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リートリンの覚書

日本書紀 巻第二十七 天命開別天皇 十六 ・即位 ・皇后と嬪と子どもたち



日本書紀 巻第二十七 
天命開別天皇 十六

・即位
・皇后と嬪と子どもたち



七年春正月三日、
皇太子は、
天皇の位に卽きました。

(或る本は云う、六年の歲の三月に卽位したと)

七日、
群臣と內裏で
饗(とよのあかり)をしました。

二十三日、
送使(そうし)の博徳(はかと)が
服命(かえりこともうす)しました。

二月二十三日、
古人大兄皇子
(ふるひとのおおえのみこ)の女の
倭姫王(やまとのひめおおきみ)を立てて、
皇后としました。

遂に、四の嬪(ひん)を納ました。

蘇我山田石川麻呂大臣
(そがのやまだいしかわまろおおおみ)の
女があり、
遠智娘(おちのいらつめの)といいます。

(或る本は云う。美濃津子娘(このいらつめの)と)

一男二女を生みました。

その一は、
大田皇女(おおたのひめみこ)といいます。

その二は、
鸕野皇女(うののひめみこ)といいます。

及び天下有り、
飛鳥淨御原宮
(あすかのきよみはらのみやは)に
居ました。
後に宮を藤原(ふじわら)に移しました。

その三は、
建皇子(たけるのみこ)といいます。

唖(おし)で語ることができませんでした。

(或る本は云う、遠智娘は一男二女を生みました。その一は、建皇子といいます。その二は、大田皇女といいます。その三は、鸕野皇女といいます。

或る本は云う、蘇我山田麻呂大臣の女は、芽淳娘(ちぬのいらつめの)といいます。生大田皇女と娑羅々皇女(きららのひめみこ)を生んだと)

次に、
遠智娘の弟が有り、
姪娘(めいのいらつめの)といいます。

生御名部皇女(みなべのひめみこ)と
阿陪皇女(あへのひめみこ)を
生みました。

阿陪皇女及び天下に有り。
藤原宮に居ました。
後に乃樂(なら)に都を移しました。

(或る本は云う。姪娘を名付けて、桜井娘(さくらいのいらつめ)というと)

次に、
阿倍倉梯麻呂大臣
(あへのくらはしのまろのおおおみ)の
女が有り、

橘娘(たちばなのいらつめの)といいます。

飛鳥皇女(あすかのひめみこ)と
新田部皇女(にいたべのひめみこ)
を生みました。

次に、
蘇我赤兄大臣(そがのあかえのまへつきみ)
の女が有り、

常陸娘(ひたちのいらつめの)といいます。

山辺皇女(やまべのひめみこ)を
生みました。

また、
宮人で、男女を生んだ
四人の者が有りました。

忍海造小竜
(おしぬみのみやつこ)の女が有り、

色夫古娘
(しこぶこのいらつめの)といいます。

一男二女を生みました。

その一は、
大江皇女(おおえのひめみこ)といいます。

その二は、
川嶋皇子(かわしまのみこ)といいます。

その三は、
泉皇女(いずみのひめみこ)といいます。

また、
栗隈首徳万
(くるくまのおびととこまろ)の女が有り、

黒媛娘
(くろめのいらつめの)といいます。

水主皇女
(もいとりのひめみこ)を生みました。

また、
越の道君伊羅都売
(みちのきみいらつめ)が有り、

施基皇子(しきのみこ)を生みました。

また、
伊賀采女宅子娘
(いがのうねめやかこのいらつめ)が有り、

伊賀皇子(いがのみこ)を生みました。

後の字を
大友皇子(おおとものみこ)といいます。



・送使(そうし)
運ぶ者を自ら用意して運ばせること
・嬪(ひん)
古代、天皇の寝所に侍する女官。 皇后・妃・夫人の下位
・唖(おし)
発声や聴覚の器官の障害によって、言葉を発することができないこと



(感想)

天智天皇7年春1月3日、
皇太子は、
天皇の位に即きました。

(ある本は云う、6年の3月に即位したと)

やっと即位しましたね。

しかし何故、
即位するまで
7年もかかったのでしょうか?

古では、
天皇の位が空ではまずいと、
諸臣が急かすことがほとんどなのに…

7日、
群臣と内裏で
饗(とよのあかり)をしました。

とよのあかりとは、
1 宴会。酒宴。主として、朝廷で儀式のあとなどに行われる宴会。 2 「豊明 (とよのあかり) の節会 (せちえ) 」に同じ。

23日、
送使の博徳が帰国し、
仕事の報告をしました。

2月23日、
古人大兄皇子の娘の倭姫王を立てて、
皇后としました。

とうとう、四人の嬪を納ました。

蘇我山田石川麻呂大臣の娘で
遠智娘といいます。

(ある本は云う、美濃津子娘と)

一男二女を生みました。

その一は、
大田皇女といいます。

その二は、
鸕野皇女といいます。

鸕野皇女は、後の持統天皇です。天武天皇の皇后となり、天武天皇の死後、即位し天皇となりました。

および天下をたもつようになり、
飛鳥淨御原宮に居ました。

後に宮を藤原(ふじわら)に移しました。

その三は、
建皇子といいます。

障害によって、
言葉を発することができませんでした。

(ある本は云う、遠智娘は一男二女を生みました。その一は、建皇子といいます。その二は、大田皇女といいます。その三は、鸕野皇女といいます。

ある本は云う、蘇我山田麻呂大臣の女は、芽淳娘といいます。生大田皇女と娑羅々皇女)を生んだと)

次に、
遠智娘の妹で姪娘といいます。

生御名部皇女と阿陪皇女を生みました。

阿陪皇女は、後の元明天皇です。

阿陪皇女および天下をたもち、
藤原宮に居ました。

後に乃樂(なら)に都を移しました。

(或る本は云う。姪娘を名付けて、桜井娘というと)

次に、
阿倍倉梯麻呂大臣の娘で橘娘といいます。
飛鳥皇女と新田部皇女を生みました。

次に、
蘇我赤兄大臣の娘で常陸娘といいます。
山辺皇女を生みました。

また、
宮人で、男女を生んだ四人の者がいました。

忍海造小竜の娘で色夫古娘といいます。
一男二女を生みました。

その一は、
大江皇女といいます。

その二は、
川嶋皇子といいます。

その三は、
泉皇女といいます。

また、
栗隈首徳万の娘で黒媛娘といいます。
水主皇女を生みました。

また、
越の道君伊羅都売がいて、
施基皇子を生みました。

また、
伊賀采女宅子の娘がいて、
伊賀皇子を生みました。
後の字を大友皇子といいます。

明日に続きます。

読んでいただき
ありがとうございました。


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