ひとくちに愛情といっても、その特徴はさまざまです。友だち関係のような軽いかたちの愛情、そして相手の心も体も独占したくなるほどの強烈な愛情、さらには、相手の幸せだけを望むことが第一で、自分の欲望を度外視するといった見返りのない愛、いわば無償の愛というものもあると考えられます。というわけで本稿では、愛というものを以下の三種類に分類してみることにします。
① 友愛=フィリア
② 性愛、肉体愛=エロス
③ 無償の愛=アガペー
いちおうこのように分類してはみたものの、実際に人が誰かを「愛する」場合は、この三種類の愛が大小さまざまなケースに織り交ぜられているケースが多いでしょう。一般には、自分の産んだ子供を愛するという感情は①のフィリアと③のアガペーが混じり合っているものです。親が我が子を愛するのは、その子から自分に何らかの見返りを望んでいることが理由で、愛するわけではありませんよね。純粋にその子を愛しているから、その子が幸せになることを願うから、親は自分の苦労をいとわずに子のために尽力するのです。しかしながら、親ならばだれでも自分の子に対するアガペーを抱いているわけでもないようで、育児放棄をしたり虐待して殺してしまう親もいますし。
友愛(フィリア)とは何でしょうか。私の考えでは、友愛とは友だち同士の間で発生するような、自然な好感、好印象といったイメージです。相手に愛を感じるのは、嫌う理由がないから。別に積極的に好きなわけでもないけれど。そういった程度の軽い好印象なイメージというものを、友愛という言葉からは感じられます。けれどもこれは無償の愛(アガペー)と違って、友愛には何かしらの条件がある。友愛には双方向性があります。相手が自分に益をもたらす(あるいは害をもたらさない)存在だから、自分もまた相手に対して良い印象を持つようになる、ということです。いってみれば条件付きの愛。
無償の愛(アガペー)は友愛とは違い、相手が自分に益をもたらそうが、害をもたらそうが、はたまた相手が自分の存在に気づいていなかったとしても、自分が相手を愛するという感情。何の見返りがなくとも、相手の存在そのものを愛そうとすることです。キリスト教が説く愛こそ、まさにこのアガペーの最たるものでしょう。「神は全人類を無条件で愛してくださっている」とか、「敵を愛し、自分を憎む者たちのために祈れ」などといった聖句を読めば、無償の愛とはいかなる概念なのか、ということを多少なりとも知ることができるでしょう。
・・・さて問題は、私と元カノとの間における愛。かつては私と彼女の間は②の性愛(エロス)で満ち溢れておりました。互いが互いを肉体的にも精神的にも独占しあうような関係です。しかしながら、長い時を経ていくうちに、彼女に対する私のエロスはだんだんと経年劣化していったわけです。対して、彼女のほうは昔と変わらないエロスを私に対して抱いているようです。いやエロスだけではなく、もしかしたらそこにはアガペーもあるかもしれません。「例え嫌われても、捨てられてもずっとずっと愛してる人です」という彼女からのメールを文字通りに解釈するなら、それはアガペーであると考えることもできましょう。しかしそれが本当にアガぺーと言えるのかどうかはちょっと疑問があります。というのは、彼女は私を愛するだけでは満足することができず、それ以上に私に彼女を愛することを望んでいるように思えるからです。
ある日の深夜、私の車のなかで彼女としゃべっていたとき、私の応答のせいで、彼女がパニック状態に陥ってしまったことがありました。彼女は私のことを愛しているが、あなたは私のことを愛しているのか? と尋問され、返答につまったときに、つい言ってしまったのでした。
「俺は愛という感情がよくわからないんだ。愛って何だろう?」
「・・・え? 相手を好きになること、かな・・・」
「じゃあ好きってどういうことかな?」
「・・・それは、相手がいないと切なくて苦しい気持ちになること・・・」
「そうなんだ。じゃあ別に俺は君を愛しているわけでもなさそうだ。だって、俺には君がいてもいなくてもどっちでもいいんだもん」
・・・その時、彼女の態度が急変しました。私が何を言っても何のリアクションもなくなり、ケータイで自宅への帰り道を調べ始め、あろうことか、走っている私の車のドアを開けて無理やり脱出しようとしたのです。
「・・・降ろしてょぉ。。一人でかぇるからぁぁぁ。」
どうやら私は言ってはいけないことを口走ってしまったようです。私の不用意な発言のせいで、彼女の精神は錯乱状態に陥り、ちょっとどうしようもない状況になってしまいました。私は1時間くらいの間、自分が言ってしまった言葉を謝罪しまくりました。そしてついに、自分の意志と反するかのような、次のような言葉を発するに至ったのです。
「ごめん! 悪かった、本当にごめん! 本当はね、愛しているよ! 愛してるから大丈夫だよ! だから落ち着いてね! ずっとそばにいるから安心してね!」
・・・ああ、また言ってしまった。。。その場しのぎの言葉を。。。でもしかたがない、すべては自分で捲いた種。今から6年前の夏に、彼女を愛してしまったことが、私のそもそもの過ちなのだから。もはや彼女にエロスを感じることは無理かもしれない。けれども、フィリアやアガぺーでなら彼女を愛することはできるかもしれない。今後は彼女に無償の愛を献身することが私の義務になるのだろうか? それならそれで、致し方あるまい。彼女を愛したことが、私の罪の始まりだったのだから。彼女への無償の愛は、いわば私の彼女への贖罪・・・・・・。
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① 友愛=フィリア
② 性愛、肉体愛=エロス
③ 無償の愛=アガペー
いちおうこのように分類してはみたものの、実際に人が誰かを「愛する」場合は、この三種類の愛が大小さまざまなケースに織り交ぜられているケースが多いでしょう。一般には、自分の産んだ子供を愛するという感情は①のフィリアと③のアガペーが混じり合っているものです。親が我が子を愛するのは、その子から自分に何らかの見返りを望んでいることが理由で、愛するわけではありませんよね。純粋にその子を愛しているから、その子が幸せになることを願うから、親は自分の苦労をいとわずに子のために尽力するのです。しかしながら、親ならばだれでも自分の子に対するアガペーを抱いているわけでもないようで、育児放棄をしたり虐待して殺してしまう親もいますし。
友愛(フィリア)とは何でしょうか。私の考えでは、友愛とは友だち同士の間で発生するような、自然な好感、好印象といったイメージです。相手に愛を感じるのは、嫌う理由がないから。別に積極的に好きなわけでもないけれど。そういった程度の軽い好印象なイメージというものを、友愛という言葉からは感じられます。けれどもこれは無償の愛(アガペー)と違って、友愛には何かしらの条件がある。友愛には双方向性があります。相手が自分に益をもたらす(あるいは害をもたらさない)存在だから、自分もまた相手に対して良い印象を持つようになる、ということです。いってみれば条件付きの愛。
無償の愛(アガペー)は友愛とは違い、相手が自分に益をもたらそうが、害をもたらそうが、はたまた相手が自分の存在に気づいていなかったとしても、自分が相手を愛するという感情。何の見返りがなくとも、相手の存在そのものを愛そうとすることです。キリスト教が説く愛こそ、まさにこのアガペーの最たるものでしょう。「神は全人類を無条件で愛してくださっている」とか、「敵を愛し、自分を憎む者たちのために祈れ」などといった聖句を読めば、無償の愛とはいかなる概念なのか、ということを多少なりとも知ることができるでしょう。
・・・さて問題は、私と元カノとの間における愛。かつては私と彼女の間は②の性愛(エロス)で満ち溢れておりました。互いが互いを肉体的にも精神的にも独占しあうような関係です。しかしながら、長い時を経ていくうちに、彼女に対する私のエロスはだんだんと経年劣化していったわけです。対して、彼女のほうは昔と変わらないエロスを私に対して抱いているようです。いやエロスだけではなく、もしかしたらそこにはアガペーもあるかもしれません。「例え嫌われても、捨てられてもずっとずっと愛してる人です」という彼女からのメールを文字通りに解釈するなら、それはアガペーであると考えることもできましょう。しかしそれが本当にアガぺーと言えるのかどうかはちょっと疑問があります。というのは、彼女は私を愛するだけでは満足することができず、それ以上に私に彼女を愛することを望んでいるように思えるからです。
ある日の深夜、私の車のなかで彼女としゃべっていたとき、私の応答のせいで、彼女がパニック状態に陥ってしまったことがありました。彼女は私のことを愛しているが、あなたは私のことを愛しているのか? と尋問され、返答につまったときに、つい言ってしまったのでした。
「俺は愛という感情がよくわからないんだ。愛って何だろう?」
「・・・え? 相手を好きになること、かな・・・」
「じゃあ好きってどういうことかな?」
「・・・それは、相手がいないと切なくて苦しい気持ちになること・・・」
「そうなんだ。じゃあ別に俺は君を愛しているわけでもなさそうだ。だって、俺には君がいてもいなくてもどっちでもいいんだもん」
・・・その時、彼女の態度が急変しました。私が何を言っても何のリアクションもなくなり、ケータイで自宅への帰り道を調べ始め、あろうことか、走っている私の車のドアを開けて無理やり脱出しようとしたのです。
「・・・降ろしてょぉ。。一人でかぇるからぁぁぁ。」
どうやら私は言ってはいけないことを口走ってしまったようです。私の不用意な発言のせいで、彼女の精神は錯乱状態に陥り、ちょっとどうしようもない状況になってしまいました。私は1時間くらいの間、自分が言ってしまった言葉を謝罪しまくりました。そしてついに、自分の意志と反するかのような、次のような言葉を発するに至ったのです。
「ごめん! 悪かった、本当にごめん! 本当はね、愛しているよ! 愛してるから大丈夫だよ! だから落ち着いてね! ずっとそばにいるから安心してね!」
・・・ああ、また言ってしまった。。。その場しのぎの言葉を。。。でもしかたがない、すべては自分で捲いた種。今から6年前の夏に、彼女を愛してしまったことが、私のそもそもの過ちなのだから。もはや彼女にエロスを感じることは無理かもしれない。けれども、フィリアやアガぺーでなら彼女を愛することはできるかもしれない。今後は彼女に無償の愛を献身することが私の義務になるのだろうか? それならそれで、致し方あるまい。彼女を愛したことが、私の罪の始まりだったのだから。彼女への無償の愛は、いわば私の彼女への贖罪・・・・・・。
