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Asianwalker

アジアの路地裏から

2014年3月14日~16日沖縄ホエールウオッチング1

2014年08月25日 | 日本
2014年3月14日(金)


今年1回目のO君との旅行は沖縄。一緒に沖縄に行くのは2009年の秋以来である。

その時は2泊3日で航空券・ホテル・レンタカー込3万円という破格値であったが、今回は成田発着のLCCを使用するので負けず劣らず安い。沖縄、宮古、八重山はトータルで6回ほど行ったことがあるが、いわゆるオンシーズンに行った事がない。


今まで行ったことの無かった与勝半島の北岸と金武湾に浮かぶ平安座島を結ぶ、延長4.7kmの海中道路を行く。

一番奥の伊計島の風景。観光客もおらず、サトウキビ畑が一面に広がる。八重山のどこかの離島に来たような気になる。






綺麗なビーチ。












ネーミングが気に入ったカフェサントリーニで休憩。サントリーニ島は世界で最も好きな場所のひとつである。アジアの秘島好きだが、エーゲ海の島々も実は大好きである。






おしゃれな店内。客は他には外人の女の子2人しかいない。料理も食べれば良かった。









那覇市内に戻り、東横インにチェックインして、市内散策開始。








いつ来ても賑やかな観光地国際通り。





那覇市内での最大の楽しみはアジアを感じる事ができる市場散策である。
























裏通りは観光客で賑わう喧騒がうそのように静まりかえっている。路地裏好きとしてはたまらない散策コースである。








やむちんの里ストリート。焼物屋さんが立ち並ぶ。観光客も僅かでひっそりしている。














長い距離を歩いて帰る。





夜は今回も沖縄料理がダメな偏食家のO君の強い希望により、またまた来ました。ジャッキーステーキ。2009年以来だが、有名になったのか、大混雑で30分ほど待たされた。








アメリカ統治時代を感じさせる店内。








前菜のサラダと独特な味のジャンクフード感いっぱいのスープ。





今日は思いっきりレアで食べる。





独特な味のソースをつけると、このボリュームでもペロリと平らげてしまう。






1日目終了。

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2013年10月10日~10月14日北海道廃線跡散策と道東グルメ

2014年01月25日 | 日本
2013年10月10日(木)、11日(金)



今年も恒例?となった北海道旅行の時期となった。一般的な観光地ではない北海道を巡る旅、今回で2年連続となる。いろいろ旅をしてきたが、道北、道東の大自然とグルメと廃墟、廃線跡にすっかり旅心が魅了されてしまった。飽きるまで毎年、通い続けようと思う。


昨年と同じく木曜の仕事帰りに羽田から札幌へ飛ぶ。そのままススキノでジンギスカンとビールを味わう。夏に食べたら最高の組み合わせだが、今の時期でも、もちろんおいしい。札幌で食べるジンギスカンの味は東京と桁違いである。なぜだろう。


東京はまだ暑い日もあるが、夜のススキノは東京から来た身には十分に寒い。しかし、いつ来てもこの町の若さあふれる活気に変わりはない。都市を年齢で表すと札幌は永遠に19,20である。


ふと、札幌と同じような地方中核都市の印象を考えた。福岡はどうだろうか?札幌と同年代のような気がする。青年期、季節は夏が似合う都市である。一方、仙台、広島は壮年期のような気がする。季節は秋が似合う都市だと思う。人口100万人規模の地方中核都市はどこもそれぞれ特色があって好きである。逆に嫌いな都市を考えるが、思い浮かばない。嫌いになるには何らかの理由が必要である。それが無いだけである。

住んでいた当時、嫌いだった名古屋も今では好きでも嫌いでもない。今となってはどうでもいい。関心が無い。


札幌の夜は長い。明日以降の道のりは長い。ほどほどに切り上げて、寝ることにする。


1日目終了。



翌日は車を借りて旭川へ行く。今更ながら、旭山動物園を見ることにする。最後に日本の動物園に来たのはいつだろう?思い出せない。久しぶりの動物園は雨のせいか華やかさはなく、寒々しい場所であった。夏に来れば楽しいのかもしれない。


来る季節によって動物園の印象も変わるのであろう。また、機会があれば来るかもしれない。けど、動物には基本興味が無い。


夜は層雲峡温泉にある今、躍進を続ける話題の野口観光のホテルに泊まって豪華な夕食を食べた。ここは社員教育がよくされている。また、若い従業員を中心に構成された活気あふれる大ホテルである。また来たいと思う。一時期は瀕死の状態であった温泉旅館も若い力で変革を迎えようとしている。ここはまさにいい例である。

日本の観光資源の豊富さは本当に世界屈指だと思う。残念な事に気が付いていない人が本当に多すぎる。しかし、最近ようやくムーブメントが少しずつスローに起きてきている。この国が変わる時はいつの時代も外国の力によるものだ。


2日目終了。


10月12日(土)


昨日の雨模様と違って今日は風の強い晴天である。層雲峡は道北のさらに標高の高い場所にあるので、紅葉も終わりに近い。朝から落ち葉舞い散る光景は一種異様な世界観である。昔、こういうシーンの映画を観たような気もするが、不確かな記憶でしかない。

層雲峡から峠を越えて十勝へ向かう。


国鉄士幌線の終着の十勝三俣駅の周辺は現在は無人地帯である。かつて林業で栄え人口が1500人いた町が1977年には14人へと激減し、鉄道も糠平までの18kmの区間は廃止となりバス代行になった。現在は完全な廃村地帯である。

しかし、鉄道の遺構は残っている。


















廃止後35年以上になるが、この場所に立っていると、なぜだか、今にも列車がやって来そうな気がする。



糠平~帯広間が廃止になったのは1987年のことである。開通が1925年、全線開通が1939年。士幌線の使命は果たしたのであろうか?と多くの人は思うだろうが、廃止になった今でも使命は続いているような気がしてならない。

十勝は日本を代表する穀倉地帯である。広大な平野が延々と続く。


足寄に到着したのが、11時。池田から北見までを結ぶ地北線の中心だった町である。地北線は1989年に廃止になる予定であったが、長大路線であったため、地元自治体が第3セクターとして存続させたが、2006年に結局廃止となった。


足寄駅は巨大なSLの形をした立派な駅舎である。今ではバスターミナル兼物産展兼松山千春記念館となっている。


足寄が生んだスーパースター松山千春の実家。





鈴木宗男も足寄の出身である。メジャーリーグに挑戦した西武の三井投手も足寄の出身である。道東のこの辺鄙な田舎町に個性あふれる人物が輩出されたのは特筆すべき素晴らしい土地柄である。日本一厳しい寒さの自然環境の土地で育った人間の強さを感じる3人の生き様である。


足寄の街中にあるウッディーベルで巨大バーガーを食べる。焼きあがるまでに30分かかったが、これほどおいしいバーガーは生まれて初めて食べた。11時30分前に入店したので良かったが、後から来た人たちは1~2時間待ちとなった。

北海道のグルメにも新しいムーブメントが起き始めているようだ。

ひたすら車を走らせて阿寒湖コタンに到着。アイヌの集落である。土産物屋の人たちの顔は心なしか彫が深く色が黒い。現代でもアイヌの血を引き継いでいるのだろうか。











阿寒湖から摩周湖へと車を走らせる。2年連続となる摩周湖だが、昨年同様に雲一つない晴天である。霧の摩周湖として有名である。





晴れている摩周湖はめったに見えないので、もし見えたなら人生の幸運を使い切ってしまい女性は婚期が遅れ(ウワサによると一回見えるごとに3年)男性は出世を逃すなどというジンクスもあるようだが、実際に霧の季節は夏の一部であり、晴天の方が圧倒的に多いらしい。恐らく霧で摩周湖が見れなかった観光客向けのなぐさめのジンクスであろう。


摩周湖から先は昨年と逆の道のりで開陽台へ行く。もう道も覚えた。

ここの風景を見るために毎年、道東まで来たいと思う。人の心に突き刺さる風景はその人の考えや生き方までを変えてしまう。そんな風景にいくつ出会えたかでその人の人生は豊かで深いものになると思う。まだまだ旅は終わらない。

そして、そんな風景が日本にあるのは日本人に生まれて良かったと思う瞬間でもある。


















道東の大都会?中標津で今年もジェラートシレトコのアイスクリームを食べる。

今日は中標津のペンションに宿泊することになった。なんでも子供たちのサッカー大会があって中標津のすべてのホテルが満室になってしまったそうである。

このペンションは近所の仲のいいおばさん同士が趣味でやっているような雰囲気でアットホームである。料金も採算度外視と思える料金である。夕食は道東の家庭料理といった感じで高級食材は使用していないが、素朴で体に優しい料理であった。


3日目終了。



10月13日(日)


中標津を後にして、別海を東へ車を走らせる。別海の有名人といえば、練炭で交際相手を次々に殺害してセレブな生活をしていた木嶋佳苗さんの出身地であるが、そんな猟奇的な人物を輩出したとは思えないほど、日本一のどかで広大な町である。


釧路・根室方面には湿原が広がる。鶴は気高く気品がある。鶴の恩返しのように擬人化されるにふさわしい生き物だと思う。









日本最東端納沙布岬。ここに来るのは1998年以来である。北大の文学部に進学した高校時代の親友と一緒に北海道を周遊した。
季節は11月だったが、当時と同じく訪れる人も少なくひっそりとしている。周囲の風景は何も変わっていない。








失われた北方領土は目の前である。

マスコミは中国、韓国との領土問題ばかり必要以上に騒ぎ立てるが、本当の領土問題はここにある。

現在のマスコミは何も報じない。ロシアへの不安、恐怖心、反感は昭和の頃は相当なものがあったが、現在はむしろ親ロシアに近い。

本当の狙いは領土問題なんかではなく、国民世論を反中・反韓に染め上げる事なのかもしれない。その先にあるのは政治のコントロールである。対外投資の冷え込み、国内への投資促進、雇用確保、対外資本への警戒心育成、結果、日本の独自性・独立を死守する。

日本政府は中国・韓国以上にマスコミコントロールに長けた狡猾な政府なのかもしれない。国民世論も操作しやすい国民性である。これほど統一性のある民族も他に無い。

日本という国が羊の皮をかぶった狼のような存在である以上、中国、韓国政府の警戒が解ける事は決してないだろう。


今日も返還の炎が燃え続ける。目の前にある失われた島はあまりにも遠い。





根室から先は荒涼とした風景が続く。中標津や別海のような計画されよく整備された明るい酪農地帯とは違った光景である。離農者が多いのであろうか。





釧路に行く前に、厚岸のかき祭りがちょうど開催中なので、立ち寄る。厚岸のかきは間違いなく日本一の大きさ・おいしさを誇る。このかきを食べてしまったら、三陸産・広島産はかすんでしまう。

かきでお腹いっぱいになって幸せな気持ちに包まれて、釧路に向かう。漁協前の広場でも収穫祭がおこなわれている。焼きたてのさんまが食べ放題でふるまわれている。こんなに脂がのったつるんつるんのさんまを食べたのは初めてである。焼きさんまなのに刺身のようなつるんとした食感なのだ。満腹にも関わらず3匹をあっというまに平らげてしまった。

15年ぶりの釧路は新しい商業施設もあり、眠ったような根室と違って活気がある。

釧路の夕日は世界三大夕日で有名である。幣舞橋からみる夕日はピンポイントで釧路川河口延長線上に一筋の光を残しながら太平洋に沈む。

マニラのダイヤモンドホテルの最上階の他に誰も客がいない広いバーでサンミゲルを飲みながら見た夕日。バリのクタビーチに面した宿泊客が誰もいなかった古いホテルのバルコニーで見た夕日。そして今見ている釧路の夕日。

心に突き刺さる光景をもっとたくさん持ちたい、出会いたいと思う。


夜は名物の炉端焼きを堪能する。昼間においしいものを食べすぎたので、少しだけしか食べれられないと思ったが、結構食べてしまった。全ては北海道の食材のせいである。


4日目終了。



10月14日(月)


今日は釧路から一気に南下して襟裳岬を目指す。行きかう車もない道を相当なスピードで走る。





広尾から先は海岸線に沿って走る。あまりの建設費の高額さからついた名前が黄金道路である。しかし、行き交う車は非常に少ない。とりたてて有名な観光地を擁しているわけでもないので、工事車両が主である。















襟裳岬に到着。森伸一の歌通りに何もない岬であるが、眼下にえりもの町があるので、納沙布岬のような寂寥感は無い。












襟裳岬の近くの牧場で名物の赤毛短角牛の牛丼を食べる。和牛でも脂身が少なく噛めば噛むほど滋味があるおいしい肉である。


黄金道路を引き返して広尾まで戻る。


広尾はある意味で最果ての町だが、広尾高校は甲子園に出場した事がある。グランドには甲子園出場記念館があった。市街地はそれなりの繁栄ぶりである。中標津の1/3くらいの町の規模である。人口は7000人とのことである。こんな田舎町の公立高校が甲子園に出場するのは私立高校の商業主義、生徒集めの広告塔と化した現在の高校野球では考えられない出来事である。


廃線となった広尾線の終点の広尾駅は市街地から少し離れた場所に現存しているが、あたりは何の変哲もない住宅街である。



広尾から競走馬で有名な大樹町を通過して、花畑牧場に行く。





夏は大勢の観光客で賑わうのだろうが、連休中にも関わらず今は閑散としている。カフェでソフトクリームを食べていると、おしゃれな革ジャンを来た大柄なおっさん?お兄ちゃん?が駆け込んで来て、店員と何か話をしていたのだが、社長の田中義剛であった。近くに来るまで全然気が付かなかった・・・。

最近、テレビであまり見かけないと思ったが、牧場経営で大忙しのようである。経営者としては相当に有能な人である。牧場を始めるときに借金が10億円あったそうだが、とっくに完済したのであろう。日本の農業は実質的に世襲制である。新規参入には莫大な資金がかかり、個人で創業するのは非常に困難である。他に世襲制の仕事を考えてみる。政治家、歌舞伎役者、大家さん・地主さん、オーナー企業の経営者、世間的に見ればかなり恵まれた職種に映る。サラリーマンこそ、生かさず殺さずの現代版農民であって、農家は実は現代版士族なのかもしれないと思う。


そんな事を思いながら、十勝の広大な良く整備された農業地帯を見ながら、車を東へと走らせる。


昭和の国鉄時代末期に一大ブームを巻き起こした広尾線の幸福駅跡。昭和の昔に確実に廃止になったはずなのだが、どういう訳だか駅を新築している。

廃止になった後に駅を新築するなんて、幸福駅くらいなものだろう。駅名通り幸せな駅である。しかし、駅舎というより待合所、物置小屋といったほうが似つかわしい幸福駅だが、このささやかな感じが幸福の名にはふさわしいと思う。








駅前商店?では今も変わらず愛国から幸福ゆき220円のきっぷを販売している。相当に商売繁盛しているようで、観光客がひっきりなしにやって来る。中国人や台湾人観光客も多い。同じ漢字文化の国なので意味が分かるのだろう。





駅舎の新築工事や綺麗に整備・塗装された気動車が停車中の幸福駅を見ていると、ここが廃線跡とは信じがたい気持ちになる。今にも気動車が走りだしそうな気がする。広尾線の全線開通は1932年、廃止は1987年であった。





観光客で賑わう幸福駅から11km先に愛国駅がある。愛国から幸福への切符のもうひとつの目的地の駅だが、ここは観光地化されておらず、ひっそり佇んでいる。しかし、駅自体は待合所しかない幸福駅と違って駅員がいて、側線があり、きっぷ売り場のある北海道のローカル線としては標準的な中規模駅であったようだ。人家もまばらな幸福駅と違って、帯広に近いこともあってか周辺は工場と住宅街である。




















線路の先に新しい住宅がすでに存在している。今後、幸福発愛国行の列車が走ることは無い。広尾線がまだ現役だった時代、その時代に乗れた人は幸せだ。



夕暮れの愛国駅を後にして、帯広市街地へ向かう。

駅前の豚丼有名店のぱんちょうでどんぶりいっぱいに広がる炭火の豚丼を食べる。

17時という夕食には早い時間にも関わらず店内は満員である。入店して間もなく外は行列となった。

最近、東京でも帯広豚丼の店を見かけることが多くなった。


北海道グルメは日本はもとより、アジア諸国での日本食ブームに乗って、海外進出も盛んである。


豚丼でお腹いっぱいとなって、今回の旅の北海道グルメは終了となる。


帯広空港は市街地からかなり距離があるが、北海道の距離感であるのと渋滞が無いので、すぐに到着してしまった。


レンタカー屋以外に店舗が無い。ガソリンスタンドすらない。


帯広空港で食事をするような場所もないので、市内で全て済ましてくるのが正解だろう。


昨年は女満別空港、今年は帯広空港から、1時間30分で東京に戻ってこれる。飛行機の威力によって北海道旅行は支えられている。

学生時代、青森からの夜行列車の狭い座席で窮屈な一夜を過ごして、朝に札幌の駅に降り立った時に感じた北海道特有の空気は今でも何となく記憶にあるが、そのうち忘れてしまうような気がする。

海外が主戦場となった今となっては北海道はあまりも近い場所である。

でも、これほど魅力にあふれた場所はどこにもない場所である。

5日目終了。


終わり。

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2013年8月3日~4日天草・高千穂

2013年10月20日 | 日本
2013年8月3日(土)


ここ数年、よく九州を旅する機会に恵まれた。しかし、まだまだ行ってみたい場所は多い。九州は奥が深い。

先週に鹿児島・屋久島に行ったばかりだが、今週は熊本である。金曜の最終便で羽田から熊本へやって来たが、夏真っ盛り、熊本市内は祭りで大賑わいである。さすが、火の国熊本である。夏の熱気は格別である。


祭りの影響か、中心部の手頃なホテルには空きがなく、熊本一と噂される全日空ホテルに宿泊するも、どうせ帰って寝るだけだから、もったいない出費である。しかし、広くて快適な部屋は良く眠れた。朝食バイキングも地元の食材を多く使用し、充実したものであったが、中国人観光客の多さには閉口する。近くにいるとおいしい朝食もまずく感じてしまう。仕方がないので、バーカウンターで食事を食べる。食べる場所を選ばないのが、一人旅のいいところである。


駅前でレンタカーを借りて、天草方面に出発。運転しずらいパッソであるが、軽自動車よりはましである。九州は軽自動車率が非常に高い。


小学生の時からなぜか天草という地名には心惹かれる語感があった。また、悲劇的な歴史もまた、心をひきつける。いつの日か行ってみたい場所であった


天草への玄関口は三角港である。かつては鉄道と連絡船が主な交通の手段であったが、今は車が主流である。

三角駅は往年の歴史を感じさせる堂々とした駅舎である。ローカル線の終着駅とは思えない駅舎だが、列車は1時間に1本程度であり、日中はひっそりとしている。真夏の日中、誰もいないホームに立つと、どこからか、ローカル線がここで終わりますよ、といった声が聞こえてきそうな静寂さに包まれている。まるで映画のワンシーンを見ているかのような錯覚に陥る。








この駅は1999年の1月に来た事があるが、当時の記憶をたどっても何も思い出せない。ただ、三角線の車窓の海岸線に沿って走ることが、とてもきれいだった事はよく覚えている。


天草に行くには大きな橋をいくつか渡る。大小さまざまな島々が浮かぶ風景は松島や志摩の風景とよく似ている。しかし、南国らしい陽気さと輝く太陽が、天草らしさを感じる。


天草といえば、天草四朗である。子供の頃に見たテレビの歴史アニメで悪政に苦しむ農民を救うべく立ち上がった天草四朗の正義と勇気に大いに感動した。しかし、奮闘空しく戦いに敗れ、最後、天草四朗が城に残った農民(主に女・子供・老人)と自害した時には、泣きたくなるような悲しい気持ちになった。必ずしも正義が勝つものではないのが、勧善懲悪のテレビアニメに慣れきった目には衝撃的な内容であった。しかし、歴史はフィクションと違い事実である。


天草四朗記念館。平和な海を見下ろす場所にある。訪問者は他にいない。内容に特筆すべきものはないが、天草に来た記念にはなるだろう。長い人生において、天草に来る機会なんて一度くらいかもしれない。旅とは一期一会の精神が大切である。





天草四朗の像。とても穏やかな表情である。平和と正義を愛する顔立ちである。





天草四朗は日本史の登場人物の中でもベスト10に入るイケメンであるが、イケメンで心が優しくて、頭が良くて、語学堪能で、カリスマがあって、戦上手で、奇跡をたびたび起こす。こんな完璧な人物が、悲劇の最後を遂げるのが、日本人の心をつかんで離さないのであろう。日本人はハッピーエンドより悲劇を好むと思う。盛者必衰、生者必滅の仏教的死生観が古来よりDNAに刷り込まれているのだろう。

近年、勢力を増す一方の中国人にこの日本人の心境、観念、境地を話しても、「盛者必衰のことわり、おことわり!」と一蹴されるだけだろう。


天草は海産物の宝庫である。先日、熊本市内で食べた海産物の天草産のものが多かった。特にいか、たこは有名らしい。


天草支配の中心であった富岡城。天草から細い砂嘴を渡った小高い山の上にそびえたつ。天草四朗率いる一揆勢は富岡城を攻めるも守りが固く攻め落とせず、島原へ渡った。

山を登るが、確かに難攻不落の城塞である。兵糧攻めにするしかないだろう。












富岡城から天草を見渡す。









一揆後、幕府は天草を天領として、代官を派遣し統治する事になる。代官鈴木重成は天草の年貢減免を幕府に直訴し、自害する。これには幕府も慌て、ようやく年貢の減免が実現した。

ようやく天草にも平和の時代が到来することになった。天草には鈴木神社が建立され、天草の恩人として祀られている。





天草は奥地に行くほど、山が多くなり、湾にそって小さな漁村が点在して、古い天主堂が存在する。日本の伝統的な漁村に教会がある非常に独特なここでしか見られない風景である。


山が開け、平野が広がると天草最南端の牛窓である。人家もまれな山間部と違いここは賑わいを見せている。

帰りは反対側の道を通り、熊本へ向かう。田んぼでは8月初旬であるが、もう稲刈りをしている。今年は空梅雨で晴天に恵まれたので、米の生育も順調で豊作である。


夜は熊本の繁華街で祭りを見ながら、おいしい海産物を味わう。熊本はいつ来ても活気のある楽しいところである。


1日目終わり。




8月4日(日)


今日は神話の里、高千穂へ向かう。昨日と違って雨模様である。

阿蘇の巨大なカルデラの中をドライブ。山のなかで、雨のせいか、空気が清々しい。他の山々とは違った空気を感じる。


高森駅。町の中心部にあり利便性は良い。元々、廃止が予定されていた国鉄高森線を地元自治体が第三セクターとして存続されている。計画ではこの先、県境の山脈を越え、宮崎県側の高千穂線とつながり、九州を横断する路線になるはずであったが、資金難で中断することになった。将来を見越した賢明な判断である。仮に巨額の工費をかけて、開通したとしても、利用者は少なく、毎年巨大な赤字を垂れ流し、莫大な借金を後世に残すだけである。








静まり返った高森町を後にして、高千穂に向かう。山々を越えて、高千穂町に入る。

高千穂神社。大型バスで来たツアー客で賑わっている。ここは今話題のパワースポットである。








高千穂神社とならぶ観光の目玉が高千穂峡。

















貸しボートがある渓谷も珍しい。












町のはずれには高千穂駅がある。こちらも廃止予定だった国鉄高千穂線を地元自治体が第三セクターとして存続させていたが、台風の被害から立ち直れず、2008年に廃止となった。しかし、スポンサーが名乗りを上げれば、復旧する意向はあるそうだ。








高森線と高千穂線が全面開通して、九州を横断する鉄道になっていれば、ここは途中駅にすぎなかったので、町のはずれに駅があってもよかったのかもしれないが、結局はここが終着駅になった。終着駅がこんな町はずれでは不便である。


帰りは豪雨のなか、運転に注意しながら、熊本へ帰る。

夕方、新幹線で博多へと向かう。豪雨の影響で遅れが出ているも、10分程度である。

新幹線の車内はガラガラであった。


今夜は博多で大好きなもつ鍋を食べよう。

2週連続して九州を旅行することも、なかなかないだろう。

次に九州に行くのは9月の予定である。


2日目終了。

終わり。
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2013年7月26日~28日屋久島

2013年10月16日 | 日本
2013年7月26日(金)


日本の観光地でまた行きたい。リピートしたい場所のひとつが屋久島である。2011年3月の震災直後に屋久島に行った時は平常心で旅する事ができなかった。今回は万全を期して、平常心で旅したい。また、世界遺産の縄文杉登山もしてみようという事で準備万端、屋久島へと旅立つ事ができた。

成田空港から鹿児島空港へは格安航空のジェットスターが就航するようになったのがありがたい。規制と政治的理由によりがんじがらめだった日本の空もようやく諸外国のレベルに近づきつつある。

鹿児島市内で名物白くまを食べる。今年の夏は2010年かそれ以上の猛暑であるが、鹿児島もまた猛暑である。



高速船で屋久島へ向かう。屋久島は本当に若い女性の観光客が多い。しかも登山姿である。山ガールが全国から集合している感じであるが、日本人の若い女性の感度の高さと情報収集能力と行動力にはいつも感心する。いずれ主婦となり、自由に行動できる時間も限られてくるから、今の内にいろいろな楽しみを一気に経験してみようというパワーを感じる。

レンタカーを借りて、まずは軽く足慣らしに白谷雲水渓をハイキング。前回行かなかった弥生杉を見に行く。






今回は登山に便利な安房に宿泊。宮之浦ほどの賑わいは無いが、歴史のある街並みの集落である。


屋久島料理・御宿鶴屋の料理は質・量ともに素晴らしい内容であった。高級ホテルに泊まることと比較すると、料理だけでは引けを取らないだろう。


1日目終了。



7月27日(土)

朝4時に起きて、縄文杉登山へ向かう。登山バス乗り場は大勢の登山客でごった返している。GW中やお盆休み期間はこの何倍もの混雑で登山道の女性トイレが2,3時間待ちになるとの事である。


登山道はトロッコ軌道をひたすら歩く。平坦な道のりで退屈である。やがて、小杉谷の集落跡に到着。最盛期には133世帯、540人が住み、小学校、中学校もある屋久島屈指の集落であったが、屋久杉の伐採が禁止されると昭和44年に廃集落になった。

現在は、建物の跡しか残っていない。上屋は既になく、基礎部分がわずかに残されている。その後の観光ブームまでこの集落とトロッコ列車が健在であったなら、大きな商売になった事であろう。

小杉谷集落跡から先は本格的な登山道に入る。




ここの主役はシカである。





しばらく歩くとウィルソン杉の切り株。中に入り上を見上げるとハート型になっている。切り株の中は大人が2,30人くらい入れそうな広さである。








きつい登りが何度も続き、ようやく縄文杉とご対面。

感無量。言葉にならない。ここには行くことをぜひおススメする。そして感じて欲しいと思う。











帰りは下り道だが、膝に不安のある人は下りの方が疲れるらしい。朝いちばんで出発したので、登りの登山客と多くすれ違う。中にはTシャツ、短パン、サンダルにギターを抱えてやって来た若者がいたり、やたら元気なおばさん(もはや老人といってもよい年頃である。)がいたりと、バラエティに富んでいる。


登山道入り口。ここからトロッコ軌道が延々と続く。





宿に戻ったのは16時30分であった。


休憩後、安房の居酒屋で夕食を食べる。今回も首折れサバは食べられなかった。海水温が高すぎるらしい。また、雨の島屋久島にしては珍しい事にここ1か月雨が降っていないとの事である。


2日目終了。



7月28日(日)


筋肉痛もなく、元気いっぱいの朝である。

海岸線沿いに屋久島をドライブ。島の南部では一時スコールにあう。島のところどころによって気候が異なるのも屋久島である。

前回行けなかった西部林道は交通量は極端に少ないが、動物の宝庫である。

永田浜はウミガメの産卵シーズンであるが、見られるのは夜である。海水浴客が1組いるだけで、夏でも静かなビーチである。

仕上げは、ふたたび白谷雲水峡。やはりここが一番屋久島らしいと思う。そしてアクセスも楽である。車を降りてすぐ、ハイキング感覚である。










もののけの森まで片道1時間のハイキングを楽しむ。雨が降っていないので、苔が乾いてしまっており、全体的に屋久島感がないのが残念であった。






帰りは屋久島空港から鹿児島空港まで飛行機で直行した。わずか45分のフライトだが、JALの運賃はジェットスターの成田・鹿児島間よりも高かった。


3日目終了。


終わり。
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2013年2月9日~2月11日秋田、青森、函館

2013年10月05日 | 日本
2013年2月9日(土)


北国の冬の厳しい自然、一人旅、このキーワードで無性に旅をしたくなることが数年に一度の周期でやって来る。

新潟経由で秋田に向かう。始発の新幹線で新潟へ向かい、いなほ号秋田行に乗り換え。





日本海側随一の都会、新潟だが、冬の哀愁漂う感じは、やはり裏日本である。





いなほ号に乗るのは1998年の学生時代以来なので、15年ぶりになるが、いまだもって当時と同じ車両である。というか、子供の頃の鉄道図鑑に乗っていた車両と同じものであり、新幹線開業前はこの車両に乗って上野まで行ったものである。30年前の当時の記憶でもピカピカの新車両といった感じではなかった。それなりに古さを感じたものである。もうかれこれ、40年以上走り続けているのだろうか・・・。国鉄時代の車両は重量感があり、無骨だが、その分、長持ちする設計なのであろう。車内の雰囲気も昭和の時代を思い出すような退屈で窮屈な空間である。座席はエコノミークラス並みに狭くシートはペラペラであり、内装は実用一点張りで豪華さ、遊び心といったものは一切ない。しかし、当時は、これで良かったのだ。人は貨物と同じで目的地まで無事に運べばそれで良かったのだ。





今年は特に雪が多く、新潟では多くの被害が出た。日本海側ではまだまだ雪が多い。秋田県との県境では日本海らしい風景が連続する。

秋田市内は猛吹雪。市内を2時間ほどぶらぶらするが、雪が多くて、足がずぶ濡れになってしまった。


秋田からは、リゾートしらかみ号に乗車。普段は指定席の予約が困難な人気列車である。この時期でもかなりの混雑である。





車内は明るく楽しげな雰囲気である。国鉄の時代は造り得なかった車両である。事なかれ主義の公務員(国鉄職員)からはこんな発想は生まれてこない。














東能代で進行方向が変わり、全国屈指の絶景路線五能線に入る。


















途中駅で、別編成のリゾートしらかみ号と行き違い。











だんだん、外も暗くなってきた。車窓は日本海の厳しい風景が続く。五能線を学生時代に旅した時は確か晩秋であった。寂しげな沿線であっても、早朝は高校生が大勢乗り込んで来たが、現在は少子化と過疎化が進んでいるので、高校生の姿もそれほど見られないのだろうか。














列車は弘前行きなので、川部で青森行きに乗り換える。田舎の寂しげな駅の薄暗い待合室でストーブで暖をとりながら、ひとり列車を待つ。大雪の影響で遅れが出ている。


今日は青森泊。炉端焼きの店で酒を飲みながら、海産物を味わう。青森の人は素朴で人が良い。東京に長くいると性格が悪くなる。人が良い人間は若いある時期を東京で過ごしたあとはみんな田舎に帰ってしまった。


1日目終了。



2013年2月9日(土)


今日は青森から津軽海峡を渡り、北海道に向かう。この区間は現在、新幹線の開通に向け工事ラッシュである。

木古内で特急列車から下車。北海道の何の変哲もない、この小駅も新幹線の停車駅となる。分不相応な立派な駅舎を工事中である。








典型的な北海道の駅前風景である。今は雪が積もっているが、雪がない時期は道路がやたらと広く閑散とした印象を受ける。








歩いて15分ほどで海が見える。





市街地の様子。北海道の人は意外と寒がりで冬はあまり外に出ないものである。





この木古内でわざわざ下車したのには意味がある。来年度の廃止が決定している江差線に乗車する為である。








江差線は2時間に1本程度の本数である。廃止が決定したからなのか、観光客で大賑わいの車内である。





江差駅。市街地から離れた丘の上にある。












駅前の風景。





折り返しの列車で戻る。滞在時間は10分ほどであるが、次の列車は2時間後であるので、仕方が無い。


木古内駅に到着。








青森行のホームは多少、乗客が多い。新幹線で東京に向かうのであろうか。





函館行の特急列車に乗車。





穏やかな海を見ながらの旅である。工場群が見えてきたら、函館である。








函館駅も近代的な没個性的な駅舎に変わってしまった。新幹線が来るとどこも似たような風景になってしまう。








駅舎は新しくなっても駅前の朝市は昔のままである。







市内の風景も変わりはない。市電も健在である。





今日は函館に泊まる。前日と同じく炉端焼きで酒を飲みながら、海産物を味わう。道南と青森の文化圏は同一であり、人の往来、交流は昔から多い。東北の延長、あまり北海道にいるという感じがしないのが道南、函館である。


2日目終了。


2013年2月11日(月)


朝市でイクラ丼を食べる。観光地価格の2000円。地元の人の来ない函館朝市である。でも好きな場所である。今回で3回目である。


青森行の特急に乗車する。新しい車両だが、新幹線の開通後はどこで使われるのだろうか。もし処分するのなら、新潟に回してもらいたい。青森からは弘前行の特急に乗車。これも国鉄時代の車両。塗装も国鉄時代のままである。日本海側への投資はゼロにしたいようである。いっそこのまま、国鉄時代を懐かしむエリアとして保存した方が観光客を呼べるかもしれない。今の時代、何が観光目的になるか分からない。





国鉄時代の車両に乗って、冬の北国の車窓風景を見ていると、子供の頃を思い出す。国鉄の機関士だった祖父と一緒に鉄道に乗って東北近辺の旅をした思い出が懐かしい。しかし、なぜ、他の家は車を持っていたのに我が家は持っていなかったのだろう。でも、父の自慢のBMWの大型バイクはその辺の国産車より高いんだと、よく自慢していた。そしていつも一人でどこかへ行ってばかりであった。父は恐らく一人旅が好きだったのだろう。





特急列車を鷹ノ巣で下車。44歳の現在も現役の日ハム中嶋捕手の出身地である。鷹巣農林高校というすごい名前の高校が母校であるが、野球的には全くもって無名校である。秋田県は有名校は多数あるのに、どうして鷹巣農林高校に進学したのであろうか。どうしても農業関係の高校に進学したいのであれば、清原、桑田のいた時代のPLを準決勝の9回裏まで追い詰めた名門金足農業高校に進学すれば良いではないかと思うが、謎である。





ここも北海道以上に雪が多い。こんな雪深い場所で育てば体も頑丈になるし、粘り強くなるし、執念深くもなるだろう。中嶋捕手の現役の理由はここにあるのかもしれない。





名物の鴨そばを食べてから、駅へ戻る。





鷹巣からは、廃止が噂されている秋田内陸縦貫鉄道で角館に向かう。








人家もまばらな車窓風景を走る。山奥のやや開けたところが、マタギと鉱山で有名な阿仁合。国鉄時代はここが終点で阿仁合線という路線で廃止が決まっていた路線である。

阿仁合から先は新線区間でトンネルをいくつも超える。峠の向こう側が比立内。国鉄時代がここが終点で角館線という路線で廃止が決まっていた路線である。阿仁合、比立内と、このあたりの地名はアイヌ語地名である。




未開通区間を開通させて、秋田の内陸部を縦貫する路線が開通したのは良かったが、この区間を行き来する需要がほとんど無かったというのが現実である。そんな事も予測できないのに(予測していたのかもしれない。)、工事を着工させ、莫大な費用をかけて、開通させ、毎年莫大な赤字を出して、結局廃止。残った莫大な借金の返済は後世に託す。現在の日本の縮図がここにある。


さて、そんな政治的な話はさておき、今は旅行を楽しむ時間である。みちのくの小京都角館を観光する。

駅から市街地までは結構距離があり、雪の中を歩いて20分。武家屋敷が並ぶ通りに出た。

















その内の一軒の内部を見学する。もちろん有料だが、案内係の人が親切に解説をしてくれる。














雪の中の小京都を探索する。辺りも暗くなってきたので、また20分歩いて駅へと戻る。








こんな雪深いみちのくの小京都からも新幹線で東京まで乗り換えなしで行ける。こういう工事は借金しても、後世への資産になり、やがて償却可能な投資になる。








新幹線は速い。つまみを食べて酒を飲んで、駅弁を食べて、うとうとしていたら、もう東京に到着してしまった。旅情は全くないが、便利で体は楽である。旅の期間も短くて済む。忙しい現代人には新幹線が必要不可欠である。

新幹線のない時代にはもう戻れない。日本人全員が生き急いでいる。

この優れたシステムを全世界へ輸出しようと官民躍起である。やがて世界中の人たちが、今の日本人と同じく生き急ぐような国民性へと変質を遂げるのだろうか。


3日目終了。



終わり。


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2013年3月1日~3月3日波照間島・西表島3

2013年07月24日 | 日本
2013年3月3日(日)


朝食を食べた後は、道が通じる西表島の最西端の白浜集落へ向かう。ここから先に船浮集落という人口40名程の集落があるが、道は通じてなく連絡船のみが唯一の交通手段である。本当は船浮集落に行く予定であったが、無人島に行く事になったので、断念。船浮集落は日本で最も秘境にある集落のひとつであろう。また、宿題、行く場所がひとつ増えた。いつか行くことになるだろう。旅に終わりはない。












白浜集落。西表島の集落は総じて歴史が浅いので、伝統的な家屋がなく、素っ気ない建物ばかりである。









西表島は八重山諸島では珍しく水田が多い。山がちの地形とジャングルに水田。バリ島の山奥を彷彿とさせる光景である。





宿に戻って、無人島に行く準備をする。今日は北風が吹いて寒い。おかみさんがドライスーツと長靴を貸してくれた。防寒対策は完璧である。

集落唯一の売店でNさんの好物の酒と甘いものをお土産に買う。ここしばらく西表島に来ていないらしいので、まさか死んではいないだろうが、物資が欠乏しているかもしれないとの事である。


民宿の次男が操る漁船で出発。今日はだいぶ海も落ち着いてきた。












この遠浅の浅瀬がちょうど水没する時間、満潮でないと、無人島に渡れないとの事である。









目指す無人島が見えてきた。





Nさんを呼びかけるが、出てこない。死んでいるのではないだろうが、心配になる。


無人島のジャングルをしばらく探した後に、Nさんを発見。しばらく誰にも会っていないらしい。また、突然の訪問者に対してどのような接し方をするのであろうか。


Oさん「Nさんでいらしゃいますか。」Nさん「はい、そうです。」


スタンレーがアフリカの奥地でリビングストン博士を発見した時もこんな会話、光景だったのだろう・・・。それはおおげさすぎるが、そんな気持ちである。日本の最果ての無人島のジャングルの中での初対面である。今はもう、探検家になった気分である。


差し入れのリポビタンDを飲むNさん。ここのところ、しけが続いて西表島に渡れなかったのと、アメリカのテレビの取材の申し込みがあり、いつくるのか分からない。自分の性格からして、遠くからせっかく取材に来てもらって不在では大変申し訳ない。いつ取材班が来ても対応できるように、待機していた為、ずっと西表島に渡れなかった。物資が不足してようやく船を出そうと思ったら、今度は天候がしばらく悪く船を出せなかった。結果、物資が不足して困っていたところだったらしい。お土産を渡すと、地獄に仏とはまさにこのことだと最大限の表現で感謝された。だったらもっといろいろ物資を持ってくるべきであった・・・。





OさんとNさんの対談風景。Oさんの話によると、九州出身のNさんはカメラマン、大阪キタの高級クラブのマネージャー、営業マンなど職を転々とした後、かなり年下の奥さんと結婚したが、その後、離婚。傷心のNさんは日本各地を転々としたのち、西表島の製糖工場で働く事になった。その頃から、服を着て生活する事に違和感を感じるようになり、全裸での暮らしを求め、この無人島に一人住むことになったとの事である。





全裸で暮らしたいという理由が素敵である。以前、旅の師匠I氏と一緒にパタヤのサウナに入っていた時であるが、二人とも当然、タオル1枚でサウナに入っているのだが、「持ち物が腰布1枚だけで生活できる人生があったら最高だ。」と言っていたことを思い出した。その時はあまりの名言に絶句したが、I氏らしいとも妙に納得もした。また、そんな人生もありかなと、若干、共感もしたが、二人ともその後、そんな生き方を選んではいない。スーツにネクタイを締めるサラリーマン生活を全うしている。裸族にはならなかった。しかし、本当に実践している方が、しかも日本にいたとは、驚きであるが、同時に大いなる希望でもある。裸族の夢が実現できる可能性があるのだ。


Nさんは何とも不思議な経歴から人嫌いの気難しい方かと思っていたが、とても気さくで律儀で礼儀正しく話好きな方である。いろいろな話をする。今は寒いので気持ち悪いが上着を着ているとの事である。ここは誰もいないので、無菌状態なので風邪など病気にはならないらしい。しかし、無人島での生活で一番厳しいのが、台風の直撃である。テントは飛ばされてしまうので、知人が台風用に低い頑丈な小屋を建ててくれたとの事である。















Nさんとの楽しい、特別なひと時を過ごした。最後に年齢を聞かれて37才です。と答えると、満面の笑顔で見た目がとても37才には見えない。若いな~、頑張れよ。と、ありがたい激励のお言葉をいただいた。同行者のOさんがまだ若い(推定40代前半~半ば)のに頭がツルツルなのでこっちがとても若く見えたのかもしれない。無人島で人と会わない生活を続けると感覚が不思議なものになってしまうのだろう。









Nさんはとても律儀な方である。ジャングルを抜けてビーチまで見送りに来てくれた。人生で忘れられない出会いとなった。





西表島に戻る。





船浮集落に行く予定が、Oさんとの出会いによって、日本で他にはいないオリジナルなNさんと出会うことができた。

Nさんは1日数本しかない運賃の高いバスで西表島でも奥地に属するこの民宿までやって来たそうである。一緒に車に乗って大原港まで行くことにする。途中で西表島には珍しいおしゃれなキッチンがあったので、チキンカツカレーを食べるがあまり食欲がわかない。珍しく半分くらい残してしまった。勘定はOさんが払ってくれた。


大原でレンタカーを返して、Oさんとお別れする。


大原港から1日1便ある竹富島への直行便に乗る。団体客で賑わっている。

竹富島に到着。いわずと知れた有名観光地である。前回は1日ツアーに参加したので、観光地化された場所した見れなかったので、今回は生活感が感じられる場所を見てみたい。


集落の中心地。相変わらず観光客と水牛車がばかりである。





















なごみの塔。






集落の中心地から離れた場所にもうひとつ展望台があったので、上ってみる。









ここまで来ると観光地エリアから外れるので静かである。ツアー客は決めれた場所しか来ない(行けない)ので、ここは誰も歩いていない。






























竹富小中学校。これほどカラフルな学校も日本で他にないかもしれない。






集落の中心地に戻る。民宿が数軒ある。ツアー客が石垣島に帰った後の夜の竹富島は行った人全員が素晴らしいと褒める。本来の素朴な島の様子に戻り、泡盛飲み放題で三線の調べに乗ってみんなでまったりするらしい。












港まで歩いて帰る。少し距離がある。歩いて15分程度である。









石垣行の最終便で戻る。









石垣島で八重山そばを食べる。これが石垣島最後の食事になる。






バスで空港まで行く。200円。






小屋のような石垣空港に到着。あと3日で閉港である。市街地に近くて最高にアクセスのいい空港であった。






アジアの田舎の空港の雰囲気が色濃いこの待ち合わせ風景も、もう見られなくなる。新空港は近代的で没個性的な空港になるに違いない。









歩いて搭乗するのも、石垣島らしくて大好きだったが、新空港ではボーディングブリッジを使用するに決まっている。雨に濡れないメリットはあるが、何だか味気ない。









空港の展望台、といっても物置小屋の天井に登っているみたいな感じであるが、大勢の地元の人々で賑わっている。観光客も地元の人たちもなんやかんやいって、この空港が大好きだったのだ。





将来、昔の石垣空港はね・・・、と語る自分がいるのだろうか。


今回の旅で前回、やり残したことは、一応やり遂げた。しかし、また次の宿題が出来た。旅は永遠に終わらない。終止符を打つのは一体、何であろうか。自分自身ではない事は確かである。



3日目終了。


終わり。
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2013年3月1日~3月3日波照間島・西表島2

2013年07月19日 | 日本
2013年3月2日(土)


今日は八重山諸島で最も知名度が低く観光地化されていない、観光客が行かないと思われる黒島に行く。朝から雨は降っていないものの、曇り空。予想通り、波照間島、西表島上原行は欠航になっている。

僅かな乗客を乗せた黒島行高速フェリーに乗船、小雨交じりの黒島に到着するも案の定観光客は誰もいない。客引きもいない。仕方なく最寄のレンタルバイク屋まで歩いて行く。レンタルバイクで島を一周する事にしよう。

ひたすら牧草地が広がる。人の数より牛の数が圧倒的に多いのが黒島である。









天気のせいかビーチもさびしい。





展望台から見た黒島。





昔の桟橋。








ウタキ。本土でいう神社。









北風が吹いて寒かった。昼食を食べる場所もない。夏に来ても素朴な雰囲気が楽しめると思う。


石垣島に戻る。






石垣市街の繁華街おーりとーり。昼間は閑散としているが、夜になるとなかなかの賑わいをみせる。





焼き肉の名店金城で石垣牛ランチを食べる。夜は高くてとてもじゃないが来れない。ちなみに店内は撮影禁止。芸能人が休暇、プライベートで良く来るから、との事である。





素朴な風情を残す石垣市街。








バスターミナル。タイの田舎町のバスターミナルのような作りである。












今日は西表島に宿泊する。上原行は欠航なので大原行に乗船。この時期は北風が吹くと欠航が相次ぐ。多少のしけは覚悟で乗船する。


やはり途中でしけにあった。しかし、船酔いには強いので何ともない。西表島の大原港に到着。






大原は広大な西表島の玄関口で最大の町である。
































路線バスは全国各地の中古車をかき集めてきているようだ。塗装もそのまま。このバスは学生時代を過ごした相模原で走っていた会社のバスである。こんな最果ての島で再会するとは、何ともいえない気持ちである。





レンタカーを借りて広い島を巡る。

個性豊かな八重山諸島でも最も個性的な島が西表島だと思う。この光景が日本とは信じられない。



















































大原から西表島を半周して上原に到着。フェリーが欠航になったので、観光客の姿も見られない。























途中、かつて物議を醸した某高級大型リゾートに寄ってみる。こんな野趣あふれる素朴な島に何で高級リゾートが必要なのか。環境破壊以外の何物でもない。しかし、意に反して大勢の団体客や若い女性の観光客で溢れかえっている・・・。














今夜の宿、南風(ばいぬかじ)。西表島もここまで来ると食事つきの宿に泊まらないと夕食をくいっぱぐれてしまう。








民宿の目の前は素朴なビーチ。西表島のビーチは思い描くような南の島のビーチとは異なるが素朴な雰囲気のビーチである。








大勢の団体客で賑わう某高級大型リゾートと異なり今夜の宿泊客は大阪から来たOさん(40代前半)と自分ひとり。民宿の家族と一緒にわいわいおしゃべりしながら夕食を食べる。おばさんから西表島の歴史や風土の話をいろいろと聞いたり、Oさんと旅の話をしたりと、話題がつきない。途中、停電で真っ暗な闇に包まれたが、ランプの灯りで十分である。日本で停電なんてまず、あり得ない事だが、ここではよくある事らしい。幼いころ住んでいた東北の田舎町ではわりと停電があったような気がする。それも決まって夕食の時に。あれは何かの夢だったのか現実の出来事だったのか、はっきりしないが、不思議と思い出すたびに何ともいえない温かい気持ちになる。





Oさんが西表島に来た目的のひとつが無人島に住む全裸で生活する老人Nさんに会うことがある。何度かテレビに出たことがあるらしい。その話を宿のおばさんにすると良く知っている人だから、息子さんの船を出して行くことになった。息子さんの話では今日のようなしけでは船は出せないが、明日はしけもだいぶ止むと思われるので、天候次第ではあるが、行ってみようという事になった。

夕食を食べるともうすることがない。テレビをつけるとWBCのアジア予選の真っ最中である。台湾に負けている。終始リードされる苦しい展開が続く。9回2アウトまで追い込まれたときはさすがに負けを覚悟したが、井端が殊勲の同点打を放った。結局、終盤流れを引き寄せた日本が勝った。試合後の台湾選手の礼儀正しさと日本のファンと台湾のファンの互いをたたえあう声援、拍手に久々の感動を覚えた。スポーツはやはりこうでなければいけない。日本のスポーツ指導者は相手を思いやる礼節を技術以上に重要視して教育、指導するが、台湾も同じ精神のようである。中華系民族なのにこの礼節を重んじる態度は日本の植民地時代の名残が延々と息づいているようである。今日の試合相手の台湾は敵なのに友であった。


2日目終了。
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2013年3月1日~3月3日波照間島・西表島1

2013年07月13日 | 日本
2013年3月1日(金)


2度目の八重山諸島への旅行は、前回行けなかった波照間島に行くことが第一の目的である。第2の目的はまだ行っていない島、黒島に行くこと、前回に行ったときにツアーで駆け足で観光した西表島、竹富島、小浜島をマイペースでゆっくり観光する事である。

石垣島への直行便は長年変わらない6:25発。自宅を始発に乗ってぎりぎり搭乗する事ができる。機内に入り座席に着席後、爆睡、目覚めたころには石垣島に到着である。

石垣空港は滑走路が1500mしかなく、ジェット機の離発着がギリギリの距離であったが、とうとう新空港が来週の木曜日に完成する。名物のパイロットの腕の見せ所、逆噴射急ブレーキ着陸が体験できなくなるのも残念であるが、直行便が増え航空運賃が安くなるなら大歓迎である。

着陸体制の前に、機長のアナウンスがあり、本日をもって定年退職になります。このフライト後、次のフライトをもって長年のパイロット生活に終止符を打つとの事である。着陸後、機内が温かい拍手につつまれる。300回以上は飛行機に乗ってきたと思うが、このようなフライトは初めてである。最後のフライトがまもなく閉港となる石垣空港便とは航空会社の粋な計らいかもしれない。大変長い間、安全な空の旅のお勤めお疲れ様でした。


この小屋のようなターミナルまで歩いて移動するのも最後になる。













この風景を見ると日本の最果ての島に来たと実感が湧く。新空港はどんな空港なのだろうか。おそらく没個性的な最近の空港デザインになると思う。


















バスで市内中心部の離島ターミナルまで移動。200円と安い。











安栄観光の3日間乗り放題チケット(アイランドホッピングパス)を購入。8000円。これは非常に利用価値が高い。現在、波照間航路を運航しているのは安栄観光のみである。波照間海運は昨年倒産したらしい。

波照間行は先日まで1週間欠航が続いていたが、非常に幸運な事に本日は運航している。しかし、明日は欠航の見込みであるので、日帰りで戻ることを強く勧められた。残念だが、日帰りで行くことにする。


出航時間まで時間があるので、石垣市内の中心部をぶらぶら散歩する。























市内にはバックパッカー向けの安宿が多い。








いい天気になってきた。沖縄の離島で初の晴天をみたような気がする。やはり島は晴れていなければ意味がない。












離島ターミナル近くの八重山そばの店で早めの昼食をとる。


港の天気も良い。海も穏やかそうである。








波照間行の高速フェリー。波照間海運の船は安定性に優れたカタマラン(双胴船)であったが、倒産後、どこかの船会社に売却したのであろうか。安栄観光の高速フェリーは通常のタイプだが、今日の天候なら揺れも少ないだろう。












波照間行はこの時期1日3便あるが、昼の便は途中、西表島の大原を経由する。大原で乗客の半分が下船する。


八重山諸島の船便は滅多な事では欠航しないが、波照間行と西表島上原行は欠航が多い。波照間は外洋に出るので納得できるが、それにしても欠航の多い路線である。島の物資は十分にあるのだろうか。

それほど揺れることもなく、波照間島に到着。団体客が石垣島に戻るみたいで大混雑している。





















港の前には客引きが多い。民宿、レンタルバイク、自転車がセットになっている。自転車のレンタルの客引きのお姉さんが運転するバンに乗り込む。しかし、レンタル自転車屋は歩いて5分ほどの場所にあった。本当に沖縄の人は歩くのが嫌いである。








波照間島までとうとう来ることができた。日本人が実質来れる最南端の島である。

何というか、とにかく感慨深い。最南端の島らしく、流れる空気がゆったり、のんびり、ここが本当に日本なのかと信じられない。

まずは、八重山諸島で最も美しいといわれるニシ浜に向かう。独特のブルーの海はハテルマブルーといわれる有名ビーチである。















































タイの秘島に比べても遜色ない美しさである。人がいないのもまたいい。

周囲には何もない。ただ1軒のリゾートがあるだけである。












美しいビーチを堪能した後は、島を一周する道に沿って最南端を目指す。















サトウキビ畑が広がる。





















暑さに苦しみながら、とうとう日本最南端の場所(一般人が来れる場所として)に到着した。






































日本は南北に長い国だと実感する。ふたたびサトウキビ畑の中を走り抜ける。すれ違う車も人もいない。














波照間空港。かつては石垣島との間の定期便があったが、現在では運航していない。廃港状態である。









波照間島の集落は島の中心部にある。外周に人家は無い。集落の雰囲気もまるで時代が止まったかのような家屋ばかりである。観光地化された竹富島の集落みたいなわざとらしさはないのが、またいい。石垣島から離れているので、ここまで来る人は、よほど時間のある人か、何が何でも波照間島に行きたいと思っている人しかいないのだろう。このまま俗化されずに素朴な島のままでいて欲しいと願う。





















とにかく人が見当たらない。昼寝でもしているのだろうか。商店も昼休みが長い。シエスタの習慣があるのだろうか。その代わりに夜が長いのかもしれない。

汗を大量にかいたので、冷えたジュースを飲む。








水分補給して散策再開。





















怪しげな安宿も数軒ある。東南アジア帰りのバックパッカーがたむろしていそうな雰囲気がある。







































とにかく汗をかいてばかりなので、水分補給は欠かせない。今頃、東京は寒さで震えているのかもしれないのにこの暑さである。












幻の泡盛泡波のミニボトルが売ってある。1本640円。自分用に10本ばかり買う。確か以前、石垣島で見たときは一升瓶で3万円くらいのプレミア価格がついていたと思う。








小学校も、中学校もここは立派な日本最南端の名称がついてまわる。









この島の人口は300~500人くらいだろうか。泡盛も必要分しかつくらない。島の外の人が欲しがる分がプレミア価格に反映されてしまう。
























できればこの島に1泊したかったものだ。再訪を誓って港へ向かう。






























最後にもう一度、日本で一番美しいビーチが見たい。


















フェリーターミナルのこのゆるやかさ・・・。東南アジアの片田舎の島と同じ空気が流れている。まだ日本にこのような楽園があったなんて感無量である。波照間島は八重山諸島で最も遠くアクセスが不便な事が幸いしている。他の島みたいにメジャーな存在にならないうちに来れて良かったと思う。











まだ、時間があるので自転車を飛ばしてまたビーチを見に行く。名残惜しいというか、こんな気持ちにさせるビーチも初めてである。











自転車を返しに行くが、宿には誰もいない。このゆるやかさ、いい加減さ。ここではこれでいいのだ。















古びているが、涼しげな部屋。リゾートよりこちらの方が、不思議と落ち着く。次に波照間島に来たときはこのような安宿に泊まろうと思う。自分の感性は貧しいのか豊かなのか・・・。これだから未だに独身なのか、とひとりごちる。














自転車を返して、歩いて港まで戻る。宿のスタッフは客引きに出ていたのだ。どうりで不在なわけだ。








石垣島に戻るフェリー。こんな短時間の滞在になってしまったが、だからこそ再訪しようと思えるのかもしれない。





帰りも海は穏やかであった。石垣島に戻った頃には夕暮れ時であった。東京なら真っ暗である。





今夜の宿。シングル3980円。





一人旅の楽しさは自分のペースで行動できる事と、好きな場所で好きなものを食べられることにある。市街を散策して、海産物を満喫する。最近、石垣島も沖縄本島に負けないおしゃれな店が増えてきた。新しい空港ができた後は一気に観光客が増加する事だろう。八重山諸島の魅力が失せてしまうのかもしれない。でも、何度も来たい場所には変わりはない。












1日目終了。
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2012年11月30日~12月2日宮古島

2013年05月25日 | 日本
2012年11月30日(金)


宮古島に行ったことがない。いつ行くの。今でしょ。ということで、有効期限の迫るJALマイル消化を兼ねて2泊3日の小旅行に行くことにした。観光シーズンではないせいだろうか、1日2便しかない直行便のボーイング737の小さな機材だが、空席が目立つ。石垣島と比べて観光客が少ないのであろう。

羽田からの直行便は6:55発と石垣行の6:25発と同じくらい滅茶苦茶に朝早いが、現地での時間がたっぷり取れるので忙しい勤め人にはありがたいダイヤである。石垣に行くのと同じくらいの長いフライトを爆睡して、到着。外は曇り。石垣に行ったときもそうだが、沖縄の離島とは相性が悪い。行く時期も悪いのだから、仕方がない。

レンタカー屋で車を借りる。網走で車をぶつけた記憶がまだ生々しく残っているので、安全第一。保険も万全である。車も運転しやすい軽自動車である。


宮古島は石垣島ほど観光地化されていないが、人口は石垣島より多い。全体的に平らな島である。ハブはいない。海は石垣より美しいといわれている。それくらいしか、知識がない。現在、NHKの朝ドラ純と愛の舞台となっており、ちゅらさん以来の沖縄が舞台の朝ドラなので、一気にメジャーな観光地の仲間入りする可能性を秘めている。(その後、この朝ドラは大コケして、宮古島も観光地化する事なく素朴な島のまま現在に至る。めでたしめでたし。)




砂山ビーチ。真っ白な砂浜にたどりつくまで、砂の丘を越えて行く。丘の上から眺める海はたいへん美しい。特徴的な岩のトンネルは沖縄の海岸を代表する風景のひとつとしても有名。雨が少しぱらつく状況で、ビーチには誰もいない。夏の時期は大勢の人々で賑わうのだろうか。






































東平安名崎。宮古島の最東端にある約2kmの美しい岬。太平洋と東シナ海を一望にできる雄大な景色は日本都市公園百景にも選ばれている。断崖に荒波が押し寄せる様は非常に迫力があり、男性的な景観である。





前浜ビーチ。「東洋一の白い砂浜」とも言われる宮古島を代表する美しいビーチ。 真っ白な砂浜が延々と7kmも続くビーチで正面には来間島を望み、隣接するホテルなどがリゾート気分を満喫させてくれる。しかし、オフシーズンなので誰もいない。ある意味贅沢な空間を独り占めしている






































宮古島の中心地平良の街並み。ここだけ都会であるが、石垣島のような観光地化はまだまだされていない。石垣島と違って本土からの移住者もそれほど多くなさそうな感じである。地元の宮古高校がサッカー沖縄県代表になったので、応援の横断幕であふれている。石垣島は野球が盛んだが、宮古島はサッカーの方が人気があるのだろうか。宮古島は沖縄のブラジル、いや、沖縄の静岡の異名をとっているのかもしれない。





























ホテルにチェックイン後、雨の降る中を街をブラブラする。

夜は寿司屋で名物のまぐろを堪能した。


1日目終了。


2012年12月1日(土)


昨日は、池間島、来間島と橋で渡れる島に行った。今日はフェリーでしか渡れない伊良部島へ行く。









現在、橋を建設中である。いつも思うのだが、北海道と沖縄のインフラ整備は日本一だと思う。一体、どこからそんな建設資金が出ているのか?もちろん、本土からの税金投入である。毎日、ストレスフルな都会で必死の思いで働いて納めている税金がこのような遠く離れた離島の振興に微力ながら役立っていると思えばうれしい限りである。もっと仕事を頑張ってもっと多くの額を納税しなければと思う。









船内ではちょうど純と愛が放送されている。今はちょうど大阪のホテル編らしい。(普段朝ドラを全く見ないのでよく分からない。)





伊良部島が見えてきた。元ロッテ、ヤンキースの伊良部投手は香川の尽誠学園出身であったが、親はこの島の出なのであろうか?








伊良部島上陸。先日、行った来間島、池間島はそれぞれ人口200人程度の島であったが、伊良部島は6千人の人口をかかえる島である。
かつてバレーボールが有名で沖縄代表といえば伊良部高校だった時代があったらしい。それにしても、宮古島とは比べ物にならないくらいのんびりした島である。


下地島空港。航空ファンの間では有名な空港である。旅客機の離着陸訓練に使用されている空港である。











下地島の美しい風景。晴れた日に来れば真っ青な海が見れる。


























通り池。国の天然記念物。見る角度によって湖面の色が変わって見える。






























この静かで美しいビーチにベストシーズンに来てみたい。












美しいビーチの他の風景は沖縄の離島の風景、さとうきび畑と牧場が広がる。












伊良部島の展望台からの眺め。冬の沖縄はどこかさびしい感じがする。夏に来たい。


























海と島との間にある美しい海?湖?この島はどこを切り取っても美しい風景である。





























フェリーに車ごと乗って宮古島へ戻る。

宮古島を意味もなく車でぐるぐる回る。


久松五勇士の碑。久松五勇士とは・・・。




1905年、ロシア海軍のバルチック艦隊が極東へ向かっていた。5月23日、奥浜牛という那覇の帆船乗りの青年が宮古島付近を北上しているバルチック艦隊に遭遇した。バルチック艦隊も彼を視認していたが、龍の大漁旗と、独特の長髪のために中国人と判断して捕えなかった。奥浜は宮古島の漲水港(現・平良港)に26日午前10時頃に着き、駐在所の警察官とともに役場に駆け込んだ。

宮古島は大騒ぎとなった。当時の宮古島には通信施設がなかったため、島の重役・長老達の会議の結果、石垣島にこの情報を知らせる使いを出す事となり、松原村の垣花善・垣花清・与那覇松・与那覇蒲と、久貝原の与那覇蒲(松原村の与那覇蒲とは同姓同名の別人)の漁師5人を選抜した。5人は15時間、170キロの距離をサバニを必死に漕ぎ、石垣島の東海岸に着いて、さらに30キロの山道を歩き、27日午前4時頃、八重山郵便局に飛び込んだ。局員は宮古島島司(島長)からの文書を垣花善から受け取って電信を那覇の郵便局本局へ打ち、電信はそこから沖縄県庁を経由して東京の大本営へ伝えられた。

日本本土への連絡は信濃丸によるものが数時間早かったため、この情報が直接役に立つことはなかった。その後5人の行為は忘れられていたが、昭和時代に入り、この事実が発掘され教科書に掲載されると一躍評価が高まり、5人は沖縄県知事から顕彰され郷土の英雄となった。


この時代、地域は違えど、国民一丸となって国難に立ち向かっていった様子が伝わってくる。

ここで今回も充電器忘れによるデジカメ撮影終了となった。2泊3日なので、大丈夫だと思い充電器を持ってこなかったのが悪いが、それにしても想定外であった。全くもって前回の失敗から何も学んでいない。


宮古島や近辺の離島は全て行きつくしてしまった。外は曇り空で寒くビーチには誰もおらず、観光テンションが上がってこない。

最近できた様子のおしゃれなカフェがあるので、温かいコーヒーを飲む。言葉からして本土からの移住者の経営のようである。しかし、この観光客の少なさではたして経営は成り立つのであろうか。


外は相変わらずの曇り空である。午後になると本降りの雨となった。とにかく肌寒い。宮古島には沖縄では珍しい温泉がある。オリックスのキャンプ中、膝の悪化した清原が治療した事で有名となった。沖縄まで来て温泉もどうかと思うが、今はとにかく温まりたい。清原の膝が良くなったありがたい効能の温泉にゆっくりとつかる。

温泉の後はビールである。平良に戻って、居酒屋で地元の料理をつまみながらパンチのないオリオンビールを飲む。

今の宮古島の売りは、宮古牛である。石垣島の後追いである。

居酒屋で酔った後は、地元の人相手のスナックでさらに一杯。ここも沖縄らしく、オープンが遅く、朝までの営業である。沖縄のスナックも多分に漏れず、金額が明朗会計ではないが、しばらく粘っても3000円であった。網走でも3000円であった。田舎のスナックの平均的な値段である。


2日目終了。


2012年12月2日(日)


今日は朝から雨模様である。レンタカーを返却して、那覇へ向かう。宮古島~那覇間はスカイマークが参入して3800円である。大手2社が12000~18000円なので、歓迎すべき価格破壊である。しかし、気の毒なくらい空席が目立つ。早々に撤退してしまわないか不安である。

那覇に到着。天気は曇りだが、だんだんと晴れてきそうな雲行きである。今日は、マラソン大会があったので、大勢の人々でごったがえしているのかと思ったが、すでに終了しているようである。

バスターミナルのそばでそば(沖縄そば)を食べる。従来の沖縄そばと違って醤油の出汁が出ていてこくがあっておいしい。

その後は、バスに乗って宜野湾方面やコザ方面まで足を延ばしたり、那覇市内の観光地でない場所をいろいろと歩き回る。

夕方からはきれいな晴天となった。しかし、もう帰らなければいけない。

那覇空港の食堂でカレーと天ぷらを食べながら、パンチのないオリオンビールを飲んで仕上げとする。

それにしても不完全燃焼の旅であった。


今度は、天気のいい時期に来てみたい。


3日目終了。



終わり。

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2012年10月4日~10月8日道東周遊4

2013年05月17日 | 日本
2012年10月9日(月)


今日は野付半島から観光開始。地図で見ると龍の髭のような奇妙な形をしているところで、日本広しといえども、こんな形をしている半島は他に無いと記憶する。

いつの日か行ってみたいと思っていたが、ようやく実現する。思えば海外旅行ばかりしてきて、国内旅行に本腰を入れ始めたのはここ2,3年の話である。海外旅行を数多くして視野が広がった結果であるが、日本ほど観光資源に恵まれた国も少ないと思う。








野付半島の先まで歩いて行く。こんな日本の最果てまで来る観光客も今は少ない。夏は多いのであろうか。





有名なトドワラ。念願かなってようやく見ることができた。まるで白骨死体のように見える。こんな奇妙な風景を生きているうちに見られるとは幸せである。死後に見られるような光景である。

































野付半島に住む人はほとんどおらず、番屋が時折見られるくらいである。海岸線と湿原が広がる半島である。








標津町の海岸線を走っていると、目立つのが標津サーモン科学館の看板である。事前情報は何もないが、妙にそそられるものがあったので、行ってみる。


鮭の生態について学ぶ水族館であった。水槽いっぱいに泳ぐ鮭を見るのはとても面白い。時間を忘れてしまう。















幻の魚。






チョウザメは初めて見た。とてもかわいらしい顔をしている。












チョウザメの口の手を入れて遊ぶことができる。歯が無いので安全との事であるが、ちょっと怖い。









チョウザメの口の中はスライムを固めたような独特の気持ちのいい感触であった。くせになりそうである。






鮭の養殖場が付設されており、ここで出来立てのイクラを食べることができる。どっちの料理ショー「イクラ丼VSウニ丼」の回で登場した究極のイクラ丼。超高級品だが、産直価格の為、2500円。同じものを東京で食べると3000円以上はすると思う。






味付けと食感が最高に絶妙であった。もうこんなイクラ丼を食べることはできないかもしれない。

北海道、沖縄の観光地で食事をするたびにいつも思うのは、想像以上の価格の高さである。本州より所得が低いはずなのに、物価が高いのは、一体どのような経済の循環になっているか長年の疑問であった。地元の人向けの価格があるのだろうかと訝ってみたこともあったが、東南アジアなら二重価格もあり得るが、日本ではそれはさすがにあり得ない。

その疑問を網走のスナックのママに質問してみたら、なるほどと思う答えが返ってきた。「私たちはイクラ、鮭なんてお金出して買った事はない。いつも親戚、知り合いの漁師さんから差し入れがあるから、買おうという発想は出てこない。農家からもらう野菜も同じ。親戚、知り合いからいつももらっている。その代わり、私が何かたくさんもらった時、余分なものは誰かにあげる。」

要は物々交換である。親戚や知り合いの漁師、農家同士でお互いの収穫物を交換しているのである。

これは最も原始的な経済方法であるが、最もコストパフォーマンスが高い。税金もかからない。GDPやGNPといった経済指標にも表れてこない。言い方は悪いが、地下経済である。

所得だけでは計れない、地方ならではの豊かさがある。


標津の駅前は何も残っていなかった。これもまた廃止されたローカル線だが、標津線という路線があった。T字型の変わった形をしていた路線であったが、本線的な扱いは標津~標茶間であったので本線の終着駅の標津駅だったので、きっと広い駅だったと推察する。一方、中標津~厚床間は本数も少なく支線的扱いであったらしい。標津線の跡に沿って国道はまっすぐに続いている。









本当にこんな場所に鉄道が走っていたのかと思えるような人口希薄地帯である。これでも本線扱いの区間である。根釧原野とは本州の人々がイメージする北海道の風景そのものである。


中標津で最も有名な観光地である開陽台。ここに立つと地球が丸いことが本当に理解できる。






























天気がこれ以上ない晴天に恵まれ幸運であった。こんな素晴らしい場所があるなんて、北海道の観光地は世界的に見ても誇れる場所が多いと思う。近年、韓国、台湾、中国からの観光客が増加しているのももっともである。


雄大な風景を眺めていれば、網走で車をぶつけた事などちっぽけな事に思えたきたから不思議なものである。今後、人生で落ち込んだり、ショックで立ち直れないような出来事があったら、またここへ来たいと思う。





どこまでも続く一直線な道を走り、中標津市街へ向かう。






中標津空港。標津線廃止後の交通空白地帯を埋めるべくオープンした。現在、東京、札幌便が就航している。紋別空港と同じく、このような場所にこそLCCが就航して、新たな需要を切り開いて欲しいと思う。行きたくても航空運賃が高すぎて行けないのでは、航空会社、地元経済、観光客、全てにとって不幸な事だと思う。インフラは十分に整っているのだから、後はやる気とチェレンジ精神だけである。

















中標津市街。大規模酪農事業のモデルとして国が計画的に移住者を募集した結果、この地方で唯一人口が増加している町である。現在の人口は24000人程。人口2000~4000人程度の自治体が多いこの地方で、異例の事である。標津線の駅の跡は大きなバスターミナルになっており、大きな駅だった事が偲ばれる。この町は北海道の中でも開発が最後発であったため、道幅も広く近代的なイメージを受ける。アメリカの田舎町に来てしまった錯覚を受ける。こんな道東の田舎町だが、中標津高校は甲子園に出場した事がある。2回戦(初戦)で和歌山の星林高校と延長戦の末に惜しくも敗れている。メガネの左腕エースの好投が記憶に残っている。こんな田舎町の高校を全国大会に導いたのだから、プロ注目の好投手だったに違いない。















バスターミナルの前にあるアイスクリームショップでアイスを食べる。普段、甘いものは口にしないが、ここの名産のミルクを使ったアイスは濃厚でとってもおいしい。


再び、根釧台地のまっすぐな道を走り、摩周湖へ向かう。霧の摩周湖と呼ばれるくらい、晴天の日が珍しい摩周湖であるが、今日は見渡す限りの青空で、湖もとても美しく見える。1931年、世界一の透明度41mを記録した。(2位はロシアのバイカル湖)















摩周ブルーと呼ばれる真っ青な湖面である。












摩周湖は山の頂にある。山をくだると川湯温泉駅。チロリアンな駅舎である。




















駅から川湯温泉までは結構な距離があり、歩いては行けない。


途中にあるのが硫黄山。名物は温泉卵。でも買わない。ここでデジカメの電源終了。いつもそうだが、国内旅行では、それほど写真を撮らないからと思い充電器を持って来ないと電池切れで肝心の場面で写真が撮れない。








川湯温泉をすぎると、屈斜路湖。日本最大のカルデラ湖である。

砂風呂が有名だが、夏場限定のようである。

アイヌ博物館に行ってみるが、それほど興味をそそられる展示物はない。館員のおばさん達がアイヌ人らしい彫が深くて、まつ毛が長くて、色黒なのが、まさに生きる標本である。生まれて初めてアイヌ人を生でみた。沖縄の人たちに良く似ている。この素晴らしい文化を後世に残してもらいたいと願う。


長い長い屈斜路湖沿いの道はそのまま美幌峠に続く。美幌峠からの眺めは大パノラマが広がり絶景である。

美幌峠から北見への道中は一面のピート畑が続く。丘の上に広がるピート畑に夕日が沈んでいく。

ピート、サトウキビ、バターはダントツに関税率が高い。主に北海道、沖縄の国内農家の保護の為である。

主食でも無いし、米、野菜と違って国産だから品質がいいという品目でもない。むしろ、外国産の方が品質のいい分野である。

今後、TPPが施行されたら、本当に厳しいのは本州の農家ではなく、北海道、沖縄の農家であろう。保護と発展のバランスをとることは至難の業であるが、頼みの綱の製造業が厳しい今、TPPは日本復活のカギとなる可能性を秘めているのかもしれない。


北見はこの地方の中心であるが、かつては栄えたであろうといった感じの古い街並みである。

たまたまかもしれないが、北見の街中で暴走車を2度も見た。対向車線の逆相、信号無視など、こんな危険な場所でおちおち歩いてもいられない。北見=危険な町のイメージが植えつけられてしまった。


北見から女満別空港までは高速道路規格の道が続くので、距離が結構ある割には速く到着した。良く考えて作られている。インフラ整備に関していえば、北海道、沖縄は突出している。

思ったより早くついたので、女満別の町で夕食でも食べようと思うが、食事をとれるような店がない。生協で北海道限定のサッポロクラシックを12缶買い込む。本州では売っていないので、飲むのが楽しみである。


女満別空港で車を返却する。修理代金は保険が効くので大丈夫だが、免責金額の支払い5万円也。

最後の食事、知床牛のステーキ定食とお別れのサッポロクラシックを飲む。今日は長距離ドライブとなった。お腹も空いている。

知床牛はオージービーフみたいで期待したほどのおいしさがなかったが、このビールはやはり何度飲んでもおいしい。おかわりをしたいが、まもなく機上の人となるので控える。

機内では爆睡であった。


久しぶりの道東であったが、鉄道で旅行する印象とはだいぶ違うものであった。鉄道網がスカスカになってしまった現在、隅々まで見て回れる車が必要な旅行先である。今回はハイブリッドカーで燃費の面でだいぶ助かったが、事故を起こしてしまっては、大きなマイナスである。

安全第一を心掛けて運転していきたい。

東京に戻ってから、首の後ろが時折、痛くなった。軽いむち打ち症になったようである。


5日目終了。


終わり。








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2012年10月4日~10月8日道東周遊3

2013年05月10日 | 日本
2012年10月8日(日)


網走の夜の繁華街は観光地で港町らしく、賑やかであった。やはり漁師は陸の仕事に従事している人よりもはるかに金を持っているのだろう。

一方で朝の網走は昨夜の喧騒が嘘のようにひっそりとしている。網走は低地の狭い土地に住宅が密集しており、丘の上に新市街が広がる。昨夜のスナックのお姉さんの話では住宅価格、家賃が札幌並みに高いらしい。本当だろうか。

しかし、やはり道東である。少し走れば、北海道らしい寂れた風景の海岸線が続く。

網走から釧路までを結ぶ釧網本線は廃止されずにしぶとく生き残っている。網走から先の海岸線は絵になる車窓風景が続き、たった一両の気動車が走る。また、北海道のローカル線らしい寂れた木造駅舎がまだ沢山残っている。昭和の風景がまだまだ残されている。











やはり鉄道でも仕事でもスポーツでも現役が一番である。働いてこそ価値があるものだし、美しい姿である。















北海道の駅前の風景ほど映画的な風景はないと思う。東京近郊の駅前風景はあまりにも日常的で、どこにでもありふれている風景で、映画で見たいとは思わないし、美しいとも思わない。むしろ殺風景である。





道東はとにかく平野が広がる。北海道らしい広大な農場が続いている。隣の家まで何キロといった世界である。冬の季節などはさぞかし大変な事だろう。これも昨夜聞いた話であるが、30ha、40haといった規模では小規模農家らしい。60ha以上ないと経営が厳しいらしい。本州では10haあれば大規模農家である。本州では米、野菜、道東では酪農、ピート、じゃがいも、など、作物の違いはあるが、スケールの違いすぎる話である。


今日の観光のメインは世界遺産知床半島である。


斜里から北は平野が広がる道東にしては異色の険しい山々が見える風景である。


知床八景のひとつオシンコシンの滝。国道に面しており、アクセス抜群である。









知床観光の中心地ウトロの町に到着。観光客で大変なにぎわいである。もっと秘境の趣のある場所かと想像していたが、大違いである。世界遺産バブルであろうか。





観光船に乗って海から世界遺産知床を観光する。昔ながらの大型船のツアーから、テンガロンハットにおそろいのTシャツを着たエコな若者達が経営するスピードボートのツアーまで様々な船会社がツアーを主催している。






























小型船に乗船したので断崖の近くまで見れて迫力があった。しかし、残念ながら熊は見れなかった。


昼食は漁協の婦人部が経営する食堂で鮭の塩焼きを食べる。本州の一切れの2倍はありそうなサイズである。

今が旬なので文句なしのおいしさである。






続いて知床半島観光の目玉、知床五湖に向かう。駐車場まで大渋滞であるが、40分ほどで駐車場に入れた。

高架木道は電流が通じており、誰でも安心して歩けるが、地上遊歩道は15分ほどのレクチャーを受けなければ歩けない。また、熊が出たらその日は即封鎖となる。今年は熊の活動が活発らしく、夏はほとんど閉鎖されていたとの事であった。また、今月に入ってもこの時期にしては異例の封鎖が続き、昨日まで1週間連続で熊出没の為、封鎖されていたが、今日はまだ熊が出没していないので、歩けるとの事であるが、いつ出没するか分からない危険な状況には変わらないので十分に注意するように言われる。

ヒグマの怖さについて延々と映像を交えて説明されると、恐怖心が少し出てきた。

しかし、ここは観光地なのでそれほど心配はいらないだろう。それよりもっと世界遺産の自然風景を楽しまなければいけない。





















同じ世界遺産でも屋久島と大いに異なる風景である。まるでシベリアかカナダかアラスカにいるような風景である。






























歩いて1時間ほどのコースであった。


続いて知床峠を車で超える。高さ738mの峠であるが、本州の標高2000m以上にいるような気候、景色である。風がとても強く冷たい。

















峠を下ったら、もうひとつの知床観光の拠点である羅臼の町である。ここはウトロと違ってそれほど観光地化していない。昔ながらの素朴な漁村の風景である。














国後島がすぐそばに見える。それにしても大きな島である。展望台に付設して北方領土についての資料館がある。竹島、尖閣諸島の小さな島の領有権を争う前に、もっと大きな問題がある事を日本人は忘れていないだろうか。






今日は羅臼の大規模な民宿に宿泊。本館、新館があり、民宿ではなく、大きなホテルである。料理自慢の宿との触れ込みであったが、カニは売り物にならないような小さなもの、食べ放題のイクラは人造イクラなど、人を馬鹿にしたような酷い内容であった。






宿の名前は伏せるが、ここに泊まらない方がいいですよと後に続く旅行者の為にもこのブログに書きたいのが、本当のところである。そんな事を書けば営業妨害になるので、もちろん書かないが、後に続く旅行者の為にも書いた方がいいのだろうか。どちらが正しい行いなのか、判断ができない。


4日目終了。
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2012年10月4日~10月8日道東周遊2

2013年05月07日 | 日本
2012年10月6日(土)


名寄は北海道で最も冷え込む都市だけあり、昨夜は10月とはいえ寒かった。朝から雨が降っているが、やがて晴れる見込みである。

名寄から東へ向かう。下川、興部を経て紋別に向かう。廃止された名寄本線と同じルートを通り、東へと向かう。途中の町には駅舎やレールが大切に残されていたり、何も残っておらず記念碑だけががあったりと、それぞれである。

興部駅跡。名寄本線の歴史を後世に伝える記念館が併設されている。












興部から先は興浜南線が分岐しており、オホーツク海沿いを走る風光明媚なローカル線として知らせていた。寄り道であるが、天気も晴れてきたので、海沿いを北へと走る。





興浜南線は20km先の雄武まで開通していたが、興部の次の駅が8.3km先の沢木である。北海道の雄大さを感じさせる駅間距離である。

オホーツク海沿いの漁村は晴天の天気のせいもあってか、明るく活気があるように感じる。









風の丘という公園。広大な敷地にはキャンプやバーベキューができる施設もある。












今日は風も弱く、遠くまで見渡せて良かった。


来た道を戻り、オホーツク海を紋別に向けて快適に走行。















渚滑駅跡。ここから西にある北見滝ノ上までの34.3kmを渚滑線というローカル線が走っていた。現在はパターゴルフ場となっている。ちょうど幼稚園児がお散歩に来ていて、先生からSLについて教えてもらっている。












明るい海岸線を気持ちよく走ってしばらく経った。丘の上に住宅がびっしりと立ち並んでいる町が紋別である。下町が漁港、漁師町、山の手が学校や官庁街、商店街となっており、神戸、函館を小さくしたような綺麗で明るい街並みである。ちょうど秋の収穫祭りが開催されており、大変なにぎわいである。


















カニの甲羅焼きとコロッケを食べる。さらにカニとイクラの弁当を買う。






イベント会場は紋別駅の跡であった。オホーツク海側の屈指の都会である紋別を擁する名寄本線は廃止されないだろうと思われていたが、本線にも関わらず廃止されてしまった。


紋別は沿線の他の小さな町が大切に鉄道の思い出を残そうと努力しているのと違って、ひっそりとしたものである。そういえば昔にそんなものもありましたねといった感じである。空港を持つ都市の余裕と未来志向の明るい発展性を持つ町の雰囲気である。繁栄しているある一定規模の都会の港町はそういった先進性とか未来志向といったものを持ち合わせているものだ。寂れた港町とは違った雰囲気を持っている。






紋別空港。新しいながらも身の丈に合ったコンパクトな空港である。全日空も搭乗率の低さから、撤退したい意向のようで、紋別市としては必死になって飛行機の利用を市民にPRしている。利用者には助成金も出るようである。しかしながら、問題の本質は全日空の航空運賃の高さにある。このような場所にこそ今話題のLCCが就航すべきなのだが、規制大国日本ではまだまだ時間がかかりそうである。しかし、日本の素晴らしいところは、途上国と違いインフラはすべて整備済みなところである。監督官庁のGOとLCCキャリアのヤル気次第で新たな需要が生まれ、地元の経済も発展すればいいと思う。




















誰もいない空港をぶらぶらした後は、オホーツクの海岸線に沿って車を走らせる。

番屋。声をかけても誰もいない様子なのでお邪魔する。

















穏やかな海岸。段々、雲が多くなってきた。














遊園地。今の時代にこのような施設がまだ残っているのは奇跡的であるし、感動的でもある。北海道、さらに道東だから残されているようなものである。このままずっと残って欲しいと願う。








勇網線の廃線跡に沿って走る。サロマ湖に沿って走る勇網線は北海道のローカル線屈指の車窓の美しさで知られていた。






















サロマ湖。














美しい湿原。











勇網線の廃止後、駅はバスターミナルとなり、網走までバスがつないでいる。しかし、利用客も僅かである。車を利用できないお年寄りや学生が主な乗客である。当然、駅前も寂れている。




































線路跡はサイクリングロードとして活用されている。









それにしても、他の廃線跡に比べると、各所で鉄道遺構が良く保存されており、勇網線がいかに地元に愛されていたかが、よく理解できる。























網走刑務所。あまり興味が無かったのだが、ここまで来てこれを見ないと次にいつ来れるか分からない。今年はアルカトラズ刑務所、トゥースレン収容所、網走刑務所と今まで1度も見たことのなかった刑務所、収容所を3度も見学する事になった。くれぐれも本当に刑務所に入ることのないように正しい人生を歩んでいかなければと、当たり前だが、そう思う。












































































































































網走刑務所見学終盤から雨が降り出してきた。市内に入った頃には豪雨である。視界が効かないのと、時間的に暗くなってきた気持ちの焦りと長距離ドライブの疲れもあったのか、ホテルの駐車場(ここがとても狭い駐車場である。)で車の切り替えしをしようとバックさせたら、電柱に車をぶつけてしまった。バンパーを破損してしまった。せっかくの新車なのに申し訳ない事をしてしまった。豪雨と暗さとアクアの後部視界の悪さ(プリウスとアクアは燃費にこだわった結果、空気抵抗を良くするため、極端に後部視界が悪い)が原因と言いたいが、結局は事故を起こした自分の責任である。レンタカー会社に連絡後、警察の現場検証と面倒な事になってしまった。自分の車なら警察なんか呼ばずに、そのまま保険処理だが、レンタカーだとそうはいかない。事故証明が必要となる。当然、レンタカーなので保険があるのだが、免責特約をつけていなかった為、5万円の免責金額を支払うことになった。少しの金を惜しんだために高くついた結果となってしまった。

今まで無事故無違反だっただけに、車をぶつけるとは、残念な事である。網走のせいではないのだが、これで網走の印象が悪くなった。悪いのはすべて自分のせいなのに、網走のせいにするなんて人間とは実にわがままな生き物である。


7時を過ぎるとあれほど激しかった雨もあがり、ようやく外に出る気にもなった。車をぶつけた腹いせとばかりに、網走で一番古いという、アイヌ人風の風貌と着物を着ている無愛想なご主人が経営する居酒屋で豪華な夕食を食べ、浴びるように酒を飲んだ。




それでも飽き足らずにスナックで水割りを飲んで、店のおばさんとお姉さんと常連のおじいさんと楽しく話をして、ようやく気持ちが晴れた。大都会札幌と違って、北海道らしくおおらかで素朴で正直な人々である。網走の印象が一気に良くなった。



3日目終了。
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2012年10月4日~10月8日道東周遊1

2013年05月02日 | 日本
2012年10月4日(木)


小学生の時から憧れていた北海道(特に道東)周遊ドライブ旅行に念願叶ってようやく行くことになった。北海道は今までに通算して5回旅行した事があるが、うち2回は函館近辺、2回は道央、1回は北は稚内、東は根室、南は浦河と大がかりな旅行であったが、ひたすら鉄道で移動しただけの旅行であった。今回は鉄道では行けない場所まで行く計画である。


仕事を定時で終えて、羽田空港へ直行。そのままJALの札幌行に乗り込む。今回はJALマイル使用の旅であるが、国内線でマイルをつかう旅行は初めてである。札幌行は安い便も増えたが、道東に行く便はいまだに高いままである。

千歳空港から電車で札幌市内へ。すすきのは深夜にもかかわらず相変わらずの賑わいである。札幌はいつ来ても20台前半の若者のように元気で希望に満ち溢れている雰囲気の町である。


札幌では一般的に多く見られるカウンターでひとり用の炭火焼きのコンロで焼くジンギスカンと焼き野菜を食べる。とてもおいしい。これこそ北海道の味覚だと思う。東京でも似たような店が増えてきたが、肉、野菜のおいしさが全然違う。札幌で食べるからおいしいというのもあるかもしれない。やはり地産池消が最もおいしい。野菜をおかわりする。あと忘れてならないのが、個人的に日本一おいしいビールと思っている、北海道限定サッポロクシックの生ビールである。このうまさが本土では味わえないのがもったいない。低迷するサッポロビール復活の切り札になる可能性を秘めている商品なのだが、経営陣はどう考えているのだろうか。

今日はラーメンには突入できずに、そのまま就寝。このあたりに年齢的な衰えを感じる・・・。


1日目終了。



2012年10月5日(金)


朝、8時の開業時間に合わせてレンタカー屋に行く。車種指定なしの最も安いプランで予約していたので、ヴィッツ、フィット、デミオあたりを想定していたが、出てきたのは新車のアクア。現在、世界で最も燃費のいいハイブリッドカーである。プリウスを凌ぐ燃費性能(コンパクトカーなので当たり前だが)リッター35kmの車なので広い北海道を走る回るにはこれ以上ない最高の車である。オフシーズンに旅行すると想定外の良い出来事が多い。


このアクア、内装は何ともチープな感じで、安車といった感がある。上級車種のプリウスも値段の割にはチープな感じの内装とふにゃふにゃした足回りと、楕円形のハンドルと走りの基本を忘れた燃費一辺倒といった感の車で、自分で金を払って欲しいとは思えないが、アクアは走りに関して言えば、コンパクトで低重心な車体構造とスポーティなハンドリングで峠道のワインディングも楽しめそうなフィーリングである。


札幌市内を抜けて、石狩市を抜け、厚別に至ると、いかにも北海道の日本海側の寂れた漁村といった風景になる。この雰囲気を求めてはるばるここまでやって来たようなものである。しばらくこの寂寥感に浸る。






























厚別から先、日本海側に沿って雄冬、増毛を目指して国道を北上する。日本海オロロンラインとう別称がつけられている。交通量も非常に少なく対向車も滅多に無く、日本海の厳しい風景に寄り添うようにして道は続いていく。交通量が非常に少ない割にはとてもよく整備された立派な道である。このような自然環境に厳しい場所にとって交通インフラは生命線である。







今回の旅の相棒のアクアを撮影。これから4日間1000km以上走る長い付き合いになる。よろしくお願いします。






雄冬が近づくと断崖絶壁の連続である。






増毛町雄冬に到着。40年ほど前までは国道はここで途切れていた。増毛までは連絡船が結んでいた。高倉健主演の名作映画「駅」の舞台のひとつになった寒村である。





展望台からの眺め。










雄冬をすぎると長いトンネルが連続する。抜けた開けたところが増毛。ここはかつてニシン漁で大変繁栄した町である。学生時代に鉄道で来た事があるが、深川からのたった1両の最終列車に乗車した時点では10数人の乗客がいたのだが、留萌から先の乗客は自分たったひとりであった。11月中旬の夜の寂寥感漂う、いかにも最果ての終着駅といった感のこの駅に降り立った日の事が、自分が生まれる遥か遠い昔の出来事のように思える。






















駅前から続くメインストリートの風景。1997年と何も変わっていない。撮影は昭和50年代の初めだったと思うが、高倉健主演の映画「駅」の時から変わっていない。ただし、駅の中にそば屋ができたり、駅前に映画「駅」の記念館ができたりと観光に力を入れはじめたようだ。




























当時、お世話になった民宿も何も変わらず営業しているようである。






増毛から北は開けた土地に漁港が連続する。途中に大きな番屋がある。ニシン漁の最盛期がしのばれる。






日本海側で最大の町留萌に到着。人口3、4万の本州だったら小さな市であるが、人家が少ない場所をひたすら孤独に耐えながらの旅であったので、大都会に見える。旅を彩るのはコントラストである。ここで昼食。ここでがっつり食べておかないと次にいつ食事にありつけるか分からない。






留萌から北も明るい開けた土地である。それなりに人も住んでいる。現在は廃止されたが、国鉄羽幌線が日本海側を走っていた。


小平町にかねてより見てみたかった北海道で最も有名な古民家がある。古民家マニアとしてここは絶対に外せない聖地である。

旧花田家鰊番屋。鬼鹿場所の道内最大の鰊番屋。明治37年(1904)、大網元花田伝作が建築。昭和46年(1971)に国の重要文化財に指定され、2億円をかけて改修した。現存する木造民家として日本最大級、内部に当時のニシン漁史資料を展示。重要文化財。








































この巨大な番屋に何百人のヤン衆が寝泊まりしてニシン漁を行っていたという。漁師の仕事も大変だが、炊事、洗濯、魚の加工等、支える女子供も大変忙しかったのだろう。


ここに集まってきた、大勢の人々とニシンはどこへ消えたのか・・・。


今は住む人もわずかである。


そんなニシン漁で栄えたであろう日本海側を羽幌線の廃線跡を右手に見ながら快適なドライブ。交通量も増えてきた。


留萌以来、ようやく町といえる場所が羽幌。かつては炭鉱で栄えた町である。羽幌線の駅前はバスターミナルとなっている。








「童心に還る駅跡赤とんぼ。」






中学生まで車のない家庭に育った自分にとって最も親しみのある交通手段は鉄道であった。鉄道の風景写真を図書館で借りて眺めることは、まだ見ぬ土地への憧れを抱く第一歩であった。その中で最も興味をそそられたのが、北海道のローカル線であった。夏の広大な大草原を走るたった1両のディーゼルカー、日本海側の厳しい荒波に洗われながら走る列車。山間の寂れた炭鉱町の大きな側線がある、往年は石炭の積み出しで大賑わいを見せていたであろう駅を出発する、今では短い編成のわずかな石炭を積んだ貨物列車。冬の吹雪、大雪の中を淡々と何事もないように走る列車。山間の大雪の中の小さな駅を降りる重い荷物を背負った老婆。走る列車に手を振る子供たち・・・。


いつしか哀愁ただよう風景の連続する北海道の鉄道旅行をする事が小学生の時の大きな夢になっていた。その時がやがて近い将来、来ることを信じて止まず、ただひたすらに時が過ぎ大人になることを心待ちにしていた。あと5,6年、高校生になったら絶対に行ってやる、行けるのだ!と思っていた小学生時代。しかし、そんな願いも空しく小学生6年生の春に国鉄は民営化され、それと前後して北海道のローカル線はそのほとんどが廃止となった。その時の「なぜ?」という気持ち、目標を失ってしまった喪失感、生まれるのがあと5年早かったらという無念さが入り混じった複雑な気持ちで、しばらくは落ち込んでいた記憶があるが、中学生になった頃には、既に他に夢中になるものが、次から次へと出ていて、鉄道の事など頭の片隅にも無くなってしまった。それが人間の成長というものだろうか。それとも少年の心を失うというものなのだろうか。未だに良く分からない。



羽幌の町から山を越えて、朱鞠内へ向かう。途中では大きな牧場が続き、いかにも北海道といった風景が続いて大満足である。紅葉も綺麗である。


朱鞠内はここも行きたかった場所のひとつである。道内で最も寒く、積雪量の多い場所である。深川から名寄をつなぐ深名線というローカル線が国鉄が民営化された後でも、交通の代替手段がないという理由でしぶとく生き残っていたが、道路の整備が進むとともにやがて廃止となった。


朱鞠内は深名線の中心地であった場所であり、当時のダイヤを見ると深川・名寄間の直通の列車はなく、ここで必ず列車を乗り換えることになっている。それなりに大きな町だろうと思っていたのだが、警察、消防、郵便局、やっているのか分からない1軒の商店と10数件の民家と10数件の廃屋からなるとても小さな集落であった。


朱鞠内の駅跡はとても広い。









朱鞠内の集落。








































朱鞠内の寂れ方はとても美しい。人工物はやがて自然に還るということを教えてくれる。


朱鞠内湖。戦後築かれた最大の人口湖である。電力開発を目的としたダムがある。このダムの建設資材と豊富な森林資源を運ぶために深名線は開通した。























朱鞠内湖近辺は廃屋も多い一方、おしゃれな別荘や、名産のソバを食べさせてくれるペンションもあり、決して観光地といえるような場所ではないが、どこか日本離れした風景、アメリカ北部、カナダを思わせる風景と相まって、夏に一度来てのんびりしたいと思えるような素敵な場所である。ここは穴場だと思う。大規模開発が入れば有名なリゾートになるポテンシャルは秘めている。しかし、今の日本にそのような勢いはない。しかし、海外資本(特に中国系)の進出は国がしっかりと防いで欲しい。



朱鞠内から名寄の廃線跡も哀愁ただよう風景が連続する。長大なトンネルを抜け、眼下に広大な平野が広がる。いよいよ名寄も近い。












名寄はこの地方の中心地である。現在は南北に宗谷本線しか鉄道は通っていないが、かつてはここから深名線と名寄本線が分岐して国鉄路線の十字路の交通の要衝であった。高校生の時、父の仕事に同行して札幌に行った際、1日だけ自由な時間があったので、日帰りで最も遠くまで往復できそうな場所がここ名寄であった。札幌から稚内行の急行列車に乗り、意気揚々と北海道を北へ北へと向かっていった。その時は確か2月か3月であった。とにかく雪がすごかった記憶がある。また、最果ての寂しい場所だという印象が残っていたが、秋の季節に来てみると、道北としては、大きな規模の町で、人口4万人の町にしては商店街の規模も大きく、街中に大きなショッピングセンターもあり、夜の繁華街も賑わっている。聞けば、かつてはやはり国鉄関係で栄えたが、現在は自衛隊関係者が多く、寂れたとはいえ、一定以上の経済規模はあるとの事である。


夜の名寄駅。









今日はよく走った。しかし、北海道の交通量も少なく道は走りやすい。疲れは全然ない。焼き鳥屋で飲みながら食事をした後は、どこか懐かしい味の味噌ラーメンを食べて満腹である。

ただ寝るだけの部屋だが、名寄で一番のホテルに宿泊する。自分なりのこの町に対する最上級の敬意である。しかし部屋は東横イン並みであった。






2日目終了。

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2012年7月14日~16日和歌山、淡路島

2012年10月13日 | 日本
2012年7月14日(土)~16日(月)


毎年恒例のO君との夏の男旅、行先はO君の希望で、久々の関西。自分は仕事でよく行くので珍しさはないが、出張がない仕事の人は旅行以外で行く理由もないので、もの珍しさと楽しさでいっぱいなのであろう。

今回はあまりメジャーな観光地とはいえない、和歌山と淡路島に行くことにした。もちろん滞在は大阪市内であるので、ベタな大阪観光も楽しむつもりである。


初日は大阪中心部観光と堺観光。堺は有名な割には観光地として特に見るべき場所はなく、市街地も寂れた感じでわざわざ遠くから観光として行くべきほどの場所ではない。


今回は2泊3日で往復のぞみ利用、ホテルは都ホテル大阪で35,000円と旅行代金は安い。しかし、都ホテル(昔はシェラトンだったと思う。)は上本町という難波から2駅ほど離れた近鉄のターミナル駅にあり、周囲はビジネス街で飲み食いできる場所は少ない。その都度、いちいち難波、鶴橋まで行かなくてはならないので不便である。夜は新世界で串カツを食べて、難波の自由軒で名物カレーを食べた。


2日目はO君は京都の奥の方、天橋立あたりに行きたいと希望するが、秘島大好きの自分としては秘島ではないが、有名な淡路島に行きたい。

京都の奥の方は日帰りできないほど遠く道も悪いし、向こうの方はおそらく豪雨で危険だし、帰ってこれなくなったら大変だから、また今度行こうと無理やり理由をつけて説得する。

軽自動車を借りて淡路島までのロングドライブ。明石海峡大橋を渡ると淡路島である。離島のイメージは無く、ひたすら広大な平野と市街地の連続である。思った以上に人口も多く面積も広大なので島といった感じがしない。


洲本城。洲本市街を一望できる山城である。
























淡路島の北側は市街地や工場もあり結構都会だが、南に行くほど玉ねぎ畑が広がる農村とひなびた漁村が中心となる。玉ねぎを野外の貯蔵庫に吊るして保存している風景をみるとようやくここが淡路島だと思えてきた。


淡路島の南端。ここから橋を渡ると四国、徳島県だが、O君が興味ないし、帰りたいと行くので、引き返す。希望の場所に行けなかったので機嫌を損ねているのであろうか。





途中、神戸で高速をおり、六甲山に行くが、あいにく霧で何にも見えなかった。しかし、下に降りると晴れている。このあたりは複雑な地形である。


夜は鶴橋で焼き肉ではなく、なぜか、お好み焼きを食べた。



3日目は阪和線に乗って1時間、県境の山を越えて和歌山に行ってきた。駅前で無料の自転車を貸してくれたので、思う存分市内を走り回れる。まずは、和歌山城に行く。ボランティアのおじさんが無料で1時間もつきっきりでガイドをしてくれた。

徳川御三家の中で、唯一将軍、しかも名君吉宗を輩出した土地だけに、吉宗の人気が半端なくすごい。


和歌山城は学生時代に甲子園に野球観戦に行った時についでに来たことがあるので、15年ぶり2回目である。15年間で東京も大阪も名古屋も大きく変貌したが、和歌山は全く変わっていないように思える。どこの地方都市も昭和末期、平成初期から時代がストップしている。バブル崩壊以降、投資が止まってしまったような感じである。大都市への一極集中が加速している事がよく分かる。


しかし、いつの時代も和歌山城から眺める和歌山市街地の景色は変わらず綺麗である。





























昼食に名物の和歌山ラーメンを食べる。醤油のコクがあってとても美味しかった。


続いて紀三井寺に行くが、思ったよりも遠く炎天下の中、30分自転車をこぎ続けて、ようやく到着。大汗をかいて熱中症になりそうであった。

ここも眺めがいい。海が近く風光明媚である。





















後はもうすることがない。寂れた和歌山市街をぶらぶらするも特に見るべき場所はない。

新大阪に行くと連休最終日の為、東へ帰る大勢の人たちでごった返していた。


終わり。


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2012年2月4日新潟カニ食べ放題ツアー

2012年04月10日 | 日本
2012年2月4日(土)


今年の日本は12年ぶりの大雪で新潟の豪雪の被害のニュースが連日流れている。東京でも雪が積もっている。たいていは翌日には溶けてしまうのだが、今年の寒さで根雪となっている箇所もちらほらあり、こんな東京の冬は確かに12年ぶりかもしれない。過去にほとんど記憶にない。

年末年始にタイの秘島の生活を楽しんだ後は、新潟へ雪見に行きたいと思っていたら、カニ食べ放題と温泉の日帰りツアーで7,980円と安い旅行を発見したのでさっそく参加する。

池袋から関越道を新潟方面へ進む。高崎あたりまでは雪はほとんど見られない。さすがに水上周辺では雪が積もっているが、地面が見える場所の方が圧倒的に多い。


県境を越える長いトンネルを過ぎたら、全然景色が違う。もの凄い豪雪である。



塩沢石打インターを下りたすぐの場所にある魚野の里でカニ食べ放題の昼食。





佐渡産の紅ズワイガニである。本ズワイガニ、タラバガニ、毛ガニに比べて安いカニなので身がスカスカで食べごたえが無い。しかし、カニ味噌は堪能できる。


カニが沢山積まれたテーブル。もの凄い光景である。





1時間の制限時間で6杯食べた。後にも先にもこんなにカニを食べる事は無いだろう。


カニでお腹が満たされた後は、三国街道の宿場町の塩沢宿の町並みを見学。


街道沿いは町おこしで昔風の建物に建て替えられている。

















大通りは建て替えが進んでいるが、裏通りはそうでも無い。昭和の建物が多く残り北陸地方のどこにでもある田舎町の裏通りである。















もの凄い雪であるが、最近の建物は地下水で融雪できるように建てられており、雪下ろしも不要になったとの事である。地元のガイドさんが安心してお嫁に来て下さいと言うのも納得はできないが、昔に比べたらだいぶ楽になった事だろう。


しかし、門はさすがに人力で雪下ろしをしなくてはならない。門構えの立派なお屋敷は維持・管理が大変である。






日本海側の雪は湿り気たっぷりで重い。雪かきが大変である。北海道や東北の太平洋側のパウダースノーはそれほど雪かきに苦労はしない。スキーにも最高の雪である。


しかし、この雪こそが日本一の米どころの産地の源である。お土産に本物の魚沼産コシヒカリを買う。東京のスーパーでも売られているが、生産量の10倍の流通量があるとの事で9割はニセモノらしい。


駐車場は除雪された雪の置き場になっていて、ものすごい量の雪が積まれている。









そんな雪の上で遊ぶ女の子たち。雪国の子供はたくましい。






塩沢宿の町歩きとショッピングを楽しんだ後は、六日町温泉で入浴。雪を見ながら入る露天風呂は最高の贅沢である。


最後に、また魚野の里に戻ってカニとホタテの掴み取りをする。

これで7,980円は安いと思う。利益が出るのであろうか?謎である。


後日、本物の魚沼産コシヒカリを食べたが、普通のコシヒカリと全く別物のおいしさであった。2キロで1,750円の米なんて初めて食べた。普段は5キロで1,950円くらいの米(それでも一応、コシヒカリ、ひとめぼれ、あきたこまち等のブランド米)しか食べないが、よく違いが分かった。


終わり。
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