「生かされている」と言う言葉を時々耳にします。
司馬遼太郎さんの「司馬遼太郎「21世紀に生きる君たちへ」の中で
「私ども人間とは自然の一部にすぎない。」
「人間は、自分で生きているのではなく、大きな存在によって生かされている。」
と言われています。 しかし、我々は人間が主体で、自然はおとなしく人間の意志に従うものという考え方をすることがあります。 「人間は自然の主人であり、自然をコントロールすることができる。」 と考えがちです。 これはどちらかといえば西欧の考えといえます。
「今回の地震もたまたま偶然におこった。非常に不運なことであった。我々が生きていくうえで時々不運な天災が我々を襲う。」 と考えます。 ここには大きな存在によって生かされているという考えはありません。 大きな存在によって生かされているとすれば、生きることに感謝の念が生じる。自分の周りの人々、生き物全てに対して感謝します。 報恩という考えが出てきます。 また、何かあればその意味を考えます。 生かされている我々が苦悩するには、そこにどのような意味があるのかを考えます。 そこに自分自身の傲慢さがないかどうか自問します。我々の生き方を反省します。 多くの人が今回の地震について阪神淡路大震災の時との対比を考えています。 何故左翼政権の時にこのような地震が発生するのか? 丁度村山政権の時には、 1.阪神淡路大震災が発生。 2.オウム真理教による国内でのテロ事件が発生(内乱騒動が発生) 管政権では 1.中国漁船の尖閣侵入 2.東北大震災と福島原発事故発生 これは単なる偶然とは思えません。 これらの事象を見て心ある人は日蓮の立正安国論を思い出しました。 日蓮は鎌倉時代の人ですが、打ち続く災害にこれらの災害の原因を追究して悪人が政治を行うため自然が日本を治罰して多くの災いが発生していくと説きました。 「最勝王経にいわく「悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に他方の怨賊来り国人喪乱に遭わん」」と書いています。 つまり、為政者が悪人を愛して善人を遠ざけるために他国から侵略されて国の人が戦乱にあう」と言っています。 また、多くの災いが引き起こされたが2つの難が発生していないので、残る2つの難が発生するであろうと説きました。 この2つの難とは、「他国が日本を攻めてくる難」と「内乱が発生する難」と2つの難です。 これら2つの予言された難は、一方は蒙古が日本を攻めてきた文永弘安の役となり的中し、もう一方は幕府の中での内乱騒動である2月騒動の発生で的中しました。 今回も村山政権でのオウム事件と管政権での尖閣問題の発生と立正安国論の言っていることの内容に何かあるのではないかと考えてしまいます。 村山政権では、「自衛隊は違憲である。安保反対」と言っていた主張を政権につくやそれらの主張を
何の説明もなく
取り下げました。 管政権でも次々と国民との約束を破っていき、首相自体が「歩く風評被害」といわれ「ペテン師」呼ばわりされるほどの人でした。 立正安国論の内容がまんざら昔の話ではないと感じます。次に立正安国論の内容に踏み込んでみましょう。