とりあえず本の紹介

私が読んだ本で興味のあるものを紹介する.

アンナ・カヴァン『氷』改訳23

2006-11-30 12:47:50 | Weblog
                        第14章(承前)

 町外れの関門所で車を止められた.爆弾が付近に落ちていた.事態は混乱していて,護衛兵が尋問する余裕はなかった.私はでたらめを言って,車を走らせた.彼らが私の答えに満足していないで,疑っているのは分かっていた.しかし,彼らは忙しすぎて,私に関わっていられないだろうと思った.私は間違っていた.2,3マイル走行すると,サーチライトが私の車を照らし出し,背後から強力なオートバイのうなる音が聞こえた.ライダーの一人が,私に止まるようにに命じながら追い抜いていった.ちょうど私の前にきて,激しくブレーキをかけ,道路の真ん中で,またがったまま止まり,銃を私に向けた.銃弾が飛び出してきて,あられのように道路で弾んだ.私はスピードを上げ,真正面に突っ込んだ.背後を見やると,暗い影がオートバイのハンドルを越えてもんどりうち,もう一台が横転し,その後ろの二台が横滑りして,破損し,折り重なるのが見えた.射撃が少しの間続いたが,誰も追いかけてこなかった.負傷しなかった護衛兵は,暴動を一掃するためにそこに留まり,私に車を走らせる時間を与えてくれるのを期待した.雨は止み,戦いの音は治まった.私はリラックスし始めた.しばらくすると,私の車のヘッドライトが,急いで道路から離れていく制服姿の男を捉えた.パトロールカーがそこに止まっていた.誰かが前もって電話したのに違いなかった.私は,何故,これらの人々が追いかけるほど私が重要人物とみなされているのか,不思議だった.重要人物が車に乗って逃走しているという情報を,彼らは得ているのだろうと,推測した.彼らは発砲し始めたので,私はアクセルを踏んで加速した.総督が車が障害物をティッシュペーパーのように破壊して,国境を突破したという物語をぼんやりと思い出していた.さらに多くの射撃が後ろからなされたが当たらなかった.まもなく射撃は止み,静かになった.道路を走っているのは私の車だけになり,もはや追ってくる兆しはなかった.私がそれから30分後に国境を越えたとき,私がまったく安全になったのを知った.

 追跡をかわすことができて,私はさわやかな気持ちになった.独力で私に対して行われた軍隊組織の攻撃を打ち破ったのだった. 私はスリリングで興奮を掻き立てるゲームに勝ったかのように興奮した.興奮が静まると,私は正常な状態に戻ったが,私はもはや今までの私ではなかった.もはや助けを必要とする絶望的に弱い旅行者ではなくなり,強くて独力でことをなすことのできる,能力のある人間に変わった.私は,機械が持っているような力を所有し,制御することが出来るようになったのだった.私は車を止めて,調べた.いくつかの凹みと擦り傷があったが,それらを除いて,車はどこも不具合なところはなかった.ガソリンはタンクに4分の3ほど残っていた.トランクにはガソリンの缶が数多く詰められていて,私が目的地に着いてもあまるほどだった.私は食物の入った大きな袋を見つけた.ビスケット,チーズ,卵,チョコレート,りんご,それにラム酒のビンが1本入っていた.私は食物やガソリンを得るために悩む必要はなくなった.

 突然,私は旅の最後の周回にいることがわかった.成就不能と思われた困難にも拘らず,私の目的はほとんどゴールに近づいていた.私は成功を喜び,そのようなことを成し遂げることができた自分自身に喜んだ.私は殺されるとは思わなかった.私が別様に行動していたならば,私はここに辿りつくことはできなかったであろう.とにかく,死が迫っていることがかすかではあるが予期され,まもなく,すべての生き物は死滅するだろうと思われた.世界全体が死へと向かっていた.すでに,氷は数百万の人を埋め尽くしていた.生き残っている者も気の狂ったように戦争や破壊活動を行っていた.しかし,私たちはいつも分かっていたのだ.眼に見えぬ敵が進行しつつあり,私たちがどこへ逃げようとも,氷はそこへやって来て,最後には征服者になるということを.私たちに残された唯一のことは,瞬間瞬間に,できるだけ多くの満足を人生から引き出すということだけだった.私はこの強力な車で夜中を疾走して,浮かれた気分になっていた.また,私は自分の運転テクニックを楽しんでいた.興奮と危機感を同時に感じていた.私は疲れたときに,車を道端に寄せて1時間かそこら眠った.

 寒さで夜明けに眼が覚めた.夜中,凍りついた星々が,地球めがけて凍りついた光線で集中砲撃していた.それは地表を貫き,薄い地表の下に貯蔵された.亜熱帯地域でも,大地が霜で覆われ白くなり,足元が凍りつくようになり,例年では考えられない異常現象が生じているという印象を人々は受けた.私は朝食を手早く食べ,ギアを入れてエンジンを動かし,水平線の方へと,海の方へと,急いだ.道路が良かったので,時速90マイルのスピードで運転して,荒廃している地域を,たまに,家や村が残っていたが,疾走した.私は誰にも会わなかったが,瓦礫の中から私を見ている眼を感じていた.人々は軍の車を見ると,音を立てないようにして姿を隠していたのだった.彼らは,隠れている方が安全なのを経験から学んでいたのだった.

 徐々に寒くなり,空は暗くなっていった.背後の山々の向こうの方では,不吉な黒々とした雲の塊が,海の上に集まっていた.私はそれらの雲を見て,その意味が理解できた.黒々とした雲の集まりの下では,厳寒の死が広がっているのだった.それは一つのことだけを意味していた.氷河はすぐそこまで来ているということを意味していた.まもなく,私たちの世界に代わって,氷の,雪の,死の,静寂の世界がやってくるだろう.もはや暴力はなく,戦争もなく,犠牲もなく,凍てつく沈黙以外には何もない,生命の欠如した世界.人類の究極の到達点が,自己破壊ではなく,生命全体の破壊だった.生命の世界から死滅した惑星へと変わるのだった.

 雲ひとつなく,燃えるような青い空の中に,薄暗く巨大な災厄の前触れの雲が,無表情に,ただ不吉に,人を怯えさせるように集まっていた.それはちょうど破局の前触れとしての巨大な崩壊が,途方もない頭上から垂れ下がっているようであった.氷の結晶体がフロントガラスの上で花のような形を取り始めた.私は,自然の不思議さに,迫り来る破局の冷ややかさに,頭上につるされている崩壊の前兆に,これまで起こったことの破壊行為に,これまで私たちが犯してきた罪の重さに,圧倒され,憂鬱になった.恐るべき犯罪が,自然に対して,宇宙に対して,生命に対して,行われてきたのだった.生命を殺戮することによって,太古からの秩序を破壊し,世界を破壊し,今やあらゆるものが,崩壊の中に墜落せんとしているのであった.

 かもめが,近くを飛び,鳴いていた.私は海に辿りついたのだった.塩の匂いをかき,水平線まで広がる暗い波を見渡し,氷壁がないのを確かめた.しかし,空気は死のような氷の冷たさに満ちていて,氷壁はそれほど遠くではないことを感じさせた.何もない荒涼とした地域を50マイルほど疾走して,町へと向かった.そこでも,雲が低く垂れ込め,いっそう暗くなり,いっそう不吉さをまして,私が来るのを待っていた.寒さのために私は震えた.おそらく,それはすでにそこに来ていた.人々がかつて夜中踊っていた町に入っていった時,これが同じ陽気な町だったとは,ほとんど信じられなかった.町はまったく荒廃していて静かだった.車も,花も,音楽も,明かりもなかった.港には難破船が停泊していた.建物が破壊されて,店やホテルは閉められていた.明かりは暗くて寒々としていて,気候はこれまでとは全く異なっていた.もはや別世界だった.いたるところに,新氷河時代の切迫した脅威が感じられた.

 私は視界に入るものを眺めた.すると,少女が見えた.彼女の姿はいつも私と一緒だった.それは財布の中にもあったし,私の想像の中にもあった.今や,彼女の姿は私の視界のいたるところに現れた.彼女の青白い,血の気の失せた顔が,2つの大きな瞳と,邪悪な雲の下での松明の火のように,色素を失って青白く輝く髪が,いたるところに現れ,磁石のように私の眼を引きつけた.彼女は崩壊のただ中で,輝いていた.彼女の髪は,暗い日中で光っていた.いじめられ怯えた子供のような彼女の大きな眼は,破壊された窓の黒い穴から私を非難するように見つめていた.誤解された子供のように,彼女は走り去って,大きな眼で私に懇願した.私は彼女の苦しむ姿を眺める楽しみを味わった.それは,私の願望の最悪のイメージだった.彼女の顔が幽霊のようにかすかに光り,私を影の中へと誘った.彼女の髪は光る雲であった.しかし,私が彼女に近づくにしたがって,彼女は向きを変え,逃げた.肩の上の銀色をした髪が突然月光で煌く滝にように映った.

 道路上にバリケードの残骸が積まれていたので,以前泊まっていたホテルの入り口へ車で行くことはできなかった.私は車を降りて,歩いて行かなければならなかった.残酷なほど冷たくて強い風のために,氷の破片が私の方へとまっすぐに吹き飛んできて,私は息をするのも困難なほどだった.濃い灰色をした海を一瞥して,氷がまだやって来ていないのを確かめた.ホテルの一階の外観は変わっていなかったが,上の階の方では壁のあちこちに大きな裂け目や穴があいていて,天井は陥没していた.私は中に入った.冷たくて暗く,暖かさも明かりもなかく,そこはカフェーであったのか,破損した椅子やテーブルが,並べられていた.金箔で飾られた破損物が瓦礫の真ん中に残っていたけれども,私はそこがどこか見分けることができなかった.

 調子の乱れた足音と杖のこつこつという音が聞こえ,見覚えのある誰かが近づいてきた.若い男は漠然とした親しみの表情を浮かべていたが,最初,暗がりの中では,誰か分からなかった.私たちが握手しているとき,突然記憶が蘇えった.
「もちろん,あなたはオーナーの息子さんですね」
彼の足が不自由になっていたので,私はいやな気持ちになった.彼はうなずいた.
「私の両親は死にました.爆撃にやられたんです.公には,私もまた,死んだことになっています」
私は何が起こったのか尋ねた.彼はしかめ面をして,足をさすった.
「それは避難中に起こりました.そして,すべての負傷者は後に残されました.私は殺されたと報告されたと聞いたとき,否定しようとは思いませんでした...」
彼は話を中断して,神経質な目つきで私を見た.
「一体全体,なんのためにあなたは戻ってきたんですか.あなたはここに宿泊することはできません.お分かりのように.私たちは直接的な危険地域にいます.すべての人が避難するように言われています.ただ私たちのような古くからの居住者が少数残っているだけです」

 私は彼を見つめた.彼が何故私に神経質になっているのか理解できなかった.私がかつてここで会ったことのある人々はほとんど随分前に出て行った,彼はと言った.
 「戦争が起こる前に,彼らのほとんどは出て行きました」
 私は少女に会うためにやってきたのだと言った.
 「しかし,私は少女が出て行ったことに気づくべきでした」
 私は彼が総督について何か話してくれるのを期待した.しかし,彼はそうしないで,彼は話し始める前に,臆病な,躊躇するような態度を示した.
 「実際,彼女は出て行かなかった非常に数少ない人々の一人です」
 私はそれを聞いて,数秒の間感情が乱された.動揺を隠して,また私の安心が間違っていないことを確かめたくて,彼女について問い合わせがあったかどうか訊いた.
 「いいえ」
 彼は無表情に答えたが,それは本当のことを言っているように思われた.
 「彼女はまだここにいますか?」
 「いいえ」
 再び同じ答えが返ってきた.彼は続けた.
 「われわれはここをレストランとして使用しています.しかし,建物全体は安全ではありません.ここを修理できる人はここには残っていません.とにかく,それに,何の利益があるのです?」
 私は,氷の接近が,そのようなすべての活動を無効にしていることに同意した.しかし,私はただ少女にのみ関心を抱いていた.
 「彼女は今どこにいるのですか?」
 彼は躊躇しているような様子だった.そしてその様子が長引くほど,躊躇していることが明らかになっていった.彼は質問に明らかに困惑していた.しかしとうとう彼が答えが,そのとき直ぐに,私は困惑の意味が分かった.
 「まったく近くにいます.海岸の家に」
 私は彼を見つめた.
 「そうですか」
 今やすべてが明らかになった.私はその家を思い出した.それは彼の家だった.彼はそこに両親と住んでいたのだった.彼は不愉快そうに話を続けた.
 「彼女にとって,その方が都合が良かったのです.彼女はここで仕事をしていているのです」
 「本当に?どんな仕事をです?」
 私は不思議に思った.
 「レストランの補助ですよ」
 それは漠然とした言い逃れの答えだった.
 「ここで客の給仕をしていると言うのですか?」
 「そうです.時々ダンスもします...」
 話題を避けるように,彼は言った.
 「彼女が他の人たちと同じように安全な場所へ避難しなかったのは,まことに残念なことでした.それはまだ可能なのですが.彼女には彼女を連れて行ってくれる友達がいました」
 私は返事した.
 「明らかに,彼女には友達がいました.でも彼女はここに残る方を選んだのです」
 私は彼をじっと見つめた.しかし,彼の背中がかすかな明かりを隠していたために,彼の顔は陰に隠れ,彼の表情を読み取ることができなかった.

 突然,私はいらだった.私はすでに多くの時間を彼と過ごしすぎた.彼女こそが私が話しかけなければならない唯一の人だった.ドアの方へ向かいながら,私は尋ねた.
 「私はどこで彼女に会うことが出来ますか?」
 「彼女は彼女の部屋にいると思います.ここでの仕事は後ほどですから」
 彼は足を引きずり,杖をつきながら私の後をついてきた.
 「庭を横切って行く近道を教えましょう」
 私は彼が時間を稼ごうとしているように思えた.
 「大いに感謝します.でも,私は自分で道を見つけられると思います」
 私はドアを開けて外へ出た.彼が何かを言う間もなく,私たちの間のドアを閉めた.
(第14章終り)
 いよいよ残すところ,あと1章です.後2回の掲載で,改訳は終了です.12月4(月),5(火)の予定.