とりあえず本の紹介

私が読んだ本で興味のあるものを紹介する.

アンナ・カヴァン『氷』改訳を終了して

2006-12-11 12:12:29 | Weblog
                アンナ・カヴァン『氷』の改訳を終了して


(1)翻訳の経緯
 アンナ・カヴァン『氷』につては,今年2月ごろ,古本で,原書を手に入れて,一読.私の好きな作品だが,現実と幻想が錯綜して,よく分からない.それが,翻訳してみようと思うようになった,動機です.どうせ翻訳するなら,ブログで掲載しようと思い,ブログ開催となった.5月末のゴールデン・ウィーク明けごろから翻訳を始めた.そして,翻訳していていて,よく分からないところ,変だな,と思ったところがあったが,とりあえず,前に進むのが重要と,翻訳を進めた.8月末に,一応,翻訳を終了し,9月は休んで,10月から気にかかったところを読み直し,改訳をはじめて,12月5日に終了した.変だなと思ったところは,大体,私の読み間違いだった.あと,日本語として,直訳過ぎるところを直した.改訳に際して,全文を逐一検討したわけではないので,間違っているところ,思い違いしているところは,まだあるとは思う.しかし,一応,『氷』については,これで終了としたい.ともあれ,ブログという形式がなければ,ここまでがんばれなかったと思う.思えば,今年1年の私の自由時間は,『氷』の翻訳で終始したように思う.少数ではあるが,興味を持っていただいた方に感謝したい.『氷』の翻訳は近々出版されるらしいので,そちらを期待しましょう(もちろん,私の翻訳ではありません).

(2)『氷』を読んでの感想
 この小説は,アンナ・カヴァンがヘロイン中毒で死に,死の間際に書いた遺作であるということを抜きにしては,語れない作品だと思う.それだけの特異性を考慮しなければ,存在しえない,作品であろう.しかしながら,ヘロイン中毒になったから,これだけ孤独な作品がかけたのか,孤独だったからこそ,ヘロイン中毒になったのかと言えば,おそらく後者であろう.つまり,彼女にとって,ヘロイン中毒になったのは,偶然ではなく,必然だったのである.だからこそ,ヘロイン中毒を抜きにしては語れない作品なのである.
 結局,彼女はどうしようもなく,孤独だったのだ思う.そのため彼女は自殺するように,ヘロイン中毒になり,その中で,現実とも幻想ともつかぬ情景が彼女には見え(現れ),それを書き綴ったのが,『氷』とう小説だったのだったのだと思う.だから,これはある意味で,彼女の現実そのものだということが出来るだろう.
 さて,ではそれは,これを読んだ人にとっての意味はなにか.それは各自異なるのであって,一般的に語ることは無意味である.そこで,私にとっての『氷』について,簡単に語りたい.
 では,『氷』は私に対して,どのような現実を告知したのか.精神的な意味では,おそらく<氷>はすぐそこまでやって来ている,あるいはもうやって来てしまっているのかも知れない.ほとんど毎日と言っていいほど,繰り返される殺人事件.それも異常な殺人事件.親が子供を虐待し,子供がたいした理由もなく,親を殺す.そして,いじめ.いじめに対しても,学校側も県の教育関係者も,文部科学省のお役人も,責任回避に終始する世の中.ある意味で,それは<氷>の世界ではあるだろう.現代の日本社会は,ある意味で,すでに家庭や学校のクラスというコミュニティが崩壊しているのであるかもしれない.あるいは,近い将来,決定的な狂気が人類を襲う前触れであるのかも,知れない.人類は,あるいは先進国文明は,すでに狂気への第一歩を,それも後戻りできぬ第一歩を,既に踏み出しているのかも知れない.あるいは<氷>は精神的な意味だけでなく,物理的にもそうであるのかも知れない.たとえば,世界の破滅を描いた映画「The Day after Tommorow]は,ペンタゴンから流出されたレポートに基づいて制作されたという.そのレポートによると,破滅は決定的である.問題はいつかということである,と言われる.これが本当なら,比喩でもなんでもなく,<氷>はそこまでやって来ているのである.
 しかし,そのことよりも,私に考えさせられたのは,現実とは,本当は<夢でしかあり得ない>のではないか,という疑問である.現実が時として夢に思えるのではない.そのような経験なら,誰しも思い描いたことがあろう.だが,私が言いたいのは,そうではない.そうではなく,<私たちが生きているこの世界は,本当は夢でしかないのに,なぜ現実だと思ってしまうのだろう?>という逆説的なことである.私は,『氷』を読んでいて強くそのことを感じさせられ,また,そのことを強く感じながら,この小説を翻訳していた.この世界は夢でしかないのだ.しかしながら,それを現実として生きるほかない.この現実から逃れるすべはない.この現実こそ,夢を現実にしてしまう力こそ,『氷』の正体だ,そう,アンナ・カヴァンは言いたかったのではないだろうか.だから,<氷>がやってくるのではない.この現実こそ<氷>の只中にある,<氷>に取り囲まれた世界なのだ,そうアンナ・カヴァンは感じていたのだろう.そして,その光景をヘロイン中毒の中で,彼女は見ていた,その見ていたままを『氷』で描いたのだ,と私には思えるのだ.

 ともあれ,私のアンナ・カヴァンの『氷』は,これで終わりたい.
 私の翻訳に興味を持ってくださった,少数のかたがた,本当にありがとうございました.
 来年は,SFを控えて,もう1つの趣味である哲学の方に,努力を移したい.素人の哲学論文が学会誌に掲載されるのは,不可能に近いけれど,来年はそれに挑戦して,運良く掲載されることがあれば,ブログにも掲載するつもりです.

 では,良いお年をお迎えください.

                      野作正也

 

アンナ・カヴァン『氷』改訳25

2006-12-05 12:44:23 | Weblog
                        第15章(承前)

 外は真っ暗だった.ベランダで一休みして,眼が暗闇に慣れるのを待った.雪が降っているのが,次第に,見えるようになった.雪は燐光のようにチラチラと微光を放っていた.風のうつろなうめき声が,静寂の中で,断続的に,破裂するように,起こった.雪片が気が狂ったように,あらゆる方向に舞っていた.夜は空虚な混沌に満たされていた.私は心の中に,それと同じ熱に浮かされたような混沌を感じていた.私の中で何かが,闇雲にあちこちへ突き進んでいた.狂ったように舞う雪片は,私の人生全体を象徴していた.彼女のイメージは過去のものとなり,銀色の流れるような髪は,混乱の中へと消え去った.錯乱したダンスの中では,どちらが暴力者でどちらが犠牲者か,区別するのが不可能だった.とにかく,死のダンスの下では,区別することは無意味だった.すべてのダンサーは無の淵にまで来ていたのだから.

 処刑が近づきつつあるのだという思いが次第に強くなってきた.遠くには何ものかが存在しているという想像に私はよく捕らえられていた.しかし,今では,それが突然,私のところまで広がってきて,私のすぐそばまでやって来て,もはや想像ではなくて,現実のものとなり,それはまさに起こらんとしていた.私は衝撃を受け,みぞおちの辺りが本当に痛くなった.過去は消え去り,無と化した.未来も,すべてが絶滅した無と化し,もはや考えることが不可能になった.存在するものは,たゆまなく縮み続ける,今と呼ばれる,時の断片だけだった.

 頭上では,月が冷たく光る暗青色の空が真夜中に広がっているのを,足下では,虹を作り出している氷壁が大海を移動し,地球上のあらゆるところへ広がっているのを思っていた.青白い崖がぼんやりと現れ,死のように冷たい光を放射していて,幽霊のような復讐者が,人類を絶滅させようとやって来ていた.氷が私たちの所まで来ていることが分かっていた.私自身には不吉な動く壁が見えていた.一瞬ごとに,氷は近づいてきていた.すべての生命が絶滅するまで,氷が前進し続けるだろうことは,分かっていた.

 私は部屋に残してきた少女のことを思った.子供っぽい,大人になりきっていない,ガラスのように壊れやすい少女.彼女は何も見ていなかったし,何も理解していなかった.彼女はただ自分が運命から逃れようのないということを知っていた.彼女の運命がどのようなもので,それに対してどのように立ち向かえばよいのかを知らなかった.誰も彼女に独力で生きていくことを教えなかった.ホテルのオーナーの息子は,特に信頼できるとも,安心できるも思えなかった.むしろ,彼女を支えるのは無理であり,能力がないように思われた.危機がやって来たときに,彼が彼女を守ることが出来るとは信じられなかった.私は,破壊し尽くす氷山の真ん中で,彼女が誰にも見守られずに,怯えて立ちすくんでいる姿を想像した.崩壊する轟音と雷鳴に混じって,彼女のか弱い哀しげな叫びが聞こえるのが想像出来た.私は自分がなすべきことを知ってながら,彼女をひとりで,助けのないところに,残しておくことは出来なかった.彼女があまりにも多くの苦しみを受けることになるだろうことは確実だった.

 私は戻って,部屋に入った.彼女は動いたようには見えなかったが,私が部屋に入ったとき,彼女は辺りを見回し,私に気づいて,体をねじって逃れようとした.彼女は泣き叫び,私に見られないように,顔を隠した.私はベッドに近より,彼女に触れないで,そこに立った.彼女は悲しみと寒さで震えていた.彼女の肌は,貝のように,かすかに藤色をしていた.彼女を傷つけることはあまりに容易だった.私は静かに言った.
 「あなたに尋ねなければなりません.どれほど多くの人とあなたは寝たかは,気にしない.それはどうでもいいことです.私はあなたが何故私を先ほどひどく侮辱したのかを知りたいのです.何故,あなたは,私が到着してからずっと,私を侮辱しようとしていたのですか?」
 彼女は顔を上げようとしなかった.答えるつもりがないのだ,と思った.しかし,そのとき,彼女は切れ切れにことばを吐き出した.
 「私は,私...自身の...戻って...来て...欲しい...」
私は異議を唱えた.
 「しかし,何のために? 私はちょうどここにいました.私はあなたに何もしませんでした」

 「私は知っていました...」
 涙声で,訴えるように話すのを聞くために,私は彼女の上に屈まなければならなかった.
 「あなたに会うといつも,あなたは私を苦しめる...私をけったり,...私を奴隷のように扱ったり,...一度ならず,一時間も二時間も,次の日も...あなたは確かに...いつもする...」
 私は驚き,ほとんど衝撃を受けた.それらの言葉は,自分でも認めたくない私の願望を示していた.私は急いで話題を変えた.
 「あなたはベランダで誰を待っていたのです? ホテルの仲間でないとすれば」
 またもや予期しない返事が返ってきて,私を困惑させた.
 「あなたを...車の音が聞こえた...思った...分からなかった...」
 私は仰天し,信じられなかった.
 「しかし,それは本当ではあり得ない.あなたがそのように言った後では.その上,あなたは,私がやって来ることを知らなかったのだから.私はそれを信じることは出来ない」

 彼女は体を荒々しくねじって起き上がった.青白い髪の塊が背後へと揺れ動いた.彼女の顔は,索漠とした犠牲者の顔だった.泣き崩れた顔.傷ついた黒い眼.
 「本当です.あなたが信じようと,信じまいと! 何故だか分からない...あなたはいつも私を怖がらせる...私は待っているのを,私だけが知っている...あなたは戻ってこないのではないかと思った.あなたは何の伝言もくれなかった...しかし,私はいつもあなたを待っていた...ここに留まって.他の人たちが去って行った後でも.あなたが私を見つけることが出来るように...」
彼女は一人の絶望しきった子供だった.すすり泣きながら真実を告白した.しかし,まだ彼女の言ったことは信じられなかったので,私は言った.
 「それは不可能です.それは本当ではあり得ない」
 顔は痙攣し,涙で咽び,声は喘いだ.
 「まだ十分じゃないの?まだいじめるのを止めることが出来ないの?」

 突然,私は恥ずかしくなり,呟いた.
 「ごめんなさい...」
 私は今までに言ったことと行なったことを取り消したかった.彼女は再び,顔をベッドに伏せて倒れ込んだ.私は立ったまま,彼女を見つめた.何を言っていいのか分からなかった.何を言っても,彼女を慰めることは出来ないと思われた.やっと,私はただ次のように言うことができるだけだった.
 「私はこのような質問をするためにだけ,戻ってきたのではないのです.分かっているでしょう」
 反応はまったくなかった.彼女は私の言葉を聞いていたのかどうかさえ分からなかった.私は,彼女が啜り泣くのを止めるまで,待った.彼女の首がぴくぴくと引きつるのが分かった.そして,それが早くなりだした.私は手を差し出し,そっと,指先をそこに当てた.それから,手の平で触れた.白いサテンのような肌だった.髪は月光のように輝いていた.

 ゆっくりと,彼女は頭を私の方に向けた.一言もことばを発しなかった.彼女の口が,輝く髪の中から現れ,それから,濡れた明るい眼が,現れた,長いまつげの間で煌いていた.今や,彼女は泣き止んでいた.しかし,時折,身を震わせ,声を出さずに嗚咽し,息が出来なくなってむせいだ.まだ心の中では,泣きじゃくっているようだった.彼女は何も言わなかった.私は待った.時が過ぎて行った.私はもはや待てなくなって,そっと尋ねた.
 「私と一緒に来ませんか? あなたをこれ以上いじめないと約束します」
 彼女は答えなかった.しばらくして,やむを得ず付け加えた.
 「それとも,私に出て行って欲しいですか?」
 急に,彼女は姿勢を正して座り,取り乱したような動作をした.しかし,まだ何も話さなかった.私は再び待った.手を差し出してみた.長い沈黙の時間が過ぎた.その間,手は差し出したままだった.とうとう,彼女は私に手をとらせた.私はそれにキスした.髪にキスして,彼女をベッドから抱き上げた.

 彼女が準備をしている間,私は窓際で,雪の降る外を眺めていた.彼女に,私が見た災厄,海を渡って近づいてくる氷壁について話すべきかどうか迷った.さらに,私たちを,すべての生きものを,最後には死滅に追いやることを,話すべきかどうか迷った.私の思いは混乱し,決心できなかった.私は結論を引き延ばすことにした

 彼女は準備が出来たと言って,ドアの方へ向かった.そこで立ち止まり,振り返って,部屋を眺めた.彼女は心が傷ついた表情を浮かべていた.極端に傷つき,言葉にならない恐怖を浮かべていた.この小さな部屋はくつろげて,安心できる彼女の唯一の場所だった.彼女にとって,部屋の外にあるすべてのものは恐ろしく,不可解な存在だった.巨大な異邦の夜,雪,破壊する厳寒,脅かす未知の未来がそこにはあった.彼女の眼は,私の方を見て,私の顔を探した.憂鬱で,疑わしげな,非難するような表情をしていた.同時に,訴えるような,質したいような表情を浮かべていた.私は,彼女を悩ますもう一つ別な存在だった.彼女が私を絶対的に信頼する理由はなにもなかった.私は微笑み,手を取った.彼女の唇はかすかに動いた.別の環境でならば,それは,微笑みになったかもしれないような動きだった.

 私たちは一緒に外に出て,大量の雪の中を,真っ白に渦巻く雪の中を,逃げ出す幽霊のように漂った.明かりはなく,雪のかすかな燐光のような輝きの中で,道を見つけるのは難しかった.背後から吹きつける風でさえも,歩くのを重労働にした.車までは予想外に遠かった.彼女の腕を掴んで,歩くのを助けた.彼女がよろめくと,腕を体に回し,しっかりと支えた.厚手の防水コートを着ていても,彼女の体は氷のように冷えていた.彼女の手は,私の分厚い手袋を通してでも,凍っているのが分かるほどだった.手をこすって暖めた.しばらくの間,彼女は私にもたれかかって休んだ.彼女の顔は,暗闇の中で月長石のように輝いていた.まつげの先端が雪で白かった.彼女は再び歩き始めた.私は,彼女を元気づけ,励まし,腕で腰を支え,車までの道を歩んだ.

 車の中に入った時,真っ先にヒーターをつけた.内部は一分も立たないうちに暖かくなったが,彼女は体を硬くして,私のそばに黙って座り,緊張していた.彼女が横から疑惑の目で私を見ているのに気づいて,私はまだ非難されているのを感じた.私が今まで彼女に対して行ったことを考えると,彼女が疑っているのはまったくもっともだった.今では彼女に親切にすることに,私が喜びを見出してることを,彼女が知るはずがなかった.お腹がすいていないかと尋ねた.彼女はうなずいた.私はチョコレートを食物袋から取り出し,差し出した.長い間,民衆にはチョコレートは手に入らなかった.彼女がある銘柄のチョコレートが好きだったのを思い出した.彼女は疑わしそうにそれを見つめて,断ろうとするように見えた.それから突然リラックスして,それを手に取り,おずおずとありがとうといって,かすかに微笑を浮かべた.彼女に親切にするのに,何故こんなにも長い間かかったのか不思議だった.もうほとんど遅すぎた.私は最終的な運命についても,氷壁がすぐそこまで近づいてきていることも,何も語らなかった.その代わりに,私たちが赤道に到着する前に,氷は接近してくるのをやめるだろうと話した.私たちは,そこで安全な場所を見つけることが出来るだろうと話した.私はわずかの可能性もあるとはは思わなかったが,彼女が私の言ったことを信じたかどうかも分からなかった.終末がどのようにして来ようとも,私たちは一緒にいるべきだった.私は少なくとも,それを早めることが出来たし,彼女にとってそれが楽しいものにすることが出来たのだった.

 厳寒の夜中,大きな車でドライブしていて,私は幸福だった.私は,これとは違った世界を切望していて,それを失うことになったけれども,後悔はしていなかった.私の世界は,今では雪と氷の中で終わろうとしていた.残されるものは何もなかった.人間の生活は終わりを告げ,宇宙飛行士は氷の重さによって大地に埋められ,科学者たちは別の災厄によってこの世界からいなくなった.生きているのは私たち二人だけになったので,大吹雪の中を車を走らせながら,浮かれていた.

 外の景色が次第に見え難くなっていった.窓にできる氷花が拭いされる度に,次にできる氷花はより透明なもになっていき,最後には完全に透明になり,降り続ける雪しか見えなくなってしまった.無限の雪片が蝶の幽霊のように,いずこから来て,いずこへ立ち去るのでもなく,舞い続けていた.

 世界は既に死滅しているように思われた.しかし,それは問題ではなかった.車の中が私たちの世界だった.狭いけれども,明るく,暖かい部屋だった.私たちの家は,広大無辺で,無関心な,凍りついた宇宙の只中にあった.私たちの身体によって生み出された暖かさを失わないように,私たちは互いにしっかりと身を寄せあった.彼女はもはや緊張もせず疑ってもいなく,私の方に身をもたれかけさせていた.

 氷と死の恐ろしいほどの冷たい世界が,私たちの生の世界に取って代わった.外部では,氷河時代の荒涼とした寒さの凍てつく空間が,広がっていた.生命は無機物の結晶体に還元されてしまった.しかし,この明るい私たちの部屋では,私たちは安全だったし,暖かかった.私は彼女の顔を見つめ,微笑んだが,触れなかった.恐怖はなかった.悲しみも,ここには,今は,なかった.彼女は微笑み,私にしっかりと体を押しつけてきた.私たちは自分たちの家にいた.

 私は全速力で車を駆った.逃れるかのように,あるいは逃れることができる振りをするかのように.氷から,あるいは,時間は残り少なくなり私たちを閉じ込めようとしていることから,逃亡することが,不可能なのは,分かっていた.私は一瞬一瞬を最大限生きようとした.数マイルと数分が過ぎ去った.ポケットの中の拳銃の重さが私を安心させた.
(『氷』完)

 

アンナ・カヴァン『氷』改訳24

2006-12-04 11:55:27 | Weblog
                            第15章

 外に出ると,氷のように冷たい空気の流れが体を包んだ.夕闇が帳を下ろし,風のため,凍りついた雪は平らになっていた.私は近道を探さがさずに,海岸へ通じるすでに知っている小道を選んだ.以前は育っていた外国産の植物は,霜にやられて枯れていた.やしの葉がしなびて,枯れかかり,黒ずみ,閉じられた傘のようにしっかりと折りたたまれていた.私は気候の変化に慣れていたはずだったが,私はまた日常生活から逸れてしまい,非日常的な奇妙な地域へと移ったように感じた.このすべてが現実であり,それは現実に起こったことだった.しかし,まったく現実ではないような気がした.それはまったく奇妙なことが起こったことによって生じた異様な現実だった.

 雪は激しく降り始め,私の顔には極寒の風が吹きつけてきた.寒さのために皮膚は凍傷になり,息は凍りついた.雪が眼に入るのを防ぐために,私は重いヘルメットを被った.雪が縁にくっつき凍りつき,ヘルメットはさらに重くなったが,そのうちに,海岸が見えてきた.白い雪のカーテンを通して前方に家がぼんやりと現れた.しかし,その向こうに氷群が広がっているかどうかは分からなかった.風に逆らって,そこへ辿りつくのは困難だった.雪は厚く積もり,激しく降っていた.死滅しつつある世界の表面を,すべてを不毛にする白い雪が広がって,覆っていた.暴力とその犠牲者をもろとも巨大な墓の中に埋め尽くし,人類とその功績の最後の足跡を消した.

 突然,撹乱している白い風景を通して,少女が私から氷の方へ逃げ去るのが見えた.私は叫んだ.
 「待って!戻って!」
 しかし,極寒の空気に喉がやられ,声はかすれ,風にかき消された.雪の粉が霧のように私の周りに吹きつけてきた.私は彼女を追いかけた.彼女の姿はほとんど見えなかった.彼女が視界から消えてしまった.私は一旦休み,眼球にくっついている氷の結晶体を苦労して取り除いた.それからまた追いかけた.殺人的な強風のために,私は後ろに飛ばされた.雪は白い丘のように積もり,火山のようにそこから雪煙が立ち昇って,その先が見えなくなった.恐ろしいほどの死の冷たさの中で,よろめき,ふらつき,躓き,滑りながら,感覚のない手で彼女を掴んだ.

 遅すぎた.私にはチャンスがないのがすぐに分かった.辺りに聳え立つ蜃気楼のような極寒の輝き,超自然の,この世のものと思えぬ氷の建造物.巨大な胸壁や虹橋が空に満ちていた.私たちは丸い壁,幽霊のような処刑執行者によって閉じ込められた.それは,私たちを破滅させるために,ゆっくりと,しかし情け容赦なく,前進してきた.私は動くことが出来ず,考えることも出来なかった.処刑執行者の吐く息は脳を麻痺させ,愚鈍にした.これ以上ないほどの冷たい氷が私に触れ,雷鳴が轟き,まばゆいエメラルド色の光を放って氷壁は2つに分裂した.頭上高くでは,氷河がブーンと言う音を立てて振動し,今まさに崩壊せんとしていた.霜が彼女の肩の上で輝き,彼女の顔は蒼白で,長いまつげが彼女の頬を撫でた.私は彼女を抱きしめ,山のような氷の塊が落ちてくるのを彼女が見なくてすむように,彼女を私の胸にしっかりと押し付けた.

 厚手の防水布で出来た灰色のコートを着て,ビーチハウスを囲んでいるベランダに立って,誰かを待っていた.最初,彼女は,私がやってくるのを待っているのだ,と思った.それから,彼女の視線は別の道を見ているのに気づいた.私は立ち止まって,彼女を見つめた.彼女が待っているのが誰なのかを確かめたかった.ホテルマンは,私がここにいるのを知っているので,今やって来るとは思えなかった.彼女は今や孤独ではないように感じられた.彼女は辺りを見回し始め,私を見つけた.私は,彼女の顔のなかで眼を大きくまた黒く見せている,大きく見開いた瞳を見分けるほどには,近くにはいなかった.しかし,私は彼女の鋭い叫びを聞き,彼女が向きを変えたとき,髪が渦巻き,輝いたのを見た.コートについているフードを頭の上に引っ張り上げ,海岸の方へ走っていった.彼女がベランダから出て行ってしまうと,彼女を見えなくなった.彼女は雪の中に身を隠そうとしたのだった.突然,恐怖が彼女を襲った.魔術的な力をふるって,彼女から意志を奪い取り,彼女を幻覚と恐怖の中に投げ込む,氷のように冷たくブルーの眼をした男の姿が,彼女の頭をよぎったのだった.いつも彼女と共にあり,日常生活の背後に潜んでいる恐怖が彼によって呼び出されたのだった.彼にはもう一人の人が結びつられていた.彼らは同じ仲間だった.あるいは彼らは同じ人間だと言ってよかった.

 彼らは二人とも彼女を迫害した.彼女にはその理由が理解できなかった.しかし,彼女は,起こったすべとのことを受け入れてきたように,彼女はこの事実をも受け入れた.彼女には分かっていた.彼女は,未知の力かまたは人間の力によって,手荒く扱われ,犠牲者とされ,最後には破滅させられるのを知っていた.彼女の誕生以来,運命がいつも彼女を待ちかまえていた. 愛のみが彼女を運命から救い出すことが出来た.しかし,彼女は決して愛を求めなかった.彼女は耐えることを選んだ.そのことのみが彼女が知っていたことであり,受け入れることができることだったからであった.運命は彼女に忍従を強いた.彼女には分かっていた.彼女は誕生以前から既に打ちのめされていたのを.

 彼女が数歩も行かないうちに,私は彼女に追いつき,ベランダに連れ戻した.顔から雪を払い落としながら,彼女は叫んだ.
 「あなたなの?」
 驚いて私を見つめた.
 「誰だと思ったんです?」
 私は制服を着ていたのを思い出した.
 「とにかく,この服は私のではない.借りものです」
 彼女から不安が消え,ほっとした表情を浮かべた.彼女の態度は変わり,落ち着きを取り戻した.人々や環境が彼女にとって安全だと分かったとき,彼女は自信と独立心のある態度をとるのを知っていた.ホテルで若い男は彼女のためにそのような環境を作ったに違いなかった.
 「早く中に入りましょう.何故ここに立っているの?」
 彼女は普通に,私が戻ってくるのは予定されていて,予期されていたかのような口調で,言った.この状況に,変わったところは何もないというかのように.その言い方が私を悩ませた.結局,私はずうっとそれで悩んでいたのだった.彼女の言い方は,私がとるに足らぬ人物であるという口調だった.

 彼女はドアの方へ行き,私を社交的な態度で招き入れた.小さな部屋には何もなく寒かった.流行遅れの暖防具がかろうじて部屋から冷たさを取り除いていた.しかし,部屋はきれいに掃除されていて,片付けられていた.細部まで注意が行き届いているのが分かった.海岸から拾ってきた流木や貝殻から出来た飾りものが置いてあった.
 「居心地が悪いのではと,心配です.あなたの基準からすると,粗末な住まいです」
 彼女は私をからかうような言い方をした.私は何も言わなかった.彼女はコートを脱がなければ,フードをとって髪を自由にすらしなかった.髪は長くて,生きもののように輝き揺れていた.コートの下には,高価そうな灰色のスーツを着ていた.私はそれを彼女が着ているのを,今まで見たこともなかったが,それは,彼女を品よく見せていた.彼女はお金を持っているはずがなかった.彼女の魅力的な様子が,また,彼女の着ている高価なドレスが,また私を悩ませた.

 彼女はホステスのような口調で話した.
 「いろいろな旅行から戻ってきて,居場所があるなんて素敵でしょう」
 私は彼女を見つめた.私は彼女を見つけるためにはるばるやってきたのだった.多くの死者や,多くの危険や,多くの困難に出会いながら.今やついに,私は彼女のところにたどり着いたのだった.そして,彼女は私に,未知の他人のように話しかけた.それはひどすぎた.私は傷つき,後悔した.彼女の無作法な態度や,私の到着を無意味なものにする態度に憤慨して,私は威厳を保って言った.
 「何故あなたはこのような態度をとるのですか? 私は行きずりの訪問者として扱われるために,はるばるやって来たのではありません」

 「あなたは私に赤じゅうたんを敷いて迎えろとでも言うのですか?」
 彼女は苛立って,からかい気味の返事をした.私の中で怒りが爆発した.もはや,自分をコントロールできなかった.また,からかい気味に,気のない調子で,私が何をしていたのかをたずねたとき,私は冷ややかに答えた.
 「私はあなたのご存知の方と一緒にいました」
 そう言って,意味ありげな難しい顔をしてじぃっと彼女を見つめた.彼女は直ちに理解した.彼女からわざとらしさがなくなり,不安な表情が浮かんだ.
 「私が最初あなたを見た時...私は思った...彼かと...彼がここにやって来るなんて,なんて恐ろしい」
 「彼はすぐにでもここにやって来るでしょう.それを言いに,私は来ました.他に計画をお持ちならば,あなたに警告するために.彼はあなたを連れ戻すつもりです」
 彼女は私を中断した.
 「いいえ.決して!」
 彼女は激しく首を振ったので,髪がフードから,水しぶきのように輝いて流れ出たほどだった.私は言った.
 「それでは,あなたは直ちに立ち去らねばなりません.彼がやってくる前に」

 「ここを立ち去る?」
 それは残酷だった.彼女は困惑して辺りを見回した.彼女が飾りつけた家を見回した.海から持ってきた貝殻が飾られた小さな部屋は,彼女をほっとさせ,安心させる,地球上での唯一の場所だった.ここでは,彼女は自分自身を取り戻すことが出来たのだった.
 「しかし,何故? 彼は決して私を見つけることができない...」
 彼女のもの欲しそうな,哀願するような声も,私の心を動かさなかった.私は毅然として,冷ややかに言った.
 「何故,見つけられないんです? 私はあなたを見つけました」
 「そうです.しかし,あなたは知っていました....」
 彼女は私を疑惑の目で見つめた.私は信用されていなかった.
 「あなたは彼に教えなかったんでしょう.そうですよね?」
 「もちろんですとも.私はあなたが私と一緒に来て欲しいのです」

 突然,彼女は自信を回復し,以前の人を見くびるような態度に戻った.私を嘲笑的な視線で眺めた.
 「あなたと一緒に? だめです! 私たちはやり直すことはまったく出来ません」
 当てこするように言って,大きな眼で上目遣いをした.彼女はわざと侮辱したのだった.私は頭にきた.彼女の見くびった調子のおかげで,彼女のところにやって来るための命がけの努力が無駄になってしまった.彼女のために耐えてきたすべてのことが馬鹿馬鹿しくなってしまった.突然,激しい怒りがこみあげてきて,私は彼女を荒々しく掴み,激しく揺すぶった.
 「やめなさい.なにを言うのですか! これ以上耐えられない! こんなにひどく侮辱するのは止めてください.私はあなたのために地獄のような経験をしてやってきたんですよ.ひどい状況の中を数百マイルも旅をしたんですよ.想像もつかない危険の中を通り抜けてきたんですよ.私はほとんど殺されかかったこともあります.あなたにはほんの少しの評価の気持ちも見られない...感謝の一言も...あなたは私を普通に見られる...丁重にさえ扱わない...私はただ安っぽい冷笑を受けただけ...見事な感謝! 見事な振る舞い!」
 彼女は一言も口を利かないで,じっと私を見つめていた.彼女の眼は,ほとんど黒い瞳ばかりになった.怒りはまだ少しも収まらなかった.
 「今でさえ,あなたは謝ろうという礼儀さえ持っていない」

 まだ怒りが収まらず,私は彼女に悪態をつき続けた.彼女を,高慢ちきな,無礼な,横柄な,無作法な女だとののしった.
 「いつか,あなたは,親切にしてくれる人に感謝することのできる一人前の市民になるかもしれない.親切にしてくれる人を笑うような思い上がった無作法さを示す代わりにね」
 彼女は打ちのめされ,押し黙っていた.私の前で,頭を垂れて,黙って立っていた.自信の痕跡は跡形もなくなっていた.ついには,彼女は,大人の偏見によって傷つけられ,意気消沈した,怯えた,不幸な子供ようにになった.

 彼女の首根っこがぴくぴくしだした.何かが皮膚の下から逃げ出そうとしているかのように,激しく脈打ちだした.以前にも,彼女が怯えたとき,同じようなことが起こったのを知っていた.私は大声で言った.
 「なんて馬鹿なことを,あなたを悩ますようなことを言ったんだろう.私がいなくなるとすぐに,ボーイフレンドのところに移り住んだと思ったものだから」
彼女はすばやく私を見上げて,不安げに口ごもった.
 「それはどういう意味ですか」
 「あなたは理解できない振りしている.なんて腹立たしい」
 私の声は攻撃的になり,喋るほどに大きくなった.
 「もちろん,家のオーナーのことですよ.あなたが一緒に住んでいる仲間.私が来たとき,べランダで待っていた人です」
 自分の声が大きいのが分かった.大声が彼女を怖がらせた.彼女は震え始め,口はぴくぴくしだした.
 「私は彼を待ってはいませんでした」
 彼女は話を中断して,私がしていることを見た.
 「ドアの鍵を閉めないで...」
 私は既に鍵を閉めていた.私の中ですべてが,鉄のように硬くなった.氷になった.硬く冷たく,しかし燃えるような渇望になった.私は彼女の肩を掴み,私の方へ引き寄せた.彼女は抵抗し,叫び声を上げた.
 「私から離れて!」
 彼女は蹴り,もがき,鉢から飾りつけられていた形の良い貝殻を引き剥がして,投げつけた,床にあたって粉々になった.私たちの足がそれを踏みつけ,それは色とりどりの粉になった.私は彼女を押し倒して,血塗れた上着の中に押し込んだ.制服のベルトの鋭いバックルで彼女の腕が切れ,やわらかい白い肌の上を血が流れ落ちていたのだった.私の口の中で,血の鉄分の味がした.

 彼女は黙って横になったまま動かなかった.私を避けるために,顔を壁の方に向けていた.多分,私は彼女の顔を見えなかったために,彼女が私の知らない人のような気がした.私は彼女に何の感情も抱かなかった.彼女に対するすべての感情が消え去っていた.これ以上耐えられない,と彼女に言った.それは本当だった.私は続けることが出来なかった.それはあまりにも屈辱的であり,あまりにも苦痛だった.私は彼女とのこれまでの関係を終わらせたかった.しかし,今までそうすることは出来ないでいた.今こそがその瞬間だった.この私が行っている惨めなこと全体を終わらせるために,今や,立ち上がって,去っていくべき時であった.私はあまりにも長い間同じことを繰り返していた.いつも苦痛で報われなかった.私が立ち上がった時にも,彼女は動かなかった.私たちのどちらも一言も口をきかなかった.私たちは偶然に同じ部屋にいる,見知らぬ他人同士のようだった.私は考えていなかった.私が欲しているすべてのことは,車に乗って,ここでのすべての事を忘れてしまえるほど,はるか遠くまで,ドライブを続けることだけだった.私は彼女を見ることなく,声をかけることもなく,部屋を去って,極寒の外に出た.
(第15章続く)