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リートリンの覚書

日本書紀 巻第十九 天国排開広庭天皇 六十七 ・森羅に使者を派遣する ・天皇の崩御



日本書紀 巻第十九 天国排開広庭天皇 六十七

・森羅に使者を派遣する
・天皇の崩御



三十二年春三月五日、
坂田耳子郎君
(さかたのみみこのいらつきみ)
使いとして新羅に遣わして、
任那の滅んだ由を問いました。

この月、
高麗の献物と併せて表とが、
まだ呈奏することができませんでした。

数旬が経歴し、
良い日を占い待ちました。

夏四月十五日、
天皇はおもいやまいになりました。

皇太子は、
外に向かい不在でした。

驛馬(はやうま)を召して到り、
臥内(おおとの)にめし入れて、

その手を執って、
詔して、
「朕の疾(やまい)はおもい。
以後の事を汝にまかせる。

汝は新羅を打って、
任那を封建しなければならない。

更に、
夫婦となって、
もとの日の如くなるのなら、
死んでも恨むことはない」
といいました。

この月、
天皇は、
遂に内寝(おおとの)で崩じました。
時に、年は若干。

五月、
河内古市で殯(もがり)をしました。

秋八月一日、
新羅は、
忌使(ちょうし)の
未叱子失消(みししししょう)等を
遣わして、

殯に哀(みね)を奉りました。

この月、
未叱子失消(みししししょう)等が
帰国しました。

九月、
檜隈坂合陵
(ひのくまのさかいのみさざき)
葬りました。



・経歴(けいれき)
年月が過ぎること。年月が経過すること
・殯(もがり)
葬式
・忌使(ちょうし)
死者をとむらうためにつかわされる使者
・哀(みね)
悲しみの泣き声を発する礼



(感想)

欽明天皇32年春3月5日、
坂田耳子郎君を使者として、
新羅に派遣して、
任那の滅んだ理由を問いました。

この月、
高麗の献物と表とが、
まだ献上することができませんでした。

数旬が経過し、
良い日を占い待ちました。

夏4月15日、
天皇は重い病になりました。

皇太子は、
外に出かけ不在でした。

驛馬(はやうま)を出して、
召して到着すると、

臥内(おおとの)に召し入れて、
その手を取って、

詔して、
「朕の病いは重い。
以後の事をお前に任せる。

お前は新羅を打ち、
任那を封建しなければならない。

更に、
任那と夫婦となって、
もとの日のようになるのなら、
朕は死んでも恨むことはない」
といいました。

この月、
天皇は、
遂に内寝(おおとの)で崩じました。

時に、
年は若干。

5月、
河内古市で葬礼をしました。

秋8月1日、
新羅は死者を弔うための使者、
未叱子失消らを派遣して、

殯に悲しみの泣き声を
発する礼を奉りました。

この月、
未叱子失消等が帰国しました。

9月、
檜隈坂合陵に葬りました。

欽明天皇の条。
本日で終了です。

実に長かった。

約2ヶ月間に渡り読んできたのですが、

欽明天皇ってどんな人と問われたら…

わかんね。

、の一言につきます。

この条、
ほとんど、
百済の話ばっかりで、

欽明天皇の印象が薄かったですから。

とにかく
読み終えて

ほっと。

明日から、
敏達天皇の条を読んでいきたいと思います。

また、
お付き合い頂けたら幸いです。

最後まで読んでいただき
ありがとうございました。


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