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人生に乾杯!

新那智山 観音寺(今熊野観音寺)

2021-08-22 | 西国巡礼

派手な電車にびっくり!

JR東福寺で降りる。

泉涌寺の門をくぐりぬけていいものか、迷って通りがかりの人に聞く。そのまま門を通り抜けて泉涌寺参道を歩く。

赤い鳥居橋が見える。そして、大きな大師像。「子護弘法大師」と呼ばれている。拝観料を払うこともなく、なんとなく境内に入っている感じがする。

すぐに本堂。本尊は、弘法大師御作と伝えられる十一面観世音菩薩(身丈・一尺八寸)。
体内仏として熊野権現より授かった、天照大神の御作の十一面観世音菩薩(身丈・一寸八分)。本尊は秘仏。同じ姿の御前立像が立っている。受付の人に聞く。御開帳については、ホームページを見てくださいとのこと。秋には見れるかもしれない。西国三十三所札所 第15番。

縁起について、ホームページから。

平安の昔、弘法大師空海上人が唐の国から帰国されてほどなくの頃、東寺において真言密教の秘法を修法されていたとき、東山の山中に光明がさし瑞雲棚引いているのを見られました。
不思議に思われてその方へ慕い行かれると、その山中に白髪の一老翁が姿を現わされ、「この山に一寸八分の観世音がましますが、これは天照大神の御作で、衆生済度のためにこの地に来現されたのである。ここに一宇を構えて観世音をまつり、末世の衆生を利益し救済されよ。」と語りかけられ、またそのときに一寸八分の十一面観世音菩薩像と、一夥の宝印を大師に与えられました。この時に老翁が立ち去ろうとされたので何びとかをたずねると、「自分は熊野の権現で、永くこの地の守護神になるであろう。」と告げられて姿を消されました。
大師は熊野権現のお告げのままに一堂を建立され、みずから一尺八寸の十一面観世音菩薩像を刻まれ、授かった一寸八分の像を体内仏として納め、奉安されたのが当山のはじまりです。弘法大師御作のこの観世音菩薩像は秘仏として大切にまつられ、一千二百年の長きにわたって衆生を利益し続けておられます。
またこ の時に大師が、観世音をまつるのにふさわしい霊地を選ぶために錫杖をもって岩根をうがたれると霊泉が湧き出しました。大師はこの清涼なる清水を観音御利生の水として崇められ「五智水」と名付けられました。爾来今日に到るまでこんこんと湧き出し、私たちに深き恵みの水をお与え下さっています。

帰り道、戒光寺の前を通ると、10mのお釈迦さまをご自由に拝んでください、という看板が目に入る。仏像の大きさに惹かれ、靴を脱いで本堂に上がる。座ってみると、なんと魅力的なお顔とそのお姿。今日の幸せ。しばらく座って、見つめる。

写真と文 泉涌寺 ホームページより

本尊・釈迦如来立像(重文)は一丈六尺を越え(約5.4m)総高約10mの大像で、運慶湛慶父子の合作である。本像を始め光背・台座も同時代のもので、蒔絵彩色も良く残り、宋風の類稀な鎌倉時代彫像である。「身代わり丈六さん」の名で庶民の篤い信仰をうけている。開山曇照津師像は鎌倉期の祖師像。重要文化財。

戒光寺は、鎌倉時代安貞2年(1228)宋から帰朝した浄業曇照が大宮八条の東堀川の西に創建し、後堀河天皇の勅願所となった。その後一条戻り橋の東に移り、更に三条川東を経て、正保二年(1645)現地に移され再興された。


三井寺

2021-08-22 | 西国巡礼

京阪石山坂本線、三井寺駅から、歩く。

琵琶湖疎水に沿って進む。気持ちがいい。

しばらくすると、三井寺の総門が見える。

琵琶湖南西の長等山中腹に広大な敷地を有する三井寺は、正式名称を「長等山園城寺(おんじょうじ)」。天台寺門宗の総本山。平安時代、第五代天台座主・智証大師円珍和尚(814~891年。讃岐に生まれる。母は、弘法大師の姪)が天台別院として中興した。「不死鳥の寺」としても知られている。

・・・だから、孔雀がいるのかも。受付の人が、丁寧に境内の案内をしてくれる。

感想。1.境内が広い。2.本尊にお目にかかることは難しい。三井寺、金堂の本尊は、絶対秘仏で誰も見ることができない。「寺門伝記補録」によると、身丈三寸二分の弥勒菩薩。天智天皇の御念持仏。観音堂の如意輪観音も然り。見られないとなると、無性に見たくなる。。。

コロナの状況で、文化財収蔵庫もみられなかった。十一面観音も次回のお楽しみになる。微妙寺にあると思って入ると、金色の像が。。。平成に造られた像。

まず、水観寺。

階段を上り、観音堂へ。

 

これは、百体堂。四国j巡礼には万体堂があった。。。中をのぞくと、たくさんの観音さまが並んでいる。

 

さらに階段をのぼると、展望台がある。

三井寺と大津、琵琶湖。

うしろをみると、

 

極彩色に荘厳された毘沙門堂。毘沙門堂は、天台宗の寺院を指す。

 

微妙寺を通り過ぎて、唐院へ。三重塔が美しい。

一切経蔵。回転式の八角輪蔵。なんだか恐ろしい。

金堂の広場にでると、金堂の左手奥の方に、閼伽井屋がある。受付の人が、ここの龍は、金堂から見なさい、と教えてくれた。閼伽(あか)とは水のことで、仏に供える水や花を用意する施設が閼伽井屋。天智・天武・持統の三帝の産湯に使われことから三井寺の名の由来となった「三井の霊泉」が湧いている。なるほど、金堂から、真正面に龍の彫刻がよく見える。

仁王門をくぐり、西国14番の札所をあとにする。

 


総持寺

2021-08-07 | 西国巡礼

阪急の総持寺駅から近い。住宅地の中にある。高野山真言宗の寺院。山号は補陀洛山 (ふだらくさん)。本尊は千手観音。西国三十三所第22番札所。開基である藤原山蔭は四条流庖丁道という新たな庖丁式(料理作法)を定めたことから料理人の信仰を受けている。

総持寺の本尊千手観音は、「亀に乗った観音様」として有名。総持寺は平安時代、中納言藤原山蔭卿により開かれた。亀の恩返しにより開かれた総持寺の御話は、今昔物語や源平盛衰記等にも紹介されているが、総持寺には、お寺の創建についての縁起絵巻が残されている。

山蔭卿の父である高房卿が太宰府に赴任の途中、淀川を船で下っていますと、漁師達が一匹の大亀を捕らえていました。高房卿は、「今日は十八日で観音様の縁日です。どうかその亀を私に譲ってください。」と自分の着物と交換し、大亀を河に放してやりました。

その夜、河口で夜を明かした高房卿は、継母のたくらみにより最愛の子である山蔭を河に落とされます。嘆き悲しんだ高房卿は「観音様、今一度我が子山蔭に、亡骸としてでも会わせて下さい。」と、常日頃より信仰している観音様に祈念されました。

すると昨日助けた大亀が元気な山蔭を背に乗せて現れたのです。

観音様の御恩に感謝した高房卿は観音様の造像を発願します。

高房卿より中国での香木購入を依頼された遣唐使は、買い求めた香木の持ち出しを禁止され、香木に銘を書いて海に流しました。

その後、高房卿は亡くなり山蔭卿が太宰府に赴任しました。

ある日浜辺で、中国より流れ着いた香木を発見。驚きと歓喜に包まれ、父高房卿の遺志継続を決心するのです。

任期を終え都に帰った山蔭卿は、仏師を探すため奈良の長谷寺に籠もり祈願を重ねました。

ある朝、観音様のお告げにより童子の姿をした仏師に巡り会いました。山蔭卿は都の屋敷に来るよう童子に告げて、長谷寺を後にしました。

山蔭卿の屋敷を尋ねた童子は、いぶかる家来達の前で、見事な十一面観音を刻み一同を驚嘆させました。

その後、彼の香木を与えられた童子は「仏様を彫刻する千日の間は誰もこの仏舎に入らぬ事。また、山蔭卿自身で私の食事を作ること」と申しました。

造仏を初めてより千日目の早朝、「長谷の観音様はどちらに」と声が聞こえると仏舎より「行基菩薩よ、今帰るところよ」との答えがあり童子は空に飛び立ちました。

山蔭卿が急いで仏舎に駆けつけると、千日間の食事を御供えされた千手観音様が亀の座に立った御姿で、お奉りされていました。

山蔭卿の三回忌には七男七女が協力し、五重塔、多宝塔、金堂、講堂、食堂、鐘楼、僧坊、宝蔵、浴室、四面回廊、大門、脇門等、総持寺の伽藍が完成しました。

総持寺伽藍の落慶法要は寛平二年二月四日と伝えられ、それ以来千百有余年を経て、信仰が伝えられています。

 

秘仏本尊の木造千手観音立像は像高75.4 cm、寺伝に基づき、亀の背に乗っている。脇侍として善女竜王像と雨宝童子像を配する。4月15日から21日の間が開帳だそうだ。

ぼけ封じ普悲観音。

総持寺は、西国三十三所の第22番。


勝尾寺

2021-08-07 | 西国巡礼

バスを降りると、きれいな建物が見える。勝尾寺、こんなにきれいだったかしら?小学校1,2年の頃、父と母と来たことがあった。その時、仁王門の左右にある金剛力士に生卵がぶつけられていることにひどく心を動かされたことを覚えている。どうしてこんなことをするのだろうか?と。

今日の勝尾寺。

仁王門。金剛力士が写せない。何十年も前よりもうんときれいだ。

この山門は、慶長8年(1603年)に豊臣秀頼によって再建された。勝尾寺のホームページによると、草創は奈良末期に遡る。
古流記によれば創建は神亀四年(727)、善仲、善算の双子兄弟が草庵を構え修業されたことに始まる。 そののち天平神護元年(765)、光仁天皇の皇子開成が二師出逢い止住し、宝亀六年(775)七月十三日般若台に 大般若経六百巻を理経して一寺を建て、彌勒寺と号し、開山に至る。 開山堂には、善仲、善算と開成皇子の木像が安置され、毎年十月二十九日は宮内庁と本寺で御正辰祭が勤められる。 また彌勒寺当時、本堂のあった場所は、いま彌勒菩薩の大仏が大阪平野を見下ろし鎮座されている。宝亀十一年(780)妙観という名の比丘が彌勒寺を訪ね、七月十八日より八月十八日の間に、 白檀香木をもって身丈八尺の十一面千手観音を彫刻した。これが当山のご本尊である。

いたるところに、達磨が。

HPより:六代座主、行巡が清和天皇の病を祈祷で治し、その功を示したことにより「ここはまさに王に勝った寺、勝王寺である。」と帝より命名される。しかし、寺側はあまりに畏れ多いと「王」を「尾」に控え「勝尾寺」と称する様になった。以来、当山は「勝運の寺」として広く信仰され、古くは源氏、足利氏ら歴代の将軍や武将達が勝運を祈り、 参拝を重ねてきた歴史がある。現代では受験、厄除け、病気、スポーツ、商売、選挙、芸事など「人生のあらゆる場面で勝つ寺」として信仰され、その歴史は1300年連綿と受け継がれてきた。

勝尾寺が古くより伝えてきた「勝つ」とは他者を負かすことではない。転んでも起き、転んでも起き、己に打ち勝つ
「七転び八起きの精神」その精神と、勝運信仰の歴史が一体となり形を成したもの。それを「勝ちダルマ」と呼ぶ。

それにしても、達磨のミニチュア。お寺にあまりふさわしくない光景にも見える。

18日が御開帳の日だった。残念。

これは、大師堂(四国八十八カ所お砂踏み)。中には、四国八十八ヵ所にある仏像が並んでいる。

あらっ、ひとつだけ、寝仏が。。。9番の法輪寺。

お砂踏み。この砂を順番に踏む事により各霊場にお参りした事と同じ功徳が与えられるといわれている。

勝尾寺は、西国三十三所の第23番。

 

 


石山寺

2021-07-25 | 西国巡礼

琵琶湖のほとりでランチ。琵琶湖を眺めるという時間にゆとりを感じる。

石山寺。『石山寺縁起絵巻』によれば、聖武天皇の発願により、天平19年(747年)、良弁(東大寺開山・別当)が聖徳太子の念持仏であった如意輪観音をこの地に祀ったのが始まりとされている。東寺真言宗の大本山の寺院。

如意輪観音は秘仏。2臂像で、岩盤の上に直接坐しているそうだ。33年に一度の開帳。次回は27年後らしい。今、目にする観音は金ぴか。あと27年か。。。

33と言う数字は、妙法蓮華経にちなむもので、観音は民衆を救うために33の姿に化身するという記述に基づいている。石山寺は、多くの文学作品に登場することで知られている。