山上智の「古代史開封」

未だ我が国の古代史の謎が解けていない。
そんな未知の世界に挑戦する物語である。
「真実の歴史の道は一本である」

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

第六回古代史開封

2011年04月18日 00時21分34秒 | 日記

第四章「邪馬台国と宇佐八幡鉄をめぐる数々の一致」


古代において、大量の物資や人間を運ぶために船が重要な役割をはたしたことはいうまでもない。現代人には感覚的にわかりにくいかもしれないが、かつて日本海は、山陰地方と北陸、東北を結ぶ、海の大動脈であった。
そして、東北の最奥部、津軽にあった十三湊は、安東水軍で栄えた名高い港だった。
一方、出雲の代表的な湖である宍道湖とその隣にある中海もまた、外界から完璧に守られた、要塞ともいえる静かな港を兼ねた天然の良港だった。
筆者は、この宍道湖と十三湊が、互いにタタラ・鬼伝説によって結ばれていたのではないか、とにらんでいる。
それというのも、卑弥呼の鬼道(艮)ラインは北九州国東半島から発し、ちょうど出雲の隣の鳥取県から日本海へと出て、そのまま東北方面に伸びている。つまり、出雲~東北という海上路は聖なるパワーによって守護されたルートなのである。
昭和52年(1977)、北九州の国東半島国東町の重藤遺跡から鉄剣が出土した。その年代を九州大学で測定した結果、紀元前695年プラスマイナス40年という数値が出たという。
いや、まだ驚くにはあたらない。国東半島には二万~三万トンもの鉄鐸があり、かつてここでは世界的な規模で製鉄が行われていたことが推定できるというのである。
宇佐神宮に近い国東半島のつけ根にあたる海岸には、奈多八幡宮(奈多宮)が鎮座する。重藤遺跡は奈多宮に隣接しているのだが、この奈多宮は、宇佐の比売大神の前住地といわれ、主神は比売大神である。そして、奈多宮の東に広がる海岸は良質の砂鉄地帯で、この宮に近い見立山の山麓一帯は古代の一大製鉄地帯だったのである。そこからは鉄滓や、タタラ址と見られるガラス状に焼けた炉壁が数多く出土している。
古来、宇佐神宮の重要神事である「行幸会」にも触れておきたい。これは6年に一度、卯と酉の年に行われるもので、京の公家から神服・網宝が貢納され、宇佐宮側にある古いものと交換する儀式になっている。
その年には、まず下毛郡大貞の薦神社の池で刈られた眞薦(水草)で、長さ一尺、径三寸の方舟の形をした薦枕を作る。それを御神体として神輿に乗せて担ぎ、宇佐八幡周辺の8つの摂社を巡り、本社に納める。古い神体は奈多八幡宮に移され、6年を経て今度は伊予(愛媛県)の矢幡八幡に移動、最後は海に流されるのだ。
また、宇佐八幡では、1000余年にわたって「宇佐八幡宮に神鏡を奉納する」という「放生会」の儀式も行われてきた。
まず、豊前の国司が勅使となって宇佐から直線距離で35キロほど北西にある香春の採銅所に行き、小川で禊をして宮柱の長光家で鏡の鋳造に参加する。
神鏡ができあがると、ひとまず豊前仲津郡(福岡県行橋市)の草場地区にある豊日別神社に運ばれる。そこから鏡は神輿に乗せられ、氏子たちが行列を組み、7日がかりのリレーで宇佐の隼人塚(凶首塚)に運んで祭りを行い、約6キロ離れた和間浜の浮殿に出るのだ。
なぜ、このようなことを書くのか。それは、筆者の検証によれば、香春は「魏志倭人伝」の行程に記された「不弥国」にあたるからだ。「不弥国(香春町)から御祓川を南下すると今川にぶつかる。さらに今川を下って行くと行橋市に出る。ここが投馬国である」
「魏志倭人伝」では、その後、邪馬台国に到達するのだが、不弥国→投馬国(行橋)→邪馬台国というルートは、放生会の香春→行橋→宇佐の行程とピッタリ一致する。これは単なる偶然ではない。
また、奈多宮と宇佐神宮が、比売大神と鉄生産をとおしていかに強く結ばれていたのもわかる。奈多宮が古代に、重藤遺跡と宇佐神宮を結びつける大役を担っていたのは明らかなのだ。
そう、これらのことは筆者が述べている邪馬台国=宇佐説をさらに強く裏づけるものとなったのだ。
コメント   この記事についてブログを書く
« 第六回古代史開封 | トップ | 第六回古代史開封 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事