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アンナ・カヴァン『氷』改訳24

2006-12-04 11:55:27 | Weblog
                            第15章

 外に出ると,氷のように冷たい空気の流れが体を包んだ.夕闇が帳を下ろし,風のため,凍りついた雪は平らになっていた.私は近道を探さがさずに,海岸へ通じるすでに知っている小道を選んだ.以前は育っていた外国産の植物は,霜にやられて枯れていた.やしの葉がしなびて,枯れかかり,黒ずみ,閉じられた傘のようにしっかりと折りたたまれていた.私は気候の変化に慣れていたはずだったが,私はまた日常生活から逸れてしまい,非日常的な奇妙な地域へと移ったように感じた.このすべてが現実であり,それは現実に起こったことだった.しかし,まったく現実ではないような気がした.それはまったく奇妙なことが起こったことによって生じた異様な現実だった.

 雪は激しく降り始め,私の顔には極寒の風が吹きつけてきた.寒さのために皮膚は凍傷になり,息は凍りついた.雪が眼に入るのを防ぐために,私は重いヘルメットを被った.雪が縁にくっつき凍りつき,ヘルメットはさらに重くなったが,そのうちに,海岸が見えてきた.白い雪のカーテンを通して前方に家がぼんやりと現れた.しかし,その向こうに氷群が広がっているかどうかは分からなかった.風に逆らって,そこへ辿りつくのは困難だった.雪は厚く積もり,激しく降っていた.死滅しつつある世界の表面を,すべてを不毛にする白い雪が広がって,覆っていた.暴力とその犠牲者をもろとも巨大な墓の中に埋め尽くし,人類とその功績の最後の足跡を消した.

 突然,撹乱している白い風景を通して,少女が私から氷の方へ逃げ去るのが見えた.私は叫んだ.
 「待って!戻って!」
 しかし,極寒の空気に喉がやられ,声はかすれ,風にかき消された.雪の粉が霧のように私の周りに吹きつけてきた.私は彼女を追いかけた.彼女の姿はほとんど見えなかった.彼女が視界から消えてしまった.私は一旦休み,眼球にくっついている氷の結晶体を苦労して取り除いた.それからまた追いかけた.殺人的な強風のために,私は後ろに飛ばされた.雪は白い丘のように積もり,火山のようにそこから雪煙が立ち昇って,その先が見えなくなった.恐ろしいほどの死の冷たさの中で,よろめき,ふらつき,躓き,滑りながら,感覚のない手で彼女を掴んだ.

 遅すぎた.私にはチャンスがないのがすぐに分かった.辺りに聳え立つ蜃気楼のような極寒の輝き,超自然の,この世のものと思えぬ氷の建造物.巨大な胸壁や虹橋が空に満ちていた.私たちは丸い壁,幽霊のような処刑執行者によって閉じ込められた.それは,私たちを破滅させるために,ゆっくりと,しかし情け容赦なく,前進してきた.私は動くことが出来ず,考えることも出来なかった.処刑執行者の吐く息は脳を麻痺させ,愚鈍にした.これ以上ないほどの冷たい氷が私に触れ,雷鳴が轟き,まばゆいエメラルド色の光を放って氷壁は2つに分裂した.頭上高くでは,氷河がブーンと言う音を立てて振動し,今まさに崩壊せんとしていた.霜が彼女の肩の上で輝き,彼女の顔は蒼白で,長いまつげが彼女の頬を撫でた.私は彼女を抱きしめ,山のような氷の塊が落ちてくるのを彼女が見なくてすむように,彼女を私の胸にしっかりと押し付けた.

 厚手の防水布で出来た灰色のコートを着て,ビーチハウスを囲んでいるベランダに立って,誰かを待っていた.最初,彼女は,私がやってくるのを待っているのだ,と思った.それから,彼女の視線は別の道を見ているのに気づいた.私は立ち止まって,彼女を見つめた.彼女が待っているのが誰なのかを確かめたかった.ホテルマンは,私がここにいるのを知っているので,今やって来るとは思えなかった.彼女は今や孤独ではないように感じられた.彼女は辺りを見回し始め,私を見つけた.私は,彼女の顔のなかで眼を大きくまた黒く見せている,大きく見開いた瞳を見分けるほどには,近くにはいなかった.しかし,私は彼女の鋭い叫びを聞き,彼女が向きを変えたとき,髪が渦巻き,輝いたのを見た.コートについているフードを頭の上に引っ張り上げ,海岸の方へ走っていった.彼女がベランダから出て行ってしまうと,彼女を見えなくなった.彼女は雪の中に身を隠そうとしたのだった.突然,恐怖が彼女を襲った.魔術的な力をふるって,彼女から意志を奪い取り,彼女を幻覚と恐怖の中に投げ込む,氷のように冷たくブルーの眼をした男の姿が,彼女の頭をよぎったのだった.いつも彼女と共にあり,日常生活の背後に潜んでいる恐怖が彼によって呼び出されたのだった.彼にはもう一人の人が結びつられていた.彼らは同じ仲間だった.あるいは彼らは同じ人間だと言ってよかった.

 彼らは二人とも彼女を迫害した.彼女にはその理由が理解できなかった.しかし,彼女は,起こったすべとのことを受け入れてきたように,彼女はこの事実をも受け入れた.彼女には分かっていた.彼女は,未知の力かまたは人間の力によって,手荒く扱われ,犠牲者とされ,最後には破滅させられるのを知っていた.彼女の誕生以来,運命がいつも彼女を待ちかまえていた. 愛のみが彼女を運命から救い出すことが出来た.しかし,彼女は決して愛を求めなかった.彼女は耐えることを選んだ.そのことのみが彼女が知っていたことであり,受け入れることができることだったからであった.運命は彼女に忍従を強いた.彼女には分かっていた.彼女は誕生以前から既に打ちのめされていたのを.

 彼女が数歩も行かないうちに,私は彼女に追いつき,ベランダに連れ戻した.顔から雪を払い落としながら,彼女は叫んだ.
 「あなたなの?」
 驚いて私を見つめた.
 「誰だと思ったんです?」
 私は制服を着ていたのを思い出した.
 「とにかく,この服は私のではない.借りものです」
 彼女から不安が消え,ほっとした表情を浮かべた.彼女の態度は変わり,落ち着きを取り戻した.人々や環境が彼女にとって安全だと分かったとき,彼女は自信と独立心のある態度をとるのを知っていた.ホテルで若い男は彼女のためにそのような環境を作ったに違いなかった.
 「早く中に入りましょう.何故ここに立っているの?」
 彼女は普通に,私が戻ってくるのは予定されていて,予期されていたかのような口調で,言った.この状況に,変わったところは何もないというかのように.その言い方が私を悩ませた.結局,私はずうっとそれで悩んでいたのだった.彼女の言い方は,私がとるに足らぬ人物であるという口調だった.

 彼女はドアの方へ行き,私を社交的な態度で招き入れた.小さな部屋には何もなく寒かった.流行遅れの暖防具がかろうじて部屋から冷たさを取り除いていた.しかし,部屋はきれいに掃除されていて,片付けられていた.細部まで注意が行き届いているのが分かった.海岸から拾ってきた流木や貝殻から出来た飾りものが置いてあった.
 「居心地が悪いのではと,心配です.あなたの基準からすると,粗末な住まいです」
 彼女は私をからかうような言い方をした.私は何も言わなかった.彼女はコートを脱がなければ,フードをとって髪を自由にすらしなかった.髪は長くて,生きもののように輝き揺れていた.コートの下には,高価そうな灰色のスーツを着ていた.私はそれを彼女が着ているのを,今まで見たこともなかったが,それは,彼女を品よく見せていた.彼女はお金を持っているはずがなかった.彼女の魅力的な様子が,また,彼女の着ている高価なドレスが,また私を悩ませた.

 彼女はホステスのような口調で話した.
 「いろいろな旅行から戻ってきて,居場所があるなんて素敵でしょう」
 私は彼女を見つめた.私は彼女を見つけるためにはるばるやってきたのだった.多くの死者や,多くの危険や,多くの困難に出会いながら.今やついに,私は彼女のところにたどり着いたのだった.そして,彼女は私に,未知の他人のように話しかけた.それはひどすぎた.私は傷つき,後悔した.彼女の無作法な態度や,私の到着を無意味なものにする態度に憤慨して,私は威厳を保って言った.
 「何故あなたはこのような態度をとるのですか? 私は行きずりの訪問者として扱われるために,はるばるやって来たのではありません」

 「あなたは私に赤じゅうたんを敷いて迎えろとでも言うのですか?」
 彼女は苛立って,からかい気味の返事をした.私の中で怒りが爆発した.もはや,自分をコントロールできなかった.また,からかい気味に,気のない調子で,私が何をしていたのかをたずねたとき,私は冷ややかに答えた.
 「私はあなたのご存知の方と一緒にいました」
 そう言って,意味ありげな難しい顔をしてじぃっと彼女を見つめた.彼女は直ちに理解した.彼女からわざとらしさがなくなり,不安な表情が浮かんだ.
 「私が最初あなたを見た時...私は思った...彼かと...彼がここにやって来るなんて,なんて恐ろしい」
 「彼はすぐにでもここにやって来るでしょう.それを言いに,私は来ました.他に計画をお持ちならば,あなたに警告するために.彼はあなたを連れ戻すつもりです」
 彼女は私を中断した.
 「いいえ.決して!」
 彼女は激しく首を振ったので,髪がフードから,水しぶきのように輝いて流れ出たほどだった.私は言った.
 「それでは,あなたは直ちに立ち去らねばなりません.彼がやってくる前に」

 「ここを立ち去る?」
 それは残酷だった.彼女は困惑して辺りを見回した.彼女が飾りつけた家を見回した.海から持ってきた貝殻が飾られた小さな部屋は,彼女をほっとさせ,安心させる,地球上での唯一の場所だった.ここでは,彼女は自分自身を取り戻すことが出来たのだった.
 「しかし,何故? 彼は決して私を見つけることができない...」
 彼女のもの欲しそうな,哀願するような声も,私の心を動かさなかった.私は毅然として,冷ややかに言った.
 「何故,見つけられないんです? 私はあなたを見つけました」
 「そうです.しかし,あなたは知っていました....」
 彼女は私を疑惑の目で見つめた.私は信用されていなかった.
 「あなたは彼に教えなかったんでしょう.そうですよね?」
 「もちろんですとも.私はあなたが私と一緒に来て欲しいのです」

 突然,彼女は自信を回復し,以前の人を見くびるような態度に戻った.私を嘲笑的な視線で眺めた.
 「あなたと一緒に? だめです! 私たちはやり直すことはまったく出来ません」
 当てこするように言って,大きな眼で上目遣いをした.彼女はわざと侮辱したのだった.私は頭にきた.彼女の見くびった調子のおかげで,彼女のところにやって来るための命がけの努力が無駄になってしまった.彼女のために耐えてきたすべてのことが馬鹿馬鹿しくなってしまった.突然,激しい怒りがこみあげてきて,私は彼女を荒々しく掴み,激しく揺すぶった.
 「やめなさい.なにを言うのですか! これ以上耐えられない! こんなにひどく侮辱するのは止めてください.私はあなたのために地獄のような経験をしてやってきたんですよ.ひどい状況の中を数百マイルも旅をしたんですよ.想像もつかない危険の中を通り抜けてきたんですよ.私はほとんど殺されかかったこともあります.あなたにはほんの少しの評価の気持ちも見られない...感謝の一言も...あなたは私を普通に見られる...丁重にさえ扱わない...私はただ安っぽい冷笑を受けただけ...見事な感謝! 見事な振る舞い!」
 彼女は一言も口を利かないで,じっと私を見つめていた.彼女の眼は,ほとんど黒い瞳ばかりになった.怒りはまだ少しも収まらなかった.
 「今でさえ,あなたは謝ろうという礼儀さえ持っていない」

 まだ怒りが収まらず,私は彼女に悪態をつき続けた.彼女を,高慢ちきな,無礼な,横柄な,無作法な女だとののしった.
 「いつか,あなたは,親切にしてくれる人に感謝することのできる一人前の市民になるかもしれない.親切にしてくれる人を笑うような思い上がった無作法さを示す代わりにね」
 彼女は打ちのめされ,押し黙っていた.私の前で,頭を垂れて,黙って立っていた.自信の痕跡は跡形もなくなっていた.ついには,彼女は,大人の偏見によって傷つけられ,意気消沈した,怯えた,不幸な子供ようにになった.

 彼女の首根っこがぴくぴくしだした.何かが皮膚の下から逃げ出そうとしているかのように,激しく脈打ちだした.以前にも,彼女が怯えたとき,同じようなことが起こったのを知っていた.私は大声で言った.
 「なんて馬鹿なことを,あなたを悩ますようなことを言ったんだろう.私がいなくなるとすぐに,ボーイフレンドのところに移り住んだと思ったものだから」
彼女はすばやく私を見上げて,不安げに口ごもった.
 「それはどういう意味ですか」
 「あなたは理解できない振りしている.なんて腹立たしい」
 私の声は攻撃的になり,喋るほどに大きくなった.
 「もちろん,家のオーナーのことですよ.あなたが一緒に住んでいる仲間.私が来たとき,べランダで待っていた人です」
 自分の声が大きいのが分かった.大声が彼女を怖がらせた.彼女は震え始め,口はぴくぴくしだした.
 「私は彼を待ってはいませんでした」
 彼女は話を中断して,私がしていることを見た.
 「ドアの鍵を閉めないで...」
 私は既に鍵を閉めていた.私の中ですべてが,鉄のように硬くなった.氷になった.硬く冷たく,しかし燃えるような渇望になった.私は彼女の肩を掴み,私の方へ引き寄せた.彼女は抵抗し,叫び声を上げた.
 「私から離れて!」
 彼女は蹴り,もがき,鉢から飾りつけられていた形の良い貝殻を引き剥がして,投げつけた,床にあたって粉々になった.私たちの足がそれを踏みつけ,それは色とりどりの粉になった.私は彼女を押し倒して,血塗れた上着の中に押し込んだ.制服のベルトの鋭いバックルで彼女の腕が切れ,やわらかい白い肌の上を血が流れ落ちていたのだった.私の口の中で,血の鉄分の味がした.

 彼女は黙って横になったまま動かなかった.私を避けるために,顔を壁の方に向けていた.多分,私は彼女の顔を見えなかったために,彼女が私の知らない人のような気がした.私は彼女に何の感情も抱かなかった.彼女に対するすべての感情が消え去っていた.これ以上耐えられない,と彼女に言った.それは本当だった.私は続けることが出来なかった.それはあまりにも屈辱的であり,あまりにも苦痛だった.私は彼女とのこれまでの関係を終わらせたかった.しかし,今までそうすることは出来ないでいた.今こそがその瞬間だった.この私が行っている惨めなこと全体を終わらせるために,今や,立ち上がって,去っていくべき時であった.私はあまりにも長い間同じことを繰り返していた.いつも苦痛で報われなかった.私が立ち上がった時にも,彼女は動かなかった.私たちのどちらも一言も口をきかなかった.私たちは偶然に同じ部屋にいる,見知らぬ他人同士のようだった.私は考えていなかった.私が欲しているすべてのことは,車に乗って,ここでのすべての事を忘れてしまえるほど,はるか遠くまで,ドライブを続けることだけだった.私は彼女を見ることなく,声をかけることもなく,部屋を去って,極寒の外に出た.
(第15章続く)