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やるぞ!30代で貯金1000万円!30歳からの「お金の」哲学

2009年1月現在貯金額100万円である自分が、さらに貯金をふやそうと日々孤立奮闘するさまを記録する(予定の)日記です。

有料自習室に行ってみた。

2011-08-11 22:03:44 | 経済学
8月11日(木)晴れ

お気に入りの書店のひとつである横浜駅地下街の有隣堂に出かけてみたら、レジのところに「横浜ノリノリ勉強室」という有料の貸し自習室のチラシが置いてあるのを発見。へえ、こりゃおもしろそうだ、ということで、チラシに記載されていた場所に直行してみた。そこでは机と椅子と電気スタンドがワンセットずつ、壁に仕切られて配置されており、それぞれのブースの中で老若男女が思い思いにそれぞれの勉強をしていた。

受け付けのアルバイト風のにいちゃんに説明を受け、とりあえず入会金500円を即払い。利用にあたってはいろんなコースがあって、まあそこらへんの漫画喫茶に似たような料金体系ですな。例えば短い時間だけ利用するなら30分160円。あるいは4時間以上使うのならば1000円。はたまた、一日ずっと居続けるのなら2000円。また月極めで利用することもできるみたいで、そうなると一月16000円で使い放題。

初回ということで、お試し感覚でひとまず30分160円コースを利用することにした。なるほど、周囲の人びとはみな熱心に何かを勉強している。当たり前だけど、騒ぐ人もいない。しかもお茶のサービスまでついている! こりゃあいいや、ということでそのまま3時間ばかし読書に集中していた。自習室を出たときに3時間分の使用料960円を払った。ふむふむ、金はかかるけど、なかなかいい環境の自習室でしたな。。。

何もわざわざお金を払って自習室なんて使わなくても。本を読むだけなら、自分の部屋とか、あるいは近所の図書館でもいいじゃない、と思われる方もいよう。ただ自分の場合、自室にはパソコンやらゲームやらがいっぱい散らかっていて、読書をするにはあまり適した場所ではないのである(汗)。それに図書館。確かに自分には葉山図書館というお気に入りの図書館があるのだが、無料だけあって、いろんな人が出入りするし、それにこの時期になると、夏休みに入った近所の小学生のクソガキどもが涼を取るためにうじゃうじゃ図書館に集まりだしてきて、ヒソヒソ話をしていたり、ゲームをしていたりするのだ。というわけで、今となっては図書館すらも、読書に最適な場所とは到底言えなくなっているのだ。

お金がかかるということは、実はそんなに悪いことじゃない。確かに昔の自分みたいに、あちらこちらから借金をして首がまわらなくなってしまったりすれば、図書館みたいな無料の公共スペースの存在はそれだけでありがたいものである。だが幸いにも今の自分には借金がない。借金がないから、お金を払ってでも快適さを求めていろいろなことをやってみることができるのだ。

自習室や図書館など、勉強や読書をするために空間を利用する際、お金を払わなくてもいいケースと、お金を払わなくてはならないケースがあるとしよう。この二つのケースの違いは何か。公共施設か、営利企業か、という違いが最も大きな違いである。また、ここから派生して、どちらにも利用者にとってのメリットがある。営利企業が利用者からお金を頂くことで、利用者が受ける恩恵、それは、企業の側が利用者を選別してくれるということだ。図書館みたいに、誰であっても利用できるとなると、行儀の悪いクソガキどもが大挙してやってきて、うるさくなったりすることで迷惑したりするが、有料の自習室ならば、そういう迷惑を被る可能性はほぼない。だからこそ、お金を払ってフトコロを多少痛めてでも、この種の自習室の需要があるわけだ。

経済学の教科書でも、こんなことが書いてあったりするのを見かけることがあるよ。

 価格とは、ものやサービスの利用を特定の人に限定するための手段のひとつである。

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お金の価値はモノの供給量に左右される。

2011-03-15 22:07:11 | 経済学
今回の大震災以降、私は株でおよそ10万円の損失を出しました。10万円といえば私にとっては相当な大金なのですけれど、しかしそれだけのお金を失っても、さして残念がったり落ち込んだりすることもなく、いたって冷静な自分がいることに気づかされます。いかんせん事態が事態ですし、それに命を取られているわけでもありませんから。東北地方の沿岸部で被災された方々の苦しみに比べたら、私の被った損失なんて、はっきり言って損失のうちに入りませんからね。。。

・・・10万円の損失なんてことよりももっと苦痛なことは、「お金」の欠乏よりもむしろ「モノ」の欠乏のほうです。スーパーやコンビニでも米やパンが品切れになっており、食事を取るにも事欠くような状況に遭遇しました。さらには電気やガソリンといったエネルギー資源の不足。こちらは(今のところ)食事よりも深刻です。食事は、不足しがちであるとはいいながらも、えり好みをしなければ何かしらは口に入れることができる。たいそうありがたいことです。しかし電気の不足による電車の運行本数減少あるいは運行停止の場合、出勤・退勤すらまともにできなくなりかねず、このため帰宅できなくなった日もありました。またガソリンは自家用車なら自粛すればすむことですが、営業用車両となると自粛するわけにもいかず、上司がひっきりなしに会社周辺のガソリンスタンドの在庫を確認している状況で、ガソリンの在庫があるスタンドの情報をキャッチするとすぐに「さあ入れに行け~~!」などと部下たちに発破をかけている状況でした。こうしたガソリンを得るための右往左往に時間を取られたことで、通常の業務に結構な支障をきたすことにもなりました。

食料や電気やガソリンなどの生活必需品が逼迫している状況においては、それらの物資をあわてて探し回ることに力を尽くすあまり、そのものがいくらで売られているのか、という点を見逃しがちになったりはしませんか。私の場合、震災のあと、食料品や営業用のガソリンを求めてあちこち走りまわり、やっとの思いでそれを手に入れてお金を払う瞬間って、自分がいくら払ったのだろうか、という点にまで意識が回っておりませんでした。あとになってレシートを見まわしてみると「あれあれ、食料品だけで4000円以上使ってたんだ・・・」「ええ、レギュラーガソリン1リッター151円だって! そんな高かったんだ・・・」などとあらためてそのモノの値段に意識をのぼらせて、振り返ってみたりしてしまいました。普段はちゃんと買う瞬間に、しっかり値段を意識しているはずなんですけれど・・・。ああ、もしかすると金銭感覚というのは、現在のような緊急事態においては、平常時と比べると、相当に狂ってしまうものなのかもしれません。。。金銭感覚が狂ってしまったからこそ、冒頭で述べたように、私が株で10万円の損害を出しても、何とも思わなくなってしまった、ということも原因の一つと考えられるかも。

・・・おお、ここにこそ「モノ」と「お金」のたいそう興味深い関係が存在しているようです。モノが十分に供給されている状況においてこそ、お金の価値が保証されている。ということは逆に、いったんモノの供給に欠陥が生じると、それと並行するように、お金の価値もあまり重要視されなくなるのだ、ということが言えそうな気がします。だって、いくらお金を持っていたとしても、モノが十分に売られていなければ、持っているお金が「交換」という効果を発揮するとは限らなくなるわけですから、そのぶんお金の価値(重要性)が減少する。つまり、お金に対する人々の欲望もまた減少する。だから、今みたいなモノ不足の世の中では、価値をあらわす不等式はこのようになるということかな。

 モノ>お金

あれっ、これこそまさにインフレをあらわす状況ではありませんか!? まあ、考えてみたら当たり前でしょうね^^; 供給量よりも需要量が大きければモノの値段がだんだん上がっていくのは市場経済の鉄則。さらに言えば、インフレというのは要するに、人間みんなの金銭感覚が狂っている状態、とも言えそうな気がしてまいりましたが、さてどうでしょうか。。。もし現状の供給不足が、人びとのお金に対する価値観を狂わせているのだとすれば、たとえばサントリーの自販機が災害時に無料で飲み物を提供できるようにしていることとか、あるいは東北地方のあるラーメン屋さんが被災者に無料でラーメンをふるまっているという行為に対しても、合理的に納得できるというものでしょう。。。

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特化の利益について

2010-10-29 22:58:31 | 経済学
人びとが生活をするうえで「お金」が存在しなくてもよかった原始時代は、みんながほぼ自給自足の生活を営んでいたのでしょう。そういった現状のなかで、もしも生活に必要なものが自分で作れなかった人は、近くの別の人のところに行って、自分もなにかのモノを差し出す代わりに、自分に必要なモノを相手からもらっていたのでしょう。お金が存在しないとなれば、経済のあり方としては、自給自足経済か、物々交換経済か、くらいしかないでしょうし。。。

けれども現代においては、自分が必要なもののほとんどを自分で作るということは、めずらしいことですよね。なかには服も食べ物も家もぜんぶ自分で作ってしまえるような器用な人もいるかもしれませんが、そういった方がいる割合は、人間の全体からしてみたら、ごくごくわずかでしょう。大部分の人たちは、自分で使うものはお金を払って他人からもらい、またお金を稼ぐために、自分は何かひとつの、人様に役に立つようななりわい(生業)にほぼ毎日従事することが普通でしょう。でも、ここで不思議に思いませんか。どうしてわたしたちは自分が必要なものを自分で作らなくなってしまったのでしょうか? だって、自分で使うものを全部自分で作ることができれば、そもそも不景気だとか金融危機なんてものは発生しないし、それに戦争だって起きなくなるじゃないですか。すなわち、ほかの人が持っているものをうらやむあまり、その人から力ずくで無理やり奪ったりすることもなくなり、みんなで安寧な暮らしを送ることができるはずじゃないですか? 

・・・この問題の答えとしては、人間って、やっぱり欲望が限りなくあるからなのかな、という考えが浮かんできます。欲望があるから、自分が作るものだけでは満足できなくなって、自分が作るものよりももっといいものが欲しい、と思ってしまうものなのでしょう。みんながみんな自分の必要なものを自分で作らなきゃいけないとなると、やっぱり、あらゆるものの作り方のよいノウハウを知る必要があります。それって、たいそう効率の悪いことではないでしょうか。人間って、必要なものをすべて自分で作るよりも、自分自身はもっぱらあるひとつのものだけを作るようにしたほうが、より少ない時間と労力で、より質の良いものをより多く作れることを、経験的に学んできたわけですね。ひとつのものをずっと作っていくほうが、どうすればよいものができて、どうすればたくさんできるか、といった技術を熟練させることができます。だから、いろいろなものを作ろうとするのではなく、ひとつのものの生産に特化し、それをほかの欲しがる人に供給したりするほうが、結果として自分の利益を大きくすることができます。このことを経済学では「特化の利益」あるいは「専門化の利益」といいます。

・・・もちろんこのことは、もの作りの現場だけじゃなくて、サービス業や教職や営業職など、あらゆる生業に通用する利益と言うことができるでしょう。ひとりの人間が従事することができる仕事は、基本的にひとつだけ。これは、いろんな仕事を経験してみたい人にはもの足りない事態かもしれません。けれども、ひとつのことを極めるためには、むしろひとつのことに従事するしかない、という事態そのものが、とても有利に働くことであるに違いありませんよね。

いやあ、実は、仕事だけじゃなくて趣味の世界でも、もしかしたら「特化の利益」ってあるのかもしれませんよね^^; 私なんぞ、時間がないくせに好奇心だけは無駄に旺盛(?)なものですから、なにか面白そうなことをやってい人がいるのを見ると、なんかいいなあ、やってみようかな、みたいな感じで、あっちこっち目移りしてしまうんですよね^^; 目移りしすぎて、結局、なにごとも大成しない、みたいな。。。器用貧乏ってのは私みたいな浮気性な奴のことを言うのかな。。。いやあ、恥ずかしいことでございますなぁ。。。(^-^;)

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思考実験 ~もしも世の中にお金がなかったら?~

2010-10-28 22:45:30 | 経済学
・・・自分もいずれ尻に火がつくようになるかも、という思いは、やはりありますよね。。。たとえば、給料が減って生活水準が落ちるかもしれないとか、リストラされて路頭に迷うようになるかもしれないとか、または自分の首はつながっているとしても、失業者が町にあふれ出てきて、治安が悪くなることで、安心して出かけることができなくなったりとか。こういった心配って、私だけの杞憂なのかしら。。。あるいは、みなさんも何かと不安があったりするんでしょうか? 

・・・新聞や人様のブログを見ていても、悲観的な論調は、わりとありふれているように思います。やれ日本は今のデフレの反動で将来はハイパーインフレになって紙くず同然になり、日本は破産するだとか、これからは自分で農業をやって食物をつくっていかなきゃいけなくなる、だとかいった言論が目につきます。へえ~ そうなんだ。そうなるとわたくし、とても困ってしまいますね。。。だって、自分に食物をつくる能力がないから、そのかわりにサラリーマンをやって、お金を稼いで、そのお金で、人様が作った食べものを食べさせてもらう生活なものですから。。。ハイパーインフレになってお金が紙くずになる、そこまではしょうがないとしても(過去にそういうケースは何度もありましたから)、そのようなハイパーインフレがずっと続き、お金の価値というものが下がったままで戻らなくなると、お金というものがそもそも存在しなくなるのかもね。こういうことを、この人たちは言いたいのでしょうか。。。でもこれって、ちょっと考えにくいことなのですけれど・・・^^;

ひとことで言うなら、経済とは交換です。ちょっと思考実験をしてみてください。ドラえもんの「もしもボックス」じゃなけど、もし世の中にお金がなかったら、という思考実験をしてみるのも面白いことだと思います。お金が存在しないってことは、自分で使いたいものを、ぜんぶ自分で作ったり、どこかから拾ってきたり、あるいは知り合いからもらってこなくてはならなくなる状態ですね。人間の生活に必要最低限なものは、とりあえず衣・食・住の三要素である、とします。そうすると、それぞれを自分で作らなくてはいけなくなる。服を縫わなくてはならず、土地を確保して畑や田んぼを開墾し、野菜や米を作らなくてはならず、また、海や川に行って魚を獲ったり、牛や豚などを自分で飼って、ことあるごとにしなくてはならなくてはならなくなりますよね。

・・・まあ、こういったことは原始時代や、それ以降の縄文時代や弥生時代といった時代には、たぶん実際に行われていたことなのでしょう。でも、私たちが今生きている現代社会は、幸か不幸か、かつての原始時代からずいぶん進歩してしまいました。お金という存在がなくなるということは、わたしたちの生活が原始時代に回帰するということだと言えるでしょう。これからは生き残るためには、みんなが農業をやらなくてはならない、と主張する方は、要するにわたしたちはみんな原始時代に戻らなくてはならない、と言っているのと同じであるような気がしますが、さてどうでしょう。。。

・・・話がズレましたね^^; 思考実験の続きです。衣・食・住を自分一人でまかなわなくてはならない、としましょう。これらがすべてうまく自分でまかなえる人は、それでいいんでしょうけれども。しかしそれらすべてを自分でまかなう能力がない人は、どうしたらいいのでしょう? やはり、近くにいる人に頼らなくてはならなくなることでしょう。Aさんは服を作るのが得意だけど、米を作るのが苦手だ。かたやBさんは、米を作るのが得意だけれど、服を作るのが苦手だ。このAさんとBさんは、それぞれ米と服を現物でやりとりすれば、どちらもハッピーになりますね。このような単純なケースなら、別にお金が存在しなくても問題はありませんね。しかし、ちょっと複雑になると、少し頭を使う必要がでてきますね。

Aさんは米を作るのが得意だが、家を作るのはニガテである。
Bさんは家を作るのが得意だが、服を作るのはニガテである。
Cさんは服を作るのが得意だが、米を作るのはニガテである。

このようなケースで、みんなが満足するような交換をするためには、どうしたらいいでしょう? AさんがCさんに米を渡し、CさんがBさんに服を渡し、BさんがAさんに家を作ってあげる。これなら確かに、みんながニガテとしているものを交換することで手に入れられなのだから、みんな満足することができそうです。けれどもこれは、AさんBさんCさんの情報がみんなに共有化されているときにこそ、お金を媒介にすることなしに、満足する交換をすることができたわけです。AさんBさんCさんの性質がみんなにわかっていなかったとしたら、満足する交換のためには、いちいち相手に「何を持っている?何を交換したい?」などと聞いて回らなくてはならなくなり、手間がかかりますよね。

・・・こういうときに「お金」という共通の媒介があれば、手間をかけることなく、みんなが満足できる交換をすることができますでしょ? それに、世界に存在しているのは、ここで例に出したAさんBさんCさんの三人だけではなくて、たくさん(今ではおよそ70億人くらいかな?)の人がいます。なので、たくさんの人との交換をスムーズに行っていくためには、やはり「お金」という存在は世の中に不可欠な存在なのだ、ということができるのではないか、と思います。

もちろん、経済成長率が鈍化していくことで、これまでの贅沢三昧の生活水準を落とさざるを得なくなる、という可能性はありますよね。今は現にそんな時代だと思います。しかしまあ、そんな時代になったとしても、お金というものは、きっとこれからもなくならないと思いますが、さてどうでしょう。。。 

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金融政策と財政政策

2010-10-27 22:39:16 | 経済学
金融政策が中央銀行によるお金の流通量を増やそうとする政策だとすれば、もう一方に、政府が自身のお金の収入や支出を調整することで景気に刺激を与えようとする政策もあって、これを「財政政策」と呼びます。政府の収入や支出のことを特に歳入・歳出と言いますけれども、歳入を調節するということは、つまり税金をどれだけとるか、あるいは国債をどれだけ発行するかということを決めることになります。対して歳出の調節の場合は、公共事業(道路をつくったり建物をつくったり・・・)や社会保障(生活保護とか、また今話題のこども手当なんかもそうですね)があります。あるいはまた、倒産しかかった企業に公的資金を注入することなんかも、もしかしたら財政政策に含めてもいいのかもしれませんね。

景気が停滞しているときは、みんながお金をつかいたくないわけですから、どうにかしてみんなの消費を増やしていきたい、と「お上」は考えます。というわけで、まず考えられるのが減税ですよね。家計で言うなら所得税の減税。家計の収入にかかる税金を減らせば、そのぶんその家計の可処分所得(自由に使っていいお金)が増えますから、余裕ができたぶんだけ消費に回ることが期待されます。また企業にとっても、法人税を減税することで、余裕ができたぶんだけ設備投資や新たな雇用の確保などに回すことが期待されますよね。

また不景気とは、需要よりも供給が多い状態のことです。いいかえれば、モノを買いたい人よりも売りたい人のほうが多い状態。こうなるとどうしても売れ残りが発生してしまうわけで。このような売れ残りの大量発生こそ、不景気の原因とも言えるわけです。だから、景気を良くするには、単純にこの関係を逆にすればよい、という考え方もあります。財政政策とは、需要を増やすための策なのだ、と考えてもよいかもしれません。需要を増やすために行われるのが、ひとつに今あげた減税。それから公共事業、社会保障などを行っていくことで、需要を増やしていこうとするわけです。

しかしながら、景気が悪いからといって、財政政策ばかりずっと行っていけるわけでもないのでありまして。需要を増やすためとはいえ、減税や公共事業や社会保障にかかる歳出を際限なく続けて行けば、政府のお金がどんどん減っていって、赤字になってしまいますものね。現に今の日本が財政赤字が、もはや返しきれないほどに膨らんでしまったのも、財政政策をたくさん重ねた結果である、と考えられるでしょう。

・・・理論的には、流動性の罠に陥った場合には、金融政策は無効となって財政政策が有効となるそうです。なぜそうなるのかはちょっと私、わかっておりませんけれども。。。^^; しかしまあ、仮にそうだとして、金融政策は無効、財政政策はいちおう有効だけども、国家予算の都合上みだりに行うことができないわけで。となると、これから先、財政政策の有効期限が過ぎたあとは、もはや「お上」には、打つ手なし、ってな感じかもしれませんよね。。。ここで再び、古典派の自由放任という考え方に回帰したりしてね。。。まあ、経済学の世界では、古典派とケインズ派による論争が、ここ70年間ぐらいにわたって行われておりますけれども、その時どきで古典派が優勢になったり、ケインズ派が優勢になったりしているわけで。いずれにしても、議論というのは面白いものでございます。。。(なぁんて面白がっている場合ではないのかもしれませんけど・・・近いうちに、私の尻にも火がつくようになるかもしれないし^^;)

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流動性の罠について

2010-10-26 22:14:15 | 経済学
中央銀行が停滞した景気を刺激するために、金利を下げたり、また市場に出回っている証券や債券などを買うことでお金の流通量を増やしたりする政策を「金融政策」と言います。けれども、金融政策がうまくいって景気が浮揚するようになるかというと、なかなかそうも言えないようですね。日本にも「失われた10年」という言葉が存在しているとおり、この国は長い間、経済成長率が低くなっていることで、苦しんでいるようです。この10年間の間でも、ゼロ金利政策が採用された期間は多かったわけですが、細かな景気の上げ下げはあったにしろ、低成長からの本格的な脱却には至っていないように思えますね。

金利が下がりすぎると、金融政策というのは、効果が失われてしまうという説があります。これを「流動性の罠」と言いまして、ケインズなんかは、利子率が2%を切ると消費する人も投資する人もいなくなってしまい、どんな経済政策も機能しなくなると言ったそうです。今の日本なんて、2%どころか、ゼロに近い値になっているのですから、流動性の罠にはまっているがゆえに、どんな金融政策を講じようとも、景気が回復することはない、という風にも見えてきてしまいますよね。実際この「失われた10年」こそ、まさにこの罠にはまってしまった時代なのだ、という指摘もなされているみたいですし。。。

金利が低すぎることによって起こる「流動性の罠」とは、どのようなメカニズムなのでしょうか。人はふつう、当面使わないお金を持っているときには、銀行にあずけておくことで、いくらかでも金利収入を得ようとしますよね。ということは、銀行からもらえる金利が高ければ、多くの人は銀行にあずけたがる。逆に、金利が低いと、銀行にあずけれてもしょうがないや、タンス預金にしとこう、って思います。こんな感じで、金利が低くなることで、多くの人がお金を持ちたがるわけですね。銀行にあずけると、そのお金を下ろしに行くのも手間がかかるし、それにもし、銀行がつぶれたら戻って来なくなるかもしれないですから。この点、タンス預金にしておけば、お金を使いたくなったときでも、わざわざ銀行に行かなくてすむから、いつでも欲しいものを買うことができますよね。だから、人はなるべく自分の資産の流動性を確保しておきたい。こういう考え方を「流動性選好説」と言います。

流動性とは、ひらたく言えばモノの売り買いのしやすさの度合いのことです。銀行にあずけたり、あるいは株式とか債券などの金融商品を買うことは、いってみれば自分の資産の流動性を犠牲にすることで、その分のリターンを求めようとする投資行為。でも、金利が低かったら、わざわざ自分の資産の流動性を犠牲にしてまで、投資をしようとは思わない人がたくさん出てきちゃいますよね。したがって、お金を自分でためこみたくなる傾向にあるんですね。

・・・まぁ、ここまでの説明は、あくまで私が理解できた範囲での話です。うまく言えているかどうかは微妙ですが・・・^^; とはいえ、確かに、流動性の罠にハマって身動きが取れなくなってしまっているかもしれないような今の日本。さて、どうしたものか・・・。こういう時はやっぱり、金融政策じゃなくて財政政策が有効なのかな。。。あっ、財政政策については、また時をあらためて。。。

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分業の経済学

2010-10-15 23:42:18 | 経済学
・・・人間社会は、人びとがそれぞれに自分に与えられた責務をこなしあって成り立っています。モノを作る人、モノを売る人、モノを運ぶ人、治安を守る人、病気を治す人、未知の場所を案内する人、楽器を演奏する人、小説を書く人、などなど・・・こうしてあげていくときりがありませんが、とにかく、働いてお金を得るということは、社会のなかで何らかの価値を生み出し、その対価として収入を得ているということです。

世の中にはいろんな職業がありますけれど、一人の人間が就くことかできるのは基本的にひとつだけ。二足や三足のわらじをうまくはいている人もたまにはいますが、そういう人はきっと、才能豊かで、なおかつそれぞれの才能をうまく伸ばすことができた人。凡人にはなかなか、複数の職業を同時にうまくこなしていくのはむずかしいことであるような気がします。。。

たとえばここに、医師の資格を持ち、プロ並にピアノをうまく弾くことができて、なおかつ囲碁の腕前も専門棋士レベルである人がいるとします。この人はいったいどの職業につくべきか。3つの職業をいっぺんに行おうとして、できないことはないかもしれませんが、相当むずかしいことだし、それにどの分野においても中途半端な仕事ぶりになってしまいことでしょう。なぜなら人生には時間という制約があるからです。3つの仕事をきちんとこなそうとすれば、それぞれの訓練にあてられる時間が三分の一になってしまい、非効率ですよね。能率よく仕事を行っていくには、やはりどれかひとつに特化していったほうがよい、ということが言えるでしょう。

・・・複数の才能を持ちながらも、どれかひとつの才能を伸ばしていき、ひとつの職業に特化していこうとする原理のことを、経済学では「比較優位の原理」と呼んでいます。もともとは国同士の貿易において、それぞれの国が自分たちの得意なモノを生産することに特化し、それを他国に売るようにすることで、それぞれの国が手に入れられる利益が大きくなる、という考え方です。

今ではこの「比較優位」という考え方が、国同士の関係だけでなく個々の人間同士の関係にもあてはめようとする言説が多くなっている気がします。複数の才能がある人でも、ひとつの才能に特化することで、その残りの才能の分野の仕事に、ほかの人たちが入っていくことができる。そして彼らが、それぞれの職務をまっとうすることによって、社会全体の幸福感を増やすことができる。。。ああ比較優位、ステキな考え方ですな。。。

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マクドナルドな経済学

2010-08-22 22:39:56 | 経済学
いやあ、だいぶブログをさぼってしまいました^^; どうもすみません。。。それにしても、わたしがサボっている間も、いつもと変わらずに訪問してくださる方がおられることは、とてもありがたいことでございます! また、ありがたく思うと同時に、ついつい申し訳ない気持ちにもなってしまいます。。。このところの猛暑にやられておりまして、仕事から帰るとすぐに寝てしまう日が続いておりました^^; はやく涼しくなってほしいものでございますね。。。

為替レートはどのように決まるかを考えるためのひとつの方法として、ビッグマック指数というものがあります。今ではおおよそ世界のどこの国でも買うことができ、しかもどこで買っても味や品質が同じであるマクドナルドのビッグマックという商品の値段を比較することで、通貨の価値、というか、強さを図ろうとするものです。たとえば日本ではビッグマック1個の価格が320円だとして、アメリカでは3.5ドルである場合、1ドルに相当する日本円は320÷3.5≒91.42円という数値になります。現在のドル円レートがおよそ85.60ですので、ビッグマックをもとにして為替相場の現状をみるならば、今はおよそ6円ほど円高に行き過ぎているのではないか、という見方ができるわけです。とはいえ、むろんビッグマックというひとつの商品だけが為替レートの移動要因であるわけはないのですので、まぁこれはあくまでひとつの興味深い考え方だな、と思っていただければ、と。。。

さて日本マクドナルドはこのたび、他の外食産業の値引き合戦に後れをとらないようにするためなのか、ビッグマックの値段を1個200円で売ることにしたそうです。まぁあくまで期間限定の値下げであるとのことで、いずれはまた320円程度に上がるのでしょう。けれど、もしビッグマックがずっと200円だとしたら為替レートのからみで考えると面白いですよね。日本で200円、アメリカが3.5ドルのままだとすると、200÷3.5≒57.14つまり1ドル=57円というレートが妥当ということになり、現在の85.60というドル円レートからさらに28円も円高にすすんだところが妥当な数値ということになります! むろん机上の空論なのですけれど、しかしそんな机上の空論が現実になってしまったら怖ろしいなあ・・・ガクガクブルブル

・・・それに、今ではアメリカもデフレに陥っているという報道もあり、そうなるとアメリカのビッグマックの値段も下がることになるのでしょう。日本で200円、アメリカで2ドルなら200÷2=100つまり1ドル100円が妥当、てなことに。。。まあこのくらいの円安になれば日本も元気になるのかな。。。しかしまぁこう考えると、デフレに陥っている国の通貨って高くなるものなのかなぁ、という疑問が湧いてまいりますね。。。いや、まさか。。。でも、どうなんでしょうね。。。

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通貨主権について

2010-05-12 22:36:41 | 経済学
ある国において、自分たちが使う通貨の量を自分たちで調整できる権利のことを通貨主権と言います。通貨主権を持つ国ならば、たとえ不景気になっても、その国の中央銀行が通貨の供給量を増やしたり、金利を下げたりして、国内のお金がよく動くようになる政策を実施することができます。また景気が過熱しているときには、逆に国内に出回っている貨幣の量を減らしたり、金利を上げたりして過熱感を抑えたりすることができます。通貨主権を持つ国であれば、たとえ隣国の経済状態が何らかの原因で悪化してしまったとしても、その経済悪化国との関係をなるべく疎遠にし、自分たち独自の金融政策を施すことで、その悪影響を被らなくて済むかもしれませんものね。

ユーロは1999年に導入され、現在はEU加盟国27カ国のうち16カ国が通貨として採用しています。彼らはユーロ導入に伴い、それまで自国で流通していた貨幣を放棄しました。ドイツではマルクが、フランスやベルギーではフランが、イタリアではリラが、スペインではペセタが、ギリシャではドラクマが・・・などなど、それぞれ放棄されてユーロを自国でも流通させるようになりました。すなわち彼らは通貨主権を放棄したのです。

彼らはなぜ通貨主権を放棄してまでユーロを導入することにしたのでしょうか。思いつく一番大きな理由はおそらく、ヨーロッパにおいてもはや再び戦争が起きないようにしたかったからでしょう。通貨主権に基づき行われた金融政策がうまくいき、自分たちの経済の安定に成功するとしても、近隣の国では金融政策を施したとしてもそれがうまくいかず、経済が安定しないまま貧しい国となってしまったりして、そうなるとやはり国々の間で貧富の格差が生まれ、それがもとで戦争が勃発してしまうかもしれない。戦争というのは往々にして、もっと物欲を満たしたい、とか、死ぬほど苦しいこの絶望的な貧困から逃げ出したい、などといった人間たちの欲望に基づいて行われてきたことですよね。。。

・・・戦争を避けるためには、たとえ自分たちの通貨主権を放棄してでも、ヨーロッパを一つにまとめなくてはならない、といった彼らの切実な願いが、ユーロという統一通貨を誕生させたのでは、と考えてみましたが、どうでしょう。。。しかしその切実なる願いもまた、もしかしたら儚くも消えてしまうのでは、という危惧もまた感じられるところです。果たしてユーロは欧州の統合に寄与するのか、あるいはまた、夢破れてバラバラになってしまうのか・・・。ユーロをめぐる情勢、目が離せませんね。。。

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学者と実務家 続き

2010-05-02 23:00:00 | 経済学
学者という人たちは、一般に尊敬の対象とされるケースが多いようですが、けれども一方で現実を踏まえない机上の空論を振りかざしていることに対する軽蔑の念もまた同様に多く感じられるところですよね。例えば歳をとっても学生のままで学究生活を送る大学院生や、あるいは高いところから、世人を教え諭すかのような言葉使いをする教授たちを揶揄するのに「象牙の塔」という言葉が使われることがあります。「彼らは象牙の塔の住人だ。世間の厳しさを知らないんだ。」などと使われます。

学者の中には、確かに尊敬の念に値する人物も多いですね。彼らはなぜ尊敬に値するのか、ということの理由を探ってみると、それは幼いころから人よりも多くの時間を勉学に励み、成人となった以降も、まるで修行僧であるかのように社会とのつながりをあえて断ち切って、ひたすら努力と忍耐を要する、勉強漬けの毎日を過ごしたことへの称賛の念があるからだと思います。そのような長い修行の期間を経て、凡人には到達できないような、レベルの高い境地(つまりは誰も知らないような世の中の真実を知ることができた、みたいな境地)に上り詰めることができた、ということに対する称賛の念なのだと思いますね。

けれども逆に、軽蔑の念しか湧いてこないような学者に出会ってしまうこともやっぱりある。思いつくのは、一度も社会に出て働いたことがないまま、つまり「実務」を行う経験を持たないまま教授になったような人たち。もちろんすべての生え抜きの学者先生たちが軽蔑の対象となるわけでは決してないですが、しかし彼らの多くは働くということの現実や、複雑な利害関係が絡み合った、ともすれば気が狂いそうになってしまいそうな生々しい人間関係の軋轢というものを経験しないで、生涯にわたって「象牙の塔」の住人であり続けることができた人たち。彼らは往々にして、社会問題についてのコメントで世の中の現実と著しく乖離してしまっているような言葉を発してしまう傾向にあるのではないか。それはたとえるなら、絶対王政期のフランスにおいて、困窮のあまり飢えに苦しむ民衆の不満の声を聞いて「パンがなければケーキを食べればいいじゃない。」と答えたとされるマリー・アントワネットのような。。。

またたとえば、常に上からものを言うような傲慢な態度をとるような学者たち。これも嫌な人たちですよね。例えば自分が学者になることができたという事実は実は自分自身の努力以外にもさまざまな変数があり(たまたま頭が良かったとか、たまたま家が裕福で大学院に行くのに経済的な苦労が皆無だったとか、あるいは大学院を出て就職するときにたまたまどこかの大学のポストが空いていたとか・・・)、そのような自分ではどうにもならない変数が幸運にも自分に運よく働いてくれたというにすぎないにもかかわらず、そのような変数を無視して、自分はいかにも自分だけの力で自分の道を切り開いてきたということのみを強烈な自負心としている人たち。高貴なる自分こそ、無知蒙昧な民衆を導かなくてはならないのだ、などと勘違いしている人たち。人の学歴や職業を決定する因子って、本人の努力という要素ももちろんありますけれど、それ以上に、その人の親の学歴や年収にも強く影響されるものなのだそうです。。。

・・・まあこれは学者という人種に限ったことではないですけど、自分が今の立場にいることができているということは決して自分の力だけでなく、親がどのような人間であるか、ということにも左右される、という事実も認識する必要があるのでは、と思っています。好むと好まざるにかかわらず・・・。

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学者と実務家

2010-05-01 23:00:00 | 経済学
経済学者ジョン・メイナード・ケインズの理論が、未だに世界各国において不況を克服するために行われる政策の基礎になっているという面は否定できないと思います。不況の原因は需要の少なさにある、という彼の考え方を参考にしながら、各国の政府は不況を打開するために、なんとかして需要を増やそうといろいろな施策を試みています。俗に「ケインズ政策」といえば、要するに国家がお金を出していろいろな政策を施して景気を浮揚させようとする政策である、と理解してもよいでしょう。であるなら、それは税金で高速道路やダムや空港を作る「公共事業」や、すべての国民に一定額のお金を配る「定額給付金」や、子供のいる世帯に現金を給付する「こども手当」などは、すべてケインズ政策と言ってもいいかもしれません。(ちょっと乱暴な議論かもしれませんが^^;)

・・・このようにケインズは後世にも大きな影響を与えた経済学者でもありましたが、一方で優秀な実務家でもありました。彼は投資においてもすぐれた才能を発揮しました。実際彼は毎朝30分だけ株式市場のことを考えるだけで自分の資産を何百ポンドも増やしたそうですし、また母校であるキングス・カレッジのファントマネージャーに就任したときには、3万ポンドの基金を38万ポンドまで増やしたそうです。彼は机上の理論に長けていただけではなく、現実の生臭い経済に対しても、すぐれた目を持っていたのですね。。。

ケインズは株式投資を「美人投票」という言葉で例えました。ロンドンで当時行われていた美人コンテストになぞらえて、株式投資とは、自分が一番美人だと思った女性に投票するのではなく、他の大勢が一番美人だと考える女性に投票するほうが賞金が獲得できるコンテストのようなものだ、と考えたのです。つまり株式も同じで、どの企業が今後優れた業績を上げるか、ではなくて、大勢の投資家が、どの企業の株が値上がりすると考えるか、ということを考えるべし、ということなのですね。

・・・ケインズのように、学者としても実務家としても、優れた能力を持っていた人物に対しては、私は強烈な憧れの気持ちを抱いてしまいます。私もこのブログみたいに与太話をだらだらと綴っているだけの、いわばワイドショーに出てくる評論家のような存在ではなく、実務家としても業績を上げられるようになりたいな、と切に思います。。。

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情報の非対称性

2010-04-19 22:31:53 | 経済学
金融大手ゴールドマンサックスが、米証券取引委員会に証券詐欺の疑いで訴えられているそうですが、この背景にはどうやらゴールドマンサックスが投資家に重要な情報を知らせなかったという事実にあるみたいですね。

ゴールドマンをはじめとしたいわゆる投資銀行は、さまざまな種類の債券を複雑に組み合わせて、一見すると高金利に見える金融商品を作り、それを投資家たちに売りさばいて収益をあげてきました。投資家たちは表面上謳われた高金利に誘われて多額の証券化商品を買いあさっていました。けれどもその証券化商品が実際にどのような種類の債券が組み合わされていたのかということを知っていた投資家はどのくらいいたのでしょう・・・? 

・・・証券化商品に限らず、モノの売り買いにあたっては、一般的に売る側はそのモノに対して詳しい知識と情報を持ち、買う側は逆にその買おうとしているモノに対する知識や情報に乏しい、という差があります。これを経済学では「情報の非対称性」と呼んでいます。たとえば中古車なんかを買う場合ですと、当たり外れがあるから慎重に選ばないとね、などと言われますよね。食品でも、国産牛肉と称して売られているものが、果たして本当に国産のものなのか。。。虚偽の表示を行ったことで業務停止に追い込まれる会社が存在することを鑑みても、限りなく疑わしくなってきます。。。住宅でもそう。欠陥住宅かどうかなんて普通の人には見ただけではわからず、運悪く耐震偽装マンションをつかまされてしまう可能性だってあるわけで。。。

「情報の非対称性」が売る側と買う側の間に存在しているのは仕方のないことなのですけど、このことで売る側が(意識的か無意識的かは別として)大きな利益を得ることができ、買う側は逆に大きな損害を得てしまうケースもあるでしょう。「情報の非対称性」への対策としては、消費者自身が自分で買おうとするモノについて一生懸命調べて知識と情報を得ることが考えられますが、しかし一消費者が自分の買おうとしているモノすべてにおいて完璧な知識を持つことはまぁ不可能でしょうね^^; ・・・危ないと思ったら、そのモノについて詳しい周囲の人びとに聞いてみることがまずは必要なことでしょうね^^;

・・・昨日のバイク転倒自爆事故、どうやら私がカストロールのオイルを入れるべき場所を間違えたことが原因だった可能性が高まってきました^^; バイクに詳しい職場の先輩に聞いてみて、初めて気づいた自らの過ち。。。いやぁ、生兵法はやはりケガのもとですね。。。今後、気をつけなきゃ。。。(^-^;)

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経済はなぜ成長しなくてはいけないのか

2010-02-18 23:02:43 | 経済学
・・・今日の記事の表題は昨日と同じにしてみましたが、しかしカテゴリーだけ違えてみました^^ すなわち、昨日は表題の問題について、ひとりひとりの人間の心理面から解き明かそうと努めてみましたけれども、本日は昨日とは違う角度からこの問題を見てみることにしましょう。というわけで今日は、ひとりひとりの人間の内面を離れ、俯瞰的な視点からこの問題について考えてみたいと思います。

まず、昨日ちょっと話した「経済が成長しないと失業者が増える」という命題について。仮に経済が成長ではなく、衰退するという状況を考えてみましょう。経済が衰退するということは具体的には、企業の立場から見れば日々の収益が時間の経過とともにどんどん減っていく、ということであり、家計の立場から見れば、おとうさんやおかあさんが勤め先から稼いでくる給料が、あまり増えることがなく、ともすれば減ってしまうこともある、という状況です。

企業の儲けがだんだん減っていくにつれて、そこで働いている労働者の給料も同じ割合で下がっていくということは理にかなったことのように感じられますけれども、しかし事実上、労働者は自分の給料が減っていくという状況に黙って耐えることは難しいでしょう。まず多くの場合、労働組合がそれを許しませんし、また労働組合の存在しない企業であっても、法律で各都道府県ごとに最低賃金はいくらいくら、ということが決まっていて、たとえ企業の儲けがどんなに少なくなっても、これを下回る給料を払ってはいけないとされております。このように、労働者の賃金は非常に下がりにくいという性質がありまして、これを経済学では「賃金の下方硬直性」と呼んでおります。

この「賃金の下方硬直性」というものが、まず第一に経済衰退期において失業者を増やす原因となっているのですね。この点において、企業は不況の時期には試練に立たされるわけです。つまり、不況時には企業の収益が減るが、しかし労働者の給料を減らすわけにはいかない。ならば企業の取るべき道はどうなるか。まずは経費などの身近なコストを削ぎ落すようにし、その次には人件費の抑制に取りかかります。高い給料を取っていながら満足に仕事をしない労働者を解雇して人件費の負担を減らすか、あるいは労働者を新たに雇用するのを控えることで人件費を抑えるか。とはいえ日本においては、いったん雇ってしまった労働者を、一方的に会社の都合だけで解雇することは、これまた法律で禁じられております。ですので必然的に、新規の雇用を抑制せざるを得ない、という状況になってしまうのです。これが昨今の話題となっている、新卒者の就職率の低下、という現象の背景です。

さらに言うと、企業の収益がどんどん減り続けていくのに対して、労働者の賃金がなかなか下がらないという状況が続くと、結局その人件費の重みに企業が耐えられず、ついには倒産してしまうこともあります。賃金を下げることが許されなかったがために、ついには企業そのものが消えてなくなってしまうのです。そして残ったのは結局その企業にしがみついていた労働者たちです。彼らもまた、失業者となってしまうのです。

経済が衰退することで失業者が増えるというメカニズムは、つまり「賃金の下方硬直性」に起因する、ということなのですね。

ちなみに余談ですが、鳩山民主党政権はかつて「最低賃金を一律時給1000円にする」というマニフェストを掲げました。確か現在、全都道府県の最低賃金の平均は時給700円くらいだったかと記憶しておりますが、ただ単に最低賃金を1000円に上げてしまうことは、企業の新規雇用がますます難航してしまい、結果的に失業率を上げる結果となってしまうことになりかねません。民主党って、経済があんまりよくわかっていないんだな、ということが、よくわかるマニフェストですね。まあ最低賃金を1000円に上げるに際して、同時に市場の通貨供給量を増やそうとするのであれば、わからなくはないですけれども。(ただし副作用としてインフレが起きる可能性が高まりますけれどね^^;)

・・・ではでは、今夜はこの変で。。。(^-^)/

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経済学の系譜

2010-01-30 23:30:05 | 経済学
経済学とは、文字通り経済を研究する学問のことです。ではここでいう「経済」とはいかなる意味か。これについてはいろいろな定義がありますけれども、あえて私が定義するなら、経済学とは「モノとお金の流れを観察することで、どうすればみんなが幸福に暮らせるかを考える学問である」と定義してみたいと思います。

みんなが幸福を感じられるということが第一義ですから、一部の強欲な人々のために経済学があるのではない、という点を強調したいと思います。ややもすると、人は経済学という学問に対して「単にお金儲けの道具に過ぎない品性下劣なものだろ」などといった偏見を持っている方もいらっしゃるかも知れません。しかしこれは大きな誤解です。経済学の教科書のどこを読んでも、具体的な金儲けの話などは出てはこないでしょう。それよりもむしろ、この世界に限りのある資源を、どのように用いて、どのように分配すれば、みんなにとって幸せであるのか、というスケールの大きな問題に立ち向かっていった過去のさまざまな知識人たちの格闘ぶりを目の当たりにすることになるでしょう。そのことがひいては、現在自分の生きている世の中の経済のしくみが、実は先人たちの大いなる努力の所産である、ということに気づくようになり、彼らの業績に対して、思わず謙虚な気持ちになってしまうことでしょう。。。

前置きはこのくらいにして、実際に経済学がどのような人々によって、どのように発展していったかを見ていくことにしましょう。経済学の歴史を振り返りますと、おおざっぱに言って、以下のような流派が存在します。

①古典派経済学
②マルクス経済学
③新古典派経済学
④ケインズ経済学

①は、まさに経済学がこの世に誕生したてのころの理論体系であります。アダム・スミスを始祖とし、それに続いて、リカード、マルサス、ベンサム、ジョン・スチュアート・ミルと続きます。彼らの理論は「自由放任」および「労働価値説」という考え方を基本としています。ちなみに労働価値説とは、人間の労働こそが商品の価値を生み出すのである、という説です。

②はその名の通り、カール・マルクスによって築かれた経済学の体系です。彼は①の古典派経済学の諸理論を学び、さらにそれらを批判的に展開しました。ざっくり言うと「労働価値説」は本当に妥当か、という疑問から始まり、これを検討する中で新たに「剰余価値説」という概念を生み出すこととなります。この「剰余価値」によって資本の増殖していくとし、資本の自己増殖から「疎外」された人間が革命を起こすことで、資本主義は倒され、最終的に共産主義社会が訪れるであろう、という説は、その後世界中を二分するほどの勢力を持ちました。

③は①の古典派経済学をさらに発展させたものです。マーシャルという経済学者が代表的な人物ですが、古典派と違うのは、「効用」という概念を導入したことです。効用とは、人間が感じる幸福感を数量化しようとして考え出されたものです。例えばビールを一杯飲んだときの幸福度が10である、とか、煙草を一本吸ったときの幸福度が5である、という風に、人がモノを消費したときに感じる幸福度を数値化で表わそうとしたものです。これを関数で表わしたものが「効用関数」といって、効用は消費単位が増えればそれに比例して増えるものではない、とする法則があるとされております。一杯目のビールは確かにうまいけど、二敗目のビールは一杯目ほどうまくは感じられず、さらに三杯目のビールは二杯目よりももっとうまく感じられない、といった、個人の感覚の変化を関数で表現しようとしたものです。この例で言うと、最後に飲んだビールを飲んだときに感じる効用を限界効用と言いまして、限界効用はビールを飲めば飲むほどだんだん減っていく、というふうに法則化することができるとしましょう。この法則を「限界効用逓減の法則」と言います。この「限界効用」という概念が経済学をさらに発展させた、という意味で「限界革命」と呼ばれています。①の概念に、この「限界革命」ならびに「市場均衡分析」(需要と供給の一致をさぐるもの)といった概念がプラスされたことで、古典派と区別し、新古典派経済学と呼ばれています。

④はジョン・メイナード・ケインズという学者の考えが最初です。ケインズは③のマーシャルの教え子でもあります。ケインズ経済学の基本理論は「有効需要の理論」というものです。有効需要というのは人がお金を払ってものを買うという需要のことです。不況になるのは需要(欲しがる人)があまりいないことが原因なのだから、不況を克服するには、需要を増やせばよく、これによって供給が増えて不況は脱却する、とする説です。この説は①の古典派経済学が主張していた「供給は需要を生む」(例えば、モノをどれだけ作ろうとも、需要と供給が一致する点が自然に出現するのだから、売れ残りというのは理論的にありえない、という考え方)という説と対立するものです。実際に、1930年代の世界恐慌においては、確かに古典派経済学の主張は現実的ではなかったので、以来、ケインズ経済学が力を持つようになります。

・・・以上、駆け足でしたが、これまでの経済学のあらましについて、まとめてみました。なにぶん素人の稚拙な整理であり、細かく見ていけば、それぞれにまた複数の学派も存在します。記述に誤りのある箇所があるかも知れませんし、あるいは、言葉足らずな箇所もあるかもしれないので、申し訳ない気持でいっぱいでありますが、経済学という巨大な思想体系を冒険する上で、少しでも皆様の助けになれば、という思いで書かせていただきました。。。

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名目金利と実質金利

2009-12-17 00:41:30 | 経済学
金利には貸し借りの時間の長さで見た場合に、長期金利と短期金利があるということでした。もうひとつの考え方として、実際の購買力という観点から見たときに、名目金利と実質金利という区別もあるようです。名目金利とはわたしたちが普段目にしている、普通預金金利0.04%とか、定期預金金利0.09%とかのありふれた数字のことですね。

もうひとつの実質金利とは、インフレやデフレによってお金の価値が下がったり上がったりするという事実を考慮させたものです。式にするとこんな感じになります。

実質金利=名目金利-インフレ率

この式から、どんな事実が導かれるでしょうか。たとえば現在あなたの手元に100万円あると仮定します。あなたの欲しくてたまらない車が近所の車屋さんで100万円ちょうどで売っていました。その車屋さんの隣にある銀行ではなにやら定期金利優遇キャンペーンをやっていて、なんでも100万円で1年の定期預金をすると5%の利子がもらえるんだそうです。ここであなたはこう考えました。

「この100万円でぜひ車を買いたい!でも今銀行で1年定期にすると利子が5%だから、1年間我慢して、105万円に増やしてから、この100万円で車を買おう!そうすれば5万円もうかるぞ、うひひひひ・・・」

というわけで、あなたは今車を買うことを我慢して、100万円の1年定期を作りました。・・・晴れて一年後、その銀行から元本と利息を合わせた105万円を手に入れ、喜び勇んでその車屋さんに行きました。すると、あれ? 去年100万円ちょうどだったあこがれの車が105万円に上がっているではありませんか? あなたは5万円を浮かせるために1年間車の購入を我慢したのに、1年の我慢が水の泡となり、結局105万円でその車を買ったのでした。車を買って5万円を浮かせようと考えたあなたの野望は、もろくも崩れ去ったのでありました。ちゃんちゃん。

・・・そうなんです。名目金利が5%あったとしても、インフレ率も同じ5%だとすると、結局実質的には0%となってしまい、せっかく定期預金をしてお金を増やしたつもりでも、実質的にはぜんぜん増えていないことと同じになってしまうのです。もっというと、名目金利が5%でも、インフレ率が10%だとすると、実質金利はマイナス5%となってしまうということも言えることになりますね。上の車のたとえ話で言うなら、1年後105万円を銀行から返してもらっても、その時の車の値段が110万円になってしまっていて、1年間定期にしてしまったがために車を買うことができなかった、という悲惨なことにもなってしまいます。いやぁ、インフレって、本当に、恐ろしいですねえ・・・。

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