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アンナ・カヴァン『氷』改訳25

2006-12-05 12:44:23 | Weblog
                        第15章(承前)

 外は真っ暗だった.ベランダで一休みして,眼が暗闇に慣れるのを待った.雪が降っているのが,次第に,見えるようになった.雪は燐光のようにチラチラと微光を放っていた.風のうつろなうめき声が,静寂の中で,断続的に,破裂するように,起こった.雪片が気が狂ったように,あらゆる方向に舞っていた.夜は空虚な混沌に満たされていた.私は心の中に,それと同じ熱に浮かされたような混沌を感じていた.私の中で何かが,闇雲にあちこちへ突き進んでいた.狂ったように舞う雪片は,私の人生全体を象徴していた.彼女のイメージは過去のものとなり,銀色の流れるような髪は,混乱の中へと消え去った.錯乱したダンスの中では,どちらが暴力者でどちらが犠牲者か,区別するのが不可能だった.とにかく,死のダンスの下では,区別することは無意味だった.すべてのダンサーは無の淵にまで来ていたのだから.

 処刑が近づきつつあるのだという思いが次第に強くなってきた.遠くには何ものかが存在しているという想像に私はよく捕らえられていた.しかし,今では,それが突然,私のところまで広がってきて,私のすぐそばまでやって来て,もはや想像ではなくて,現実のものとなり,それはまさに起こらんとしていた.私は衝撃を受け,みぞおちの辺りが本当に痛くなった.過去は消え去り,無と化した.未来も,すべてが絶滅した無と化し,もはや考えることが不可能になった.存在するものは,たゆまなく縮み続ける,今と呼ばれる,時の断片だけだった.

 頭上では,月が冷たく光る暗青色の空が真夜中に広がっているのを,足下では,虹を作り出している氷壁が大海を移動し,地球上のあらゆるところへ広がっているのを思っていた.青白い崖がぼんやりと現れ,死のように冷たい光を放射していて,幽霊のような復讐者が,人類を絶滅させようとやって来ていた.氷が私たちの所まで来ていることが分かっていた.私自身には不吉な動く壁が見えていた.一瞬ごとに,氷は近づいてきていた.すべての生命が絶滅するまで,氷が前進し続けるだろうことは,分かっていた.

 私は部屋に残してきた少女のことを思った.子供っぽい,大人になりきっていない,ガラスのように壊れやすい少女.彼女は何も見ていなかったし,何も理解していなかった.彼女はただ自分が運命から逃れようのないということを知っていた.彼女の運命がどのようなもので,それに対してどのように立ち向かえばよいのかを知らなかった.誰も彼女に独力で生きていくことを教えなかった.ホテルのオーナーの息子は,特に信頼できるとも,安心できるも思えなかった.むしろ,彼女を支えるのは無理であり,能力がないように思われた.危機がやって来たときに,彼が彼女を守ることが出来るとは信じられなかった.私は,破壊し尽くす氷山の真ん中で,彼女が誰にも見守られずに,怯えて立ちすくんでいる姿を想像した.崩壊する轟音と雷鳴に混じって,彼女のか弱い哀しげな叫びが聞こえるのが想像出来た.私は自分がなすべきことを知ってながら,彼女をひとりで,助けのないところに,残しておくことは出来なかった.彼女があまりにも多くの苦しみを受けることになるだろうことは確実だった.

 私は戻って,部屋に入った.彼女は動いたようには見えなかったが,私が部屋に入ったとき,彼女は辺りを見回し,私に気づいて,体をねじって逃れようとした.彼女は泣き叫び,私に見られないように,顔を隠した.私はベッドに近より,彼女に触れないで,そこに立った.彼女は悲しみと寒さで震えていた.彼女の肌は,貝のように,かすかに藤色をしていた.彼女を傷つけることはあまりに容易だった.私は静かに言った.
 「あなたに尋ねなければなりません.どれほど多くの人とあなたは寝たかは,気にしない.それはどうでもいいことです.私はあなたが何故私を先ほどひどく侮辱したのかを知りたいのです.何故,あなたは,私が到着してからずっと,私を侮辱しようとしていたのですか?」
 彼女は顔を上げようとしなかった.答えるつもりがないのだ,と思った.しかし,そのとき,彼女は切れ切れにことばを吐き出した.
 「私は,私...自身の...戻って...来て...欲しい...」
私は異議を唱えた.
 「しかし,何のために? 私はちょうどここにいました.私はあなたに何もしませんでした」

 「私は知っていました...」
 涙声で,訴えるように話すのを聞くために,私は彼女の上に屈まなければならなかった.
 「あなたに会うといつも,あなたは私を苦しめる...私をけったり,...私を奴隷のように扱ったり,...一度ならず,一時間も二時間も,次の日も...あなたは確かに...いつもする...」
 私は驚き,ほとんど衝撃を受けた.それらの言葉は,自分でも認めたくない私の願望を示していた.私は急いで話題を変えた.
 「あなたはベランダで誰を待っていたのです? ホテルの仲間でないとすれば」
 またもや予期しない返事が返ってきて,私を困惑させた.
 「あなたを...車の音が聞こえた...思った...分からなかった...」
 私は仰天し,信じられなかった.
 「しかし,それは本当ではあり得ない.あなたがそのように言った後では.その上,あなたは,私がやって来ることを知らなかったのだから.私はそれを信じることは出来ない」

 彼女は体を荒々しくねじって起き上がった.青白い髪の塊が背後へと揺れ動いた.彼女の顔は,索漠とした犠牲者の顔だった.泣き崩れた顔.傷ついた黒い眼.
 「本当です.あなたが信じようと,信じまいと! 何故だか分からない...あなたはいつも私を怖がらせる...私は待っているのを,私だけが知っている...あなたは戻ってこないのではないかと思った.あなたは何の伝言もくれなかった...しかし,私はいつもあなたを待っていた...ここに留まって.他の人たちが去って行った後でも.あなたが私を見つけることが出来るように...」
彼女は一人の絶望しきった子供だった.すすり泣きながら真実を告白した.しかし,まだ彼女の言ったことは信じられなかったので,私は言った.
 「それは不可能です.それは本当ではあり得ない」
 顔は痙攣し,涙で咽び,声は喘いだ.
 「まだ十分じゃないの?まだいじめるのを止めることが出来ないの?」

 突然,私は恥ずかしくなり,呟いた.
 「ごめんなさい...」
 私は今までに言ったことと行なったことを取り消したかった.彼女は再び,顔をベッドに伏せて倒れ込んだ.私は立ったまま,彼女を見つめた.何を言っていいのか分からなかった.何を言っても,彼女を慰めることは出来ないと思われた.やっと,私はただ次のように言うことができるだけだった.
 「私はこのような質問をするためにだけ,戻ってきたのではないのです.分かっているでしょう」
 反応はまったくなかった.彼女は私の言葉を聞いていたのかどうかさえ分からなかった.私は,彼女が啜り泣くのを止めるまで,待った.彼女の首がぴくぴくと引きつるのが分かった.そして,それが早くなりだした.私は手を差し出し,そっと,指先をそこに当てた.それから,手の平で触れた.白いサテンのような肌だった.髪は月光のように輝いていた.

 ゆっくりと,彼女は頭を私の方に向けた.一言もことばを発しなかった.彼女の口が,輝く髪の中から現れ,それから,濡れた明るい眼が,現れた,長いまつげの間で煌いていた.今や,彼女は泣き止んでいた.しかし,時折,身を震わせ,声を出さずに嗚咽し,息が出来なくなってむせいだ.まだ心の中では,泣きじゃくっているようだった.彼女は何も言わなかった.私は待った.時が過ぎて行った.私はもはや待てなくなって,そっと尋ねた.
 「私と一緒に来ませんか? あなたをこれ以上いじめないと約束します」
 彼女は答えなかった.しばらくして,やむを得ず付け加えた.
 「それとも,私に出て行って欲しいですか?」
 急に,彼女は姿勢を正して座り,取り乱したような動作をした.しかし,まだ何も話さなかった.私は再び待った.手を差し出してみた.長い沈黙の時間が過ぎた.その間,手は差し出したままだった.とうとう,彼女は私に手をとらせた.私はそれにキスした.髪にキスして,彼女をベッドから抱き上げた.

 彼女が準備をしている間,私は窓際で,雪の降る外を眺めていた.彼女に,私が見た災厄,海を渡って近づいてくる氷壁について話すべきかどうか迷った.さらに,私たちを,すべての生きものを,最後には死滅に追いやることを,話すべきかどうか迷った.私の思いは混乱し,決心できなかった.私は結論を引き延ばすことにした

 彼女は準備が出来たと言って,ドアの方へ向かった.そこで立ち止まり,振り返って,部屋を眺めた.彼女は心が傷ついた表情を浮かべていた.極端に傷つき,言葉にならない恐怖を浮かべていた.この小さな部屋はくつろげて,安心できる彼女の唯一の場所だった.彼女にとって,部屋の外にあるすべてのものは恐ろしく,不可解な存在だった.巨大な異邦の夜,雪,破壊する厳寒,脅かす未知の未来がそこにはあった.彼女の眼は,私の方を見て,私の顔を探した.憂鬱で,疑わしげな,非難するような表情をしていた.同時に,訴えるような,質したいような表情を浮かべていた.私は,彼女を悩ますもう一つ別な存在だった.彼女が私を絶対的に信頼する理由はなにもなかった.私は微笑み,手を取った.彼女の唇はかすかに動いた.別の環境でならば,それは,微笑みになったかもしれないような動きだった.

 私たちは一緒に外に出て,大量の雪の中を,真っ白に渦巻く雪の中を,逃げ出す幽霊のように漂った.明かりはなく,雪のかすかな燐光のような輝きの中で,道を見つけるのは難しかった.背後から吹きつける風でさえも,歩くのを重労働にした.車までは予想外に遠かった.彼女の腕を掴んで,歩くのを助けた.彼女がよろめくと,腕を体に回し,しっかりと支えた.厚手の防水コートを着ていても,彼女の体は氷のように冷えていた.彼女の手は,私の分厚い手袋を通してでも,凍っているのが分かるほどだった.手をこすって暖めた.しばらくの間,彼女は私にもたれかかって休んだ.彼女の顔は,暗闇の中で月長石のように輝いていた.まつげの先端が雪で白かった.彼女は再び歩き始めた.私は,彼女を元気づけ,励まし,腕で腰を支え,車までの道を歩んだ.

 車の中に入った時,真っ先にヒーターをつけた.内部は一分も立たないうちに暖かくなったが,彼女は体を硬くして,私のそばに黙って座り,緊張していた.彼女が横から疑惑の目で私を見ているのに気づいて,私はまだ非難されているのを感じた.私が今まで彼女に対して行ったことを考えると,彼女が疑っているのはまったくもっともだった.今では彼女に親切にすることに,私が喜びを見出してることを,彼女が知るはずがなかった.お腹がすいていないかと尋ねた.彼女はうなずいた.私はチョコレートを食物袋から取り出し,差し出した.長い間,民衆にはチョコレートは手に入らなかった.彼女がある銘柄のチョコレートが好きだったのを思い出した.彼女は疑わしそうにそれを見つめて,断ろうとするように見えた.それから突然リラックスして,それを手に取り,おずおずとありがとうといって,かすかに微笑を浮かべた.彼女に親切にするのに,何故こんなにも長い間かかったのか不思議だった.もうほとんど遅すぎた.私は最終的な運命についても,氷壁がすぐそこまで近づいてきていることも,何も語らなかった.その代わりに,私たちが赤道に到着する前に,氷は接近してくるのをやめるだろうと話した.私たちは,そこで安全な場所を見つけることが出来るだろうと話した.私はわずかの可能性もあるとはは思わなかったが,彼女が私の言ったことを信じたかどうかも分からなかった.終末がどのようにして来ようとも,私たちは一緒にいるべきだった.私は少なくとも,それを早めることが出来たし,彼女にとってそれが楽しいものにすることが出来たのだった.

 厳寒の夜中,大きな車でドライブしていて,私は幸福だった.私は,これとは違った世界を切望していて,それを失うことになったけれども,後悔はしていなかった.私の世界は,今では雪と氷の中で終わろうとしていた.残されるものは何もなかった.人間の生活は終わりを告げ,宇宙飛行士は氷の重さによって大地に埋められ,科学者たちは別の災厄によってこの世界からいなくなった.生きているのは私たち二人だけになったので,大吹雪の中を車を走らせながら,浮かれていた.

 外の景色が次第に見え難くなっていった.窓にできる氷花が拭いされる度に,次にできる氷花はより透明なもになっていき,最後には完全に透明になり,降り続ける雪しか見えなくなってしまった.無限の雪片が蝶の幽霊のように,いずこから来て,いずこへ立ち去るのでもなく,舞い続けていた.

 世界は既に死滅しているように思われた.しかし,それは問題ではなかった.車の中が私たちの世界だった.狭いけれども,明るく,暖かい部屋だった.私たちの家は,広大無辺で,無関心な,凍りついた宇宙の只中にあった.私たちの身体によって生み出された暖かさを失わないように,私たちは互いにしっかりと身を寄せあった.彼女はもはや緊張もせず疑ってもいなく,私の方に身をもたれかけさせていた.

 氷と死の恐ろしいほどの冷たい世界が,私たちの生の世界に取って代わった.外部では,氷河時代の荒涼とした寒さの凍てつく空間が,広がっていた.生命は無機物の結晶体に還元されてしまった.しかし,この明るい私たちの部屋では,私たちは安全だったし,暖かかった.私は彼女の顔を見つめ,微笑んだが,触れなかった.恐怖はなかった.悲しみも,ここには,今は,なかった.彼女は微笑み,私にしっかりと体を押しつけてきた.私たちは自分たちの家にいた.

 私は全速力で車を駆った.逃れるかのように,あるいは逃れることができる振りをするかのように.氷から,あるいは,時間は残り少なくなり私たちを閉じ込めようとしていることから,逃亡することが,不可能なのは,分かっていた.私は一瞬一瞬を最大限生きようとした.数マイルと数分が過ぎ去った.ポケットの中の拳銃の重さが私を安心させた.
(『氷』完)