129・日本の神様
・猪名部
・兄媛
・弟媛
・呉織
・穴織
猪名部
(いなべ)
新羅から献上されたよい匠者
日本書紀では
日本書紀 巻第十
本文では、
このように登場しています。
"新羅王がこれを聞き、大いに驚き恐れ、すぐさまよい匠者を貢しました。これは猪名部らの始祖です。"
応神天皇31年8月、
天皇は詔して、
伊豆国が献上した船・枯野(からの)は、
老朽化して用いることができない。
しかし、
長く官用としてきて功績を忘るべきではない。
なんとかその船の名を絶やさず、
後世に伝えることができないだろうか、と
そこで群卿は令を出し、
その船材を薪にして塩を焼き、
その塩を周囲の諸国に授けました。
そして船を造らせました。
こうして諸国は一斉に五百船を貢上し、
沢山の船が武庫の水門に集まりました。
この時、
新羅の調(みつき)の使が、
武庫に停泊していました。
ところが新羅の宿所で突然失火し、
そして集まっていた船に引火し、
多くの船が焼かれてしまいました。
こういうわけで、
新羅人を責めました。
新羅王がこれを聞き、
大いに驚き恐れ、
すぐさまよい匠者(たくみ)を
献上しました。
これが猪名部(いなべ)らの始祖です。
長く官用としてきて功績を忘るべきではない。
なんとかその船の名を絶やさず、
後世に伝えることができないだろうか、と
そこで群卿は令を出し、
その船材を薪にして塩を焼き、
その塩を周囲の諸国に授けました。
そして船を造らせました。
こうして諸国は一斉に五百船を貢上し、
沢山の船が武庫の水門に集まりました。
この時、
新羅の調(みつき)の使が、
武庫に停泊していました。
ところが新羅の宿所で突然失火し、
そして集まっていた船に引火し、
多くの船が焼かれてしまいました。
こういうわけで、
新羅人を責めました。
新羅王がこれを聞き、
大いに驚き恐れ、
すぐさまよい匠者(たくみ)を
献上しました。
これが猪名部(いなべ)らの始祖です。
祀る神社
猪名部神社(三重県員弁郡)
兄媛
(えひめ)
呉の工女
御使君の祖
別名
兄媛命(えひめのみこと)
「日本書紀」では
日本書紀 巻第十
本文では、
このように登場しています。
“呉王は、工女の兄媛、弟媛、呉織、穴織の四の婦女を与えました。”
応神天皇37年春2月1日、
阿知使主(あちのおみ)、
都加使主(つかのおみ)を
呉(くれ)に遣わして、
縫工女(きぬぬいめ)を求めさせました。
この時、
阿知使主らは高麗国に渡り、
呉に到達しよう思い、
高麗に行きましたが、
さらに呉に向かう道を知りませんでした。
そこで道を知る者を高麗に乞いました。
高麗王は、
久礼波(くれは)、久礼志(くれし)の
二人を副(そ)えて、
道案内としました。
おかげで、呉に至ることができました。
呉王は、
工女の兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)、
呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)
の四人の婦女を与えました。
応神天皇41年春2月15日、
天皇は、
明宮(あきらのみや)で崩御しました。
この月、
阿知使主らが呉から筑紫に到着しました。
この時、
胸形大神(むなかたのおおかみ)が、
工女らを乞いました。
それで、
兄媛を胸形大神に奉りました。
これが、
今も筑紫国にある
御使君(みつかいのきみ)の祖です。
祀る神社
大酒神社(京都府京都市)
縫殿神社(福岡県福津市)
弟媛
(おとひめ)
呉の工女
「日本書紀」では
日本書紀 巻第十
本文では、
このように登場しています。
“呉王は、工女の兄媛、弟媛、呉織、穴織の四の婦女を与えました。”
応神天皇37年春2月1日、
阿知使主(あちのおみ)、
都加使主(つかのおみ)を
呉(くれ)に遣わして、
縫工女(きぬぬいめ)を求めさせました。
この時、
阿知使主らは高麗国に渡り、
呉に到達しよう思い、
高麗に行きましたが、
さらに呉に向かう道を知りませんでした。
そこで道を知る者を高麗に乞いました。
高麗王は、
久礼波(くれは)、久礼志(くれし)の
二人を副(そ)えて、
道案内としました。
おかげで、
呉に至ることができました。
呉王は、
工女の兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)、
呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)
の四人の婦女を与えました。
応神天皇41年春2月15日、
天皇は、
明宮(あきらのみや)で崩御しました。
この月、
阿知使主らが呉から筑紫に到着しました。
この時、
胸形大神(むなかたのおおかみ)が、
工女らを乞いました。
それで、
兄媛を胸形大神に奉りました。
こうして三婦女を連れて、
摂津国に至って、
武庫に入った時、
天皇が崩御しました。
そこで大鷦鷯尊に献上しました。
この女人らの後裔が、
今の呉衣縫(くれのきぬぬい)、
蚊屋衣縫(かやのきぬぬい)です。
祀る神社
大酒神社(京都府京都市)
縫殿神社(福岡県福津市)
呉織
(くれはとり)
呉の工女
「日本書紀」では
日本書紀 巻第十
本文では、
このように登場しています。
“呉王は、工女の兄媛、弟媛、呉織、穴織の四の婦女を与えました。”
応神天皇37年春2月1日、
阿知使主(あちのおみ)、
都加使主(つかのおみ)を
呉(くれ)に遣わして、
縫工女(きぬぬいめ)を求めさせました。
この時、
阿知使主らは高麗国に渡り、
呉に到達しよう思い、
高麗に行きましたが、
さらに呉に向かう道を知りませんでした。
そこで道を知る者を高麗に乞いました。
高麗王は、
久礼波(くれは)、久礼志(くれし)の
二人を副(そ)えて、道案内としました。
おかげで、
呉に至ることができました。
呉王は、
工女の兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)、
呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)
の四人の婦女を与えました。
応神天皇41年春2月15日、
天皇は、
明宮(あきらのみや)で崩御しました。
この月、
阿知使主らが呉から筑紫に到着しました。
この時、
胸形大神(むなかたのおおかみ)が、
工女らを乞いました。
それで、
兄媛を胸形大神に奉りました。
こうして三婦女を連れて、
摂津国に至って、
武庫に入った時、
天皇が崩御しました。
そこで大鷦鷯尊に献上しました。
この女人らの後裔が、
今の呉衣縫(くれのきぬぬい)、
蚊屋衣縫(かやのきぬぬい)です。
そのほか
・大阪府池田市に在る
呉服神社の社伝によりますと、
仁徳天皇76年に呉服媛が亡くなり、
その翌年に仁徳天皇が
社を創建したとあります。
祀る神社
縫殿神社(福岡県福津市)
呉服神社(大阪府池田市)
穴織
(あなはとり)
呉の工女
「日本書紀」では
日本書紀 巻第十
本文では、
このように登場しています。
“呉王は、工女の兄媛、弟媛、呉織、穴織の四の婦女を与えました。”
応神天皇37年春2月1日、
阿知使主(あちのおみ)、
都加使主(つかのおみ)を
呉(くれ)に遣わして、
縫工女(きぬぬいめ)を求めさせました。
この時、
阿知使主らは高麗国に渡り、
呉に到達しよう思い、
高麗に行きましたが、
さらに呉に向かう道を知りませんでした。
そこで道を知る者を高麗に乞いました。
高麗王は、
久礼波(くれは)、久礼志(くれし)の
二人を副(そ)えて、道案内としました。
おかげで、
呉に至ることができました。
呉王は、
工女の兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)、
呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)
の四人の婦女を与えました。
応神天皇41年春2月15日、
天皇は、
明宮(あきらのみや)で崩御しました。
この月、
阿知使主らが呉から筑紫に到着しました。
この時、
胸形大神(むなかたのおおかみ)が、
工女らを乞いました。
それで、
兄媛を胸形大神に奉りました。
こうして三婦女を連れて、
摂津国に至って、
武庫に入った時、
天皇が崩御しました。
そこで大鷦鷯尊に献上しました。
この女人らの後裔が、
今の呉衣縫(くれのきぬぬい)、
蚊屋衣縫(かやのきぬぬい)です。
そのほか
・伊居太神社では、
穴織媛が仁徳天皇76年に
亡くなった翌年77年に
穴織大明神として祀られた
と伝えられています。
祀る神社
縫殿神社(福岡県福津市)
穴織宮伊居太神社(大阪市池田市)
勉強途中ですので
新しい知識を得た場合
随時更新予定です。