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人生に乾杯!

月夜の森の梟

2024-10-31 | 

「年をとったおまえを見たかった。見られないとわかると残念だな」(「哀しみがたまる場所」)

作家夫婦は病と死に向きあい、どのように過ごしたのか。残された著者は過去の記憶の不意うちに苦しみ、その後を生き抜く。心の底から生きることを励ます喪失エッセイの傑作、52編。

藤田宜永の作品で印象に残るのは「求愛」。主人公が、ラベルの「水の戯れ」を弾く。その藤田さんとの37年の軌跡。小池さんは家を大切にするという。それは「繭」。そういえば、昨日読んだ「神よ憐れみたまえ」にも、家の描写が詳しかった。このエッセイでは、軽井沢で暮らした家、書斎での生活が、一瞬、手に取るようにわかる。と同時に、もういないのだ、という感覚。

ひとつ、そうなの?と思ったところ。「祈り」の章。藤田さんは、医者嫌いで、めったに検査を受けなかった。それが彼が頑なに決めていた生き方だった。末期がんが見つかったら、あとは何もしないで死んでいくのがおれの理想、というのが口癖だった。・・・・・闘病中、それまで理想の死に方を豪語していた夫は、一転、生きたいと思い始め、そんな彼を見ながら、私は生来の悲観主義に取りつかれていた。

闘病中に一転???生きたいと思い始める。・・・いくら豪語していても、いざとなると、生きたい、と思うのが人が生きる、ということなのだろうか。

若いころは、人は老いるにしたがって、いろいろなことが楽になっていくに違いないと思っていたが、とんでもない誤解だった。思春期も老年期も、どうにもしがたい感受性と闘って生きている、というくだりに、共感する。

小池さんは、私は今、強烈に誰かを抱きしめたい。誰かに抱きしめられたい、と書く。最近、スペインの友人に10年ぶりに会った。力強いハグには、小池さんのいうように、生きているものの厚み、生命のぬくもりに直接触れる実感があった。

喪失。喪失に備えなどない。


2024-10-30 | 映画

2023年製作/144分/PG12/日本

実際の障がい者殺傷事件をモチーフにした、辺見庸の同名小説を映画化。

夫と2人で慎ましく暮らす元有名作家の堂島洋子は、森の奥深くにある重度障がい者施設で働きはじめる。そこで彼女は、作家志望の陽子や絵の好きな青年さとくんといった同僚たち、そして光の届かない部屋でベッドに横たわったまま動かない、きーちゃんと呼ばれる入所者と出会う。洋子は自分と生年月日が一緒のきーちゃんのことをどこか他人だと思えず親身に接するようになるが、その一方で他の職員による入所者へのひどい扱いや暴力を目の当たりにする。そんな理不尽な状況に憤るさとくんは、正義感や使命感を徐々に増幅させていき……。(映画ドットコムより)

辺見庸の著作は読んだことがない。この映画、なぜ今日観たのか、よくわからない。そして、いろいろ考えた。障害者は会話ができず、心がないのだから、人間ではなく無駄な存在であると考えるのと、障害を持って生まれる子供なら堕胎した方がいいと考えるのと同じ思想だとするさとくん。

心があるのか、ないのか。生産性のない者。たいていは、存在そのものに意味があるという。人間は不平等に生まれるが、人格においては平等だ、ともいう。

頭の片隅に、くすぶるものがある。


神よ憐れみたまえ

2024-10-30 | 

新潮社Book紹介:昭和三十八年、三井三池炭鉱の爆発と国鉄事故が同日に発生。「魔の土曜日」と言われたその夜、十二歳の黒沢百々子は何者かに両親を惨殺された。なに不自由のない家庭に生まれ育ち、母ゆずりの美貌で音楽家をめざしていた百々子だが、事件は重く立ちはだかり、暗く歪んだ悪夢が待ち構えていた……。著者畢生の書下ろし大河ミステリ。

小池真理子。久しぶりに読んだ。なぜ、ラストで、百々子が若年性アルツハイマーになる必要があるのか、疑問だった。

著者のインタビューを読み、そういうことだったのかと思った。2011年に自身の足の骨折。重度の認知症の母が閉塞性動脈硬化症で右足先の壊死を起こし、右足の膝下切断。自身の骨折の治療、リハビリ、2013年、再度の母の左足の壊死の始まり。温存療法を選択するも、その年の夏、母は亡くなる。2018年3月末。同業の夫、藤田宜永の肺に手術不能ながんが見つかる。放置すれば余命は半年、と告げられる。書き下ろしはもちろんのこと、ほとんどの仕事を中断する覚悟を決める。書くことなど到底、できそうにない精神状態。夫は治療の効果を得ることができて、いったんは好転の兆しをみせたが、小さなリンパ節に次々と転移が続き、2019年8月に肺への再発。・・・私は、夫の看護をしている時以外の、すべての時間を未完だった本作を書くために使った。何かに憑依されているような気がした。必死だった。死に物狂いだった。その時期を逃したら、永遠に書き上げることはできない、諦めるしかない、とわかっていたからだろう。加筆訂正やブラッシュアップが必要な箇所は膨大な数にのぼっていたが、それでも一応、一一〇〇枚の長大な作品を書き上げることができた。嬉しさよりも深い安堵だけがあった。パソコンからUSBメモリに落とした原稿をまとめて担当編集者に渡したのが、同年9月末。2020年、夫は帰らぬ人となった。コロナウイルスが蔓延し始めたのと、それはほぼ同時だった。(インタビューより)

序章。なんだか、映画「怒り」の殺害シーンを読んでいるような気がした。似ている。怒りと憎しみ。そして、この小説がミステリーであることを知った。ベテランの文章のせいか、運ばれるように570ページの長編があっという間に読めた。

最近は、小説の舞台に親近感を持つことが多い。ほんの1週間前に訪れた箱根。箱根湯本の駅。芦ノ湖。昨年訪れた函館。立待岬。五島軒のレストラン(小説では黒沢だけれど)。箱根のロープウェイetc。

ある女性の半生記というのだろうか。生まれながらの資質がもたらす、幸運と悲運。その資質は、自身にとどまらずに、周囲も巻き込んでいく、そのもたらす幸福と不幸。

神よ憐れみたまえ、という最終章。生き抜く、という言葉が目に刺さった。久しぶりにマタイ受難曲の「神よ憐れみたまえ」を聴いた。


女帝 小池百合子

2024-10-29 | 

文芸春秋のBook紹介:

【小池百合子氏の疑惑の経歴「カイロ大学首席卒業」。
カイロ留学時代の元同居人が、文庫化にあたって覚悟の実名証言!】

キャスターから国会議員へ転身、大臣、さらには都知事へと、権力の階段を駆け上ってきた小池百合子。しかしその半生には、数多くの謎が存在する。「芦屋令嬢」時代、父親との複雑な関係、カイロ留学時代の重大疑惑――彼女は一体、何者なのか? 徹底した取材に基づき、権力とメディアの恐るべき共犯関係を暴いた、衝撃のノンフィクション!

私は小池百合子という個人を恐ろしいとは思わない。だが、彼女に権力の階段を上らせた、日本社会の脆弱さを、陥穽を、心から恐ろしく思う。(「文庫版のためのあとがき」より)

目次
序章 平成の華

第一章 「芦屋令嬢」
第二章 カイロ大学への留学
第三章 虚飾の階段
第四章 政界のチアリーダー
第五章 大臣の椅子
第六章 復讐
第七章 イカロスの翼

終章 小池百合子という深淵

あとがき
文庫版のためのあとがき

一章を読みながら思ったこと。それは、好奇心。好奇心で読んでいる自分が、著者を批判することはできない。でも、小池さんの幼いころの気持ち、著者にわかるのだろうか。

四から七章にかけては、記憶にまだ新しく、政治の舞台裏を観ているようだった。

言ったことを言っていません、と平然と言い切る。すると言ったことをしない。それでも、平気で居座り続ける。その強さ、それは強いのか、鈍いのか。それでも、権力の階段を上り続けようとするしたたかさとしぶとさ。

能力とはなんだろう、と考える。


湖の女たち

2024-10-29 | 

琵琶湖近くの介護療養施設で、百歳の男が殺された。捜査で出会った男と女――謎が広がり深まる中、刑事と容疑者だった二人は、離れられなくなっていく。一方、事件を取材する記者は、死亡した男の過去に興味を抱き旧満州を訪ねるが……。昭和から令和へ、日本人が心の底に堆積させた「原罪」を炙りだす、慟哭の長編ミステリ。

すっきりしない読後感だが、ふたつの湖が登場する。どちらも非常に美しい湖。琵琶湖とハルビンにある平房湖。湖の美しさの描写がすばらしい。その冷たさや、湖面の光り具合や、鳥の姿。向こうにある山々。

広東軍731部隊のことは知らなかった。。。森村誠一の1980年代の著作『悪魔の飽食』。第二次世界大戦中の「日本の人体実験」(主に関東軍防疫給水部本部、通称731部隊によるもの)を告発する内容で、日本共産党中央機関紙「赤旗」で連載され、1981年11月に光文社から刊行されている。

いくつかのことが絡んで、ストーリーが展開するので、頭がうまく整理できなかったが、中野信子さんの書評を読んで、少しわかったような気がした。

中野さんの書評から。3つのことが挙げられている。

①2019年4月19日、東京・池袋で死傷者11名を出す自動車事故を起こした、当時87歳であった元通産省工業技術院長、飯塚幸三被告。彼は、3歳の女児とその母親の2名の死者を出した死傷事故の加害者であったにもかかわらず、逮捕されることはなかった。彼が「元院長」などの呼称が使われて、「容疑者」とする報道が少なかった。彼は「上級国民」だから免責されているのに違いないと、ネットを中心に、彼に対して怒りを発する言説が盛り上がっていった。

②2016年7月26日には、津久井やまゆり園で、入所者ら45人が殺傷された事件。植松聖死刑囚は、犯行を正当化しつづけ「生産性のない人間は生きる価値がない」という主張を繰り返した。あまりに勝手で卑劣な犯行であるとして、メディアはこぞって植松死刑囚を糾弾した。本作では、「上級国民」でありながら、もはや「生産性」を失った人物が殺害される、というところから事件が始まっていく。

③吉田修一は、被虐者(容疑者)と嗜虐者(刑事)の関係を執拗に描き込む。そして、嗜虐者を単なる生まれながらの嗜虐者としては描かず、被虐者のしぶとさと、絶望的なまでの変わらなさを描き、その被虐者の無意識の願いが、人間から攻撃性を引き出している、という仮説を立てた。

生まれながらの嗜虐者が存在するのかどうか、遺伝的にその系譜は定まり、生産性のない人間となればどんな相手でも殺すことを辞さないという性質は失われることがないのか、被虐者は無意識的に自ら望んで嗜虐者にそう振る舞わせているのではないのか、上級国民の存在を許しているのは誰なのか、吉田は、現代社会に構造的に蓄積されたひずみを暴き立て、驚くべき構成力で本作に反映させている、と述べている。

ラストの子供たちの列。三島由紀夫の「午後の曳航」の少年の行った処刑をふと思う。

この小説が、映画化されていることを読み終わって知った。