リートリンの覚書

日本書紀 巻第二十二 豊御食炊屋姫天皇 三十六 ・池を作る ・聖徳太子と聖



日本書紀 巻第二十二 豊御食炊屋姫天皇 三十六

・池を作る
・聖徳太子と聖



二十一年冬十一月、
掖上池(わきのかみのいけ)、
畝傍池(うねびのいけ)、
和珥池(わにのいけ)を作りました。

また難波から京に至る大道を置きました。

十二月一日、
皇太子が、
片岡に遊行しました。

時に、
飢えた者が、
道のほとりに臥していました。

なお、
姓名を問いましたが、
言いませんでした。

皇太子は視て飲食を与えました。

すなわち、
衣裳を脱いで、
飢えた者を覆い、
「安らかに臥せなさい」
といいました。

すなわち、歌って、

しなてる 片岡山(かたおかやま)に
飯に飢えて 臥した
その旅人よ あはれ
親がなくて 汝は生まれたのか
さす竹の 君はないのか
飯に飢えて 臥せる
その旅人よ あはれ

二日、
皇太子は、
使を遣わして、
飢えた者を視させました。

使者が還って来て、
「飢えた者は、
既に死んでいました」
といいました。

皇太子は、
大そう悲しみ、

すなわち、
当の処に葬り埋めました。

墓を固く封じました。

数日の後、

皇太子は、
近習の者を召して、
語って
「先日、道に臥していた飢えた者は、
それ凡人ではありません。
必ず真人(ひじり)でしょう」
といいました。

遣使(つかわしめ)して視させました。

ここにおいて、
使者が還って来て、
「墓所に到り視ますと、
埋め封じたあと動いておりません。

すなわち、
開き見てみますと、
屍骨(かばね)は既に空でした。

ただ、
衣服は畳まれ棺の上に置いてありました」
といいました。

ここにおいて、
皇太子は、
また使者を返して、
その衣を取ってこさせました。
常の如く服をきました。

時の人は大いに不思議がり、
「聖は、
聖を知るというのは、
それ、真実なり」

ますます、
惶(おそ)れました。



・片岡
奈良県北葛城郡香芝町今泉



(感想)

推古天皇21年冬11月、

掖上池、畝傍池、和珥池を作りました。
また難波から京に至る大道を置きました。

12月1日、
皇太子が、片岡に遊行しました。

この時、
飢えた者が、
道のほとりに臥していました。

なお、
姓名を問いましたが、
答えませんでした。

皇太子は視て飲食を与えました。

そして、
衣裳を脱いで、
飢えた者を覆い、
「安らかに臥せなさい」
といいました。

すなわち、歌って、

しなてる 片岡山(かたおかやま)に
飯に飢えて 臥した
その旅人よ あはれ
親がなくて 汝は生まれたのか
さす竹の 君はないのか
飯に飢えて 臥せる
その旅人よ あはれ

2日、
皇太子は、
使者を派遣して、
飢えた者を視させました。

使者が還って来て、
「飢えた者は、既に死んでいました」
といいました。

皇太子は、
大そう悲しみ、

そこで、
当の亡くなった場所に葬り埋めました。
墓を固く封じました。

数日の後、
皇太子は、
近習の者を召して、
語って

「先日、道に臥していた飢えた者は、
それ凡人ではありません。

必ず真人(ひじり)でしょう」
といいました。

使者を派遣して視させました。

ここにおいて、
使者が還って来て、
「墓所に到着し視ますと、
埋め封じたあと動いておりません。

そこで、
墓を開き見てみますと、

屍骨(かばね)は無く、
既に空でした。

ただ、
衣服は畳まれ、
棺の上に置いてありました」
といいました。

そこで、
皇太子は、
また使者を返して、
その衣を取ってこさせました

そして、
通常のように服をきました。
時の人は大いに不思議がり、
「聖は、聖を知るというのは、
それ、真実なり」

ますます、
かしこまりました。


不思議なお話ですね。

明日に続きます。

読んでいただき
ありがとうございました。


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