る。福岡は地理的に日本のアジアの玄関口である。港、空港、物流インフラがとても充実している。














やはり、バスは高速道路の渋滞に巻き込まれ、2時間30分で熊本に到着。






熊本は全く分からないので、バスの終点まで乗車する。終点は熊本交通センター。大きなバスターミナルである。ここからは熊本各地、長崎、天草方面のバスの便が多数発着している。









ここから、熊本城はすぐ近くである。熊本城を築城した加藤清正。






日本の城は空堀になってしまっている所が多いが、ここは豊富な水を湛えており、しっかり堀本来の役目を果たしている。






城門から入城。広大な敷地に複雑な縄張りが張り巡らされている。さすが、日本三名城に数えられるだけのことはある。









この石垣は工夫に満ち溢れている。実戦を想定した上で考え出された形状であるが、造形美を感じる。









見事な美しさの天守閣。






天守閣から熊本市街を見下ろす。熊本城の広大さが良く分かる。市街地の遥か先には阿蘇の山々が見える。















壮麗な熊本城を後にして、熊本市街の観光に向かう。それにしても、さすが火の国だけあって、猛烈に暑い。









天草で水揚げされた魚を出す店で昼食。郷土料理の団子汁と天草の魚の海鮮丼。これで880円は安い。東京なら最低でも1,000円~1,200円以上はするであろう。やはり、九州は物価が安い。






熊本市街地中心部の商店街。






熊本の市街地を見て歩いた後は、市電に乗って終点まで行く。









今や、市電が走る町も残り少なくなった。









真夏の午後のけだるい時間帯に市電に乗っていると、幼い頃住んでいた町に市電が走っていた時の記憶が蘇ってくる。






終点は健軍町という、威勢のいい地名であった。地元に密着した商店街があるくらいで、観光地ではない。









馬肉うどん。いかにも熊本らしい。






健軍町から熊本市街へ戻る。






途中で、有名な水前寺公園に立ち寄る。


















再度、熊本の市街地の中心部へと戻り、熊本ラーメンを食べる。昨日、食べた博多のラーメンに似ているが、よりコクのある個性のある味である。どこか観光客ズレして手抜き感のある博多のラーメン屋より、地元密着の正直な商売を頑張っている感じがして好感が持てる。






帰りの飛行機は20時40分。東京行き最終便である。まだ、時間に余裕があるので、熊本市街の散策を続ける。歓楽街のど真ん中に、スザンヌの母親が経営しているバーを発見する。まだ、早い時間帯にも関わらず、大勢の客で賑わっている。商売繁盛のようだ。熊本に来て、感じるのは人がとても優しくて親切な事である。スザンヌもキャラではなく、本当におっとりとした優しい性格なのであろう。福岡の取引先の人の多くが、熊本の女性は日本一素晴らしいと言っているのも本当の事かもしれない。









となりは桂花ラーメンの本店であった。学生の頃は新宿で飲んだ後に、シメの一杯でよく食べに行った。






最近は東京では日が落ちるが日に日に早くなっていくのだが、南国熊本はまだ日が落ちるのが遅い。






交通センターへ戻る。ようやく日が落ちて暗くなってきた。






18時50分の空港行きバスに乗り、熊本を離れる。あたりは暗くなり、熊本との別れを惜しむような寂しさが込み上げてくる。旅の終わりはいつでも、どこでも同じような寂しさが込み上げてくる。夏の終わりの寂しさに似ている。






最終バスの1本前だったが、空港まで乗客は自分以外、他にいなかった。40分ほどで空港に到着。日本の平均的な地方空港らしいこじんまりとした空港である。今日の最終便を残すのみであるので、空港内もがらんとしている。






最も安かったのがスカイネットアジア航空であった。22,000円。ANAの片隅でひっそりと営業している。






搭乗率は6割といったところであろうか。採算ラインギリギリである。初めて利用したスカイネットアジア航空であったが、同じ格安航空会社のスカイマークのような割り切り感はなく、ドリンクはきちんと出るし、飛行中は下に熊本の市街地が見えます。しばらくすると、左手に大阪の市街地が見えます。右手にディズニーランドが見えます。などなど、昔の国内線さながらのサービス精神にあふれた機内アナウンスや機長からのとても丁寧で親切なアナウンスはみんなで会社を盛り上げていこう、また、お客様に利用してもらおうという気持ちにあふれておりとても好感が持てる。

羽田には定刻の20時20分より10分早く到着した。熊本でのドアクローズが定刻5分前だったのが、功を奏した。乗務員、乗客みんなで協力した一体感がありその結果である。とても気持ちが良かった。

おわり。
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2010年7月17日~19日北海道4

2010年08月01日 | 日本
7月19日(月)


今日は最終日である。特に行き先は決めていない。行き当たりばったりでもいいが、北海道は広い。無計画に旅行すると帰って来れなくなる。Nさん、Tさんのアドバイスは、海を見たいなら積丹半島が綺麗でオススメらしい。また、今の時期はうにが旬でとても美味しいとの事である。温泉なら登別がオススメらしい。

天気は曇りである。晴天ならば積丹ブルーといわれる綺麗な海を眺めながらのドライブは最高であろう。しかし、今日の曇り空を見ていると海に行こうというテンションではない。結局、登別に行く事にした。

高速道路を走って登別に到着。温泉地らしく、硫黄の臭いが充満している。地獄谷の風景を見ていると本当に地獄にいるような気がしてきた。









せっかく来たのだが、朝、早く到着したせいか、温泉に入る気になれない。有名な温泉地だけあって、巨大な温泉旅館が立ち並んでいる。






高速道路を引き返して、苫小牧に行く。ここから先は大きな町も無さそうなので、早めの昼食とする。焼肉屋で焼肉を食べる。






苫小牧から山道を走って、支笏湖へ向かう。行き交う車も少ない。本州では高山地帯でしか植生していない木々が綺麗である。緯度の高さを実感する。






支笏湖に到着。






かなりの強風で白波が立っている。山の中の湖とは思えない。まるで海のようである。















遊覧船も運休である。支笏湖は日本有数の透明度を誇る湖である。晴れていれば、綺麗な湖を見れたのに残念である。






大勢の観光客が来ているが、この強風と波ではすることがない。しかも、肌寒い。資料館で支笏湖の概要について学ぶしかない。






有名な観光地らしくお土産屋が立ち並んでいる。






北海道のお土産といえば、木彫りの置物が有名である。子供の頃、一家にひとつ大きな木彫りの置物が必ずといっていいほど飾ってあった。最近はあまり見なくなった。






名物のマス料理が並ぶ。焼肉なんか食べないでここで食べれば良かった。






周辺は綺麗な公園として整備されている。






道は支笏湖に沿って走る。風光明媚な道である。









行き交う車も少なくなり、来た道と同じような道を走る。途中に滝があるので休憩。昨日、見た滝と似たような風景の滝である。









今回、借りた車はトヨタアレックス。この小さな車体に1500ccの排気量なので高速でも楽に走れる。北海道仕様の車なので4WDである。しかし、冬以外はありがたみを感じられない。






支笏湖の後は行くところが無くなってしまった。地図を見て近くの興味深そうな場所を探す。夕張の名前が目についた。有名な場所なので行ってみる事にする。高速道路を走って夕張へ向かう。


サッポロビールの工場。






広大な農村地帯が続く。





両側に山々が迫り、高速道路も終点である。夕張はさらに山の奥である。


夕張駅に到着。












小さな駅の背後には不釣合いなほど巨大なリゾートホテルがある。






ホテルの裏はスキー場であった。






駅前の風景。ゴーストタウンのような町である。









この寂れた哀愁漂う光景を見ていると気持ちが沈んでくる。雨もぽつぽつと降り出してきた。












炭鉱が栄えた最盛期には11万人以上の人々が暮らしていたそうだ。今となっては見る影も無い。






夕張は映画祭で有名である。古い街並みに映画の看板が目立つ。





















映画のセットのような古い住宅。炭鉱で栄えた時代を彷彿とさせる。












町の外れには炭鉱のテーマパークがあるが、観光シーズンにも関わらず、観光客の姿は少ない。









夕張メロン城。メロンから作られる酒の製造工程が見学できるようだが、稼動していない。









死んだような夕張の町を後にする。夕張は山々に囲まれた谷にある町である。帰り道も峠を越えて行く。雨は本降りとなり、視界が悪い。峠を越えた所も炭鉱で栄えた跡が残る街並みであった。


岩見沢に向かっていくと、農村地帯となる。ここもまた、北海道らしい広々とした風景が続く。












道はひたすら一直線である。






岩見沢から札幌へと戻る。豚丼の美味しい店を教えてもらったので、最後に豚丼を食べて帰ろうと思う。

調べていた住所は北海道大学の正門の前である。13年前の旅はこの大学に行った高校のクラスメートを訪ねる旅であった。

しかし、周辺にそれらしき店は見当たらない。再度、住所を調べてみると西と東を間違えてた。北海道の町の住所は北、南、西、東と碁盤の目上になっており、分かりやすいが、西と東を間違えるとかなり距離が離れてしまう。






帯広豚丼の店で名物の豚丼を食べる。炭火で焼いた豚肉に独自のタレの香りが香ばしい。









すすきのへ戻り、車を返す。2日間で740km走った。東京・名古屋、東京・仙台間を往復した以上の距離であった。やはり北海道は広かった。

もう東京へ戻らないといけないと思うと、あれほど気分を盛り上げてくれたすすきののネオンの灯りがもの悲しく映る。






テレビ塔ともお別れである。






すすきのから札幌駅までは結構距離があるが、景色の見えない地下鉄に乗って帰ってしまうのがもったいないような感じがして、歩いて行く事にした。

これから列車に乗り、空港へ向かう。今度、北海道に来るのはいつだろうか?また、13年間も間が空いてしまうのだろうか?それとも頻繁に来るようになるのだろうか?何かきっかけが無ければ来ないだろう。今のところ、仕事でもプライベートでも北海道に来るような出来事、予定は無い。






何度も来た事のある札幌駅のホームだが、いつ来ても薄暗い感じのするホームである。このホームに立ちながら電車を待っていると、夏の終わりのさみしさにも似た、旅の終わりのさみしさがじんわりと湧いてきた。









日本航空546便21時10分発羽田行きに搭乗し帰途につく。羽田に着いたのは22時40分。


今回の北海道旅行は、いつもとは違う思い出に残る旅であった。旅の記憶は綺麗な景色、大自然や名跡を見た記憶よりも、人との思い出の方が後々の記憶に残るものである。今回の旅はまさにそうであった。これも全てNさんとTさんのお陰である。ふたりには本当に感謝である。


おわり。
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2010年7月17日~19日北海道3

2010年07月31日 | 日本
7月18日(日)


今日は、遠く富良野まで行く予定である。今回の旅行のメインの一日となる。

今日、同行してくれるのは札幌出身のNさんである。今回の旅行について事前にいろいろとアドバイスをしてくれた。さらに、富良野に近い旭川出身の友達まで連れてきてくれるという。Nさんの親切さ、配慮の細かさには心から感謝である。

8時30分にホテルのロビーで待ち合わせ。Nさんとはタイで一度お会いしただけである。しかも、夜の暗い建物の中でしかお互い面識が無い。ちょっと不安だったが、一目見てすぐに分かった。一緒に来てくれた同級生のTさんは富良野に近い旭川出身とのことであり心強い。


O君とNさんとTさんの男女4人で富良野へドライブへ出発。


男女4人は楽しい。会話も弾み、高速道路を順調に走って、国道に入って山道を走る。Nさんが教えてくれる。夏の国道は警察のスピード違反の取り締まりがとても厳しいらしい。スピードに注意して運転する。


綺麗な滝の流れる場所で休憩する。






O君から運転を代わる。運転中は無口になるので、トーク担当はO君に任せる。

山を下り、あたりが開けたところが富良野であった。プリンスホテルの近くに有名な洋菓子店があるというので行ってみる。






おしゃれなお店である。男同士だとこんな所へは行かないだろう。駐車場は地元の人たちの車で一杯である。地元の人と一緒に旅行すると自力ではなかなか、たどり着けないところを教えてくれるので、貴重な体験ができそうだ。






ここの牛乳プリンは有名らしい。普段はすぐに売り切れてしまうとの事だが、幸いな事にまだ残っていた。プリンなんて食べるのは何年ぶりだろうか?子供の頃によく食べたプッチンプリンくらいしか記憶にない。

牛乳瓶の形どおり、そのまま飲めてしまいそうなプリンであった。朝、作りたてといったおいしさで感動の味である。さすがは北海道、富良野の大自然が育んだ味である。






続いて、北の国からの舞台となった麓郷に行く。富良野市内から山々に囲まれた渓流に沿った一本道を延々と走り、あたりが開けたところが麓郷であった。富良野から意外と遠くて15kmもあった。しかし15kmも離れた場所にも関わらず同じ富良野市である。北海道のスケールの大きさを実感する。


麓郷には撮影で利用された家が保存されている。





バスを再利用している。









内部はいかにもバスです。といった感じである。









バスの中は縦に長いので寝食には十分なスペースである。あとは、台所や風呂場の水周りを整備すれば、立派な家の完成である。









家の中はドラマの撮影当時の姿のまま、細かいところまで設定され、保存されている。内装や家具、電化製品、本、カレンダーやポスターなどなど、何もかもが見ていて懐かしいものばかりである。









この家はスキー場のゴンドラを再利用している。






その他、ドラマに出てきたセットが多数保存されている。















続いて、麓郷の森へ行く。ここはドラマ初期の家が保存されている。

遠くに石の家が見える。






石の家はいかにも北海道らしい。






石でできた家なので、風通しが悪く暑い。冬はどうなのだろうか。石だから冷たそうな気がする。それとも外気を遮断して温かいのであろうか。









五郎さんの服。






これは最初に住んだ家。昔の農家の作りである。木造なので風通しがいい。冬はすきま風で寒いだろう。内部は土間になっている。









道の途中にドラマについてのクイズがある。日本の連続ドラマの金字塔ともいえる北の国からだが、断片的にしか見たことがない。クイズの答えも全然分からない。さすがに北海道出身のふたりはよく知っている。地元が近いTさんは特に詳しくほとんど答えを知っている。さすがである。このドラマは父が好きでよく見ていたのだが、最後まで一緒に見た記憶がない。その後、数年おきに放送される時代になってからは、父と弟が一緒に熱心に見ていたような気がする。何かの機会にDVDを見ようと思う。


ドラマについての解説があった。最初の放送は1981年の連続ドラマ。その後、視聴率の好調さもあって、1983年からスペシャルドラマとして再スタート。2002年まで続く長期シリーズとなったとの事である。


大自然のパノラマが広がる風景を眺めながら、茹でたトウコロコシを食べる。とても日本の風景とは思えない広大さである。はるか遠くまで見渡せる。隣の家まで数キロといった距離感である。土地の境界線はどうなっているのだろうか。












午後になり、富良野市内に戻って、お昼ごはんを食べる。Tさんがおいしいカレー屋を調べてくれた。電話で営業しているか聞いてくれる。幸いな事に営業しているみたいである。店に到着すると、観光シーズンという事もあり大混雑である。


注文したのは道産野菜と骨付き鳥カレー。昨日から思っていたのだが、北海道の野菜は味が濃くて野菜の甘みがあり本当に美味しい。カレーのルーも素材に負けないように、いろいろな素材を時間をかけてじっくり煮込んでいる。






O君はカツカレー。O君は朝から何も食べていないので、よほどお腹が空いたのであろう、ひたすら食べ続ける。その後、あんなに美味しいカレーを食べたのは初めてだと言っていた。






富良野の美味しいものを食べてもらいたいというTさんの心遣いに感謝である。


お腹もいっぱいになったところで、ファーム富田のラベンダー畑を見に行く。今日は終日、雨の予報であったが、ここまでラッキーな事に雨は降らなかった。しかし、とうとう細かい雨が降り出してきた。

ファーム富田への道は大渋滞である。途中で車を停めて、1kmほど歩いて到着。

あまりにも有名なこの風景をぜひ一度は見てみたかった。ようやく念願が叶った。












今はちょうどラベンダーの花が満開になるタイミングらしい。この時期を逃すと見事なコントラストは見れない。あたり一面ラベンダーの香りにつつまれた、よく手入れされた綺麗なラベンダー畑を見ていると、安らかな気持ちになってくる。


















ファーム富田のラベンダー畑は丘の上にあり、眼下には富良野の農村風景が広がる。












17時を過ぎ、あれほど酷かった渋滞が嘘だったように人も車もいなくなってしまった。車を停めた場所もラベンダー畑であり、リフトで上まで登れる。冬はスキー場になるのであろうか。






ここから、美瑛・旭川方面へと北へ向かう。道路は渋滞している。普段は渋滞とは無縁らしい。この時期だけ渋滞するらしいので、ラベンダー渋滞である。

段々と雨が強くなってきた。美瑛は丘一面に広がる農村風景が綺麗な所らしいが、雨が強くて、外も段々と暗くなってきたので、そのまま旭川へと向かう。


旭川に着いた時は真っ暗になっていた。雨も凄い。この時間は有名な旭山動物園も閉まっている。博物館の類も当然閉まっている。Tさんによると夜に見るような観光地は無いらしい。

旭川にはかねてより行ってみたかった場所がある。スタルヒン球場である。確か小学生の頃だったと思うが、旭川の野球場がスタルヒン球場と命名されて全国の話題を呼んだ。日本初の人名を冠した野球場である。それを記念して巨人の公式戦が行われたような気がする。どんな球場なのか一度見てみたかった。

旭川の市内には広大な自衛隊の駐屯地があり、道路を挟んだ向かい側にスタルヒン球場があった。

正面にはスタルヒンの銅像。






スタルヒンは伝説的な存在で、初の300勝投手で、通算では303勝で歴代6位。シーズン42勝は稲尾と並び日本記録。完封勝利83勝も日本記録である。おそらくこれらの記録は、今後破られる事のない偉大な記録である。

ロシア人貴族の家に生まれ、ロシア革命により日本へ亡命し、プロ野球選手として伝説的な活躍をして、40歳という若さで事故死したという数奇で悲劇的な謎の多い人物である。

当時の敵国であり、長い間、北海道及び日本にとって脅威だったロシアからの亡命者を受け入れ、さらに地元の英雄として、野球場をスタルヒン球場と命名する旭川の人たちの寛容さ、多様性はとても素晴らしい精神だと思う。何かと排他的、島国根性だと揶揄される同じ日本人とは思えない。これも北海道らしさであろうか。


スタルヒンは野球殿堂第1号に入ったほどの伝説的選手ではあるが、現役時代を知らないので、その偉大さがよく分からない。私の記憶の中での旭川出身の野球選手といえば星野である。野球選手とは思えない細身の体と端正な顔立ちから星の王子様と呼ばれ人気があった。今でこそ、ナントカ王子全盛時代だが、星野こそが元祖王子である。左腕から放たれるスローカーブと130kmに満たないストレートを武器に通算176勝をあげた不思議な投手だった。もし、病気にならなかったら200勝した可能性もある。あれほどの細い体型であっても故障せずに投げ続けた。北海道、しかも旭川の出身である。基礎体力が相当強靭だったに違いない。


外は、かなりの大雨である。車に戻るとNさんがいつの間にか運転席に座っている。「運転疲れたでしょうから代わります。」とのことである。この心遣いには感激した。そのほとんどが車の運転ができない東京の女の子には出来ない芸当である。厳しい風土に生きる北海道の女性のたくましさを垣間見たような気がした。


はるばる旭川まで来たので、名物の醤油ラーメンを食べたい。Tさんが地元で有名な店に案内してくれた。

本場の旭川ラーメンは醤油の味にコクがありダシの効いたスープが美味しい。冬の寒い時期に食べたら体が温まることだろう。





ラーメンを食べた後は、雨の降り続くなかを高速道路をひた走り、札幌に到着。旭川まで行けるとは思わなかった。盛りだくさんの充実した1日であった。

すすきのは不夜城という形容がぴったしである。Nさんの知り合いが経営する居酒屋で新鮮な魚介類を食べながら、サッポロビールを飲む。時間を忘れる楽しいひと時であった。

時間があっという間に過ぎる。朝まで飲み続けたい気分であるが、帰らないといけない。勘定はいつの間にか、Nさんが済ませてくれていた。ふたりからの感謝の気持ちとの事であるが、感謝しなければいけないのはこちらの方である。こんなに人の親切、温かさに触れたのはいつ以来だろう。正直、思い出せない。O君も相当感激したようで、これから朝までカラオケに行こうと言う。O君とは10年以上の付き合いだが、こんな言葉を聞いたのは初めてである。

名残惜しいが別れもまた旅の一部である。お互い再会を願ってお別れした。Nさん、Tさんが雨の降る中、タクシーが発車するまで見送ってくれた。雨の降る深夜のすすきのは夏とは思えない肌寒さであった。


2日目終了。
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2010年7月17日~19日北海道2

2010年07月28日 | 日本
小樽から30分ほどで札幌に到着。最後に来た13年前と違って札幌駅が新しくて巨大な駅になっている。





駅前からの眺め。





ホテルへは歩いていける距離である。途中に赤レンガの北海道庁があるので見学する。














歴史を感じさせる赤いレンガが北国らしい。








内部は北海道の歴史や風土を紹介する博物館となっている。





北方領土の歴史についてとても勉強になった。





知事の執務室。








外の眺め。





宿泊先の札幌グランドホテルは道庁からほど近い場所にあった。









1934年に北海道初の洋式ホテルとして建てられた歴史のあるホテルらしい。東京でいえば帝国ホテルのような存在であろうか。


札幌のホテルで最も泊ってみたいのは「いるかホテル」であるのだが、いろいろ調べても存在しなかった。









昭和天皇もご宿泊され、かつては北の迎賓館と呼ばれた由緒あるホテルらしい。






ニューヨークヤンキース一行も滞在したらしい。札幌まで何しに来たのであろうか?野球をしに来たのに決まっているが、1955年に札幌でメジャーリーガーが野球をするとは、その時代から札幌の野球熱は高かったようである。






開業当時の写真。






この歴史あるホテルに関する資料館があり、興味深く拝見する。最近、札幌も東京と同じく外資系の豪華ホテルの開業が相次ぎ、歴史あるホテルが苦戦していると聞く。しかし、札幌は観光都市である。観光シーズンはどこも満室である。今日も満室らしい。






部屋は老朽化を隠せないが、どうせ帰って寝るだけである。十分である。






部屋からの眺め。街中の高層ビル群に囲まれており、古いホテルであり、高層建築では無いので、見晴らしは良くない。






荷物を置いて身軽になった所で、札幌の街歩きを開始。

まずは、ホテルの近くにある札幌の象徴ともいえる時計台に行く。












初めて札幌に来た時もなかなか見つけ出すことが出来なかった。今回も危うく通り過ぎてしまうところだった。






緑が美しい大通り公園に出る。そこかしこにビアガーデンや屋台がオープンしており、北海道の短い夏を楽しもうとする地元の人たちや観光客で賑わっている。






札幌テレビ塔。






大通り公園から地下鉄に乗り、終点の福住まで行って、さらにバスに乗り、羊が丘展望台に到着。









遠くに札幌の市街地、すぐ近くには宇宙船か巨大UFOのような札幌ドームが見える。









羊が丘展望台なのだが、肝心の羊がいない。今回は男二人旅だが、いつの日か綺麗な形の耳を持つ女性と一緒に羊をテーマに北海道を旅したいと長年思っているのだが、残念な事に未だに実現していない。






羊がいない理由が分かった。口蹄疫の流行である。ここは多くの観光客が訪れる場所である。宮崎県の人たちが来る可能性も大いにある。宮崎県の一部で流行してあの騒ぎ、あれだけの被害である。北海道で同じ事が起きたらと想像するだけでぞっとする。






札幌の市街地が見渡せる展望台にクラーク博士の像があった。「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」北海道の人々ならず、日本人の心に深く刻まれた言葉である。






クラーク博士は大人気である。大勢の観光客が写真を撮り合っている。外国人も多いが、外国でも有名なのだろうか?






日本各地には江戸時代から続く藩主、殿様がおり、現在に至るまで地元の人々の尊敬を集めており求心力がある。

しかし、歴史の浅い北海道にそのような存在はいないであろう。クラーク博士は北海道民の父ともいえる存在なのであろうか。北海道に対して何の業績があるのかよく分からないが、帰り際に発した、一言で歴史に名を残す事になった。


クラーク博士の像から離れた場所に、興味深いモニュメントがあった。






日ハムが東京から札幌に移転したのを記念して、記念すべき最初のゲームに出場した監督・コーチ・選手達の手形がある。






初戦を見事勝利で飾っている。西武相手に1-5の勝利。勝ち投手金村、負け投手松坂。確か松坂の親は稚内の出身だったはずである。松坂は東京生まれの都会っ子だが、あの強靭な肉体は北海道出身の親から受け継いだものに違いない。因縁を感じずにはいられない。







ヒルマン監督。北海道の父がクラーク博士なら、北海道プロ野球の父はヒルマン監督である。初優勝時の「シンジラレナ~イ!」はクラーク博士の「Boys, be ambitious」と並び北海道民の心に深く刻まれた言葉となった。






東京時代は弱小チームだった日ハムも札幌移転、ヒルマン監督に率いられてからは常勝軍団へと変貌を遂げた。ヒルマン監督はクラーク博士の生まれ変わりかもしれない。



ミスター日ハム田中幸雄。






横浜から移籍の守護神横山。ハマの小魔人が北の大地で大魔神へと成長を遂げた。






初戦を松坂と投げ合い見事勝利したエース金村。






そして、メジャー帰りの新庄。この男がいなかったら、今の日ハムの盛り上がりは無かったであろう。北海道に来た時も風のようにやって来たが、去り方もまた風のようであった。ひとつの場所に留まることのできない男なのであろう。






「ピーエル~、あおがく~、とうしば~、つぼい~。」by日ハム応援団。野球エリート街道の坪井。






サムライ小笠原。きちんと日ハムを優勝させ自分の仕事を果たして巨人へと移籍した。







ここから1時間に1本、札幌駅への直通バスがある。最終は16時45分と早い。乗り換えせずに行けるので、もう少しここにいたい気もするが戻る事にする。






ホテルに戻り、休憩をした後は夜のすすきのへと繰り出す。18時19分なのにまだ外は明るい。






札幌といえば、ジンギスカンである。教えてもらった有名な店に行く。









本場のジンギスカンは肉をタレに漬け込んであり、クセが少なく美味しい。羊肉が苦手なO君も美味しく食べることができた。

羊の刺身もあり、くせもなく食べやすい。






すすきのは道路を封鎖してビアガーデンが続いている。北海道限定のサッポロクラシックというビールがとても美味い。クリーミーで喉越し爽やかでさっぱりしている。何で北海道限定なのだろう。こんなにおいしいビールならどこでも売れるはずである。












すすきのの夜の賑わいは新宿以上である。北国の人たちは夏を楽しもうとする気持ちが人一倍強い。









最後のシメはやはり味噌ラーメンである。教えてもらった店は大行列であったので、ラーメン横丁の店で食べる。






やはり、札幌で食べる味噌ラーメンが一番美味しい。


1日目終了。
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2010年7月17日~19日北海道1

2010年07月27日 | 日本
7月17日(土)


13年ぶりに北海道へ旅行する事になった。

過去4回、北海道に行ったことがあるが、春が2回、冬が2回である。ベストシーズンの夏に行ったことは無かった。夏の北海道は旅行代金がとても高い。海外旅行の方が安い場合が多い。沖縄旅行と同じである。海外旅行へ関心が向いてからは、わざわざ高い旅行代金を払ってまで北海道に行こうという気がおきなくなっていたし、行く理由も無かったので、結局、13年間も足が遠のいてしまった。

それまでは、中学3年生の時に初めて北海道に行って以来、6年で4回のペースで行っていたのがまるで嘘のような疎遠さになっていた。

今回の北海道旅行は、O君が一度も北海道に行った事が無いので行ってみたいというので、半分はお付き合いである。また、そういう機会が無ければ、自ら行こうと思う気にもなれないであろう。せっかくのいい機会であるし、日本人なら誰もが一度は北海道に行ってみたいと思うであろう。O君に北海道の素晴らしさを見せてあげたい気持ちもあり、一緒に行く事にした。

7月の3連休である。出発のいい時間帯の飛行機は航空代金だけでも高い。片道3万円は下らない。ツアー代金は軒並み7~9万円台もする。しかし、いろいろと手を尽くして5万円台の旅行代金に落ち着いた。


日本航空507便(国内線の場合はJAL507便というより、日本航空507便といった方がしっくりくる。)で羽田から新千歳へ移動。

羽田が7時30分発で新千歳が9時着である。空路で行くと北海道は近い。

日本航空といえば、ボーイング747、ジャンボ機である。国内線に乗るときも、国際線に乗るときも、いつもきまってこの機種ばかりであったが、日本航空の経営悪化に伴い、今年限りでジャンボ機は姿を消すそうである。日本航空は世界で一番ジャンボ機を保有する会社であったのだが、逆にそれが経営悪化の原因となってしまった。もしかすると、今日が乗り納めかもしれない。






東北上空だろうか。雲がかかっているので下が見えない。






新千歳空港に到着。天気は曇り。







札幌は福岡と違って、空港から町までが遠い。9時34分発、快速エアポート号小樽行きに乗り、そのまま小樽へ移動。









車窓へ目をやると北海道らしい雄大な風景が広がる。過去4回、北海道に行ったうちの3回は陸路であった。1度だけ父親の仕事に同行して空路で来た事があったが、真冬の1月か2月であったので、風景が雪で真っ白だったという事しか記憶にない。


小樽には10時46分に到着。函館、札幌、旭川、釧路、根室、網走、稚内、静内、留萌・・・。北海道の主要な都市はほぼ訪れているのだが、小樽は初めてである。






小樽駅。歴史を感じる駅舎である。






駅前は北海道の町らしく、広い駅前広場があり、広い道路がその先へと伸びている。






商店街を抜けると、寿司屋通りに出る。









小樽は日本一、寿司屋の多い町らしい。寿司屋ばかりがずらりと並ぶ。






どこに入っても同じようなものだろう。値段が明記していない店は危ないので避けて、明朗会計そうな店に入る。





O君はねぎとろ丼を頼む。2600円。ねぎとろ丼にしては高価である。お互い500円くらいのねぎとろ丼しか食べたことが無い。見た目からして500円のとは違いがありすぎる。おいしそうだ。






無難に上寿司2600円を頼む。冷凍物を使わず、地の魚を使うとこの値段になるのは止むを得ない。高いだけあってさすがに美味しい。






珍しいところではホッケの刺身をオーダーしてみた。これは東京では食べれらない。






朝から何も食べていなかったので美味しく食べられた。お腹もいっぱいになったので、小樽の歴史ある街並みを散策する。


このあたりは戦前は北のウォール街と呼ばれていたそうである。



























小樽名物のガラス細工の店やオルゴールの博物館があった。古い建物は内部を改装してお土産屋、おしゃれなカフェ、レストランになっている。



続いて、有名な小樽運河を見に行く。映画の舞台になりそうな雰囲気を持った所である。

正午を過ぎ、太陽がじりじりと照りつけ暑い。









小樽運河も見たので、駅方面へと戻り歩いていく。函館ほどではないが、港町らしく坂道の多いところである。

これは線路の跡であろうか。









北海道らしい家。廃屋だろうか。






小樽中央市場。地元の人が相手の市場なので、魚介類は押しなべて安い。観光客相手のお土産屋に比べ、蟹などは半額近くの安値である。
























札幌へはバスでも行けるようである。料金は若干バスの方が安い。しかし、3連休の初日である。道路は渋滞するであろう。鉄道で行った方が賢明である。






行きと同じく快速エアポート号に乗り札幌へ向かう。






小樽を過ぎると美しい海岸線に沿って電車は走る。


















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2010年6月20日伊良湖、三ヶ根山

2010年07月22日 | 日本
6月20日(日) 曇り時々雨


久しぶりに昔住んでいた愛知県東三河地方へドライブに行くことにした。

東京を6時半の新幹線で出発し、豊橋に8時に到着。駅前でレンタカーを借りる。今回、借りたのはトヨタのiQ。2008年のカーオブザイヤー受賞車である。受賞したからには特別な理由があるのだろう。かねてより敬意を表して一度、乗車してみよう思っていた。

まずは港へ行って走行テストをしようと思う。

いつもは誰もいない港だが、なぜか、伊勢湾フェリーの船が停泊中であり、大勢の人、車で賑わっている。何かイベントでもあるのだろうか。






この車の最大の特徴は全長がわずか3mという特異なスタイリングであろう。









正面は新型プリウスにそっくりである。最近のトヨタのトレンドの統一感のあるデザインである。






内装は廉価グレードということもあり、シンプルだが、この車格のわりには価格が140~170万もする車である。同じトヨタ車でも100万で買えるヴィッツに比べると当然、高級感があり、洗練された感じがする。






人も車もいない場所に移動して、走行テストをする。時速140kmまで達するのに時間がかかり、モタモタする。やはり1リッターではパワーが足りない。しかし、1,3リッターの設定もあり、この軽量・コンパクトな車体なら、そこそこいい加速をするだろうが、最低でも1,5リッターはないと走りは楽しめない。140kmからの急停止は制御のいい高グレードのブレーキを使用しているのであろう。安心して急停止ができる。

この車の最も特筆すべき点は周回最小半径の小ささであろう。面白いようにクルクルと円を描くように周回が可能である。軽自動車よりも取りまわしは楽である。あまりに面白いので、しばらく360度旋回をしていたら目がまわってしまった。

レンタカーなのでやりたい放題だが、路面が急停止、急旋回のタイヤ痕で真っ黒になってしまっている。ほどほどにして切り上げる。


海を見ながら伊良湖へ向かって車を走らせる。


ここの人口ビーチには昔よく来た。一人で来ることが圧倒的に多かったが、誰かを連れて来たこともあったような気もする。

沖合いを自動車運搬船がゆっくりと進んでいくのを見るのは愛知県ならではの光景である。車を満載した船は遠くアメリカやヨーロッパまで向かって行く。日本経済の柱はやはり何と言っても、自動車産業である。自動車の輸出が減少すれば、それ以上に日本経済の受けるダメージが大きすぎる。









曇り時々雨というはっきりしない天候の為か、人が少ない。しかし、いつもここは人の少ないところである。









渥美半島を横断して、奥の方まで行くと日本陸軍の射撃場の跡地がある。一応、公園としてある程度整備され、開放されているが、現在は打ち捨てられた感じである。ここの寂れた、廃墟感がたまらなく好きなので、必ず車を停めて、しばらく休憩することにしている。









その先をさらに進むと、キャベツ畑が一面に広がる広大な農村地帯である。防風林の先には人気のまばらな海岸がある。三河湾に面しているが、外洋が近いため、強風にさらされる事が多い。しかし、今日は波・風ともに珍しく静かである。









渥美半島の先端、伊良湖岬に到着。






ここから、伊勢湾を挟んだ三重県の鳥羽まで、フェリーが1日8往復している。しかし、今年の9月末で廃止になるようである。これで、豊橋港にフェリーが停泊していた訳が分かった。フェリーが余剰になったのであろう。売却先が決まり、どこかへ移送されるのか、スクラップにされるのか、どうなるのであろうか。まだまだ、フィリピンやインドネシアなどの島国では十分に活躍できそうである。

高速が1,000円になった影響は様々だが、最も悪影響を蒙ったのはフェリー会社だろう。日本各地、特に瀬戸内海ではフェリー会社の倒産が相次いでいるそうだ。






ここから、太平洋の荒波が続く遠州灘に沿って車は走る。伊良湖ビューホテルから見る海岸線の景色は見事である。










この先は三重県である。沖合いに神島が見える。漁船がたくさん出漁している。






伊良湖ビューホテル。建物の老朽化が著しいが、とにかくロケーションが抜群である。今日は6月の日曜である。数組の結婚式が催されている。






今度は渥美半島を縦断して、豊橋に戻り、そこから蒲郡経由で三河湾スカイラインを走る。この道も大好きでよく走った道である。かつては有料道路であり、走りがいのあるワインディングロードが続く。iQの走行性能を試すにはもってこいの道である。

しかし、1リッターでは加速・減速性能がいまひとつであり、走りが物足りない。やはり車は排気量なのであろうか。この車、ホイールベースが極端に短く、そのわりには車高が高いのでスピードを出して急カーブを曲がろうとすると、転倒しそうになる。何度もヒヤリとする。さらに悪いことに、霧が立ち込め視界が良くない。危ないので走行テスト的な無理な運転はやめて、安全運転に徹することにする。走りを楽しむ車というよりは街中を走るシティコミューター的な使い方を想定して作られたのであろう。









霧がたちこめ小雨が続く。アジサイが綺麗である。









三河湾スカイランを降りて、海側に戻る。ここから、今度は三ヶ根山スカイラインを進む。ここは未だに有料道路である。


いつもは極端に通行量が少なかったはずだが、今日はそこそこ通行量がある。道の両脇にはアジサイが見事に咲き誇っている。写真を撮りに三脚を構えている人もいる。みんなアジサイを見に来たのであろう。


















三ヶ根山の山頂は深い霧につつまれている。いつもはガラガラの駐車場が珍しく満車状態である。晴れていれば、眼下に三河湾の見事なパノラマが広がるのだが、視界が10m程度しかないので、今日は何も見えない。









アジサイは雨、霧がよく似合う。また、より一層綺麗に見える。晴天下で見るアジサイはあまり綺麗ではないような気がする。









廃墟ホテルの三州園の入口ゲート。普段は閉められているのだが、今日はなぜか開いている。中に入ってみたい誘惑に駆られたが、自重しておく。何かの罠かもしれない。廃墟とはいえ、私有地であり勝手に入ると不法侵入になってしまう。






三ヶ根山を下りた所で、F君から電話がかかってきた。家の用事が終わったらしい。F君の家の近く、豊川市内で合流。奥さんに送ってもらってきたみたいである。久しぶりにお会いした、F君の奥さんと挨拶を交わす。最後に会ったのは出産後間もない頃だったので、ふっくらしていたが、少し痩せたかもしれない。いつも旦那を連れ回して申し訳ない気がするが、寛大でよくできた奥さんである。子育てと仕事を両立してキャリアを継続している立派な女性である。しかも安定した市役所勤めである。万が一、F君の会社が倒産して失業したとしてもきちんと食わせてもらえそうである。こんな生活力のある奥さんと結婚できたF君が羨ましい・・・。


それから、ふたりで豊川からさらに奥にある湯谷温泉に行き、しばらく温泉に浸かる。鳳来山の近くに住んでいるおじいさんと話しがはずむ。このおじいさんは一度だけ東京に行った事があるらしく、浅草の賑わいとそこで食べた天丼の具の巨大さにびっくりしたそうである。今どきこんな前時代的な素朴なおじいさんと話をする事ができて心が癒された。


豊橋に戻り車を帰す。8時から17時まで借りて240km走った。かなり走った方である。


ホテルにチェックイン。駅前に2008年にオープンしたホテルアークリッシュに宿泊。宿泊費はどうせ会社持ちである。こういう時に滞在先で一番の高級ホテルに泊まるのが自分の経験値アップ、感性を磨く事に繋がる。


部屋は狭い。内装は最近、流行のインテリアを取り入れている。シックで落ち着いた部屋である。






ホテルは駅前に位置するので、豊橋市街が一望できる。









このホテルの特筆すべき点はフロントが最上階にあり、その下の階に図書館のような共用スペースがある。ここがなかなかおしゃれで落ち着ける空間である。飲み物も自由に摂れるし、専用のキーが無いと入れないので、宿泊者だけのプライベートな空間である。大げさに表現するとまるでマンハッタンの高級ペントハウスのようである。とうとう豊橋にもこんなホテルができたのかと感慨深くなった。












それから、日本で一番おいしい鰻屋とふたりで評価する店で鰻丼を食べる。メニューは鰻丼の並と上のふたつだけ。上でも2100円である。鰻重が無いのが気取ってなくていい。この内容のものを東京で食べたら倍以上はする。





それから、ウイスキーばかりずらりと並んだバーで酒を飲む。F君とバーテンの講釈を聞きながら飲むウイスキーはおいしい。

いつの間にか3杯も飲んでしまった。ひとりで飲む酒は飲むのに時間がかかるが、楽しい話をしながら、聞きながら飲む酒はあっという間に時間が過ぎていく。

いつの間にか10時を過ぎていた。F君に申し訳ない。例によって奥さんが迎えに来てくれる。いつも申し訳ないと思う。

F君と別れて、ホテルに戻る。

ホテル自慢の図書館は夜遅いためか、誰もおらずひっそりとしている。











酔いをさます為に、冷たい水を飲みながらソファに深く腰をおろしてゆっくりする。夜景を見ているとウトウトし始めてしまった。

このまま、ここで寝てしまいそうである。早々と部屋に戻って、熟睡したい。

かなり酔っているが、明日の朝は早い。朝から重要な仕事が待っている。

無事に起きることが出来るだろうか。目覚ましを二重にセットして眠りについた。


おわり。

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2010年6月5日巨人VS日ハム2

2010年07月11日 | 日本
2回の巨人の攻撃。糸数、恐いラミレスを三振に斬って取るも、阿部にホームランを打たれ巨人先制。ドームで阿部のホームランは何度も見たが、フライかと思った打球がなぜか伸びて、不自然にスタンドに入るのである。気圧の影響で球が飛びやすいのもあるのだろうが、ドーム側で風を操作しているような気がしてならない。これはホームランではなく、ドームランである。ドームランに巨人びいきの審判、アンパイヤならぬ、ジャンパイヤ軍団。東京ドームで戦うのは本当に不利な条件ばかりである。






満員の観客も巨人が先制したので盛り上がってきた。






しかし、その後、日ハム打線が東野をとらえ始め、3回に連打で2点を取り逆転。4回には伏兵鶴岡のホームランが飛び出し2点追加。4-1と3点差リード。


一方、日ハム先発の糸数はサイドからのさほど速くない138kmのストレートを見せ球に変化球で緩急をつけ、巨人打線を打取っていく味のある投球を続けていく。ダルビッシュの凄みのある力の投球も見たかったが、こういう味のある投球が見れるのもプロの技である。



いつもと違うピリッとしない東野の投球、糸数を攻めあぐねる巨人打線、となりでイライラしはじめてきたO君を尻目に上機嫌でビールを飲む。飲むのは当然、大好きなアサヒ。東京ドームのビールの売り子は全員、高レベルで、美人、かわいい子ばかりである。このアルバイトの倍率は毎年、相当な高倍率になると聞いたことがある。その中でひときわ目立つというか輝いている子がいる。遠くからでも一目で分かる。しかし、残念な事に一番嫌いなモルツの売り子である。でも、悲しいことに、好みのタイプの子によってはビールの好き嫌い、こだわりなんてどうでもよくなってしまう。2杯目からはこの子がやって来るのを待ってモルツを飲む。かわいい笑顔でありがとうございます。またよろしくお願いしますと言われると、大嫌いなモルツでもまた飲もうかという気持ちになってしまうので恐ろしい。しかも、さらに恐ろしい事はドームで飲むビールは700円もする事である。若くてかわいい子が笑顔でついでくれるビールだから700円もするのも当然といえば当然だが、そんな男性の心理をついた恐ろしい値段設定ではある。


4回終了時、4-1となったところで、東野が降板、こんなに早い回で東野がノックアウトされるのも珍しい。代わって出てきたのが、オビスポ。本来ならば先発のピッチャーであるが、今季は調子が上がらず、とうとう中継へ降格となってしまった。


しかし、巨人も5回にいよいよ糸数をとらえ始める。高橋のホームランなどで2点を返して、4-3。しかし、その直後、すかさず日ハムも1点を入れ糸数援護の追加点を加える。その裏の巨人の攻撃、糸数1安打打たれるもきっちりと押さえる。しかし、さすがは巨人打線である。これまで、かわされ続けていたが確実にとらえ始めている。この回のアウトは全て外野に飛んだ飛球であった。一歩間違えるとホームランになる当たりである。もうそれそろ投手交代のタイミングであろう。先発糸数6回3失点。自責点は1。野手のエラーに足を引っ張られたが、自分の役目は十分に果たしたといえよう。ナイスピッチングであった。


一方、グランド外でも攻防が繰り広げられている。サントリーの売り子が私の元へ来る度に、立ち止まり、飲みませんか?と聞いてくる。「モルツは嫌いなビールなんだよね~。」と言うと、「お願いです買って下さい。」と困ったような顔で上目遣いで懇願される。この上目遣いの表情がとにかくかわいい。これで買ってあげないと男として失格である。嫌いなモルツを買って飲む。しかし、やがて、まだ飲み終えないうちにまた例の売り子がやって来る。「モルツは嫌いです。」「お願いです。買って下さい。」の会話がまた繰り返される。しかし、勝者は決まって売り子の方である。まだ残っているビールをその場で一気に飲み干しまた買ってしまう。完全にカモにされている感じがしないでもないが、かわいいから許せてしまう。話しをするとやはり大学生のアルバイトらしい。O君によれば、ビールの売り子は、総じて高レベルで、みんなかわいいし、美人だが、そのモルツの子が特別にかわいいという訳でもないらしい。しかし、こればかりは人それぞれ、好き嫌いのタイプの問題である。「まじめで一生懸命で清楚な感じが好みのタイプだよね。」「いつも分かりやすいよ。」と分析される。さすが長い付き合いだけあって、好みのタイプをよく分かってくれている。

ビールの飲みすぎでお腹がタプタプする。トイレに行こうと思い、立ち上がると階段で転んでしまった。O君に飲みすぎだよとたしなめられる。席に戻ると待ち構えていたかのように例の売り子がやって来る。酔いが回りすぎて、野球どころではない。もう飲めないと言うが、例のかわいい上目遣いでお願いです。買って下さいと懇願されると、やはり・・・、買ってしまう。その後の満面の笑みでありがとうございます!またお願いします!とかわいい顔で言われると最高にハッピーな気持ちになってしまう。不思議な魅力を持った子である。いや、単に自分のタイプ、ストライクゾーンど真ん中なだけか・・。しかし、相当酔いが回ってきたのか、だんだんと、かわいい天使のような笑顔が悪魔の笑顔に見えてきてしまう。でも、このかわいい笑顔につられて、ビールの飲みすぎで地獄に落ちるのなら、それはそれでハッピーな事かもしれないと思いはじめてきた。

今日は野球場に何しに来たのであろうか?もちろん野球を見るためである。しかし、興味の対象が野球からビールを飲むことになってしまった。


5-3で迎えた、7回、日ハムピッチャー交代。林。元巨人の選手である。燃えないわけがないだろう。昨日も大事な場面でホームランを打たれている。リベンジに燃えたマウンドである。しかし、林が四球とヒットを打たれ、ノーアウト1,2塁のピンチを招いてしまう。バッターは2番高橋。左対左なので、林は絶対に押さえなくてはならない。しかし、林と高橋では役者が違った。逆転スリーランホームラン。6-5、巨人逆転。


林ノックアウト。一体、何をしにマウンドにあがったのだろう。巨人のまわしものであろうか。糸数が6回まで頑張ってきたのに試合を一瞬にしてブチ壊してしまった。

日ハムピッチャー交代。49番?珍しい。42番と並んで日本選手が着けない背番号である。右サイドスローのピッチャーがマウンドにあがる。











元横浜の加藤である。日ハム、弥太郎、稲田、松山と横浜、加藤、松家、関口の3:3トレードで移籍したのだが、育成段階の松山は別にして、日ハムから来たメンバーで横浜で活躍している選手は今のところいない。弥太郎は未だに1軍に昇格しないし、稲田が出ることは滅多に無いし、打ったのを見たことがない。しかし、日ハムに行った加藤は貴重な中継ぎとして活躍中であるし、松家も1軍登板を果たしている。またまた横浜フロントによるトレード失敗である。横浜から日ハムに移籍した3選手はプロ野球選手としては珍しく国立大卒である。加藤(東京学芸大)、松家(東京大学)、関口(滋賀大学)、文武両道を実践してきた選手達である。東大卒の松家を筆頭に将来のフロント候補としても期待していたのだが、あっさりとトレードに出してしまった。横浜のガン笹川の策略に違いない。将来、自分の地位を脅かしそうな国立大卒の選手を全員、他球団に放出してしまったのである。危険な種は若い芽から摘んでおく。こうして長年、自らの地位を保ってきたのであろう。上に取り入る能力だけでなく、自分の障害になりそうな人物は選手の段階でトレードに出してしまえば、危険はない。このまま笹川が定年を迎え退任するまで、横浜は低迷し続ける可能性が高い。その前に球団が消滅、移転する可能性だって十分にあり得る。笹川というガンを一刻も早く排除しなければならない。球団に巣食うガンはすでにあちこちに転移している。横浜は人間でいったらもう死にかけである。


加藤、小笠原を三振、ラミレスにヒットを打たれるも、阿部を併殺に打取る。見事な火消し役である。一気に巨人に流れがいき、大量点を与える回になりかけたが、リードされたといっても、1点差である。まだまだ、十分に逆転可能である。





加藤、横浜に戻ってきてくれないだろうか。悪いのは放出したフロント、笹川であってファンは復帰を願っている。





日ハムの反撃なるかと期待したが、越智にピシャリと押さえられる。やはり、逆転スリーランは心が折れる。反撃ムードも高まらない。

ゲームの終盤だが、ビール戦争も終わりを迎えようとしている。またまた、モルツの売り子がやって来た。「もう飲めないよ。絶対!」「今日はこれで最後なんです。お願いです。飲んで頂けないでしょうか?」結局、買ってしまった。足元にはビールの紙コップが何個も重なり合っている。野球のスコアにすると5-0の完敗であった。


8回、日ハムのピッチャーは元巨人の木田。2安打打たれるも、円熟の投球でツーアウトまでこぎつけた。


















ツーアウトだが、ランナーが2人塁に出ている。これ以上点をやるわけにはいかない。日ハム、宮西にスイッチ。宮西がピシャリと押さえる。最終回の味方の攻撃に託す。






巨人、1点リードで最終回のマウンドにあがるのは巨人の守護神、日本最速の男、MAX161kmの豪腕クルーン。








日ハムは1番田中から始まる好打順。しかし、田中ショートゴロに倒れる。






代打二岡。元巨人の意地を見せてくれるだろうか。しかし、クルーンの速球の前にあえなく三振。






日ハム続いても代打攻勢、期待の若手陽が打席に入る。しかし、クルーンの速球に詰まらされキャッチャーフライ。ゲームセット。さすがクルーンである。まだまだ衰えていない。まだ数年はプレーできそうだ。

クルーンはもう限界だと判断して、放出した横浜フロントの責任を問いたい。笹川を退任させるから、クルーンは横浜への恨みつらみは水に流して、来季は横浜に戻ってくれないだろうか。


巨人が見事な逆転勝利を飾った。ベンチ前でハイタッチ。






ヒーローインタビューの準備中。今日のヒーローはもちろん・・・。






ホームラン2本の高橋。特に7回の逆転3ランは、やはりこの男はヒーローの星の下に生まれたとしたいいようがない。









6-5で巨人の勝利。O君も大喜びである。終盤の巨人の攻撃は見事としかいいようがない。野球の楽しさを十分に堪能した試合だった。別に巨人が勝とうが、日ハムが負けようが、どちらのファンでもないので、嬉しくもないし、悔しくもないし、ストレスも溜まらない。








加藤、クルーンと元横浜の選手がいい働きをした。ただそれだけが嬉しかった。

数少ない貴重な戦力をいとも簡単に放出する横浜のフロントは何度も言うが、必ず責任を負わなければいけない。ファンもフロントの責任を追及しなければいけない。

選手にしては、横浜で一生プレーするよりも、優勝の可能性の高い巨人、日ハムでプレーした方が野球選手としては幸せであろう。数年間、在籍すれば、必ず優勝を経験できるであろう。もし、横浜に在籍し続ければ、38年間に一度のペースでしか優勝できない球団である。選手自身が一番、どれくらいの間、現役の野球選手でいられるか分かっているはずである。現役の1年1年の重要性を理解している選手ほど、野球選手の価値は優勝を経験したか否かで評価される事をよく理解している。より優勝の可能性の高いチームでプレーしたいと思うのは当然であろう。横浜の主力選手が他球団に流出する度に、ファンとして何度も寂しい思いをしてきたが、選手側の気持ちに立って快く送り出せる器量の大きな人間になっていきたい。

でも、死ぬ前にもう一度だけでいい。横浜の優勝が見たい。


おわり
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2010年6月5日巨人VS日ハム1

2010年07月10日 | 日本
6月5日(土)



巨人ファンのO君が東京ドームで観戦したいと言うので、チケットを予約しに動くも、すでに売り切れ。ヤフオクでもプレミアがついて高い。金券ショップでも同様であった。

今季、巨人は絶好調であるし、ファンの熱気も例年以上にヒートアップしている。日ハムは今季は低迷しているとはいえ、昨年のパリーグ覇者である。いずれ、上昇してくるであろう。しかも、その日はローテーション的にダルビッシュが先発濃厚である。東京ドームでの巨人戦はただでさえ、チケットが入手困難であるが、この内容ではプレミアがついて当然である。

しかし、半分諦めかけていたある日、ふと訪れた神田の金券ショップでS指定席通常価格5900円のところが、4000円で売っていたので、当然、その場で即座に購入した。同様の席がプレミア価格で軒並み10000円以上していたのに、この店だけ、一体、どうなっているのだろう?値決めが下手なのか、野球に詳しくないのか。



2007年にO君と一緒に大阪ドームで野球観戦した時も、オリックスVS日ハムであった。しかも、先発はダルビッシュであった。ダルビッシュが押さえて、稲葉が決勝打を放つ日ハムの必勝パターンで見事に勝利した。日ハムファンではないが、日ハムには何故か縁を感じる。昔、日ハムが札幌に移転する前、東京ドームで何度か観戦した時も全て勝利した記憶があるし、2軍が鎌ヶ谷に移転する前、相模原に本拠地を置いていた頃、当時、住んでいた家が近くだったので、横浜との2軍戦を見に行っていたが、日ハムが負けた記憶がない。

以上の実績から考察すると、過去、日ハム戦を観戦して負けた事がないと仮定すれば、当然、勝率は10割である。試合観戦数は思い出せる範囲で、1軍で5,6試合程度、2軍では10試合前後、通算成績は16戦16勝というありえない好成績である。私は日ハムにとっては勝利の女神のような存在である。しかし、残念ながら、日ハムは好きでも嫌いでもない。はっきりいって無関心に近い存在である。パリーグの試合は他球団の試合、選手が見たくて、東京ドームで行われている対日ハム戦を見に行ったのである。それ以外は何となく野球を見に行きたい気分だが、その日に東京でセリーグの試合が無く、たまたまその日に東京ドームで試合をしている日ハム戦でも見ようか、他に選択肢が無いからしょうがないな、といった感じである。大阪ドームに行った時は行ったことのない球場だから一度は行ってみたいので、行ってみたら、たまたま日ハム戦だったというだけである。相模原で行われていた、2軍戦に至っては100%横浜の試合が目的であり、日ハムにはほぼ無関心であった。

しかし、相模原での2軍戦で横浜が勝った記憶がないというのは奇妙である。10試合前後も見ているのに不自然である。おそらく、当時の横浜の2軍はとても弱く、日ハムの2軍は将来有望な若手が数多く活躍して、相当強かったのであろう。その結果、その時に2軍で汗を流していた選手達がその後の常勝軍団、日ハムの主力選手へと成長していったのであった。反対側からの視点で見ると、横浜がその後、長期に渡って低迷する原因は、相模原に住んでいた時期の1996年~1999年にまでさかのぼる。1998年に横浜は38年ぶりの念願の優勝を果たす。前年は2位、優勝の翌年は3位と、その後の横浜はかつてのBクラスが指定席の弱小球団が嘘のように、Aクラスの時代がしばらく続いた。優勝時のメンバーの主力選手の脂の乗り切った時期と重なるが、それに慢心してか、球団が次世代を担う2軍、若手選手の育成、発掘に熱心でなかったことが、今の最下位が指定席という無惨な結果につながっている。常勝チームは主力選手の世代交代がスムーズである。つまりは層が厚いのである。スカウトの選手を見る目が確かで、2軍のコーチの育成手腕も確かである。

あの時期の横浜は確かに優勝した事実が証明するように強かった。その前後の数年間はAクラスの常連であり、素晴らしい選手が集まっていたが、いかんせん層が薄かった。その主力選手がひとり、ふたりと欠けていくと、またたく間に弱小球団に逆戻りしてしまった。選手発掘能力の低いスカウトによるドラフト戦略の失敗、また、2軍コーチの育成能力の欠如、など理由は誰もが理解できる明瞭な事である。その後の急激な弱体化、そして現在に至る出口の見えない長いトンネル、暗黒時代の始まりは、意外な事に実は優勝した1998年前後から始まっていたのではと考えられる。


しかし、悲しいかな、長年、この球団のファンをしていると、長いトンネルがトンネルとも思えなくなってくるのである。それが当たり前の光景に見えてしまうのである。小中学生の頃、横浜(当時は大洋)が優勝できるなんて夢にも思っていなかった。もちろんファンなので勝利を願っているし、勝てば嬉しく、負ければ悔しい。しかし、シーズン通しての希望は高く持ってもせいぜい3位、現実的な目標は4位か5位、最下位だけは避けてもらいたい、その程度の希望、目標が長年続くと、おそらく、生きているうちに優勝は無いだろうと半分は本気でそれほど悲観的に思わざるを得なくなってしまうのだが、大洋ホエールズから横浜ベイスターズと球団名を変えてからは球団の優勝への意気込み、本気が伝わるようになってきた。徐々に大洋カラーが消えて、チームカラーが変り、選手達が実力をつけていき、とうとう1998年には念願の2度目の優勝を果たす。38年ぶりの優勝は日本最長記録であった。

優勝の瞬間は球団が弱い時代から、ずっと応援してきた仲間達と一緒に横浜スタジアムで喜びあった。感極まって涙する仲間達。弱小球団を長い間、応援してきて優勝して涙が出てこない人間はそこにはいなかった。そんな中で、私は実感が湧かず、頭がぼーっとして、夢を見ているような感じで涙は出てこなかった。ぼーっとした頭で、涙を流す仲間達を傍観者的に見ていたのだが、優勝直後にOBのインタビューが行われ、(大洋時代の投打の主力、田代と遠藤が来ていたのだ。なんという粋な計らいであろう!)嬉しさ爆発といった感じで饒舌に受け答えする田代のインタビューの後で、遠藤にマイクが向けられたのだが、饒舌な田代と対照的に、なかなか遠藤の言葉が出てこない。言葉が出てこない時間が続いた後、遠藤が突然、メガネを取った。そして、その瞬間、彼の目から涙がこぼれ落ちた。涙が邪魔をして言葉にならず、「嬉しいです。」と一言、言うのがやっとであった。

私は遠藤の目から、涙がこぼれ落ちたのを見た瞬間、突然、号泣し、その場にしゃがみ込んでしまった。優勝した瞬間に涙を流した仲間達の中で、ただひとり涙を流すことなく、優勝したという実感がなく、多分、夢でも見ているのだろうと、傍観していた感すらあった私であったが、遠藤の涙を見た瞬間、目の奥からではなく体の奥、より正確に言えば、心臓のど真ん中の奥底のあたりから涙が込み上げてきたのである。それは不思議な事に、優勝の嬉し泣きではなく、遠藤に優勝させてあげたかったという悲しい涙であった。優勝したのは当たり前だが、もちろん嬉しかった。今までに経験した事のない嬉しさであった。しかし、その嬉しさよりも、どういう訳だが、悲しさの方が上回ってしまったのである。号泣というよりは、嗚咽に近い泣き方であった。最後にこんな泣き方をしたのはいつの日だったのだろうと思った。多分、思い出せないくらい遠い昔、小さな子供の頃であろう、今までに経験した事のないほどの、とても悲しい出来事があった時以来だと思った。しかし、その悲しい出来事が一体、何なのかは未だに全然思い出せないし、見当もつかない。大した出来事でなくても、小さな子供にとっては、かなりのショックで悲しい出来事だったのかもしれない。

今でも、あの日の遠藤が涙を流した瞬間のことは、まるでスローモーションを見るかのように脳裏に鮮明に焼きついている。12年も前の出来事であるが、まるで、昨日の事のように思える。そして、あの瞬間を思い出すと、今でも目頭が熱くなってくる。いつか機会があったら遠藤に聞いてみたいと思っている。あの時の涙の意味を。嬉しさなのか、悲しさなのか、あるいはその両方が混ざり合ったものなのか。それとも、それ以外の何かがあるのか。


あの歓喜の優勝の瞬間を横浜スタジアムで過ごした一緒に喜びあった仲間達、にわか横浜ファンではない、オールドファンの多くが、本音のところでは、私と同じ思いを抱いていたに違いない。横浜ベイスターズの優勝ではなく、本当は大洋ホエールズの優勝が見たかったんだと。

優勝の嬉しさの余韻が覚めやらぬ、優勝の瞬間の5分くらい後だったか、となりにいた仲間のひとりが、ぽつりと「もう優勝はしばらくいいや・・・」と言った。私も全く同じ気持ちだった。彼と私以外の多くのファンも同じ気持ちだったと思う。普通のプロ野球ファンなら毎年のように応援するチームに優勝して欲しいと思うのが当然である。特に強い球団のファンほど、当たり前のようにそう思うであろう。しかし、横浜ファンは違うのである。一生に一度、優勝を見ることができた。それだけでもう満足なのである。極端な話、優勝のその瞬間に死んだとしてもこの世に未練は無いのである。

その発言の数分後、彼はこう言った「でも、死ぬまでにもう一度だけでいい、優勝を見てみたい。今と同じ気持ちを一度だけでいい。経験したい。」全く同感であった。世界中でこんなに慎ましいプロ野球ファンがいるだろうか。答えはひとつ。横浜ベイスターズファンのみである。私は日本一の野球ファンは横浜ベイスターズファンだと思っている。そして、こんな最高の仲間達とめぐり合えた自分は最高に幸せだと思っている。横浜ベイスターズが縁で出会い、集まり、強い絆を共有できた仲間達である。きっと、一生、付き合っていける仲間達であると、その時、確信したのであった。

そんな日本一のファンに愛され、支えられている横浜ベイスターズは日本で、いや世界で最も幸せな球団だと思う。しかし、球団はこの日本一、世界一、心優しいファンに甘え、あぐらを掻いていないだろうか。この日本一、世界一、心優しいファンがいなかったら、とっくの昔にこの球団は消滅していたか、それとも、身売りされて、横浜ではないどこか違う都市に移転していたのではないかと思う。球団関係者には、今一度、プロ野球球団とは一体何か、何を追い求め行動し、どういう結果を出さなければいけない使命を帯びている集団なのか、その使命を果たすことが生存条件なのだという事を真剣に考えて欲しいと願っている。



横浜ベイスターズの事を語り始めると止まらなくなってしまう。だいぶ脱線したが、今日は、巨人VS日ハムのゲームである。今回はO君のいわばおつきあいである。O君は横浜生まれで、これまでの人生で神奈川県から転居したことの無い、生粋の神奈川県民だが、熱烈なG党である。神奈川県出身者の大半はそんなものである。神奈川県出身の横浜ファンに出会うことの方が難しい。大半の神奈川県民にとって横浜ベイスターズは無くても困らない存在で、別に好きでも、嫌いでもない。無関心なのである。むしろ高校野球の方に関心が向いている。さすが、高校野球界でかつて「神奈川を制する者は全国を制す。」とまで言われただけの事はある。これも県民性であろう。高校野球の県大会がこれほど盛り上げる県も無いだろう。参加高校数は全国で断然トップである。

O君はG党の多くがそうであるように、巨人以外の球団に好き嫌いはない。巨人以外はプロ球団にあらずといった感じで、他球団の事は極めて無関心である。当然、本来は地元の球団であるはずの横浜ベイスターズにも極めて無関心である。しかし、彼に郷土愛が無いのかと言うと、そういう訳ではない。高校野球、自分の母校の応援は巨人以上に熱狂的である。O君の母校は60、70年代に甲子園の常連として黄金期を誇った時代があり、今でも毎年、ベスト32、16、8程度には進出する程の強豪である。(神奈川県でベスト16、8はすごい事である。その時点で4,5回は勝っていないといけないのだ。田舎の県ならとっくに決勝戦になってしまっている。)毎年、チームの戦力分析を細かく行い、年に2,3回以上は必ず応援に足を運ぶほどの熱心さである。


良席での観戦なので、試合前練習からじっくり見たい。今まで、東京ドームで観戦した時は外野席と取引先企業に招待された、シーズンシートの1塁側でした見た事が無い。バックネット裏は初めてである。






到着した頃は、ちょうと日ハムの打撃練習中であった。












バックネット裏のシートはクッション付きで座り心地が良さそうだ。雨の心配の無いドーム球場ならではの配慮である。





中継用のカメラ。






記者席。






1塁側で巨人の投手が子供とキャッチボールをしている。どこかで見た顔だと思ったら、元横浜のストッパーで現在は巨人のストッパーのクルーンであった。






大洋時代は外国人選手をとるのが上手だったが、名スカウト牛込氏の退任後、やって来くるのはハズレ外人ばかりになってしまった。その中でも、数少ない当たり外人がクルーンとウッズであったが、どういう訳か、フロントは同一リーグの球団に放出してしまう。その資金で安い外人を大量にとってきては、失敗する。これを何度も繰り返している。安物買いの銭失いとはまさにこの事である。フロントの学習能力の無さ、無責任さには本当に頭に来る。監督、選手に責任を取らせてばかりで、自らは責任を負わない。まずはフロント陣の刷新から始めないといけない。そのフロント陣でなぜか、のうのうと生き残っている人物がいる。現在の業務部長・連盟担当笹川博史という人物である。この人物の経歴を見ると、要注意人物である事は一目瞭然である。

笹川 博史(ささがわ ひろし、1953年5月5日 - )

大宮高校から、1971年ドラフト7位で大洋ホエールズへ入団。長身の大型捕手として期待される。1980年、博から博史に改名。一軍出場することなく、1981年に現役引退。

1982年にスカウトになり、1986年からはスコアラーを務める。その後フロント入りした。1998年に運営部長に就任し、選手の査定などを担当。2003年に失敗続きのFA、外国人選手獲得、トレード補強戦略の責任をとらされ、運営部長から運営部長へ更迭。(???更迭されていないでないか?意味不明である。)2009年から取締役・業務部門統括に就任。(これほど見事に失敗続きの人物なのにどういう訳か取締役にまで出世している。)

選手としては全く活躍できず(一度も1軍に上がることなく、よく10年間もプロで飯を食えた事はある意味ですごいと思うが)、スカウト・フロントでも失敗続きであるこのような人物が長年球団に留まり続け、どういう訳か、取締役にまで出世するのである。選手としてもスカウト・フロントとしても全く能力は無いが、上に取り入る能力、処世術によほど長けているのだろう。大卒では無いが、大宮高校という埼玉県屈指の進学校出身なので、そこそこ地頭はいいのだろう。しかし、その頭を自らの保身の為にしか使わない。この人物が横浜の癌である事は明らかで、球団に留まっている限り、現在のチーム体質は絶対に変らない。この癌を排除できるのは球団社長、オーナーしかいないのであろうが、そこは上に取り入ることで、今まで生き残ってきた人物である。あの手この手で、既に、自らの保身を画策済みであろう。上層部自らが球団に巣食う癌を排除できないのならば、唯一、可能性があるのはファンの力である。ファンの力で球団に巣食う癌を排除しなければならない。今までの成績不振の責任を監督、選手の責任とし、ファンの批判の目を監督、選手に向かせて、その影で、ひたすらに自らの保身を保ってきた笹川。ファンの力で笹川批判を発生・拡大させ、一刻も早く退任させない限り、球団の将来は無いと断言できる。この笹川という人物、選手として、スカウトとして、フロントとして、3度もファンを裏切っているにも関わらず、未だに球団に留まり続け、高給を受け取り続けている。まともな神経の持ち主ならば、とっくに自ら身を引いているはずである。こういう人間の事を会社員なら社賊という。笹川は球団職員なので球賊である。


球賊笹川の事を考えるだけでも、ムカムカしてストレスになる。ドーム内を散歩して気を紛らわしたい。









試合開始の時刻が近づいてきた。ラジオの実況席には小さな巨人、若松氏が座っている。近くで見る若松氏は本当に小柄でどこにでもいるおとなしそうなおじさんといった雰囲気である。とても偉大なプロ野球選手だったとは思えない。






試合開始前、アナウンサーが実況を開始する。「ニッポン放送ショウアップナイター、本日の解説は若松勉さんでお送りします。若松さんよろしくお願いします。」横で生実況を聞く事ができるなんて思いもよらなかった。そういえば、小中学生、高校生の頃はよくラジオで野球中継を聞いたが、それからラジオで野球中継を聞く事は無くなってしまった。自分でテレビを持つようになったからだ。






中継も始まり、スターティングメンバーの発表の時間も迫ってきたので、急いで席に戻る。

いよいよスターティングメンバーの発表。巨人の先発はセリーグの最多勝、防御率争いでトップに立つエース東野、日ハムの先発は当然、全日本のエース、ダルビッシュかと思いきや、意表を突いて糸数である。ダルビッシュは右肩痛で登板回避らしい・・・。ダルビッシュはまだ若いのに、年々、ガラスのエース化している。先発糸数とアナウンスされた瞬間、金返せと言いたくもなったが、このようなサイドスローの軟投派タイプに巨人の強力打線は案外弱いかもしれないと思った。ごく普通の公立高校の軟投派投手が強豪私学の強力打線をのらりくらりとかわしていくみたいに。しかし、高校野球の場合は押さえられてもせいぜい1順目までである。2順目からは打線に慣れられて、連打を浴びて、一気にコールド負けとなるパターンが多いがプロ野球ではどうだろう。今の東野ならば、さほど打たれる事無く、長いイニングを投げるであろうから、日ハムの継投策がピタリとハマり、巨人打線を押さえる事ができれば、案外、ロースコアの接戦になるかもしれない。


試合開始。






初回、日ハムは東野の立ち上がりをとらえ、2安打するも、走塁ミスもあり、無得点。もったいない攻撃内容であった。今年の日ハムはまだ乗り切れていない。そつなく野球をこなすチームのはずだが、チグハグである。

糸数の立ち上がりは、無難に1番坂本を打取る。しかし、警戒のあまり、2番高橋に四球を出してしまう。2番に高橋とは反則ではないか?強大戦力の巨人ならではの選手の使い方である。しかし、その後、小笠原を併殺に打ち取り、チェンジ。





立ち上がりを見た限り、東野にいつもの凄み、安定感がない。不安定な印象を受ける。糸数はサイドからの直球は138km前後だが、のらりくらりとかわしていくような気がする。

最初の予想通り、ロースコアの接戦になる可能性が高いかもしれない。今日は、意外な選手の一振りが試合を決めるかもしれない。
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2010年5月9日東京スカイツリー

2010年07月04日 | 日本
5月9日(日)


話題の東京スカイツリーを見に行く。

押上駅に降り立ったのは初めてである。成田空港に行く時に通過するだけの駅であった。しかし、この駅は実は京成、東武、地下鉄半蔵門線の三路線が交差する交通の要衝である。

再開発中の駅前を抜けると、下町風情の街並みが続く。

当たり前だが、高層建築のない所である。

東京スカイツリーの建設現場が近づいてきた。現在の高さ368mなので、既に東京タワーの333mを追い抜いている。









白い枠組みの巨大なタワーである。基礎工事が大変だったであろう。塔のデザインは日本古来の五重塔から由来している。また、技術的にも五重塔の心柱制振など古来の技を日本の最新技術で再現しているらしい。






見上げるとさすがに高い。最終的には634mになるらしい。これからさらに266mも高くなるのだから、想像を絶する高さである。






東京スカイツリーの高さは、プロジェクト当初、610mを想定し、電波塔世界一を目指していたのだが、世界各地で高層建築物が計画、建設されているなかで、中国でそれ以上の高さの電波塔が完成する計画があり、国家威信をかけた競争となった。結局、てっぺんに長い柱を取り付ける事により、634mの世界一の高さを確保する事となった。苦肉の策、窮余の策といった感がある。

634mはこの地域の旧国名の武蔵(6む3さ4し)とかけているらしい。これもまた、強引なこじつけである。あまり覚えやすくない。どうせなら、666mにしてしまえば、東京タワーの2倍の高さになり、きりがいい。そして高さも覚えやすい。ここまでくれば残り32mなんておまけ程度に簡単に造れるのではと思う。






完成前の姿は今しか見られない。いわば歴史の証人である。大勢の見物客で賑わっている。






完成すればこんな形になるようだ。






完成後は、押上という、下町のあまりぱっとしない地域が一気に人気の観光エリアになるだろう。周辺の再開発も平行して盛んにおこなわれている。









恐らく完成するまで、もう来ないだろう。もしかすると、完成しても来る機会が無いかもしれない。この類の塔は登って景色を楽しむよりも遠くから見る方が絵になる。都心の高層建築に囲まれた夜のライトアップされたオレンジ色の東京タワーを見ると心が癒される。

このあたりは都心ではないので、高層建築はない。完成すると634mの高さを誇る巨大建築物である。ひたすら東京を見下ろす威容を誇る存在になるだろう。

東京タワーが優しい癒し系だとすると、東京スカイツリーは威風堂々としたすべてを圧倒する威圧系のような存在になるだろう。






このまま西へ歩いていくと、隅田川である。






浅草の対岸のアサヒビール本社の名建築に新たに東京スカイツリーが並び、すでに新たな名風景となっている。






せっかく、ここまで足を運んだので浅草界隈を散歩する。江戸時代から続くような風景である。















浅草寺の本堂は長期に渡る保存工事中であった。それにしても、ここ1,2年は全国どこの神社仏閣、旧跡の類は保存工事をしている所が多い。






浅草らしいの味のある浅草観音温泉。本当の温泉かどうかは不明であるが、浅草でそんな事を言うのは野暮な事である。








浅草花やしき。昔、一度だけ来たことがある。






浅草らしい飲み屋、煮込み屋の店が続く。日中から大賑わいである。











そのうちの1軒の呼び込みのおばちゃんに一杯飲んでいかないかと呼び止められる。まだ4時である。「こんな早い時間から酒は飲めない」と言うと、「浅草に来てそんな野暮な事、言ってんじゃないよ」とたしなめられる。全くその通りである。何も反論はできない。






欽ちゃんやビートたけし、浅草芸人が愛してやまない、くじらの店捕鯨船。「鯨(げい)をくって芸(げい)を磨け!!」は有名なキャッチフレーズである。しかし、ここの店主のトークは下手な芸人よりよっぽどおもしろい。






その隣には渋い定食屋。昭和の時代を感じる。こういう店は浅草ならずっと生き残れるかもしれない。






浅草界隈の渋いストリートを歩きながら、上野、御徒町方面へ歩いていく。












浅草、上野は同じ台東区である。距離的に近いイメージがあったが、意外と遠く30分もかかってしまった。


浅草は古くからの風情ある店が多いのだが、いかんせん観光地価格といった感じで飲み食いすると結構高くつく。台東区で安くてうまいもの、特に海産物を食べるなら、上野、御徒町界隈が一番だ。

まずは炭火で炙ったイカで一杯。ビールはもちろん地元のアサヒ。今日は結構歩いた。ビールがうまい。今日はどんどん酒を飲んで、うまい海産物をたらふく食おう。まだ夜は始まったばかりである。








後日、バルコニーの洗濯物を取りこんでいたら、東京スカイツリーが見えることに気がついた。自宅のある池袋から押上は結構距離がある。まだ、未完成にも関わらず、その距離感を感じさせないスケールの大きさである。

やがて完成したら、東京のどこからでも見えるようになるかもしれない。

※池袋の自宅から見た2010年7月3日時点での東京スカイツリー。










これでも高さ398mである。これから236mも高くなるのである。





おわり。
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2010年4月2,3日神宮・新潟

2010年05月06日 | 日本
2010年4月2日(金)


会社帰りに同じベイスターズファンのSさんと神宮に観戦に行く。昨年のこの時期もふたりで観戦に行った。とても寒い神宮球場、三浦と一場の息の詰まる投手戦を見事制したのは、我らがベイスターズであった。

今日も昨年と同じくらい寒い。昨年は寒さのあまり、ウィスキーのお湯割りを飲みながらの観戦であったが、今日は何とかビールが飲めるくらいである。球場に着いたのが3回表、1-0で負けている。寺原とバーネットの投げ合いが続き、結局、そのまま最終回まで来てしまった。こうなると、イム・チャンヨンが出てくるヤクルト必勝パターンである。あまり観客もいないので、バックネット裏に移動してプロの迫力のあるプレーを堪能する。

あんな速い球を投げるほうも投げるほうだが、それを打ちかえすほうも凄い。とても人間技だとは思えない。バックネット裏で見るプロ野球は神々の戦いの域に達している。


最終回の攻撃は4番村田から。これまでわずか3安打に抑えられているベイスターズだが、一人気を吐いてそのうちの2安打を放っている。今日最も期待できるバッターである。





村田三振。まだスイングが本調子ではない。速球に振り遅れている。例年、スロースターターなので夏場になると本塁打を量産するのだろうが、残念ながら、例年、その時期にはベイスターズはペナントレースから脱落してしまっている。村田にはシーズン開幕から打ちまくってもらわないとペナントレースに残れない。






続いて、日ハムから移籍の頼れる助っ人5番スレッジ。





しかし、速球に詰まらされてセカンドゴロ。






最後のバッターになるのか、6番カスティーヨ。2年前までバリバリの現役メジャーリーガーで通算39本塁打を誇る実績十分のスラッガーなのだが、どういう訳だか昨年は台湾でプレーしている。年齢もまだ29歳と若いのに謎の経歴の選手である。しかし、さすがにチーム1の打率.333。最も期待が持てる選手である。シーズン終了後、セカンドとしてローズの1年目(確か打率296、本塁打15本程度だったと記憶している)くらいの成績を残す可能性を秘めている。

カスティーヨ、意外に選球眼よく四球を選ぶ。ローズもよく四球を選んだものだ。いい外国人バッターはよく四球を選ぶ。去年のハズレ外人ジョンソンもよく四球を選んだが・・・。

久々の出塁。代走野中。すかさず、盗塁。スタートが最高に素晴らしく、一気にトップギアに入るような加速が凄い。タイミング楽々セーフだが、これが相手のキャッチャー相川の悪送球を誘い、野中3塁に到達。俊足のランナーを代走に出して、バッテリーを揺さぶり、相手のミスを誘うという緻密な戦法がズバリ的中、去年までの粗い野球を繰り返していたチームとは違った印象を受ける。

ツーアウトランナー3塁。一打同点のチャンスでバッター下園、今日はスタメンから不振の吉村を外して下園を抜擢している。どんなに不振でも吉村を出し続けた昨年とは違ってチーム内で競争をさせている。若手に実力があってもチャンスを与えずに腐らせるのならどんどんチャンスを与えた方が良いに決まっている。また、慢心しているのかまだ若いのに年々劣化してきている吉村に危機感を持たせる意味でもいい事だと思う。

下園は与えれたチャンスをモノにしなければ、今後、プロでやっていくのは難しいかもしれない。それくらい重要な打席である。吉村と違って、左打者である。右サイドのイムに対して球筋は見やすいはずである。



イムが投球モーションに入る。








バックネット裏、最前列で見るイムの投球はエグイ球筋でものすごくキレがある。サイドから150km中盤の速球を投げ込んでくる。こんな速いサイドスロー投手は今まで見たことが無い。





下園追い込まれて、最後の1球。バックネット裏で見ているのでよく分かるのだが、バットにボールがかすった。下園のアッという声が聞こえる。そして、ボールはキャッチャーミットに納まった。三振、ゲームセット。

イチローは空振りすることなく、ファールで何球も粘って、やがて、イムが根負けして最後は真ん中高めに甘い球が来てそれを見事にセンター前に打ち返してヒットにした。プロの世界、1流選手と平凡な選手との差は、プレーにしてほんの数ミリ単位の差なのである。プロの世界とはなんとも厳しいものである。





1-0で負け。散発3安打で14個も三振を奪われていたら勝てるわけがない。





ベイスターズの選手は負けても悔しくないのだろうか。全然、悔しさが伝わってこない。何が何でも勝つのだというガツガツしたものが伝わってこない。選手全員が淡々とプレーをしているように見えてしまう。負けてそそくさと退散した日本人選手たちと違い、この寒さのなか、ベンチでただ一人、半袖シャツ1枚で腕組みをしながら、じっとグランドを見つめていたカスティーヨの姿だけが印象に残った。残念ながら、今のベイスターズで本物のプロはこの男だけかもしれない。






尾花監督もベイスターズの選手達のプロ意識の低さにいずれ気がつき、ダメな集団には何をやってもダメだという事が分かるだろう。あれほど意識改革を浸透させようと頑張っているのに、今のところ誰もついてこれない。このままでは牛島監督と同じようにチームを変革しようと頑張ってもやがて周囲に潰されてしまう可能性が高いかもしれない。しかし、牛島監督、大矢監督も1年目は勝率5割に近い3位、4位だったので、尾花監督の1年目の今年も3位、4位になる可能性を秘めているが、肝心なのはそれを持続してさらに上昇できるかである。





決勝打を打った相川と初勝利を飾ったバーネットのヒーローインタビュー。千葉の無名の高校生だった相川をドラフト5位という下位指名してあげて、さらに結果が出ずとも我慢強く長年使い続けてあげて、ようやく一人前の戦力なった途端に同一リーグのライバル球団へ移籍するような恩知らずの裏切り者のヒーローインタビューなんて聞きたくない。まずは優勝して恩返しをして結果を残して自分の行きたいところへ行くのなら誰も文句は言わない。谷繁も同じ事をしたが優勝という偉大な置き土産を残してから去って行った。





少なかった観客も早々に帰路に着いた。ゲームセット後の宴の後のような球場もまた良いものである。勝てばなお良しである。





8:30には試合が終わってしまった。お互いに不満が残った結果だったので、飲み屋で延々と球団批判を繰り返した。また、再建策も延々と議論したのだが、私の温めていた持論の再建策は川崎生まれの川崎育ちの川崎在住の生粋の神奈川県人であるSさんには話せなかった。

なぜ、ベイスターズは弱いのか、再建できないのか?なぜ?なぜ?原因を5回繰り返す。そして出た結果が原因の原因、いわゆる真因である。強い組織、世界一になるようなチーム、集団、企業ではこれを習慣として何度も繰り返している。

真因が解決されなければ、いつまで経っても弱いままである。ファンの中にも真因を追求している方が立派におられる。

横浜再建策 



2010年4月3日(土)


翌日は朝の4時に起きて、新潟へ向かう。

昨年の夏に来た磐梯山もすっかり雪化粧である。今はまだスキーが可能な季節である。





会津若松で知り合いと会った後、新潟に到着。





新潟の市街地に来たのは初めてである。駅と市街地との間には日本一の川、信濃川が流れる。








新潟は日本海側で唯一の政令指定都市で大都会のイメージがあるのだが、思ったほど大きな都市の規模ではない。市街地も活気が無い。仙台、広島、福岡クラスの都市の規模と活気があると期待していたのだが、その半分以下である。とても人口80万の都市とは思えない。人口45万の金沢よりも劣る印象である。





商店街も静まり返っている。





路地裏の通りも静まり返っている。





面白かったのは、新潟出身の漫画家水島新司の野球キャラがたくさんいる通りである。


殿馬。右打者だった。器用なので左打者、スイッチのイメージがあったのだが。でも、セカンドなので右投げなので、右打ちが妥当であろう。





岩鬼。右打者。これは覚えている。器用ではないので、右打者がしっくりくる。





ドカベン。山田 太郎。ドカベンといえば左打者である。それ以来、左打ちのキャッチャーには打撃を必要以上に期待して見る様になってしまった。現役のレギュラークラスのキャッチャーで左打ちは巨人阿部、オリ日高、ベイ橋本の3人だけである。いずれも打撃はいい選手達である。しかし、今年の橋本にはもっともっと頑張って欲しい。





近くで見ると目が無い。





小さな巨人里中。ガラスのエースと言われながらも、なんだかんだ言ってひとりでよく投げぬいたと思う。ベイスターズのエースも昔は平松、今は寺原とガラスのエースタイプである。タフに頑張ってきたのは遠藤くらいか。三浦は通算勝利数では遠藤を上回るのだが、そんなに勝っている気がしないし、安定はしているものの、エースと呼べるほどの凄まじいピッチングをした記憶がない。





これはもしかして岩田 鉄五郎?これではまるでよぼよぼの老人に見える。






新潟の観光名所、白山神社へお参りに行く。






新潟の弱点は玄関口の駅と駅周辺の新市街地と旧市街地が巨大な信濃川で分断されていることである。





しばらく、街歩きを楽しむが、夕暮れ時が近づいてきた。いつの間にか港に来ていた。





フェリーターミナルでは佐渡に向かう大勢の人々が乗船を待っている。いつの日か佐渡に行ってみたい。自分好みの明るい海に囲まれた島というイメージでない。むしろ反対である。流罪地、罪人を使役する鉱山、厳しい気候条件。しかし、この島にはなぜか多くの旅人をひきつける独特の魅力がある。








カーフェリーは安いが時間がかかる。ジットフォイルは速いが高い。香港・マカオ間のジェットフォイルには何度も乗ったが、海の乗り物であれほど速くて快適なものはない。70kmの距離を1時間で走破するのだが、運賃はわずか2000~3000円程度である。香港・マカオにとって需要な交通インフラであるので国から補助金でも出ているのであろうか?日本ではコストが嵩んでしまうのか、なぜかいまいち普及しない。伊豆七島のような本土から中途半端に離れているような島、または小笠原とか飛行機では行けないが遠い島などにジェットフォイルを国の援助で安い運賃で就航されたら、島に行く人も増え、経済も活性化すると思うのだが。





暗く沈んだ印象の日中の新潟であったが、北国の都市はえてして夜になると急に活気づいてくる事が多い。勇んで夜の繁華街へと繰り出したが、まるで活気の無い、寂しい印象しか残らなかった。


翌日は予定を切り上げて、早朝に新潟を出ることにした。日が変れば印象も変ったものになると期待したのだが、改めて見てもぱっとしない駅前の大通りと駅であった。








新潟には大いなる希望と期待を抱いてやってきたのだが、思った以上に活気の無い、小規模な都市であった。やはり日本海側に大都市が存在することは難しいのだろうか。

札幌、仙台、広島、福岡、地方を代表する大都市は条件のいいところから先に取られてしまっている。残るは新潟くらいしか思い浮かばない。理想を追い求めすぎると結局、何も決めることができない。数々の不満は残るが、新潟で妥協するしかないのかなとも思う。


おわり。
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2010年3月19、20下田3

2010年04月25日 | 日本
歴史のある港町である下田は昔の建物が数多く残っている。











古くからの旅館。未だ現役で営業中である。





この風呂場は大正、昭和初期に造られたような雰囲気である。





建物はさらに古く明治時代を感じさせる雰囲気である。





昔の建築物は観光資源であるので、写真と位置と説明が記載されている。





下田はとても活気ある漁港である。ここで水揚げされる金目鯛は全国的にも有名である。





街角にはいたることろで、魚を干物にしている。あじ、いわし、さんまが安い。金目鯛はやはり高い。








地魚寿司が名物の寿司屋で昼食を食べる。





地魚寿司、1,500円。金目鯛はもちろんだが、一番美味しかったのはイカとエビであった。東京では食べたことの無い種類である。






下田は港町だけあり魚屋がとても多い。











魚屋は見ているだけで楽しい。その地域、漁港によって水揚げされる魚が違う。それにしても、日本ほど食べられる魚の種類が多い国も無いのではと思う。














魚屋は数多いが、肉屋は1軒だけ見つける事ができた。何だか隅っこで目立たないように申し訳程度に営業している感じがする。売られている肉の量、種類ともに少ない。







子供の頃の一時期、港町で育ったので、漁港と古い町並みと魚屋を見ると懐かしさを覚える。さらに子供の頃の食の記憶が蘇ってくる。その頃は夕食のおかずといえば決まって魚しか出てこなかった。季節に関係なく出るのは、あじ、いわし、まぐろ、くじら、春と秋はかつお、秋になると毎日といっていいほどさんまが出てきた。冬はかれい、はぜ、あいなめ、川を遡上してくるさけ、他にも名前が思い出せない、多種多彩な地魚やいか、えび、貝など。

魚が安かった、もしくは、ただ同然で入手できたし、親類や近所からのおすそ分けも毎日のようにあった。当時、決して裕福といえなかった我が家の家計にとっては大変助かった事だったのだろう。毎日のように魚を食べることが普通だと思っていたので、何も疑問に思わなかったが、やがて、知恵がついてきて、他では肉を普通に食べると知ってからは、いつしか不満が爆発し、たまには肉が食べたい!と言った事があった。しかし、翌日の夕食のおかずはよく食べているくじらであった。確かに鯨は魚ではない。哺乳類なので肉である。食感、味も魚というより肉に近い。しかし、子供にとっては鯨はただの巨大な魚にしか思えない。不満が解消される事にはならなかった。

かわいそうに思ったのであろう、独身で金回りの良かった叔父が見かねてステーキを食べに連れていってくれた事があった。初めて食べたステーキの味はこの世でこんなに美味しいものがあるとは信じられないまるで夢でも見ているような美味しさであった。あまりの感激ぶりに叔父も驚き、それから、姉さんには内緒だぞと言っては何度かステーキを食べに連れて行ってくれた。残念なことに、子供の頃に両親と一緒に外食に行った思い出がないので、叔父と一緒に食べに行ったステーキが唯一の食に関する楽しい思い出である。

子供の頃の魚中心の食生活のおかげか、その後、骨折、大きな怪我をすること無く育ってこれた。しかし、先月、会社の廊下を普通に歩いていたら、突然、転んで骨折、靭帯を断裂してしまった。親元を離れて15年、長期に渡る不摂生と肉中心の食生活が祟ったのかもしれないと思い、原点に帰ってそれからしばらくは魚中心の食生活へと改めることにした。そこで気がついたのだが実は魚の方が肉よりも全然高いのである。子供の頃、貧乏だと思っていた魚中心の食生活は実は高級な食生活だったことに今更ながら気がついた。


そんな事を思いながら、帰りの列車の時間も迫ってきたので、駅方面に向かって歩く。港の近くは古くからの街並みが続くが、駅周辺は近代的な街並みへと生まれ変わっている。











駅の正面には女性が寝そべっている姿に似ていることから名付けられた寝姿山があり、ロープウェイで頂上まで登ることができる。





下田駅。伊豆の観光地らしく明るく開放的な駅舎と構内である。











下田で過ごした2日間は日常から離れ心も体もリラックスできた。とても開放的な気分になれた。これから東京へ戻る車内の中で都会の日常へ戻るリハビリをしなければいけない。








快適な座席と心地よい揺れが眠気を誘う。しばらくして目をさますと、まだ、伊東の手前である。しかも立ち往生している。強風の為、運転を見合わせているようである。

しばらくして、運転再開して熱海に到着。東海道線でも同じように運転見合わせ、徐行運転をしているらしく、ホームは大勢の人々でごった返している。








停車と徐行を何度も繰り返しながら、1時間30分遅れでようやく東京へ到着。下田から東京まで4時間もかかってしまった。都会生活に順応するリハビリの時間としては十分すぎるほどであった。


おわり。
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2010年3月19、20下田2

2010年04月22日 | 日本
2010年3月20日(土)


今日は晴天である。朝食後、早速、下田観光開始。

ホテルの前には黒船と海上保安庁の巡視船が並んで停泊している。








また、下田に黒船が襲来すると困るので、巡視船よりも強力な海上自衛隊の巡洋艦やイージス艦を配備して黒船を撃退してもらいたい。

そんな事はさておいて、とりあえず黒船に乗り、下田港巡りをする。割引チケット利用で800円。











下田港は陸地に向かって深く入りこんでおり波穏やかである。また、とても水深が深いらしい。天然の良港の条件を兼ね備えている。











黒船に乗って遠くアメリカからやって来たペリーも同じ風景を眺めたのであろう。

《私は世界をいろいろと航海してきたが、欧州においてさえ、日本人のように落ち着いた華麗さと威厳を持った国民に出会ったことがない》『伝記 ペリー提督の日本開国』(サミュエル・エリオット・モリソン 座本勝之訳 双葉社)











遠くに伊豆七島の大きな島が見える。何という名前の島なのであろうか。大島、三宅島、八丈島、新島・・・、あと3つはどうしても思い浮かばない。





下田港のクルーズを終えた後は、綺麗な砂浜のあるビーチに行きたい。本当はビーチが目の前にあるホテルに宿泊して部屋から綺麗な海をずっと見ていたかった。


下田の市街地とビーチまでは結構距離があり、バスに乗って行く。





ひと山越えると最初のビーチが見えてきたが、次のビーチの方がメインビーチであるので、もうひとつ山を越えてようやく到着、といっても10分程度である。








首都圏の近くにあるとは思えない綺麗な白い砂浜のビーチである。夏になるともっと光り輝いて、海の色も青く澄んで綺麗になるであろう。

夏になったら、ビーチの目の前にある見晴らしのいいホテルに滞在してゆっくり過ごしてみたい。

















今は閑散期なのでビーチに人はほとんどいない。ただし、サーファーだけはいる。





ビーチの端まで来てしまった。























岬の先からは隣のビーチが見える。





ここの海を見ていると、ますます、海が最も綺麗な時期に来てみたくなった。しかし、見晴らしのいいリゾートホテルはもの凄く料金が高いだろう。しかし、下田の綺麗な海は富裕層のプライベートビーチではない。日本国民皆等しく楽しむ権利があるはずだ。当然、我々、庶民にも楽しむ権利はある。嬉しいことに、このあたりにはそんな庶民の味方、民宿や安宿の類も豊富にある。






綺麗な海を見て満足したので、またバスに乗り下田の中心街へと戻る。









下田駅前に到着。








下田に博物館の類は数多くあるが、一番見ごたえのありそうな、下田開国博物館を見学。黒船やペリーの資料や、初代領事ハリス、ハリスの愛人お吉、その他、ロシア船の事や、下田の歴史について豊富な展示物があり、とても勉強になった。





その後は下田の歴史ある街並みを散策する。











小川の両側に立ち並んでいる歴史のある建物は、その造りからかつての遊郭だったと思われる。














江戸時代まで、鉄道や道路が整備される前まで、物流の主力は船であった。九州、四国、関西方面から江戸に向かう航路のなかで、伊豆半島のみが最も遠く外洋に飛び出ている。多くの船が江戸に行く途中に伊豆の南端の港である下田に寄航したであろう。船乗り相手の商売で下田も相当繁栄したのであろう。












下田は小さな町なのにお寺が多い。




















お吉が眠る宝福寺。











以下「宝福寺書」より抜粋。お吉の説明文。
 お吉は本名を「斉藤きち」といい、天保12年11月10日、愛知県知多郡内海(うつみ)に、舟大工市兵衛の次女としてこの世に生をうけました。4歳のとき家族が下田に移り住み、14歳で芸妓(げいこ)となりました。新内明烏(しんないあけがらす)のお吉とうたわれるほどの評判と美貌でしたが、それが奉行所の目にとまるとこととなり、17歳の時、法外な年俸と引替に心ならずもアメリカ総領事タウンゼントハリスのもとへ侍妾(じしょう)として奉公にあがることとなります。その後は、幕末、維新の動乱の中、芸妓として流浪(るろう)の果てに下田にもどり、鶴松と暮らし髪結業(かみゆいぎょう)を始めますが、ほどなく離別。さらに小料理屋「安直楼」(あんちょくろう)を開業しますが、2年後に廃業しています。「唐人」という相も変わらぬ世間の罵声と嘲笑をあびながら貧困の中に身をもちくずし、明治24年3月27日の豪雨の夜、遂に川へ身を投げ、自らの命を絶ってしまいます。波瀾にみちた51年の生涯のあまりにも哀しい終幕でした。
お吉は身よりもなく、宝福寺の第15代竹岡大乗住職が、慈愛の心で法名「釈貞観尼」(しゃくじょうかんに)を贈り、当時境内に厚く葬り、その後芸能人により新しく墓石も寄進され現在に至っています。
お吉の悲劇的生涯は、人間の偏見と権力、その底にひそむ罪の可能性と愚かさを身をもって私達に教えているようです。


お吉21歳の写真。ハリスに召抱えられたときは17歳であったので、この写真以上の相当な美少女だったはずである。現代でもアイドルとして十分に通用しそうなルックスである。当時、54歳の初老だったハリスが惚れてしまうのも仕方ない。しかし、謹厳な清教徒で生涯独身だったハリスが愛人を囲うのも考えにくいので、後世の創作かもしれない。晩年は結婚生活も破綻し、酒に溺れて身を持ち崩したそうだが、この人、確かに美人だが、なんとも気の強そうな顔である。同じ伊豆出身の北条政子と同じく嫉妬深く気性の激しい女性だったのであろうか。





そのお吉が晩年営んでいた料理屋、安直楼。








アメリカの初代駐日公使で日米修好通商条約を締結したことで知られるハリスの日本人を見る目は、「喜望峰以東の最も優れた民族」と好意的で、下田の町も「家も清潔で日当たりがよいし、気持ちもよい。世界のいかなる土地においても、労働者の社会の中で下田におけるものよりもよい生活を送っているところはほかにあるまい。」と称賛している。お吉のハリスに対する献身的な貢献による好印象もきっと影響したに違いない。
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2010年3月19、20下田1

2010年04月21日 | 日本
2010年3月19日(金)


2007年9月に伊豆半島一周の旅行をしてからすっかり伊豆、とりわけ下田の綺麗な砂浜と西伊豆のダイナミックな自然と素朴な漁村とビーチがアジアの島々に重なるものがあり、伊豆のファンになってしまった。しかし、そのわりにはずっと行けないままであった。

そんな中、近畿日本ツーリストで下田1泊2日、往復特急踊り子号利用、黒船ホテル、2食付、15,900円のツアーを発見した。踊り子号で東京・下田間の料金は片道6,460円、往復だと12,920円、そして下田を代表する温泉旅館である黒船ホテル(高級かといわれると微妙だが)通常の宿泊料金は最低でも15,000円からであろう。交通費・宿泊費、合わせて27,920円。ツアー代金は15,900円。その差額12,020円。別に無理に下田に行く用事も理由も無いのだが、何だか行かないと損をした気分になってしまう料金である。もっとも、この安さには理由があり平日出発限定である。しかし、それなら金曜日に有休を取ればいいだけの話である。

伊豆は東京から近いわりには旅行代金がかかる場所である。熱海、伊東あたりならそうでもないが、伊豆の魅力は奥に行けば行くほど増すと思う。下田や西伊豆ともなると最高に伊豆らしい場所である。


東京13:00発、特急スーパービュー踊り子7号伊豆急下田行き。東海道線は普通列車にしか乗った事がない。普通列車に乗車中に踊り子号の通過待ちがあると、いつも羨ましく見ていたのだが、今日はその踊り子号の乗客である。








乗車口では客室担当の女性がうやうやしく改札をしている。他の特急では見ない光景である。さすが天下のリゾート地、伊豆に行く特急はビジネス客主体の特急とは一味違う。それにしても平日の金曜にも関わらず大混雑である。伊豆の人気の高さがうかがえる。





数え切れないほど乗ってきた東海道線の車窓も特急列車の高い座席から見る風景はまた違って見える。





車内は満席である。なぜか熱海でたくさんの乗客が下車した。熱海なら新幹線という手もあるし、わざわざ高い料金を払って特急に乗るほどの距離でもないであろう。不思議である。熱海からは東海道線を離れて、いよいよ伊豆に入って行く。車窓には相模湾が広がる。





ハトヤが見えてきたら、伊東である。





伊東到着。ここでも多くの乗客が下車する。伊東も根強い人気がある。





伊東から先は伊豆本来の姿が見えてくる。ひなびた漁村、山あり、高原あり、海ありと自然の宝庫、絶景の連続となる。











湯煙がもくもくとあたり一面立ち昇るのは熱川である。温泉が主目的ならば、ここが一番本格的な雰囲気がある。下車する乗客も多い。











熱川をすぎると海岸線が真近に見えて、遠くには伊豆七島が見える。タイの秘島探しもネタ切れの感がしてきた。そもそもタイは日本と違い島自体少ない。日本の秘島探しに軸足を移してみるのもいいかと思う。遠い国の秘島にはいろいろと行っているわりには、近くの伊豆七島には一度も行った事が無い。残念なことである。











稲取に到着。ここでもかなりの乗客が下車し、満席だった車内もガラガラになってしまった。











桜とゴルフ場で有名な河津。桜がきれいな時期にゴルフをしに来てみたい。





河津をすぎるとひなびた風景の連続となる。いよいよ伊豆の奥地に来たんだなと実感する。





山を抜け、あたりがひらけると、終点の下田である。下田到着は15:47。2時間47分もかかる遠い道程であった。








乗ってきた踊り子号はなんと!折り返し池袋行きになるようである。愛してやまない地元の池袋と憧れの地である伊豆、下田が1本の列車で繋がれているなんて、運命の赤い糸を感じる。いっそこのまま豊島区と下田市が姉妹都市になればいい。踊り子が繋いだ赤い糸である。下田市に拒否されるかもしれないが。





下田で残りの乗客が全員下車すると、温泉地おなじみの旅館の幟を持ったおじさん達が待っている。一見、何の変哲のない光景に見えるが、注意深く観察するとその地域における旅館の力関係が見えてくる。中央で自信満々に堂々と客待ちしている旅館、隅っこの方で自信なさげに申し訳なさそうに客待ちしている旅館・・・。

今夜の宿、黒船ホテルは中央で堂々と客待ちしている。





送迎バスに乗せられて宿へと向かう。





走ること約5分、黒船ホテルに到着。写真で見たら新しい感じがする建物だったのに実物を見ると相当くたびれた感じがする建物である。パンフレットには毎度の事ながらうまくだまされる。














部屋からは下田港と黒船が見える。








部屋でじっとしていられない性質なので、まだ明るいうちにあたりを散歩する。

早速、自分好みの素敵な廃墟と出会ってしまった。

















廃墟になり、かなりの年月が経ち、ほどよい熟成具合である。まさに廃墟として油がのりきっている時期である。しかも売り物件である。しかし、この物件を買う人なんているのだろうか?





もし、手持ち資金があって、下田市が固定資産税や事業税等を免除してくれるのなら、買い主に名乗り出てもいいかもしれない。しかし、決して旅館にはしない。再生するにはかなりの資金と時間を要するし、人件費や固定費がかかりすぎる。また、それに見合う観光需要が現在の下田にあるとは思えない。しかし、このまま金と人手を掛けずに出来る商売を思いついた。「廃墟を利用したお化け屋敷」である。この状態から何も手を加える必要もないし、チケット売り兼管理人を自分ひとりですれば人件費もかからない。そしてもともと旅館だった建物である。部屋はたくさんあるので、自分の住居用にひと部屋リフォームしてそこに住めばいい。



それにしても、周辺には廃業したホテルが多い。














下田シーサイドホテル。確かパンフレットに掲載されていたはずだが、破産してしまったようである。破産宣告の張り紙の日付をみるとまだ破産して1週間しか経っていない。破産したてのほやほやである。この不況下で資金がショートしてしまったのであろう。せめて観光シーズンのGWか稼ぎ時の夏まで持ちこたえられたら良かったのに・・・。合掌。








ホテル聚楽。ここは綺麗で新しい。しっかり儲けて設備投資をしている。





国道沿いにはホテルが立ち並んでいるが、まともに儲かっていそうなのは、黒船ホテルとホテル聚楽くらいしかないと思う。





今は閑散期だが、夏になると大勢の観光客で賑わうのであろう。しかし、このあたりは港なので綺麗な海を期待して来るとがっかりするかもしれない。





それでも子供達にとって海は楽しいところである。





明日から祭りが行われるらしい。








古くからの港町らしい店が多い。








ホテルに戻って、温泉に入る。内部に悪趣味なところがあったり、バブル期を引きずったようなホテルである。








部屋で食事。この料金で部屋食なので、内容に文句はつけられない。





夕食を食べるともうすることがない。誰もいないゲーセンでレトロなゲームを楽しむ。








何もすることがないので、早々と就寝。

1日目終了。
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2010年3月4~6日博多・湯布院2

2010年04月06日 | 日本
2010年3月6日(土)


今日は朝から雨が降っている。雨降りだと街歩きも楽しくない。福岡には2日間滞在したし、これからも仕事で来る機会も増えると思うので、今日は福岡の街歩きではなく、どこか九州の田舎へと行くことにする。できれば温泉のある場所がいい。九州は有名な温泉の多いところだが、一番有名な温泉の別府には過去に行った事がある。町中が温泉だらけで観光地としてだけでなく、市民の生活に温泉が根付いているとても素晴らしい場所であった。別府の次に思い浮かぶのが湯布院、最近よく耳にするのが黒川温泉である。


どこへ行こうかといくらホテルの部屋で考えても答えが出ないので、とりあえず駅に向かって歩く。

祇園はその名の通り、福岡でも特に神社仏閣の多い所らしい。












15分ほど歩いて博多駅に到着。九州新幹線の開業に向けて駅の増築中であった。巨大な駅にも関わらずさらに巨大化するみたいである。まさに九州の玄関口、中心にふさわしい駅である。






博多駅から九州各地へと向かう列車が次々と発着している。活気のある駅である。






結局、きっぷ売り場の上に掲げてあるJRの路線図に記載のある湯布院に行くことにした。黒川温泉は路線図に見当たらなかった。鉄道では行けないのであろうか?最寄の駅からバスに乗り換えるのであろうか?どの県にあるのかすら分からない。


列車に乗り、南へと向かう。途中、尊敬してやまない1999年のベイスターズ38年ぶりの優勝時の名将権藤監督の出身地の鳥栖で乗り換えする。









久留米で下車。久留米の地名はよく聞くので、大きな都市と思っていたのだが、駅前は寂しい感じである。おそらく町の中心部と駅との距離が離れているのだろう。









駅近くの居酒屋。斉藤道三が手羽先、織田信長が鳥レバーらしいが、斉藤道三は岐阜で織田信長が名古屋だから、手羽先は織田信長であろう。斉藤道三は長良川の鮎がいい。また、北条氏政がタンだが、タンは仙台の伊達政宗であろう。北条氏政は小田原なので蒲鉾がいい。そんな突っ込みどころ満載のメニューであるが、唯一、納得したのは、武田信玄のサクラである。武田騎馬軍団だから馬のサクラ肉である。これには異論は無い。






久留米からはローカル線に乗り、湯布院へ向かう。





桑畑や果樹園が目立つ平野部を通り抜け、山間部を越えると大分県、湯布院である。















駅前は日本全国どこにでもありそうなお土産屋や食堂が並ぶ典型的な観光地といった趣である。






綺麗でおしゃれな新しい建物が立ち並んでいる一方で、昭和の残滓もまだ残っており、味のある街並みである。









まずはともあれ、湯布院まで来たからには温泉にゆっくり浸かりたい。乙丸温泉館。入湯料はたったの100円である。















時代を感じさせるレトロな温泉でゆっくりと気持ちよく過ごせたと言いたいところであったが、あまりにもお湯が熱すぎて入っていられない。源泉かけ流しの贅沢な温泉なのだが、熱すぎて入れないのではどうしようもない。


体が温まったというよりは茹でられた感じになって、湯布院の街並みを散策する。









遠くに湯煙が立ち昇る山々が見える。雄大な風景である。






しばらく行くと、観光客で賑わう通りがあった。まるで軽井沢か清里、極端に言えば原宿にいるような感じである。












九州という場所柄、韓国人観光客が多い。韓国人のおじさんにAカフェはどこにあるか?と聞かれる。一緒に地図を見て探してみるが、カフェは多数あるのだが、Aカフェの記載はない。その韓国人のおじさんによると、とてもフェイマスなカフェらしいのだが。


湯布院が観光地として成功しているのは、温泉街全体でおしゃれ感を演出しており、女性受けするからだと思う。有名な温泉街にありがちな男性客向けの歓楽街といったものがない。






トゥクトゥク発見。でもここはタイではなくて日本なので、トゥクトゥクじゃなくて、ダイハツのミゼットと言うべきであろう。






このバスはトトロ関連のロケに使われたらしい。






駐車場には旅行会社のツアーバスがたくさん駐車しており、湯布院の人気の高さをあらためて思い知る。






古民家の博物館。韓国人観光客に大人気である。









昔の学校風の美術館。なんだかとても懐かしくて微笑ましい気持ちになった。









温泉街らしい見栄えのいい迫力ある渓谷はないのだが、田園地帯に小川が流れ、湯煙の上がる温泉があり、典型的な日本の農村風景の中に突如温泉が出現した感じである。素朴な温泉街の風情が多くの人々を引きつけるのであろうか。















南国九州では早くも菜の花が咲いている。






馬車がやって来た。これはいかにも観光客向けといった感じである。駅前には人力車も待機していた。最近どの観光地に行っても人力車を見かけることが多い。エコな乗り物なので地球環境にはいいかもしれないが、なんかわざとらしい感じがする。






遠くに駅が見える。いつのまにか町の外れまで来てしまったようだ。






駅へ戻る途中に足湯があった。






駅のホームにも足湯があった。湯布院の湯はとても熱いので足湯がちょうどいい。






久留米方面へと列車で戻る。1両しかないので列車と言うのも変だ。





湯布院から久留米方面は1日わずか6本しかない。






廃車庫。壊さないで保存しているのが素晴らしい。









名前は知らないが、小さな富士山みたいな美しい山。






途中の日田で小倉方面の列車に乗り換え。日田といえば源五郎丸洋である。1981年のドラフトで阪神は電電九州の右田一彦投手を1位指名するが、抽選で右田は大洋に獲得され、外れ1位として指名されたのが日田林工業高校の源五郎丸投手である。当時、子供ながらにすごい名前の選手だと思った記憶がある。「GENGOROUMARU」と12文字にも及ぶローマ字がユニフォームに入りきるかと心配したが、問題なかったみたいである。その後、横浜に堤内の「TSUTSUMIUCHI」、中野渡の「NAKANOWATARI」と12文字選手がいたが、現在、ロッテに在籍中の下敷領の「SHIMOSHIKIRYO」が13文字で最長である。

ドラフト1位で指名されたほどの投手なのでものすごい速球派投手だったらしいのだが、名前だけが話題になった以外は目だった活躍もなく、1軍の登板も無いままにわずか5年でプロ野球界を去った。

一方、阪神との競合の末、大洋に入団した右田だが、一軍デビューの駒田徳広に初打席満塁本塁打を浴びる事以外は印象に残る活躍をする事無くロッテにトレードされた。本当に今も昔もドラフト1位指名が下手な球団である。これでは強くなれるはずが無い。右田を獲得した利点はただひとつ、トレードの交換相手が欠端だった事くらいか。






日田から乗った列車は自分以外、誰も乗っていない。外はだんだんと暗くなってくる。途中、大分県と福岡県の県境を越える長いトンネルでは闇につつまれ、銀河鉄道999に乗っているような気になった。となりにメーテルがいてくれたら機械の体を手に入れるまで永遠にこの列車に乗って旅しようかと思ったかもしれない。






ようやく博多駅に戻ってきた。1日がかりの大旅行であった。






後は、空港へ移動して、スカイマークに乗って東京に帰るだけである。





到着機材遅れで10分遅れて出発。羽田到着も10分遅れてしまった。この10分の遅れが影響してバスに乗り遅れてしまった。次のバスは1時間後である。仕方が無いのでモノレールに乗って帰ったのだが、1時間20分もかかってしまった。バスなら25分しかかからない。安さにつられスカイマークに乗った報いかもしれない。定時性が確保されない交通機関は日本では通用しない。

最後まで疲れた1日であった。


3日目終了。

おわり。
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