ブログの記載内容がフィクションではないかと言われた。
もちろん、本気で言われたとは思っていない。
この1年、何が自分に起こったか必死で考えてきて、元には戻れないと絶望し、苦悶し、起こっていることをブログに書き綴って、それで今日の唯一の日課は終わり(起こっていることの懸念から、他にやることの気力も意欲もない)といった1日1日を信じられない質の低さで過ごしてきた。フィクションと言われることは本意ではない。フィクションを書くために、わざわざ長期間、休職して家族や親に心配を掛けているわけではない。また、フィクションを考えるほど、精神が変容しているわけではない。
人に理解されない不幸はあるのだと再認識している。人に本当に理解されると、理解した他者はその都度気が気でないので、そんなことは分からないようになっている。ゆえに言葉を尽くすコミュニケーションが必要になってくるわけである。知らぬが仏である。
身体にどのような変調が起こっているのか、いまだに・・・、いまだにこの状態ですら、外見や歯茎を見せても分からない人は分からないのだろう。寝ても覚めてもどれだけひどい耳鳴りか、・・・でも他人に聞こえるわけがない。聞こえぬが仏である。地獄です、本当に。何ヶ月ぶりかで会った人の方が、外見の変化に気付いてくれるが、そもそも他人は人の外観なんてきちんと見ていないのだと再認識した。自分の身体ではないから。その点で”絶対客観主義者”の医師や多くの人たちは結局、同じ考え方だということが分かった。それはそれで仕方ないと思う。
フィクションと思われても信じられないことを体感しているし、その体感していることは他者には感じることが不可能であることもわかっている。しかし、世界や日本で同様の信じられないこと(薬害)が起こっているのは確かだと思うので、その側からきちんと書けることを書いておく。信じられなければ信じなくてもいい。
理不尽なことが起こる、身内に迷惑を掛ける、周囲に理解されない、・・・症状が顕著化してから、どん底に突き落とされ、ネガティブなことばかり考えて1年を過ごした。これはこれで仕方なく、必要な過程であったと思う。
1年経ってしまったが、まだ生きている、(一般動作として)動ける、でも指や足や筋肉の消失、歯肉の減退等は進行して治る気配すらない。これは永続的で後遺障害なのだろうと覚悟も最近するようになった。
10数年、激務に耐える助けになる、しめしめと思ってデパスを放り込んできた。45年生きてきて、病気らしい病気もせず、学校も勤務も皆勤、病欠なし、栄養に気をつけてここ数年は毎日野菜ジュースをつくって飲み、年間100日水泳も行った。デパスという全く相反するものを無知に飲んできて、そういった生活習慣、運動習慣が薬に容易に負けてしまうことをこうなって初めて知った。なまじ、体力や筋力をつけてきたので、悪影響もじわじわとしか進行しないのかも知れない。10年以上、自覚症状を感じなかったことが不思議だ。それだけ強かったのだと思う。それでも顕著化して1年でこうなってしまったことは速い進行とも思う。他者は、「2-3ヶ月ぶりだけど変わらないじゃないか」という程度の認識だろうけど。やむを得ない。自分のことは自分で責任を取らないと。
開き直りやある程度の達観(前回、達観できないと書いたので、言い換えると「明らめ(あきらめ)」)をもって人に直接接すると、相手は、「この人大丈夫ではないか、ブログに書いていることは本当か?」ということになるのだろう。ある割合の人はそう思うに至っても不思議でないし、そのことに不満をもっても仕方がない。それが人の多様性というものだろう。
ブログではぶつくさ症状を書き続ける。それが体感的事実だし、自分が陥れられた因果が、社会問題だと思うから。
一社会人としてこのまま埋もれて悩んでいたら、廃人となってしまう、1年経って存在が忘れられることも仕方ない、であればもの凄い努力と気力を要するが(健常者には絶対に分からない・・・この表現は反発を生むかも知れないが事実)、その時まで気丈に社会復帰を模索するしかない。予定寿命まで行かず、行き倒れたらその時点で人は「ああ、薬害だったのだ」と初めて認めてくれるのだろう。いや、そのときでも「あの人は精神を病んでお気の毒に」かもしれない。大多数は事実関係などどうでもいい。精神を病んだ、そんな感じらしい・・・と。プライドもなにもあったものではない。薬害を認めてくれても生命が長らえられるわけでもない。
社会復帰努力がなされている間に回復が認められればいいが、そんな虫のいい話もないだろう。希望を持てないから悩んでいるわけで、無理矢理希望をもつ空しさがどういうものであるか。
せめて、怒りや理不尽感が生きる張り合いになれば。それだけしかないけど。
(ブログデザインは既存のテンプレートが使えなくなるため、変更しました。)