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リートリンの覚書

日本書紀 巻第二十二 豊御食炊屋姫天皇 三十七 ・推古天皇22~25年までの出来事



日本書紀 巻第二十二 豊御食炊屋姫天皇 三十七

・推古天皇22~25年までの出来事



二十二年夏五月五日、
薬猟(くすりがり)をしました。

六月十三日、
犬上君御田鍬(いぬかみのきみみたすき)、
矢田部造(やたべのみやつこ)を、
(名前を欠く)
大唐に遣わしました。

秋八月、
大臣(おおおみ)が病に臥しました。

大臣のために、
男女あわせて千人が出家しました。

二十三年秋九月、
犬上君御田鍬、矢田部造が、
大唐から至りました。

百済使が、
すなわち、犬上君に従って来朝しました。

十二月二日、
百済の客に饗(もてな)しました。

十五日、
高麗僧・慧慈(えじ)が国に帰りました。

二十四年春正月、
桃李(ももすもも)が実りました。

三月、
掖玖人(やくびと)が三口が、
帰化しました。

夏五月、
掖玖人が七口が来ました。

秋七月、
また掖玖人が二十口が来ました。
先後あわせて三十人。

みな朴井(えのい)に安置しました。
まだ還らないうちにみな死にました。

秋七月、
新羅が、
奈末竹世士(マナチクセイシ)を遣わして、
仏像を貢ぎました。

二十五年夏六月、
出雲国が、
「神戸郡(かんどころのこおり)に
できた瓜があります。
缶(ほとき)ほどの大きさです」
といいました。

この歳、
五穀が(よく)実りました。



・掖玖人(やくびと)
屋久島の人
・缶(ほとき)
水などを入れた瓦製の器。胴が太く口が小さい



(感想)

推古天皇22年夏5月5日、

薬猟をしました。

6月13日、
犬上君御田鍬、矢田部造を、
(名前を欠く)
大唐に派遣しました。

秋8月、
大臣が病に臥しました。

大臣のために、
男女あわせて千人が出家しました。

推古天皇23年秋9月、
犬上君御田鍬、矢田部造が、
大唐から帰国しました。

百済使が、
犬上君に従って来朝しました。

12月2日、
百済の客に饗応しました。

15日、
高麗僧・慧慈が国に帰りました。

推古天皇24年春1月、
桃李が実りました。

3月、
屋久島の人が3口が、帰化しました。

夏5月、
屋久島の人が3口が来ました。

秋7月、
また屋久島の人が20口が来ました。
先後あわせて30人。

みな朴井に安置しました。
まだ還らないうちにみな死にました。

秋7月、
新羅が、
奈末竹世士を派遣して、
仏像を献上しました。

推古天皇25年夏6月、

出雲国が、
「神戸郡にできた瓜があります。
水などを入れる瓦製の器ほどの大きさです」
といいました。

この歳、
五穀がよく実りました。

掖玖人…

屋久島に帰らないうちに
30人も亡くなったようですね。

疫病でしょうか?
何があったのでしょうか?

国史なら、
詳しく記載して欲しいですね。

気になってしょうがない。

明日に続きます。

読んでいただき
ありがとうございました。


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