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Asianwalker

アジアの路地裏から

2011年12月2日~12月4日福岡・鹿児島

2012年01月08日 | 日本
2011年12月2日(金)



九州に行きたいとの、O君のリクエストに応える形でのお付き合い旅に出ることになった。

今年の3月に福岡、鹿児島に行ったばかりだが仕方が無い。自分が行きたい所に行く事ばかりが旅ではない。お付き合い旅もまた大切な旅である。

朝に羽田空港を立ち、福岡空港に到着。仕事で何度も降り立った場所だが、O君にとっては初の福岡である。空港と街の中心との近さにはいつ来ても感心する。

今回は行った事のない大宰府に行く事にする。お付き合い旅であるが、自分も行った事のない場所を今回の旅には折り込む事にしている。そうする事によって自分も楽しめる。

天神駅で大宰府までの往復きっぷを買う。

大宰府までは1回乗り換えがあるが、わりかし福岡に近い場所である。今ではベットタウンとなっている。


西鉄の往復きっぷには抹茶と梅が枝餅のサービスがついてあった。甘いものが苦手でもおいしくいただけた。






大宰府は高校生で大賑わいである。今年も残り僅かで受験シーズンも近い。















自分も高校生の時にお参りに来たかった・・・。


故事で有名な飛び梅。









近くにはとても立派な国立博物館がある。

とても歴史の勉強になった。






福岡に戻って、昼食後、大濠公園に行く。大都会の真ん中にあるオアシスのような公園である。






中学生が池の周囲をぐるぐると行進している。逞しい。文武両道で頑張ってもらいたい。






ヤフードームは歩いて行ける距離にあった。






今年のソフトバンクの強さは圧巻であった。同じプロでもベイスターズとは大違いである。もっとも比べる事自体がホークスに失礼ではあるかもしれない・・・。内川もあのままベイにいたら優勝の喜びを知らないまま選手生活を終えた事であろう。村田も巨人にいったら一度は優勝の喜びを味わってもらいたい。そして、いつの日か、ふたり一緒にベイに戻って優勝の喜びを選手・ファンで分かち合いたいと願う。内川、村田だけでなく、谷繁も相川も多村も寺原もみんな戻って来て欲しい。1度だけでいいから生きているうちにまた優勝を見てみたい。人生で2度も好きな球団の優勝を見ることができたら幸せな生涯だった・・・と、死ぬ間際にきっとそう思うに違いない。






夜は福岡のグルメ、モツ鍋、屋台、ラーメンを楽しむ。いつ来ても本場のモツ鍋はおいしい。ラーメンは今や、東京の方が競争が激しく本場の博多より上のレベルに達していると思うが、モツ鍋に関しては断然本場福岡には叶わない。食に関しては本当に福岡の人は恵まれている。


1日目終了。




12月3日(土)


朝、新幹線で鹿児島まで移動する。今年2度目の鹿児島である。


レンタカーを借りて、フェリーで桜島に渡り、大隈半島を南下して本州最南端の佐多岬へ行く。

鹿児島から3時間あまり、最果ての岬はとにかく遠かった・・・。


岬は大体どこも同じような風景である。ここも同じく強風の吹き荒れる最果ての景色である。















遠くに見えるこんもりした島は硫黄島で平らな島は竹島であろうか。






帰りは垂水からフェリーで錦江湾を渡り鹿児島は向かう。陸路と比べて大幅なショートカットになる。


船内ではサッカーの中継をしている。どうやら柏が優勝しそうである。J2から昇格して即優勝なんてとんでもない離れ業である。しかし、やれば何事もできる事を学んだような気がする。物事に不可能は無い。もしかすると来年、新生ベイスターズが優勝する可能性だってあるかもしれない。

恐らく皆、そんな馬鹿な・・・、と笑うだろう。しかし、我々、ファンが信じないで誰が信じるのであろう。柏のサポーターから学ばなくてはならないと思う。


洋上から見る桜島はとても優雅な姿をしている。






鹿児島の鴨池港にフェリーは到着した。今夜の宿、鹿児島東急ホテルはすぐ近くであった。

オーシャンビューの部屋からは桜島と夕日が見える。









鴨池は鹿児島市街の南に位置しており、ホテルの周辺に飲み食いするような場所はほとんど無い。ここから繁華街の天文館へは結構距離がある。徒歩とバスと市電を乗り継いで頑張って天文館まで行って、鹿児島のグルメと本場の焼酎を楽しむ。普段、焼酎は飲まないが、お湯割り200円と激安である。懐を気にせず浴びるように飲むことができる。焼酎好きにはたまらない土地である。


2日目終了。



12月4日(日)


今日は、かねてより行ってみたかった知覧に行く。福岡は真冬の寒さであったが、鹿児島はさすが南国である。気温も20度とぽかぽか陽気というよりもここに冬は来るのか?といった暖かさである。


高速道路を走り、山の上を通る有料道路を走る。桜島と鹿児島市街の大パノラマが綺麗である。






知覧に到着。ここは戦争中、特攻隊の基地があった場所である。












知覧特攻平和会館を見学。内容についてここでは記さないが、日本人として一度はここを訪れる価値はある。






知覧は小さい城下町でもあり、昔ながらの武家屋敷が見事な姿で保存されている。















知覧を観光後、池田湖を周って、指宿に行く。まさに日本のハワイといった感じの常夏の温泉街である。昭和の時代は大勢の観光客で賑わったのであろう。現在の寂れっぷりは凄まじい。熱海以上である。





しんみりしながら、鰻を食べる。今や、浜名湖擁する静岡県を抜いて日本一の鰻生産高を誇る鹿児島県だが、生産地であって消費地ではない。鰻を食べるにはやはり浜名湖に限る。浜名湖の湖岸にずらりと並ぶ鰻屋の旨さには叶わない。





砂蒸し温泉で旅の疲れ、いや、都会生活の疲れを癒してリフレッシュ。

鹿児島へ向かう。日曜日の午後という事もあってか国道は大渋滞である。


鹿児島市内に到着後、最後にもう一度桜島の雄姿を見ることにした。





東洋のナポリと称されるだけあって、鹿児島はかつて行った事のあるナポリを彷彿とさせる街並みである。日本の県庁所在地でこれほど風光明媚な都市を他に知らない。





猫は何を思って鹿児島の街並みを眺めているのだろうか。






車を返却して、遠い遠い鹿児島空港にバスに乗って行く。かつては市内の鴨池に空港があったらしいが、どうしてこんなに遠い山の中に空港を作ってしまったのであろうか。福岡の人の賢さが光る。

帰りの飛行機(ANA)は10分ほど遅延した。

やはり、国内線、国際線共にJALがいい。


3日目終了。


おわり。
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2011年8月28日、29日富山・松本

2011年09月12日 | 日本
2011年8月28日(日)


どこか遠くへ行きたい。引きこもりを打破すべく旅に出る事にした。向かう先は日本海側のどこでもいい。気が向いたところで途中下車しながらゆっくりと旅をしようと思う。

土曜日から2泊3日で行く予定が、朝から起きられず、そのまま昼まで寝てしまい、起きてカップ麺を食べるとまた寝てしまい、ようやく起きたら既に夕方であった。結局、何も出来なかった。やはり前日遅くまでの飲酒と暑さによる疲労が蓄積していたのだろう。結局、日曜日に早起きして始発電車に乗る事になった。

昨年は新潟に行ったので、今年はさらに西へ向かう。外はいい天気である。海が綺麗である。日本海側の海岸は人も少なく湘南の芋洗い状態のビーチとは雰囲気が全然違う。いつか夏にゆっくりと海水浴に来てみたい。

途中のひなびた感じの海水浴場が見える駅で降りようと思っていたが、結局、親不知まで来てしまった。ここは秘境駅の雰囲気が漂ってくるので降りることにする。






降りる乗客は他にいない。なかなかいい味を醸し出している古い駅舎である。












周りに人家は見当たらない。秘境駅の趣がある。しかし、線路の先の高速道路と国道が海側への視界を遮り興ざめしてしまう。









2005年の夏に宇奈月温泉、黒部ダム、立山アルペンルートの旅に行った時、バスでここの高速道路を通った事がある。新潟の山側からとても長いトンネルを抜けると一気に海側に抜けて日本海側に来た事が分かった。とても感動的であった。

駅の名前は親不知だが、集落のある場所に駅はある。本当の親不知はもっとこの先にあり、断崖絶壁がそのまま海に落ちるような地形であり、集落などはない。






ちょうど昼食どきであるので、名物の鱈汁定食を食べる。






わずかなビーチがある。砂浜の海岸ではなく砂利の海岸である。






ここは新潟県糸魚川市である。ちょうと新潟県と富山県の県境であり、東日本と西日本の境界線にあたる。親不知駅に停車する電車は1~2時間に1本程度と完全にローカル線であるが、日本海側の大動脈であるので、特急列車が頻繁に走っている。しかし、途中の糸魚川駅で見た限りでは新幹線の工事がだいぶ進んでおり、やがてここも新幹線が走るようになるのだろう。












長いトンネルで県境を越え、平野が広がると富山に到着である。時間も15時を過ぎているし、富山は13年前に途中下車して2時間程度、街中を観光した記憶しかない。今日は富山に泊る事にする。駅前の東横インが3980円である。地方都市にしても激安の宿泊代である。宿泊費が浮いた分、たくさん飲み食いしようと思う。


駅前には富山の薬売りの銅像。






駅前はオフィス街であり、城は歩いて15分くらい先の場所にある。

途中の公園。噴水が涼しげである。






富山城が見えてきた。昭和に再建された城である。13年間に来た時は古ぼけた城であったが、ピカピカの新築の城に生まれ変わっている。富山藩は10万石であったらしい。10万石の藩であるので、城もこの程度のものがふさわしい。何事も分相応が大切である。















城の構内には公園が広がり、県庁所在地の真ん中とは思えない。のどかである。


















城の先には富山の繁華街が広がる。






福島産の牛肉の安全性をPRする焼肉コーナー。ついでに富山産の牛肉の安全性のPRもしている。福島産の牛肉はいくら検査を通過していても食べる気にはならないが、日本海側の富山産の牛肉は何の問題も無いだろう。おいしく頂く。






街中を路面電車が走る。昭和を感じるレトロな町である。






日曜日にも関わらずアーケード街はシャッター商店街である。






富山名物の薬屋さん。






繁華街を過ぎると住宅街に出た。いたち川という不思議な名前の川が流れている。街中にあるにもかかわらず水の流れが速い。山から流れ出た水の勢いがそのまま海に流れ出る富山の地形をよく現している。









また、繁華街へと戻る。日本海側の都市は活気が無いように感じてしまう。太平洋側の都市に比べて人口が少ないのはいかんともし難い。人はどうしても住みやすい環境の土地に集まってしまうものだ。









昭和の時代から時が止まってしまったかのような飲み屋街。本当にやっているのかどうかすら怪しいが、夜に来たら面白そうである。















夜は富山の魚を食べ、地酒を飲む。魚は氷見のぶり、富山湾のホタルイカや白エビがおいしい。地酒は数多くあるが、成政という酒が辛口ですっきりして飲みやすい。店主の話によると、織田信長の家臣で勇猛果敢で知られる佐々成政の名を冠した地酒らしい。佐々成政は織田信長の天下統一の北陸方面の指揮官で富山を攻略してこの地を治めた人物であったが、豊臣秀吉と争い敗れ去った。しかし、戦わずして秀吉の軍門に下った前田利家よりも主家に最後まで忠誠を誓った人物として富山では今でも人気のある武将との事である。一方、加賀100万石を築いた前田利家は富山では人気が無いらしい。やはり主家を裏切り秀吉に下ったのが不人気の理由らしいが、富山県の石川県に対するコンプレックス、叶わぬ対抗意識みたいなものが店主の話からは感じられた。

佐々成政はマイナー武将であるが、前田利家は全国区の有名武将である。

しかし、このふたり、武将としての実力は大して変わりがないような気がする。ただ、前田利家の方が世渡り上手だっただけという事である。

高校時代は世界史を選択していたので、日本史の事はよく知らないが、教科書には載っていない旅先で知ること、感じる事、自分の感性を大事にしたいと思う。


1日目終了。



2011年8月29日(月)


朝の富山駅前はラッシュで賑やかである。市電から次々と人が吐き出される。地方都市でも県庁所在地であるので、大企業の支店も数多い。大企業に勤務した経験がないのでよく分からないが、努力してせっかく大企業に就職しても富山支店勤務は出世コースからは外れているのだろう。地方支店勤務で出世につながりそうなのは、札幌、仙台、名古屋、大阪、神戸、広島、福岡といった人口100万以上の政令指定都市であろう。でも、そこで腐ったら自分の価値を下げるだけである。富山支店勤務の辞令が交付されたらといって腐るよりも地方ならではの生活の楽しみを見つける事が自分の人生にとって大切である。何も出世だけが人生の目標でもないだろう。また、もしかしたら富山で人生を変えるような出会いがあるかもしれない。本当に人生は思い通りにならない。行き先の分からない船に乗っているようなものである。

富山から東京へ戻るのは難儀である。距離的には大した事はないのに交通機関が不便である。とりあえず新潟方面に向かう事にする。

列車は糸魚川が終点であった。






糸魚川駅前。










糸魚川は翡翠の産地として有名である。製造業では電気化学工業の企業城下町である。






駅から歩いて10分ほどで海岸に到着。









昔から街道の宿場町として栄えた場所らしく風情のある建物が残されている。ここは古い旅館。今でも営業しているかどうかは不明である。












加賀藩の本陣があった場所。参勤交代の際は賑わったであろう。






寂れた小都市によるある寂れたスナック。電気化学工業のような1流メーカーに勤務していて、東京から糸魚川に転勤になったらこんな寂れたスナックで酒を飲むことくらいしか楽しみが無いのだろうか?それとも逆に東京とは違って、煩わしい付き合いも無く仕事に専念できていいのかもしれない。






糸魚川から柏崎、長野を経由して帰るルートと松本を経由して帰るルートがあるが、松本経由で帰る事にする。


糸魚川から南小谷に行く列車は1両のわびしさである。1両なので正確に言えば列車ではなく単車である。





険しい山々を越えて、県境を越えると南小谷である。途中で重装備の登山姿の山男・山女達が大勢乗り込んできて車内も賑やかになってきた。


南小谷で乗り換え。ここから先は安曇野の美しい光景を眺めながら松本を目指す。

車内は大勢の観光客で通勤ラッシュ並みの混雑である。夏の長野県は観光で潤っている。話し声を聞くと関東、関西の人々の割合は半々である。


松本に着いたら13時を過ぎていた。名物の信州そばを食べる。TVでは総裁選の結果を報道している。意外な事に野田さんが総理大臣になったようである。


松本はいつ来ても美しい町である。近くにアルプスの山々が見える。しかし、盆地であるので夏はとにかく暑い。






壮麗な松本城の雄姿。2004年の夏に上高地に行った際に松本に宿泊したが、夕暮れ時にビール片手にほろ酔い加減で見た松本城の姿が今でもまぶたに焼き付いている。今思えばあの頃は全てが順調で満ち足りた日々を過ごせた時期であった。















開智小学校。松本は空襲の被害に遭わなかったので貴重な文化財が健在である。






古い歯科医。明治期に建てられたような医院である。建物が古いが治療法も古いと困ってしまう。ノミと金づちとペンチで歯を抜くような治療だったら怖い。






2004年と比べて松本駅は新築なって、だいぶ様子が変った。しかし、駅前の風景は変わりない。









1ヶ月前と同じルートで中央線で東京まで帰った。

来週は諏訪湖の花火大会である。天気が良ければ行こうと思う。


2日目終了。

おわり。
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2011年7月30日秘境駅と廃墟

2011年08月21日 | 日本
2011年7月30日(土)


今年も待ちに待った秘境駅訪問と廃墟探索のシーズン到来である。今回は出張ついでに大好きな馴染みの場所に行く事にする。


最近は秘境駅へ行く事がブームなのか、昨日は豊橋駅で秘境駅訪問ツアーのパンフレットを見かけた。そのための団体列車まで走るらしい。廃墟探索が一部のマニアの世界からようやく世間に広まってきたと喜んでいたら、次は秘境駅探索まで世間に認知されてきたとは時代も変った。一過性のブームに終わる事無く定番としてずっと存続して欲しいと願う。


朝、6時の飯田線の始発列車に乗り愛知・静岡・長野の3県の県境を目指す。

最初の目的地、田本駅には8時49分に到着。過去に訪れた秘境駅は小和田、中井侍の2ヵ所である。ここは初めての訪問となる。秘境度何%くらいであろうか。楽しみである。






降りた乗客は自分ひとりしかいない。






周りには家が1軒も無く、天竜川が静かに流れるだけの場所である。電車が去ってしまえば物音ひとつしない。






駅が断崖絶壁にへばりつくように建てられている。












駅の両側はトンネルである。車が通れるような道は無く、かろうじて人ひとり歩けそうな細い道が一本あるだけである。






駅を見下ろす。どうしてこんな場所に駅があるのか謎である。しかし、駅があるからにはここからは見えない場所に集落があるはずだ。






集落までは徒歩でどれくらいかかるのであろうか。道が分岐している。上は田本集落へ行く道、下は天竜川沿いに続く道のようである。






田本集落を目指して上の道を進む。









暑い中、結構な上り坂を歩いて行く。鬱蒼とした森林のなかを進んでいくが、途中で視界が開ける場所へ出る。思ったよりも標高の高い場所まで上ってきたようである。天竜川がはるか眼下に見える。






まだまだ森林の中の一本道が続いていく。






どうやら出口が見えてきたようだ。ここまで駅から25分くらいであろうか。途中、誰ともすれ違う事は無かった。






奈川商店の前に出る。きちんと整備された道が通っている。田本集落から田本駅を利用する人なんているのだろうか?自動車の方が圧倒的に便利である。しかし、昔は道も整備されておらず、車も無かったであろうから電車を利用していた時代もあったのだろう。


田本集落。山の中のひらけた場所にある集落である。戸数にして10数軒ほどである。









遠くに見える山々が美しいところである。






人家以外は商店と食堂が1軒あるだけである。









奈川商店の前から田本駅へ続く道がある。申し訳程度に誰かの手作りであろう田本駅との案内がある。せめて車が通れる道で駅前に駐車場があれば電車利用に便利なのだが、いまさらそんな整備はしないであろう。電車に乗りたくても2時間に1本程度しかやって来ないのだ。車で好きな時間に移動した方が便利である。






来た道を駅へと戻る。帰りは下りだから楽である。






田本駅9時42分発、豊橋方面の電車に乗って小和田駅に10時14分に到着。






意外な事に自分以外にも下車する人がいる。






小和田駅は日本で一番好きな秘境駅である。いや、日本で一番好きな場所と言えるかもしれない。この素敵な場所を「発見」したのは今から5年前の2006年である。東京から豊橋に転勤して半年くらい経った時である。東京に住んでいたらきっと永遠に出会えなかった場所であろう。

ここの素晴らしいところを挙げればキリが無いがひとつに古い駅舎が残っている点にある。かつては小和田雅子さまの結婚の際には賑わった時期もあったらしくその名残がところどころに残っている。

















駅から少し離れた場所に愛の椅子がある。いつか誰かと一緒にこの椅子に座ってから、この先にある最高に素晴らしい廃墟で思い出に残る素敵な時間を共有して一緒に過ごしたい・・・、と思う。






愛の椅子の近くで道が分岐する。小和田駅周辺に人家は無い。かつては川沿いに集落があったのだが、下流に佐久間ダムが建設された結果、川の水位が上がり集落は川の底に沈んでしまった。現在残っているのは小和田駅と製茶工場と1軒の人家の廃墟のみである。












振り返ると小和田駅へと続く道。駅は集落の最も高い場所にあった事が分かる。






塩沢集落へと続く道。ここから山道を歩いて徒歩50分の道のりである。最初は川沿いの快適な散歩コースといった趣の歩道が続くのだが、そこから先は山を登り、危なげな橋で沢を渡る大変ハードな道である。5年前に初めて来た時は頑張って集落まで歩いたが、真夏の暑さ、顔にへばりつく蜘蛛の巣の多さ、突然飛び出してくる蛇の多さ、いつ現れるとも限らない熊への恐怖、とにかく肉体的にも精神的にもハードな道であった。









秘境駅と廃墟には欠かせないアイテム。廃車がお出迎え。ダイハツのミゼット。今の日本で見かける事はまず無いが、東南アジアでは未だに現役で大活躍している。タイで観光客に大人気のトゥクトゥクである。






製茶工場の跡。



















製茶工場の隣には民家の廃墟が残っている。

































































































この聖地ともいえる場所を自分の稚拙な文章で語るのは失礼にあたる。ただ感じるだけである。表現する事なんてとてもじゃないが出来ない。最高に素晴らしい風景を見て言葉が出るわけがない。


廃墟を後にして、塩沢集落方面に向かって進んでいく。天竜川の滔々とした流れに心安らぐ。









かつては林業が盛んだった地域である。上に見える人家も廃墟となっている。






ここまで小和田駅から徒歩10分。塩沢集落へはさらに徒歩40分の山道を進まなくてはならない。塩沢集落から歩いて小和田駅を利用する人はいるのであろうか。現在は天竜川林道が通っているので自動車を利用しているだろう。






天竜川林道や塩沢集落を訪ねた時のブログ←(クリック)


さらに進むと1軒だけ人家がある。小和田集落で最後に残った1軒である。飯田線以外の交通手段は無い場所だが、対岸には県道1号線が通っており、ロープを渡して物資を運搬している。


県道1号線の走行記←(クリック)








小和田駅に着いた時は晴れていたのに急に雲行きが怪しくなってきた。この様子だと大雨になりそうである。まだ時間はあるが、大急ぎで小和田駅へと戻る。

小和田駅に着いた頃にはびしょ濡れになってしまったが、でもまだマシな濡れ方である。それから間もなくゲリラ雷雨ばりの豪雨となった。電車がやって来れるか不安である。この素敵な場所で一晩過ごすのも悪くはないが・・・。






時間になっても電車は来ない。しかし、2,3分後、トンネルの先から電車がやって来る音が聞こえてきた。






11時23分小和田駅を発車。天竜峡へ向かう。



天竜峡には12時10分に到着。近くの天竜峡を見学する。ここの急流下りは夏には最高のアトラクションである。






豊橋方面に戻り、新幹線で東京へ帰るか、飯田方面に行くか迷ったが、飯田へ向かう事にする。


ようやく平野が広がってきて、人の営みが見えてきた。何だか少しほっとする。

伊那谷の中心地飯田で降りて、昼食を食べる。この地域の中心で唯一の都市らしい町であるが、昼間の商店街に人はまばらである。


2006年の夏に来た時はたまたま祭りの日であった。遅くまで賑やかであった。


2008年にはひとりでドライブに来た。

その時のブログ←(クリック)

久しぶりに思い出のこの町を歩いているといろいろな思い出が駆け巡る。


しかし、過去は自分の後をついて来る骸骨にすぎないのだ。

楽しかった思い出をいつまでも振り返ってばかりでは、何も生まれないし、何も解決しない。新たな思い出を作りだす努力をしなければいけない。



飯田を14時18分に出発してりんご畑が目立つのどかな風景をゆっくりと電車は走る。岡谷に到着した時はすでに17時になっていた。ここで中央線に乗り換え。17時8分に大月行きがやって来た。特急はまだ来ないのでとりあえず乗る事にする。途中で特急の待ち合わせがあったが、そのまま大月まで行く事にする。大月まで行けば後は新宿まで1本である。

長い各駅停車の旅となった。結局、新宿に着いたのは21時29分であった。


おかげでいろいろな事を考える事ができた。

とにかく「生きる」事が大切だという事。

生きるということは、自分を肯定するところから始まるのかもしれない。医学では解決できない病気の多くは、知らぬまに自分を否定しつづけていた心によって発生するのかもしれない気がする。でも、どんなに失敗しても、どんなに欠点や短所があっても、そんな自分を大好きだと思うために今までの考え方を変えなくてはいけないと思う。

日本人がどこか卑屈なのは、自分を大好きだと思う思考が欠落しているからかもしれない。謙譲の美徳なんてことを生き方の論理にする文化のせいかもしれない。


過去を振り返って感じる罪悪感ほど心身を傷めるものはない。

至らない自分であっても、自分を大好きだと思う思考を持つ事が大切である。


今回の旅ではよく考える事ができた。一人旅の効用である。


おわり。
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2011年7月16日~18日青森2

2011年08月07日 | 日本
2011年7月18日(月)


昨日までの2日間で下北半島、津軽半島を観光してきた。今日は特別に行く場所を決めていない。天気は快晴である。地図を見ていると青森県と秋田県の県境にある世界遺産の白神山地に行きたくなった。屋久島と共に日本で初めて世界自然遺産に登録された場所なのだが、その割にはイマイチ知名度が低い。しかし、日本国内の世界自然遺産の屋久島、知床、小笠原と並ぶ大自然の宝庫なのだろう。以前より興味のあった場所である。

弘前から1時間もかからないくらいで白神山地の入口にあるビジターセンターに到着する。観光バスが多く駐車している。登山姿の中高年の団体客が多い。しかし、周りの風景は日本の山中のごくありふれた風景である。特別な風景では無い。ここから白神山地を横断する林道がスタートする。日本海側の深浦まで42kmのダートの道である。道幅が狭くかつダートなので運転には苦労するだろうが、軽自動車なので狭い道にはかえって好都合である。行く気マンマンでスタートするが、10mも行かないところでO君がギブアップしてしまった。こんな恐ろしい道は行きたくないらしい。自分にとって恐い道でもなんでもない。ただ山中のダートが42kmほど続くだけである。しかも世界遺産の大自然を横断する最高に素晴らしい道である。しかし、都会育ちのO君にとっては恐怖心しか湧いてこないようだ。わくわくする好奇心や冒険心は無いようだ。嫌がる相手と一緒のドライブほど辛く苦痛なものは無い。相手の嫌がる事はしたくないので引き返す。今度は一人で来る事にしよう。

もう一度、弘前に戻り、東北自動車道を南下して秋田方面に向かう。東北自動車道もここまで来ると末端区間であり交通量も極端に少なくなる。軽自動車で走る高速道路ほど辛いものはない。しかし、性能の限界に挑戦して120kmオーバーで飛ばしていった。エンジンは高回転でウィンウィンなりっぱなしである。オーバーヒートをしなければいいのだが・・・。

1時間ほど高速道路を走って、鉱山で栄えた小坂から十和田湖へ向かう。高原沿いの綺麗な風景を見ながらのドライブは気分が高揚する。

途中で立派な滝があるので見学。外は晴天だが、暑すぎずちょうど気持ちのいい気温である。夏の東北は観光地としては最高の場所である。






山道をしばらく走り十和田湖に到着。また青森県に戻ってきた。標高の高い場所にある大きな湖である。






観光地にありがちな、値段だけが高い食堂で名物のB級グルメ十和田バラ焼きを食べる。りんごがたっぷり入った甘いタレが味の決め手である。要はタレにひと工夫のある焼肉である。それほど騒ぎ立てるほどの料理ではない。値段は高かったが、十和田湖で獲れるヒメマスの塩焼き定食を食べた方が良かったと少し後悔した。


昼食後は十和田湖観光。観光船が2隻並んでいる。






小さい方の観光船に乗り、1時間の十和田湖クルーズ。湖上から吹いてくる風が心地良い。ついついまどろみかけてしまう。高原の湖に浮かぶ船で昼寝なんてロマンチックな出来事である。












十和田湖クルーズの後は、日本一の渓流美を誇る奥入瀬渓谷を辿りながら青森方面へと向かう。途中で見逃せないスポットがたくさんあり、その都度、車を停め見学しながらゆっくりと進んでいく。
























紅葉の時期に来たら、とても美しい風景が見れるのだろう。しかし、紅葉の時期の奥入瀬ほど渋滞の酷い場所は無いと聞く。紅葉を眺めながら歩いて行った方が楽しいしきっと早いだろう。


奥入瀬を過ぎたら、また山を上る。有名な酸ヶ湯温泉に入湯して行こうかと思ったが、夏の時期に温泉に入る気はあまりない。高校生の時の夏休みに部活道の岩手・青森遠征の帰りに寄った記憶があるが、当時とあまり変っていないような気がした。


酸ヶ湯温泉を過ぎたら、八甲田山である。ロープウェイで山頂まで上ることができる。





青森市街、陸奥湾が見える。弘前市街や津軽平野は雲がかかっており見えない。わずかに岩木山の山頂が見える。









八甲田山はそれほど標高の高い山ではないが、北に位置するため、冬の登山の厳しさは日本屈指のものがある。有名な八甲田山の雪中行軍の事故が起きた魔の山である。静かな夏の日の夕方には全然そのような厳しさは感じられない。自然の雄大さ、優しさしか感じない。









帰りのロープウェイは最終の1本前であった。最終の上りとすれ違う。乗客は1名いる。しかし、滞在時間が20分しかない。折り返しの最終便で帰ってくるのであろうか。それとも、何にもない山頂で一晩を明かすのであろうか。












八甲田山から青森市街へは近く1時間もかからない。青森市街で特に見るべきものはない。ねぶた祭りの時期に来ればとても盛り上がるのだろうが、今日は夏の日のありふれた普通の休日である。


レンタカーを返却する。3日間の走行距離は600kmであった。長距離走行に不向きな軽自動車でよく走ったと思う。それにしても疲れた。やはり最低でもリッターカーに乗ったほうがいい。

新青森駅は観光を終えて帰る人たちで賑わっている。新幹線の開業効果で観光客の増加は期待以上のものがあったに違いない。新幹線に長時間乗車する前にしっかり夕食を食べておく。今ここで食べておかないと、道中何も食べれない可能性が高い。


このレールが700km先の東京まで続いている。





最終の東京行きの1本前の新幹線に乗車。始発から既に満席である。








途中、盛岡で秋田新幹線と連結の為、10分停車。ホームに下りると夜にも関わらずとにかく蒸し暑い。同じ東北でも青森だけが例外的に涼しかったようだ。やはり夏である。


乗客はデッキにまで溢れている。途中の仙台で乗客の多くが入れ替わると思ったが、そんな事は無く、ほとんど全員が東京まで行くようである。

これほど東北新幹線が盛況ならば頑張って青森まで開業した甲斐もある。決して無駄な公共事業であったと後世言われないようにどんどん利用促進に努めてもらいたいと思う。

13~14年ぶりの青森であったが、素朴な東北の素晴らしさとグルメを満喫した旅行であった。またすぐに行きたいとは思わないが、13~14年もの歳月をかけないで、冬の時期にひとりで来てみたい。そして北の寂しい漁村に行ってみたいと思う。


おわり。
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2011年7月16日~18日青森1

2011年08月04日 | 日本
2011年7月16日(土)


2週連続の東北行き。今回の目的地は本州最北端青森県である。

朝7時46分の東北新幹線に乗り、新青森着が11時29分。とうとう青森まで新幹線で行ける時代になった。これで日本列島北は青森、南は鹿児島まで新幹線が開通したことになるが、盛岡から青森、熊本から鹿児島の末端区間は日本列島でも辺境の人口の希薄な空疎な地帯である。そのような所にまで採算度外視の巨額な投資をして新幹線を走らすのは明らかに過剰な投資の無駄な公共事業である。将来に莫大な借金だけ残して後始末に迫られるのは次世代を担う今の子供達である。従来型の国家建設は誰が見ても曲がり角に来ている。いい加減やめて頂きたい。

そうは言っても、新幹線が出来たらそれはそれで便利なもので一度は利用してみるべきだと思う。上野・青森間、3時間43分の乗車時間は明らかに長い。でも空港までのアクセスの時間を考えれば飛行機と互角に戦える時間だと思う。後は料金次第だが、連休のこの時期は航空会社は暴利を貪っているとしか思えない料金設定だが、JRの素晴らしいところは公共交通機関の使命である年中同じ料金というところにある。しかも、JR東日本はこの時期、東北の復興支援を目的として1日1万円の赤字覚悟の切符を販売している。東京・青森間は通常料金だと1万6千円程度であるので、片道だけで6千円もオトクである。日本を元気にする何とも粋な企画である。連休中にここぞとばかりに暴利を貪っている航空会社にはJR東日本の爪の垢でも煎じて飲ませてあげたいくらいである。金持ちばかりをターゲットにしていたからJALは倒産したのだ。庶民の味方JRよ永遠なれである。しかし前進の国鉄が清算されてJRになった事をすっかり忘れていた。JALも倒産して良かったといえる将来を歩んでもらいたい。

新青森までの車中はほとんど寝ていた。前日に終電まで酒を飲みすぎてしまった。しかし、ほとんどの乗客が終点の新青森まで乗車していたような気がする。なぜこんなに大勢の人々が青森に行くのであろうか。謎である。

新青森は青森駅とは離れた場所に位置する。レンタカー会社の人に迎えに来てもらって車を借りる。連休中で車の確保すら難しかったが、何とか軽自動車を借りる事ができた。

猛暑だった東京と違って青森は涼しい。青森に来るのは学生以来であるので、おそらく14~15年ぶりだと思う。高校生の時にも確か1度来た事があるので今回で3度目である。青森市内の様子に大きな変化は無いように思える。今も昔も本州と北海道を結ぶ玄関口の港町である。

青森市内から西へ向かって浅虫温泉で昼食にする。シーフードカレーがたったの300円であった。東京なら600円以上はするだろう。物価が安い。

下北半島に入ると東北の最果ての風景の連続である。空は曇りがちで空気が冷たい。半袖では寒いくらいである。冬に来たら厳しい自然が待ち受けているだろう。

本日の最大の目的地の恐山に到着。















この世の終わりともいうべき終末観漂う、まるで地獄の風景を見ているようである。(まだ、地獄には行ってないので、自分の想像にすぎないが、そのうちリアル地獄を見ることになると思う。)




































恐山は高野山、比叡山と並んで日本三大霊場である。これで3つ全て制覇した。

恐山を後にして向かうのは本州最北端の地、大間。大間までの道は時代に取り残されたかのような哀愁漂う寂れた漁村が続く。何とも心に染み入る風景である。雪の降る時期に一人で来てみたくなった。


大間はまぐろの一本釣りで有名な町である。ここだけは途中の貧しい漁村と違って立派な家々が立ち並んでいる。まぐろ御殿である。大間の巨大まぐろは1本釣り上げて300万とか1000万円の世界である。


大間崎の本州最北端とまぐろのモニュメント。






大間崎の風景。民宿兼まぐろを食べさせる食堂が立ち並んでいる。









大間漁港。まぐろの一本釣りのシーズンは秋から冬らしい。






今日、宿泊するのはマリンハウスくどう。1泊2食付で6800円。






夕食はこの内容とこのボリューム。これで6800円とは一体どうなっているのだろう。






まぐろは残念ながら冷凍ものであった。しかし、それ以外の魚介類が絶品であった。特にこれほど脂がのったほっけは食べた事がない。今まで食べていたほっけは何だったのであろう。また、殻付きのうにはとにかくふんわりしていて甘くてクリーミーで美味しい。今まで食べていたうにはただ苦くて潮の味がするだけでぺしゃんこであった。同じうにとは思えない。やはり食材、特に魚介類は地産地消に限る。また、いくらもこれでもか!といったくらいの量が皿にのっかっている。しかも正真正銘の天然の本物のいくらである。最近は安い回転寿司やスーパーで売っているいくらの多くが人造いくらである。

同行者O君はうにもいくらも苦手なので、彼の分まで頂戴していただくが、あまりのボリュームに食後は気分が悪くなってしまった。東京で食べるうに・いくらはいつも一口分である。どんぶり一杯のうに・いくらは食べた事がない。食べなれないものを多く食べ過ぎた。何事も食べすぎは良くないものである。

本州最北端大間の夜は夏とは思えない寒い夜であった。ここに夏は来ないのであろうか。

1日目終了。



2011年7月17日(日)


朝食からボリューム満点である。おいしく頂く。昨日は霧がかかっていたが、今日は天気良く晴れている。本当に天気がいい時はここから北海道が見えるらしい。









民宿の裏手はキャンプサイトになっており、昨日は大勢の車やバイクで来た人たちがテントを張っていたが、多くの人たちは朝早くに出発したようである。






大間を出発した時は晴れていたが、下北半島を南下するにしたがって濃い霧に包まれるようになってきた。しかも、かなりひどい山道である。視界の悪い中、先へ先へと車を走らせる。

今回借りた車はマツダAZワゴン。マツダは軽自動車の生産から撤退したのでスズキワゴンRのOEMである。昨年、スバルも軽自動車の生産から撤退した。マツダもスバルも軽自動車メーカーからのスタートであったのにも関わらず撤退を余儀なくされる厳しい環境である。






非力な軽自動車で走る山道ほど辛いものはない。しかし、何とか我慢して走り続け山道を下って平地が広がる脇野沢へ到着。

ここからフェリーで陸奥湾を横断して津軽半島の蟹田へ向かう。

1日2便しかフェリーの便は無い。のんびりした場所である。









フェリーがやって来た。





連休中の為か、フェリーのカースペースは満車になった。脇野沢港を出航。






下北半島の山々を横目に見ながら陸奥湾を西へ進む。






1時間程で蟹田に到着。もし、陸路で行ったら3時間はかかっただろう。お金はかかったがショートカットの効果は大きい。


蟹田から津軽半島を横断して十三湖に到着。ここはしじみが有名な場所である。






名物のしじみラーメンを食べる。しじみの出汁がよく出ていてあっさりしていておいしい。塩味のラーメンだが、味噌の隠し味が利いている。





青森にあるのに店の名前は和歌山である。おいしかったので、そんな細かい事は別にどうでもいい。






山がちだった下北半島に比べて津軽半島は平野が広がる。豊かな土地である。

津軽平野の中心の金木町に太宰治の生家がある。豪邸である。









りんごの木々が生い茂る津軽平野を南下する。途中で板敷ドームなるバッティングセンターがあるので軽くバッティングをする事にする。久しぶりのバッティングであったが、やけに調子がよく120kmのボールを軽々と打ちかえす事ができる。この調子なら130kmのボールも苦も無く打ち返す事ができそうだが、120kmが最速であった。青森の野球のレベルはこの程度なのであろう。関東、中部のバッティングセンターなら130kmはごく普通に置いてある。最速で140kmはあるのが標準だし、場所によっては150kmに挑戦なんて誰が打つのだと思う採算を度外視した粋なバッティングセンターもある。しかし、バッティングマシーンで140kmのボールなんて打つものではない。人が投げるのと違って投球モーションがなく、いきなり140kmの剛速球が飛んでくるのでタイミングが取りづらい。よほど腕に自信がない限りは金のムダである。雪国なので冬場の対策としてドームで覆っているのであろうか、板敷ドーム内は蒸し暑い。調子にのって120kmを何度も打ち返しているうちに汗だくになってしまった。(ついでに2日後には右手首と右肘の関節を痛めてしまった。右打ちなので普通は左手を痛めるはずなのだが、打ち方が変なのか逆側を痛めてしまった。)


あたり一面りんご畑が広がる。青森らしい風景が連続する。やがて市街地が広がってきたら城下町弘前に到着。


何はともあれ、弘前城を見学する。





城内は広大な敷地である。






岩木山にかかる雲の隙間から光が漏れる。幻想的な風景である。遠くまで来て良かったなと思う。それにしても涼しいところである。






弘前は城下町らしい風格と落ち着いた佇まいがある町である。県庁所在地は青森に譲ったが、城下町としての誇りを感じる町である。


夜は津軽の郷土料理を満喫した。東京では中々飲めない貴重な地酒の田酒も満喫した。いつも思うのだが、水のように飲みやすい。日本酒が飲めないO君もおいしく飲む事ができた。


2日目終了。

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2011年7月9日気仙沼・陸前高田

2011年07月30日 | 日本
2011年7月9日(土)


震災以来、東北に行くのは2度目である。今日は津波の被害が激しかった気仙沼、陸前高田へ向かう。

一ノ関で新幹線を降りて、レンタカーを借りる。今週、近くの平泉が念願の世界遺産に登録された効果か観光客が多い。東北観光復興の起爆剤になって欲しい。

一ノ関から気仙沼へ向かう。普段よりも交通量が多い。復興支援の大型車両が目立つ。

気仙沼市内に入り緊張が走るが、気仙沼駅周辺は震災などなかったかのような以前と全く変らない光景である。しかし、市の中心部は南気仙沼駅周辺である。この辺りは高台なので津波もやって来なかったようである。


フェリーターミナルまで来て、ようやく津波の痕跡を見ることができた。






























チリ地震津波の際、津波がここまで来ましたという警告。今となっては虚しい警告である。






夏のこの時期、離島へ向かうフェリーターミナルは大勢の観光客で賑わうはずだが、誰もいない。ゴーストタウンである。



大型の漁船。サンマ漁船であろうか。焼けただれている。






魚市場は壊滅状態である。気仙沼は日本でも5本の指に入る水揚げ高を誇る漁港であった。今は水揚げも無い状況である。









周辺は水産加工の工場や冷凍倉庫が立ち並んでいたが、今となっては魚の腐った異臭とハエの大群が辺りを支配している。









車が原型をとどめないほど破壊されている。乗っていた人は無事に避難できたのであろうか。














津波の高さは何十メートルあったのであろうか。









南気仙沼駅前。このあたりが市街中心部であった。今では自衛隊の隊員以外、誰も見かけない。震災前は人口10万人を越える県内でも5番目くらいに大きな市であり、このあたりの中心都市であった。







ありえない場所に大型船が乗り上げている。






だいぶ、瓦礫の処理も進んだのであろうが、撤去するには何年かかるのだろうか。これほどの瓦礫の山をどこに捨てるのであろうか。この狭い日本にそんな場所があるのだろうか。モンゴルの草原に捨てるにしても、これだけの量を持っていくのも大変な事である。






高台には避難所と仮設住宅が建設されていた。自衛隊がお風呂を用意してくれているようである。今回の震災では自衛隊の活躍無くして、人命救助、事後処理、何も進まなかったに違いない。自衛隊は日本の誇りである。












フェリーターミナルや魚市場、駅周辺においしい魚を食べさせてくれる飲食店が密集していたが、今ではその痕跡すらない。避難所の近くに寿司屋が1軒だけオープンしていた。店内に他に客はいない。複雑な胸中で寿司を食べる。今は気仙沼で水揚げが無いので、他の場所から持ってきた魚なのであろうがおいしい。

宮城県は北海道に次いで全国で2番目に漁獲高の多い県であった。しかし、主要漁港の気仙沼や志津川、石巻、塩釜、全てが被災して水揚げが出来ない状況である。我々、首都圏に住む人々にも影響が出ている。三陸のおいしい魚が早く食べれるようになる日が来る事を願うほかない。



次に街が壊滅状態になってしまった陸前高田市に行こうと思うが、海沿いの道は不通である。少し内陸部に戻り国道45号線を北上して岩手県に入る。


山を越え、トンネルを抜けると、前方に陸前高田の市街地、ビルや建物が見えてくるのだが、一瞬、言葉を失ってしまった。「何もないのだ。」


壊滅状態の中、唯一残ったのが、この町が生んだ英雄、歌う不動産屋、千昌夫が建てたキャピタルホテル1000だけであった。よほどお金をかけて頑丈な建物を造ったのであろう。






津波に負けずに生き残った木が復興のシンボルとなるであろう。









このホテルの前にはきれいな松林が続いていたはずだが、跡形も無い。






海に面した狭い平野部に商店、公共施設、ビル、家々が密集していたはずであるが、津波が全てを洗い流してしまった。


















かつてここに駅があった。









駅前の風景。以前の姿を知らない人はここに駅があったと言っても信じてくれないかもしれない。









駅前で線香に火を灯し、お供え物を捧げる。






かつてここに町があった。今では誰もいない。瓦礫を運ぶトラックが行き来するだけである。













































言葉にできない想いを胸に一ノ関へと車を走らせる。

一ノ関に着いた頃には夕暮れ時の時間であった。東北特有の長い夕暮れ時の時間、きれいなオレンジ色の空を眺めながら新幹線を待つ。

新幹線は15分遅れでやって来た。

帰りは仙台で酒を飲む。東北随一の繁華街国分町は震災から立ち直ろうという人々のパワーと熱気でとても盛り上がっていた。

東北一の大都会仙台が元気であれば、東北全体も元気になってくると思う。

復興への道のりは10年単位の時間が必要になるだろうが、日本全体でこれを応援しなければと思う。思いやりあふれる日本人なら必ずできるはずである。今は日本国民みんなで東北を応援していく気運に満ち溢れている。これをあと10年は継続していかないといけない。

我々日本人は2011.3.11を忘れてはいけないのだ。いや、忘れたくても忘れる事はできないだろう。終戦記念日がいつだったかはっきりと思い出せない。なぜなら、その時代に生きてはいないからだ。

しかし、2011.3.11は自らの身をもって体験した出来事である。一生忘れることはないだろう。


終わり。
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2011年3月19日~3月21日鹿児島・屋久島3

2011年06月07日 | 日本
2011年3月21日(月)


今日は森に行って、海に行って、名物料理を食べ、屋久島土産を買い、温泉に入って、飛行機に乗って、鹿児島空港で乗り継いで帰る。盛りだくさんの1日である。

朝食後、宮之浦から南へ向かう。屋久島空港が見える。海岸に沿って空港が見えてきた。プロペラ機が1日に数便しか来ない島の空港にしてはそこそこ立派な空港である。

屋久島空港を過ぎると、屋久島では宮之浦と並ぶ大きな町である安房が見えてくる。安房の町を過ぎ、山へ向かって車を走らせていく。

今日は、昨日よりも雨模様である。標高が上がるにつれ、霧がかかってくる。また、雨もより一層強く降ってくる。標高が上がるにつれて雨が強くなってくる。また、霧か低く垂れ込めた雲だかよく分からないが、極端に視界が悪い。5m先も見えない。感覚的には2,3m先すら見えない。しかも道が極端に狭くて先が見渡せない山道を走行している。山道の運転は愛知、長野、静岡の林道で鍛えられたはずであるが、これほどの恐怖感のある運転は初めてである。ほとんどフロントガラスに顔を密着するような姿勢で運転して、ようやく目的地のヤクスギランドに到着。

ヤクスギランドは安房川の支流、荒川の上流にある面積270.33haの自然休養林で、安房から約16km、標高約1000mのところに入口がある。安房から視界が利かない悪条件のなか、16kmもの山道を走ってきたことになる。標高も1000mもある。途中から極端に視界が悪くなったのは雲の中を走ってきたからであろう。霧の中の走行より数倍も恐かった。

林内はいくつものコースに分れ、ヤクスギ林帯を代表するスギ、ツガ、モミなどの大木が見られる。屋久杉は推定樹齢1800年の仏陀杉をはじめ三根杉、母子杉、天柱杉などの巨木が見られる。

駐車中の車はわずか1台である。朝早いのと、この悪天候で山へ行くのを諦めた人が多いのであろう。


ヤクスギランドは自然公園といった感じで歩きやすく整備されている。





















巨大な杉が多いが、本州の杉ばかりが植林された人工的な山の姿ではなく、様々な樹木が生い茂る雑木林の中にぼちぼち杉もあるいった程度である。日本本来の自然な山、森の姿である。種類が異なる木々が雑然と生い茂って、それはそれで綺麗な光景である。今や山林のほとんどが杉や檜ばかりが植林されており、その結果として花粉症が大問題となっている。ちょうど今が花粉症のピークである。しかし、東京であれほど酷かった花粉症の症状が屋久島に来て以来、全く出ていない。東京の都心には杉の木がほとんどないのだが、なぜか花粉症の症状が酷い。しかし、屋久島で杉を目の前にしているにも関わらず花粉症の症状が全く出ない。謎である。

この時期になると、毎年、必ず悩むのが花粉症の症状である。中学1年生の時に発症したので、長い付き合いである。唯一の持病といってもいい。春先の2ヶ月間はひどい症状に悩まされるので、1年のうち2ヶ月は活動停止のようなものである。。これではまるで、1年の活動期間は10ヶ月しかないようなものである。限られた貴重な人生の時間を無駄に浪費しているようなものだ。

沖縄と北海道は杉が無いので花粉症の症状が出ないと聞く。この時期だけでも移り住みたいと真剣に考えているが、屋久島もありかもしれない。

花粉症の事を抜きにしても、屋久島はいろいろな魅力の多い島である。島がかもし出す雰囲気がどことなくバリ島に通じるものがある。昨日、登山道で会って話しをしたガイドの女の子も屋久島にほれ込んで大阪の都会から移住したと言っていた。また、スーパーの駐車場で見かけたふたりの小さな子供連れの夫婦もその風体から察するに若い頃はアジアを放浪していたバックパッカーのようであった。ハイエースを改造してヒッピー風の内装にして、親子ともどもヒッピー風の服装をしている。都会では明らかに浮く格好であるが、屋久島では不思議とマッチしていた。

バックパッカーの放浪生活もいつまでは続かない。現地に職を得て働くか、現地人に同化するか、現地人と結婚するか、などなど、方法はいくつかあろうが、いつかどこかで旅を終わらせないといけない。日常への着地点といったものを探しださなければ、いつまでも放浪者、エクザイルスのままである。いつまでも放浪者、エクザイルスであり続けられたらどれほどハッピーな生き方だろうと思う。しかし、そのような生き方を長く続けられるタフな日本人はごく一部であろう。日本人であり続けること、放浪者、エクザイルスのスタンスを捨てない限り、いつか必ず日本に帰る日がやって来るはずである。

旅する事、放浪する事にピリオドをうった、元放浪者、元エクザイルスの感性に合うのが屋久島かもしれない。屋久島に来てまだ1日目だが、この島には日本の他の島では感じられない、放浪癖のある人間を引き寄せるオーラ、個性を強く感じる。島にはそれぞれ個性があり、相性とか波長といったものがある。その人に合う合わないは強く出てくると思う。(そういったものは国でも町でも、どこでもあるが、島はより顕著に出てくるので分かりやすい。)屋久島は日本で行った事のある島の中、世界で行った事のある島の中で最もオーラの発する個性的な部類に入ると思う。このような島は世界中探してもそうそう見つからないかもしれない。それが、日本にあるのだ。パスポートも持たずに行けるし、住もうと思えばビザの心配もなく金銭の続く限りいつまでも暮らせる。無理に外国に移住する必要もない。


雨がますます強くなってきた。管理人さんに仏陀杉は見ておいた方がいいと言われたので、ずぶ濡れになりながらさらに奥へ進む。


















仏陀杉。あまりの存在感に言葉が出ない。















これは千年杉。






屋久島の杉は意志を持つ生命体だと思う。杉の樹皮が顔に見えてきた。


雨がすごいのでこのへんで帰ろうと思う。猿も人を恐れない。









車に戻り、暖房を最強にして靴を乾かしながら、安房へと戻る。危険な道を裸足で運転する。行きは恐かったが、帰りはもう恐くない。何事も慣れである。途中に屋久杉の博物館があるので見学する。


安房の焼肉屋で黒豚、黒毛和牛、屋久島の鹿肉の盛り合わせを食べる。鹿肉は脂肪が少なくヘルシーである。味もあっさりしており、ヤギとか羊のようなクセが無く、誰でもおいしく食べられる。生肉でもおいしい。もっと鹿肉が普及してもいいのではと思う。






朝早く始動したので、まだ12時45分である。後は温泉に入って、時間があれば島を1周したい。

安房の町外れにある屋久杉を使った工芸品の店でおみやげ探しをするが、箸でも1000~3000円はする。湯のみは3000~6000円もする。それ以上に大きいものは当然1万円以上である。湯のみくらいは買ってもいいと思っていたのだが、この値段だと踏ん切りがつかない。湯飲みくらいなら負けてもいいよと言う店番のおばさんと話しながら、何を買おうか思いあぐねていると、お客さんもいないヒマそうなタクシーの運転手がやってきた。毎日、このお土産屋でおばさんの用意するお弁当を食べているらしい。会話から察するに夫婦でもなさそうである。何とも不思議な関係である。この狭い島なら自宅に戻って昼食を食べればいいと思うのだが・・・。

屋久杉の工芸品を見ながら、引き続きおばさんと話をする。今日の最終便の飛行機で帰り、鹿児島で乗り継いで東京へ帰ると言った時、それまで奥で黙々と弁当を食べていたタクシーの運転手のおじさんが、今日は飛行機は欠航していると教えてくれる。1便は欠航、2便も欠航、その後は未定だが、これほど雲が低く垂れ込めているのだから、今日は恐らく終日、欠航になるのではないかとの予想である。長年、屋久島でタクシーの運転手をしている人が言う事である。信憑性の高い予想である。

屋久島-鹿児島間は1日5便のフライトがある。最も遅い時間の18時発の最終便のフライトを予約している。それまでに天候は回復するだろうか?それとも、ジェットフォイルに乗って鹿児島まで行った方がいいだろうか?とっさの事なので判断に困る。しかし、何はともあれ、とにかくジェットフォイルに乗ってしまった方がいいに決まっている。

お店のおばさんがジェットフォイルの会社に電話してくれたが、安房から出る13時30分発は満席らしい。宮之浦から出る16時20分発も満席らしい。もし、それに乗れたとしても、鹿児島着が19時15分なので20時35分発の羽田行き飛行機に乗り継げないらしい。鹿児島市街から空港までは距離が離れており、バスで50分はかかるらしい。

飛行機が欠航になったので、島を出る人は皆、ジェットフォイルに殺到しているのだろう。今日は3連休の最終日である。大勢の観光客が島を離れる。

お土産屋のおばさんとタクシーの運転手のおじさんは本当に心配してくれた。おばさんはジェットフォイルの会社に、おじさんはレンタカー会社に電話してくれるなど、見ず知らずの旅人の為に骨を折ってくれた。この親切に報いるためには何としても本日中に東京に帰らなくてはならない。明日からは仕事も始まる。

時間は13時15分を過ぎている。大急ぎで安房の港に向かう。レンタカーは駐車場に停めて、車の鍵は車内に置いておけばいいらしい。島なので車の盗難の心配もないのだろう。レンタカー会社には迷惑をかけてしまった。

案の定、港は大勢の人々でごった返している。当然、満席である。キャンセル待ちの3番目になった。大きなフェリーと違いジェットフォイルは飛行機と同じく定員厳守の乗り物である。

予約済みの乗客が全員乗船する。それから、キャンセル待ちの1番と2番が乗れる事になった。さっきとはうって変わってガランとした待合室で待ち続ける。その間、ものすごく長い時間に感じたが、やがて3番目の自分の番号がアナウンスされた。どうやら最後の乗客になれたようである。ほっと胸をなでおろす間もなく、ジェットフォイルは屋久島を離れて行く。

もし、あの時間にあのお土産屋に入店していなかったら、何も知らないままに観光を続けて空港で途方に暮れていた事であろう。屋久島の人の親切に助けられた。本当に感謝である。

ジャットフォイルは15時30分に鹿児島に着いた。鹿児島市内で退屈な時間しのぎをして、20時35分の羽田行きJAL1878便の搭乗手続きをする。屋久島からの便は終日欠航であった。1年間有効のオープンチケットにしておくか、払い戻しをするか聞かれるが、もちろん払い戻しである。13900円が戻ってきた。

JAL1878便は羽田空港の管制の乱れで遅れが生じ、15分遅れて22時30分に到着した。おかげで池袋行のリムジンバスに乗るのに50分も待つハメになった。


会社の同僚の友達の話だが、海が荒れてジェットフォイルが欠航となり、せっかく鹿児島まで行ったのに、屋久島に行けなかった。その人は「屋久島に呼ばれなかった。」と言ったらしい。

屋久島に着いてからずっと感じていた「この島には何かある。何かいる。」その正体はおそらく屋久島が意志を持った生命体であるという事であろう。まるでインドのようだが、今日の帰りのゴタゴタは「屋久島が帰してくれなかった。」事であり、もしかしたら、屋久島に気に入られたのかもしれない。それならば、屋久島とは相思相愛である。

また屋久島に行きたいと思う。いや、また呼ばれたい。


3日目終了。


終わり。
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2011年3月19日~3月21日鹿児島・屋久島2

2011年05月31日 | 日本
2011年3月20日(日)


ユネスコに登録された日本の世界遺産は文化遺産が11、自然遺産が3である。他に複合遺産、危機遺産というジャンルが存在するが、日本には登録された遺産は無い。


文化遺産
1.法隆寺地域の仏教建造物 - (1993年12月)
2.姫路城 - (1993年12月)
3.古都京都の文化財 - (1994年12月)
4.白川郷・五箇山の合掌造り集落 - (1995年12月)
5.原爆ドーム - (1996年12月)
6.厳島神社 - (1996年12月)
7.古都奈良の文化財 - (1998年12月)
8.日光の社寺 - (1999年12月)
9.琉球王国のグスク及び関連遺産群 - (2000年12月)
10.紀伊山地の霊場と参詣道 - (2004年7月)
11.石見銀山遺跡とその文化的景観 - (2007年6月)

自然遺産
1.屋久島 - (1993年12月)
2.白神山地 - (1993年12月)
3.知床 - (2005年7月)


屋久島は面積504.88km²。円形に近い五角形をしている。鹿児島県の島としては奄美大島に次いで2番目、日本全国では9番目の面積である。

豊かで美しい自然が残されており、島の中央部の宮之浦岳を含む屋久杉自生林や西部林道付近など、島の面積の約21%にあたる107.47km²がユネスコの世界自然遺産に登録されている(世界遺産への登録は1993年、姫路城・法隆寺・白神山地とともに日本初)。

島は周囲約132km。火山島ではなく、大部分は花崗岩からなっている。中央部には日本百名山の一つで九州地方最高峰の宮之浦岳 (1,936m) がそびえるほか、他にも数多くの1,000m級の山々を有し、「洋上のアルプス」の呼び名がある。また、海からの湿った風がこれらの山にぶつかり、「屋久島は月のうち、三十五日は雨」と表現されるほど大量の降雨をもたらすため、年間降水量は平地で約4,000mm、山地では8,000mmから10,000mmにも達する。また、亜熱帯地域に位置する島でありながら、2,000m近い山々があるため亜熱帯から亜寒帯に及ぶ多様な植物相が確認されている。山頂付近の年間平均気温は約6-7℃ (札幌市よりも低い)であるために積雪が観測されており、日本国内において積雪が観測される最南端となっている(60cm以上の積雪を観測することがあるほか、3月の彼岸以降でも大雪や路面凍結、また4月以降でも頂上付近ではまだ冠雪が見られる)。

こうした条件により、豊富な流水や湧水に恵まれ、1985年、宮之浦岳流水は名水百選に選ばれている。また、2007年、日本の地質百選にも選定された。


日本で初の世界遺産に登録された屋久島であるが、自然遺産という事もあり、全く興味が無く、さらに鹿児島の南という場所の遠さも相まって、高い旅行費用と時間をかけてまで行こうとは思わなかった。しかし、屋久島に行った事のある人からその素晴らしさを聞くにつれ、だんだんと興味が湧いてきた。屋久島に行った人すべてが屋久島の素晴らしさを絶賛し、辛口の人も絶賛するにいたっては、何かある島、何かもっている島なのだろうという予感を持つようになった。日本全国で素晴らしい自然環境を持つ場所は数多くあれど、最初に世界遺産に登録された場所である。


屋久島へのアクセスはジェットフォイル、フェリー、飛行機と3通りあるが、行きはジェットフォイル、帰りは飛行機で予約をしておいた。ジェットフォイルは2時間15分で7100円、飛行機は50分で13900円であった。


天文館から高速船ターミナルはタクシーの初乗り料金で行けた。






屋久島、種子島へ向かうジェットホイルが発着する。結構、便数が多い。地元の人、観光客の利用共に結構な需要があるのだろう。









7時45分発のジェットホイルに乗船。






しばらくは湾内を進むので陸地を見ながらの航海である。途中、指宿港に停泊。






指宿港を出航した後は、外洋を南へと進む。洋上に開聞岳が見える。






10時に屋久島の宮之浦港に到着。






屋久島に上陸すると、鹿児島とは空気が違う。湿気や自然のエーテルがいっぱい詰まっている南の島の空気である。

初めて行く島では上陸した瞬間に感じた事を大切にする。初めて来た時の何も先入観の無いまっさらな状態で感じる事は物事の本質を感じ取っている事が多い。

ここで感じた事は屋久島はただの島では無い。ここには何かある、何かがいる。という事である。






レンタカーを借りて、山へと車を進めていく。やはり、島らしく交通量が恐ろしく少ない。交通渋滞が日常の東京から来ると違和感を感じてしまう光景だが、逆にあれほどの膨大な交通量のある日常を過ごしている事が恐ろしく感じる。人体にとって良いわけが無い。島の日常の方が本来の人間の過ごすあるべき環境に近いのだろう。










宮之浦の町並みが見える。屋久島で最大の町である。屋久島全体の人口は13,000人ほどである。






白谷雲水峡。屋久島北部を流れる宮之浦川支流白谷川渓谷であたり一帯は原生林に覆われている。古くからの観光地である。

























樹齢千年以上の巨大杉が続く。

























































ハイキングコースというよりは登山道に近い。スニーカーにフリースという街歩きの格好ではなくて、もっと本格的な装備で来るべきであった。観光客は本格的な装備・格好で来ている。

ここから先は本格的な山登りとなる。山小屋がある。









伐採された杉の切り株の上に新たな杉が育った。






もののけ姫の森。もののけ姫は屋久島の自然がモデルになったという。









カメラのファインダーの設定を変えるとこんな感じになる。






屋久島に来て感じたここには何かがある、何かがいる。この第一印象は森に来ていっそう強くなった。このような感情を持ったのはバリ島のウブドの山奥に滞在した時以来である。日本にも同じような場所があるとは驚きである。

バリ島の山奥では森にはいろいろな精霊や魂が宿ると感じた。遠い昔、日本でもそのように感じられた場所も多かったのかもしれないが、そのほとんどが、今では失われてしまっている。屋久島ではまだまだそういった科学では解明できない何かが残っている。

日本で初めて世界遺産に登録されたのも理解できる。自然が美しいだけでは世界遺産にふさわしくない。自然に宿る科学では説明できない部分がなければいけないのだ。

アクセスが不便な日本の南の島にも関わらず外国人観光客の姿が多い。彼らは観光に対する嗅覚が鋭い。世界中探してもこれだけの場所はそうそう無いであろう。


来た道と川の反対側の道を通り戻る事にする。









屋久島には鹿や猿が多く生息する。人間を恐れる様子は無い。鹿が前を歩いたり、すぐ横を歩いている。















渓谷が見えてきた。入口に戻って来た。









山の次は海に行きたい。宮之浦から屋久島を北へ向かう。昔ながらの漁村が続く。






東シナ海が見渡せる。












永田浜。急峻な海蝕崖に囲まれた屋久島では数少ない貴重な砂浜であり、海亀が産卵にやって来る。












夕暮れ時の時間、誰もいない砂浜でする事といえば、もの思いに耽るしかない。









屋久島の最北端にある灯台まで行く。急に天候が変わり雨風ともに強くなる。眼下に広がる急峻な海岸をみると大自然の恐ろしさを感じる。そろそろ帰ることにしよう。









宮之浦にある民宿たけすぎ。1泊2食で7350円。





名物のトビウオや黒豚料理が並ぶ。東京で黒豚の角煮を頼むとサイコロ大くらいの大きさだが、鹿児島ではこぶし大の巨大な角煮が出てくる。鹿児島の料理はこれでもか!というくらい砂糖を入れて味付けをしている。醤油も砂糖が大量に入っているのかとにかく甘い。刺身を食べても甘い味しかしない。でも、これはこれで美味しい。






宿で夕食を食べた後は、もうする事が無い。車で外を走るが、宮之浦に数軒の居酒屋はあるが、ネオンの灯りも無く、島特有の暗い闇に覆われた細い道が延々と続くだけである。感じる夜の空気はバリ島のそれと同じであった。



2日目終了。
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2011年3月19日~3月21日鹿児島・屋久島1

2011年05月29日 | 日本
2011年3月19日(土)


土・日・月と続く3連休の前の木・金と福岡へ出張である。昨年から始まった九州での仕事もこれでひと段落である。2010年の1月から始まり今回を含めて合計4回の九州出張だが、上手い事にその都度、週末と重なり九州各地への小旅行が出来た。過去3回の旅行では博多と湯布院、熊本、長崎に行った。今回の週末は3連休と日数も十分にあり、また九州新幹線も鹿児島まで全面開通した事もあり、鹿児島とさらにその先にある世界遺産屋久島へ行く事にした。


博多から鹿児島までの九州新幹線が全面開通したのが、ちょうど1週間前の3月12日であった。それまで博多から鹿児島までは最も早い特急列車で3時間40分かかっていたのが、新幹線で1時間19分で行けるようになった。九州内の移動が大変便利になった。

しかし、博多から終点の鹿児島までは行く新幹線は1時間に2本と極端に本数が少ない。鹿児島まで全面開通したのはいいが、その程度の需要しかないのであろう。しかも、1本は九州南部の小都市に停車していく各駅停車である。最初で最後の九州新幹線の乗車となるかもしれないので、どうせなら最も早い新幹線に乗りたい。

博多発8時27分のみずほ601号の予約を事前に済ませておいた。九州新幹線の列車の中では、新大阪始発のみずほ号が最も早い。途中停車駅は熊本のみである。鹿児島着は9時46分。所要時間1時間19分である。





開通して1週間なので出来立てホヤホヤの新車(新列車)である。2週間前に大連に行った際もJALの出来たてホヤホヤの飛行機に乗れたので、今年の3月は乗り物に関してはツキがある。やはり新車に乗るのは気持ちがいいし、綺麗に使用しなければいけない気持ちになる。

毎月のように乗車する東海道新幹線のように窮屈な5列座席ではなく、グリーン車なみの4列座席である。乗客が少ないから可能なのだろうが、JR東海は儲け優先の効率主義ばかりを追求しないで、JR九州の顧客第一主義、サービス精神を少しは見習ってもらいたい。






熊本から先はトンネルと海の連続となり、町の規模も小さくなる。九州は福岡から離れて、南に行けば行くほど田舎になり、南国情緒たっぷりな南九州の風景が連続する。この風景を見ていると熊本から先は本当に新幹線は必要だったのか疑問である。無駄な公共事業こそ赤字国家の元凶である。将来の為にも重要性の無い公共工事はやめてもらいたい。新幹線はもう十分だ。


あっという間の1時間19分で、終点の鹿児島中央駅に到着。






鹿児島中央駅から見る鹿児島市街。南国らしい暖かさとゆったりとした空気が流れている。






駅から市街中心部まではやや距離が離れている。市電に乗って出発。






まずは、鹿児島のシンボル桜島に行く事にする。15分間隔でフェリーが運航されているので、便利である。島へ行くといった感覚ではない。









桜島。この静けさと人の少なさと交通量の少なさはやはり島である。






島を1周するバスが走っている。路線図を見ると白浜温泉センター前というバス亭がある。そこに行って温泉に入るとしよう。






バスは交通量の少ない道をのんびりと走り20分ほどで白浜温泉センター前に到着。






まだ午前中の早い時間なので広い温泉センターには誰もいない。贅沢にも貸切状態でゆっくり温泉に浸かる。仕事の疲れが一気に取れたような気がする。この1週間は精神的にも肉体的にもかつて経験した事のない辛いものであった。気の休まる瞬間が無かったような気がする。本州の最南端鹿児島、桜島まで来てようやく緊張感が解けてきたような気がする。


温泉でリフレッシュした後は誰もいない海辺でバスが来るのを待つ。ここは本当に平和だ。普段と変らない日常がある。この1週間の経験で、普段通りの生活が出来る平常のありがたさ、平和のありがたさを感じる事ができるようになった。地球と神様と大自然に感謝したい。人間として引き出しがひとつ増えたような気がする。









鹿児島市内へ戻る。






鹿児島城。地元では鶴丸城と呼ばれている。江戸時代、石高第2位の77万石の大藩薩摩藩の城にしては驚くほど小さくて簡素な城である。第1位の102万石の加賀藩の金沢城は敷地内に4車線くらいの大きな車道が通っていたし、第3位の62万石の仙台藩の仙台城は巨大な山全体が城であり、山の頂上にひとつの町ができそうな程の広さであった。






鹿児島市街の繁華街。鹿児島らしく黒豚料理の店が多い。鹿児島は地理的に工業生産には不利な立地である。しかし、農業生産には好条件な立地である。日本屈指の農業県である。繁華街の規模・賑わいは100万都市福岡には遠く及ばないが、長崎以上、熊本と同規模程度の繁華街である。しかし、新幹線が開通して福岡まで1時間20分で行ける事になり、福岡への一極集中が進まないか地元の商店街としては心配だろう。












ホテルは鹿児島一の繁華街天文館の近くに予約を入れておいた。






早い時間から繁華街に繰り出して、鹿児島ならではの食材、黒豚、黒毛和牛、きびなご、さつま揚げをつまみに、これも鹿児島ならではの芋焼酎を1杯ごとに銘柄を変えながら何杯も飲む。遠く離れた旅先の町でひとり飲む酒は過去の思い出がいろいろとよみがえってくるものだが、今日飲む酒は今までに経験した事の無いような感情が胸に込み上げてくる。

とにかく今は遠く離れた町の居酒屋でひとりで酒を飲み続けたい気持ちである。現実から目を背ける方法はいろいろとあるのだろうが、今はとにかく酒を飲み続けるしか方法が思いつかない。そのうちに酔いがまわってきて思考する気力も能力も失われてくるだろう。思考を止めるには平和な南国はうってつけの場所である。



1日目終了。
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2011年1月28日~1月30日石垣島3

2011年05月22日 | 日本
1月30日(日)


最終日、朝起きて外を見る。晴天では無いが、昨日よりはいい天気になりそうである。









石垣港には昨日より豪華客船にっぽん丸が入港している。沖縄本島~宮古島~石垣島~与那国島とクルーズをしているらしい。昨日、竹富島からの帰路、停泊中のにっぽん丸を見たが、巨大なビルのようであった。石垣港には7年ぶりの入港という事で地元では大きなニュースになっている。






しかし、朝のニュースをテレビで見ていると残念なニュースが放映されていた。

・ディアマンテスの安和良隆さんが行方不明
沖縄県の石垣島の石垣港に1月29日に入港した豪華客船「にっぽん丸」(2万2,472トン)に、ライブ演奏のため乗船していたラテンバンド「ディアマンテス」の安和良隆(51歳・芸名:ターボ・ギター奏者・沖縄県沖縄市)さんが行方不明となっているそうです。

安和良隆さんは、海に転落した可能性があり、石垣海上保安部はヘリコプターなどで石垣島周辺などを捜索しているそうですが、1月30日までに手掛かりはないようで、1月31日以降も捜索を続けるというようです。

安和良隆さんは1月27日に、沖縄本島北部の本部港でメンバーらと乗船し、1月28日に那覇港を出て、1月29日午前9時に石垣港に入港したそうですが、関係者が安和良隆さんがいないことに気付き、石垣海上保安部に連絡したというようです。

安和良隆さんは、1月29日午前7時すぎに、石垣島の北5キロを航行中の船上から、携帯電話で奥さんと話したことが確認されているというようです。

昨日は波照間島行きの船が欠航になったくらい海が荒れていたので、誤って転落してしまったのであろうか?事故か事件かそれとも自殺か?目撃者も居ないので永遠に謎であろう。


でも、最後に電話したのが、石垣島から北5kmの地点なので、転落後、もしかしたら、泳いで島までたどり着いたかもしれない。それならば、まるで映画である。


でも、あれほど大きな船から転落したら、いくら海面といえども、身体へのダメージが大きい。また、巨大な船が進む推進力はものすごい巨大な水流を生む。その中を泳ぐのは無理であろう。それにスクリューに巻き込まれる可能性もあるし、海中でぐちゃぐちゃになって巨大な船体の下に入ってしまったら海面に出てくるまで、かなりの時間と体力が必要であるし、常人ならば死亡してしまうだろう。

しかし、芸名がターボである。もしかしたら、ものすごいパワーの持ち主かもしれない。無事を祈るしかない。



今日の観光は石垣島鍾乳洞からスタート。日本最南端の鍾乳洞らしい。石垣島にあるものは大抵が日本最南端の~となる。



























鍾乳洞観光の後は、市街に戻る。観光地らしく町の規模にそぐわないくらい大きい観光客向けの歓楽街があるが、昼間はひっそりとしている。












焼き肉の有名店「金城」で昼食。

ランチステーキが安かった。A5ランクの肉質のサーロインステーキが2500円。東京なら4000~5000円はするだろう。ついでにカルビを追加で頼む。












東京では石垣牛を食べる機会も無いであろうから、多分、これで食べ納めであろう。


お腹も満たされた。観光再開。展望台から石垣市街を望む。













石垣島でも最も西に位置する御神崎灯台に行く。灯台のある岬は遮るものが何も無いので、風がものすごく強い。断崖絶壁の下には荒れる海。ここにいるだけで恐怖心を感じる。火曜サスペンス劇場の最後の場面にぴったりである。


















この場所は海が荒れるようで、昔、この先の沖合いで発生した海難事故の慰霊碑が建てられていた。






島を半周して、おとといに続き、また川平湾に来た。ここでグラスボートに乗船。日本にもこれほど立派なサンゴ礁がある事にびっくりする。しかし、それは国境の問題であり、この地が日本に領土に組み込まれたのは明治時代以降である。





















島一番の観光スポットらしく大型バスで観光客が次々とやって来る。夏はものすごい事になりそうだ。


沖縄といえばハブ。






川平湾の先にある底地ビーチはひっそりとしている。















また、来た道を戻り、島を半周して石垣市街へと戻る。途中でヤギ汁を食べる。

都市伝説だと思っていた具志堅用高記念館が本当にある事を確認したが、400円の入場料を払ってまで見る気にはならなかった。


数年前、地元の八重山商工高校出身の大嶺投手が入団した縁でロッテのキャンプ地が石垣島となった。日本最南端の高校八重山商工の甲子園での快進撃は記憶に新しい。これだけ不利な条件が重なる僻地の島の高校にも関わらず、春は九州大会準優勝、夏は沖縄県大会優勝と21世紀枠ではなく、実力で出場した事は特筆に価するだろう。春は優勝した横浜高校に7-6で敗戦。夏は智弁和歌山に敗れたが堂々のベスト8。ちなみにこの大会で優勝したのは斎藤佑樹投手擁する早稲田実業であった。大勢の人々の記憶に永遠に刻まれる大会であろう。八重山商工高校は大嶺の活躍以上に個人的には金城長靖の活躍、プレーが印象に残っている。プロ野球でも金城選手の活躍を見てみたいものだ。


明日からロッテのキャンプが始まる。昨年、史上最大の下克上で日本一に輝いたロッテの優勝パレードが17時から開始する。

普段はひっそりとしている石垣島だが、ものすごい人だかりである。どこからこんなに大勢の人たちがやって来たのであろうか。












このオープンカーにはきっと西岡が乗るのであろう。今年から念願のメジャー挑戦だが、渡米前に、自主キャンプをロッテの選手と一緒に石垣島で行うとの事である。





石垣島の人々は皆、ロッテファンになってしまったようだ。ここの人々の素晴らしいところは、いたる所に掲げられている横断幕に書いてある、「ロッテのみなさん、石垣島を選んでくれてありがとう。」という気持ちである。

生まれた時から自分の住む町にプロ野球球団が当たり前にある環境で育った人間には、この気持ちはきっと分からないであろう。

横浜市民、神奈川県民のように地元球団に無関心な人々は、失ってから初めて、そのありがたみに気づくのだろうが、失ったものは残念ながら、もう元には戻らない。

来年は新潟であろうか。長野であろうか。それとも静岡であろうか。

横浜市民、神奈川県民には石垣島の人々の心意気を見習って欲しいと思う。

今ならまだ、間に合うかもしれないのだ。

いずれにせよ、今シーズンの観客動員数とか、球団の成績次第であろう。球団の行く末を決めるのは親会社のTBSである。横浜市民、神奈川県民ではない。



17時よりパレードが開催される予定であったが、飛行機の到着が遅れているらしく、今は空港でセレモニーが行われているらしい。実況中継で情報が流れる。


















パレードを見てみたいのだが、残念ながら、もう帰らなければいけない時間である。

空港に向かう道すがら、ロッテ選手を乗せたバスをすれ違う。


石垣島空港に到着。狭いターミナル内は観光からの帰路に着く人々で賑わっている。

この古くて狭い、いかにも南の果てに来ました、といった感じの空港も数年後には新空港が出来て廃止される。















来た時と同じように、歩いて飛行機まで向かう。






たった50分のフライトで那覇空港に給油の為、着陸。乗客は一旦、降機しなければならない。

那覇空港で沖縄そばを食べる。空港の外の様子が既に都会の様相を呈している。

再度、同じ飛行機に乗り込み羽田空港へ向かう。

JTA78便は定刻通り22時に羽田空港に到着した。


3日間に渡る八重山諸島への旅行もこれで終了。ディアマンテスメンバーの行方不明や、見る事ができなかったロッテの日本一パレードなど予期せぬ出来事と重なった旅行となった。無事に帰ってこれた事に感謝したい。



3日目終了。

終わり。
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2011年1月28日~1月30日石垣島2

2011年05月20日 | 日本
2011年1月29日(土)


朝の6時に突然、携帯が鳴って起こされる。今日、参加予定の波照間島のツアーが中止になるとの連絡であった。海が荒れているため、船が欠航になる見込みらしい。

波照間島は有人島では日本最南端である。日本最南端は東京都の沖ノ鳥島であるが、島というよりは岩礁であり、一般人は上陸できない。絶海の孤島、岩礁であるので、もちろん定期便もない。よって、実質的な日本最南端の島は波照間島ともいえよう。

日本人として、やはり最果ての地に立ってみたい願望はある。北と東の果ては北海道の稚内と根室であるが、数十年も前に到達済みであるので、残った西と南に行ってみたい願望を長年持ち続けてきた。しかし、ついに願いが叶う目前になって逃げられてしまった。次回は最西端の与那国島とセットで波照間島に行ってみたい。また、八重山諸島に行かなくてはいけない理由、宿題ができた。これでよしとして気分を切り替えよう。


波照間島への船は外洋に出るため、海が荒れると欠航になりやすいが、西表島、小浜島、竹富島へ行く船は天候の影響をそれほど受けることなく一部欠航になった便以外は通常に運行している。

本日の予定を変更して、石垣島ドリーム観光の西表島、由布島、小浜島、竹富島の4島巡りツアーに参加する事にする。これだけ巡って、しかも昼食つきで13,900円は安いと思う。


波照間島に行く高速船。人口500人の島に行く船にしては大きな船である。また、双胴船なので波の影響はそれほど受けない構造になっているはずだが、欠航である。風はそこそこ強いが台風が来ているわけでもなく、この程度の海のコンディションでなぜ欠航になるのか不思議である。






八重山諸島アイランドホッピング、最初の島は西表島。天然記念物イリオモテヤマネコが発見された島としてあまりにも有名である。しかし、オールド大洋ファンには前泊投手の出身地として有名な島である。人口わずか2000人の島から輩出した初のプロ野球選手という事で地元では大騒ぎになったらしい。肝心の実力の方はプロ5年間で77試合2勝10敗防御率4.85という数字に終わっている。プロで1勝も出来ずに球界を去っていく選手が圧倒的に多いプロ野球界のなかでは、2勝という数字を残しているだけ、まだ立派ともいうべきかもしれない。しかし、その数字以上に初先発の巨人戦で全国ネットのテレビ中継に映し出された怪異な容貌の方が子供心に強烈なインパクトを残した事を覚えている。

「ガイコツが投げている!」長身でとにかくガリガリに痩せており、骨と皮しかないような体なのに、どういう訳か、体力勝負のプロ野球の選手である。しかも、極めつけは顔がガイコツにそっくりな事である。小さな子供としては恐怖である。アニメや絵本でしか見たことがないガイコツがテレビに映っており、しかも全国ネットのプロ野球、天下の巨人戦に先発しているのである。そのガイコツ投手だが、ストレートに威力は無い。130~134kmと遅い。特別に凄い変化球があるわけでも無い。やや大きく曲がるカーブがあるくらいである。しかし、なぜか巨人の並み居る強打者が打てないのである。ガイコツの持つ魔力かもしれないと思ってしまう。結局、その巨人戦で前泊投手はプロ初先発初勝利をあげる。しかし、結局、プロでは2勝で終わる。

その程度の活躍で終わった前泊投手であったが、その後、長年に渡る大洋暗黒時代を招くきっかけとなってしまうことを知るファンは少ないかもしれない。

・地元神奈川の有力社会人チーム日産自動車との断絶。日産自動車の打撃投手にすぎなかった前泊投手が入団テストを受けてドラフト外入団して、1981年に巨人戦に勝利して味を占めた大洋フロントは、ならばエースピッチャーを採れば大活躍間違い無しと考え、1982年のドラフトで日産自動車がチーム残留を望んだのに関わらず、エース関根投手を大洋は強行指名。以後、大洋は日産自動車を出入り禁止となってしまう。その後、日産自動車の有力選手はことごとく他球団に入団、活躍。日産自動車との関係が改善されたのは、27年後、2006年の高崎投手の入団まで待たなければならない。日産自動車の有力選手がこれから続々と入団してくると期待していた矢先、日産自動車野球部は突然、まさかの解散となってしまう。関根投手は前泊投手よりもは活躍(107試合9勝26敗防御率4.61)したが、その代償は高くついてしまった。

・興南高校出身選手のドラフト指名の相次ぐ失敗。どういう訳だか、興南高校出身の選手を指名しまくるが、ことごとく失敗する。
1978年 横浜大洋ホエールズ 与座朝勝投手(ドラフト2位)
1979年 横浜大洋ホエールズ 前泊哲明投手(ドラフト外)
1981年 横浜大洋ホエールズ 竹下浩二投手(ドラフト4位)
1986年 横浜大洋ホエールズ 友利結投手(ドラフト1位)
1986年 横浜大洋ホエールズ 名幸一明捕手(ドラフト外)

だいぶ話がそれてしまった。野球、特に大洋、横浜の事になるとついつい熱くなってしまうから、ブログがムダに長くなってしまうのだ。このブログは野球ブログではなくて、あくまで旅行ブログである。


海はそれなりに荒れていたが、60分ほどで西表島に到着後、ボートに乗り換えマングローブの生い茂る川を遡って行く。





まるで、東南アジアのジャングルの川を遡っているようである。日本にこれほどの自然の実力を持つ島があるなんて、日本の自然は凄いし、日本は広い。






30分ほど川を遡ったところで上陸。















熱帯でしか見られない木々を見て、大満足。下流に向けて引き返す。









バスに乗り、西表島ののどかな道をゆっくりと走る。とても日本にある島とは思えない秘島度満点な雰囲気である。運転手さんはイリオモテヤマネコを轢かないようにとにかくゆっくりと走る。


水牛車に乗り、由布島へ行く。






水牛の骨。カラバオですね。






わずか数世帯が住む小さな島であり、島内は自然公園となっている。






1月なのに蝶が生きているのにはびっくり。しかし、寒さのため全く動けず。





黄金色のさなぎ。孵化したらどれほど綺麗な蝶になるのだろうか。






次の目的地は小浜島。石垣島ドリーム観光の高速フェリーは海の暴走族である。強力なエンジンを数機搭載しているのだろう。荒れている南の海を猛スピードで暴走して、30分程で到着。荒れた海をものともせずに突き進む船頭さん。さすが島人である。






小浜島。NHK朝の連続ドラマ、ちゅらさんの舞台となった島である。昔は八重山諸島でも最も地味な島でとにかく観光客が来ない島であったが、西表島から水道の供給が開始されて以来、高級リゾートが立ち並ぶ観光の島へと変貌と遂げた。

高級リゾートの島ということもあり、八重山諸島の中では最も興味の無い、別に行かなくてもいい島であったが、一目でこの島が気に入ってしまった。とにかく風景がのどかで素朴である。小さな島であるが、起伏があり、どこかしら北海道の原野を思い起こす風景が続く。そして、島の外には真っ青な海があり、集落には昔ながらの沖縄の家屋が残っている。









今度はこの島の安い民宿に泊ってゆっくり過ごしてみたい。ちゅらさんの実家の民宿こはぐら荘。






バスはのどかな小浜島を走る。通行する車は観光バス以外ない。






今日は雲っており、風が強い。夏の晴天時は最高に海が綺麗な島なのであろう。タイの秘島も夏のベストシーズンの小浜島の海の美しさには負けてしまうかもしれない。









沖縄本島の糸満から移住してきた人たちの漁村にある謎のモニュメント。






ちゅらさん展望台。









昼食は南西楽園リゾートニナカライで食べる。






今はオフシーズンで閑散としているが、日本にもこのような滞在型の高級リゾートが存在し、経営が成り立っている事に戸惑いを感じる。日本人はとにかく忙しい国民ではあるが、その割には慎ましい生活を送っている庶民が大半を占める国だと思うのだが、時間と金があり余っている富裕層も存在しているという事であろう。この島のもうひとつの高級リゾート、あの有名な「はいむるぶし」も見てみたかった。












小浜島の船着場。今の時期は観光客も少なく閑散としている。









海の暴走族石垣島ドリーム観光の高速フェリーがやって来た。最後の目的地、竹富島へ向かう。






通常の船の2倍の速さの40ノット近いスピードで爆走して竹富島に到着。

昔ながらの沖縄らしい家並みが保存されている島である。ガイドさんの説明によると1軒家を建てるのに5000万円以上はかかるそうである。何でも資材を本土から持ってこないといけないし、昔ながらの工法で家を建てるとお金も時間もかかるようである。それでも、伝統的な家並みを守っている島の人たちの心意気が素晴らしい。















隆起サンゴでできた島なのでとにかく平坦な島である。一番高い地点がなごみの塔である。












1軒1軒ごとに異なるシーサー。個性豊かである。





















西表島、由布島、小浜島、竹富島の4島ツアーもこれで終了。また、暴走フェリーに乗り、石垣島に帰る。タイのスピードボート、香港・マカオ間のジェットホイルが最強の海の暴走族だと思っていたが、日本の南の果ての島にもそれに対抗できる海の暴走族が立派に存在してた。普通のフェリータイプの船でジェット推進でもないスクリューで進む不利を勘案すると、こちらに軍配を挙げたくなる。


八重山の秘島から戻ってくると、ホテルから見る港や市街地の風景がとても都会に見える。














夜は近海で水揚げされた沖縄ならではの魚料理を満喫した。


2日目終了。
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2011年1月28日~1月30日石垣島1

2011年05月17日 | 日本
2011年1月28日(金)


ここ数年はタイの秘島巡りばかりしているが、たまには日本国内の秘島巡りもしてみたい。

日本という国自体が島国であり、数多くの島々から成り立っている。日本人の多くがイメージする秘島といえば、やはり沖縄であろうか。しかし、沖縄本島は多くの人口を抱え、観光客も多く、当たり前だが、秘島といった趣ではない。また、今までに何度も行った事があるので、あえて行く理由も見当たらない。

今回は以前より興味があった八重山諸島に行く事にした。

石垣島を中心とした八重山諸島は沖縄本島からは約400kmも離れており、地図を見れば、沖縄本当よりも台湾の方がはるかに近い。まさに日本列島の最果て、国境の島であり、辺境である。それでも、石垣島はそこそこの都市のイメージがある。しかし、他の島々、西表島、竹富島、小浜島はそれぞれが個性豊かな秘島のイメージを持っている。

長年、行きたくてやまなかった八重山諸島、残念な事に、旅行代金が非常に高い場所である。夏のハイシーズン中だと10万円以上の出費が必要である。その金額ならば海外旅行に行ってしまう。しかしながら、オフシーズンに行けばその半額程度である。

東京から石垣島への直行便は行きは1日2便、帰りは1便である。しかも帰りは那覇経由であり、正確には直行便ではない。石垣空港の滑走路が1500mしかなく、ジェット機の離発着には長さが足りないらしい。燃料を少し入れた小型機であれば、なんとか離陸可能な長さであり、沖縄本島への飛行便は頻発しており、観光客の多くは那覇空港経由でやってくる。

しかし、3日間という限られた時間を有効に生かすためには、直行便を利用したい。直行便利用にこだわって安いツアーを探す事にした。今の時期は5万円前後であり、思ったより安かった。

6時25分発JTA71便石垣島行きは時間通り離陸。6時前に羽田空港のチェックインカウンターに並ぶのは大変な事である。首都圏の住民でも前泊をしなければいけない人が大多数であろう。しかし、朝早い事は時間の有効活用には違いない。

国内線とは思えない3時間15分の長い飛行時間ののち、9時40分に石垣島空港に無事着陸。滑走路の短い石垣島空港の着陸はパイロットのテクニックが必要だと聞いた事があるが、着陸時にこれほどの急ブレーキと逆噴射をして着陸したのは今までに無い経験である。体がかなり前のめりになる。シートベルトをしていないと前のシートに衝突してしまうだろう。着陸前に燃料を使い切って、機体の重量を最大限軽くしてもこのようにかなり荒っぽい着陸である。燃料を満載しての離陸は非常に危険というか、無理であろう。離陸前に滑走路が尽きてしまうかもしれない。羽田空港への復路の直行便が無い理由が良く分かった。


雨の石垣島空港。気温は20℃。東京との気温差15℃くらい。ねっとりとした南国特有の空気を吸えば、ここが日本の南の果ての島なのだという実感が湧いてくる。この空港、飛行機の乗降でボーディングブリッジを使用しない。いかにも南国の田舎の空港らしい。







空港ターミナルは簡素な建物である。観光がメインの島の玄関口としてはあまりにも貧弱な空港であるので、現在、滑走路の長い空港を建設中である。新空港の開港後は羽田から大型機の直行便が頻繁に発着できるようになり、観光客が一気に増えるはずである。





空港近くのレンタカー屋で車を借りる。このツアー代金でレンタカー代も込みである。オフシーズンの旅行は本当にお徳である。


まずは、石垣島の最北端を目指して出発。

空港を過ぎるとすぐにあたり一面がサトウキビ畑である。市街地が延々と連なる沖縄本島と異なる風景である。交通量もほとんど無いに等しい。






途中で展望台があるので、登ってみる。綺麗な海である。沖合いにリーフがあり、波が砕け散っている。さんご礁に囲まれた南の島である。









石垣島でも最も北に近い辺鄙な場所に島で最もおいしいといわれる八重山そばの店がある。明石食堂。






野菜炒め入り八重山そばとソーキ。八重山そばは沖縄そばと麺の形状が違って、丸い断面のそばである。ここのソーキはとにかく柔らかい。ほとんど液体に近い。これほど柔らかくておいしいソーキは初めて食べた。






島の北部は牧場が多い。有名な石垣牛の産地である。









今夜は石垣牛の焼肉を食べたい。






島の一番北のビーチで一休み。誰もいないビーチだが、観光シーズンには賑わうのであろう。






サトウキビ畑と海。南国らしいコントラストの風景。






島の最北端の岬、灯台に行くが強風と雨により車の外に出るのを断念。


石垣島とはいえ、1年で最も寒い1月である。しかも、今年はここ数年では最も厳冬である。雨が降るとさすがに寒い。


島田紳介のお店で休憩。本当に沖縄が好きらしい。






大雨がやみ、曇り空に変る。先ほどまで晴れていたりと、天気の移り変わりが激しい。


石垣島で最も風光明媚な川平湾。この曇り空でこれほど綺麗な海の色である。真夏の晴天時は眩しいくらいのエメラルドブルーの海になるに違いない。















本日は石垣島の北部を1周して来た。石垣市街のホテルにチェックイン。ありがたい事に宿泊者専用の貸し出し自転車がある。車は便利だが、市街地で機動力を最も発揮するのは自転車である。早速、市内に繰り出す。


商店街。





市場。






名物の石垣牛。地元の市場価格の驚くほど安い値段でパックされて売られている。









石垣牛でもランクがある。お肉屋さんのお兄さんにA4、5ランク以上しか提供していない焼肉屋を教えてもらう。


繁華街から少し離れた住宅街にその焼肉屋「まる」はあった。






南国は夜が遅い。19時に店に行っても、観光客らしき1組の先客がいるだけである。それに今はオフシーズンである。お店の人の話によると昨年の観光シーズンにはお店に入れなかったお客さんがあまりにも多かったので、今年の夏までには店舗を拡張するそうである。ここ数年で石垣牛はあまりにも有名になったのはいいが、人気に便乗した焼肉屋が増えすぎて、供給不足に陥っているそうである。また、肉質も低下気味らしく、今年になってから、A4、5ランクの牛は3頭しか出なかったようだ。


その貴重なA4、5ランクの肉を食べる。






石垣牛は和牛の旨みとは違った肉本来の味わいがある肉質である。コテコテの和牛なら少し食べただけで、胸焼けして、それほどたくさんは食べれないが、これならいくらでも食べられる。



1日目終了。
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2010年11月6日廃学校

2011年01月17日 | 日本
11月6日(土)


廃墟マニアの聖地、軍艦島に行った後、久しぶりに我が聖地、とある山奥にある廃学校を訪れたくなって仕方がなかった。

約1ヶ月後、絶好の廃墟日和に車を借りて行くことになった。

延々と続く山道を走り続けて、ようやく目的の廃学校と再会を果たす事ができた。

2008年9月27日に行った時の様子はこちら


この佇まい。いつまでもずっと変らないで欲しい。

感動のあまり心の震えが止まらない。久しぶりに懐かしい旧友と再会したような、いや、幼い頃に生き別れとなった兄弟と再会したような気持ちというべきか。















内部は誰かが整理整頓した様子である。





















平地がほとんど無いので校庭もとても狭い。子供達は野球やサッカーはできなかったであろう。遊具も自然と同化してしまった。












学校の周囲はとても綺麗な山並みが連なる。






先生が住んでいたであろう住宅跡。












内部は昭和45年のまま時間が止まっている。















絶景を眺めながらの露天風呂は1日の疲れも癒されたであろう。






いつまでもここにいたい気分であるが、このまま昭和45年の世界に留まっているわけには行かない。現実世界の平成22年11月6日に帰らなければならない。

さようなら。また会いましょう。

昭和45年を永遠に生き続ける先生と生徒達。


死は生の対極にあるものではなく、死もまた生の一部なのだ。

永遠に続くパラレルワールド。






山々を眺めながらのドライブ。現実世界への帰路につく。


















天竜川が見えてきた。






飯田線の鉄橋の下をくぐると下界へ戻ってくる。









この天界へと続く道を作った人の銅像。後世に語り継がれる偉業であろう。




おわり。
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2010年10月9日、10日長崎くんち祭りと軍艦島3

2011年01月13日 | 日本
軍艦島あまりの素晴らしさと感動に体全体が包まれて言葉で表現できない。

自分のつたない言葉で軍艦島を表現するのは畏れ多い。

今、自分がすべき事は、この瞬間を体全体、心を全開にして感じる事と写真を撮り続けるだけである。

















軍艦島の現状と将来は・・・、一部報道によると、


この世界でも類を見ない廃墟についてようやく評価の機運が高まりを見せ始め、一部で世界遺産への登録運動が行われ、2006年8月には経済産業省が端島を含めた明治期の産業施設を地域の観光資源としていかしてもらおうと、世界遺産への登録を支援することを決定した。2008年9月に「九州・山口の近代化産業遺産群」の一部として、世界遺産暫定リストに追加記載されることが決まり、2009年1月に記載された。

世界遺産に認定されるのも時間の問題であろう。

その折には世界中から廃墟マニアが押し寄せて来るはずである。

いつの日か、世界廃墟サミットを軍艦島で開催してもらいたいと思う。その時にはどんな事があっても駆けつけたい。


長崎の街が見えてきた。












昨日、中途半端に終わった市内観光をする。


中華街。









出島。






























向かい側の素敵なビル。立派な現役のビルであるが、既に廃墟の貫禄が備わっている。本当に長崎は素敵な場所である。かつては日本史上に誇る偉大な土地であったが、現代の日本では時代に置き去りにされたような土地である。長崎の隠れた魅力のひとつであろう。






引き続き出島。












出島の対岸。







出島から市電に乗り、長崎平和公園に向かう。





















懐かしいアイス売りのおばちゃん。時代は既に平成22年。しかし、長崎はまだ昭和のまま時代がストップしている。









再び市電に乗り、来た道を戻る。












大浦天主堂。日本最古の現存するキリスト教建築物。









ここからの長崎の風景は素晴らしい。斜面に広がった美しい街である。









グラバー園。

































ひととおり、観光を終えた。ここから市電に乗り駅まで行ってもいいが、もう二度と長崎に来ない可能性もある。心残りのない様にもっと観光すべきであろう。












オランダ坂。












もっともっと、この美しい長崎を観光していたい気持ちであるが、帰りの飛行機が長崎発羽田行きが取れなかった。福岡まで戻らないといけない。

もう、時間が無い。駅へと急いで戻る。

実は長崎は今回が初めてではなく、1998年の冬に九州1周旅行をした際に訪れた事がある。しかし、その時は夜遅く着いて、駅前のカプセルホテルに仮眠し、朝5時に起きて、吉野家で牛丼を食べて始発の列車に乗った記憶がある。実質、今回が初めての訪問のようなものであった。

かすかな記憶では昔の長崎駅は三角屋根の駅舎だったような気がする。今では近代的な駅に生まれ変わっている。












ホームには既に博多行きの特急列車が待っていた。

国内の小旅行であったが、長崎の美しい街並みと軍艦島の廃墟群の威容は心の奥深くに刻み込まれた。一生忘れない旅行になりそうである。






終わり。
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2010年10月9日、10日長崎くんち祭りと軍艦島2

2011年01月12日 | 日本
2010年10月10日(日)


昨日、ホテルにチェックインした際、フロントに置いてあったパンフレットが目に留まった。

「軍艦島上陸ツアー」

なんと!廃墟マニアの聖地、軍艦島に上陸するツアーである。軍艦島は九州のどこかにあるくらいの地理的知識しかないのだが、DVDを観て、いつか必ず行きたいと思っていた。

しかし、あまりにも遠すぎて行けないだろうと諦めていた場所であったが、思わぬ形で行けそうである。

早速、ツアー主催の船会社へ電話をしてみたが、残念な事に満席であった。3連休の中日、しかも年に一度のくんち祭りの翌日である。無理もない。

しかし、ここまで来たからには諦めるわけには行かない。朝早く起きて、8時前にフェリーターミナルへ向かう。





軍艦島ツアーの窓口は大勢の人々でごった返している。廃墟マニアも着実に増え始めてきている。ようやく廃墟の持つ独特の世界観、魅力といったものが理解されはじめてきた。









軍艦島上陸ツアーは元々、1日に上陸できる人数に限りがあり参加人数に限りがある。今日はあいにく満席でキャンセルも出なかったが、幸いな事に島の外周を巡るクルーズのキャンセルが出て、乗船する事ができる事になった。

長年の夢であった軍艦島がいよいよこの眼で見られるのだ!

テンションが高まる。


そんな人気の軍艦島ツアーの一方で、ひっそりと離島へ向かうフェリーも発着している。いつか、観光地でもないこんな離島へ一人旅をしてみたいものだ。









長崎周辺の地図。島々がいかに多いか良く分かる。









軍艦島の模型。






乗船時刻が近づいてきたので埠頭へと向かう。天気は晴天、気温も快適。まさに廃墟探索日和である。


離島は向かうフェリーは長距離でかつ生活路線でもあり、双胴の高速船である。









軍艦島へ向かう船は距離が近いので普通の船である。






いよいよ出航、長崎の湾内は深く切り込んでいる。どんどん街並みが遠ざかって行く。






























遠くに軍艦島が見えてきた。









軍艦島とは通称で正式には端島という。長崎県長崎市にある島である。かつては海底炭鉱によって栄え東京以上の人口密度を有していたが、閉山とともに島民が島を離れ、現在は無人島である。


端島炭鉱は良質な強粘炭が採れ、隣接する高島炭鉱とともに、日本の近代化を支えてきた炭鉱の一つであった。石炭出炭量が最盛期を迎えた1941年には約41万トンを出炭。人口が最盛期を迎えた1960年(昭和35年)には5,267人の人口がおり、人口密度は83,600 人/km2と世界一を誇り東京特別区の9倍以上に達した。炭鉱施設・住宅のほか、小中学校・店舗・病院・寺院「泉福寺」・映画館「昭和館」・理髪店・美容院・パチンコ屋・雀荘・社交場(スナック)「白水苑」などがあり、島内においてほぼ完結した都市機能を有していた。ただし火葬場と墓地、十分な広さと設備のある公園は島内になく、これらは端島と高島の間にある中ノ島に建設された。

1960年以降は、主要エネルギーの石炭から石油への移行により衰退。1965年に三ツ瀬区域の新坑が開発され一時期は持ち直したが、1970年代以降のエネルギー政策の影響を受けて1974年1月15日に閉山した。閉山時に約2,000人まで減っていた住民は4月20日までに全て島を離れ、端島は無人島となった。


驚異の廃墟群を目の前にして、言葉は要らない。ただ感じる事である。






























































































































































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