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人生に乾杯!

市立伊丹ミュージアム

2025-03-06 | 美術館

デュフィの”電気の精”を観に行く。

美術館の受付まで進む。

正面にみえるのは、見覚えのある作品。兵庫県立美術館で観た「箱は空にかえってゆく」。堀内正和作。

 

デュフィは大好きな画家の一人。ラウル・デュフィ(Raoul Dufy, 1877年6月3日 - 1953年3月23日)は、野獣派に分類される19世紀末から20世紀前半のフランスの画家。「色彩の魔術師」20世紀のフランスのパリを代表するフランス近代絵画家。

”電気の精”は、1937年のパリ万博の「電気館」に掛けられた10X60mの巨大曲面壁画(パリ市近代美術館蔵)の縮小版である。リトグラフ。上部には古代から現代に至る「技術の発展」、下部にはそれに寄与した108名の「科学者・技術者の姿」が右から左へと経年的に描かれている。すべて名前入り。

実際は、パリ市近代美術館の5階にあるデュフィ室の壁一面に展示されているそうだ。壁画は動かせないけれど、リトグラフになって、世界に飛び立っていることが素晴らしい。

 

牡丹靖佳さんの「ようこそロイドホテルへ」の原画がよかった。絵本。

 

ブールデル 牧神と山羊 ドビュッシー記念碑

 

美術館に行く道すがら、立ち寄った旧岡田家酒蔵。


瞳をとじて

2025-03-05 | 映画

2023年製作/169分/G/スペイン
原題または英題:Cerrar los ojos


映画監督ミゲルがメガホンをとる映画「別れのまなざし」の撮影中に、主演俳優フリオ・アレナスが突然の失踪を遂げた。それから22年が過ぎたある日、ミゲルのもとに、かつての人気俳優失踪事件の謎を追うテレビ番組から出演依頼が舞い込む。取材への協力を決めたミゲルは、親友でもあったフリオと過ごした青春時代や自らの半生を追想していく。そして番組終了後、フリオに似た男が海辺の施設にいるとの情報が寄せられ……。

昨日観た「マルメロの陽光」の監督の映画。169分が長くはなかった。

映画の中の映画。これは記憶、そして追憶の物語。記憶とは心にとめておくこと。記憶されていないと、追憶はされない。記憶を失くしてしまったフリオ。ミゲルは、かつて未完に終わったフリオ主演の映画を、フリオに見せる。瞳を閉じたフリオに、何が起こったのか。

それぞれが、村上春樹ではないけれど、喪失を抱えている。喪失は、記憶される限り、消えることはない。そして、追憶は、苦しみや悲しみをさらに深くする。でも、時間が、形を変えていく。

プラド美術館で働くフリオの娘。プラドカフェでお茶を飲むシーンがあった。

冒頭とエンドロールに双頭の彫刻作品が映し出される。これは2つの顔を持つローマ神話の神、ヤヌスの像。門や扉に関係する神で、扉を開いたり閉じたりする。ヤヌスはアルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスの短編小説『死とコンパス』に出てくる「トリスト・ル・ロワ」 という場所の庭に登場する。1990年、私はこの物語を映画化するために脚本を書いた、というエリセ監督のインタビュー記事を読んだ。

ヤヌス Janusは、ローマ神話の出入り口と扉の守護神。前と後ろに反対向きの2つの顔を持つのが特徴の双面神。1月を司る神である。入り口の神でもあるため、物事の始まりの神でもあった。1月の守護神であるのは、1月が年の始まりであったためである。他の著名な神と異なりギリシア神話にはヤヌスに相当する神はいない。英語で1月をいうJanuaryの語源でもある。(Wikipedia)


監督:ビクトル・エリセ

キャスト
ミゲル・ガライ:マノロ・ソロ
フリオ・アレナス:ホセ・コロナド
アナ・アレナス:アナ・トレント
マックス・ロカ:マリオ・パルド
マルタ・ソリアーノ:エレナ・ミケル
ティコ・マジョラル:アントニオ・デチェント
ロラ・サン・ロマン:ソレダ・ビジャミル
ベレン・グラナドス:マリア・レオン
シスター:ペトラ・マルティネス
ドクター:フアン・マルガージョ
ミスターレヴィ:ホセ・マリア・ポウ
リン・ユー:カオ・チェンミン
チャオ・シュー:ベネシア・フランスコ


マルメロの陽光

2025-03-04 | 映画

1992年製作/139分/スペイン
原題または英題:EL SOL DEL MEMBRILLO

スペイン現代美術を代表する画家アントニオ・ロペスの創作過程を追ったドキュメンタリー・フィルム。アントニオ・ロペスは、二〇世紀後半の世界の美術界で注目される「マドリード・リアリズム」の中心的存在で、寡作で知られる画家。彼の長年のテーマである陽光に輝くマルメロの実を描くことを中心に、彼をめぐる世界の、様々な側面を描いていく。

アントニオ・ロペスが、マルメロを描き始める。季節は秋から冬へと移り変わる。マルメロの果実は熟し、やがて腐ってゆく。あんなに熱心に描いていたのに、油絵で描くことをあきらめて、デッサンに変える。

マルメロとは、バラ目バラ科マルメロ属に分類される落葉高木の1種。英語名はクインス (quince)。別名「セイヨウカリン」。ふっくらとした黄色の実がたわわに実る。

少し前から、この映画を観ようと思っていた。なぜそう思ったのか、思い出せない。ロペスは(Antonio López García、1936年1月6日 - )は、スペイン・トメジョーソ出身の画家。ちょっと、ポール・ニューマンに似ている!マルメロをあくまで愛している。マルメロを描く姿勢は徹底している。

ロペスは、カセットでクラシック音楽を聴きながら画く。ふと第9の3楽章が流れた。切なくなる。

監督のビクトル・エリセ・アラス(Víctor Erice Aras, 1940年6月30日 - )は、スペイン・ビスカヤ県出身の映画監督・脚本家。短編映画を除けば、エリセは1969年の長編監督デビューから2023年までに4作品しか監督しておらず、とても寡作な監督として知られている。「みつばちのささやき」1973。「瞳を閉じて」2023は40年ぶり。

ロペスは、彫刻家でもある。マドリードのアトーチャ駅にある『Día y Noche(Day & Night)』。大きな二つの顔。


騎士団長殺し 第2部

2025-03-03 | 

再読。

第1部の終わり近くで、私は、このように語る。私たちは自分たちが手にしているものでなく、またこれから手にしようとしているものでもなく、むしろ失ってきたもの、今は手にしていないものによって前に動かされているのだ。

これだな、と思う。喪失。喪失からの脱出?現実の世界の下に、知らない世界が続いている。その狭い世界の試練をくぐりぬけ、再び戻ってくる現実の世界。その過程で、変革する。そこで得たことは、どこかに私を導いてくれるものがいると、率直に信じることができる、ということ。これが最後の結び。

主人公の私は、風穴の横穴のような穴に入り込む。まるでもぐらのよう。チューブスライダーみたい。無と有の狭間を歩き、川を渡って、雑木林の中の穴に落ちる。とても奇妙だけれど、帰還後、失ったものを再び獲得する。

私は、柚が好きになれない。

先月、高村薫の小説を、読んだ。苦しかった。村上春樹の小説は、やっぱり、とてもとても面白い。いつも、同じようなことが起きるけれど、毎回、その世界に引きこまれる。


騎士団長殺し 第1部

2025-03-01 | 

再読。2017年発行だからおよそ8年ぶり。春雨物語を読んで、たどりついた。再読が新鮮であること驚いてしまう。

分析をするつもりはない。ただ、読みながら、思い出すことや思い当たることが多く、8年の時間から贈り物をされたように思う。

振り返ると、人生は、ずいぶん不可思議なもの。信じがたいほど突飛な偶然と、予測不能なく屈曲した展開に満ちている。・・・最終的に何かしらの意味を発揮するのは、おおかたの場合おそらく結果だけだろう。そうなんだろうなぁと思う。

騎士団長殺しの絵。騎士団長は倒れている、となぜか思い込んでいた。そして、前回、読んだ時は、騎士団長の姿をした身長60cmのイデアの姿が、鬼太郎のお父さんのように思えて、とても馴染めなかった。今回は、騎士団長の姿を具体的に想像することに、少しだけ成功したけれど、ちょこんと座ったり、足をぶらぶらしたり、どうも、このイデアの姿が軽いのが気になる。

ドン・ジョバンニが初演された劇場は、プラハのエステート劇場。行ったことがある。。。何を観たのか、パンフレットを探してみたら、ウェーバー/マーラーの歌劇「三人のピント」だった。きれいに忘れていることに、驚く。驚いてばかり。

プラハのマリオネット劇場でオペラ「ドン・ジョバンニ」を確か観た。芝居小屋のようだった。それなのに、騎士団長殺し、にすぐ結びつかなかったとは。

Blessing in disguise.

この小説の主人公の私は、小さいころからなぜか、それほど親しくない人からも思いも寄らぬ打ち明け話をされる傾向があった。もしかしたら、他人の秘密を引き出す特別な資質みたいなものが生まれつき具わっているのかもしれないのか、ただ熟達した聞き手に見えるのかもしれないが、そのことで何か得をしたという覚えは一度もない。なぜなら、人々は私に打ちあけ話をしてしまったあとで、必ずそのことを後悔するからだ、と言う。

シューベルトの弦楽四重奏曲、15番と13番。リヒャルト・シュトラウスの「薔薇の騎士」。

第2部が楽しみ。