山上智の「古代史開封」

未だ我が国の古代史の謎が解けていない。
そんな未知の世界に挑戦する物語である。
「真実の歴史の道は一本である」

第六回古代史開封

2011年04月25日 00時36分57秒 | 日記


第五章「タタラ製鉄技術は邪馬台国の輸出品」


ところで「魏志倭人伝」には、次のように書かれている。
「6月、倭の女王卑弥呼、大夫の難升米らを帯方郡に派遣し、魏の明帝への奉献を願う」
「帯方郡の太守、劉夏は難升米らを魏の都、洛陽へおくる。12月、明帝は詔して卑弥呼を親魏倭王とし、金印紫綬を授ける。また卑弥呼に銅鏡100枚などを与える」
変だとは思わないだろうか。
いかに女王の使いとはいえ、難升米の身分は辺境の小国家の幹部にすぎない。そんな人物が、帯方郡の太守・劉夏にそう簡単に会ってもらえるものなのだろうか。
ましてや、である。劉夏がその難升米を、大国の長である明帝に紹介などするだろうか。
だが、もしも邪馬台国が、優秀な製鉄技術を持っていたとするなら、話は別である。
中国では当時、魏・蜀・呉が激しく争っていた。戦には、より強い武器(鉄剣)が必要だ。難升米がその武器をもって、大陸にセールスに行ったのだとすれば、筆者の疑問も簡単に解けるのである。そしてその後、邪馬台国の優れた製鉄技術を習得するために、魏が使節を送りこみ、それが「魏志倭人伝」に書かれている行程の曖昧さも、邪馬台国の場所を呉や蜀などに悟られないためのフェイクだったとの推理が成り立ちそうである。
古代製鉄技術こそ、まさに邪馬台国の秘密だったのではないか。
さて、こうした製鉄技術はやがて、邪馬台国から東北へと流れこみ、そこでナマハゲや鬼伝説が生まれた。それはとりもなおさず、長髄彦が製鉄技術を伝えたということである。
1996年10月14日、島根県加茂郡加茂岩倉遺跡で青銅(銅と錫の合金)の銅鐸が大量に発見された。
銅鐸の数は中型20個、小型19個の総計39個。1回の発見数としては考古学史上最多だ。
弥生時代の中期は、銅鐸を含めた金属器が本格的に流入した時期である。銅剣、銅矛、銅戈、前漢の銅鏡などがその代表で、もちろん鉄器も流入した。
しかし、権威の象徴や祭りの儀式用として使用された青銅器のほうが、鉄器よりもより弥生時代の特徴を表わしているので、ここでは青銅器を中心に論を進めたい。
日本列島では、銅鐸が消滅するころに前方後円墳が発生したというのは、ほぼ定説となっている。だが、邪馬台国時代に銅鐸祭祀が行われていたかどうかについては、確かな証拠はない。
しかし「魏志倭人伝」には「魏の正初9年(248)この頃卑弥呼死す。径100余歩の塚を作り、100余人を殉葬する」とあり、その後、266年ごろから徐々に銅鐸・剣形青銅祭器による祭祀は終わりをつげるのだ。
これは何を意味しているのか。
そう、銅鐸祭祀から古墳祭祀への移行が、邪馬台国の後半時代と重なっているのである。
ここからも、邪馬台国を追われた長髄彦が東日流に逃れ、その際、タタラ技術を根こそぎ持っていったことが裏づけられるのだ。
ところが唯一、出雲地方だけには、冒頭で触れたようにタタラ技術が残された。これはなぜなのか。
1984年、島根県簸川郡斐川町の神庭荒神谷遺跡から、剣形青銅祭器が358本、1か所に埋設されているのが発見された。
この358本というのは、いかにも異様な数だ。なぜなら、それまで日本各地で出土していた剣形青銅祭器の数をわずか1回で凌いでしまったのだ。しかも従来、青銅器分布が薄いといわれていた出雲からの大量発見である。しかも2度目の発掘調査では、銅鐸6個と16本の銅矛まで出土した。
これは、かつての出雲に、きわめてすぐれた青銅器産出技術があったことを意味している。
おそらくはそれは、タタラ製鉄の技術へ変わっていったのだろう。
その原動力としては、長髄彦の東日流王国の十三湊から出雲の宍道湖という、古代日本海ルートが重要な役割をはたしたはずだ。
いや、もしかすると長髄彦の王国は、出雲の青銅器部族を配下に取り入れ、さらに高度な鉄器文化を築きあげさせたのかもしれない。
それが、より良質の砂鉄を使う出雲タタラとなった可能性は高い。
だとすれば、ズーズー弁の説明もつくだろう。そう、古代日本においては、出雲だけが東日流王国と交流があった唯一の土地だったのだ。

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