日本書紀 巻第二十七
天命開別天皇 七
・白村江の戦い
・大敗する
秋八月十三日、
新羅は、
百濟王が己の良將を斬ったので、
直(ただ)ちに国に入り、
先に州柔を取ろうと
謀(はかりごと)をしました。
ここにおいて、
百濟は賊(あた)の計るところを知り、
諸々の将軍に、
「今、聞いたところによると、
大日本国の救いの将軍の
廬原君臣(いおはらきみのおみ)が、
健児(ちからひと)一万余りを率いて、
まさに海を越えて至ると。
願わくは、
諸々の將軍等は、
まさに預(あらかじ)め図るべし。
我が自ら白村(はくすき)に往きで待ち、
饗(もてな)そうとおもう」
といいました。
十七日、
賊(あた)は、
將に州柔(つぬ)に至り、
その王城を繞(めぐ)らしました。
大唐の軍は、
將に戰船百七十艘を率いて、
白村江に烈しく陣をはりました。
二十七日、
日本の船師(ふないくさ)は、
初めに至ったものが
大唐の船師と合戰しました。
日本は不利となり退きました。
大唐は堅く陣を守りました。
二十八日、
日本は諸々の将と百濟王は、
氣象(あるかたち)を観ずに、
互い言葉を交わして、
「我等が、まさに、先に戦うべし。
彼は自ずと退くであろう」
といいました。
更に、
日本は、
乱れた伍(くみ)の中軍の卒を率いて、
大唐の堅い陣の軍に進み打ちました。
大唐はすなわち、
自ら左右から船を
夾みて繞(めぐ)り戦いました。
須臾(しゅゆ)の際に、
官軍は敗れ続けました。
水に赴いて、
溺死する者が多く、
艫舳(ともへ)は、
廻旋(かいせん)することが
できませんでした。
朴市田来津(えちのたくつ)は、
天を仰ぎ誓って、
切歯(せっし)し、
嗔(いか)り、
数十人を殺し、
ここに戦死しました。
この時、
百済王の豊璋は、
数人と船に乗り、
高麗に逃げ去りました。
九月七日、
百濟の州柔城(つぬさし)が、
始めて唐に降りました。
この時、
国人は、
互いに言葉を交わして、
「州柔(つぬ)が降った。
事はいかに。
百濟の名は、
今日絶えてしまった。
丘墓の所へ、
どうして、
また往くことができようか。
しかし、
弖礼城(てれさし)に、
往くことができたなら、
日本軍の將等に会い、
謀事を相談する機(おり)が要(い)る」
といいました。
ついに、
もとから
枕服岐城(しむぶくぎさし)に在た、
妻子等に教えて、
国から去る心を知らせました。
十一日、
發途於牟弖(むて)を
発途(はっと)しました。
十三日、
弖礼(てれ)に至りました。
二十四日、
日本の船師(ふないくさ)及び
佐平(さへい)の
余自信(よじしん)、
達率(だちそち)の
木素貴子(もくそきし)、
谷那晋首(ごくなしんす)、
憶礼福留(おくらいふくる)、
あわせて国民等は、
弖礼城(てれさし)に至りました。
明日、
船を発して、
始めて日本に向かいました。
・健児(ちからひと)
古代、兵士のうち特に選ばれた強健な者
・伍(くみ)
くみ。なかま。もと、五人を一組にした軍隊の単位。転じて、隊列。「隊伍」
・須臾(しゅゆ)
短い時間。しばらくの間。ほんの少しの間
・艫舳(ともへ)
船のともと、へさき。 船尾と船首
・廻旋(かいせん)
ぐるぐるまわること、まわすこと。旋回
・切歯(せっし)
歯をくいしばること。 はぎしり。 はがみ。 転じて、きわめて無念に思うこと
・発途(はっと)
出発すること。出立
(感想)
前回のお話
(天智天皇2年)
秋8月13日、
新羅は、
百済王が己の良将を斬ったので、
ただちに国に入り、
先に州柔を取ろうと
謀(はかりごと)をしました。
この時、
百済王は、
敵の計画を知り、
諸々の将軍に、
「今、聞いたところによると、
大日本国の救援軍の将軍の廬原君臣が、
健児10000余りを率いて、
まさに海を越えて到着する。
願わくは、
諸々の将軍らは、
あらかじめ手だてを図るように。
我が自ら白村に行き、
救援軍を待ち、
饗応しようとおもう」
といいました。
17日、
敵の新羅将は、
州柔に到着し、
その王城を取り囲みました。
大唐の水軍の将は、
戦船170艘を率いて、
白村江に烈しく陣をはりました。
27日、
日本の水軍の先陣と、
大唐の水軍とが合戦しました。
日本は不利となり退きました。
大唐は、
堅く陣を守りました。
28日、
日本は諸々の将と百済王は、
状況を観ずに、
互い言葉を交わして、
「我らが、
先に攻め戦うべきだ。
そうしたなら、
彼は自ずと退くであろう」
といいました。
更に、
日本は、
乱れた隊列の中軍の卒兵を率いて、
大唐の堅い陣の軍に進み攻めました。
大唐はすぐに、
左右から日本の船を挟み、
取り囲んで戦いました。
ほんの少しの間に、
官軍は敗れ続けました。
入水して、
溺死する者が多く、
船尾と船首は、
旋回することができませんでした。
朴市田来津は、
天を仰ぎ誓って、
歯をくいしばり、
怒り、
数十人を殺し、
ここに戦死しました。
この時、
百済王の豊璋は、
数人と船に乗り、
高麗に逃げ去りました。
9月7日、
百済の州柔城が、
始めて唐に降りました。
この時、
国人は、
互いに言葉を交わして、
「州柔が降った。
事はどうしようもない。
百済の名は今日、
絶えてしまった。
丘墓の所へ、
二度と行くことができない。
しかし、
弖礼城に行くことができたなら、
日本軍の将軍らに会い、
謀事を相談する機が必要だ」
といいました。
ついに、
もとから枕服岐城に在た、
妻子らに教えて、
国から去る決心を知らせました。
11日、
牟弖を出立しました。
13日、
弖礼に到着しました。
24日、
日本の水軍、
および佐平の余自信、
達率の素貴子木素貴子、
谷那晋首、
憶礼福留、
あわせて国民らは、
弖礼城に到着しました。
翌日、
出船して、
始めて日本に向かいました。
白村江の戦い
教科書に記載されていたので
戦いがあったことは知っていましたが、
どのような状況であったのか、
敗れた百済の人々が、
その後どうなったのかは、
今回初めて知りました。
日本にやってきた百済国の人々は、
日本に溶け込み今日に至っているのですね。
敗れた百済の人々は、
国を離れ二度と戻れぬ状況に、
さぞかし悲しみ、
悔しく思った。
その思いは、
日本書紀の所々に見られます。
二度と故郷を失う事がないように、
日本を守っていかなければいけませんね。
明日に続きます。
読んでいただき
ありがとうございました。
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