リートリンの覚書

日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 八 ・国忌の斎 ・新羅の使者 ・大内陵を築く



日本書紀 巻第三十 
高天原廣野姫天皇 八

・国忌の斎
・新羅の使者
・大内陵を築く



九月九日、
国忌(こっき)の齋を
京師(みやこ)の諸々の寺で設けました。

十日、
殯宮で齋を設けました。

二十三日、
新羅が、
王子の金霜林(きんそうりん)、

級飡(きゅうさん)の
金薩慕(きんさちも)、

及び級飡の金仁述(きんにんじゅつ)、

大舍の蘇陽信(そようしん)等を遣わして、
国政のことを奏し請いました。

また、調賦(ちょうふ)を
献(たてまつ)りました。

學問僧の智隆(ちりゅう)が、
随って至りました。

筑紫大宰は、便ち、
天皇が崩じたことを霜林等に告げました。

卽日、
霜林等は皆、喪服を着て、
東を向いて三拜し、
三かい、慟哭(どうこく)をしました。

冬十月二十二日、
皇太子が、公卿、百寮人等、
あわせて諸々の国司、国造、
及び百姓の男女を率いて、

大內陵(おおうちのみささぎ)を
築き始めました。

十二月十日、
直廣參の
路真人迹見(みちのまひととみ)をもって、
新羅の饗(もてな)す勅使としました。

この年、大歲丁亥。



・国忌(こっき)
先帝の没した日に相当する日に,国の行事として追善供養の仏事を寺院で行うこと。 687年(持統1)の天武天皇の一周忌の国忌の斎が最初。 翌年には国忌に必ず衆僧に食事を供養する斎会を設けることを定め,702年(大宝2)には国忌の日に政務を休むことを制度化した
・級飡(きゅうさん)
新羅の官位のひとつ
・調賦(ちょうふ)
みつぎもの。年貢
・慟哭(どうこく)
悲しみのあまり、声をあげて泣くこと



(感想)

(持統天皇元年)

9月9日、
国忌の斎会を、
京師の諸々の寺で設けました。

10日、
殯宮で斎会を設けました。

23日、
新羅は、
王子の金霜林、級飡の金薩慕、
および級飡の金仁述、
大舍の蘇陽信らを派遣して、

国政のことを奏上し請願しました。

また、
調賦を献上しました。

学問僧の智隆が、従って到着しました。

筑紫大宰は、この時、
天皇が崩御したことを霜林らに告げました。

即日、
霜林らは、皆、喪服を着て、
東を向いて三拜し、
三回、慟哭をしました。

冬10月22日、
皇太子は、公卿、百寮人ら、
あわせて諸々の国司、国造、
および百姓の男女を率いて、

大内陵を築き始めました。

12月10日、
直広参の路真人迹見を、
新羅使者らを饗応する勅使としました。

この年、大歲丁亥。

明日に続きます。

読んでいただき
ありがとうございました。





ランキングに参加中!励みになります。
ポチッとお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 神話・伝説へ  

ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

最近の「日本書紀・現代語訳」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事