アンナ・カヴァン『氷』の改訳を終了して
(1)翻訳の経緯
アンナ・カヴァン『氷』につては,今年2月ごろ,古本で,原書を手に入れて,一読.私の好きな作品だが,現実と幻想が錯綜して,よく分からない.それが,翻訳してみようと思うようになった,動機です.どうせ翻訳するなら,ブログで掲載しようと思い,ブログ開催となった.5月末のゴールデン・ウィーク明けごろから翻訳を始めた.そして,翻訳していていて,よく分からないところ,変だな,と思ったところがあったが,とりあえず,前に進むのが重要と,翻訳を進めた.8月末に,一応,翻訳を終了し,9月は休んで,10月から気にかかったところを読み直し,改訳をはじめて,12月5日に終了した.変だなと思ったところは,大体,私の読み間違いだった.あと,日本語として,直訳過ぎるところを直した.改訳に際して,全文を逐一検討したわけではないので,間違っているところ,思い違いしているところは,まだあるとは思う.しかし,一応,『氷』については,これで終了としたい.ともあれ,ブログという形式がなければ,ここまでがんばれなかったと思う.思えば,今年1年の私の自由時間は,『氷』の翻訳で終始したように思う.少数ではあるが,興味を持っていただいた方に感謝したい.『氷』の翻訳は近々出版されるらしいので,そちらを期待しましょう(もちろん,私の翻訳ではありません).
(2)『氷』を読んでの感想
この小説は,アンナ・カヴァンがヘロイン中毒で死に,死の間際に書いた遺作であるということを抜きにしては,語れない作品だと思う.それだけの特異性を考慮しなければ,存在しえない,作品であろう.しかしながら,ヘロイン中毒になったから,これだけ孤独な作品がかけたのか,孤独だったからこそ,ヘロイン中毒になったのかと言えば,おそらく後者であろう.つまり,彼女にとって,ヘロイン中毒になったのは,偶然ではなく,必然だったのである.だからこそ,ヘロイン中毒を抜きにしては語れない作品なのである.
結局,彼女はどうしようもなく,孤独だったのだ思う.そのため彼女は自殺するように,ヘロイン中毒になり,その中で,現実とも幻想ともつかぬ情景が彼女には見え(現れ),それを書き綴ったのが,『氷』とう小説だったのだったのだと思う.だから,これはある意味で,彼女の現実そのものだということが出来るだろう.
さて,ではそれは,これを読んだ人にとっての意味はなにか.それは各自異なるのであって,一般的に語ることは無意味である.そこで,私にとっての『氷』について,簡単に語りたい.
では,『氷』は私に対して,どのような現実を告知したのか.精神的な意味では,おそらく<氷>はすぐそこまでやって来ている,あるいはもうやって来てしまっているのかも知れない.ほとんど毎日と言っていいほど,繰り返される殺人事件.それも異常な殺人事件.親が子供を虐待し,子供がたいした理由もなく,親を殺す.そして,いじめ.いじめに対しても,学校側も県の教育関係者も,文部科学省のお役人も,責任回避に終始する世の中.ある意味で,それは<氷>の世界ではあるだろう.現代の日本社会は,ある意味で,すでに家庭や学校のクラスというコミュニティが崩壊しているのであるかもしれない.あるいは,近い将来,決定的な狂気が人類を襲う前触れであるのかも,知れない.人類は,あるいは先進国文明は,すでに狂気への第一歩を,それも後戻りできぬ第一歩を,既に踏み出しているのかも知れない.あるいは<氷>は精神的な意味だけでなく,物理的にもそうであるのかも知れない.たとえば,世界の破滅を描いた映画「The Day after Tommorow]は,ペンタゴンから流出されたレポートに基づいて制作されたという.そのレポートによると,破滅は決定的である.問題はいつかということである,と言われる.これが本当なら,比喩でもなんでもなく,<氷>はそこまでやって来ているのである.
しかし,そのことよりも,私に考えさせられたのは,現実とは,本当は<夢でしかあり得ない>のではないか,という疑問である.現実が時として夢に思えるのではない.そのような経験なら,誰しも思い描いたことがあろう.だが,私が言いたいのは,そうではない.そうではなく,<私たちが生きているこの世界は,本当は夢でしかないのに,なぜ現実だと思ってしまうのだろう?>という逆説的なことである.私は,『氷』を読んでいて強くそのことを感じさせられ,また,そのことを強く感じながら,この小説を翻訳していた.この世界は夢でしかないのだ.しかしながら,それを現実として生きるほかない.この現実から逃れるすべはない.この現実こそ,夢を現実にしてしまう力こそ,『氷』の正体だ,そう,アンナ・カヴァンは言いたかったのではないだろうか.だから,<氷>がやってくるのではない.この現実こそ<氷>の只中にある,<氷>に取り囲まれた世界なのだ,そうアンナ・カヴァンは感じていたのだろう.そして,その光景をヘロイン中毒の中で,彼女は見ていた,その見ていたままを『氷』で描いたのだ,と私には思えるのだ.
ともあれ,私のアンナ・カヴァンの『氷』は,これで終わりたい.
私の翻訳に興味を持ってくださった,少数のかたがた,本当にありがとうございました.
来年は,SFを控えて,もう1つの趣味である哲学の方に,努力を移したい.素人の哲学論文が学会誌に掲載されるのは,不可能に近いけれど,来年はそれに挑戦して,運良く掲載されることがあれば,ブログにも掲載するつもりです.
では,良いお年をお迎えください.
野作正也
(1)翻訳の経緯
アンナ・カヴァン『氷』につては,今年2月ごろ,古本で,原書を手に入れて,一読.私の好きな作品だが,現実と幻想が錯綜して,よく分からない.それが,翻訳してみようと思うようになった,動機です.どうせ翻訳するなら,ブログで掲載しようと思い,ブログ開催となった.5月末のゴールデン・ウィーク明けごろから翻訳を始めた.そして,翻訳していていて,よく分からないところ,変だな,と思ったところがあったが,とりあえず,前に進むのが重要と,翻訳を進めた.8月末に,一応,翻訳を終了し,9月は休んで,10月から気にかかったところを読み直し,改訳をはじめて,12月5日に終了した.変だなと思ったところは,大体,私の読み間違いだった.あと,日本語として,直訳過ぎるところを直した.改訳に際して,全文を逐一検討したわけではないので,間違っているところ,思い違いしているところは,まだあるとは思う.しかし,一応,『氷』については,これで終了としたい.ともあれ,ブログという形式がなければ,ここまでがんばれなかったと思う.思えば,今年1年の私の自由時間は,『氷』の翻訳で終始したように思う.少数ではあるが,興味を持っていただいた方に感謝したい.『氷』の翻訳は近々出版されるらしいので,そちらを期待しましょう(もちろん,私の翻訳ではありません).
(2)『氷』を読んでの感想
この小説は,アンナ・カヴァンがヘロイン中毒で死に,死の間際に書いた遺作であるということを抜きにしては,語れない作品だと思う.それだけの特異性を考慮しなければ,存在しえない,作品であろう.しかしながら,ヘロイン中毒になったから,これだけ孤独な作品がかけたのか,孤独だったからこそ,ヘロイン中毒になったのかと言えば,おそらく後者であろう.つまり,彼女にとって,ヘロイン中毒になったのは,偶然ではなく,必然だったのである.だからこそ,ヘロイン中毒を抜きにしては語れない作品なのである.
結局,彼女はどうしようもなく,孤独だったのだ思う.そのため彼女は自殺するように,ヘロイン中毒になり,その中で,現実とも幻想ともつかぬ情景が彼女には見え(現れ),それを書き綴ったのが,『氷』とう小説だったのだったのだと思う.だから,これはある意味で,彼女の現実そのものだということが出来るだろう.
さて,ではそれは,これを読んだ人にとっての意味はなにか.それは各自異なるのであって,一般的に語ることは無意味である.そこで,私にとっての『氷』について,簡単に語りたい.
では,『氷』は私に対して,どのような現実を告知したのか.精神的な意味では,おそらく<氷>はすぐそこまでやって来ている,あるいはもうやって来てしまっているのかも知れない.ほとんど毎日と言っていいほど,繰り返される殺人事件.それも異常な殺人事件.親が子供を虐待し,子供がたいした理由もなく,親を殺す.そして,いじめ.いじめに対しても,学校側も県の教育関係者も,文部科学省のお役人も,責任回避に終始する世の中.ある意味で,それは<氷>の世界ではあるだろう.現代の日本社会は,ある意味で,すでに家庭や学校のクラスというコミュニティが崩壊しているのであるかもしれない.あるいは,近い将来,決定的な狂気が人類を襲う前触れであるのかも,知れない.人類は,あるいは先進国文明は,すでに狂気への第一歩を,それも後戻りできぬ第一歩を,既に踏み出しているのかも知れない.あるいは<氷>は精神的な意味だけでなく,物理的にもそうであるのかも知れない.たとえば,世界の破滅を描いた映画「The Day after Tommorow]は,ペンタゴンから流出されたレポートに基づいて制作されたという.そのレポートによると,破滅は決定的である.問題はいつかということである,と言われる.これが本当なら,比喩でもなんでもなく,<氷>はそこまでやって来ているのである.
しかし,そのことよりも,私に考えさせられたのは,現実とは,本当は<夢でしかあり得ない>のではないか,という疑問である.現実が時として夢に思えるのではない.そのような経験なら,誰しも思い描いたことがあろう.だが,私が言いたいのは,そうではない.そうではなく,<私たちが生きているこの世界は,本当は夢でしかないのに,なぜ現実だと思ってしまうのだろう?>という逆説的なことである.私は,『氷』を読んでいて強くそのことを感じさせられ,また,そのことを強く感じながら,この小説を翻訳していた.この世界は夢でしかないのだ.しかしながら,それを現実として生きるほかない.この現実から逃れるすべはない.この現実こそ,夢を現実にしてしまう力こそ,『氷』の正体だ,そう,アンナ・カヴァンは言いたかったのではないだろうか.だから,<氷>がやってくるのではない.この現実こそ<氷>の只中にある,<氷>に取り囲まれた世界なのだ,そうアンナ・カヴァンは感じていたのだろう.そして,その光景をヘロイン中毒の中で,彼女は見ていた,その見ていたままを『氷』で描いたのだ,と私には思えるのだ.
ともあれ,私のアンナ・カヴァンの『氷』は,これで終わりたい.
私の翻訳に興味を持ってくださった,少数のかたがた,本当にありがとうございました.
来年は,SFを控えて,もう1つの趣味である哲学の方に,努力を移したい.素人の哲学論文が学会誌に掲載されるのは,不可能に近いけれど,来年はそれに挑戦して,運良く掲載されることがあれば,ブログにも掲載するつもりです.
では,良いお年をお迎えください.
野作正也