山上智の「古代史開封」

未だ我が国の古代史の謎が解けていない。
そんな未知の世界に挑戦する物語である。
「真実の歴史の道は一本である」

平成のXファイル・伝承・6NO-183

2009年12月23日 00時25分20秒 | 日記
名前は、筆者。職業はオカルト・古代史探偵。
相棒のハンターは、ハッキングの名手で身元不明の女の子。
東京ベイテレビの「K」という謎の人物から毎回、不可思議な仕事依頼がある。

もう師走だ。これから年末にかけてクリスマスやら大晦日、年が明けてお正月。こんな小さな事務所でも世間並みなクリスマスやお正月がやってくる。
ハンターも取材の余韻が残っているのか、無口なうえにより一層口を利かなくなった。
テーブルの上の携帯が鳴った。
やはり「K」からのメールだった。

「ノアの方舟はきっとある」
NO-183「産経新聞」1992年4月16日~京都

何なんだ「ノアの方舟(はこぶね)」とは。Kは何を目的としてこんなメールを送ってきたのだろう、まさかクリスマスが近いからでもないだろう。
携帯を覗き込んだハンターは、即座にパソコンに向かった。やがて紙面が現れた。
「なになに」
『国際日本文化センター(京都市)の安田喜憲助教授らの手で進められている。「創世記に出てくる大洪水は気候変動や人為的な環境破壊などで起きた。方舟はきっとある」昨年はトルコの高原などを調査、そして今年夏には〃世紀の大発見〃を目指して方舟探しの旅に出る。』
おかしな内容である。
気候変動は理解できるが、「人為的な環境破壊」とは考えられないだろう。それだけ当時の文明は進んでいたのかということだろうか。
大学の教授達の考える事はとても理解できない。ノアの方舟が見つかったとして一体、人類にとって何の役に立つのだろう。
それよりも、日本の天皇陵の発掘を宮内庁に申請して、古代日本の歴史を解明するほうが先だろう。
聖書に何が書かれてあろうとも、他国の聖書の立件よりも、我が国の日本人のルーツを探る方がよっぽど日本人にとって興味のあることではないだろうか。
そんな事を考えていると、ハンターが、
「おもしろそうね、今回も私が取材に行ってくるわ。」
これには筆者も驚いた。思わず、
「なら、一緒に行こうか?」
すかさず、ハンターは、
「ダメよ、男は入れない所だから!!」
きつい言葉で返事が返ってきた。
超小型カメラを筆者の引き出しから取り出して、足早に出て行った。

たしか、洪水伝説は「創世記」の専売特許ではなく、ほとんど世界中に見られる現象だ。
エジプト、イングランド、インド、中国、ポリネシア、メキシコ、ペルーなどに見られるが、なかでも聖書学者の注目を集めているのはバビロニアの洪水伝説なのだ。
そういうバビロニア伝説の中で、特に重要なのは粘土板文書の形で発見された「ギルガメッシュ叙事詩」と呼ばれるものである。
19世紀にフランス人P・E・ボッタやイギリス人A・H・レヤードが主としてアッシリア時代の王宮や神殿を発掘し、多くの楔形文書を発見した。
1872年にニネヴェで発掘した粘土板をジョージ・スミスが丹念に調べていると、「旧約聖書」の創世記に述べられている《ノアの大洪水》とそっくりだった。
それより前世紀にアメリカの考古学者たちが南メソポタミアのニップル遺跡を発掘し、大量のシュメール語書板を見つけた。1914年にA・ペーベルが大洪水が書かれている粘土板断片を解読発表した。
「旧約聖書」の創世記の成立は古くてもせいぜい紀元前10世紀、前述のアッシリア版もその頃であるのに対して、このシュメール版は前25世紀くらいまで遡れると思われる。
では、ノアの方舟はどこに着いたのだろうか。
バビロニア伝説と創世記との内容が非常に良く似ている部分もあれば、相違点もある。この二つの物語の共通点をあげると―――
「主人公は信心深い人物で、神から洪水の予告を受け、方舟を造るよう命じられる。家族ともども、動物たちも乗せられる。洪水の結果は破滅を地上にもたらし、方舟に乗った者たちだけが救われる。舟はやがて高山の頂に漂着する(アララテ山・ニシル山)。下船後、主人公は犠牲をささげて神を礼拝する。
いずれにしても、アララト山(アララテ山)は、今日のトルコ東端、アルメニア(ソ連)とイランに接するあたりにそびえるアララト山(別名マシス山。標高5165メートル)であるとされている。

ノアの方舟伝説は、ざっとこんな内容なのである。
しかし、ハンターの言葉が気になる。
「ダメよ、男は入れない所だから」
一体、どのような場所に取材に行ったのだろう?
男の入れない場所とは・・・・



報告書NO-183
従来、《ノアの方舟》と呼ばれているが聖書によれば、その長さは300キュビト、幅は50キュビト、高さは30キュビトである(「創世記」6・15)1キュビトは、男の右腕のひじから中指の先までの長さと考えられ、約50センチなのだ。
ノアの方舟の実体は、長さ150メートル、幅25メートル、高さ15メートルということになる。
そうなると形状は、羊羹(ようかん)の形をしているのだろう。この船を、今日の船と比べてみると、その大きさは約1万トン級の船であった。
この船は三階建てとして造られた。中にはいくつもの仕切りによって部屋が分けられていたに違いない。

ノアの洪水と方舟は本当のことか?
1949年の夏、アメリカのスミス博士が率いる探検隊が、洪水後ノアの方舟が着いたとされているアララト山上に、遺跡を探しに行った。その三年後の1952年にも、今度はフランスの調査隊が出かけて行った。もちろん、方舟の残骸は発見されなかったというのである。
聖書は、ノアの洪水や方舟を事実として語っている(「イザヤ書」54・9、「マタイによる福音書」24・38~39)。それは、自然科学の面においても、十分に裏づけられていることである。
ノアの洪水が起こされたのは、地上の人々が堕落しきっていたため、その人々を地上から一掃する裁きという目的であったと聖書は教えている。
その時、神は、神を信じ、この世の堕落に染まらずに生きていたノアに向かって、方舟を造り、その中に入って、助かるようにと仰せられた。そして、神の御声に聞き従ったノアとその家族たち合計8人のみが神の裁きの洪水から救われた。だから、キリスト教会では、ノアの洪水を神の裁き、ノアの方舟を神の救いを表わすものとして信じてきた。それが聖書の教えているノアの洪水と方舟の意味である。
もし、神が人を造ったのならその意味には深い謎が秘められているはずだ。そして、神の教えに従わなかった人達を裁いたとしたならば、神とは傲慢な者である。
ナチスのヒットラーと何ら変わらない者としか思えない。
しかし、聖書を信じる人は疑いの眼差しで見てはいない。それは、あたかも新興宗教をも思わせる所業である。

2003年、民間の商用画像衛星によって撮影されたアララト山(トルコ)。公開された。写真を見る限り、とても方舟と呼ばれる代物ではない。ただの岩山の影の形をしている。それでも方舟の存在を信じろと言うのだろうか。疑問が残る写真である。


                        報告書作成者・ハンター

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平成のXファイル・飛来・5NO-257

2009年12月16日 00時26分02秒 | 日記
名前は、筆者。職業はオカルト・古代史探偵。
相棒のハンターは、ハッキングの名手、身元不明の女の子。
東京ベイテレビの「K」という謎の人物から毎回、不可思議な仕事依頼がある。

突然、バイク便が四角い封書を届けに来た。送り主を見ると、東京ベイテレビのKIYOMIZUと書いてあった。
珍しいな「K」からこのような物が届けられたのは、と、思いながら中を見てみると「三保小学校」と書いてある。いわゆる学校新聞であった。
なにが書いてあるのかとページをめくろうとしたら、急にハンターが筆者の手から奪い取って食い入るように見ていた。
表紙は運動会の模様のカラー写真が16枚くらい並んでいるごく普通の学校新聞なのである。見開き6ページの運動会の案内のようだった。
ハンターが見ている表紙に「30周年記念号」と書いてあった。何故、ハンターが興味を示したのかは解らなかった。
すると突然立ち上がり、筆者に向かって、
「この取材、私がやるわ。」
何を言い出すのかと思っていると。ハンターが4ページ目を開いて、下の方を指差した。

“ゲームの最中突然空に未確認飛行物体が現れ”

という見出しが見えて、UFOの写真が掲載されていた。
「おいおい、お前が取材に行くのかよ、止めとけよUFOなんて存在しないのだから。時間のムダ、ムダ。」
と、筆者は相手にしなかった。
この世の中にUFOが存在するのなら、地球に住んでいるほとんどの人間が目撃していてもおかしくはない。しかし一部のそれもごく少数の人間だけが目撃しているのが現状だ。
「やめとけよ。UFOなんて存在するはずがないのだから。」
と、筆者はいつとはなしに声高になっていた。
しかし、ハンターは取材に出かける用意をして外に出て行ってしまった。
UFOの話は、腐るほど多くあるのに目撃者が1人だとか2人ぐらいでいいかげんなものである。
アメリカのUFO墜落の「ロズウェル事件」だけは筆者も知っていた。
たしか・・・・

1947年7月2日の夜。サンダーストームと呼ばれる雷を伴う豪雨に襲われていたアメリカのニューメキシコ州の小さな町ロズウェルで、午後9時50分ごろ、金物商を営むウィルモット夫婦が、空に光輝く飛行物体を目撃した。夫婦によると「突然、燃えているように見える大きな物体が空から急降下してきて、すさまじいスピードで北西方向のニュー・メキシコ州コロナ方面に向かっていった」という。物体は楕円形で、2枚の皿を裏返しにして貼り合わせたような形状であり、その内部は火が燃えているように輝いていたという。
同じころ、ロズウェルの北方にある農場で働くウィリアム・ブレーゼルも、雷より大きな爆発音のような音を聞いた。
『ロズウェルUFO回収事件』(チャールズ・バーリッツ、ウイリアム・ムーア著)によれば、飛行物体は、ロズウェルの北方にあるプレーゼルの農場の上空で雷雨と遭遇し、コースを南南西に変えたが落雷を受けて破損したらしい。
翌3日朝、プレーゼルは馬に乗って農場の見回りに出かけた。そして、何かの残骸が長さ約400メートル、幅約100メートルにわたって散乱しているのを見つけた。大きいものは家ほどもあり、小さく砕けているものもあった。ブレーゼルはコロナに行き、叔父から空飛ぶ円盤がアメリカ中で話題になっていることを聞いた。事件の10日ほど前の1947年6月24日、ワシントン州レーニア山付近で、小型飛行機を操縦していた実業家ケネス・アーノルドが9つの光輝く飛行物体を目撃したことが、新聞で大きく報じられていたからだ。
6日、ブレーゼルから謎の残骸の話を聞いた保安官のジョージ・ウィルコックスは、すぐにロズウェル陸軍航空隊に電話をかけた。この電話を受けたのが、情報部のジェッシー・マーセル少佐だった。そのマーセル少佐から報告を受けた基地指令官ウィリアム・ブランチャード大尉は調査を指示。その日のうちにマーセル、ブレーゼル陸軍情報部(CCI)の捜査官3人で農場に出発、夜遅くに到着した。
7日朝、3人は残骸が飛び散っている場所で調査を行った。そこには、バルサ材のような小さい梁のようなもの、茶色い羊皮紙のように見える非常に硬い金属、アルミホイルのようだがナイフでも切れず、炎に近づけても燃えず、くしゃくしゃに丸めてもすぐに元に戻る紙片などがあった。このことについてマーセルは、
「道具や電機装置のようなものは見つからなかった」と語っている。また、残骸には、象形文字のようなものが記されていた。当時11歳だったマーセルの息子も、7日の夜、父親が家に持ち帰ってきた残骸に同じような印があったことを覚えている。
8日朝、報告を受けたブランチヤード大尉は基地の広報官ウォルター・ハウト中尉に、
「ロズウェル基地の第509爆撃大隊の情報将校が円盤を回収する事に成功した。」
というプレスリリースを行うように命令した。軍が公式に円盤の墜落と残骸の回収を発表したことを受けて、ロズウェルの地方紙『ロズウェル・デリー・レコード』は「かねてより噂されていた空飛ぶ円盤が回収された」というトップ記事を掲載した。
円盤の残骸はテキサス州フォートワースのカーズウェル基地まで運ばれていった。
その後、レイミー准将はカメラマンに茶色の紙の上に置かれた残骸と自分が一緒に写った写真を撮らせると、カメラマンに退出させた。その後、残骸は事件を秘密にしょうとする軍によって気球とすり替えられ、報道陣に公開された。
レイミー准将は「残骸の正体はレーダー追跡用のターゲットをつけた気象観測用気球だった」と発表し、ほとんどの新聞社は訂正記事を掲載した。そのころ本物の残骸は、オハイオ州のライト・パターソン基地まで運ばれていった。

ざっとこんな内容のなのだ。
まったくもってUFO記事というのは、いいかげんな内容である。UFOが、さも存在するかの記事である。
筆者だけだろうかUFO否定論者は・・・・
そんな事を考えていたら、ハンターから携帯にメールが入った。
「今回の報告書は、私が書くわ。」
何を考えているんだ、ハンターの奴は。馬鹿なことを考えてないで早く帰ってくればいいのにと一人つぶやいていた。


報告書NO-257
JR横浜線の中山駅で下車し、徒歩で約20分ぐらいのところにその学校はあった。
神奈川県横浜市緑区三保町の三保小学校である。
三保小学校に問い合わせたところ、
「あれは、UFOではなくて、気象観測用の気球ですよ。」
という返事がかえってきた。
学校新聞を元に目撃者を探したが、なかなか見つけることが出来なかった。
しかし、ようやく目撃者の一人の女の子が見つかった。
その女の子の話をまとめてみた。

2000年10月21日、三保小学校の校庭で創立30周年記念の行事が行われた。
計画委員が「はじめの言葉」を述べた後に、三保小学校の歴史クイズが行われ、続いて鈴割り、大玉送りを行っている時に、突然一人の生徒が、
「あ、ユーホーだ! !」
と叫んだ。
全校生徒844人、教師、父兄等を含めると約1000人弱全員が空を見上げた。するとそこには、一機のUFOらしき物がゆっくりと弧を描きながら回転していた。
全校児童皆騒然となり、収拾がつかない状態となった。
しかし児童委員の機転のきいた次の一言により、ゲームが続行された。
「UFOも三保小の30周年記念を祝いにきたようです。さあゲームを続けましょう。」
又、大玉送りの最中ケガ人が出ることを心配した委員達は、先生方に生徒の列の横についてもらう安全対策を考えたようである。
その後、UFOは上空に上がり見えなくなったと言う。
しかし、その後の追跡調査の結果、同日同時間頃、三保小学校から北方にある鶴見川の上空で同様のUFOが別人によって目撃され、写真に撮られていたのである。
UFOを否定するのは簡単だが、この目撃者数は普通では考えられない数字なのだ。アメリカで同様のUFO目撃事件が起こっているが、何かしら別の宇宙から飛来したと考えてもおかしくはないのではないだろうか。

                      報告書作成者・ハンター

筆者の追記
写真の女の子は、なんとなくハンターのような気がする。
もしかしたらハンター自身がUFOを目撃したのかもしれない・・・・


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平成のXファイル・奇怪・4NO-166

2009年12月09日 00時11分57秒 | 日記
名前は、筆者。職業はオカルト・古代史探偵。
相棒のハンターは、ハッキングの名手で身元不明の女の子。
東京ベイテレビの「K」という謎の人物から毎回、不可思議な仕事依頼がある。

外は雨、うっとうしい一日が終わろうとしていた。ソファに横になりながらテレビを観るとはなしに見ていると、例のごとく「K」からのメールが入った。

「指、つめ状あり、カッパか?」
NO-166「宮崎日日新聞」1991年7月9日~宮崎県

ハンターは、外出していて居なかったので一人で考えていた。
カッパ上陸地は、熊本県八代市にあったはずだ。以前、取材に行ったのを思い出した。
たしか、
「応神天皇の時に、熊本県八代市の徳渕ノ津にカッパの集団が上陸して河川を通じて全国に広まった。」
という伝説もあり、「河童九千坊音頭」という唄まで作って記念碑まで建っていたはずである。
そのようなことを考えていると、事務所のドアが開いて、ハンターが帰って来た。
「外はひどい雨が降っていて濡れてしまったわ。」
そう言いながら、買ってきたものをテーブルの上に置いた。
「パソコンの調子が悪いので、ちょっと部品を買ってきたのよ。」
その言葉をさえぎるかのように、筆者は携帯を差し出した。
「Kからの伝言ね。」
濡れたコートを脱ぎながら、
「今夜、パソコンを直すから、朝までに情報を出しておくわ。」
筆者は黙ってうなずいて、またテレビの方を向いた。

翌朝、目が覚めるとパソコンの画面に「宮崎日日新聞」の紙面が出ていた。

西都市下三財の会社員宅に正体不明の動物の足跡らしきものが、居間や畳や廊下に点々と黒いしみになって付いているのを見つけた。直径10センチほどに3~5本の指とつめのような跡、それに黄色い液体。しかも黒いしみはいくらふいても消えない。
このあたり一帯は昔からカッパが住んでいたという言い伝えが残っている。
その不思議な液体を保健所にもっていき、成分分析を依頼。わき水に見られるような鉄分が高いという結果が得られた。
さらに、フェニックス自然動物園の竹下完副園長に〃足跡〃の写真を見てもらったところ、「写真ではなんともいえないが、このような足跡の動物は考えられない。」
ざっと、このような内容だった。

パソコンの画面右上に「伝言」と書かれたところをクリックすると、新しい画面に切り替わった。
「河童のミイラ」「人魚のミイラ」「龍のミイラ」の写真が見えた。いずれも大阪・瑞龍寺所蔵と書いてあった。
その下に、ハンターが書いた文字が目に飛び込んできた。
「K」からの追伸あり。香川県高松市・根香寺に「牛鬼の角」あり。予約済み。
と、書かれてあった。
「う~、河童と牛鬼の角、どのような関係があるのだろう」
などと、考えながら羽田空港に向かった。

高松空港でレンタカーに乗って高松市内に向かった。高松市から県道180号線を西に行くと五色台という山の中に根香寺はあった。
車を止めた目の前に大きなゴジラに翼つけたような像が建っていた。
若い頃、四国八十八ヵ所の遍路を思い出した。しかし、このような大きな像があるという記憶はなかった。と、言うより興味がなかったから早足で御朱印帳に記入してもらって、次の札所に早足で向かったと言うほうが正解なのかもしれない。
それよりも「牛鬼の角」が目的であるので、他の巡礼にまじって受付へと急いだ。早々に住職に会う旨を伝えると、待っていたのかと思えるような応対だった。
「ハンターの奴、ここまで手を回していたのか。」
頼もしい相棒に感謝をして、受付の入口から中に入らせていただいた。
住職が、
「遠いところを、わざわざ大変でしたね。」
ねぎらいの言葉を言われ、奥から木箱を持ってテーブルの上に置かれた。
木箱に「牛鬼角・双角」と書かれてあり、ふたを開けると白い角笛の小さなものが二つ現れた。許可を戴き、写真に撮らせてもらった。
やはり礼儀として、「根香寺の由来」を聞くのが本筋だと思ったので住職に尋ねた。
すると住職は、待ってましたとばかりに語り始めた。
「当寺は、四国八十八番の札所で平安時代に弘法大師(774~835)が花蔵院を創建して五大明王をまつり、智証大師が千手院を建立して千手観音をまつり、この二院を総じて根香寺と称したのです。
約400メートルの山上に地形をたくみに利用して堂宇が配置されておりまして、山岳仏教の特長をよく物語っています。
栄えていたころは、境内に99の僧房があったといわれています。その後、南北朝時代よりしだいに衰え天正13年(1585)には兵火にあい、堂宇の大半を焼失しましたが、その後、生駒氏松平氏の保護をうけて復興されました。
現存の本尊千手観音像は、国の重要文化財に、五大明王像は県の重要文化財に指定されています。」
その長い由来を聞かされた後、「牛鬼の角」の由来を聞いた。
「伝説によれば、今から400年以上前、根香寺に牛鬼という奇怪な生き物が住んでいて人畜を害していたのです。人々は大変困り、弓の名手である山田蔵人高清に頼んで牛鬼を退治して貰ったのです。山田高清は退治した牛鬼の角を切り取り、根香寺に奉納したといわれています。」
由来を聞き終わった筆者は、住職にお礼を述べて、一通り境内を巡り根香寺を後にした。


報告書NO-166
我が国に河童渡来の伝説が各地にみえるが、特に九州地方に「河童のミイラ」や「鬼のミイラ」などが多くある。
遠野地方にも河童伝説があるが、どれも九州から北上してきたようだ。

『覚什・太子傳記』には、
推古天皇の27年(619)、己卯(つちのとう)の年の春の頃、近江の国から異形の者が進送された。その形は子供のようで、4本の手足があるというものの人ではなく、また、かといって魚にも似ておらず、獣でもない。

『日本書紀』には、
秋7月に、摂津国に漁父(あま)ありて、罟(あみ)を堀江に沈(お)けり。物有りて罟(あみ)に入る。其の形児(わかご)の如し。魚(いお)にも非ず、人にも非ず、名(なづ)けむ所を知らず。

これこそ日本最古の河童の記録なのではないだろうか。そう思いながら河童伝説のルーツを調べていったところ、河童伝説は想像以上に古く、なんと応神天皇の御代にまで遡れることがわかった。
その伝承によると、河童は応神天皇の時代に帰化人とともに九州に渡来し、地下水脈を通って日本全国に広まったというのだ。
この伝承自体にどれほどの信憑性があるかわからないが、帰化人とともに渡来した異形の生物であるという説は非常に興味深い。というのも、応神天皇の時代に大挙して日本に渡ってきた人々といってすぐに思い浮かぶのが「秦」のルーツである弓月の君の一族であるからだ。この河童に酷似した生物も実在の生物ではなくて、彼らが大陸から持ち込んだ寓話や伝説としての存在だったのではないだろうか。
日本全国に河童伝説が古くから存在していることを考え合わせると、実際に日本全国へ散らばったのは河童ではなく、「秦」の一族だったのかも知れない。

追記
「牛鬼」という像は、あたかも聖書に出てくる4つの生き物を一つにしたみたいな怪物みたいである。

『ヨハネの黙示録・第4章』
「第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は若い雄牛のようで、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空を飛ぶ鷲のようであった。」



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