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リートリンの覚書

日本書紀 巻第十五 億計天皇 三 ・飽田女の慟哭



日本書紀 巻第十五 億計天皇 三

・飽田女の慟哭



六年秋九月四日、
日鷹吉士(ひたかのきし)を遣わして、
高麗に使わし、
巧手者(てひと)を召しました。

この秋、
日鷹吉士を遣使(つかわしめ)とした後、
女人(おみな)が、
難波御津に居て、
哭(な)きながら、

「母(おも)にも兄(せ)、
吾(あれ)にも兄(せ)。
弱草(わかくさ)の吾が夫(つま)は、ああ」
といいました。

(「於母亦兄、於吾亦兄」は「於慕尼慕是(おもにもせ)、阿例尼慕是(あれにもせ)」と読みます。「言吾夫何怜矣」は「阿我圖摩播耶(あがつまはや)」と読みます。
「弱草(わかくさ)」というのは、古くは弱草を夫婦にたとえたといいます。だから弱草をもって夫(つま)としたのです)

哭く声は、甚だ哀しく、
人を断腸(だんちょう)させました。

菱城邑(ひしきむら)の人、
鹿父(かかそ)が聞いて、
前に向かって、

(鹿父は人の名です。俗(ひと)は、父を呼んで、柯曾(かそ)と呼びました)

「どうして、このように酷く、
哀しく哭いているのか」
といいました。

女人が答えて、
「秋葱(あきき)の転双(いやふた)。
(双は重なりです)
納(ふたこもり)を思ってください」
といいました。

鹿父は、
「わかった」といい、
すぐ言ったことを知しました。

同伴者(ともだち)が、
その意を悟ることができず、

問いかけて、
「何で知ったのだ」

答えて、
「難波玉作部鯽魚女
(なにわのたますりべのふなめ)が、
韓白水郎𤳉(からまのはたけ)に嫁いで、
哭女(なくめ)を生んだ。

(鯽魚女、浮儺謎(ふなめ)といいます。韓白水郎𤳉、柯羅摩能波陀該(からまのはたけ)といいます。𤳉は麦を耕(つく)る田です。哭女、これは儺倶謎(なくめ)といいます)

哭女は、住道(すむち)の人、
山杵(やまき)に嫁いで、
飽田女(あくため)を生んだ。

韓白水郎𤳉とその娘の哭女とは、
既に、二人とも死んでいた。

住道の人・山杵は、
先に玉作部鯽魚女を犯して、
麁寸(あらき)を生んだ。

麁寸は、飽田女を娶った。

ここにおいて、
麁寸が日鷹吉士に従って、
高麗に発して向かった。

これによって、
その妻・飽田女が、

徘徊し、恋を顧みて、
心を傷つけ、こころの動きを失ったのだ。

哭く声は切なく、
人を断腸させたのだ」
といいました。

(玉作部鯽魚女(たますりべのふなめ)と韓白水郎𤳉とは、夫婦となり哭女を生みました。住道の人、山杵(やまき)が哭女を娶り、飽田女(あくため)を生みました。山杵の妻の父である韓白水郎𤳉とその妻の哭女とは、以前、既にともに死んでいます。住道の人、山杵は、先に妻の母である玉作部鯽魚女を犯して、麁寸(あらき)を生みました。麁寸は飽田女を娶りました。

或本は云う、
玉作部鯽魚女は、前の夫である韓白水郎𤳉と共に、哭女を生みました。更に後の夫である住道の人、山杵と共に、麁寸をうみました。と。
すなわち、哭女と麁寸とは、異父兄弟であるが故に、哭女の娘の飽田女は、麁寸を呼んで、「母(おおも)にも兄(せ)」といったのです。

哭女は、山杵に嫁いで、飽田女を生みました。山杵は、また鯽魚女に淫して、麁寸を生みました。すなわち飽田女と麁寸とは異母兄弟であるが故に、飽田女は夫(おうと)、麁寸を呼んで、「吾にも兄(せ)」といったのです。

古は、兄弟長幼を言わず、女は男を兄(せ)と称し、男は女を妹(いも)と称したと。
それで、「母にも兄、吾にも兄」といったのです)

この歳、
日鷹吉士が、
高麗より還って、

工匠(てひと)の須流枳(するき)、
奴流枳(ぬるき)等を献じました。

今、
大倭国の山辺郡の額田邑の
熟皮高麗(かわおしのこま)は、
その後です。



・断腸(だんちょう)
はなはだしく悲しみ苦しむこと。また、そのような悲しみや苦しみ
・住道(すむち)
大阪市東住吉区矢田住道町辺



(感想)

仁賢天皇6年秋9月4日、
日鷹吉士を使者として派遣し、
巧手者(てひと)を召しました。

この秋、
日鷹吉士を遣使(つかわしめ)とした後、

ある女人(おみな)が、
難波御津に居て、
声をあげて泣きながら、

「母(おも)にも兄(せ)、
吾にも兄(せ)。

弱草(わかくさ)の吾が夫(つま)は、ああ」
といいました。

「弱草(わかくさ)」というのは、古くは弱草を夫婦にたとえたといいます。だから弱草をもって夫(つま)としたのです)

哭く声は、
甚だ哀しく、
人を断腸の思いにさせました。

菱城邑の人、
鹿父がこれを聞いて、
面と向かって、

「どうして、
このように酷く哀しんで、
哭いているのだ?」
といいました。

女人が答えて、
「秋葱(あきき)は転双(いやふた)です。

つまり、
秋の葱の茎が
二本一緒に包まれていることを
想像してください…

そう、苦しみが重なっているのです…」
といいました。

鹿父は、
「わかった」といい、
すぐ彼女の言ったことを理解しました。

同伴者(ともだち)が、
その意味を理解できず、
問いかけて、
「何でわかったのだ?」

答えて、
「難波玉作部鯽魚女が、
韓白水郎𤳉に嫁いで、
哭女を生んだ。

(𤳉は麦を耕(つく)る田です)

哭女は、
住道の人・山杵に嫁いで、
飽田女が生まれた。

韓白水郎𤳉とその娘の哭女とは、
既に、二人とも死んでいる。

住道の人・山杵は、
先に玉作部鯽魚女を犯して、
麁寸が生まれのだ。

麁寸は、
飽田女を娶った。

ここで、
麁寸が日鷹吉士に従って、
高麗に向かい出発した。

これによって、
その妻・飽田女が、

徘徊し、
恋を顧みて、

心を傷つけ、
こころの動きを失ったのだ。

哭く声は切なく、
人を断腸の思いにさせたのだ」
といいました。

(玉作部鯽魚女と韓白水郎𤳉とは、夫婦となり哭女が生まれました。住道の人・山杵が哭女を娶り、飽田女が生まれました。
山杵の妻の父である韓白水郎𤳉とその妻の哭女とは、以前に、既にともに死んでいます。
住道の人・山杵は、先に妻の母である玉作部鯽魚女を犯して、麁寸が生まれました。
麁寸は飽田女を娶りました。

或本は云う、
玉作部鯽魚女は、前の夫である韓白水郎𤳉と共に、哭女を生みました。更に後の夫である住道の人、山杵と共に、麁寸を生みました。と。

すなわち、哭女と麁寸とは、異父兄弟であるが故に、哭女の娘の飽田女は、麁寸を呼んで、「母(おおも)にも兄(せ)」といったのです。

哭女は、山杵に嫁いで、飽田女を生みました。山杵は、また鯽魚女に淫して、麁寸が生まれました。

すなわち飽田女と麁寸とは異母兄弟であるが故に、飽田女は夫(おうと)、麁寸を呼んで、「吾にも兄(せ)」といったのです。

古は、兄弟長幼を言わず、女は男を兄(せ)と称し、男は女を妹(いも)と称したと。
それで、「母にも兄、吾にも兄」といったのです)

仁賢天皇6年、
この歳、
日鷹吉士が、高麗より帰国し、
工匠の須流枳、奴流枳等を献上しました。

今、大倭国の山辺郡額田邑の
熟皮高麗は、その末裔です。

…このお話。

仁賢天皇と関係あるのか?

…歴史書にわざわざ書くほど重要なのか?

謎。

ちなみに、
古事記にはこのお話記載されていません。

明日に続きます。

読んで頂き
ありがとうございました。


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