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アンナ・カヴァン『氷』改訳18

2006-11-20 11:02:22 | Weblog
                         第11章

 陽気で破壊を受けていない町.光で眩く,色彩豊かで,自由で,危険がなく,暖かい陽差しに満ちた町.人々の顔は幸福で輝いていた.逃亡は成功し,満足感で一杯だった.過去は忘れられた.長く,困難な,危険に満ちた航海と,それに先立つ悪夢は,記憶から消えた.それが続いている間は,悪夢だけが現実であるような気がしていて,それ以外の世界は失われて,それこそが幻想か夢であるかのような気がしていた.世界は,いまや回復されて,ここに,確かな現実として存在した.劇場があり,映画館があった.レストランがあり,ホテルがあった.あらゆる商品が揃った店があり,自由に買えた.クーポンは必要なかった.その対照は驚異的だった.この変化に圧倒された.ギャップは大きすぎた.一種の興奮状態が生じ,気狂いみたいに陽気になった.人々は通りで歌ったり踊ったりして,見知らぬ人たちがお互いに抱き合っていた.町全体が,祭典が来たかのように飾られた.いたるところに花があり,東洋のちょうちんや豆電球が木につるされた.建物には煌煌と明かりがつき,公園や庭には,色とりどりの明かりがきれいに飾られていた.ダンス音楽のリズムが途絶えることなく鳴っていた.毎夜,花火大会が催され,夜通し,星型の花火やロケット花火が夜空に打ち上げられ,暗い港を照らしながら海に落ちていった.お祭り気分が続いた.お祭り,花合戦,球技,ボートレース,コンサート,行進などが連日催された.誰も他の国で起こったことを忘れたがった.外部からやって来る噂は,法律と秩序を維持する責任ある人以外には,領事の命令によって秘密にされた. 現状維持が最重要課題だった.破局の話をすることは,新しい規則では罪になった.規則は人々に知らせないという選択をしたのだった.

 後になって私がどのようにして過去を忘れたがっていたかを振り返ってみると,盲目的な幸福状態が強制的に作り出されていたのが分かった.私は大多数の人々が喜んだ催しに参加しなかった.私は陽気にはなれなかった.私はダンスをしたり,花火を見学したりして時を過ごしたいとは思わなかった.まもなく,遊んでいる一団やきらびやかなドレスを身にまとっている人たちを見るのが嫌になった.少女は陽気なことはなんでも愛した.彼女は変わってしまった.彼女の生活は奇跡といってよいほど全く新しくなった.彼女からは,弱々しさや頼りのなさが消え去り,彼女は店に走っていって,衣服や化粧品を買いまくり,美容院へ行ったりした.彼女は全く別人になった.もはや内気ではなくなり,私の知らない多くの人たちと友達になり,彼らが彼女の周りに集まってくるので自信をもち,一人で色々なことをし,朗らかになった.私は彼女のかつての面影をほとんど見ることはなかった.彼女は私の処へ,ただお金をせびりにだけやって来たが,私はいつも彼女の要求に応じた.私はそれが不満だった.それが終わることを願っていた.

 私は世界の他の場所で起きていることに無関心でいることはできなかった.私はこの星の運命に巻き込まれていた.私は起こっているどんな事件にも積極的に関心を持ち,積極的に行動した.ここでの終わりのない祝祭にはうんざりし,何か不吉な予感さえした.それは,ペスト流行の始まりを思い出させた.その当時と同様,今では,人々は自分自身を欺いていた.わがままで身勝手な考えによって,安全だと思いこんでいたのだった.彼らが実際に災厄からの逃亡に成功するとは信じられなかった.

 私は気候を注意深く観察した.晴れて,暖かい日が続いたが,暖かさは十分ではなかった.特に,日没後の気候の変化に注目すると,日没後には寒さが増した.それは悪い徴候だった.そのことを話すと,寒い季節に向かっているからだと聞かされた.同様に,日差しはもっと強くなければならないはずだった.辺りを観察して見ると,他にも気候の異常な変化の兆しを見つけた.熱帯庭園の植物が病気になり始めたので,そこで働いている人に理由を尋ねた.彼は疑惑の眼差しで私を眺め,いい加減な答えを呟いた.なおもしつこく質問すると,上司に聞くために呼びにいく振りをして,逃げて行った.私は,変わったもので身を包んで歩いている町の人たちに,私が観察した夕方の冷え込みについて話した.彼らはこの穏和な寒さに対しても慣れてはいずに,適当な衣服を持ち合わせていなかったのだった.彼らは返答に困り,驚いて私を見た.彼らは私を新体制における囮と考えたらしかった.

 私の知識は,政府によって公式に採用されて,飛行機の給油は取りやめることになった.私は政府の代表に会って,他に何か変わったことが起こっていないかと質問した.彼は話そうとはしなかった.私には理由が分かったので,無理強いはしなかった.彼は私の身元を確認できなかったからであった.誤りは避けねばならなかった.絶対的な信頼が必要だった.軽率な発言は避けなければならなかった.いったん誤解が生じれば訂正は不可能だった.ともかく不承不承ではあるが,彼は彼が群島のいずれかの島にいく時には,私を同乗させると約束してくれた.私は地図を見てみると,インドリが住んでいる島はここから遠くはなかった.私は元の職業に戻ろうと思っていたけれども,軍事活動の現場に行く前に,キツネザルのいる島へ小旅行を企てようと決心した.

 私は少女に計画を知らせに行った.早朝,通りの交差点で,行進が通り過ぎていくのを待っていた.彼女は行進の先頭にいた.彼女は先頭を走るニオイスミレで飾られた大きなオープンカーの運転手の傍に立っていたのだった.彼女は私の方を見なかった.見る理由もなかった.彼女の髪は陽射しで青白い炎のように輝いていた.彼女は微笑み,スミレを群集にばら撒いていた.彼女が私と一緒に旅をした少女であるとは信じられなかった.私が彼女の部屋に入って行ったとき,彼女はまだスミレで飾られたドレスを着ていた.繊細な色彩のドレスは彼女の壊れそうな青白い姿に似合っていた.彼女は非常に魅力的な姿をしていた.銀とスミレに飾られた彼女の髪は輝きを放っていて,色合いに調和が取れていて,ほっそりした幻想的な雰囲気が特に魅力的だった.

 後で開けるようにと言って,彼女に,欲しがっていたブレスレットの入った小さな包みをプレゼントした.
 「私はあなたによい知らせを持ってきました.私はさようならを言いに来ました」
 彼女はまごついて,それがどういう意味かを尋ねた.
 「私は今晩出発するつもりです.飛行機で.嬉しくありませんか?」
 彼女はただ黙って見つめていたので,私は続けた.
 「あなたはいつも私がいなくなればよいと言っていたでしょう.私はとうとう行ってしまうので,あなたは嬉しいに違いない」
 一瞬の間のあとで,彼女の声は冷ややかで,腹を立てていた.
 「あなたは私になんて言って欲しいの?」
 私は彼女の言い草に困惑した.彼女は私を冷ややかに眺め続け,突然,痛烈に言った.
 「あなたは自分がどんな人間だと思っているの?」
 皮肉な調子だった.
 「なぜ私があなたを信用しないか,分かったでしょう.あなたはいつも私を裏切るのが分かっていたから.今度もまた...行ってちょうだい.私を残して.前にもそうしたように」
 私は抗議した.
 「それはまったくフェアじゃない.私が行くからといって非難するのは間違っている.あなたがそう言ったのだ.あなたが私と一緒にいようとしないのははっきりしている.ここに来てから,私はほとんどあなたに会っていない」
 「あー!」
 嫌悪の叫び声を上げて,彼女は私に背を剥けて,数歩離れた.

 スカート全体が渦を描き,月光がスミレの花を照らしたように,絹がちらちら光り,嵩のある髪が揺れ,スミレの花に光が当たったようにきらめいた.私は追いかけていき,指先で髪に触れると,命がさざなみをうっていた.彼女の腕は柔らかく,つややかで,光沢があった.肌は滑らかで,かすかな香がした.ほっそりした手首にはスミレが輪を作っていた.私は背後から彼女を抱き,首筋にキスをした.否や,彼女の全身は硬直して,激しく抵抗し,彼女は体を捻って逃げた.
 「私に障らないで! どんな神経しているの...」
 彼女の声は泣きだしそうになりながら泣かずに,かすかな声で言った.
 「あなたは一体何を望んでいるの? なぜ行かないの? 今度は戻ってこないで.二度とあなたに会いたくない.思い出すのもいや!」
 彼女は私が贈った時計と指輪をはずして,私の方へ投げつけた.ネックレスを外そうとして手を首の後に回そうとして腕を上げた姿は,現実には存在し得ないようななまめかしさがあった.彼女を再び抱きしめたいという欲望を努力して抑え,哀願した.
 「怒らないで.このような別れ方をしたくない.いつも私はあなたにどんな感情を持っていたのか分かって欲しい.どんなに苦労して,私はいつもあなたの後を追いかけていたか.また,どんなに苦労して,あなたを強制的に連れてきたのか,あなたは知っている.しかし,あなたはいつも私を憎いと言っていた.私と一緒にいたくないと言っていた.結局,私はそれを信じるほかなくなった」
私は半ばしか真実に言わなかったが,それは分かっていた.私は遠慮がちに彼女の手を取った.手は硬く無反応だったが,引っ込めようとはしなかった.彼女は私にされるがままになりながら,私をじっと見つめた.疑惑や非難や責めの表情が彼女の眼にあった....真剣な,無垢な,陰りのある眼をしていた.きらめく髪とスミレの香が私の手のすぐ近くにあった.威厳のある声で,彼女は言った.
 「もし私がそのようなことを言わなかったら,あなたは私と一緒に留まってくれましたか?」

 この時,残りの真実を話さなければならないと私は思った.しかし,私には何が真実であるのか分からなかった.ただ確かなことは次の言葉だけのように思われた.
 「分からない」

 彼女は怒りを爆発させて,私から手を引き離した.もう一方の手でネックレスを引きちぎると,ビーズが床に飛び散った.
 「あなたはどうしてそんなに薄情になれるのですか? そしてそんなに厚かましく! 誰もあなたほど恥ずべき人はいない....だけど,あなたは...あなたは感情を持っているふりさえさえしない...恐ろしすぎる,憎たらしい...人間とは思えない!」
 私は謝った.彼女を傷つけたくはなかった.私は彼女の憤怒が,理解できなかった.私は何も言うことができないように思われた.しかし,私の沈黙がさらに彼女を怒らせた.
 「向うへ行って! 出て行って! 行って!」
 彼女は突然私に襲いかかり,予期しない力で私を押した.私は後ろによろめいて,肘をドアにぶつけ,痛みが走った.いらだって,私は尋ねた.
 「なぜそんなに私に部屋から出て行って欲しいのです? 誰か他の人が来るんですか? あなたが乗っていたオープンカーの持主が?」
 「なにを言うの.あなたなんか嫌い.軽蔑するわ! 何を知っているの!」
 彼女は私をまた押した.
 「出ていって,なぜ出て行かないの? 行って,行って,行って!」
 彼女は大きく息を吸い込み,私を突いた.私の胸をこぶしで連打した.彼女はあまりに力を入れすぎたので,疲れてしまい,直ぐにあきらめて,壁にもたれかかり,頭を垂れた.彼女の陰になった顔には,傷つけられた感情が現れたが,直ぐに輝く髪が垂れ下がり,顔を隠した.一時の静寂が訪れた.しかし,それは,冷ややかな感情が私に戻ってくるのには十分すぎる長さだった.彼女のいない人生の虚しさ,失望...

 不愉快な感情を追い払うためには,行動しなければならなかった.私はドアのノブに手をかけて,言った.
 「分かりました.今,出て行きます」
 この瞬間でも,半ば引き止められることを期待していた.彼女は動かなかったし,口もきかなかった.何の兆候もなかった.ただ,私がドアを開けた時,かすかな音が彼女の喉からもれた.すするような,むせるような,咳き込むような音が聞こえたが,そのいずれかは分からなかった.私は通りへ出た.ドアを閉めて足早に去って,私の部屋に戻った.

 まだ時間は少し残されていた.スコッチの瓶をとってきて,座って飲んだ.私は自分自身が2つに分裂したかのように不安な気持ちになった.鞄はすでに荷造りされ,階下に運んであった.数分後には,行かなければならないだろう....私が計画を変更しない限りは.結局ここに留まることになるだろう....私はさようならを言っていないのを思い出した.戻るべきかどうか決心がつかなかった.いかなければならない時間がきてもなお,決心がつかなかった.

 飛行場へ行くためには彼女の家の前を通らなければならなかった.私は彼女の家の前で数分間躊躇した.それから彼飛行場へ急いだ.もちろん,私は出発した.狂人のみが,出発するこのほとんど奇跡的なチャンスを無駄にすることが出来ただろう.私にはそれ以外の選択肢はなかった.
(第11章終り)