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アンナ・カヴァン『氷』改訳17

2006-11-18 11:52:11 | Weblog
                      第10章(承前)

 待つことは困難だったけれども,私は数日間待った.時は過ぎた.大規模な災厄が到来するので,時間を無駄にすることは出来なかった.政府は事態を隠そうとしていたにもかかわらず,情報はリークされていた.扇動的な活動が突然,町に広まった.窓から外を見ると,若い男が家から家へと,恐怖のメッセージを手渡しながら,走っていた.瞬く間に,ほんの数分の間に,通りは,鞄や荷物の束を持った人々で一杯になった.人びとは恐怖の表情を浮かべて,ばらばらに,大急ぎで,出発した.ある人はある道を通って,またある人は別の道を通って,出発した.彼らはどこへ行くかという具体的なプランを持っている訳ではなそうだった.ただ,急いで町から出なければという思いだけだった.私は政府が何も手を打たないのに驚いた.効果的な避難計画を作成することができなかったのに違いなかった.そのために,事態を成り行きに任せることにしたのだった.無秩序な集団移動を観察していると,不安になった.今まさにパニックが起こらんばかりだった.避難の準備をしないで,軽食堂に座っているなんて,狂気の沙汰だと人々は思っているに違いなかった.彼らの恐怖は伝染した.破局が切迫しているという雰囲気が私を不安にした.私は望みのある内容のメッセージを得ていたのを感謝した.船が間もなく氷の向うの港の外に停泊するだろうということだった.これが立ち寄る最の船だった.一時間だけ,停泊するということだった.

 私は少女のところへ行き,これが最後のチャンスだということを,だから彼女は行かなければならないことを話した.彼女は拒否した.立ち上がることを拒否した.
 「私はあなたと一緒にはどこへも行かない.あなたなんか信じない.私はここに留まるわ.私の自由よ」
 「何のための自由? 飢えるための?凍えて,死ぬための?」
 私は彼女の体を椅子から持ち上げて離し,脚で立たせた.
 「私は行きたくない.強制しないで」
 彼女は後ずさりして,眼を見開き,壁を背にして立った.彼女を助けてくれる誰か,あるいは何かを待っているかのように立っていた.私は忍耐力を失い,彼女を強引に建物から連れ出し,腕を掴んで,歩き続けた.私は彼女を引っ張るようにして連れて行かねばならなかった.

 通りの反対側が見えないほど雪が激しく降っていた.荒涼とした,真っ白な,死のような,北極の光景だった.極寒の風がおびただしい雪を巻き上げ,羽のように,私たちの傍を通っていった.歩くのが困難になり,吹雪のため,雪が容赦なく顔にぶつかった.あらゆる方向から雪はぶつかってきて,私たちの周りで,狂ったように螺旋の輪を描いた..全てのものが靄で包まれ,ぼんやりとして,あいまいだった.人の姿は見られなかった.突然6人の警察が,吹雪の中から馬に乗って現れたが,ひづめの音もくつわの音も聞こえなかった.
 「助けて!」
 彼らを見て,少女は叫んだ.彼女は彼らが助けて,自由にしてくるだろうと思って,懇願するように,自由な方の手を振った.私は彼女をしっかりと掴み,ぴったりと体を寄せていた.警察たちは笑いながら通りすぎるとき,私たちに向かって口笛を吹き,ふきつける白い風の中に消えていった.彼女は泣き出した.

 ベルが鳴っているのが聞こえた.その音はゆっくりと近づいてきた.年老いた司祭が曲がり角をのろのろ歩いていた.黒い僧侶の帽子を被り,体を二つに折り曲げて,風に向かって歩いていた.集団を引き連れていた.ベルは校庭から子供たちを呼び寄せるためのものと同じだった.彼は歩きながら,それを弱々しく鳴らし続けていた.腕が疲れると,しばらくベルの音は止んだが,震え声で叫んだ.
 「壊滅!」
 彼の後ろから何人かの人が続いて叫び,葬送歌のように繰り返した.ドアのところへ来ると,通り過ぎる前に,1,2分たたずみ,ドアをどんどん叩いた.いくつかの家から,何人かの人々が集団に加わるために,這い出してきた.私は彼らがどこへ行こうとしているのか不思議に思った.彼らが遠くへ行けるとは思えなかった.彼らは皆年老いており,弱々しくよぼよぼだった.若くて体力のある者たちは,彼らを残してはるか先の方に行ってしまっていた.彼ら行列を作ってよろめきながら,弱々しくよたよた歩いて進んだ.彼らの動作はばらばらで,彼らの皺の被い顔は吹雪のため赤らんでいた.

 今では,少女は深い雪の中でよろめいていた.私も息ができないほどだったけれど,彼女を半ば運ぶようにして連れていかなければならなかった.雪の冷たさのために,ほとんど息ができなかくて,息をするためには立ち止まらなければならなかった.吐く息は凍りつき,襟のところで氷柱となった.鼻の粘膜が凍りつき,鼻は氷で詰まった.口いっぱいに極寒の空気を吸うたびに,咳き込み,喘いだ.港に着くには数時間かかると思われた.ボートを見え出すと,彼女は再び弱々しくもがき始め,叫んだ.
 「私は行かない...」
 私は彼女をボートに押し込み,彼女に続いて乗り込んだ.オールを掴み,ぐいと押して,全力を振り絞ってこぎ始めた.

 背後から人々の悲鳴が聞こえたが,私は無視した.彼女のことだけを考えていた.水路はかなり狭かった.両側は凍りついており,氷の壁を作っていた.異常な大声やものが壊れる音や銃音や雷鳴のような音が,分厚い氷に覆われた港から聞こえてきた.顔はひりひりし,手は真っ青になり,寒さのために凍傷になっていたが,船に向かってこぎ続けた.ブリザードで舞い上がる雪の中を通って,舞い上がる飛沫の中を通って,音の反響する氷の中を通って,金切り声やぶつかって壊れる音や血の流れるところを通って,ひたすら船に向かって進んだ.私たちの近くで小さなボートが沈んだ.半狂乱になってもがく手足が水を打つたびに,水面が大きく波打った.溺れる指で,船の側面を引っ掻いたが,私は彼らを追い払った.恋人同士が浮かんでいた.凍える腕でしっかりと抱き合い,浮き沈みしながら水の中を必死に泳いで通り過ぎて行った.突然ボートが激しく傾いた.私はよろめき,連発銃がはずれた.何が起こったのかは分かっていた.私の背後で,人が船の側面を登ってきたのだった.私は撃った.彼は水の中に沈んでいき,水面が赤く染まった.船の側面が私たちの頭上に絶壁のようにぼんやりと姿を現した.

 非常な努力をして,なんとか,私は少女を木の階段に押し上げた.彼女の後から私は階段を昇っていき,彼女をデッキに押し上げた.私たちは乗船することが許された.他には誰も許可されなかった.船は直ちに出港した.成功した.

 私たちは船から船へと移って旅をした.彼女は厳しい寒さに耐えられなかった.彼女は震え続けていて,ベネチアンガラスのように粉々になるかと思われた.バラバラになるのが想像された.彼女は一層やせ細り,一層青白く,一層透き通るようになり,さながら幽霊のようだった.私は興味深く彼女を見つめた.彼女は必要な時以外には全く動かなくなった.彼女の手足はあまりに脆いので,使いものにならないように思われた.季節は移り変わるのを止めた.永遠の冬がやってきた.氷の絶壁が輪郭の不確かな姿を現し,雷鳴が鳴り響いた.それは,時の静止した,輝く,この世のものとも思えない,氷の悪夢だった.日中の陽光は氷山で反射されて,身の毛のよだつような輝きを放っていた.蜃気楼を見ているかのようだった.片腕で,彼女を暖め,支えた.もう一方の手は処刑者の手だった.

 寒さがほんの少し和らいだ.私たちは岸に上がって,別の船を待った.その国は戦争中で,町は甚大な被害を受けていた.使える施設はなかった.ホテルが一つだけ再建されていて,まだ一階だけが使用できるようになっているだけで,部屋は満室だった.私は,宿泊するために,頼み込むことも,賄賂を使うこともできなかった.旅行者は嫌われており,望みはなかったが,そういった状況では仕方のないことだった.町のはずれに作られた外人用の一種のセンターに滞在することができると教えられたので,破滅した郊外を通り抜けて,車で,そこへ向かった.景色からは,木々や庭などのの跡はまったく消えてしまっていて,全てが平らになっていた.立っているものは何もなかった.その向うはかつては戦場だったが,今では荒野になっていて,残骸に覆われていた.

 かつては農場だった場所に,私たちは連れて行かれた.見渡すところが名状し難いほどごちゃごちゃしていた.運搬車やトラクターや乗用車や機械の壊れた破片があたりに放置されていて,古タイヤやわけの分からない器具や粉々に壊れた武器や戦争のための使用品の残骸が散らばっていた.私たちを連れてきた人は用心深く歩き,爆発していない地雷に気をつけるようにと言った.建物の内部も,あらゆる残骸の破片で散らかっていて,原型を想像することが不可能なくらい潰されていた.彼らは私たちをある部屋に連れて行ったが,そこは,床が地面であり,家具は何もなく,壁には穴が空いていて,屋根には板が張られているだけだった.人が3人いて,地面に座り,壁にもたれていた.彼らは黙ったまま,動かず,ほとんど生気がなかった.彼らに話しかけても気にすらしなかった.後になって,彼らは耳が聞こえないのを知った.彼らの鼓膜は破れていたのだった.この国ではいたるところにそのような人々がいた.命を奪うほどの烈風によって,彼らの顔は歪み,唇は裂けていた.重病人が薄い毛布を被って横になっていたが,髪の毛の大きな房が抜け落ち,手と顔の皮膚が剥がれていた.咳き込む度に,櫛の歯が抜けたように歯の抜けた口をがたがた言わせて,どす黒い血の塊を吐き出した.彼は咳き込み,うめき,血反吐を吐き続けた.衰弱した猫たちが出たり入ったりして,うろつき,小さなピンクの舌で血を舐めた.

 私たちは船が来るまでここに泊まらねばならなかった.私は何か集中できるものを探した.外にも内にも何もなかった.野原も,家も,道路にも,何もなかった.ただ巨大な石と残骸と死んだ動物の骨があるばかりだった.あらゆる形をした,あらゆる大きさの石が,あらゆるところに転がり,地面は2,3フィートの下に埋まっていた.石が丘の上を被い,大きな山のようになっているところもあった.私は何とか馬を一頭手に入れて,島の奥10マイルほどの所へ行ってみた.しかし,恐ろしく何もない景色が広がっているばかりだった.あらゆる方向に,石のような残骸が,広い範囲に広がっていた.生命や水が存在する徴候は見られなかった.国全体が生命のない灰色の石で出来ているかのようだった.丘はすべて石で埋まっていた.自然の外形さえもが,戦争によって破壊されていたのだった.

 少女は旅行で疲れ果ててしまい,消耗しきっていた.彼女は旅行を続けることを欲しなかった.彼女は休ませて欲しいといい続けていて,私に,彼女を残して,ひとりで旅を続けてくれるようにと頼み続けた.
 「これ以上私を引っ張りまわさないでちょうだい!」
 彼女の声は怒りに震えていた.
 「あなたは私を苦しめるためにだけ旅をしているのよ」
 私は,あなたを救おうとしているのだと返事した.彼女の眼には怒りが顕になった.
 「あなたがそういうから.私は馬鹿だから,初めはそれを信じたわ」
 私は彼女を喜ばせるために,あらゆる手を尽くしたにもかかわらず,彼女は私を裏切り者とみなすことをやめなかった.これまで,私は彼女を慰めたり,理解しようとしたことはなかった.今では,彼女の長い間持ち続けた敵意のために,私はかなり疲労していた.私は彼女に続いて小さな船室に入って行った.彼女は努力したが,彼女の占める余地はなかった.小船は揺れ,彼女は寝台から落ちた.彼女は肩を床に打ちつけ,柔らかい皮膚は裂けた.彼女は叫んだ.
 「けだもの! あなたはけだものよ! あなたを憎むわ!」
 私を打とうとして,もがいた.私は彼女を下に押さえつけて,硬くて冷たいところに押しとどめた.彼女は叫んだ.
 「殺してやる!」
 すすり泣き,ヒステリックにもがき始めた.私は彼女の頬を平手でぴしゃりと叩いた.

 彼女は私を恐れていたが,彼女の敵意は変わらなかった.彼女の白い,強情な,怯えた,子供のような顔をみると,私はいらついた.気候は,少しずつ暖かくなっていたけれども,彼女はまだ寒がっていた.彼女は私のコートを着るのを拒んだ.そのため,私はいつも彼女が震えているのを見る羽目になった.

 彼女は衰弱していった.肉が溶けて,骨が現れるのではないかと思われるほどだった.髪は輝きを失い,髪さえも彼女には重たくなりすぎ,彼女は頭を垂れるようになった.彼女は俯いて,私を見ようとはしなかった.元気なく,隅っこに隠れて,私を避けていた.船の中をよろめくようにうろつき,躓いた.彼女の弱い脚では,バランスが取れないのだった.私はもはや欲望を感じなかった.彼女に話しかけるのを諦めた.総督の沈黙を真似た.話しかけないことが,どれほど悪意に満ちたことであるのかは,分かっていたが,それしか私の選択がないように思われた.私はそこからいくらかの満足を引き出していた.

 私たちの旅は終わろうとしていた.
(第10章終り)