アメリカの悲願であった、9.11の首謀者とされるオサマ=ビンラディンの捜索。米軍の10年にわたる執念の捜索活動によって居場所をつきとめられ、ついに殺害されたそうです。オバマ大統領はその報告を受けて記者会見し「正義が行なわれた」「イスラム教との戦いではない」「報復テロに警戒すべし」という趣旨のことを述べました。
確かに今後、報復テロが頻発する可能性もありますよね。「正義が行なわれた」とはいっても、アルカイダにとっては自分たちがアメリカを滅ぼすことこそ「正義」だと感じていることは間違いないでしょうし。争いごとというのはどうしても、それぞれの人間たちの正義と正義がぶつかりあって行なわれるものですし。自分がやっていることが正しいと思うから、命をかけて相手を滅ぼそうとする。ところが、こういう風に命がけの争いの渦中にいる人たちの心理は、日本という平和な国に住んでいると、なかなかに理解しがたいものでもあろうかと思います。
じっさいに戦争の渦中にいない人間にとっては、どうしてあの人たちは争っているんだろう、武力ではなく、話し合いで解決すればいいのに、などと夢想するものです。そういう、言うなれば「善意の第三者」的な立場から、双方の言い分を聞いてみたら、きっとどちらの方からもそれなりに納得できる言い分が聞けるかもしれません。あっちの人が言うのももっともだし、こっちの人が言うのももっともだ。あっちの人とこっちの人が言うことは、当然食い違うんだけれど、でも、当事者の立場に立ってみたら、絶対自分のほうが「正しい」と判断するのだろうな・・・。あっちの人が抱く価値観も尊重されるべきだし、こっちの人が抱く価値観もまことにごもっともだ。そういう結論になってしまうこともありますよね。
こういう、それぞれの価値観はそれぞれに正しいのだ、とする考え方のことを、価値相対主義っていいます。ようするに、絶対的に正しい価値観なんてものはなくて、あるのはただ、(相対的に)それぞれの人が正しいと判断することが正しいのだ、と。絶対に正しい価値が存在しない、ということ(価値絶対主義)の対義語ですね。こういう考え方は、そんなに古くない考え方です。時代が近代あるいは現代になってから出てきたもの。価値絶対主義というものが戦争を引き起こし、その結果としてたくさんの人が死んだり、あるいは不幸な生活を余儀なくされてきた。だからこそ、もうこのようなあやまちを繰り返さないようにも、価値絶対主義を排して、価値相対主義に移行していった、ということです。
価値相対主義というのは、確かに便利なシロモノです。自分自身の経験、思考、行ない、感受性というものを絶対視するんではなくて、相手のそれも自分のそれと同様に尊重しましょう、こういう、非常にうるわしい考え方。でもでも、これが行きすぎると、結局「みんなちがって、みんないい」みたいな思考になってしまうんです。(とかいって、別に金子みすずをバカにしているわけでは決してありませんから、誤解のないように・・・^^; 彼女はすばらしい詩人だと心から思っています。)「みんなちがって、みんないい」というのは、つきつめるなら、9.11のアルカイダのテロ行為をさえも「いいことだ」と容認するほどの発言にもなり得る危険性をはらんだ言説です。
つまり、価値相対主義って、究極には成立しない考え方なんです。そりゃあ、自分の身に危険が降りかかって来ないところで、「みんなちがって、みんないい」というのは、それはそれで一向にかまわないことです。他人事ですから。でもね、これがたとえば、自分のことを今にも殺そうとしている人間に対して、「みんなちがって、みんないい。だからあなたが私のことを殺すのも、いいですよ」と言えますか。なかなか言えないですよね。そういうケースではどうしても相手に、私のことを殺したいというあなたの価値観は間違っている、と考えなくてはいけないし、相手にも「私のことを殺そうとするのは絶対に間違っている」ということをわからせないといけないのですね。
アメリカが必死になってビンラディンを探し求め、殺害したのも、彼らが「テロは悪だ」という価値観が絶対であると信じていたためです。アメリカがビンラディンのことを殺害したのは悪い行為ではないのか、というのも当然ありうる考え方です。それには、このように答えます。戦争で人を殺すのと、テロで人を殺すのは、殺人の質が違う。戦争というのは原則として軍人以外、殺してはいけないのに対し(むろん結果として民間人が巻き込まれるケースはありますが)、テロというのは軍人だろうと一般人だろうと老若男女の区別を問わず、無作為に大量の人間を殺す行為です。戦争で軍人を殺しても犯罪ではありませんが、テロは犯罪になりうる行為。だから罪の重さが全然違う。テロ行為のほうが桁違いに罪が重い。だからビンラディンを殺すのは、極刑人に死刑を執行するのと同様に、容認される行為なのだ、と私は考えています。

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確かに今後、報復テロが頻発する可能性もありますよね。「正義が行なわれた」とはいっても、アルカイダにとっては自分たちがアメリカを滅ぼすことこそ「正義」だと感じていることは間違いないでしょうし。争いごとというのはどうしても、それぞれの人間たちの正義と正義がぶつかりあって行なわれるものですし。自分がやっていることが正しいと思うから、命をかけて相手を滅ぼそうとする。ところが、こういう風に命がけの争いの渦中にいる人たちの心理は、日本という平和な国に住んでいると、なかなかに理解しがたいものでもあろうかと思います。
じっさいに戦争の渦中にいない人間にとっては、どうしてあの人たちは争っているんだろう、武力ではなく、話し合いで解決すればいいのに、などと夢想するものです。そういう、言うなれば「善意の第三者」的な立場から、双方の言い分を聞いてみたら、きっとどちらの方からもそれなりに納得できる言い分が聞けるかもしれません。あっちの人が言うのももっともだし、こっちの人が言うのももっともだ。あっちの人とこっちの人が言うことは、当然食い違うんだけれど、でも、当事者の立場に立ってみたら、絶対自分のほうが「正しい」と判断するのだろうな・・・。あっちの人が抱く価値観も尊重されるべきだし、こっちの人が抱く価値観もまことにごもっともだ。そういう結論になってしまうこともありますよね。
こういう、それぞれの価値観はそれぞれに正しいのだ、とする考え方のことを、価値相対主義っていいます。ようするに、絶対的に正しい価値観なんてものはなくて、あるのはただ、(相対的に)それぞれの人が正しいと判断することが正しいのだ、と。絶対に正しい価値が存在しない、ということ(価値絶対主義)の対義語ですね。こういう考え方は、そんなに古くない考え方です。時代が近代あるいは現代になってから出てきたもの。価値絶対主義というものが戦争を引き起こし、その結果としてたくさんの人が死んだり、あるいは不幸な生活を余儀なくされてきた。だからこそ、もうこのようなあやまちを繰り返さないようにも、価値絶対主義を排して、価値相対主義に移行していった、ということです。
価値相対主義というのは、確かに便利なシロモノです。自分自身の経験、思考、行ない、感受性というものを絶対視するんではなくて、相手のそれも自分のそれと同様に尊重しましょう、こういう、非常にうるわしい考え方。でもでも、これが行きすぎると、結局「みんなちがって、みんないい」みたいな思考になってしまうんです。(とかいって、別に金子みすずをバカにしているわけでは決してありませんから、誤解のないように・・・^^; 彼女はすばらしい詩人だと心から思っています。)「みんなちがって、みんないい」というのは、つきつめるなら、9.11のアルカイダのテロ行為をさえも「いいことだ」と容認するほどの発言にもなり得る危険性をはらんだ言説です。
つまり、価値相対主義って、究極には成立しない考え方なんです。そりゃあ、自分の身に危険が降りかかって来ないところで、「みんなちがって、みんないい」というのは、それはそれで一向にかまわないことです。他人事ですから。でもね、これがたとえば、自分のことを今にも殺そうとしている人間に対して、「みんなちがって、みんないい。だからあなたが私のことを殺すのも、いいですよ」と言えますか。なかなか言えないですよね。そういうケースではどうしても相手に、私のことを殺したいというあなたの価値観は間違っている、と考えなくてはいけないし、相手にも「私のことを殺そうとするのは絶対に間違っている」ということをわからせないといけないのですね。
アメリカが必死になってビンラディンを探し求め、殺害したのも、彼らが「テロは悪だ」という価値観が絶対であると信じていたためです。アメリカがビンラディンのことを殺害したのは悪い行為ではないのか、というのも当然ありうる考え方です。それには、このように答えます。戦争で人を殺すのと、テロで人を殺すのは、殺人の質が違う。戦争というのは原則として軍人以外、殺してはいけないのに対し(むろん結果として民間人が巻き込まれるケースはありますが)、テロというのは軍人だろうと一般人だろうと老若男女の区別を問わず、無作為に大量の人間を殺す行為です。戦争で軍人を殺しても犯罪ではありませんが、テロは犯罪になりうる行為。だから罪の重さが全然違う。テロ行為のほうが桁違いに罪が重い。だからビンラディンを殺すのは、極刑人に死刑を執行するのと同様に、容認される行為なのだ、と私は考えています。

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