「年をとったおまえを見たかった。見られないとわかると残念だな」(「哀しみがたまる場所」)
作家夫婦は病と死に向きあい、どのように過ごしたのか。残された著者は過去の記憶の不意うちに苦しみ、その後を生き抜く。心の底から生きることを励ます喪失エッセイの傑作、52編。
藤田宜永の作品で印象に残るのは「求愛」。主人公が、ラベルの「水の戯れ」を弾く。その藤田さんとの37年の軌跡。小池さんは家を大切にするという。それは「繭」。そういえば、昨日読んだ「神よ憐れみたまえ」にも、家の描写が詳しかった。このエッセイでは、軽井沢で暮らした家、書斎での生活が、一瞬、手に取るようにわかる。と同時に、もういないのだ、という感覚。
ひとつ、そうなの?と思ったところ。「祈り」の章。藤田さんは、医者嫌いで、めったに検査を受けなかった。それが彼が頑なに決めていた生き方だった。末期がんが見つかったら、あとは何もしないで死んでいくのがおれの理想、というのが口癖だった。・・・・・闘病中、それまで理想の死に方を豪語していた夫は、一転、生きたいと思い始め、そんな彼を見ながら、私は生来の悲観主義に取りつかれていた。
闘病中に一転???生きたいと思い始める。・・・いくら豪語していても、いざとなると、生きたい、と思うのが人が生きる、ということなのだろうか。
若いころは、人は老いるにしたがって、いろいろなことが楽になっていくに違いないと思っていたが、とんでもない誤解だった。思春期も老年期も、どうにもしがたい感受性と闘って生きている、というくだりに、共感する。
小池さんは、私は今、強烈に誰かを抱きしめたい。誰かに抱きしめられたい、と書く。最近、スペインの友人に10年ぶりに会った。力強いハグには、小池さんのいうように、生きているものの厚み、生命のぬくもりに直接触れる実感があった。
喪失。喪失に備えなどない。