テニスのメモ帖

テニス好きが嵩じて、いままでのコーチ経験から書き綴ったものです。少しでも役立てばと願っております。

第422号

2016-05-15 10:25:28 | 日記
◇◆テニスのメモ帖◇◆ 第422号 平成28年5月15日
 <初心忘るべからず・・・>

  25歳の土居美咲が、29歳の難敵サファロバをストレートで破る金
 星を挙げました。「ラケットを振り切る」をテーマにして、フォアの強
 打でラリーの主導権を奪ったものです。

  この初顔あわせの勝利は、「チャレンジ精神で自分のテニスを貫けた
 メンタルが勝因」と語っています。そこで、今回はメンタル面での基本
 的な側面として「初心」を考えてみたいです。

  岩波文庫の「風姿花伝」(ふうしかでん)の101頁に「初心を忘る
 べからず」と書かれています。その前に「ただ。返すがえす、」と念を
 押しているのが印象的です。文庫本の発行日付は昭和33年です。

  現状では、スポーツ界のみならずあらゆるところで不祥事が起きてい
 るようです。いまや一般的になったこの格言を風姿花伝を読み返すこと
 で再考する意味を追求してみたいと考えました。

  その前に、精神面で卓越したアスリートの言葉を若干取り上げ、彼ら
 がプレー中に何を考えていたか?その根底に何があるのか?真剣に考え
 ることが出来ればと願っております。先ずはアスリートの言葉から・・

  最後にもう一つだけ覚えておいて欲しいことがある。勝ったチームは
 負けたチームにも幸あれと祈ること。これは、プロ・アマを問わず絶対
 に忘れちゃいけない
約束なんだ。           カンボス  

  どんなに八方ふさがりの様に思えても道がなくなるわけじゃない。進
 むべき道・進んでゆけ
る道を見つけて一歩づつ進んでゆけば良い。  
 ・・・                       三浦和良  


   プレッシャーがかかる場面で出る力がその選手の実力なんだ。   
 ・・・                       城嶋健司   


  暑さ寒さ、風にしても誰にも吹くものだ。強いものは強いから運も不
 運もない。・・・                  アベベ   

  勝敗を分けるのはたった一球だ。しかしプレー中はどの一球かは分か
 らない。だから最初から最後まで、この一球との思いを込めて打たねば
 いけない。・・・                  福田雅之助 


  リーダーとなるためには、行動によって仲間から尊敬されなければな
 らない。つねに言行一致を貫かなければならない・・・ Mジョーダン

  ここから、世阿弥の言葉を考えて見ましょう。風姿花伝は、役者の
 修行方法から始まり、いかにライバルに勝利し、観客の興味を
 ひくにはどうすべきかなど具体的な考え方を記した伝書です。


  初心忘るべからず

  「初めの志を忘れてはならない」との意味で使われています。
 世阿弥にとっての「初心を忘れるな」は、人生の試練の際に、ど
 うやって乗り越えたか、この経験を忘れるなということなのです。

  世阿弥は、「初心」について第一に「ぜひ初心忘るべからず」
 第二に「時々の初心忘るべからず」第三に「老後の初心忘るべか
 らず」と、3つの「初心」について語っています。


  第一 ぜひ初心忘るべからず

  若い時に失敗や苦労した結果身につけた芸は、常に忘れてはなら
 ない。それは、後々の成功の糧になる。若い頃の初心を忘れては、
 先々の上達すら無理なので生涯初心を忘れてはならないのです。

  第二 時々の初心忘るべからず


  歳とともに、その時々に積み重ねていくものを、「時々の初心」
 と云います。若い頃から、最盛期を経て、老年に至るまで、その時
 々にあった演じ方をすることが大切と言っています。

  その時々の演技をその場限りで忘れてしまっては、次に演ずる時
 に、身についたものは何も残らない。過去に演じた風体を、全部身
 につけておけば、年月を経れば、全てに味がでるものです。

  第三 老後の初心忘るべからず

  老齢期には老齢期にあった芸風を身につける。これを「老後の初
 心」と言うのです。老後になっても、初めて遭遇し、対応しなけれ
 ばならない試練が当然あるのを忘れてはならないのです。

  歳をとったからといって、「もういい」ということではなく、そ
 の都度、初めて習うことを乗り越えなければならない。これを「老
 後の初心」というのです。

  このように、「初心忘るべからず」とは、それまで経験したこと
 がないことに対して、自分の未熟さを受け入れながら、その新しい
 事態に挑戦していく心構え、その姿を言っているのです。

  その姿を忘れなければ、中年になっても、老年になっても、新し
 い試練に向かっていくことができるのです。失敗を身につけよ、と
 いうことなのです。

  今の社会でも、さまざまな人生のステージ(段階)で、未体験の
 ことへ踏み込んでいくことが求められます。世阿弥の言によれば、
 「老いる」こと自体もまた、未経験なことなのです。

  そして、そういう時こそが「初心」に立つ時です。それは、不安
 と恐れではなく、人生へのチャレンジなのです。その気持ちを絶え
 ず忘れなければそれが生き甲斐なのです。

 稽古は強かれ、情識はなかれ・・・

  「情識」(じょうしき)は、傲慢とか慢心といった意味です。
 古も舞台も、厳しい態度でつとめ、決して傲慢になってはいけない。
 の意味です。世阿弥は、著作の中で、繰り返し使っています。


 「芸能の魅力は、肉体的な若さにあり、一時のもの」と、それまで
 の社会通念を覆したのが世阿弥の思想でした。それは、「芸能とは
 人生をかけて完成するものだ」という考えなのです。

 「老骨に残りし花」は、老いて頂上を極めても、それは決して到達
 点ではなく、常に謙虚な気持ちで、さらに上を目指して稽古するこ
 とが必要だと、何度も繰り返し語っているのです。慢心は、人を朽
 ちさせます。それはどんな時代にも当てはまることなのです。


 時に用ゆるをもて花と知るべし・・・

  物事の良し悪しは、その時に有用なものを良しとし、無益なもの
 を悪しとする意味です。世阿弥は、この世を相対関係で考えて、プ
 ラス概念を総合した意味で、「花」を使っています。

 秘すれば花・・・ 好きな言葉です。

  誰も知らない自分の芸の秘密、いわゆる秘伝を持つことを世阿弥
 は求めました。これをいたずらに使うことは控え、いざという時の
 技とすれば、相手を圧倒することができるというのです。

  現代でも、自分の可能性を広げるための準備として秘する花を持
 てば、いざという時に世界が広がる可能性があるのです。



  ◎ 発行者 : 遠藤 侖允 (えんどう みちまさ)     
  ◎ メール : yaendou@po4.oninet.ne.jp


第421号

2016-05-01 11:03:42 | 日記
◇◆テニスのメモ帖◇◆ 第421号 平成28年5月1日
 <止まない不祥事への関与・・アスリート協会・連盟のあり方>

  一連の不祥事が止まらない日本のアスリート協会です。八百長・カジノ・賭博
 ・ドーピング・大麻・など個人を超えていませんか?絶え間ない練習で「技・体」
 を鍛えながら肝心の「心」を置き去りにしてどうするんですか?

  すべてが屋上屋になっているようです。そのためどこを修正したら良いのか分
 からないんじゃないですか?結果を踏まえた対応しか出来ないため、すべてが後
 手になるのだと思われます。

  協会とか連盟は何のために存在するのでしょう。不思議ですが、協会や連盟が
 関与できない試合が何故あるのでしょう。スポンサーとしての企業活動が野放し
 ではないですか。強いだけの選手を抱えて人間管理はどこにあるのでしょう。

  最近特に感じるのが「アマ」と「プロ」の明確な区分です。これが曖昧になっ
 ているのが不祥事を更に大きくしているんじゃないでしょうか?プロとアマの区
 分は明確なはずです。これの徹底が必要と思われます。

  今回もスノボー選手の賭博関与が報じられました。一体どこまで行くのでしょ
 う。基本的に日本人は昔から賭博を好む性格があるようです。いわゆる賭け事の
 刹那的な感触と多額の不労所得への思いが忘れられないのでしょう。

  今後どれほどの選手や協会・連盟の関係者が出て来るのでしょう。実際に経験
 した協会関係者はないとは思いますが、関与した選手だけの問題とは思えないの
 です。本気で選手の育成を考えたなら有り得ない現実だと思うのです。

  最近の経済界でも広告塔としての選手採用が顕著です。その内容も詳らかでは
 ありませんが、報道によると通常の給与以外に賞金の殆どが支払われるとか?こ
 の方式自体が私にはアスリートとしてあるべき姿とは思えないのです。

  同じ時期に入社し、早々から収入面で大きな差がつく自体が狂っています。ま
 た、このアスリートが選手生活を終えた時点ではどのような待遇となるのでしょ
 う。どう考えても経営陣に参加されるとは思えないのです。

  ある意味では偏見があるかも知れません。私の拙い経験からの言葉ですから失
 礼の段はお詫びしますが、最近のニュースから聞かされるのはいずれも組織がキ
 チンとしていれば惹起しないことだと悔しい思いです。

  いずれも協会や連盟の役員が身奇麗にしていれば起きることのない出来事では
 なかったことではないでしょうか?と言うことは自分自身に甘えていたとしか考
 えられないのです。そこに本来的な代表としての自覚がなかったのです。

  大学生活から、アスリートの前に立つのは戦績が優秀な先輩が、当然のように
 指導者の立場にありました。この場合、大切なのはその立場に於ける実力判断が、
 自分の勝敗成績が主体だったようです。

  すなわち、いつも競技大会で優勝または準優勝の立場にいるアスリートが、誰
 の反対もなく当然のように座っていたわけです。これを先輩後輩の立場にいる連
 中には抵抗できなかったのです。

  日本のアスリートは、基本的に競技に対して真剣であり謙虚であるようです。
 これはスポーツに対する真摯な気持ちを捨て切れないからでしょう。この純粋な
 気持ちはこれからも遵守すべきではないでしょうか?

  ただ問題は、経験を経た後の自らのポジショニングに対する最終的な心構えで
 はないでしょうか?経験豊富な彼らはそれをベースとして組織を構築させようと
 します。そこには自分の限界を知ろうとはせず無限と見る態度です。

  自分のレベルが、自分の最高位であることを何故知ろうとしないのでしょう。
 それは自分の位置付けをするのが恐ろしいからです。世界一・日本一の地位であ
 っても、その位置は不動ではないのです。しかし、本人には不動と見えるのです。

  このように協会・連盟の中枢は経験者に溢れています。それは他の組織とのバ
 ランスから生じるスポーツ界での位置づけにもなるのです。そしてその地位を一
 度掴むと手放したくなるのは当然かも知れません。

  本当に力のある協会・連盟のトップはアスリート出身でない方がよいのです。
 本来的に組織の仕事は、競技大会の運営・指導者としての担当者の育成・違反行
 為のチェック機構・ランキング関係処理等になります。

  成績が優秀なアスリートと人間的なアスリートの理想的な混在が組織の存在意
 味を明確にするのじゃないですか?これらを明確に分離する卓越したアスリート
 はどこにでもいるものじゃないでしょう。権力の乱用は方向を見失います。


   さて、アスリートの不祥事が続いていますが、道を踏み外す選手と、そうなら
 ない選手と何が違うのでしょうか?これを日本国内と諸外国とで比べると良く分か
 ります。しかし、共通しているのは心構えに尽きるんじゃないかと思われます。

  日本の場合は、優秀な選手を取り巻く大人が自分の立場を重視するあまり、ア
 スリート時代に行う対応に問題があるのです。実際に接触している記者たちは「と
 りまきが悪い」そう「大人のこと」だとなるのです。

  アスリートの成長に必要な「オトナ」は、技術指導や試合の采配に長けている
 だけではなく、勝ち負け以外に人間として大事なものを教え、浸透させることが
 できる大人なのです。

  アスリートの世界で「天才だね」と言われ育った子どもは、どうしても周囲に
 ちやほやされ天狗になりやすいのです。無意識のうちに「何をやっても許される」
 という意識が強くなります。自己中心的な考えになるのです。


  例えば、ジョコビッチやフェデラ―はすごい賞金額です。でも、彼らは誰に薦
 められた訳でもないのに、自主的に貧しい人や恵まれない人に向けた基金等を作
 っています。世の中のために自分が何がすべきかをいつも考えてるんです。

  先輩の仕事は、説教ではなく押しつけがましいものでもないのです。自分の今
 まで生活体験をベースにして自分のあるべき姿を追求させるのが先輩としての仕
 事なのです、そのような生活を間近にするので後輩が考えるのです。

  例えば、テニスに懸命な選手にとって「コートの中」と「コートの外」では2
 つの顔があるのです。「コートの中」では、勝つためにはどんなことをしても勝
 たなくてはいけません。それに賭けるのが本当のアスリートなのです。

  “隙あらば勝つためにはなんでもやってやろう”という意識がアスリートとし
 ては必要なのです。ルールとマナーの範囲内で何ができるかを考えるアスリート
 は確実に伸びると思われます。

  アスリートとして「人が困っていたらどうしたらいいのか、常に他人のことを
 考えられる人間であって欲しいです」コートの中では、憎らしいほどに相手の苦
 しいところを突く。けれども、コートを離れれば、よき人間として生きることです。

  このような二面性がないとトップになれないのです。このように二面性のある
 人間を育てていくのが、アスリートに付き添っているコーチの役目ではないでし
 ょうか?今回のアスリートには、その指導やマネージメントが不在だったのでし
 ょうか

  アスリートとして、どう振舞うかを教育するシステムは日本にはないようです。
 しかし、しっかりしたスタッフに教育されたアスリートは間違いなく今回のよう
 な不祥事に身を投ずることは有り得ないのは間tがいないです。

  「社会の範となる選手」が具体的にどんな人物像で、どのように育成するか。そ
 してそこに寄り添う大人の資質はどんなものなのか。そこを語り、実践できる人は
 決して多くはない。だからこそ、若いアスリートたちの不祥事が起きたとも言えます。


   選手育成には、まず大人(世間を充分に認識する人間像)を育てるプログラム
 が必要ではないでしょうか。更に、その中でその考えを定着させるには、キチン
 とした組織作りがベースにないと砂上の楼閣でしかないと思われます。

  深刻な話題になっているアスリートの不祥事は、すべて自己反省のない極論す
 れば我侭なところから発生していると推測されます。あまりにも周囲の誘惑が多
 く、自らの手で払い除けることが出来ないのではないでしょうか。


 
  ◎ 発行者 : 遠藤 侖允 (えんどう みちまさ)     
  ◎ メール : yaendou@po4.oninet.ne.jp